中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

生首六個の道中(旧中山道番外記 14)

2008年12月28日 10時33分09秒 | 中山道番外記

0011
(高山陣屋の代官役宅の庭)

(問屋場の送り状)
この夏(2008)、飛騨高山→白川郷へ小六の孫と旅をした。
孫は何故か江戸時代に興味を持っており、中山道板橋宿の
歴史(本陣、脇本陣、問屋など)を訪ねたりしている。

飛騨高山では、高山陣屋に行きたいと言うので一緒に行くことにした。
入り口にボランティア・ガイドの方がいらっしゃったので、
小六の孫を中心にガイドをお願いした。
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(飛騨高山陣屋のお白州、ここで裁きを受けた。)

そのガイドの中で、板橋宿の問屋 
豊田孫右衛門の送り状(生首六個の)があるので是非ご覧になって行って欲しいと言われた。
私が東京の板橋から来たことを話してあったので、特にその話をされたと思う。

その送り状とは、安永二年(1773)大原代官が、
飛騨の農民におよそ25%の増税をしたことがきっかけで、
農民は食生活を脅かされ、この増税では餓死することが予想され、
同じ死ぬのならば、江戸に出て直訴し処罰されたほうが良いと覚悟を決め、
駕籠訴をした六人の生首が江戸小伝馬町から飛騨高山に送られた送り状であった。
0014
(送り状の書き出しの部分現代語訳の写し)

展示資料の撮影は禁止されていたが、その資料は達筆な筆書きで、
古文書の読み書きを勉強しているか、
あるいは筆書きに堪能でなければとても判読できるようなものでなかった。
それで観光客のために現代語に翻訳した資料が並べて展示してあったので、
ガイドさんに現代語資料の撮影許可を貰って写真を撮った。

家に帰って読んでみると、次のようであった。

「安永二年 飛州御用御触れ留帳 巳十一月より

一、松平右近将監様宿継御証文写 一通
一、人馬触御書付         一通
右は飛州高山へ御仕置き者の首六つ今十八日、
江戸表差出し成られ候間、
人馬用意これあるべき候、もっとも道中遅滞なき様
相触れるべく候  以上
巳12月18日 江戸南伝馬町 吉沢主計

板橋より飛州高山まで
但し、中山道を通り宿々の問屋中

洗馬より宮ノ越まで宿々御問屋中
一札の事
飛騨の国大野郡前原村 籐右衛門  首
同国同郡江名子村    孫次郎    首
同国同郡金樋村     甚蔵     首

獄門首六つ桶に入れ
但し、立て札銘銘に附け、桐油の儀上付け
同国同郡牧ヶ洞村    善十郎   首
同国同郡山本村     彦兵衛    首
同国同郡船津町村    太郎兵衛  首

右の通りたしかに受取り、蕨宿へ継ぎ送り申し候。 以上

中山道板橋問屋     豊田孫右衛門

12月十八日

    南伝馬町  吉沢主計殿
大伝馬町 馬込勘解由殿      」

とある。
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(送り状「板橋より」の終りの部分)

このときの25%増税のやり方は、田畑の検地見直しにより、
例えば、7.5反歩の田を10反歩あることに見直したことによる。
農民はもはや生活が成り立たず、餓死をするくらいなら、
死罪になっても万一直訴が取り上げられれば、
残された者の生活が確保できるとばかりに直訴に及んだ。
しかしその決意もむなしく斬罪に処された。

