富岡製糸場世界遺産伝道師協会 世界遺産情報

「富岡製糸場と絹産業遺産群」は日本で初めての近代産業遺産として2014年6月25日付でユネスコ世界遺産に登録されました。

「石見銀山とその文化的景観」が世界遺産登録!

2007年06月29日 11時10分39秒 | 世界遺産伝道師協会
やっと梅雨らしくなってきました。ニュージーランドからは「石見銀山とその文化的景観」が世界遺産意登録されるという大きなニュースが入ってきました。心配していましたので、安堵感が大きいです。5月以降の地元及び文化庁・外務省のご努力は大変なものだったと推測されます。

2005年の11月に伝道師協会で現地をお尋ねして、遺産価値の捉え方で、世界的視野がなければ世界遺産は難しいということをしっかり学ばせていただいたのが、私たちの運動の中で大きな力になっていますので、その辺の視点でイコモスから、注文が付いたことに、世界遺産登録の難しさを学びました。今回の苦境を乗り越えられたひとつの要素に地元の人たちの結束があったことと思います。イコモスの「登録延期」の表明があった後、地元で「やはり、無理なんだ。世界遺産になど、なりっこないよ。」といった動きが大きければば、今回の登録は難しかったと思います。

ユネスコの暫定リストに載って、世界遺産委員会で正式にお披露目された「富岡製糸場と絹遺産群」について、今後は何があっても世界遺産に登録するのだ、という地元の固い結束が持続できるように、伝道師協会としては、遺産価値や世界遺産登録の意義について地道に語り続けていきたいと考えています。今後ともご支援ご協力をよろしくお願いいたします。
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身近にある蚕影山、衣笠・絹笠大明神などの遺跡めぐり”近代化遺産WG勉強会

2007年06月27日 16時35分01秒 | 世界遺産伝道師協会
Aさんからのレポートです。
6月25日(月)、AM10:00、総勢8名(KO、N、IN、IC、A、KB、IM、IS)が、高崎市箕郷町ふれあい公園に集合しました。
この日のテーマは少し趣向を変えて、工業の近代化を支えた養蚕にかかわる進行編です。「身近にある蚕影山、衣笠・絹笠大明神などの遺産」を学ぶ機会としました。当初の内容を都合により変更しましたが、結果的には祖先が粛々と信仰してきた養蚕神話の再発見という収穫の大きい勉強会でした。
いずれの遺産も緑に囲まれた農村地帯に地域の人々の苦労でしっかりと保存・整備されていたのが印象的で、養蚕信仰の心意気が100年の歴史を超えて脈々と受け継がれていることに感動しました。特に天災や疫病で壊滅的な被害を受け、蚕児を涙ながらに小塚に埋め供養した碑が多くあり、当時の苦労が偲ばれます。

一方、高崎市上小塙町の烏子稲荷神社(スナイゴイナリジンジャ)は第24代の山田道長宮司の案内によれば、創建1200年の歴史を持ち、武田信玄が箕輪城攻略の際、一旦消失したが宿願を果たした後、再建したという本殿が残っていました。絹笠様も養蚕祈願で活躍したということでした。これら伝統的建造物や古墳は一軒の価値がありました。今回は、身近にある養蚕信仰の遺産を身をもって確認するなど、とにかく収穫多き勉強会でした。次回の企画が楽しみです。皆さんも参加しませんか?
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富岡製糸場世界遺産伝道師協会第2回研修会(その2)鬼が沢橋梁・下仁田倉庫(赤レンガ倉庫)・荒船風穴

2007年06月27日 15時14分02秒 | 世界遺産伝道師協会
鬼が沢橋梁:明治30年に全線が開通した「軽便鉄道」(上野鉄道=上信電鉄の前身)<軌道幅762ミリメートル>の鏑川に架かる橋長10メートル、幅1メートル、橋高10.5メートルの橋梁です。大正13年の電化とともに、軌道が広げられ、この橋梁は使用されなくなった。
開通時、運搬を予定した荷物は高崎→下仁田は肥料・雑穀・米・魚などの日用品や食料でした。また、下仁田→高崎の荷物は生糸・薪・石灰・砥石・鉄鉱石などの甘楽の産物でした。この橋梁は山深いところに放置され、人の手が入らずに残されてきたものと思われます。当初の姿で残っていますが、今は、近づくのは危険で、今後の管理が大変のようです。無謀な見学者が現れないことを願っています。

