富岡製糸場世界遺産伝道師協会 世界遺産情報

「富岡製糸場と絹産業遺産群」は日本で初めての近代産業遺産として2014年6月25日付でユネスコ世界遺産に登録されました。

「『シルクカントリー群馬』の地域再生を考える」を聞いてのメモです

2006年03月31日 00時21分09秒 | 世界遺産伝道師協会
3月21日に行われた『「シルクカントリー群馬」の地域再生を考える』の講演会について、3月22日の上毛新聞には『人間の物語考えて』―シルクカントリー群馬推進委講演会
―絹生かす地域再生提言―と言う見出しで、森まゆみさんが、富岡製糸場の世界遺産登録運動について「建造物だけでなく、関連する人間の物語も深く考えてほしい」と提言したこと。富岡市街地の土地区画整理が再検討されていることを評価したあと「路地のある町は庶民的でかわいらしい。大事にしてほしいと語ったこと。そして、NHKの佐滝剛弘氏が「駐車場を市街地の外に設け、昭和の面影が残る町を歩いてもらうのも意味がある」と提案したこと。その後、上毛新聞の藤井浩氏が“21世紀のシルクカントリー群馬”キャンペーンについて、「絹にまつわる本県の歴史と伝統、風土に光を当て、確かな手応えのあるものとして再発見したい」とその意義を語ったことが記事になっていました。

森まゆみさんのお話から
★ 富岡製糸場を建物としての価値だけでなく、そこにある人間の物語を深く考えることがある。尾高藍香をもっと重視してもらいたい。ポール・ブリューナが設置場所の調査に来た時、外国人を泊まらせるところが無かった。尾高が地元民を説得して泊まらせた。レンガの制作では韮塚直次郎を呼び瓦を焼き、福島でレンガを作らせ、セメントの代わりに漆喰を使っている。ワインを飲むことで“生血を吸われる”という風評に、娘を工女にする。小川町から30人、山口県から井上馨の姪や長井雅樂の娘など200人を集めたことなど、こういう物語を広めていくことが大切です。「女工哀史」といわれる認識を変えさせる必要があります。
★ 碓氷社本館、安中・松井田・横川には、中山道の街道と養蚕製糸の結びついた遺構があり感動した。入り鉄砲と出女を見張ったであろう碓氷の関所跡。鉄道遺構のめがね橋、日本レンガのレンガが使われていたが、これも近代化遺産。トンネル遺構は心をひかれるふしぎな空間だ。富岡製糸は片倉工業がよく建物をとっておいてくれた。建物はあるが、製糸はどうやっているのか知りたくて、碓氷製糸を訪ねた。製糸工程も興味深かった。新町紡績所もカネボウフーズが保存してくれた。ウィーンの万博に行って屑糸紡績を見てきて出来たものだ。
養蚕は動物・植物の合わさった農業技術。農・工・商がバランス良く配置された産業だと思う。
★ 一度作った都市計画を行政がストップして再計画をするなどということは画期的なこと。B級、C級の文化財で暮らしぶりを大切に残したい。吉野藤見て思うことは活性化した産業(養蚕・製糸・織物)の中から知性の高い人が育っていると言う、その背景が理解できたと言うことです。
★ 鉄鋼業などと比べて、製糸業のシステムは意外に分かり易いもので、理解できた。

藤井 浩氏の「『21世紀のシルクカントリー群馬』キャンペーンの目指すもの」から
★ 祖母は国の蚕糸試験場に勤めていた。父は糸繭商であった。そんな環境の中で育ち「上州は桑原十里桑の実を喰べて唇を朱に染めばや」(読み人知らず)=前橋中学校校友会誌「坂東太郎」より=これを詩人萩原恭二郎が口ずさみ、』伊藤信吉に受け継がれていた。上州を良くあらわす表現と思う。全国で養蚕の盛んなところ、製糸の盛んなところなどそれぞれあるだろうが、養蚕・製糸・織物が一体化している地域はほかにない。
★ 経済的な繁栄の他に精神文化・生活文化に影響を与えている。新島襄、柏木義円、住谷天来などを排出している。目に見えないものにシルクカントリーの影響がある。このシルクカントリーの話をしていると元気になってくる。上毛かるたにもシルクカントリー関係の札も多い。これも今やっているキャンペーンの後押しになっている。しかし、時代の流れで、それらの状況は変わってきている。上毛カルタにあるようなものがなくなっていいのか?なくなって欲しくない。
★ 今回のキャンペーンが何故出てきたのか。2003年に世界遺産登録運を始めたのが、直接のきっかけではあるが、94~(5年間)近代化遺産の保存・活用キャンペーン。91~92近代化遺産総合調査。村松貞次郎先生たちと建築探偵団など「見つめよう地域のアイデンティティー」だった。その延長線上に今回のキャンペーンがあります。
★ 元文化庁長官の川村恒明氏が群馬会館で講演し、イギリスにはブラックカントリー
があり、日本にはシルクカントリーがある。イギリスには鉄鉱・石炭・製鉄があり産業革命があった。それと対比して、日本はシルクカントリーといわれた。そのことばを、今、使わせてもらっている。「絹の物語 未来へ SILK COUNTORY 21世紀のシルクカントリー群馬」は未来に向かってのキャンペーン。
★ 何故残すのか?大金を使って残す必要があるのか?残すことの意味は「懐かしい」は人間だけの感情。歴史を知るだけでも大切なこと。“古い建物は友達”“シルクは古い友達”ともいえる。藤森輝信先生は建物がどうしてあるのか、建築がむやみに壊してはいけない本当の理由は「壊された時にいやな気持ちになる。」から、といっている。現在と過去を継続して考えたいとき、建物や町並みがその役割を果たしてくれる。文化財を残すとは、学問的に大切と言うよりは人間の生理的欲求ではないのか。川村恒明氏は「市民のための文化財を基本とする発想をすべき」と言っている。心の豊かさを求め、歴史を考えるのにどれだけ文化財が役立つことか。
★ 閉塞感を感じる時代に、シルクカントリーを考えること、精神運動として、心を豊かにするものを追い求めるもの、それがシルクカントリーのキャンペーンです。

