富岡製糸場世界遺産伝道師協会 世界遺産情報

「富岡製糸場と絹産業遺産群」は日本で初めての近代産業遺産として2014年6月25日付でユネスコ世界遺産に登録されました。

甘楽町発足60周年記念甘楽町産業文化祭で伝道活動

2020年05月14日 16時32分08秒 | 世界遺産伝道師協会

甘楽町発足60周年記念甘楽町産業文化祭で伝道活動

2019年11月3日(文化の日)に甘楽町白倉の「甘楽町ふれあいの丘」陸上競技場イベント広場で標記の伝道活動を行いました。

「甘楽町発足60周年記念~感謝・信頼と連帯・夢~」にふさわしい産業文化祭にしようと「町を挙げてのみんなの祭典!!さあ、ふれあいの丘に集まろう!]と呼びかけ、武者の火縄銃を連想させる連発花火の合図で開会式となりました。我々伝道師も薄日が差す心地よい雰囲気の中での開会式典に参列しました。

この日の担当メンバーは伝道師の不都合により急遽4人となってしまい、若干の不安が同居した伝道活動開始となりました。今回のスタッフは今井規雄班長を筆頭に、除村和子、吉井恵美子、齊藤和男で効果的な分担活動により「甘楽町の日本遺産(関連施設を含め)」や「富岡製糸場と絹産業遺産群」の解説、「繭クラフト作り」等、大勢の来場者に対し啓発活動や体験活動に専念しました。

たくさんの老若男女、親子連れが訪れ、全体的に充実した伝道活動が出来たと思いますが、この産業文化祭での伝道活動の特徴は何といっても開始から終了までインターナショナルで、かつコミカル的な面も含まれた楽しい雰囲気の中での行われたということです。

我々伝道師が構えるテント内は終始国際的な雰囲気に包まれるとともに、舞台に出演した芸能人が出入りするなど、日頃の伝道活動で滅多に体験できないものでした。

まず、最初の訪問者は甘楽町の姉妹都市であるイタリア共和国トスカーナ州チェルタルド市の市長、市議会議長、女性市議会議員の一行でした。甘楽町はかつて養蚕が盛んだったことや明治時代初期に群馬県からイタリアのミラノへ直接蚕種販売が行われた話などを交えながら楽しく体験してもらいました。皆さん大喜びで、テント内は盛り上がりのあるものとなりました。

次いで友好交流を深めている中華人民共和国ハルビン市の教育局長はじめ幹部職員の方々が訪れ、富岡製糸場・絹産業遺産群について解説すると真剣に聴いてくれました。さらにニカラグア共和国ロドリゴ・コロネル在日特命大使が来場。この国は2020東京オリンピック・パラリンピックに甘楽町が同国のホストタウンとして登録されたことを契機にこの産業文化祭に参列したのでした。

大使自身が絵付けしたトロピカルでエキゾチックな作品を逆に女性伝道師にプレゼントしたり、自国の小鳥の鳴き声を披露してくれたりするなど、ユーモアをもって私たちに接してくれました。

参考までにこのニカラグア共和国は人口646万人(2018年)。中南米のパナマに近い国です。太平洋と大西洋に挟まれており、北の隣国はホンジュラス、南の隣国はコスタリカです。19世紀の初め、スペインから独立した国でもあり、スペイン語が母国語で自然豊かな国です。

さらに地元秋畑出身の歌手中野新太郎さんがステージ終了後私たちのコーナーに立ち寄り、実家で子どものころ養蚕をしていたことなど親しく歓談してくれました。

 終了間際には「高崎チンドン倶楽部」のリーダーの方も訪れてくれ、楽しい話題で私たちを笑わせてくれたりしました。

 今日一日を振り返り、行事内容の充実の中で、心温まる人情味、地域のぬくもりや人間性を実感しながら国際色豊かな伝道活動ができたことを光栄に思います。

                               (S藤 和男 記)

 

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富岡市立吉田小学校で学校キャラバン実施

2020年05月13日 18時07分33秒 | 世界遺産伝道師協会

富岡市立吉田小学校で学校キャラバン実施

11月7日(木)13:00~14:30の間、難読駅名の一つとして有名な上信電鉄線南蛇井駅から徒歩3分ほどの場所に所在する富岡市立吉田小学校の3年生26名を対象に学校キャラバンを実施しました。

諸事情により、座繰り担当のY村和子伝道師、記録写真・サポート担当のU原一美伝道師及び講話担当のT越朗伝道師の3名での学校キャラバンとなりました。

 校舎1階にある図工室での活動となりましたが、たくさんの電源が室内にあるため、比較的レイアウトの自由が可能な状態で準備を進めることが出来ました。

 定刻に、3年生担当のF澤先生、K嶋先生お二人に引率されて児童等が入室。5~6時限を使い前半の40分を講話、後半40分を座繰り体験とするスケジュールでキャラバンを実施することとしました。