つい最近になって木曽の贄川関所を訪ねると、
この生首が関所を通過した記録が残っている。

それは木曽平沢の神官が残した「萬書留」の中にある記録で、
「(安永二年)十二月二十三日の朝、当所を首桶六つ、
村付名を記し、飛騨へ持ち行き申し候」とある。

板橋宿の問屋 豊田孫右衛門の蕨宿への送り状は「十二月十八日」であることから、
生首六つは、六日間で平沢(漆器の町平沢http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2008/12/post_5120.html参照)
へ届いたものと見える。
板橋宿から平沢まで約240kmあるから、
一日平均40kmの道を生首六個は進んだものと見られる。
軽井沢の碓氷峠や、和田宿の和田峠、塩尻峠もなんのその、
馬に乗せて急いだものであろうか。
あるいは同じ一般庶民の同情に値する荷物であるだけに、
運ぶ人たちは、早く遺族に送り届けようとする気持ちが働いたのであろうか。

この首は飛騨一円を巻き込んだ農民一揆の流れで、
江戸から飛騨に送られたが、その道順が憶測の域にあることを発見した。
つまりこれらの首は中山道薮原宿から奈川を通り、
野麦峠を越えて飛騨に入ったであろうと楢川村発行の
「贄川関所」なる小冊子に記されていた。
それは役人が江戸から飛騨に入ったルートと同じであろうと言う
推測がもとになっている。

しかし、前述の飛騨高山への送り状によれば、
中山道を経由し洗馬から宮ノ越の各宿々宛になっており、
少なくも宮ノ越まで送られたことは間違い無さそうである。

そこで、この送り状のコピーを贄川関所に送り、記述が間違っているので、
次回増刷するときは訂正していただくようお願いした。

なお、一揆に加担し直訴に及んだ農民たちを、
ボクは文盲であろうと思っていたが、実は能筆であった。

このことは、ボクにとって驚きでもあったが新しい発見でもあった。


上問屋 手塚家と櫛問屋 中村邸(旧中山道を歩く 165)

2008年12月23日 09時03分55秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(上問屋 手塚家)


(奈良井宿3)
日本橋から,今まで歩いてきた中山道の宿場は33を数えるが、
問屋が姿を残しているところは数少ない。
きちんと残っていたのは、小田井宿の上と下の問屋であったと記憶している。

そんな数少ない問屋がここ奈良井宿に残されている。
さすが奈良井の重要伝統的建造物群保存地区と言える。
その上問屋は手塚家住宅といって、その住居の中を解放しているので、是非見学したい。
見学料 ¥200也


(玄関)

中山道の宿場には幕府の役人や大名その他の旅行者用として、
幕府の定めた一定数の伝馬と人足を常備して、旅行者の需要に応じていた。
中山道は宿場ごとに、馬50匹、人足50人を備える定めであった。
しかし山道を控える、和田宿や奈良井宿は25匹25人による交代でよろしいということになっていたようだ。

この伝馬と人足の管理運営していたのが問屋であり、
贄川からの荷物と薮原からの荷物を、それぞれ継ぎ立てる仕事を請け負っていた。
奈良井宿には上と下に問屋があり、一ヶ月の半分を交代に請け負っていた。

上の問屋の手塚家は、慶長年間から明治維新まで270年間、
継続して問屋を勤め、庄屋を兼務していた。(庄屋とは関東では名主と言う)
その長い年月の間に残された古文書や日常生活に使用した諸道具等を展示している。


(奥の座敷)


(中庭)


(見事に手入れされた廊下)


(天皇がいた上段の間)


(応挙の虎?に似ている)

建物は間口こそ狭いが、奥行きが長く建坪約100坪(入り口の案内人談)とのこと。
明治天皇が御休憩された上段の間、座敷、居間、廊下、中庭などが、
良く手入れされて残っている。
また展示品としては、古文書100余点、陶器・磁器、書、絵画他300余点展示されており、
中山道関連を調べる人には貴重な資料館といえる。


(中村邸)

もう一軒。
旧中山道の街並みを進むと右手の上町に位置する、
漆塗りの飾り櫛屋、中村邸がある。

この中村邸は、江戸時代の櫛や中村利兵衛の屋敷で、
塩尻市指定有形文化財として公開されている。入場料¥200なり。


(中村邸から見た奈良井宿)

