2012-11-05 21:14:14 | 日記
 現在鶏は10羽である。それでヒナを買うことにした12日には
来る。そこで鶏小屋の掃除を、つまり鶏糞を出すのだけれどもみ殻
が沢山入っているから、サラサラだ。飼い餌をあたえていなくて、
屑米と各家から出る残飯、それと草。そのせいであろう、糞の臭い
などまったくない。それを畑に蒔いて、新しいもみ殻を入れた。
早速彼らは、そのもみ殻を蹴散らかして遊んでいるふうである。

 毎日、眼蔵や祖録などから気に入った句を見つけて書き出したい。
と思っているのだが、眼蔵にしても祖録にしてもそんな気安くやは
り読めない。本を読むだけで時間が過ぎてしまうこともしばしばで
なんとなく焦って読む感がある。それでも祖録に日常からもっと
触れんとあかんなぁ。とおもうのである。

 「よのすえには、まことある道心者、おほかたなし。
しかあれども、しばらく心を無常にかけて、よのはかなく、
人のいのちのあやうきことを、わすれざるべし。われは、よのはか
なきことを、おもうと、しらざるべし。あひかまへて、法(仏法)
をおもくして、わが身、わがいのちをかろくすべし。
法のためには、身もいのちも、をしまざるべし。」
 正法眼蔵 『道心』

 しらざるべし とは自分勝手にはかなしや無常をわかったつもり
になることをいさめている。
 法をおもくしてのこの法とは、いまここに目の前に開かれている
ありようすべてのことをいう。仏法というものが自ら思い描くもの
ではない。仏教のきまりなどと訳してしまうととんでもなく、
的外れになる。この世のありとあらゆるもの、政治や経済も含め
このわたしをわたししているありようを仏法といわれる。
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