 

前段の講話ですが、吉田小学校は昨年度(平成30年度)「校旗を作ろうプロジェクト」に参加する等、学校全体として養蚕・製糸に関する教育が行き届いているように感じました。

本キャラバンの対象となった3年生の児童も、既に全員が富岡製糸場の見学を終えているとの事でしたので、蚕の品種改良や4構成資産の協力をはじめ、養蚕・製糸業に携わるたくさんの関係者の努力により、明治の末には世界一の生糸輸出国となり、先の大戦の直前までその地位を維持した事をお話しました。

 

校長の加藤先生も講話の途中から加わり、所用で何度か教室から中座されましたが、キャラバン終了までおつきあいをいただき、伝道師一同大いに励みになりました。

 

 途中、トイレ休憩をはさみ、後半の座繰り体験の時間となりました。殆どの児童等が初体験となるため、興味津々、目を輝かせながら準備の整っている座繰り装置周辺に集合。

除村伝道師の巧みな話術と技術指導により、配当時間の関係で、2人一組となって座繰り作業に挑戦。右手担当と左手担当が途中で入れ替わる変則的なものとなりましたが、慣れるに従い2人でタイミングを合わせながら作業に集中するようになり、糸切れすることなく全員の体験が終了しました。また、先に体験の終わった児童が声援を送る等温かな雰囲気の中での体験授業となりました。

担任の先生お二人にも、最後に座繰り体験に挑戦していただき、糸枠に巻き取られた生糸にハサミを入れていただいき、外した糸を進呈。

その際今回使用された繭が、学校での養蚕体験の際、収繭されたものである事を児童に伝えると大きな拍手が起き、「大切にします」という声も聞かれました。

 

最後になりますが、給食時間中にもかかわらず、器材の搬入や職員室への連絡等ご協力いただいた養護教諭様、校務員様に御礼申し上げます。

(T越 朗 記)

 

 

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富岡市立額部小学校で学校キャラバン実施

2020年05月13日 17時02分44秒 | 世界遺産伝道師協会

富岡市立額部小学校で学校キャラバン実施

11月8日(金)午後1時45分より午後3時20分まで標記額部小学校で、Y村和子伝道師、H岡誠伝道師、T越朗伝道師、I井規雄伝道師の4名が参加して4年生1クラス24名を対象に学校キャラバンを実施しました。

「額部」の地名は平安時代中期に著された「和名類聚抄」(略称「和名抄)にも所載されており、本地域は古い歴史を持っています。本校は明治6年7月に南後箇村、岩染村連合して桂昌寺を仮校舎として開校しました。

Y村、H岡、I井3人の伝道師は午前の高瀬小に引き続きの活動でした。集合時間の午後12時45分には全員そろい早速準備に入りました。会場は当初講話、座繰り体験ともに3階の音楽室で実施ということでしたが、座繰りは音楽室で、講話は音楽室の下の2階理科室でと変更になりました(クラスを半分に分け、交互にに実施)。

開始時間になると児童が担任の先生手作りの記録用紙『座繰り体験ノート』を持って音楽室に入室してきました。ここで始めのあいさつや自己紹介を交わしたあと講話を聴くグループは理科室に移動となりました。

講話はH岡伝道師が担当。あらかじめ講話の内容を構造化して板書(ばんしょ)しておき講話に臨みました。広い理科室に12人ということで児童を前の方に集めて実施しました。着色チョークを使うなどわかりやすくする工夫もなされていました。「富岡製糸場と絹産業遺産群」をテーマに蚕や繭の話等を織り交ぜながら充実した内容の講話で、児童もおしゃべりすることなく真剣な眼差しで聴いてくれました。

座繰り体験では、まずY村伝道師が「かかあ天下」の話や蚕にとって桑の葉の重要性や1頭の蚕が一生の間に食べる桑の量、蚕の幼虫の吐糸口の話、繭糸の構造(セリシンやフィブロイン)、さらに昔はほとんどの家が座繰り製糸をして現金収入を得ていたことなど子どもたちにわかりやすく説明してくれ、児童はその話に惹きつけられ質問したり、「座繰り体験ノート」にメモしたりしていました。一人ひとりの児童はY村伝道師に注目し、真剣そのもの態度でした。