くぐり戸を開けてはいると、土間になっており、裏庭まで続いている。
裏庭の向こうに土蔵があり、そこは漆塗りをした作業場であるという。

くぐり戸を入ったすぐ右手が往時は「店の間」で、
中にガイドさんがいて、約十分間説明があり、
一階と二階部分を見学できる。

「店の間」の次には囲炉裏、板敷きの部分があり居間であろうと想われる。
その先に「中の間」があり、その奥に床の間がある座敷になっている。
座敷の上の二階は使用人の部屋であったと説明があった。
その二階には資料と塗り櫛が展示されていた。

塗り櫛の工程順に櫛が置いてあり、
出来上がった飾り櫛は螺鈿がちりばめた綺麗なものであった。
展示されている資料の中で驚いたのは、
この飾り櫛には特許許可証が付いていたことである。
特許許可証を見るのも初めてで、いつの時代の特許か良く見なかったが、
こんなものにも特許が許可されることに自体に驚いた。

見学を終えて、外へ出る段になって、ガイドさんが
「出口の庇をご覧ください。猿の頭をかたどった鎧庇で、
吊り金具が取り付けてあります」という。


(中村邸一階部分のつり金具がついた鎧庇)


(鎧のように見える庇の拡大)


(つり金具がついた庇が猿頭に見えるかな?)


(猿頭にやっと見える?)

外に出て庇を見るとそういわれれば猿頭(さるがしら)の庇に見える。
これが二階の格子とあわせて奈良井宿の町家の代表的建築になるという。

奈良井の伝統的建造物群の一つ一つを見て歩くと、とても一日ではとても足りない。

もう一度訪ねる必要がありそうだ。

帰りのバスの時間に近くなったのでバス停に戻る途中、
わずかな時間を割いて「五平餅」を買い求め、お店のなかで戴いた。
わざわざお茶を入れて接待されたのに感謝、感謝!

生まれて初めて食べた「五平餅」、
もとは五平さんが作ってお弁当代わりに食べたものであろうか?
勝手な憶測をしながら頬張った「五平餅」が、
夕闇が迫る奈良井宿でとても美味しく感じた。

贄川宿から奈良井宿まで歩き、
PM16:13発の地域振興バス(¥100なり)に乗って塩尻駅に向かい、
塩尻駅PM17:27発新宿行きに乗り帰宅。
本日の歩行34千歩、距離にして約20kmであった。


(夕暮れ)

(追記)
この後、中山道の三大難所といわれる鳥居峠が控えているが、
季節は冬 天候に悩まされ、雪に寒さに圧倒されて、
進むことかなわずにいます。

この続きは来春雪解け後の新緑の季節にしたいと考えています。







大宝寺とマリア地蔵(旧中山道を歩く 164)

2008年12月17日 10時55分01秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(奈良井宿の立派な看板)


(駅横の水車)

(奈良井宿2)
JR奈良井駅まで戻ると、駅舎横に水車がある。
この前の宿場 贄川駅にも水車があったが、
山間の町は湧き出る水量も豊富で、
この水を飲料だけでなく動力にも使ったのであろう。
水車の横に大きな奈良井宿の看板がある。


(伝統的建築群)

道路は直進と左へ行くわき道がある。
左に行けば奈良井川に架かる木製で太鼓型の木曽大橋があるが、
中央通りの伝統的建築群に魅せられて、通り越してしまった。


(水場の横にある伝統的建造物群の石碑)


(専念寺へ登る坂道、左側に見える専念寺)


(専念寺の鐘楼と銀杏の木)

奈良井の中央通りを進むと、すぐ右側に水場があり、
「奈良井伝統的建造物群保存地区」の石碑が建っている。
その手前を右折し、戻るようにして道を進むと坂の上に専念寺がある。
ここには日本昔話に出てくる「うなり石」が入り口にあると聞いていたが、
見落としてしまった。
しかし、境内は紅葉した銀杏の木が西日をうけて、
鐘楼と本堂が美しい景観を創っていた。

