富岡製糸場世界遺産伝道師協会 世界遺産情報

「富岡製糸場と絹産業遺産群」は日本で初めての近代産業遺産として2014年6月25日付でユネスコ世界遺産に登録されました。

板倉町立板倉東小での活動報告

2020年12月05日 13時14分31秒 | 世界遺産伝道師協会

板倉町立板倉東小での活動報告   

 

令和二年10月22日(木)板倉町立東小学校で、四年生2クラス51名対象の学校キャラバンを行いました。

二台の座繰り器を先生方のお手伝いをいただき、本日の会場【プレイルーム】に運び入れてから恒例の検温を行い、全員異常なしを確認してから校長室へご挨拶に伺い、本日の進行予定をお伝えしました。

その折、K校長先生から当校の沿革をお聞きしました。

当校は群馬県の最も東に位置する小学校で、今年四月の板倉町小学校再編に伴い、七十数名の児童が在籍していた板倉南小学校が東小学校に統合されて、東地区・南地区を合わせた広い学区となって、全校児童数319名の大きな学校となりました。

統合前に旧南小学校は【校旗を作ろうプロジェクト】に参加していまして、その時制作した赤色の校旗が額に入れられて大切に保管されていました。

又、K校長先生は吾妻のご出身との事で、榛東中学校にも勤務されていたことがおありのため、先日伝道師協会が行った榛東北小学校のキャラバン記事を興味深くご覧いただいたそうです。

当校四年生は11月4日に富岡製糸場見学が決まっていまして、その事前学習として本日のキャラバンが決まりました。

2クラスですので講話と座繰り体験を交替して行い、前半の講話は吉澤さんが担当しました。Y澤さんは自作のパワーポイントデータを使って

  • 【富岡製糸場と絹産業遺産群】が世界遺産に登録されたその訳
  • 上記世界遺産四か所の名称と所在地
  • 世界遺産【富岡製糸場と絹産業遺産群】の活躍

と要点を整理して話を進めました。

 

後半の講話を担当した櫻場さんも自作のパワーポイントデータを使って進めましたが、トラス構造の強さを実感してもらうために、三角と四角の模型を示して、実際に力を加えると夫々がどのようになるのかを確認してもらいました。

こちらのクラスは前半で座繰りを体験していましたので、繭や製糸に関心が強く、理解も深まった様子でした。

又、なぜ世界遺産になったのかを、技術革新・品種改良を中心に四年生に理解できるよう言葉を選んで伝え、時折、蚕の数え方をクイズ形式にして投げかけ「一頭・二頭……と呼ぶのはどうしてか」も皆で考えてみました。

座繰り体験はH岡さん、N木さん、K井さん、S沢さんが担当し、講話担当のS場さん・Y澤さんも担当でない時間は積極的に子供たちに話しかけて、全員参加で臨みました。

子どもたちは乾燥状態の繭と煮繭した繭の変化に驚いた様子で「おーすげー」と歓声が上がりました。

座繰り器の仕組みにも関心を示して、あや振り棒の役目やハンドルを一回廻すと小枠が何回転するかもしっかり自身の目で確認できました。

小枠に巻き取られた生糸にそっと手を触れて、しっとりとした感触を確かめたりもしました。

【糸巻き巻き】も次第に上手になって、糸口の出し方も友達同士で教え合っていました。

中には「製糸場で働きたい」との発言もあって、楽しく体験学習してもらえた様子でした。

終了後の機材搬出にも先生方のお手伝いをいただきました。その際学校から直ぐ近くの【三県境】に話が及びまして「折角鶴舞う形の首先まで来たのだから」と七人全員で【大人の社会科見学】に向かいました。

 

道の駅に駐車して、三県共同で整備したという遊歩道を歩いてすぐの所にきれいに整備された三県境はありました。『百聞は一見に如かず』と言いますが、やはり一見の価値ありでした。

その後、Y澤さんの発案で昼食を済ませてから【板倉町雷電神社】も見学して本日の学校キャラバンは終了しました。

本日の担当はH岡誠さん・Y澤朗夫さん・S場善文さん・N木多恵子さん・K井拓美さん・S沢美代子さんとY田節子でした。皆さん遠路大変お疲れ様でした。   (Y田:記)