その後児童が待ちに待った座繰り体験に移りました。除村伝道師が「左手くるくる」と言いながら空中でハンドルの操作を教えたり、実際に模範を示したりするなどしていよいよ二人一組になって児童の体験が始まりました。児童全員にハンドル操作とミゴボウキの扱い方を体験してもらいましたが、ミゴボウキの扱いがなかなか難しいようでした。しかし慣れるに従って徐々にじょうずになっていき、こちらも驚くほどでした。少人数だったので体験の時間が十分とれ、子どもたちも満足した様子でした。繰糸鍋の水も濁り始めたとき、「この水はセリシンが溶けたもので、化粧水にも使われるのですよ」などと説明を加えました。

T越伝道師も体験を待っている子どもたちに座繰り器の話をしたり、蚕や繭の話をしてやるなどしてくれ、子どもたちも真剣に聞き入っていました。

体験の最後は、担任の先生に小枠に巻かれた生糸を切ってもらい(児童からは「わあー」という歓声)、児童にその生糸を触ってもらいました。「気持ちいい」などと生糸をなでている子もいました。座繰り体験終了後「ああおもしろかった」と感想を述べている子もいました。

最後は全員が最初のあいさつのときと同じように音楽室に集まり、今日の感想を聞かせてもらい、終わりのあいさつを交わし合い本日の学校キャラバンを終了しました。感想を聞く時間は十分とれませんでしたが、それぞれが「良い体験をした」「大変勉強になった」と述べてくれ私たちの活動が少しでも役立ってくれたのかとうれしさをかみしめ、後片付けをして帰途につきました。

末筆になりましたが、校長先生、担任の先生には大変お世話になりました。ありがとうございました。

                              (I井 規雄 記)

 

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令和2年2月 群馬県立図書館《ぐんま新発見講座》での講演『庭屋静太郎と春秋館・世界遺産荒船風穴』のレジメ(今井理事)

2020年05月13日 16時55分04秒 | 世界遺産伝道師協会

 

《ぐんま新発見講座》

演題『庭屋静太郎と春秋館・世界遺産荒船風穴』

  ―蚕糸業・地域にかけた静太郎の熱き思い―

                                  今井 規雄

 

○はじめに

1.私と庭屋家との関わり

・父が蚕種製造技術員として春秋館に雇われる。

・庭屋静太郎の遺影を見ながら育つ。

・家には「春秋館」と記された繭缶等がたくさんあり、幼少のころ「春秋館」とは何かと思っていた。

2.庭屋静太郎の生い立ち

 庭屋家は代々名主を務めた家柄で農業や養蚕を営む。遠祖は藤原氏につながる。

 父庭屋代吉、母ますの5人兄弟の長男(静太郎以外は皆女性)として現在の庭屋家に文久2(1862)年5月に出生。父は西牧村蚕糸家の範とされ、明治5年副戸長。明治12年西野牧村村会議員。明治14年上毛繭共進会で銀杯を受ける。

 幼少のころから学問を身に付けさせ、しっかりとした心をもった人間に育つよう両親の愛情のもとに育てられた。

3.庭屋静太郎の生きた道

大きく分けて次の3つに分けられる。

  • 蚕糸業の道
  • 政治・行政家としての道
  • 教育者としての道

4.蚕糸業の道

⑴養蚕家・蚕種製造家として

 静太郎は父の下で若くから家業の農業や養蚕に勤しんだ(明治の初期から蚕種業も兼ねていたように思われる)。農業や養蚕を愛し、後に俳句や短歌の雅号を「畊桑」と定めている。蚕業が時勢の向かうところと悟ると養蚕研究のために高山社社長町田菊次郎の門を叩き直接「清温育」の話を親しく伺う中で大いに感銘し、明治20年には同社に入社した。

明治26年ころ、高山社の師(町田菊次郎?)を招聘して清涼育を攻究するとたちまち卓越した養蚕法清涼育の技術者となり、蚕業に満足を得られるようになった。

地域の人々も静太郎から清涼育の飼育法を学び、違蚕者もほとんどでなくなり、静太郎への信頼が高まった。地域に養蚕法「清温育」を指導・普及させた功績は大きいものがある。

さらに庭屋家で続けてきた蚕種製造の規模も大きくして地元や全国にも販売した(明治末には甘楽富岡地方でも有数の蚕種製造量を占めるようになった。従って蚕種業を辞めた戦後も暫く庭屋家は「種屋さん」と呼称されていた。家印は であった)

高山社社長の町田菊次郎は、静太郎が指導者としての人格を備え、清涼育技術がその域に達したことを知ると、高山社蚕業学校の分教場になることを託した(もちろん庭屋家の蚕室、蚕具、桑園等実習する上での条件をとらえた上で)。