佐滝剛弘氏の「シルクカントリー遺産の価値と魅力―世界遺産の視点から見た地域再生への課題」の話から
★ 市町村3300のうち98パーセントを見てきた。愛知県をはじめ6つの県で住んだ。50ヶ国を廻り、世界遺産を見てきた。
★ 812件の世界遺産がある。点で登録されているもの(姫路城や原爆ドーム)、線で登録されているもの(京都)、面で登録されているもの(白川郷・五箇山、熊野古道)。最近は「文化的景観」が重視されている。国内では最近重要文化的景観として近江八幡が指定された、県内では水塚・揚げ舟などの景観を持つ板倉町が景観指定を考えている。世界遺産で言えばプラハの歴史地区は6000棟の建物が登録された面の広がりをもつ。
★ 車中心で、街を歩かない、歩いて楽しめる中心街を作り得ていない。小樽・小布施・湯布院などは、街を歩いているのは観光客に限られ、地域の住民は歩いていない。神戸・京都も街歩きと言う面にはなりえていない。点の点在にすぎない。あの巨大な京都駅は世界遺産登録の後に建設されている。
★ フランスの東部ストラスブール(人口10万人)。旧市街全体を歴史地区としている。駐車場を備えた郊外の駅から4本の電車で中心部へ。クルマは中心市街地に入れない。中心部に新しい店が集中を始める。
★ 東日本では路面電車は壊滅状態。前橋も中心街に若い人がいなくなるような施策になっている。学校も郊外に移転している。Park and Walkのルートを作らないとシルクの町に人は戻らない。
★ 広場と路地を大切に。日本には広場の文化はない。人の集まる所は芝居小屋などが広場の機能を果たしてきていたようだ。先日、新町で資料展を地味な場所で地味な展覧会をやっていた。街の中に人の集うところが大切。富岡では製糸場が広場になる可能性がある。単なる文化施設としての活用でない使い方を考えるべきだ。路地も富岡製糸場の出入りで通る道を活用すべきだ。
★ 目に見えないものも世界無形遺産。30カ国が加盟している。大道芸も世界無形遺産になる。エストニアなどではバルト3国の歌が世界無形遺産、歌で民族を一つにしている。
★ 上毛カルタ、群響なども無形文化遺産。養蚕・製糸・織物に関係した建物だけでなく、ダルマ市、神社の碑、カイコの舞、民俗・風俗は放っておくと消えていく。それこそ、残すべきもの。京都は和服で電車に乗ると無料の日がある。
★ 富岡製糸場はナショナルで始まりプライベートになり、富岡市が買い取りパブリックになった。パブリックになって多様性を認め合うこと、市民主体で動くこと、伝道師協会など市民の参加が出てきている。行政と市民に理念が共有されて保存されて行く必要がある。

フリートーク「シルクカントリーの地域再生を考える」

森 まゆみさんの発言から
★ 富岡製糸場が現在あることが知られていないのではないか。教科書に写真を載せる働きかけをすべきではないか。
★ 建造物だけでなく、製糸場の整備公開も必要ではないか。
★ 路地、長屋をこれ以上壊さないで、住民の了解のもとに、再生修理をしていただきたい。
★ ヘリテイジ・ウォークはいいとこめぐり、お宝捜し。長野市では市民や市民団体がマイお宝マップを作って市民に提案している。
★ 箱物の資料館を作る時期は終わっているのではないか。まるごとミュージアム、フィールドミュージアムで展開できないか。宗教まで含めて、すべてが蚕と関連している。群馬は長期滞在できる場所。負の部分も無いわけではないでしょう、それを含めて考えるべき。
★ 高野山もバスで入り込んで、1日で帰ってしまう。高野山の見方としてもったいない。富岡市では10数年前からやってきたことが大切。日本の流れも変わってきている。世界遺産も、タイプの違う遺産が登録されるべき。
★ 石見銀山も対策が無く世界遺産になると生活道路が詰まってしまう。屋久島は入り込み客が多すぎる。ペットボトルが多すぎて、自販機のない島にしようとの動きがある。