 

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伊勢崎市立境采女小学校での活動報告・学校キャラバン

2020年12月03日 10時56分19秒 | 世界遺産伝道師協会

伊勢崎市立境采女小学校での活動報告

 

令和二年10月7日(水)伊勢崎市立境采女小学校で、三年生2クラス64名対象の学校キャラバンを行いました。

到着後先ず全員の検温をして、異常の無い事を確認してから準備に取り掛かりました。

本日の使用教室は別棟の二階多目的ルームで、床がカーペット敷きになっているため、上履きは履かずに素足で入室しました。

2クラス64名の児童ですので二台の座繰り器を設置し、カーペット敷きの床を濡らさぬように、煮繭用ポットの取り扱いは普段以上に注意して行いました。

クラス別に講話と座繰り体験を交替で行いました。

講話担当はY澤さんで、群馬県の世界遺産を知ってもらうために、講話の内容を最初に説明して、ここを切り口に本題に入りました。

  • 【富岡製糸場と絹産業遺産群】が世界遺産に登録されたその訳
  • 上記世界遺産四か所の名称と所在地
  • 世界遺産【富岡製糸場と絹産業遺産群】の活躍

冒頭、この三項目を中心に話をすることを伝え、関心を引き出すよう試みました。

当校の三年生は今年養蚕を体験していますので、群馬県の世界遺産の根底には養蚕があったのだと言うことを理解して、世界遺産に親しみを感じた様子でした。

又、終盤、子供たちの理解度を確認するため、四資産の名称と所在地を聞きました処、約半数の児童が手を挙げて答えてくれまして、中には「こんなに素晴らしい製糸場をどうして止めてしまったのですか」という質問に辿り着く児童もいて、その理解度に驚きました。

座繰り体験はK井さんとS沢さんが夫々一台ずつ座繰り器を担当しまして、一人一人に分かり易く丁寧に手順を説明して、糸引き体験をしてもらいました。

子どもたちは一様に、自分たちも育てたことのあるあのお蚕さんが作った繭がお鍋の中で踊るように動き、細い細い糸となって巻き取られてゆく様子に驚きの声を上げ、一人ずつ交代しながら興味深そうにハンドルを回し、糸口を出した繭を手に持って接緒の体験もしました。

N島さんは手持無沙汰の児童がいないように、【糸巻き巻き】の指導の傍ら座繰り器の仕組みを子供たちに説明したり、又質問に答えたりと、全体に目を配ってもらいました。

一人の児童からは「家族で富岡製糸場へ行ったことあるし、お蚕も飼ったので今日がとても楽しみでした」との感想を聞かせてもらいました。

余談ですが、担任の先生が掛けていたマスクは伊勢崎銘仙で作られた物だそうで「蒸れなくてとても掛心地が良い」との感想で、これぞ絹の底力ということでしょうか。

本日の活動は3・4校時で、跡片付けが終わると午後一時近くになっていましたので、地元に詳しいK井さんの案内で近くの和食店で全員揃って昼食をとり、今日の振り返りをしました。

朝の準備にコンクリートの外階段を何回も上り下りして、二階の多目的ルームまで座繰り器を運び上げて下さったY澤さん、お疲れ様でした。

本日の担当は、N島進さん・Y澤朗夫さん・K井拓美さん・S沢美代子さんと安田節子でした。皆様大変お世話になりました。               (Y田:記)

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富岡市立丹生小学校キャラバン報告

2020年12月01日 18時53分40秒 | 世界遺産伝道師協会

富岡市立丹生小学校キャラバン報告

去る11月20日(金)標記丹生小学校で3・4年生(複式学級)17名を対象に、T越朗伝道師、J保千代子伝道師、Y村和子伝道師、J保明子伝道師、I井規雄伝道師が参加して学校キャラバン(5時間目の総合的な学習の時間)を実施しました。本日は富岡市内小学校の最後となるキャラバンで、最終のキャラバンを充実したものにしなければとやや緊張した面持ちで丹生小学校に向かいました。丹生小学校の近くには有名な丹生湖や紅に染まった妙義山があり、雄大な景色を醸し出していました。