下仁田倉庫(株)赤レンガ倉庫:上信電鉄下仁田駅に隣接した大正9年に建設されたレンガ倉庫、レンガの積み方はイギリス積み、向かって右の倉庫は大正15年という記録もあるというが、材料に同じものが使われ、同じようなデザインであることから、時間の差をどう考えるか?といった問題もあるようです。1号倉庫は間口6間、奥行き4間で24坪。2号倉庫(向かって右)は間口10件、奥行き5間の50坪。倉庫の取り扱い品目は繭、生糸、蚕種、米、蒟蒻粉、蒟蒻荒粉などでした。後、繭の乾燥にも使われたといいます。荒船風穴との直接の関係が出てくると面白いと思われました。

荒船風穴:蚕種の貯蔵のために使われた施設。神津牧場に近い山林の中に明治38年に1号がつくられ、2号は明治41年のものといいます。規模は1号が13メートル×5メートル、2号が17メートル×4メートル、3号が12メートル×4メートルで深さは3,4メートルあります。風穴の上には上屋があって屋根がかっていました。現在はありません。見学時にこの山でも気温20度を越えていましたが、風穴の中には冷気が吹き込み床面に近いところは0度でした。まさに自然の冷蔵庫で、蚕種を110万枚貯蔵できたということです。全国最大の風穴で、蚕種を管理して一斉に孵化させ、養蚕を産業として効率化するのに大きな役割を果たした施設です。

今秋のような研修は理屈だけでなく、産業遺産を体感できたということでも大きな成果だと思います。今後の研修企画も期待したいと思います。

写真は風穴の冷気を体感している研修参加者です。

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富岡製糸場世界遺産伝道師協会第2回研修会(その1)高山社発祥の地・旧小幡組倉庫

2007年06月25日 23時02分32秒 | 世界遺産伝道師協会
高山社発祥の地:天保元(1830)年高山村に生まれた高山長五郎が養蚕技術の改良に取り組み、従来から行われてきた温暖育という蚕を暖めて飼う方法と、清涼育という空気の流通を浴して買う方法との折衷的な飼育法・温度の低いときは暖めて、のかつ空気の流通にも配慮する「清温育」を完成させこの清温育で高山社流養蚕方法の拡大を図るため「養蚕改良高山社」を設立した場所です。“テンソウ”が3つ乗る大きな養蚕農家ですが、かつてはこの屋敷の中にこの規模の建物が数棟あり、養蚕屋敷とし壮観を呈していたという。地下に掘られた桑の貯蔵庫が残ったり、養蚕専門の建物の土台も母屋の東には残っています。案内して下さったのが藤岡市教育委員会の埋蔵文化財担当のTさんだったので、尋ねてみたら、屋敷の中の建物配置などを発掘調査して確認してみたいですね。といった声も聞こえてきました。
現在は子孫の方の住宅ですので、厚くお礼を述べて、お屋敷を後にしました。石垣の上の長屋門だけでも訪れる人を圧倒します。

旧小幡組倉庫(甘楽町歴史民俗資料館):甘楽社小幡組の繭倉庫として大正15年1月に建設された建物です。戦時下、昭和18年に小幡組の製糸工場が閉鎖され、倉庫も甘楽町農業会に移管されました。戦後、昭和23年、甘楽町農協が引き継ぎました。昭和50年代に群馬サファリのために雄川堰を埋め立ててバスの通行を便利にしたいという動きがあり、雄川堰周辺の景観や遺産が損なわれそうになりましたが、文化庁の補助金を受けて重要伝統的建造物群に選定するための調査が入り、城下町小幡が脚光を浴びるようになりました。そうした動きの中で、この建物も町の歴史民俗資料館としてよみがえることとなりました。開館は昭和62年5月です。建物は2階建てで、イギリス積みのレンガ造りです。

資料館としての展示は、現在、養蚕関係の展示を1階でt区別展示しています。竹まぶしやかつてお養蚕農家が蚕が当たったとき購入したという便器の展示など興味をそそるものがありました。

復元”だるま窯”:甘楽町に平成19年3月に完成した”だるま窯”があります。明治5年当時、富岡製糸場の屋根を葺く瓦は甘楽町福島でやかれたものです。そこで甘楽福島瓦協同組合の小林保さんを実行委員長にして、当時の”だるま窯”を復元し、質のいい瓦を焼いて、富岡製糸場の修理の時には屋根瓦として使ってもらえるものを作りたいと頑張っています。小林さんの説明によると、まず、質のいい粘土を見つけたい。焼きのいい瓦を作って、三州瓦でなく、甘楽町の瓦で、今後の富岡製糸場の瓦をまかなえるようにしたい。と熱く語ってくださいました。

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ロワールの古城に感動

2007年06月22日 23時15分03秒 | 世界遺産伝道師協会
ブールジュから世界遺産:シェリー・シュル・ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷として登録されている歴史的景観の中のひとつの古城に向かう。目指すはロワール川流域で最大の規模を誇るシャンボール城です。この流域に140くらい存在する古城の中の王様みたいな城です。この城は国王フランソワ1世(在位:1515年 - 1547年~フランス最初のルネサンス君主と評される。人文主義者(ユマニスト)の教育を受け、即位後はレオナルド・ダ・ヴィンチ、ロッソ・フィオレンティーノらの芸術家を保護し、ルネサンス様式の宮殿を建てました。)が狩をするために建てたものといわれています。

シャンボール城は敷地総面積55平方キロメートル。幅156メートル、奥行き117メートルの建物で440の部屋を持ち、煙突の数は365本あり、正面から見ると左右対称に作られているのがわかります。中央の天守の周りには回廊がめぐらされています。中世の平城の様式を踏襲したつくりになっていますが、フランスの伝統を重んじながらも左右対称というようにルネッサンスの新風を導入しています。

この城の設計者は不明ですが、天守の中央にある2重の螺旋階段は、この城の最大の特徴で、人がすれ違わないで昇降できる構造になっています。この階段の作者はレオナルド・ダ・ヴィンチだといわれてますが確証はありません。

細部まで手の込んだ美しさに感動。背面から見ても大変きれいな城です。

レオナルド・ダ・ヴィンチにゆかりの城はアンボワーズ城でここにル・クロ・リュセがあり、フランソワ1世に招かれたダ・ヴィンチの住んだ屋敷です。今は博物館となっていてます。この周辺に2004年にレオナルド・ダ・ヴィンチパークが開設されました。
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速水堅曹ゆかりの地めぐり ~川越編~

2007年06月20日 11時16分04秒 | 世界遺産伝道師協会
速水堅曹ゆかりの地めぐり ~川越編~参加したS伝道師からの記事です。

 木陰に入ると少しひんやりするようなウォーキング見学にはもってこいの日和となった5月29日(火)に、歴史ワーキンググループを中心に「速水堅曹ゆかりの地めぐり~川越編~」が開催されました。(参加人数:14名)

速水堅曹と川越、川越と前橋は、とても密接な関係のある地です。
富岡製糸場の3代、5代の所長を務め、民営化の筋道を築いた堅曹は、武州川越松平大和守の藩士 速水仲助政信の3男として川越で生まれています。藩主松平直克が前橋に移城後は、前橋の人となりました。横浜開港に際しては、藩営の生糸売込商として、「敷島屋庄三郎店」開業を果たしています。
そしてスイス人ミュラーの指導を受け、藩営前橋器械製糸場を開業し、南千住にあった千住製絨所の所長を兼務の後、富岡製糸場の専任所長になりました。

