幕末・明治に世界へと舞台を広げ目覚しい発展を遂げていった上州の生糸。その上州生糸の発展を担った人、支えた人々を見ていくと多数の著名人がいます。その人々を知っているようでいて、いざ説明しようとすると、その業績などを余り知らないことなどに気が付いたりします。これから、折に触れてそのような人物を取り上げて考えてみたいと思います。
今回は3月27日に講演をしていただくことになりました前橋国際大学名誉教授の石原征明先生が昭和63年に標記の書物の中に書かれた“新井領一郎”を取り上げてみます。
領一郎は安政2年(1855)7月19日勢多郡水沼村(現桐生市)で星野弥平の子として出生。兄に星野長太郎、周次郎がいた。慶応2年(1866)年、新井家の養子となり新井姓を名乗った。
明治7年(1874)星野長太郎の水沼製糸所(水車動力による器械製糸)が操業開始。
明治8年(1875)佐藤百太郎(佐倉順天堂の佐藤泰然の孫)がアメリカでの商業実習生として日本人青年を求める。
熊谷で県令楫取素彦と速水堅曹・星野長太郎が会談。20歳になる英語・商法に優れた領一郎(高崎藩英学校や慶応義塾で尾崎行雄と一緒に学んでいる)をアメリカに送り出すことにした。
送り出す目的は不平等条約下の生糸貿易で外商や生糸仲買商に生産者が不利益を受けることが多々あり、生糸のアメリカへの直輸出の道を探っていたことによる。
明治9年3月10日(1876)オクシデンタル・インド・オリエンタル会社の汽船オセアニック号で横浜を出航し渡米する。このとき乗船していた日本人5人の若者は「オセアニック5人組」と呼ばれ日米貿易の先駆者となった。(新井領一郎~生糸の直輸出。森村豊~ノリタケ・チャイナで活躍。伊達忠七~三井の店員、美術・骨董。鈴木東一~丸善の品物販売。増田林蔵~狭山茶の直売。)
16日の船旅でサンフランシスコに着き、ユニオン・パシフィック鉄道(アメリカ大陸横断鉄道)に乗り4月10日ニューヨークに到着している。
ニューヨークで日本人最初となる個人商店「佐藤・新井商会」を開店。佐藤百太郎は陶磁器・漆器などを領一郎は生糸を販売した。しかし、粗悪品輸出による日本の生糸の不評から生糸は売れなかった。
水沼製糸所の生糸の見本を持って糸商を回り、一ヵ月後にB・リチャードソンと契約が成立。納品時、生糸の値段が急騰していたが、契約どおりの値段で取引して信用を博し、生糸直輸出の道を開くことに成功した。後、アメリカの生糸の需要に合わせて、捻造改良生糸の輸出を始める。
明治13年(1880)速水堅曹を社長に、生糸輸出を目的に同伸会社が作られ、星野長太郎は取締役となり、本社を横浜にき、明治14年(1881)にニューヨーク事務所がおかれ、領一郎はニューヨーク総支配人となって活躍した。
領一郎は牛場卓蔵(山陽鉄道創始者)の娘田鶴子と結婚し米男と美代子という2人の子供が生まれ、美代子の娘が駐日アメリカ大使を勤めたライシャワーの夫人ハルであった。
今回は3月27日に講演をしていただくことになりました前橋国際大学名誉教授の石原征明先生が昭和63年に標記の書物の中に書かれた“新井領一郎”を取り上げてみます。
領一郎は安政2年(1855)7月19日勢多郡水沼村(現桐生市)で星野弥平の子として出生。兄に星野長太郎、周次郎がいた。慶応2年(1866)年、新井家の養子となり新井姓を名乗った。
明治7年(1874)星野長太郎の水沼製糸所(水車動力による器械製糸)が操業開始。
明治8年(1875)佐藤百太郎(佐倉順天堂の佐藤泰然の孫)がアメリカでの商業実習生として日本人青年を求める。
熊谷で県令楫取素彦と速水堅曹・星野長太郎が会談。20歳になる英語・商法に優れた領一郎(高崎藩英学校や慶応義塾で尾崎行雄と一緒に学んでいる)をアメリカに送り出すことにした。
送り出す目的は不平等条約下の生糸貿易で外商や生糸仲買商に生産者が不利益を受けることが多々あり、生糸のアメリカへの直輸出の道を探っていたことによる。
明治9年3月10日(1876)オクシデンタル・インド・オリエンタル会社の汽船オセアニック号で横浜を出航し渡米する。このとき乗船していた日本人5人の若者は「オセアニック5人組」と呼ばれ日米貿易の先駆者となった。(新井領一郎~生糸の直輸出。森村豊~ノリタケ・チャイナで活躍。伊達忠七~三井の店員、美術・骨董。鈴木東一~丸善の品物販売。増田林蔵~狭山茶の直売。)
16日の船旅でサンフランシスコに着き、ユニオン・パシフィック鉄道(アメリカ大陸横断鉄道)に乗り4月10日ニューヨークに到着している。
ニューヨークで日本人最初となる個人商店「佐藤・新井商会」を開店。佐藤百太郎は陶磁器・漆器などを領一郎は生糸を販売した。しかし、粗悪品輸出による日本の生糸の不評から生糸は売れなかった。
水沼製糸所の生糸の見本を持って糸商を回り、一ヵ月後にB・リチャードソンと契約が成立。納品時、生糸の値段が急騰していたが、契約どおりの値段で取引して信用を博し、生糸直輸出の道を開くことに成功した。後、アメリカの生糸の需要に合わせて、捻造改良生糸の輸出を始める。
明治13年(1880)速水堅曹を社長に、生糸輸出を目的に同伸会社が作られ、星野長太郎は取締役となり、本社を横浜にき、明治14年(1881)にニューヨーク事務所がおかれ、領一郎はニューヨーク総支配人となって活躍した。
領一郎は牛場卓蔵(山陽鉄道創始者)の娘田鶴子と結婚し米男と美代子という2人の子供が生まれ、美代子の娘が駐日アメリカ大使を勤めたライシャワーの夫人ハルであった。