本日は13:20~14:05まで1コマのキャラバンで座繰り体験を中心とするものでした。

伝道師は開始1時間前の12:20に集合し、まず座繰り器材を会場の図工室(1階)に運び入れました。会場は玄関から入った正面にあり、教頭先生もお手伝いしてくださり、搬入は僅かな時間で終了しました。

早速校長室で校長先生、教頭先生ご出席のもと打ち合わせをし、共通理解をもって学校キャラバンに臨みました。本日は1コマの座繰り体験のみとなっているが、はじめに少しお話しを入れましょうかとお聞きしたところ、お願いしますとのことでしたので、要望があったときに備え前もってお願いしておいたT越伝道師に担当していただきました。

打ち合わせ終了後はすぐ本日の会場に戻り準備・設営に入りました。

予定通り準備は整い、児童を待つばかりとなりました。時間になると3年生、4年生と学年ごとに整列して入場してきました。時間が限られているので自己紹介は手短にし、その中で塚越伝道師に自己紹介を兼ねて3、4分蚕糸に関わる話をしていただきました。

T越伝道師は「昨年は旧丹生組合製糸のレンガ造り乾繭倉庫についてお話ししましたが(4年生は昨年3年生のときT越伝道師の講話を聴いている)…」と切り出し、自ら写真に収めた地域の蚕影大神(文字塔)のパネル(写真参照)を提示し丹生地域もかつて養蚕が盛んであり、このような蚕神を建立し養蚕守護や豊蚕を願ってきたこと、そして座繰り器(本日体験してもらう)⇒フランス式繰糸器⇒自動繰糸機等製糸技術の変遷等について話してくれました。

早速座繰体験の場に移動し、まず神保(千)伝道師が座繰体験に入る前の事前指導を行いました。神保(千)伝道師は、黄繭の「ぐんま黄金」の話から繭は「白繭」だけでないこと、繭1粒から取った糸の長さのこと、蚕の種類によって形や大きさが違うこと、玉繭のこと、「家蚕」と「野蚕」(特に天蚕を例に)の違った生態、さらに織物の例として伊勢崎銘仙で作ったエプロンの実物を見せたりして児童に興味・関心を惹くお話しをしてくれました。

続いてハンドルとミゴボウキの操作の仕方を、手本を示しながら「左手ゆっくり右手速く」ということを強調して指導してくれました。そしてその合間に生糸の太さは0.02ミリで人間の頭の毛の四分の一くらいの細さであること、生糸はセリシンというたんぱく質で固着されていること、「繭糸」と「絹糸」の違い等のことにも言及してくれました。

いよいよ二人一組でハンドル操作とミゴボウキの操作を体験してもらいました。また、併せて接緒(ミゴボウキで繭を撫で、糸を引き出して児童に与える)の仕方も教えましたが、児童は比較的巧みな操作で接緒が出来ました。

Y村伝道師は主にミゴボウキを、J保(明)伝道師はハンドル操作を、塚越伝道師は個別指導を担当しました。I井伝道師は全体的な立場からの配慮や進行、渉外等に携わりました。それぞれの伝道師が、ときには手を添え、「上手上手」と励ましながら体験させ、子供たちの操作もみるみる上達していきました。また生糸になる前の繭糸にも触れさせるようにし、子供たちは繭糸を手に持ち、伸ばしたり感触を確かめ合ったりしていました。子供たちは終始真剣に、ときには質問をするなどいつも積極的な姿勢でした。最後には、先生方にも両手操作で体験していただきましたがさすが上手で感心いたしました。

時間も押し詰まり「本当は切ってはいけないけれど、糸枠に巻かれた生糸を切ってもらいます」と担任の先生にお願いしました。座繰り器の周辺に集まった子供たちに「どんな音がするか聞いて!」と投げかけると、子供たちは耳をそばだて会場は一瞬静まり返りました。子供たちの中には臭いを「ポテトチップのような臭いがする」と表現した子もいました。子供たちはみんなで取った生糸ということでそれぞれが感慨深い様相でした。