 川越藩は、武蔵国(埼玉県)川越周辺を領有した中小藩であり、一方前橋藩は、上野国(群馬県)前橋周辺を領有した藩です。
1601年(慶長6年)、武州川越より門閥譜代の名門雅楽助流 酒井重忠が入封、前橋藩の成立をみます。川越藩では酒井氏のあとに堀田氏、松平氏、柳沢氏、秋元氏が領有し、そして1767年(明和4年)、秋元氏が出羽山形に移封された後、川越を前橋藩主 松平朝矩が領有、後に居城を川越に移すことになります。これは前橋城が利根川の水害で破壊され居城を移したもので、移封ではありませんでしたが、前橋の地は1867(慶応3)年までの約100年間、川越藩の分領となっていたのです。

 土地土地には、連綿としたその歴史が刻まれています。ひとつひとつの時代が物語る由来などがたいへんな財産なのだと思いながら、遠く時代をさかのぼって、交流のあった土地土地が、今また その縁で交流がはじまったりもするのだと感じました。

 このゆかりの地めぐりでは、速見堅曹の子孫であるH伝道師と速見堅曹の姉の梅(関根製糸場教師・工女取締り)の子、つまり堅曹からすると甥の前橋藩士 遠藤鏘平の子孫であるK伝道師とごいっしょすることができました。遠藤鏘平という人物は、明治2年にイタリー公使らを案内するという大役を任された方です。
K伝道師には、見学会の企画から案内もして頂きました。このように子孫の方々とお顔合わせがかなうのも、偉大なる先人のお導きかもしれないと感慨もひとしおの川越めぐりでした。
 見学のコースは、川越博物館からはじまり→築城550年の川越城本丸御殿→富士見櫓跡→喜多院→松平家廟所→仙波東照宮→西小仙波町界隈(旧赤座):速見堅曹をはじめとする松平家の士族が生まれ育ったところ→大正浪漫夢通り→時の鐘という、江戸時代、明治時代、大正時代の建物にふれたものでした。

 お天気にもめぐまれた今回の見学会は、「小江戸 川越」といわれる日本情緒をふんだんに感じさせてくれる町並み散策となりました。

 追伸:川越は、1999年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

 
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ブールジュの大聖堂

2007年06月18日 21時36分51秒 | 世界遺産伝道師協会
リヨンからTGVでパリ・リヨン駅まで行き、パリ・オステルリッツ駅からTGRの特急でブールジュに向かいます。リヨンからパリまでのTGVの車中で食べるお弁当が積み込まれました。その大きさにびっくり仰天、縦横50センチメートルを超える大きなものでした。内容が豊富で食べきるのに苦労しました。日本では絶対にお目にかかれないお弁当でした。

田園風景を見ながら、小さな都市の鉄道の駅ブールジュ駅に着きました、ポーターもいません、スロープはありません階段を大きなトランクを持って上り下りして外に出ると小雨でした。バスでブールジュのサンテティエンヌ大聖堂に着きます。静かな町です。観光客も多くは無く、見学にはとてもいい環境でした。

1195年に建設が始まりロマネスク様式で建設されますが、12世紀末からゴシック様式に改装されたゴシック様式ではシャルトルの大聖堂と並ぶ壮大な大聖堂です。奥行き124メートル、幅41メートルで、平面図形はラテン十字形の教会が盛んになっている時に、この聖堂は翼廊のないバジリカ様式になっています。

天井の高さは37メートルあり、技法の変遷を追えるステンドグラスの数々は素晴らしいものがあります。特に内陣のステンドグラスは13世紀のオリジナルの素晴らしい美しさを持つステンドグラスです。
正面のタンパン(入り口の上のアーチ状した半円の壁)には「最後の審判」の見事なレリーフがあります。

南塔を補強するために14世紀になって分厚い控壁が作られ、北塔は倒壊後に16世紀に装飾が美しいルネサンス様式で立て替えられています。

また、3階建てになっている後陣の礼拝堂にフライングバットレス(家の外に張り出した梁に柱を継ぎ足したり、壁などをつくって支えた空間。)が2層になっていて大変な重厚さが感じられます。(写真参照)
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アビニヨンからリヨンへ