さらに先に大宝寺の入り口があり、
墓地にはマリア地蔵と木曽の奈良井義高のお墓がある。
入場料は¥100なり。


(大宝寺入り口)


(大宝寺の山門)

キリシタン禁制の江戸時代、木曽路にもひそかにキリスト教を信仰する人が居た。
仏教の子育て地蔵尊の抱く幼児が持つ蓮の花が十字をかたどっており、
胸に掛かる十字架のように見える。
これが隠れキリシタンの厚い信仰を表わすマリア様に見えるとのことで、
地蔵の頭も台座も壊されている。
袈裟衣をまとった胸の厚いお姿、幼児を抱える指先がやや丸みを帯び、
しなやかに見えるところから、このお地蔵様は女性のように思われるが、
首から上がないのがとても残念である。
きっと優しいまなざしで信者を見守っていたに違いない。
今はただ、当時の宗教への偏見と信仰者への悲惨な弾圧が思いやられる。


(大宝寺のマリア地蔵尊、抱かれた子が持つ蓮が十字架に見える)

この大宝寺の裏庭には、
江戸中期における信州の代表的庭園と言われ、
禅の境地を表現した心字池を中心に、
亀島、蓬莱石を配置した遠州流の庭園がある。
裏山は高野槇、楓、杉の大樹が借景となり、庭園を引き立てているが、
裏庭には本堂の室内を通り抜ける以外に、観ることがかなわない。


(本堂の美しい裏庭、写真では良く見えないので実際にご覧頂きたい)

順序が逆になってしまったが、説明では、
「この寺は広伝山大宝寺といい、臨済宗妙心寺派の禅寺である。
天正十年(1582)奈良井治部少輔義高公が建てた寺である。
義高は木曽の支族で奈良井の城主であった。
木曽義昌が武田勝頼の軍と鳥居峠で戦ったとき
大いに武勲を立てたが天正十八年(1590)に没し、
お墓が裏山にある。


(鐘楼との間を抜ける。非常に解りにくい)

お墓は鐘楼の脇にある細い道を入り、
山すその正面に数基の墓があるが、
この墓の前を抜けて、すこし登ったところにお堂があり、
その脇に二基の灯篭に守られるようにしてお墓が建っている。


(奈良井義高公のお墓、真ん中の石碑)


(奈良井門次郎義幸、奈良井長蔵義真の文字が見える)

なお、本堂に掛かる扁額「大寶寺」の文字は、
幕末に活躍した山岡鉄舟の揮毫である。」と言う。(大宝禅寺パンフレットより)


(山岡鉄舟による扁額)

大宝寺の鐘楼脇を南に出たところが広場になっているが、
ここが本陣跡で広場脇に寂しく案内標柱が建っている。


(本陣跡の標柱)





奈良井宿入り口と二百地蔵尊(旧中山道を歩く 163)

2008年12月09日 09時25分05秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(奈良井駅)

(奈良井宿)
(江戸時代、中山道は東京と京都を結ぶ街道として栄えました。
中でも贄川宿から馬込宿までの木曽十一宿がある区間を木曽路と呼び、
観光地として名をはせた有名な街道です。

特に奈良井宿は、伝統的な建造物が良く保存され、
歴史的にも学術的にも価値あるものと評価されています。
深い山に懐かれた、この小さな宿場をお訪ねいただき、
古き良き日本の美を堪能していただきたいものです。)
以上は外国人観光客に向けたパンフレットにある説明である。


(奈良井宿の伝統的建造物群)


(ほほえましい双体道祖神)


(奈良井宿の伝統的建造物群2)