「このままではセリシンが付いていてごわごわしている状態なので、絹糸にするためには『精練』という作業でセリシンを取り除いてやるとふわふわする絹糸になるのです」「例えば着物1反作るには繭が2600粒から3000粒必要で、大切な命をいただいているのです。ですから大切に使ってください」と説明を加え子供たちも納得した様子でした。座繰り体験の学習を通して「命の大切さ」まで伝えられた伝道活動であったように思います。

時間の関係上すぐに最初のあいさつの隊形になり、子供たちから「ありがとうございました」のお礼の言葉をいただき本日のキャラバンを終了いたしました。後片付けが済み、外まで見送りに来ていただいた校長先生、教頭先生にお礼のあいさつをし、お世話になった丹生小を後にしました。

さて、私たちが校庭に出たときは先程座繰り体験に一生懸命取り組んでくれた子供たちが担任の先生に見送られて降り出した雨の中を1列で傘を差して帰途に就くところでした。「今日の座繰り体験は子供たちにとってよい体験になってくれたかな」と思われる瞬間でした。

伝道師同士別れるとき、名残を惜しむかのように「今年は最後ですね。来年もよろしく」と誰からともなくあいさつを交わし合い、各家に向かいました。

末筆になりましたが、校長先生、教頭先生はじめ担任の先生方、職員の皆様には大変お世話になりました。

また本日参加してくれた伝道師の皆さんには終始全力を尽くし伝道に当たってくれ本当にありがとうございました。

                           (I井 規雄 記)

 

 

 

 

 

 

 

 

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富岡製糸場医師―群馬県医学界の祖― 大久保適斎

2020年12月01日 17時15分28秒 | 世界遺産伝道師協会

筆者からブログへの掲載依頼がありました。ご一読ください。

富岡製糸場医師―群馬県医学界の祖― 大久保適斎

                     今井 規雄

天保11年(1840)8月、江戸小石川諏訪町の幕臣星野家に生まれ、幼名は内蔵之助(くらのすけ)といい、幼少より聡明で学問を好んだ。両親も内蔵之助の前途に望みをかけ、生活は豊かとはいえなかったが学資を給して学ばせた。

幼時から昌平坂学問所に学び、17歳のときには学問所助教授に抜擢されるほどだった。その後旗本の斎藤誠司の養子となり、徒士目付の任を受け公務に精励した。在職中も研学の志を持ち、洋医塩原春斎の門に入り修学を続けること3年。門下第一の勉強家であったという。

文久3年適斎は幕府より西南諸藩の動静を探る任務を命じられて大坂へ派遣され、大坂城の将軍の下の勤務となった。大坂での在職中も華岡修平や緒方洪庵(文久3年6月に没し、養子拙斎が緒方塾を継ぐ)など当代の名医の塾で医学の研究に励んだ。このころ木戸孝允(のち維新三傑と称される)らと交わる機会があり、時世に対し開眼することになった。慶応3年江戸へ帰ると養家の迷惑を考え、斎藤の姓を改め、母方の大久保姓を名乗った。

明治2年東京大病院兼医学校(のちの東京大学医学部)に入学。同年8月牛込五軒町に開業。その後米人ドクトル・ヤンハンスについて研究を積み、人体解剖の実地研究を行った。

明治3年8月30歳のとき、はじめて公職(小菅県大属試補)に就き、小菅県立病院副院長を命ぜられた。明治5年印旛県大属に転任し、学制発布にともなう教員養成のための学校設立(明治5年9月。流山村の常與寺=千葉県師範学校の前身)等に携わった。

明治6年2月直属の上司である印旛県令河瀬秀治とともに群馬県大属として本県の土を踏んだ(河瀬は群馬県兼入間県令として着任)。大久保は真野(まの)節(せつ)(印旛県十等出仕)らと学務担当官吏となり、学務事務や県内小学校の巡察などを行い、学制の趣旨の浸透に努めた。明治6年11月に「熊谷県管内小学校掟書」が制定されたが、これからの本県の小学校教育を進めていく上での指標となり、根幹となる規程であり、作成に当たって真野とともに大久保の印旛県での経験が生かされていたことが推測される。群馬県(第1次)はこの年に入間県と合併して熊谷県が成立し、県庁は熊谷に移った(明治6年6月15日)。

