中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

望月宿(旧中山道を歩く 125)

2007年11月12日 08時20分24秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(美しい佐久平駅)

(望月宿)
2007年10月24日(水)
日本橋をスタートして22日目。
望月宿は日本橋より25番目の宿場、距離にして177km。
本日は快晴。最高気温予想18℃。

とても美しい上越新幹線佐久平駅。駅前広場の千曲バス、
バス停2番から芦田行きに乗る。約20分で望月停留所に到着。
望月宿の旧中山道は、バスを降りたところを西に向かう。
連子格子の民家が昔の屋号をぶら下げており、
町の古い伝統が偲ばれる。


(旧い家々が建ち並ぶ)

望月宿の呼び名の由来は、
(かって望月には、朝廷が所用する馬を育てる
牧場(勅旨牧)があり、育てた馬を朝廷に貢進(献上)する
「駒牽(こまひき)」の儀式が行われていました。その駒牽が
8月15日の満月の日に行われていたことから「望月」の呼称が生まれた。
奈良時代末には朝廷に献上する馬として有名になった
「望月の駒」。
朝廷には望月のほかにも、諸国から馬が集められましたが、
鎌倉時代より望月の馬だけが献上されるようになり、
勅旨牧としての役目は南北朝の終わりまで続きました。
その歴史にちなんで、望月では11月3日に草競馬が行われています。)
(望月町歴史民族資料館)

道路わきに、旧家らしい如何にもひなびた家が所々に見える。
あらためて見渡すと、町並みは往時の面影を残すべく、
古いものは古いままに残されているように見える。
商家の看板も江戸時代にタイムスリップしたような錯覚を思わせる。
たとえば、モーターバイク屋さん「倍駆商所 清水」(ばいくあきないどころ清水)、
質屋兼染物屋であろうか「しちや こうや 清水屋」、
旅館や電気屋さん、目に付くものがみんな昔風である。


(倍駆商所 清水)


(しちや こうや清水、先に見えるのが望月のバス停)


(何屋さんかな?両沢)


(電気屋さん)

こんな中を西に進むと、左手に古臭く見せた新しい建物に出会う。
建物入り口のシャッターに、消防団とあるのは、その奥に消防車が入っているに違いない。
望月町の消防署であろうか。
その先の両側には旅籠屋がある。右側が山城屋喜左衛門、
左側に井出野屋旅館がある。


(消防団本部?)


(旅館山城屋)


(旅館井出野屋)


(旧家の入り口にはどこも短歌が打ち付けてある)


(本陣跡、現在は歴史民族資料館)

さらに進むと、昔の本陣跡に立派な門があり、今は望月歴史民族資料館になっている。
冒頭に述べた「望月」の呼び名の由来も、この歴史民族資料館から戴いた資料による。
資料館に入ると佐久の中山道宿場展が催されており、
小田井宿、岩村田宿、塩名田宿、八幡宿、望月宿の宿場の様子が古文書を元に展示してあった。


(皇女和宮が使用した湯のみ茶碗)

宿場は、通信や荷物の輸送および旅行者の休憩・宿泊する場所の提供することを主な任務とした。
このうち通信や荷物の輸送を担当したのが「問屋」で、休憩や宿泊の担当が本陣・脇本陣・旅籠やであった。
中でも荷物輸送を円滑に行うため、人足と馬を常時用意しておくこととされた。
中山道では、人足50人、馬50匹を常備していて、宿から宿へと荷物は受け継がれていく。
荷物が多くて常備の人馬だけで不足するときは、近隣の村から馬と百姓が借り出される、
これを助郷といった。荷役を助ける村(郷)とでもいう意味であろうか。

参勤交代などで荷役が多忙のときは、絶えず人馬が借り出され、
百姓本来のの仕事ができなくなり、一家離散の憂き目に会うことも多かったようである。

望月歴史民族資料館の入り口には、双体道祖神の石碑が、コスモスの花の後ろで微笑んでいた。
お地蔵さんや道祖神は野の花に囲まれている姿が旅人の心を癒してくれる。


(コスモスに囲まれた双体道祖神)

民族資料館の裏側の急な階段を上ったところに、
佐久市天来記念館があるので覗いてみよう。
天来とは比田井天来を指し、佐久市望月出身の書家。
書は東洋独自の芸術であるという考えの下に、古典を基本にすえた書法を追求し、
生涯を書の研究にささげた近代書道の父といわれる。


(佐久市天来記念館)


(鴎閒・鶴散 辛酉晩秋 天来象之とある。)

沢山の書が展示されているが、代表作として、
「鴎閒・鶴散 辛酉晩秋 天来象之」が展示されている。
{鴎閒・(しず)かに 鶴散(さん)ず 、(かのととり年の晩秋に
天来これをうつす)}と読むのであろうか?

天来記念館を後に中山道を進む。
右側に重要文化財に指定されている問屋と旅籠を兼ね
一時は名主も務めた真山家(さなやまけ)が見える。


(問屋兼旅籠の真山家)

説明によれば、
(真山家は明和三年(1766)に完成し、土蔵は天明五年(1785)に増築されたもの。
建築時が明らかで、当時の様子もほとんど残されている。
くぐり戸の脇が板の間になっており、問屋として荷が置かれた作りが良くわかる。)とあるが、
あいにく扉は堅く閉められたままで外から想像するより仕方なかった。


(脇本陣家跡)

さらに進むと左側に大伴神社がある。
神社入り口左側にある大伴神社の石碑の文字は、
比田井天来の揮毫によるものと言う。鳥居をくぐり50段ほどの階段を登ると神殿がある。
入り口右側の石碑には中山道望月宿とあり、この神社が望月宿のはずれになる。


(大伴神社、文字は比田井天来の揮毫による)


(大伴神社から振り返ってみた望月宿)



最新の画像もっと見る

コメントを投稿