藤井 浩氏の発言から
★ 地面から遊離した運動はやがて力を持たなくなってしまう。前橋ではレンガ倉庫が10年まえの7割は壊されている。意識改革にならないと運動が力にならない。

森 まゆみさんの発言から
★ バブルの最中は住民が追い出されないようにするのが精一杯。谷根千では今は、マンションは設計変更して低層で町の中に溶け込むようなものに変更してもらっている。
★ 登録文化財制度が出来て、身近な文化財が残せるようになった。身近な文化財の保存・再生で人々が生き生き生きられるように残すことが大切。

佐滝 剛弘氏の発言から
★ 世界遺産は仕事で廻ったのではない。前橋市内の倉庫も見ている。富岡へ行く時は通常の道路を通り、倉庫・養蚕農家を見ている。上田丸子へ行ってみた。上田蚕種の建物が残っている。昔見たものであるが、群馬に来て再発見している。
★ 県外の人の目線で見てもらうことが大切。地元の目だけでないことが大切。

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富岡製糸場で使用した水の取水について

2006年03月21日 21時40分39秒 | 世界遺産伝道師協会
富岡製糸場の工場で使う水は「高田川から取水した。」と学んできました。しかし、最近「製糸場の水は丹生川から取水した。」という声を耳にしたりするようになった。富岡製糸場の水に問い掛けて見たいと考えました。そこで、富岡製糸場から外へたどっていくと水はどの川に行き着くのか追いかけてみました。

『富岡製糸場誌』に当たってみました。資料1の『客中雑記』(杉浦 譲)の明治三年壬十月二十一日の記事の中に「水利之義不便ニ者候へ共七日市より引来候用水の三分一相用候へハ夫ニ而事足リ可申万一右用水相用候事故障等も候ハヽ掘井戸ニ而も間ニ合可申尤此地ハ井泉清冽ニ而鉄気亜気も之無」と記されています。(P117)

先ず、富岡製糸場の水は、七日市からの用水で間に合わせよう、足らなければ井戸を掘れば良い、水質はいいのだから、と事前調査の中で考えていたことになる。

資料4の『富岡製糸場記』の中に「引水溝 広サ二尺長サ八十六丈二尺水七日市村東口ヨリ分流シ二折シテ来リ湛ユ」「井 一所」「井水平生四丈ニ至ル故ニ涸渇ノ憂ヒナシ」(P142)とあって、七日市を流れる7用水から日市の東で引水し、井戸も掘り、見込みどおりに水を確保している。

そうだとすれば、七日市からの用水がどこから引かれているのかということになる。
そこで、富岡市の地図を出してみると高田川と丹生川は貫前神社の北、北甘楽変電所の裏手、犬飼橋の上流で合流している七日市の用水はこの合流点より上流で取水されたのか下流で取水されたのかで、取水した川が変わってきます。

『富岡市史』(近代・現代通史編・宗教編)の第2章産業経済、第1節農業、(二)かんがい用水路で「かんがい用の水路は、高田川とその支流丹生川が利用され、用水路がつくられた。同じく明治11年の上野国郡村誌によると、
丹生川水系 鳴沢堀、上堀、下堀、浅岡堀。
高田川水系 八木堀、西八木堀、別保堀、瀬下堀、君川堀、湯塚堀。
などが記録されている。(近代・現代資料編《上》489)
 この中で浅岡堀と記されている阿曽岡堰(浅岡堰)は、旧七日市藩時代に農業用水および防火用水としてつくられたもので、一ノ宮地内で丹生川の水を引き七日市地内にかんがいする一方、七日市の大通りを流れ、富岡との境で分岐して、一部は城町を通って鏑川に至り、本流は富岡市街地を貫流して曽木村に出ている。
 慣例により従来七日市で管理し、用水を利用する富岡製糸所をはじめ、七日市生糸揚返所、富岡、曽木など関係地域が補助するというかたちをとっていたが、明治35年になって、これを富岡町の所有とし、関係者から使用料を徴収することになった。(近代・現代資料編《上》488)」とあります。

少し長い引用になりましたが、富岡製糸場の水という視点で見れば、【丹生川から一ノ宮地内で水を引き浅岡堰(堀)が用水として七日市を通って富岡製糸場で使われていた。ということであり、明治35年からは用水を富岡町が管理し、使用料を徴収していた。】ということです。