明治7年熊谷に衛生局が設置されると同時に衛生係兼医官として県民の診療に当たった。当時の地方医は概ね漢方医であり、洋医学を学んだ大久保は患者から大きな信頼と尊敬を寄せられた。同年7月七日市の鏑川学校内(七日市藩陣屋跡に設置された小学校教員養成所)に衛生局出張所が設置され、そこでの診療に当たるとともに富岡製糸場の医師として勤務した。

明治11年8月群馬県衛生所が前橋曲輪町(現群馬会館のところ。その後師範学校附属小学校、群馬県農会などに転用され後、桐生に移築され現在は「重要文化財旧群馬県衛生所〈桐生明治館〉として公開されている)に建てられ医学校を併設していたが、同12年群馬県医学校として独立したとき初代の総理(校長)として迎えられた(働き盛りの39歳のとき)。大久保の医術は東洋医学の鍼灸と最先端医療である西洋医学を結合するものであった。

その後群馬県監獄医長に就任したが、明治19年職を辞し多野郡新町(現高崎市)に定住し、医院を開業。住民からは敬慕され25年間町民の治療に当たった。重患に請われれば30キロを超える範囲でも2人引きの人力車で駆けつけ、仁術の限りを尽くしたという。

また患者の診療の傍ら目の不自由な人に対して鍼の施術を教えた。

著書に『鍼治新書』3巻(治療篇・解剖篇・手術篇、明治27年刊)などがあり、長く斯界の指針となった(かつての群馬県令、当時の貴族院議員楫取素彦が学理上の造詣の深さをたたえる序文を寄せている)。

明治44年(1911)2月17日72歳で逝去した。子孫は高崎市新町(旧多野郡新町)で医院を継承している。

〈参考文献〉

・『群馬の医史』群馬県医師会1958  ・『群馬県教育史』(別巻)群馬県教育委員会1981

 ・『新町町誌』(通史編)1989 ・『多野藤岡地方誌』多野藤岡地方誌編さん委員会  

 ・『吾妻郡教育史』 金井幸佐久 2003

 

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富岡製糸場お雇いフランス人医師の足跡略記

2020年12月01日 17時07分51秒 | 世界遺産伝道師協会

富岡製糸場創業当初雇い入れたお雇い外国人医師についての論考をまとめたので本ブログに掲載要請がありましたので以下の論考を掲載します。

富岡製糸場お雇いフランス人医師の足跡略記

                                            今井 規雄

 富岡製糸場開業時フランスから雇用した3人の専属医師について、日本でどんな歩みを辿ったのかまとめられた論考は皆無といえる。そこで本稿では素描という形であるが、その足跡を簡単にまとめてみた。

○エミール・マッセ

1836年~1877年。明治3年来日。大学(だいがく)東校(とうこう)(東京大学医学部の前身)の教師となり、2か月後に退任。その後高知藩立吸(ぎゅう)江(こう)病院医師。明治5年3月から医師として富岡製糸場(松浦水太郎家に居留)に勤務(ブリュナを通して雇われたと思われる)、その後兵庫県生野鉱山で診療に当たったのち横浜の病院に勤務、コレラ患者等の治療に当たる。人望も厚かったという。明治10年10月9日マッセ自身もコレラに感染し死去41歳、横浜山手外人墓地に眠る。

※マッセは明治4年8月ころ富岡に居留していたとされる。

 ※松浦家(富岡のまちづくりに当たって宮崎から移住)は江戸時代富岡上町の名主を務め問屋場に指定されていた。松浦水太郎は富岡製糸場建設に協力。北甘楽精糸会社設立に尽力し、「製糸総轄」担当。伊藤小左衛門製糸場世話係繭方(富岡周辺から生産された繭を集め四日市に送る)を努める。 

○フランソワ・マイエ

ブリュナを通して雇われる。明治6年1月着任~明治7年5月退職。富岡製糸場勤務の前は横須賀造船所に勤務(明治4年12月着任)。富岡製糸場を去ったあとは東京開成学校教師や兵庫県生野鉱山の医師・教師(明治8年10月~明治13年9月退任)を務めた。明治13年帰国。     