庭屋家(春秋館では)蚕種製造においては新品種の開発にも努め、「吾人は製造の最大を欲せず、最善たらしめんことを欲す」ということを信条に掲げていた。また、富岡製糸場から一代交雑種の製造を委託され、欧州種や交雑種の飼育試験の支場としも協力した。

  • 製糸家として
  • 組合製糸鏑源組の創設

下仁田地方の生糸は優秀で横浜でも有名だった。さらに品質をしっかり揃え、生産量を

増やして海外に出荷し利益を上げる目的で、明治13年ころ西牧で初めての共同揚げ返し場「組合製糸鏑源組」(本宿の鏑川に臨む峯沢川流域)を立ち上げ庭屋静太郎もその創設に加わった。明治14年には北甘楽精糸社の傘下に入り、「北甘楽精糸社鏑源組」となった。

生糸は速水堅曹が社長の横浜同伸会社を通してアメリカへ直輸出していた。

静太郎は明治22年4月から同26年3月まで第2代の組長を務めた。

静太郎にとって鏑源組の創設はこれから一生関わることになる製糸への道の出発点であった。

  • 組合製糸西野牧組の結成と参画

庭屋静太郎は明治26年下仁田社西野牧組合創立委員長となり組合長となった。明治26

年直ちに起業し、就任以来取締役理事及び監事等41年勤務した。立地場所は根小屋の高石川流域で庭屋静太郎の地所である。                 

  • 下仁田社(最初は下仁田製糸合資会社)の結成と参画

明治26年郡内馬山以西27組の代表者が相会し創立総会を開き、北甘楽精糸社から独立して下仁田製糸合資会社を設立する議決をし、創立委員を選挙で10人決めたが静太郎もその一員に選出された。同年起業したが、静太郎は当時「下仁田製糸合資会社兼養蚕改良高山社員 佐藤量平代理 庭屋静太郎」(佐藤量平は社長)という名刺を使ったこともあり、下仁田社草創期から社長に次ぐ重要なポストについていた。下仁田製糸合資会社結成以来昭和8年退職するまで佐藤量平を助け、取締役や副社長、監事等として下仁田社の発展に尽力した。   

下仁田社は南三社の一つとして国内はもとより世界にも知れた実績を残したが、庭屋静太郎の働きもかなり大きかったことが推測される。下仁田製糸合資会社起業以来昭和8年12月退職するまで重要な役職を務めて勤続していた人は佐藤量平社長と庭屋静太郎の2人であり、下仁田社の栄枯盛衰すべてに関わった重要な人物であった。

なお、昭和2年より下仁田社も蚕種統一運動を進め、蚕種を製造し、所属組合へ無償配布して原料繭の統一を図ったが、その蚕種(一代交雑種)の貯蔵を荒船風穴に委託した。

立地場所は現ウエルシア下仁田店の所で停車場通りにも面し、上信電鉄(最初は上野鉄道)下仁田駅にも近い。

  • 春秋館の経営(別項)
  • 荒船風穴の経営(別項)

5.春秋館の経営

⑴ 春秋館の呼称

 「春秋館」名の初出は明治39年11月10日に発行された『農談樂(第1号)』(毎月1回静太郎の息子である庭屋千壽が「農談樂社」(自宅)より発行)に掲載した「春蚕種・風穴種」の広告で「春秋館主 庭屋静太郎」と記したのが最初と考えられる。また明治39年1月に全国版の蚕業雑誌に掲載された「荒船風穴蚕種貯蔵所」と銘打った広告では「所有主庭屋静太郎」と記されている。このことから「春秋館」の名称は明治39年に命名されたものと推測される。荒船風穴が明治38年10月より営業を始めたことから荒船風穴の開業に当たって命名されたものであろう。「春秋館」名の由来ははっきりしないが、『下仁田町史』によれば、「西牧村においては、庭屋千寿氏が蚕種の貯蔵や土室飼育の研究などの為に、春秋社をつくり…」とあり、「春秋社」から「春秋館」へ移行したものとも考えられる。論文などで荒船風穴は春蚕ばかりでなく秋蚕まで養蚕ができることを可能にしたのでそのことをうたって名付けられたのであるなどとよく記されているが、蚕種業者や蚕種貯蔵業者などが自宅の館名を施すのにそのような単純的な命名の仕方は管見の限りないようである。「春

秋館」命名に当たっては、当然庭屋静太郎の意向も考えられたであろうし、論語や漢籍に長じた静太郎のことだから「春秋に富む」「これからますます発展していく」というような意味が含まれているのではなかろうか。下仁田町史作成に当たっては千寿の妻である庭屋れいも個人的に協力している(聞き取り調査等)ので「春秋社」から「春秋館」へというとらえかたも信憑性があるものである。実際に千寿は「安全育土室稚蚕実験所」をつくり、土室(穴を掘った中の室のようである)による稚蚕飼育の研究をしている(庭屋家所蔵写真)。