ここで「富岡市史」通史編では引用されていない資料編の(487)の資料で阿曽岡堰(浅岡堰)を見ておきましょう。
 「487 明治十一年 阿曽岡堰(浅岡堰)」
阿曽岡堰(浅岡堰)
 丹生川 深七寸広六間、西北下丹生村ヨリ北辺ヲ経テ曲折東流スルコト廿八町廿間ニシテ、東北字山下ニ至リテ高田川ニ入ル、引テ用水ニ供スルモノ浅岡堀アリ(一ノ宮町ノ記述)
 浅岡堀 深一尺五寸広五六尺、西方一ノ宮町ヨリ字上堰根ニ入リ、分流シテ或ハ高田川ニ入リ或ハ富岡町ニ入ル、長キモノ十二町五拾間、短キモノ五、六町(七日市町ノ記述)
 浅岡堀 水深壱尺巾三尺、西方七日市町ヨリ来リ町ノ字上町ニ至リテ分流ス、其南ニ流ルヽモノハ字城ヲ経テ鏑川ニ落ツ、其東流スルモノハ町ノ中央ヲ東流シ北折シテ曽木村ニ出ツ、長廿余町(富岡町ノ記述)
 浅岡堀 深八寸巾三尺、南方富岡町ヨリ来リ村ノ中央ヲ東流シテ鏑川ニ入ル。長六町四拾壱間(曽木村ノ記述)
(「上野国郡村誌」)

この資料の一ノ宮町の記述を読むと「字山下ニ至リテ高田川ニ入ル、引テ用水ニ供スルモノ浅岡堀アリ」と“丹生川が高田川に合流してから浅岡堀が引水されている”と読めなくもないですが、丹生川についての記述ですから“丹生川は字山下から高田川に合流したり、途中で取水されて浅岡堀になったりしています”と読んだ方がいいのかもしれません。そうすれば、先の通史の丹生川から一ノ宮地内で水を引くという表現と一緒になってきます。

また、富岡町の記述によれば一ノ宮から字堰根に入って分留して、一方は高田川に入り、もう一方は富岡町に入るということですから、富岡町に入っていた用水は丹生川から取水していたようにも読めます。

要するに、ここまで来て、浅岡堰(堀)が阿曽岡堰とも言われるが、その取水地点が、今の山下堰になる前に明治初年にどこにあったのか、文献か現地調査でもう少し詰められないと、結論は無理なのかもしてない。

ここまで書いてきて、世界遺産推進室のYさんから「富岡市史・民俗編」(P105)の記述を見せていただいた、そこには「浅岡(阿曾岡)堰は富岡の町の中を通ってくる堰で丹生川から取っている。一番堰は黒川からあげて、北側を通ってくる。浅岡堰の利用は、元の県道より大体南の地域で、県道より北側の一番堰の利用の方が多い。」と書いてありました。

また、「甘楽多野用水誌」(平成16年3月31日発行)(P123~125)で「富岡用水(阿蘇岡堰)の堰堤は地勢の状態が低位にあるので、年々洪水の被害を被るのみならず、水路の勾配が極めて緩慢であり到底初期の流水を取水しがたいと見られました。そこで新たに堰堤を設けて取水路を新設改修する必要があり、この設計を追加し、併せて一部重複の場所を削除」して改修計画を決定し「(昭和)10年9月の洪水で壊れた同堰は、阿蘇岡堰復旧事業(平面図次頁<略>)として14年11月11日認可されました。11月24日に着工し、15年3月31日に終了しました。これがその後上流に移し変えられた山下堰の基になりました。」と書かれていて、平面図にある阿蘇岡堰は高田川との合流地点より上、の丹生川の部分にかかれています。

しかし、上記資料で「堰堤は地勢の状態が低位にあるので・・・新たに堰堤を設けて取水路を新設改修する必要があり」と書いているので、「低位に」あった阿蘇岡堰はこの図面と同じ阿蘇岡堰でなさそうなのですが、でも、大方の資料は阿蘇岡(阿曽岡・浅岡)堰<富岡用水>が丹生川水系としているように思えます。最後の詰めがもう一歩でしょうか。

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大宮駅で「富岡製糸場を世界遺産へ」のキャンペーンを実施

2006年03月20日 00時02分08秒 | 世界遺産伝道師協会
今朝(3月19日)、上毛新聞の一面で下段の片隅に「大宮駅西口で富岡製糸PR-きょう世界遺産運動―」との見出しがあり、大宮駅西口で「製糸場が設立された当時の錦絵や、現在のたたずまいを撮影した写真、製糸場の設立経緯を示した資料などをパネル展示し、駅利用者に魅力を訴える。」キャンペーンが展開されることが予告されていました。

朝、7時15分高崎駅東口に集まりららん藤岡を経由して、関越道を川越ICまで、そこで高速を降りて大宮駅に着き、さあ、伝道活動の開始。でも、準備が大変、手分けで写真パネルを立てる人、幟旗を用意する人、座繰りの用具の設置、抽選用のテーブル準備、パンフレットの袋詰めと忙しい時間をすごし、ゆーまちゃんが工女ゆ-まちゃんと男の子と2体が出動準備、10時過ぎにはパンフレットの配布がはじまった。