 ※富岡製糸場は明治6年に8室の病室を備えた工場内病院(名称は「病室」であった)を完成させた。病院を運営するに当たって「病者警戒」(病気になったとき工女が守るべき心得。明治6年6月制定)、「医局規則」(医師の診察を受けるとき守るべきこと。明治6年9月)等規則を制定したが、マイエが在任中あり、マイエが関わっていたものと思われる。富岡製糸場において産業医制度の確立に大きく貢献した人物であったととらえられる。                  

※横田英『富岡日記』(『明治六・七年松代出身工女富岡入場中の略記』)に「大勢部屋に閉じ込めておくから病気になるのだ。夕方から夜8時半まで広庭に出して運動させるように…」とあるが、これはマイエの進言である。マイエは工女たちに健康管理指導もしていたことを証左するものである。

※明治6年6月に昭憲皇后、英照皇太后が行啓されたが、このときのフランス人医師はマイエである。マイエには行啓記念として白縮緬1(いっ)疋(ぴき)(通常の2反)が与えられた。

○ジャンポール・ヴィダル

1830年2月21日南フランス生まれ。フランス陸軍の軍医だった。1872年中国上海に

在住。明治5年8月20日来日(アメリカ船で横浜へ)。

明治6年1月より半年間の契約で、東京芝愛宕町で林欽次が経営する「迎(げい)㬢(ぎ)塾(じゅく)」(フランス語と農業を教授)のフランス語教師として雇われる。その後明治6年3月には築地4番で開業。

明治6年6月より明治7年5月まで1年間、新潟県新潟町の戸長鈴木長蔵に雇用され私立新潟病院(新潟大学医学部の前身)の初代外国人医学教師として着任し治療と医育に携わる。

明治7年7月マイエの後任として富岡製糸場に雇われ、明治8年12月31日まで在職(首長ブリュナの退任に伴い)。その後一時期横浜フランス公使館附属医師を経て、明治9年2月横須賀造船所に雇用。

明治11年4月辞職し、同年5月1日横浜港より帰国。フランスでは一時郷里で開業したが、マザールに移り、1896年1月1日死亡した(66歳)。

  ※ヴィダルは日本の温泉に特別な関心をもった。箱根、熱海、草津、磯部,川原湯等も訪ねていた。

 ※令和元年(2019)12月、県立新潟医学校(私立新潟病院の流れを汲む)創立の礎となった外国人医師ヴィダルはじめ4人の顕彰碑除幕式が新潟県医師会館で行われ、

顕彰碑は県立新潟医学校の跡地である当会館に設置された。 

 

【参考】

○林 欽次…1825(文政7)~1896(明29)幕末明治の教育者。村上英俊(下野生まれ。フランス語研究の先駆的役割を果たした人)にフランス語を学び、開成所教授職並を経て明治3年名古屋藩立洋学校教師。明治5年東京で迎㬢塾を開く。

○鈴木長蔵(ちょうぞう)…1846(弘化3)~1909(明42)明治5年新潟町の第3・第4小区の戸長。

実業家、政治家、衆議院議員、新潟市長等。第四銀行の設立発起人の一人、新潟新聞(新

潟日報の前身)の初代社長。明治6年私立新潟病院(医学町)を設立して取締役となり、

西洋医学の導入・普及などに努めるなど多方面にわたり新潟市の発展に尽力した。

○明治8年12月の富岡製糸場日本人医師

熊谷県衛生局医官…大久保適斎 渡辺節

  生徒…得江清 村上寛策 

→『製糸場見聞雑誌』

○大久保適斎…1840(天保11)~1911(明治44) 明治時代の鍼灸師、当時一流の西洋医学の

外科医。明治10年からは官営新町屑糸紡績所にも関わったとされる。明治12年群馬県

医学校(前橋市)の初代校長・病院長。大久保医院初代院長(明治19年開業)。適塾門

下生。大久保適斎については別稿『富岡製糸場医師―群馬県医学界の祖―大久保適斎』参

照。

○富岡製糸場とお雇い外国人との契約期間は明治5年1月~明治8年12月末まで。明治

8年12月をもって富岡製糸場のお雇い外国人は一人もいなくなる(ブリュナと医師ヴ

ィダルが最後)。

 