奈良井宿は近代以降火事がなかったことも手伝って、
江戸形式を伝える町家が良く残っている。
塗り櫛製造のお店として残る中村邸の取り壊しの際、
奈良井の町並み保存の機運が高まり、
地域住民の熱意と宿場町の特色が認められて、
国から伝統的建造物群保存地区に選定されたと聞く。


(塗り櫛屋の中村邸)


(奈良井宿の伝統的建造物群3)

古き良き時代の建物がこれでもかこれでもかと、
約1kmにわたって残されている。
見るべきものも沢山あって、少なくも見学には一日が必要になるが、
その時間もままならぬので駆け足で進むことにした。


(駅舎のならびにある奈良井宿の案内看板。この前に一段高い道路がある)

まず、駅前の道路の反対側が一段高くなっており、
その高いところにもう一本の道が中山道に平行して走っている。
その高い道路に上る階段があるので登って、
今まで歩いてきたのとは逆に、戻る方向で歩くと、
すぐ左側に、八幡神社、杉並木、二百地蔵の看板が高い階段の下にあるのが見える。
八幡神社はこの階段を登るが、
杉並木、二百地蔵は階段を数段上がったところを右に行くよう案内がある。
とても解りやすい案内である。


(八幡宮、杉並木、二百地蔵への案内)


(看板脇の八幡宮へ登る階段)


(八幡宮への階段を数段登ったところにある案内を右折)


(昔の中山道が偲ばれる杉並木)

八幡神社は後ほど訪ねることにして、
階段の途中を右に折れたところから杉並木になっており、
いにしえの中山道はこんなであったろうと偲ばれる杉並木であるが、
距離にしては2~30メートルのものだ。
日光の杉並木や、箱根の杉並木を想像すると規模が小さく落胆するから期待しないことだ。
杉並木の山道を登ってすこしすると熊笹の生えるちょっとした広場に出るが、
なるほど沢山の地蔵様が並んでいる。


(二百地蔵尊)


(ずらっと並ぶ二百地蔵尊)

説明では
「聖観音をはじめ千手観音・如意輪観音など観音像が合わせ祭られている。
これは明治の国道開削、鉄道施設の折に奈良井宿周辺から集められたものという。」
道を戻って八幡社への階段を上ると神殿があり、
神殿の鴨居には絵馬ならぬ見事な日本画が掛かっている。
絵は子供たちの戯れる姿と牛を引く牛方が描かれており、
ボクのつたない知識の中では、杉本健吉画伯の絵に似ているように感じた。

神社を後にして中山道へ下り奈良井駅に戻る。


(八幡社の神殿)


(絵馬ならぬ日本画)







漆器の街 平沢(旧中山道を歩く 162)

2008年12月06日 09時16分45秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(諏訪神社の階段を下りた所にある案内表示)

(漆器の平沢)
諏訪神社の階段を下りて、中山道を進むと両側に漆器店がずらりと並んでいる。
今は見えないが、左側をJR中央本線が走っているはずである。
漆器店が並ぶ街はおよそ1km弱ある。


(漆器店の町並み)


(漆器店の町並み2)

漆器店はどれもこれも、その昔から営まれ続いているらしく、
旧家のたたずまいが残っている。漆器は湿気を嫌うらしく、
漆塗りは土蔵の中で行われる。
そのためどの漆器店にも、奥まった裏側には必ず土蔵がある。
漆が湿気を嫌うのではなく、漆を塗る土台となる木地が湿気を嫌うのであろう。


(目立つ漆器店)


(土蔵が各漆器店の裏側にある)

やがて道路はひらけて「木曽漆器資料館」に向かう橋に出ると
並んでいた漆器街は終わりになる。
そして川を渡った向こう側に漆器資料館が見える。広々とした公園になっている。
漆器製作の手順と言うか、出来上がりまでの苦労と工程を見るのには格好の場所で、
是非一度は見学してもらいたい。


(漆器資料館はこの橋を渡る)


(橋向こうにある漆器館)


(紅葉が美しい)

