富岡製糸場世界遺産伝道師協会 世界遺産情報

「富岡製糸場と絹産業遺産群」は日本で初めての近代産業遺産として2014年6月25日付でユネスコ世界遺産に登録されました。

「新町紡績所の建物の歴史的価値」の講演=自分なりのまとめ=(1)

2006年02月05日 11時20分26秒 | 世界遺産伝道師協会
講師:清水慶一 国立科学博物館産業技術史資料情報センター主幹
平成18年2月4日(土)13:30~   会場 新町文化ホール

新町紡績所について話したかった。こことのかかわりは平成元年(1989)年、初めて建物の実測をしてからです。当時のカネボウのラーメン工場を外から見て、研究者の直感から飛びぬけて古い工場と思った。このときは操業中で実測は一部分であり、創業時の建物の証拠が出てこなかった。しかし、昨年、最終的な調査で当初の建物が大部分と分かった。17年間掛かって調査した思い出深い建物です。

日本の貿易量を見ると(1860~95)この間、貿易量は14倍になっている。日本の輸出入品のなかで主要輸出品が茶・水産物・生糸、輸入品が米・砂糖・石油であり日本最大の輸出品は1895年には36%が生糸であった。生糸の国内生産量の67%は輸出され、日本の近代化のためには重要な輸出品であった。村松貞次郎先生は「日本は生糸を輸出して機械、軍艦を買い、日露戦争を戦い抜いた。」と云われていた。

ウィーン万国博覧会―太平の戦争― ←岩倉遣外使節団の団長としてウィーン万国博覧会を視察した岩倉具視が万国博覧会を評した言葉が「太平の戦争」であった。
第6回の万国博覧会が1873年(明治6年)ウィーンで開かれ、日本政府として初めて公式に参加した。
この博覧会で日本は日本館を建設し、総裁が大隈重信で準備した。参加目的は(1)国威発揚(2)西欧の文物の調査(3)技術の伝習を受ける(近代産業を知る)、そして輸出の増進を図ろうとした。
日本はトルコ館の2階を借りて展示した。
・ 西洋の養蚕と屑糸の技術を学ぶために佐々木長淳が命を受けて出かけている。
・ 日本を知ってもらうために日本館を建てる。日本の建築を行うために大工棟梁松尾伊兵衛を派遣。棟梁の下に山添喜三郎がいた。
トルコ館の前に日本庭園を造り、山添は神社商店を作った。この事業を担当したのが佐々木長淳である。日本大工の仕事の巧みさを見てオーストリアの皇帝が紙の様なカンナ屑を見て感動し女官に取りに行かせ、それをポケットに入れたというエピソードもあった。
展示に名古屋城の金のシャチホコを持ち込み、陶磁器、工芸品を並べ日本の文化の紹介を行った。
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