まとめにかえて

富岡製糸場のお雇いフランス人医師3人は、日本において明治時代初期、富岡製糸場以外にも多くの病院や企業、学校等に雇用されて活躍し、日本の医学や教育の発展に尽くし、大きく貢献した。

生命をかけて日本人の治療に当たり、命を落として母国に帰れなかった人もおり、日本の地を愛して自らを捧げる3人の姿が髣髴される。

 

 

 

    

 

 

 

 

 

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富岡市立高田小学校キャラバン報告

2020年12月01日 16時16分28秒 | 世界遺産伝道師協会

富岡市立高田小学校キャラバン報告

11月17日(火)標記高田小学校に於いて13:45より15:30まで3年生を対象に、M下禮子伝道師、T越朗伝道師、Y村和子伝道師、O塚初子伝道師、I井規雄伝道師が参加して講話と座繰り体験による学校キャラバンを実施しました。

高田小学校は名峰妙義山に源を発する高田川のほとりにあり、周辺の山々は錦秋に染まり美しい景観を示していました。

本日は1階と2階(自室)の2つの教室が利用できるということで2階を講話、1階を座繰り体験の場としました。担任の先生は給食指導中ということで、まず準備を始め(今井伝道師は到着後校長室へ伺いあいさつ済み)、給食指導が終わってから校長室で本日の打ち合わせをすることにしました。

時間となり、校長室へ向かう頃はほとんど準備完了という段階で、電源等切って全員で校長室へお邪魔しました。予めこちらで用意した日程表の通りでよいということで、学校に準備していただく物品等の確認を致しました。担任の先生から本日の座繰りは児童が飼育した蚕が育てた繭を使用してほしいこと、児童は富岡製糸場を見学に行っていることなどが話されました。校長先生からは「子供たちは座繰り体験出来る今日の日を楽しみに待っていました」というお話をお聞きしました。

講話も座繰りもキャラバン開始前には時間的余裕をもって準備が整い2階の3年生の教室で「よろしくお願いします」のあいさつを交わし合いました。3年生という中学年ですが、きちんと落ち着いて行動でき感心してしまいました。

続いて早速1コマ目の講話に入り、『お蚕さんから絹織物まで―群馬に見る世界遺産が果たした役割』と題して、T越伝道師が担当しました。自作のパワーポイントを使用し、まず「絹笠明神」の初絵、「蚕」の文字の成り立ち(「蚕」は6年生で習う漢字でみんなよく読めるねと感心しながら講話を進める)、「おかいこ」「おかいこさん」と尊称されるわけ等を話し、本日の講話への関心を呼び起こしました。

そして「今日お話ししたいこと」と、3つ銘打ってそれぞれについて図式化されたわかりやすい画像を示し、カットなどを取り入れるなど楽しく講話を進めてくれました。また、併せて自分の足で収集した諸資料を必要な場面で提示するなど、綿密な準備のもとよく工夫された内容構成でした。

「今日お話ししたいこと①」では蚕の生態や蚕の品種改良など、「今日お話ししたいこと②」では世界遺産とは何か、群馬県には「富岡製糸場と絹産業遺産群」という世界遺産があり、「富岡製糸場+3つの構成資産」で成り立っていることやそれぞれについてのポイントとなる解説をし、最後に富岡製糸場と3つの資産が協力し合って「良い繭を作り、良い生糸を沢山得る技術を作りだした」結果「お金持ちや身分の高いしか買えなかった絹が一般の人でも手にすることが出来、世界がファッションを楽しめるようになった」とまとめてくれました。「今日お話ししたいこと③」では「蚕糸絹業」について「養蚕」⇒「製糸」⇒「織物」という流れで今まで話したことと関連させながら話してくれました。「養蚕」の段階では実際の蚕種紙を提示したり、群馬県で開発した猛暑に強い蚕「なつこ」のことにも言及してくれしたりしました。