道路わきの街路樹の紅葉がとても綺麗だ。つい二~三日前から昼夜の温度差が大きく、
日中20℃近いのに夜分は10℃を下回る日が続いたせいでもあろう。
周囲の木や芝も秋色に色づいている。
橋を横目に見て進むと道路は登り加減で左に折れJRの踏切が見えるが、
直進する形で右に下る道路があるので、そちらに行く。
これが旧中山道である。


(踏切が見える道路を右に行く)


(右手の草の前にある見落としそうな案内)

案内書ではJRの踏切を行くようにあるが、間違いであるから注意が必要である。
道は川の土手を行くようになり、川に沿って歩くと、JRは高架で頭の上を越えていく。
すぐ先に小さな橋があり、川を渡った向こう側の橋脚に
「橋戸の一里塚パーク」と看板が見える。


(高架で頭の上を越えていくJR)


(橋戸の一里塚パークの看板橋の向こう側に見える)

最初はこれが「橋戸の一里塚」と思ったが、およそ百メートルも進まないうちに、
「橋戸の一里塚跡」の碑が川の右奥にあるので、これが本物であろう。
旧中山道は、先ほどの「橋戸の一里塚パーク」の橋を渡って進むようであるが、
道路が無くなっているとのことで、川の左側を進む。


(橋戸の一里塚の案内看板)


(道路は突き当たりに見える)


(奈良井の看板)


(楢川奈良井線の道路案内)


(奈良井の踏切が見える)


(奈良井の踏み切り案内が確認できたら問題ない)

やがて、道路は国道19号線に突き当たるのが見える。
左手は楢川小学校の校舎、突き当たり手前に橋があり、
渡った向こう側は中学の体育館、さらに先に道路が見え、
上り坂を進むと、JRの線路も見えるので踏み切りでこれを渡る。
すぐ先に奈良井駅が見えている。

左に線路、その先に川を眺めて、奈良井駅に向かう。


(時代を思わせる奈良井駅)



古中山道の諏訪神社(旧中山道を歩く 161)

2008年12月01日 08時01分08秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2

(平沢の町の地図、漆器店の裏側が土蔵[黄色の部分]になっている)

(ならかわ支所にある古中山道の諏訪神社)

麻衣廼神社を後に旧中山道に出る。
すこし歩くと、秋葉神社の鳥居の横に清水が流れる水場があり、
豊富な水が絶えず流れている。
火事除けの神様の横に、水場がある取り合わせが愉快である。
ご近所の方であろうご婦人が水場で、採りたての野菜をせっせと洗っている。

(秋葉神社の鳥居)

(贄川宿の町2)

道路はやがて下りになり、大きく右に迂回しやがて桃岡橋に出ると、
国道19号線と合流する。
贄川宿はここで終わる。

(のどかな田舎道)

(桃岡橋から)

(桃岡橋)

(紅葉の長瀬の集落)

国道に沿ってすこし歩くと、左に入る脇道があるので、
旧中山道は左方向に国道と別れる。
ひなびた「長瀬」の集落を抜けると、また国道19号線に出る。
この先で右折する必要があることから、
道路を横断し道路右側に出るが、
自動車の交通量が多いので横断には注意が必要だ。

(国道19号を横断する)

(平沢北の信号)

やがて「平沢北」の信号があり、
前方に道の駅「木曽ならかわ」が見えるので、信号を右折する。
「ならかわ」とは、奈良井と贄川が合併した際、
奈良井の「なら」と贄川の「かわ」を採って命名された「ならかわ村」から来ている。