2007年06月15日 21時52分13秒 | 世界遺産伝道師協会
アビニヨンで教皇宮殿をしっかり見学してから、アビニヨンの駅からTGVでリヨンに向かうことになります。駅は総ガラス張り、階段でなくスロープが整っていてトランクの運搬・車椅子にもやさしかった。

TGVの停車時間2分間、この間に18人分のトランクを列車に乗せ、全員が乗車しなければならない。現地ガイドのNさんが作戦を立てる。指定席なので、列車が決まっています。号車を合わせてホームに出て、若手?の3人を選び荷物を載せる役割とし、荷物を載せるところからは人間は乗らない。人間は別の乗車口を使う。列車が入ってくると、手際よく荷物が載せられていき、車中で整理され、人間は指定席に収まった。時間に余裕を持って作業が終わると、駅長さんが「日本人、素晴らしい」と褒めてくれました。

リヨンについて荷物を下ろすとき、一見浮浪者風の人が荷物降ろしを手伝いに来て、遠くで見ていると、「後でチップをくれという輩かもしれない」といぶかしく思ってみていました。荷物を降ろしていた人は日本語を話したので、リヨンでの現地ガイドと気がついたといっていました。

髪は伸ばし放題の白髪交じり(後ろで束ねています)、衣服は白いジャンバーが薄汚れて灰色に近く、話をしてニコッと笑うと(ニヤッと感じて)近寄りがたい感じで、「ふざけているのではないか」とか「気持ちが悪いとか」の評価になってしまい、帰るまで一生懸命やっていただいたのに評価が上がりませんでした。

ガイドも身だしなみは大切、第一印象が悪いと、最後まで響きます。

バスでソーヌ川を越えて旧市街に行き、リヨン地方独特の「ブション」と呼ばれる庶民的なビストロが並んでいる一角で夕食となりました。リヨン独特のスープが見た目は生臭そうでしたが熱々で、とても味のいいものでした。古い建物のトイレはきれいに管理されていましたが、どちら向きに座ればいいのかな?と迷うような旧式の水洗トイレでした。

ワインのほかに店独特のアルコールが振舞われました。ブランデーになりかけのような初々しい味の強いお酒でした。フランスはどこへ行ってもおいしいパンでした。

翌朝、小雨の中フルヴィエールの丘に向かいます。途中ローマ遺跡を横目で見ながら到着したのはノートルダム・ド・フルヴィエールバジリカ聖堂です。眺めのいいはずの高台がありましたが、雨に煙って眺望は利きませんでした。この日聖霊降臨の祝日で教会内はミサが行われており、入場できませんでした。

フランスにはノートルダム寺院がたくさんあります。ノートルダム寺院とは聖母マリアにささげられた寺院ということだそうです。

町の中心部ベラーシュ広場に下りてきて「星の王子様」を書いたサンテグジュペリが住んだ家を見て、銅像を写真に収めて来ました。

写真はフルヴィエールの丘にあるノートルダム・ド・フルヴィエールバジリカ聖堂です。



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アヴィニヨンの歴史地区

2007年06月13日 22時12分33秒 | 世界遺産伝道師協会
バスでアヴィニヨンに入ると法王庁の巨大な外壁とアヴィニヨン橋(サン・ベネゼ橋)が目に飛び込んできました。外壁は高さ50メートル、厚さ4メートルです。城壁(全長4.3キロメートル)で囲まれた教皇宮殿です。

ローマ教皇の宮殿が、ローマ以外のアヴィニヨンになぜあるのか?これは、世界史上の出来事でした。これは、教皇の権威と世俗の王権との対立の結果生じた事件でした。王権は教会に隷属するという姿勢を貫いていた教皇ボニファティウス8世とフランス国王フィイップ4世との対立が激化、ボニファティウス8世の没後元ボルドーの大司教クレメンス5世が教皇に就任するとフィリップ4世が教皇に働きかけて1309年、アビニヨンに教皇庁を移転します。以後1377年まで教皇庁がアヴィニヨンにありました。この時期を”アヴィニヨンの捕囚”と呼び、”教皇のバビロン捕囚”とも言われています。