⑵ 春秋館とは

蚕種製造業を核として、蚕種貯蔵業、高山社蚕業学校附属分教場を運営する自宅兼事務所の総称である。従って庭屋家の敷地は広大なもので施設も豊富であった。

  • 春秋館の組織・運営

 大きく分けて「蚕種貯蔵部」「蚕種製造部」「蚕種委託販売部」があつた(時代により名称は多少違う)。蚕種貯蔵部は荒船風穴の管理、蚕種製造部は蚕種の製造・改良に関すること、委託販売部は蚕種の販売及び紹介等委託関係の仕事を受け持ち、全国の蚕種家と契約を結び、どの地方からの要望にも素早く対応した。春秋館を通じて全国の養蚕のプロとのネットワークも確立していた。営利を放棄し、ひろく蚕種製造家の便宜を図るということが目的であった。「天下一品蚕種の大問屋」などとうたっていた。またこの蚕種委託販売部は蚕種業者に販売の販路を提供してやることにつながった。

なお、必要に応じて「農耕部」「会計部」なども設けられた。

これらの部への所属は固定的でなく、流動的であったようである。

従って春秋館では蚕種製造、蚕種貯蔵、蚕種委託販売、養蚕・蚕種研究(分教場)等多角的な事業を展開していた。

また便宜を図るため、出張所や取次店を設けて運営していた。

  • 春秋館の施設・設備の例(順不同)

・居宅・蚕室(2階)  ・蚕室(別棟で独立) ・事務室(帳場と言った) ・電話室

・蚕種取扱所 ・桑場  ・氷庫(西牧冷氷庫) ・乾燥場 ・勝手 ・庭園 ・風呂場

・索道 ・繭標本陳列棚

 ※電話室は帳場から入れるようになっており、荒船風穴と結ぶ私設電話(デルビル磁石式壁掛電話機、明治43年設置)で、近代性を感じる洒落たものだった。

※庭園造りは静太郎の趣味で趣向を凝らしたものだった。

※風呂場の床はセメントで側面は大きな石が組み込まれていた。脱衣所を兼ね、二段の木製の長い脱衣棚が設けられ、桶浴槽だった。

6.荒船風穴の経営

⑴ 建造の発端

発端は高山社蚕業学校に在籍していた静太郎の息子の千寿が、冷風が出る屋敷の地を発見し、父親の静太郎に進言したことからと言われる。そして今度は、このことを聞いた静太郎の方が風穴建設に熱心になってしまい、風穴先進地の長野県や国内各地の風穴を訪れるなど蚕種貯蔵風穴の技術習得や研究に勤しむようになる。努力の結果は、全国版の蚕業雑誌(明治41年)を通じて著名な農学者から庭屋静太郎は富士風穴の八田達也、別所風穴の倉澤運平と並んで日本の3大風穴研究者として紹介されるまでになるのである。

蚕種業を営む庭屋家にとって夏秋蚕種を自家製造して事業を拡大したいという願いもあったろうが、当時の状況を見て地域、県、国家にとって夏秋蚕の増産が急務であり、そのことが国全体を豊かにすると考えたからであろう。「みんなを豊かにする」ということが荒船風穴建設の静太郎の本心であったように思われる。

群馬県でも夏秋蚕による良質な繭の増産を喫緊の課題としており、当時県会議員を務める庭屋静太郎が風穴建造着を着手するということで県でも積極的に支援をするようになったと思われる。

従って静太郎は嘱望されながら群馬県議会議員を突然1期(明治40年辞任)で辞めて家業に専念する。

⑵ 庭屋静太郎が荒船風穴に望んだこと

 「公益を重んじ啻(ただ)一に完全を期す」

私利私欲でなくみんなのために建設し、造るからには良質な繭がとれ、生糸の増産につながるよう完全な風穴を造りたいと考えた。

  • 指導監督者

 土木、養蚕、気象等その道の第一人者が合議の上で建設された。指導監督者は次の通りである。

本県技師鈴木貞太郎、同農会技師宮田傳三郎、前橋測候所長技師赤井敬三、技師藤間大次郎、同北爪長太郎、同菊地清夫、同佐藤辰太郎、同菊地助松、土木技師小林源次郎、東京蚕業講習所長本多岩次郎、高山社蚕業学校長町田菊次郎、技師中塚庄藏、技師佐々木林太郎、技師永井治良、技師小布施謙治郎

