書きたくなる

2020-02-01 21:12:07 | 日記

 今朝も真っ白だった。なんだろう風景が雪景色になると、何かしら書きたくなるようだ。なんなのだろうか。夕餉が終わって外に出て歯磨きをしている。そん時だけだろうが、空が晴れあがっておりオリオン座がちょうど正面に見えて、月も三日月のせいか星たちが輝いている。ときおり、先人たちの言葉に触れて叱咤勉励としているようである。正法眼蔵随聞記なるものがある。これは道元さんのお弟子である懐奘さまが、夜な夜な師匠の道元さんの言われたことを書き留めたものである。それゆえ道元さんの書かれた難解なものではなく、日常の些細な事柄からのお示しである。こういうものが、800年前に書かれていると思えないほど、リアルというか私の問題である。

二、我れ病者なり、非器なり

 示に云く、ある人の云く「我れ病者なり、非器なり、学道に堪へず。法門の最要を聞きて、独住隠居して、性をやしなひ、一生を終へん。」と言うに、

示に云く、先聖必ずしも金骨にあらず、古人豈皆上器ならんや。滅後を思へば幾ばくならず、在世を考ふるに人皆俊なるにあらず。善人もあり、悪人もあり。比丘衆の中に不可思議の悪行するもあり、最下品の器量もあり。然れども、卑下して道心をおこさず、非器なりと言って学道せざるなし。

 今生もし学道修行せずば、いずれの生にか器量の物となり、不病の者とならん。ただ身命をかへりみず発心修行する、学道の最要なり。

 だいたいの現代語訳を。ある人が私は仏道修行に耐え得るような者ではありません。ゆえにどうぞもっとも大切なところを、お示しくださってそれをもって一人静かに暮らそうと思います。と。ーこういうなんていうのだろう、病気持ちでなくともよく言われることがある。そんなムヅカシイことでなく簡単に一言でお示しを。などと。それはいうてみれば自分にわかる言葉で、ということなれど。そういう自分と言っているこれそのもの、この思い込みのこれをもんだいにしている。だからどうあっても、一言で片付くようなものでなし、どこまでいってもこれでよしなどということもできない。いつでもやろうと思った時が、その時でその時を逃しては、もうないのである。内山老師の名言で発心百千万発と言われましたが、どんなに落ちようがめげようが、あるいは病気であろうが、そのありよう、いまの自分というありようの中で懸命にそこを外さないで、生きるという態度が、学ぶという姿勢がいつもこれ自身から問われているようです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする