中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

鬼の首塚(旧中山道を歩く 237)

2011年04月09日 10時15分28秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(鬼の首塚)

(御嵩宿 5)
国道21号線を西に向うと、白い幟旗がひらめく場所に出る。
白い幟旗には、「鬼の首塚」とあり、近づくと「鬼首塚遺跡」の石柱があり、
祠の中には「関ノ太郎 首塚」の石碑がある。
御嵩町の重要文化財に指定されている。

御嵩町の説明によれば、
(伝説によると、鎌倉時代の建久・正治の頃(1190~1200)、
すこぶる凶悪で悪業三昧の男が鬼岩の岩窟に住み着き、
乱暴狼藉を極め住民を大いに悩ませた。
この者は西美濃不破の関の生まれであったため、
住民はこれを「関の太郎」とか「鬼の太郎」と呼び恐れていました。
そこで正治元年(1199)、
人々はこの地の地頭 交告(こうけつ)源吾盛康にこの惨状を討え、
退治してもらうことにしましたが盛康は京の地にあり、
おいそれと帰ることが出来ませんでした。
そこで家臣四名に太郎の退治を頼み、御嵩の地に帰しました。
ところが、なかなか太郎を討つことが出来なかったため、
蟹薬師(願興寺)に祈願した所、
太郎が女装し祭礼に来るとのお告げがあり、
そのお告げの通り四月一日の祭礼の日に女装した太郎が現れ、
それを捕え首を切ることが出来ました。
四人の者は太郎の首を首桶に入れ、
検分のため都へ運ぼうとしましたが、
急に首桶が重くなり一歩も進むことが出来なくなりました。
すると首桶を縛っていた縄が切れ、中から首が転げ落ち、
落ちた首も動かすことが出来なくなったため、
それをこの地に埋めました。
これが「鬼の首塚」の由来と言われています。
首塚のある辺りを「桶縄手」と呼び、
木曽海道膝栗毛の十返舎一九も、
この地のことを詠んだ歌を残しています。

・桶縄手 今もその名を 朽ちさりき
           塩漬けにせし 鬼の首かも)
(御嵩町・御嵩町観光協会)とある。

つまり、ここは関の太郎のお墓であった。
この首塚の横に 子規が呼んだ歌碑が建てられている。

・草枕 むすぶまもなき うたたねの
          ゆめおどろかす 野路の夕立   (子規)


(子規の歌碑)

次の信号は県道83号線と交差する場所で、
信号角に御嵩神社がある。
信号を渡った先で、右の脇道に入るが、
脇道に入ってすぐ中山道の案内看板がり旧中山道であることが判る。
(右伏見宿、左御嵩宿)とあるので安心して進むが、
すぐに国道21号線に合流する。

しばらく国道21号線に沿って進む。
右手に「郷社 八幡神社」の石塔を見て、
また、左にある川の中にいる川鵜や鷺が、
のんびりえさを求める姿を見て前に進む。
のどかな気分である。


(県道83号線との交差点)


(信号かどの御嵩神社)


(その先の右に入る道)


(右脇道に入った所にある案内)


(八幡神社の石塔)


(川の鷺や川鵜)

間もなく左に入る道路の角に「比衣の一里塚」の石柱を見たら右の脇道に入る。
少しすると高速道路下をくぐるが、これは東海環状自動車道である。
のどかな田舎道を進むと、突き当たるが中山道の案内があり左へ行く。
また、国道に合流するので、国道の歩道を歩く。


(一里塚跡の碑)


(高速自動車道をくぐる)


(国道21号線に合流)

しばらく歩くと、右手に駐在所の交番があるので、この前を右に入る。
少し登り坂になるが、もう一度国道に合流すると、
左側が「御嵩町伏見公民館」の建物があり、
その庭先に二つの石碑がある。
一つは「伏見宿 本陣の跡」もう一つは「是より東 尾州領」である。

伏見宿には宿場らしきものが見られない。

次の交差点右側の(一本松公園)に伏見宿らしい面影が見える程度であろう。


(駐在所の前を右脇道に入る)


(国道21号線に合流した左手にある公民館)


(道路わきにある伏見宿本陣跡の碑)


(本陣跡の碑の右隣にある「是より東 尾州領」の石碑)


(伏見宿 一本松公園)















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