東京蚕業講習所は農商務省所管であり、その長の本多岩次郎が指導監督に当たるという例はほとんど見られない。また、風穴の建造に高山社蚕業学校長町田菊次郎が関わったのは荒船風穴だけではないかと思う。

春秋館の事務所(帳場)は広く、大きな机が置かれていたので、そこで設計図など広げて所主の庭屋静太郎を交えて検討し合ったのではないかと想像するところである。

  • 規模等

風穴界で他に例を見ない貯蔵量(3基で110万枚)であった。風穴は連結式で珍しいものだった。石積みは城壁を想起させ、3基そろった風穴の姿はダイナミックな感じを受けるものだった。※我が国の風穴は精々1万枚から10万枚くらいのものが多かった。

  • 荒船風穴の特徴

・風穴温度が低温で昼夜、1か年を通じて変化が少ない。

・湿度低い

・庫内の温度の分布が均一で上下、四隅とも温度差が少ない。

・最新の技術の取り入れ…生理的順温出穴、胚子の生育検査、複式冷蔵法の実施等

・貯蔵期間が長い。

・究理催青の技術に優れる。

※全国的に発生不良の年でも何の異常もなく良好であり、普通の風穴では発生難の蚕種も発生良好であったと言われる。

⑹ 荒船風穴の評価(貯蔵委託者からの礼文から)

○荒船風穴は真に国家蚕種家の為、貴重にして尊敬すべきもの、感謝に堪えず候。

○貴所の設備の完全なること冷蔵法の熟練の結果とその取扱いの親切に基づくと確信する。

○貴風穴の優秀を物語るものにして風穴界の権威者と存じ候。

○貴風穴委託の秋蚕種は発生良好並びに蚕児強性、実に全国第1位の風穴と感賞す。

○貯蔵と施設の完全、究理の完全なるここと、取り扱いの迅速にして親切なることは信じて疑わざる処に御座候。

 

荒船風穴は早くから「風穴界の覇王」(最大の蚕種貯蔵能力と卓越した冷蔵技術をもつ)と称され、全国から注目される風穴であった。

荒船風穴への貯蔵委託者は、地域はもちろん、一般の蚕種業者、全国を代表する蚕種業者、学校、蚕糸関係の研究所、蚕病予防事務所、組合等からの依頼が多く、試験飼育のための依頼もあった。世界遺産を構成する富岡製糸場や高山社(高山社蚕業学校)、そして田島弥平旧宅からも貯蔵委託があった。高山社分教場や、境島村の蚕種家からの委託も多い。本県農事試験場からも委託されている。

 

前掲のような礼文をもらい、静太郎もなお一層みんなに喜ばれ、信頼される荒船風穴にしていきたいと努力したであろう。静太郎は春秋館本部(事務所)にいることが多かったが、荒船風穴で過ごすことも多かった。荒船風穴の構成施設は周到に準備・計画され静太郎のロマンが詰まっているように思われる。

7.政治・行政家としての道

庭屋静太郎は明治19(1886)年24歳で西野牧村外3か村用掛を申し付けられて以来昭和11(1936)年12月6日死去により西牧村村長を辞するまで50年間ほとんど政治や行政に携わった。主なものを以下に掲げる。

・明治22年 初代西牧村村会議員(大正15年までの間に23年間)

・明治29年 本県初回の北甘楽郡郡会議員

・明治30年 第2代西牧村村長(35歳)  ~亡くなるまで4回村長就任

・明治36年 群馬県議会議員(西牧村初代 41歳)~その後50有余年西牧から後継者がなかった。

県、郡、村のため、また地方産業の振興のために全力を傾けた。

特に村政では、村や学校の基本財産増殖、納税の整理、道路の開削(特に下仁田軽井沢線・現国道254号線の内山峠)、堤防・橋梁の加築、産業・教育の振興等村治の発展に尽力し、各方面で一新したともいわれる。

 ※庭屋静太郎は交通や産業の発展のために、長野県との道路の改修に日夜努力し実現さ

せた。静太郎の自宅の前を酒に酔った男性が「庭屋さんのおかげで道が通った」と大声

で喜びの言葉を述べながら通行する人もいたという。

8.教育者としての道

⑴ 学務委員として

明治15年8月群馬県(県令楫取素彦)より北甘楽郡第八学区学務委員を申し付けられ(選任)、以後3回学務委員を務める(途中西牧尋常小学校の「学事奨励委員」を歴任)。

学務委員の選任は学務委員にその人を得なければ教育は振興しない、適格者を選任する

というものだった。職務としては学校の幹理、事務、出席奨励などであった。学務委員は「20歳以上」という条件があったが、静太郎は丁度その年齢に達した最も若い学務委員であった。静太郎は若いときから地域の信望があったことがわかる。