今回のキャンペーンへの参加者は28名、群馬県世界遺産推進室、富岡行政事務所、藤岡行政事務所、富岡市富岡製糸場課、富岡製糸場世界遺産伝道師協会とその協力者。このようなキャンペーンに慣れた人、久しぶりな人、初めてな人と様々でしたが、目的は一つ、チームワークも取れて、良い雰囲気で仕事は進んでいきます。

11時、13時、15時と3回の抽選会、1等のシルクのストールから9等までのシルク製品の景品、そしてはずれでも“繭パフ”のプレゼント。1回につき30名の参加定員世界遺産運動のチラシなどが入った袋を受け取った人のみが抽選に参加できる仕組みで実施。抽選会の司会者はAさん、前回の横浜では午後だけでしたが、今回は1日3回の終日と言うことで負担倍増、でも頑張りました。

ゆーまちゃんは協力者のAさんと協会員のYさん、2人とも慣れたものですが、介添えのSさんが、やわらかい笑顔で集まってくる子供たちとも接してくれて、とても良い雰囲気でうーまちゃんの人気を高めてくれていました。

座繰りは女性のNさん、珍しい実演にたくさんの人が集まってきて、一緒にやっていてTさんも熱が入りました。副会長のNさんは世話役でしたが、座繰りの説明になると、その熱心さは右に出るものがいないほどの張り切りようでした。

パネル展示解説も聞いてくれる人が熱心ですと、解説するほうも熱っぽくなり、雰囲気を盛り上げてくれました。のどが渇き、腰に響いたり、疲れも出ましたが。参加者全員、満足な気分で帰路に着き、富岡行政事務所長さんからのワールド・ベースボール・クラシックで、日本が勝利をした報告があると、一同、喜びの声を上げて帰ってきました。高崎帰着は19時20分、長時間のキャンペーン活動でした。
参加者の皆様、お疲れ様でした。本当にご苦労様でした。また、県外活動に取り組みましょう。有難うございました。

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富岡ユネスコ協会・こども伝道師団・演劇公演・明るく発表会

2006年03月18日 23時31分51秒 | 世界遺産伝道師協会
3月18日午後、富岡市生涯学習センターで富岡ユネスコ協会こども伝道師団の演劇仮公演が行われました。題名は「とみおかものがたり」ユネスコ協会の子供たちが昨年秋から毎月1回稽古を続け、せりふもよく覚えて、1時間に及ぶ演劇をコメディタッチで見事に演じました。

脚本・監督・音響は富岡製糸場世界遺産伝道師協会副会長・演劇WG世話人のNさん。
話は明治3年の伊藤・大隈・渋沢の3人の会話から始まる。政府が富岡製糸場を作ろうと決意するまでの話です。
第2幕は製糸場建設の下調べに来て製糸場の立地条件に見合った土地であるかの検討がなされ、富岡に建設が決まり、資材の調達に至るまでのいきさつを象徴的に、また、コミカルに描いていく。

第3幕は尾高惇忠が妙義山の天狗に話かけて、氏子たちの心を捉え、資材調達をうまく進めていく話と、更に工女の募集で中々工女が集まらないので、娘“ゆう”を工女第1号とし、工女の募集を進めていく所などを“生血”の話を含めて描いていく。

第4幕は製糸場建設現場で、レンガなどの資材の調達。大黒柱のない建物でトラスを使う技法などを説き、武蔵の国から大勢の工女がやってきた話などで、富岡製糸場が整っていく様子が演じられている。

第5幕は明治5年10月の操業開始式典フランスの技術で300釜の大工場が動き出す様子を祝辞などで表現している。

長い演劇なので、同一人物を2人で演じたり、明治と現代を混ぜ合わせたり、子供たちが楽しめるようにして、見ている人も飽きないで、子供の熱心さに引き込まれて感心してみて来ました。今井市長さんも顔を出されていました。

次回5月には更に良い演技で見る人に明るい気持ちで時をすごさせていただけると思って期待しています。監督さんも、子供さんと頑張ってください。

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「JR東日本 小さな旅」パンフレット完成・JRと上信電鉄で“産業革命発祥の地”へ

2006年03月18日 09時53分21秒 | 世界遺産伝道師協会
鉄道を利用して富岡製糸場を見学しよう!というキャンペーンです。このパンフレットは《群馬県・富岡市・富岡製糸場世界遺産伝道師協会・富岡製糸場を愛する会・JR東日本高崎支社・上信電鉄株式会社》で作成しました。

表紙は「JR東日本 小さな旅」と題して“近代日本の礎を今に伝える 富岡製糸場を世界遺産に!!”“JR&上信電鉄で 産業革命発祥の地へ”と富岡製糸場の錦絵の上に刷り込んでいます。紫の鶴舞う形の群馬県地図の中に富岡の位置がしっかりと書かれています。―首都圏からのアクセス抜群!!-と、首都圏の人達に呼びかけています。

