人口減ニッポン

2014-09-24 21:33:38 | 日記

 新聞紙上で人口減のことの特集をくんでいる。日曜日の記事に島根の隠岐島にある高校の話である。島の高校だから生徒数は減り続け、2008年には89人だったものが14年度は156人になったというお話。町長や住人たちがこのままでは、廃校に追い込まれてしまうと強い危機感を抱いてピンチをチャンスに変えてこの何にもない島にこそ宝があることを、そして生徒自身が自分たちでこの過疎化の問題や仕事や生き甲斐をつくり出すにはどうしたらいいのかを考えるあり方、生徒自身からアイデアや実行力をやってもらうようになったと言う記事である。

 今までと明らかに違うと思うことは、これまでは時代の流れの中だけでどうすれば時代の流れにうまく乗ることができるか、ということが大きな問題であった。けれど、これからは経済成長も見込めず、政府も当てにならず自分たちでこの地域をなんとか変えていくしかないと言う発想がとても大事と共感したのでした。それにはこの自分自身が変わらなければならないのはもっともなことなれど、自分というのは自分では変われないんだ。それよりも周りの人たちに手を差し伸べる。ともあれ自分が真っ先に動き出す。というまことに単純なことの一歩からしか変われないものとしてあると言うこと。また人口減はマイナスととらえるばかりではなく、よき兆候としてとらえ直すことがこれからの大切なことになるとおもう。

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お葬式

2014-09-23 20:18:43 | 日記

 20日に亡くなったお母さん、その夜はここで身内だけのお通夜を、ここの人たちはみんなお経が読めるから皆してお参りしたのだ。翌日は棺桶を車に乗せて、甲府へ。その夜は近所の方々や兄弟、ごく近い身内の方が集まりお通夜を。遼雲も禅堂から駆けつけて2人して読経を。料理修行の鹿も京都から来てその彼と風と2人して夕ご飯を作った。16人で食卓を囲んでお母さんの話で盛り上がっていた。

 翌日22日に旦那寺で葬儀を。臨済宗である。こちらの2人も参列して、お坊さんは3人に。多くの人たちがお参りしてくれて、お別れしてくれた。葬式というものをあらためて見せてもらったようにも思った。やはりこんな儀式を通して、皆が泣ききちんとご挨拶をすることでお別れすることができるんだと言うことを、あらためて感じさせてもらいました。またこの場を借りて生前故人と関係を持たれた方々、ありがとうございました。

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羲母さんのこと

2014-09-20 22:39:29 | 日記

 今朝かあさんが旅立った。その顔はようやく安堵、ほっとした顔だった。ここ半年ほどは薬の副作用で辛かったのだと思う。薬のお陰で、長生きしているところがあるからなんともではあるけれど、この薬の功罪はもっと問題にすべきことだとおもう。

 人として生きると言うことは、あたりまえのごとくふつうのことなれど、ひとたび人として生きるとはと問いが始まると、これほど深いこともない。それは同時に死ぬと言うことも同じで、人として死ぬとは、どいうことなのだろうか。いや、なかなかすんなりと死なせてもらえないのだ。点滴をして酸素マスクをしては、病院としてのシステムの問題でどうも、人の尊厳、死ということを念頭に置いてないのだ。これからこのことはもっとするどい問いを突きつけてくるようになると、おもう。

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諸行無常

2014-09-19 20:59:54 | 日記

 世を覚れば ただ諸行。と言う言葉があります。今、今日を生きようと言うものが、アーもうこんなに遠いところを歩んでいるとか。ついこの間まで暑い暑いとやっていたのに、今日などは涼しいを通り過ぎて寒いとかんじてしまった。過ぎてしまえばその何とも早きこと、それが詠嘆でおわればいい。しかしながらともするとそれが愚痴になったり、後悔だけにおわるのはごめんである。いつでも今と言うこの時しか暮らせないが、いまは自覚できないまま過ぎ去るからである。

 今日、通信の宛名書きを終えてから、この3日から入院している羲母さんの見舞いに。連れ合いはもうじきお迎えが来ると言うからお会いしにいったのだ。酸素マスク、点滴でもう目はつむりぱなっしである。おもえば去年の今頃はまだ自力で散歩していたのだ。色んなことが走馬灯のごとく蘇るが、それも一瞬の出来事である。きっとこのわれと言う人生も地球という星からみればほんのわずか、一瞬のできごとなのだろう。ならば今のこの出会い、今日と言うよき日をきちんと生きたいとあらためて思うのである。

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アランの幸福論

2014-09-18 21:43:45 | 日記

 幸福論から、今日読んだところからの抜粋です。

 ぼくは毎日ひとりで笑うことを健康法とするであろう。足を強化するためトレーニングをするのと同じように、ぼくは自分のよろこびを強化するためのトレーニングをするであろう。(中略)そういうふうにして、よろこびを目ざめさせるためには何かを開始することが必要なのである。幼な子がはじめて笑うとき、その笑いは何ひとつ表現していないのだ。しあわせだから笑っているのではない。むしろぼくは、笑うからしあわせなのだ、と言いたい。幼な子は笑って楽しんでいる、ちょうど食べて楽しむのと同じように。しかし、まず食べる必要がある。そのことは、ただ笑いにだけ当てはまることではない。だから、考えていることを知るためにはことばが必要である。

   アラン 「幸福論」友情から

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