中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

太田の渡し(旧中山道を歩く 239)

2011年04月20日 11時08分26秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(太田の渡し)

(伏見宿 2)
「木曽のかけはし、太田の渡し、うすい峠がなくばよい」
と詠まれた「太田の渡し」は中山道の三大難所の一つであった。

対岸の太田にあるので「太田の渡し」というが、
こちら側の現可児市今渡地区にある渡し場は、
「今渡(いまわたり)の渡し」という。

旧中山道の富士浅間神社の前を右折しないで直進する。
すぐ右手に「別格 今渡弘法大師 旧跡」
の石柱と幟旗がはためく参道がある。
この弘法大師は、今渡の渡し横にある大師様である。

さらに進むと、右手に津島神社があるので、その手前を右折する。
道路は木曽川に突き当たり、さらに右折すると石畳の竹薮の間を通る。
やがて竹薮が切れて、木曽川べりに出る。
ここが「今渡の渡し」で対岸に「太田の渡し」が見える。
右上にふれあいの里弘法堂があり、今渡弘法大師様の境内が見られ、
太田橋への近道へ入って行く。


(右に行かないで直進する)


(今渡弘法大師)


(津島神社)


(津島神社手前を右へ)


(木曽川に突き当たリ右へ)


(竹薮の道を抜けると「今渡の渡し」)


(今渡の渡し)


(船の乗り場?)


(今渡弘法様へ上がる道)


(今渡弘法様境内)


(ふれあいの里弘法堂)


(太田橋近道)


(太田橋)

出たところが国道21号線、太田橋である。
渡り終えた右側が、日本ラインの船くだりの乗船場であるが、
以前は立派な建物があったはずであるが、
今はテントだけしか残っていない。
見ると、川べりにいっそうの舟が横付けになっているものの、
乗客は一人もいない。
今日はウイークデイであるからなのか。

岐阜県太田から愛知県犬山あたりまでの木曽川を日本ラインという。
名づけ親は地理学者の志賀重昂(しがしげたか)である。
彼がこの辺りの景観を「ラインの縮図」と呼んだことによる。
志賀重昂のお墓は、この先の祐泉寺にある。


(右手の日本ライン乗船所)

太田橋を渡り終えて、交差点を左側に道をとり、河川敷に入って行く。
「太田の渡し」を見るためである。
飛騨木曽川国定公園の看板を見て、
青い芝生の中の道を行くと、石橋があり、渡り終えると石畳が現れ
「太田の渡し」に着く。
川岸に立って中をのぞくと、綺麗な水が緩やかに流れ、
川底が見えるが底は大きな岩が占めている。相当深そうである。


(国定公園の案内)


(石橋)


(石畳)


(太田の渡し)

浮世絵師 広重は「木曽海道69次之内 太田」をここから描いたと言う。
「木曽のかけはし、太田の渡し、うすい峠がなくばよい」
と俗謡に歌われた木曽川は、この絵を見る限り悠揚迫らぬ眺めである。
浮世絵は木曽山中で伐採された木材を運ぶ筏や、渡し舟が見える。
船着場の岸には、旅人たちがそれぞれ対岸を見やっている。


(広重画浮世絵 木曽海道69次の内「太田」)

現実に戻って旧中山道を歩く、道路は堤防に登り西に向けて進む。
やがて右下に美濃加茂市文化会館の裏手に一里塚跡の標柱が建っている。
「土田の一里塚跡」と案内書の説明にある。

文化会館というだけあり、一里塚跡の脇には奇妙な造形物がある。
これ以外にもこの手前でカブトムシではないだろうが、
虫の形をした造形物があった。

この一里塚跡の標柱の先にお手洗いがあるので、
用のある方はここでの利用をお勧めする。

これから太田宿に入って行く。

(土手の上の中山道)


(一里塚跡の標柱と造形物)


(昆虫の造形物)


(太田橋)










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