扉を開けると「近代日本の礎を今に伝える明治ロマン旅へ、是非お越しください。」として鉄道地図が書かれACCESS GUIDEが分かり易く示されています。右ページには“富岡製糸場を世界遺産に!!PRESENTS”がありアンケートに答えてくれた人の中から[シルク製品を20名さまにプレゼント!!]。そして、アンケートに答えていただいた方(先着1000名様)に<繭クラフトキッド>を差し上げるようになっています。

中のページは“とみおかまちなか 明治ロマンの散歩道”として街中マップ。「富岡製糸場の世界遺産登録を目指して、群馬県、富岡市では富岡製糸場を中心とした養蚕、製糸、織物に関わる近代化遺産の世界遺産登録を目指す運動を展開しています。そして、Q&Aを4問(1)教科書で見た富岡製糸場ってまだあるの?(2)世界遺産って有名な観光地だけでしょ?(3)富岡製糸場って何がすごいの?(4)どうすれば、富岡製糸場が世界遺産になるの?

★ JR高崎駅から上信電鉄でのんびり電車の旅“富岡製糸場を巡る日帰りの旅 産業革命発祥の地散策 モデルコース紹介”首都圏からあっという間。新幹線か湘南新宿ラインを利用した日帰りで楽しめる明治ロマンの旅を思う存分お楽しみください。

このような内容のものです。首都圏で配布されて、上州富岡駅に降り立つ人が増えてくれるといいですね。駅に置くだけでなく、これからの、駅での伝道活動でもうまく活用できるといいですね。

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子供用副読本「世界へはばたけ『富岡製糸場』~まゆみとココのふしぎな旅~」最終校正へ

2006年03月17日 10時16分26秒 | 世界遺産伝道師協会
富岡製糸場世界遺産伝道師協会が編集した「世界へはばたけ『富岡製糸場』~まゆみとココのふしぎな旅~」が発刊されます。出版社は上毛新聞社。

目次は
プロローグ「空から製糸場」
その1[探検・発見!びっくり製糸場]
その2[ナゾをさぐる“時の旅”]
その3[シルクカントリーぐんま]
その4[世界遺産と富岡製糸場]
エピローグ[夢はどこまでも]
富岡製糸場のあゆみ
となっております。

オールカラー版 A5判 144ページ です。

子供が読みやすく、次のページが読みたくなるように構成されています。これを読んでいただければ、富岡製糸場、富岡製糸場と世界遺産、養蚕製糸に関して、理解していただける内容になっています。大人にも楽しく読んでいただけますので、発刊を楽しみにしてください。

定価は800円を予定しています。3月31日に発行される予定です。


昨年前半から“富岡製糸場世界遺産伝道ハンドブック”を作成すべく準備を続け、およその構成が出来た所で出版社と話をしてきました。企画を持ち込んだところ、出版のほうは「先ずは、子供向けの本から作りたい。」という意向を示し、伝道師協会のほうも検討した結果、先ずは分かりやすい入門書から作ろうということで、出版の方と話を擦りあわせ秋から子供向けの本の編集に向かって進んできました。

前半の取り組みは、夜、玉村のコーヒー屋さんに度々集り、構想を固めながら、最後はTさん、Kさんで筋立てを作り、出版社と数回の打ち合わせが始まり、出版社での会議、世界遺産推進室の協力を得て、写真資料等も揃え、書物の形が整っていきました。長い道のりで、仕事の最終段階では、編集担当者は夜遅くまで県庁で何回も校正と構成の検討を進めてきました。最終段階では世界遺産推進室の人達も巻き込んで内容的におかしい所はないか、読み合わせを重ね、内容検討と校正を行いながら仕上げてきました。今井幹夫先生にも読んでいただきました。

読みやすい、いいものが出来たと思っています「富岡製糸場世界遺産伝道師協会」として出版する第1号の書物になります。お読みいただいて、読者の拡大にご協力ください。

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シルクカントリー群馬講演会のお知らせ:「シルクカントリー群馬」の地域再生を考える

2006年03月14日 00時04分38秒 | 世界遺産伝道師協会
講演会:養蚕・製糸・織物などの歴史遺産を生かした
「シルクカントリー群馬」の地域再生を考える

2006年3月21日(火)13時開会 【参加費無料】
会場;群馬県庁2階ビジターセンター【前橋市大手町1-1-1】

タイムスケジュール【予定】
13;00 主催者あいさつ

13;10「絹の国」への提言―都市再生モデル調査報告
      森 まゆみ(作家)
《東京生まれ。作家。東京国際大教授。出版社勤務の後、フリーとなる。地域雑誌「谷中・根津・千駄木」を創刊し、編集人として活躍。各地の町づくりや歴史建築の保存運動にかかわるほか、「谷中スケッチブック」「不思議の町根津」「小さな雑誌でまちづくり」など多数の著書がある。昨年9月からフィールドミュージアム「21世紀のシルクカントリー群馬」推進委員会委員を務める。》