静太郎の学務委員としての功績で大きなものは教育の重要性を訴え、また相談に乗り就学率、出席率を上げたこと(日夜児童の各戸を訪れ保護者に就学の督励をした)、村民に寄付を募り、学校備品を整えたこと、さらに特筆すべきことは西牧小学校の前身「上鏑学校」(柏崎の地)を新築委員長となって完成させたことであろう(明治16年4月起工、同17年7月開校式)。

本宿長楽寺に明治7年「本宿学校」が創立されたが、子どもの数も増え、手狭になってきたことや学校施設としても不便さが出てきたからである(長楽寺は静太郎が寺子屋として通ったところであり、本宿学校卒業生でもあるので実情もよく知っていた)。

学校新築に当たって静太郎は戸長や有力者を説得し村民を鼓舞し、資金を調達する(静太

郎も率先して多額の寄付をする)など積極的に地域に働きかけた。さらに静太郎は世間の学事や学校建築の在り方を知るために近隣数県を訪れて参考にし、鏑川の台地に佇む堅牢で、近代的な学び舎を完成させた。

⑵ 村長として

学務委員の経験を活かし、教育に力を入れた村政を進めた。学校の設備を整えたり、甲

種学事会充実させたり、学校医を嘱託したりしたこともその一例である。特に村民子弟の就学奨励に意を注いだ。静太郎が道路の改修に力を入れたのは、児童の通学を容易にするという目的もあった。また、青年を養う志厚く実業補習学校の振興にも意を注いだ。

4回目の村長のとき本宿の五郎戸に西牧尋常高等小学校を建設(昭和6年4月竣工、同7年3月竣工)したが、静太郎の汗と努力の結果であったともいえる。財政困難な折、静太郎は多額の基金を出資した。

  • 甲種高山社蚕業学校附属庭屋分教場として

庭屋静太郎宅が高山社蚕業学校の分教場に託されたことはすでに述べたが、明治37年

ころより大正14年まで、約20年間高山社で学んだ清涼育を生徒に伝授した(卒業した生徒は総計二百数十人)。往時のころ蚕室は7号まであり、生徒は分担された室での養蚕飼育を任された。所定のノートに「養蚕日誌」を書くことが義務付けられ、時間毎の給桑、除沙、蚕の様子等克明に記されていることに驚く。

分教場としては特に「蚕種製造」のためにその労力ともなり、ありがたいことであった(卒業生は蚕種製造家の資格が与えられた)。

場主の静太郎は生徒を励ましながら伝授し、ほかの分教場ではあまり見られない「賞状」

(重みのある透かしの入ったもの)を作成し授与した。

入場期間は春蚕期と秋蚕期に分かれていた。

因みに明治37年度開校時生徒は17名(内訳は男性15名、女性2名。地域別では下仁田・西牧村7名、勢多郡2名、島根県1名、埼玉県1名、岩手県4名、宮城県1名、長野県1名)で全国から清涼育を学ぶ生徒が集まっていたことがわかる(生徒名簿より)。

なお養蚕修業期間中は、食事は無料であった。庭屋家(春秋館)の半地下1階はお勝手で分教場生や雇われた人が食事をする長く大きい立机と木製の長椅子が置かれ、時間差で食事をとった。食事について、静太郎は家族と分教場生・雇い人との差別をしなかったようである。

希望により養蚕授業員(養蚕教師)として採用したり、優秀な者は春秋館の職員として雇用したりした。北甘楽郡では小野村の金田金藏宅に次いで2番目に分教場になり、北甘楽郡では総計5か所あった。

9.その他役職

・初代西牧衛生組長 ・初代西牧消防組長 ・鉄道期成同盟副会長 ・本宿郵便局電信電話開通協賛員惣代(施設費として多大な寄付をしている)等多数

10.まとめ

庭屋静太郎の人生の営みは一言では表せない。私利私欲を忘れ、ときには家を顧みない(顧みられない)ようなこともあったと聞く。自己の歩みの中で「人のために何が為せるか」「自分がやれることは何か」「今やらねばならないことは何か」を自答し、信念をもって、時には苦難を乗り越え、広い視野と熱い心で貫いてきたのが庭屋静太郎だった。そして目指すものは「みんなが豊かになる」ということであった。

村葬(昭和11年12月10日)が思い出深い西牧尋常高等小学校で行われたが、「肝心な人を失った」「西牧村のみならず北甘楽郡、群馬県、国にとっても大きな損失である」という弔辞が多くの人から寄せられた。