教皇宮殿は総面積15000平方メートル、高さ50メートルの塔を4基備えた大建築です。旧宮殿と呼ばれる部分は1334年から1342年にかけて教皇ベネディクト12世によって装飾のない質素なつくりで建設されています。
新宮殿はクレメンス6世(1342~52に在位)とインノケンティウス6世によって作られ、ゴシック様式が一部分取り入れられ、フラスコ画が描かれたりして室内装飾のある建物です。

写真はローヌ川の対岸から教皇宮殿を望んだものです。


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歴史ワーキング・グループから原三渓研究会についてのお知らせ

2007年06月13日 21時12分59秒 | 世界遺産伝道師協会
富岡製糸場世界遺産伝道師協会歴史ワーキング・グループ世話人から、原三渓についての研究会が以下のような内容で開催されますので、紹介したい旨連絡がありました。興味のある方、関心のある方、ぜひ学んでみてください。
【歴史ワーキンググループ世話人からの連絡です】
(財)横浜市芸術文化振興財団・(財)三渓園保勝会主催によります「原三渓」についての講演会ならびに市民研究会が開催されますのでお知らせいたします。

講師は速水美智子伝道師が『速水堅曹自伝六十五年記』発見についてアドバイスをされた東京外語大の内海孝教授です。

 原三渓は明治35年から昭和13年まで富岡製糸場の所有者として経営されており、富岡製糸場の歴史においては欠かせない人物の一人です。

 富岡から港横浜へ絹の道を月1回、土曜の午後辿ってみては如何と思いご紹介いたします。

                           記
1.講演会
   演題: 「なぜ生糸貿易が横浜で盛んになったのか?生糸貿易と原善三郎」
   日時: 2007年7月14日(土) 午後2:00~4:00(1:30開場)
   会場: 横浜美術館 円形フォーラム
   講師: 内海 孝 (東京外語大教授)
   参加費: 500円(当日受付にて支払い)
   定員: 70名先着順(当日直接会場へ)

2.見学会
  「三渓園スタディ・ツアー」
   日時: 2007年8月11日 午後2:00~4:00(集合1:30)
   集合場所: 三渓記念館応接室(三渓園内)
   募集人員: 70名
   応募方法: 往復はがきに①住所②氏名③年齢記入の上申し込む。
           (返信面にも住所、氏名を記入のこと)
   応募締切: 2007年6月30日、(定員なり次第締切)
   申込先:  〒231-8799 横浜港郵便局留 原三渓市民研究会事務局係
   参加費:  500円(別途入園料が必要、一般500円、65歳以上300円)

3.原三渓市民研究会

  「藤本実也の稿本『原三渓翁伝』を約1年間(15回)読み解き、2009年出版を目指す。」
       (藤本実也博士は片倉製糸(株)発行の『富岡製糸所史』の著者でもあります)

  指導講師: 内海 孝  (東京外語大教授)
  日程: 2007年9月8日(土)~2008年11月 毎月第2土曜日 午後2:00~4:00
  場所: 横浜美術館 円形フォーラム
  定員: 30名程度
  参加費: 10,000円(後日通知後振込み)
  研究分科会:テーマ
           ①原三渓の事業と生涯
           ②原三渓の公共貢献
           ③原三渓の性格と趣味(美術、庭園、茶道など)
  応募方法:往復はがきに 
           住所、氏名、電話番号、ファックス番号、Eメールアドレス、分科会テーマ
           記入の上申し込む。
  あて先: 〒231-8799 横浜港郵便局留 原三渓市民研究会事務局係
  締切:  2007年6月30日

4.その他
   詳細については横浜美術館、三渓園のホームページ「原三渓市民研究会」にアクセスして
   確認してください。
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