14:00「21世紀のシルクカントリー群馬」キャンペ医学ーンの目指すもの
      藤井 浩(上毛新聞社文化生活部長)
《群馬県前橋市生まれ。大学卒業後、上毛新聞社入社。社会部、地方部、企画報道部などを経て、2004年から編集局文化性生活部長。記者として群馬県人口200万人記念映画「眠る男」の製作、同社の近代化遺産保存キャンペーンの取材を担当。季刊文化誌「上州風」副編集長として創刊にかかわる。著書に「『眠る男』の記録」など、編著に「群馬文学全集第20巻・思想・評論、随筆はか」。》

14:20 シルクカントリー遺産の価値と魅力
               ―世界遺産の視点から見た地域再生への課題
      佐滝 剛弘(NHK前橋放送局チーフプロデューサー)
《愛知県生まれ、1983年NHK入局。報道局、編集局、編成局などを経て、昨年6月から前橋放送局チーフプロデューサー。これまで「NHKスペシャル」「クローズアップ現代」「小さな旅」などを担当。「地上デジタル開局記念版番組 世界遺産からのメッセージ」や「シリーズ 世界遺産100」などの企画・制作にかかわる。世界遺産関連の論説として「知られざる世界遺産を訪ねて」(中央公論2月号)などがある。

15:10 休憩
15:10フリートーク
「シルクカントリー群馬」の地域再生を考える

森 まゆみ(作家)
佐滝剛弘(NHK前橋放送局チーフプロデューサー)
藤井 浩(上毛新聞社文化生活部長)

16;00 閉会

主催:フィールドミュージアム「21世紀のシルクカントリー群馬」推進委員会
後援:群馬県、NHK前橋放送局、上毛新聞社

フィールドミュージアム「21世紀のシルクカントリー群馬」推進委員会
《養蚕・製糸・織物で栄えた本件の歴史や文化に再び光をあて、「シルク(絹)」をキーワードとした新たな地域づくりへの運動を盛り上げることを目指し、昨年9月に発足した。委員長を務める東大教授の藤森照信氏(建築史)ら県内外の有識者8人によって構成。昨年11月には富岡製糸場・東繭倉庫を会場にシンポジウムを開催し、パネルディスカッションや記念講演を通じ、今後の地域づくりに向けた多方面からのアドバイスを行っている。》

【問合せ先】
フィールドミュージアム「21世紀のシルクカントリー群馬」推進委員会事務局
(上毛新聞社役員室内)TEL027-254-9981

以上:開催案内のチラシより引用

伝道師協会の皆様はじめ、多数ご参加ください。

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石原征明先生の著書より、<日本初の生糸直輸出・水沼製糸所>を考える

2006年03月11日 22時10分33秒 | 世界遺産伝道師協会
あさを社刊の「産業遺跡を訪ねる」という本があります。その上巻の中に『日本初の生糸直輸出・水沼製糸所』という一文を石原征明先生が書いておられます。その文から少し学習したいと思います。

<星野長太郎>
家系は安倍宗任の末裔という。長太郎は弘化2年(1845)、星野弥平の子として勢多郡水沼村に出生。明治維新のとき、会津藩へ加担したとの嫌疑で逮捕され、引き回しの上、打ち首になる所、寸前で嫌疑が解け放免という履歴を持つ。弟に領一郎がいる。

<長太郎の立志>
明治5年(1872)当時、生糸が海外に輸出されたが、好況にかまけて不良品の輸出が相次ぎ、海外の評判を落としていた。水沼の地は桑畑に適し養蚕も盛んで良い水がある。養蚕・製糸の改良を行い、殖産興業に尽くそうと決心した。

<修業>
前橋郊外に前橋藩営製糸所として明治3年(1870)にスイス人ミューラーの指導で水車動力によるイタリア式の器械製糸所が誕生し明治5年には観民稲荷の近くで操業していた。この前橋製糸所の経営に力を尽くしていた速水堅曹に頼んで明治5年9月から洋式器械の製糸法を学んだ。明治6年(1873)2月には妻と工女3人が伝習を受けた。

<水沼製糸所の開設>
長太郎は県の勧業資金3000円を借り受け、明治6年11月から建築に着手し、翌7年2月21日から操業を開始した。工場は中央に2階に工女部屋を持つ糸取扱所があり、左右に16台ずつの繰糸機を備えた繰糸場があった。当初は直繰式で上げ返しをしなかった。動力は水車で、繰糸機を8台追加して蒸気機関を据えるのは明治11年(1878)である。

<アメリカへ初の直輸出>
2月27日のブログの記事に書いたように、この水沼製糸所で出来た生糸を明治9年(1876)、長太郎の弟、新井領一郎がアメリカへの生糸直輸出を実現する。