「春秋館」の経営、「荒船風穴」の建設は庭屋静太郎にとってまさに一大決心の大事業であり、「人々の豊かさ」を求め実現する大きな手段であった。

 

 

 

 

 

 

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富岡市立高瀬小学校で学校キャラバン実施

2020年05月13日 11時55分15秒 | 世界遺産伝道師協会

富岡市立高瀬小学校で学校キャラバン実施

去る11月8日(金)午前10時40分より午後12時35分まで標記小学校で、H岡誠、Y村和子、N木多恵子、K渕秀子、I井規雄計5名の伝道師が参加し、3年生76名を対象に学校キャラバンを実施しました。

高瀬小学校は富岡市街の南西約1,5kmに位置し、明治6年斎藤寿雄(先祖は小幡藩の藩医。大学南校に学び明治5年帰郷後医院を開業。初代群馬県医師会長、県会議員、衆議院議員等歴任)宅を借用して開校した歴史のある学校です。

当日朝は肌寒い感じでしたが、春を思わせるようなうららかな日で、いつものように開始1時間前に集合(私は少し早めに行き、校長先生にご挨拶し、校長室で本日のキャラバンのことなどを連絡)し、早速伝道師全員で3階の「わくわくルーム」(多目的室)まで座繰り資材を運び入れました。階段には英語の単語が一段毎に貼られ、現在小学校で英語教育が重視されていることを実感しました(現在新学習指導要領の移行措置期間で来年度から5,6年生は教科として英語が必修になる)。本日のキャラバンはA班とB班がスペースのあるこのわくわくルームを半分ずつ使って講話と座繰り体験を交互に行いました。

準備万端整ったところで簡単な打ち合わせをし、私からは、斎藤寿雄医師は富岡製糸場の嘱託医(明治12年から)を務めたことや3階から見える高瀬小のシンボル、北校舎昇降口の「高瀬黌玄関」のこと、窓から遠くに望む荒船山とその麓に存在する荒船風穴のことなどをちょっと触れさせていただきました。

講話はH岡伝道師が担当し、前面の黒板を使って「富岡製糸場と絹産業遺産群」をテーマに富岡製糸場を中心としてそのほかの資産を関連付けてわかりやすく解説してくれました。前段は卵→蚕→生糸→絹糸→絹製品と、「絹産業」について触れ、4資産とのかかわりを構造化した板書で、子どもたちにとってもとらえやすい解説でした。いろいろ資料も準備し、児童を集め「産卵紙」を見せるなど児童に新しい発見を与える工夫された講話でした。

座繰り体験指導はY村、N木、K渕3人の伝道師が中心となり、事前指導としてY村伝道師が養蚕の話や日本は生糸を輸出して豊かになったことなどを話してくれました。そして座繰り体験をするに当たって、児童にわかりやすいように後ろ向きになって左手のハンドルの回し方や右手のミゴポウキの動かし方等丁寧に説明してくれました。児童もそれに合わせ、真剣に、楽しそうに動作をしていました。

「さあそれでは工女さんになったつもりで…。男子は工男さんになったつもりで実際にやってみましょう。」ということで座繰り体験に入りました。3人の伝道師の連携がよく、手際よく指導してくれました。順番を待つ子どもたちには、煮繭した繭から1本の糸を取らせ、繭が1本の糸でつながっていることをとらえさせました。子どもたちは「熱い、熱い」などと言いながら楽しそうに糸を引き、伸ばしていました。

ミゴボウキを持つ子どもたちに手を添えながら「カタカナの『ノ』の字を鍋の内側をこするように書いて…」、そして「じょうずじょうず」と言葉がけするなど一人ひとりを励ましながら、丁寧な指導をしてくれました。

最後は子どもたち全員座繰り器の周りに集まってもらい、みんなで取った小枠に巻かれた生糸を担任の先生に切ってもらい、外して児童に触ってもらいました。児童は初めて触る重厚な生糸の感触に興奮気味でした。

参加した伝道師が皆熱心に指導をしてくれ、充実したキャラバンであったと思います。3年生76名も講話、座繰りとも真剣に取り組んでくれました。

予定通り12時10分に終了し、児童と終わりのあいさつを交わし合い、すぐに撤収作業に入りました。というのはこの日午後12時45分集合で1時45分より額部小での学校キャラバンを控えていたからです。午後のキャラバンにも参加するH岡伝道師、Y村伝道師にはあらかじめ用意した手弁当を途中または額部小駐車場でとっていただくようお願いしました。そして私の車に使用した座繰り一式を積み込みお世話になった高瀬小を後にしました。

今日一日、校長先生、担任の先生には何かとお世話になり厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。

                               (I井 規雄 記)

 

 

 

 

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