楢川村むらおこし農家組合の「ならかわの民話」にその合併の経緯が
面白く書かれているので紹介したい。

(明治21年市町村制が布かれ、奈良井村と贄川村の合併話が出た。
しかし、両村はこれに反対で、否決の意見をまとめている。
奈良井村では「桜澤から川入りまで村内の距離が五里ほどあり、
一つの役場では不便で、時間費用の無駄を生み、
ついで人情風俗が奈良井は木櫛・漆器製造のため人との交わりが少なく、質朴であるのに、
贄川では行商でよそへ出かけることが多く、性格が狡猾であるからだ」と。
いっぽう、贄川村では「贄川は、基本的財産の積金や共有原野があり、
独立自治の資格あることと、養蚕の収入が木曽谷では最も多いほか、
桑崎の人が不便で、また、贄川村は行商で都会に出て開けた風潮になじみ、性格が活発であるが、
奈良井は、ふだんから一つの部屋に入るので、交通の道にうとく卑屈であるから」と。
ところが二ヶ村の合併反対のさなか、奈良井村の内の平沢は合併に賛成、
「奈良井村のままでは、産業の衰退から平沢住民の負担が増大する」と言う理由であった。
これに対し、県は「質朴と活発はむしろ調和が取れ狡猾と卑屈は誤認であるから
合併反対の理由にはならないとして、翌年楢川村が誕生したのである。)とある。
こうして「ならかわ村」が誕生した。

話を戻す、
「道の駅木曽ならかわ」では、お腹が空いた方はお食事を、
漆器木工に興味のある方は道の駅の中にある「木曽くらしの工芸館」を楽しむと良い。
忘れてならないのがお手洗い、後しばらく用を足すところがないので、済ませておきたい。
見学を済ませ、空腹を満たしたら、道の駅を退出する。

(木曽くらしの工芸館)

(漆器の町平沢への上り坂)

(左側にある「ならかわ支所」)

道は鳥居峠に向かって登り道であるが、
まだまだわずかに勾配がある程度。
道路は左に右にカーブしていくが、道なりに進む。
すこしずつ人家が増えてくると、左手にコンクリート造り三階建ての
塩尻市役所楢川支所の建物が見えてくる。
建物の西側は、駐車場でその先の植え込みに、
木曽平沢の漆器街の地図と芭蕉の句碑が建っている。

(平沢の地図と芭蕉句碑)

木曽平沢の地図は、一軒一軒細かく書き込まれて、
道路わきの工房の奥には、漆を塗る土蔵が黄色に塗りつぶされている。
漆塗りが如何に湿気を嫌う作業であるかと言うことを示している。

(芭蕉句碑)

芭蕉句碑には、
「送られつをくりつ 果ては木曽の秋」と読める。

しかし、芭蕉句集には、
「送られつ別れつ 果ては木曽の秋」がある。

どちらかと言うと、(別れつ)の方が意味が解りやすいし、
一つの文章に同じ言葉を入れないと言う原則から考えても、
(別れつ)の句の方が良さそうである。

(「をくりつ果ては木曽の秋」と読める句碑)

(句碑と町の看板の奥に見える古中山道)

芭蕉の句はともかく古中山道が、
この句碑と平沢の街並みの看板が並ぶ奥の右側にある。
わずかな距離であるが坂道を登るようにと案内があり、
史跡として中山道の石垣が道路わきに残っている。

(古中山道入り口)

(急な坂道)

(鳥居が見える)

(史跡となっている「中山道の坂道」)

(市天然記念物になっている諏訪神社社叢 の風景)

(神社本殿、中山道はこの前を抜ける)

急な坂道を登ると、
諏訪神社の石の鳥居があり、
古中山道は神社の本殿の間を抜けると歌碑がある。

歌碑には、
「うまや路の木曽の平沢軒並めて 塗師屋(ぬし)が住める店の格子戸」
とある。

(歌碑)

歌碑の脇に落ち葉を敷き詰めた階段があるので下りると、
今まで歩いてきた道路の延長線上に出てきて合流する
ほんの百メートルほどの古中山道であるが、
江戸時代の中山道はかくやあらんと偲ばれる。

この先で漆器の里、平沢に入る。

(社叢 という感じがある落葉の階段)