「織物」については実際の反物(丹後ちりめん)を示し、絹織物の美しさを実感させ、子供たちから「わあきれい!」と感動の声が一斉に起きました。

そして最後は「4つの資産を大切に守っていこう」とまとめてくれました。

2コマ目は座繰り体験でトイレ休憩をはさんで1階の教室に移動し、全員そろったところでまず今井伝道師が座繰りについて導入的な話をしました。内容はこのように歯車を回転させて小枠を回し、糸をとる上州座繰り器は私たちの群馬県で発明されて全国に伝わったこと、昔は現金収入を得るためにほとんどの農家でこの座繰り製糸が行われていたこと、糸を取る人は主に女性で、10歳くらいの女の子が携わるようなこともあったこと、近代は自動繰糸機でオートメーション化されたけれど、明治27年頃までは生糸の輸出は座繰り製糸の方が多かったこと、本日は実際に座繰り製糸をやってみて、当時のことをいろいろ想像して体験してほしいというようなことでした。

続いて除村伝道師が昔家庭で体験したり、親が実際座繰り製糸に携わっているところを目にしたり、聞いたりしたことを児童に語るように話してくれました。例えば繰糸鍋は鉄鍋を使い、朝から晩まで女の人がやっていたこと、繭を煮るときは繭を沈ませ煮繭がしっかりできるように「落し蓋」が使われ(落し蓋提示)、繭が煮えてくると糸が落し蓋の底に付いてきて繰糸の時期を知らせてくれたことなど。

続いて座繰り体験に必要な右手、左手の操作の仕方を児童にわかりやすいように後ろ向きになって手本を示してくれました。そして座繰り器の操作を実演し、糸の掛け方や両手の操作の仕方について説明しました。児童は真剣に操作の手さばきを見つめていました。

「それでは皆さんにやってもらいましょう」と早速児童に左手でのハンドル操作、右手でのミゴボウキの操作の仕方を全員の児童に体験してもらいました。Y村伝道師とM下伝道師、O塚伝道師が一体となって、ときには手を添えながら指導に当たってくれました。

本日は自分たちで育てた蚕が作った繭を使い、「玉繭」や「ビショ繭」(通称「ビションマイ」などとも言われ中で蚕や蛹が死んで糸が汚れている)がいくつか見られたので幸いのことに、その説明に役立ちました。そしてこれらの繭は上繭として出荷できず、真綿にしたり、家で糸を引いて自家用の絹糸を織るのに用いられたりしたことなどを話してあげました。

さて、児童も12名と少なかったので両手を使い一人で座繰り繰糸をしてもらいました。子供たちは伝道師が教えた通りに操作し、仕草まで似てきたような感じでした。会場には

担任の先生や関係する職員、また、校長先生や教頭先生もご多忙の中児童に激励や声援を送っていただき、さらに世界遺産センターの和田さんが引率して訪れたインターシップの3人の高校生も体験に加わるなど会場は児童と座繰り器を介して温かい熱気に包まれたようでした。子供たちも楽しく座繰りに挑戦し、2回目になると「目は鍋の方に」という伝道師の指示をしっかり守り糸をとる姿も大分身に付いてきました。

 

後半は糸が切れたりすることがありましたが、宮下伝道師が手際よく座繰り器に取り付けてくれ、子供たちも糸の鼓車への掛け方、糸枠へのつなぎ方等じっと見ていました。

最後は全員が座繰り器の側に集まり、糸枠に巻かれた生糸を担任の先生に切ってもらい

ましたが、子供たちからは「触らせてください」「触ってみたい」という声があちこちから聞こえ、自分たちで取った生糸に感激したようでした。

若干時間が延長しましたが午後の最後の2コマということもあり、担任の先生からは「貴重な体験なので結構です」と快い承諾もいただきました。沢山の応援・激励の中で子供たちは一心になって挑戦してくれました。子供たちが少しでも良い体験をしてくれれば…というのが私たち伝道師の願いでした。

キャラバンが終了し、座繰り器材を運び出すときも沢山の職員の方が手伝ってくださり、短時間で車に積み込むことが出来ました。そして「一期一会」の今日の出会いを胸に家路に就きました。

一日お世話になった校長先生、教頭先生、担任の先生並びに職員の皆様には厚く御礼申し上げます。

また、本日参加してくれた伝道師の皆さんには、熱心に、また子供たちに温かい眼差しで指導に当たってくれ本当にありがとうございました。

                              (I井 規雄 記)

 

 

 

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