道元さまの言葉に、「師はあれどもわれ参不得なるうらみあり。参ぜんとするに師不得なるかなしみあり」
大意は師匠が元気な間は、教えを聞こうとしない。いつでも聞かれるという思いがあるから。今度はさあ聞こうと思い始めたときには師匠のいない悲しみ持つと。
これは師匠に付くことのむずかしさをおもわせてくれる。一体何を師匠から学んでいるのか。今から色々思い返せば、やはりその人が師匠に何を求めていたのか。あるいはどこを見ていたのかなのだとおもう。だからとうぜんのことながら、師匠そのものよりも弟子のあり方でその学びがずいぶん違う。
私の場合で言えば、内山老師の多くの言葉もそうではあるけれど、語りだすときのちょっとした仕草とか、挨拶の仕方などがこちらに響いている。それと、たった一度だけしかお目にかかることはできなかったけれど、その方のまなざしが未だに教えを頂いているように思う方も何人かおられる。そういうことが、こちらに問いとしてあたえられていることをおもう。