(伏見の信号)
(信号脇にある一本松公園)
(伏見宿)
次の交差点右側に一本松公園がある。
そこは街道を歩く人の休憩場所でもあり、
伏見宿の紹介場所でもある。
丁度お昼頃でもあり、包みを開いておにぎりを食べることにした。
見渡すと広い縁側の上に伏見宿の見所が掲げてある。
一つはラクダで、ラクダの飼い主が病気で倒れ、伏見宿で三日ほど寝込んだ。
そのとき近在の人々3000人がラクダ見たさに見物に来た、とある。
ボクは今、板橋宿を過ぎた志村一里塚近くに住んでいるが、
このラクダは、板橋宿の平尾脇本陣にも繋がれたことがある。
将軍家へ献上するためであるが、将軍に断られたので、
板橋宿脇本陣に繋がれていた。
珍しさに近隣から人が押しかけた記録が残っている。
そのラクダである。
二番目は名号碑で、播隆上人は日本アルプスの槍ヶ岳を初登頂した日本人として知られる。
その上人の残した「南無阿弥陀仏」の名号碑が、
宿場西の外れにある。
三つ目は、十返舎一九が書き残した「木曽海道膝栗毛」の中に、
伏見宿の旅籠主人の馬鹿げた話が載っていること。
四つ目、江戸時代に水運が盛んであった新村湊で働く人たちが病気にかかる時など、
平癒の神様として信仰された<小柳様>は,
伊勢湾台風の3年後に倒れたこと。etc.
(らくだ)
(播隆上人)
(弥次さん喜多さん道中)
(新村港の柳)
この一本松公園のある信号を左折する。左に学校を見て進むと、
道路は右にカーブする。
その曲がり角に「洞興禅寺」がある。
見ものは、その境内に子安観音と女郎塚があることであろう。
どの宿場もそうですが、
伏見宿にも飯盛り女と呼ばれる女郎が多くいたようである。
身寄りの無いまま病死した彼女らを弔うため、
伏見宿内にある子安観音の一角に女郎塚が作られ、
今もひっそり祀られています。
その昔、彼女らは家が貧しく、
食べるものにも困っていたので、
口減らしのため親が女の子供を売ったのである。
人身売買で、宿場に来て働いた女たちは、
お金を返済できれば自由になれたが、
その返済のために身を売って稼いだ。
多くは借金の返済が出来ずに命を落としていったと言われる。
雇い主から見れば、遊女は商品であるから、
死後の扱いを丁重にして、
生き残りの遊女たちの働きを期待したように思われる。
(ボクが考えるに、返済が出来なかったとは考えられない、
多分、ほとんどは返済完了し、
儲けの途中で命を落としたと思われる。
考えれば考えるほど、惨めな話である。)
品川宿、板橋宿などにも、
こうした遊女の墓が見られる。
(洞興禅寺)
(子安観音像)
(女郎塚)
国道21号に戻って西に向うと上恵土(かみえど)神社がある。
さらに進むと、国道は左にカーブして、その後右に曲がっているが、
歩行者は直進する。
右手に大きな建物があり、これはパチンコ店であるが、
その前の道路わきに一里塚跡の碑がある。
やがて「加茂公設市場」の交叉点に出ると、
道路は直進は自動車道専用道路になり、
信号を右折すると、
市街地へ出る道路と分かれる。
右手に公設市場の大きな建物が見えるところで、
市街地に出る道路に沿って歩道を進むと、
JR太田線の踏み切りがありこれを越える。
(宿場らしい建物)
(上恵土神社)
(ここは迷い易いが、直進する)
(一里塚跡の碑、後ろにパチンコ店が見える)
(加茂公設市場の信号)
(信号右折して市街地に入る道路となる)
(市街地へ入る道)
(市街地への道はJR太田線の踏み切りにすぐ出る)
どんどん市街地に入っていく。
左手に「光峰作」の可児人形店を見て、
歩道橋をくぐり大きな交叉点にでる。
ここを右折したくなるが、先は新太田橋で、
「太田の渡し」がある橋はもっと下流で道なりに進む。
道路を進むと右手にある「今渡神社」の参道を越え、
「今渡公民館南」の信号を渡り、金剛山龍洞寺の門前を過ぎると、
右に「富士浅間神社」の前で道路はY字路になり、
右に折れていくと太田橋で、
「太田の渡し」の無い現代はこの太田橋を渡る。
往時は通称「太田の渡し」で木曽川を渡ったので、
太田橋たもとの船着場に行くことにする。
(可児人形店)
(歩道橋をくぐり)
(今渡神社)
(龍洞寺)
(富士浅間神社)
(浅間神社前の信号、右は太田橋)
(太田橋)
駱駝 ここにいた駱駝がhide-sanのおうちのそばまでやってきた。当たり前の話ですが何となく線が繋がった気がして面白かったのでは無いですか?
播隆上人は岐阜県人 ちょっと誇らしく思えたりして嬉しい。歴史を見ていると時々今の自分に繋がる瞬間を感じます。
ご指摘有難うございます。
早速訂正いたしましたので、ご覧ください。
また今後ともご指摘方、よろしくお願いします。