<工場での組織・生活など>
工場が東西二つに分かれているので、工女の動きも2つに分けている。一組は16人の工女と小工女(見習い工女)19人、に差配方(世話人)1人、師婦(技術指導者)1人の19人で組織されている。
工女は1等から12等まであり、月給、1等工女は月給4円50銭、12等は37銭5厘。
一ヶ月の皆勤手当は20銭から25銭、3年の年季明け帰郷旅費は製糸所負担。工女の食事、夜具、蚊帳は支給されたが衣類・小間物は個人持でした。

【註】日本で最初の民間器械製糸と言いたいのですが、残念ながら富岡製糸場を見本にして器械製糸が水沼製糸所より早い明治6年に関製糸場(長野県)、室山製糸場(三重県)、熊本製糸会社(熊本県)があることが、同じこの書物の今井幹夫先生の「官営富岡製糸場」の資料に出てきています。


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座繰りから器械製糸へ(石原先生の書かれた「群馬の大正時代」などから)

2006年03月08日 23時44分38秒 | 世界遺産伝道師協会
2月13日の【組合製糸】の記事で、明治34年頃には組合製糸の南三社が横浜への出荷個数が抜きん出た成果をあげていたが、明治38,9年には器械製糸の片倉組に追い抜かれていくということを書きました。

あかぎ出版発行の図説群馬の歴史(群馬県の歴史シリーズ15)“群馬の大正時代”<デモクラシーと文化の高揚>の中で、3月27日に富岡製糸場世界遺産伝道師協会第5回研修会で「シルクカントリー群馬」の演題で講演をいただく石原征明先生が「座繰から器械製糸へ」という項目を書いておられます。

「明治末年から交水社系列の各工場で急速に伸びてきた器械製糸は、大正2(1913)年生産額で完全に座繰製糸を圧倒した。」と書いています。器械製糸と座繰製糸の比率は62.8パーセント対37.2パーセントとなっています。

「大正2年、東野殿(安中市)の青年会は足踏み座繰製糸と器械製糸とではどちらが生産性が高いかを実験した。」その結果、器械製糸は不良糸の「のし糸」が少なく、生産量も多い、といった結果を出している。この頃から碓氷社・甘楽社・下仁田社の南三社も器械製糸工場の設立を奨励して、大正15(1926)年には器械製糸と座繰製糸の比率は97.8パーセント対2.2パーセントにまでなっていきます。「こうした変化は、産業革命が急速に進展し、設備投資と生産性の向上がはからえたことによるもの」とし「大正時代、群馬では製糸業の近代化が図られていったのである。」と書かれています。

○【註】交水社:前橋の代表的製糸会社。明治10(1877)年8月、前橋藩士族、高須泉平が社長になって設立。同年、深沢雄象などが結成した精糸原社には2番組として参加。翌年精糸原社の改組に伴い脱退し独立。最初は揚げ返しを共同で行う改良座繰製糸であったが、明治21(1888)年、一部に60人取りの器械製糸を導入。大正末期には所属の丸交組・百軒町工場・共同組・丸二・丸六組・二重丸組の釜数3560となる。

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石原征明先生の演題「シルクカントリー群馬」と決定

2006年03月07日 23時51分41秒 | 世界遺産伝道師協会
今日はいくつかのお知らせです。

先ず、第1点、3月27日(月)の富岡製糸場世界遺産伝道師協会第5回研修会(会場:群馬県庁29階291会議室)での講演会で講演をいただく石原先生の演題は「シルクカントリー群馬」と決定いたしました。群馬県の近代史を専門となされる先生の視野の広いお話がうかがえると思います。楽しみにして参加しましょう。

この日の研修会は(1)ワーキンググループ活動報告会(15:00~16:30)(2)石原先生の講演(17:00~18;30)を予定しています。石原先生は前橋国際大学名誉教授であられます。

お知らせ第2点、3月21日の春分の日、「シルクカントリー群馬の地域再生」講演会(仮題)が群馬県庁2階のビジターセンターで開かれます。

時間は13;30~16:30です。主催は「フィールドミュージアム『21世紀のシルクカントリー』推進委員会(上毛新聞社内)

講演(1)「調査報告『シルクカントリー群馬の地域再生』への提言」(80分)作家:森 まゆみ氏
講演(2)「『21世紀のシルクカントリー群馬』キャンペーンの目指すもの」(20分)上毛新聞社生活文化部長:藤井 浩氏
講演(3)「『知られざる世界遺産』を訪ねて(仮)」(40分)NHK前橋放送局チーフプロデューサー:佐滝 剛弘氏

お知らせ第3点、「日本絹の里」(群馬県高崎市金古町)で「日本絹の里工芸展」が3月17日~4月17日に開催されます。
その期間に富岡製糸場世界遺産伝道師協会近代化遺産ワーキンググループの世話人Iさんが近代化遺産の写真を展示しています。「煙突のある風景」がタイトルで<富岡製糸場と桜><伊勢崎の織物関連工場の遺構>の2点の写真です。絹の里へ行った折にはぜひご鑑賞ください。
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