中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

旧蹟 「小野の滝」(旧中山道を歩く 186)

2009年11月02日 08時33分20秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(木曽海道69次の内「上ヶ松」)

「中山道広重美術館の「木曽海道六拾九次乃内」の「上ヶ松}には、
上松宿の南にある「小野瀑布」が描かれる。
斜線を主体にした描写と垂直な滝とのコントラストが興味深い。」とある。


(旧中山道上の越前屋)

(上松宿 5)
元の旧中山道の「越前屋」に戻り進むと、前方に大きな木が見える。
これは桂の木で上松宿の天然記念物に指定されている。

説明によれば、
「この桂の木は現存する上松町の桂の木の中で、
一番太く幹の周囲は4.1mあります。
中山道を旅する人々に春の美しい芽吹き、秋の鮮やかな紅葉は、
絶景「寝覚ノ床」と共に目を慰めてくれました。
ずっと昔、この上で発生した山崩れの際に流れてきた桂の苗木が大きくなったと言う、
伝説が残っています。」とある。

旧中山道は、この桂の木を一回りするように進むと、
その先に寝覚簡易郵便局があり、
ここでは道を左に取り坂道を登るように進む。


(桂の木)


(寝覚簡易郵便局)

その先、左側の石垣の上は上松中学校で、
先の石垣が終わる所で自動車道も終わる。
石垣が切れたところで、草道が二つに分かれるが、
右側の下りの草道に進むのが旧中山道である。
草道は古い石畳になっており左折していくが、下り勾配はかなり急である。
草道を下りきった所で舗装道路に合流する。
道路は登り道になり、すぐ先で二股に分かれる。
この道を右へ向かうと橋に出て、橋の手前に「小野の滝1.2km」の案内があり、
進む道路が間違っていないことが確認できる。

橋から眺める渓谷は、丁度紅葉のシーズンでとても美しい。
しばらく登り坂を進むと、左手に立派な老人ホーム建物の前を通過する。
老人ホームの建物の端から先は、道は左折していき中央本線のガードにでる。


(石垣の上は上松中で正面の家の前で自動車道はなくなる。)


(その先の石畳道は直進で下る)


(舗装道路の合流地点は左折)


(先の二股道は右へ)


(橋の手前の案内でホッと胸をなでる)


(橋から見た渓谷の紅葉、写真の撮り方が下手で、美しく見えないのが残念)

案内書には、ガードをくぐり、すぐ左折するのが旧中山道であるが、
「民家の庭先につき迂回せよ」とある。
しかし、ボクが通りかかった所、たまたまその家の方が庭に出ていらっしゃったので、
「通らせて欲しい」旨話すと、気持ちよく承諾されたので、
心の中では「ラッキー」と思いながら、
しかも写真を撮らせてもらいながら、庭先を通過した。
庭の先は畑で、その先はぐんぐん下りになって国道19号線に合流した。
三角形の一辺を通ったことになる。


(ガードすぐ左の民家の庭先へ)


(両脇は畑の草道)


(先で国道に合流する草道)

国道19号線と合流して、間もなく木曽八景の一「小野の滝」が左手に見える。
上松宿方向から見た「小野の滝」は上に中央本線があるのを感じさせない。
線路を全く意識しないで写真を撮った。撮り終えて須原宿側から滝を見ると、
無粋にも中央本線の線路が滝の前を通り過ぎているのが良く見える。
しかし、滝の姿はこちら側からのほうが良い。

上松町の説明では、
(広重・英泉の合作である、木曽海道69次の浮世絵に描かれている
「上ヶ松」は、この小野の滝です。明治42年鉄道の鉄橋が真上にかけられ
残念ながら往年の面影はなくなりました。
かってここを旅した細川幽斎は「老いの木曾越」の文中で
「木曽路の小野の滝は、布引や箕面の滝にもおさおさおとらじ、
これほどの物をこの国の歌枕には、いかにもらしける」
と手放しで誉めています。


(上松側から見た小野の滝)


(反対側から見る滝には真上にある中央本線の鉄橋が見え、その橋脚が写真に入ってしまう)

また、浅井洌(注)は、この地を訪れて

・ふきおろす松の嵐も音たえて
                 あたりすずしき小野のたきつせ


と歌を詠んでおります。今も上松の旧跡にかわりありません。)とある。

小野の滝を過ぎると間もなく、
「荻原の一里塚」にでて、国道19号と別れ左に入る。


(一里塚跡のある分かれ道)


(一里塚跡の石碑)

(注)浅井洌は「信濃の国」の作詞者。

『信濃の国』はかつて、長野県内の多くの小学校・中学校・高校で、
さまざまな行事の際に歌われてきたため、俗に「信州(長野県)で育った者なら、
全員が『信濃の国』を歌える」「会議や宴会の締めでは、
必ず『信濃の国』が合唱される」「『信濃の国』を歌えない者はよそ者」とやや誇張気味に語られるほど、
信州人(長野県民)に深く浸透していた。
信州大学付属小の校歌となっている。
1968年5月20日に、正式な長野県歌に制定された。(ネット百科事典Wikipediaより)

・長野県人でこの歌を歌えない人は「もぐり」であるようだ。



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