アランの「幸福論」から。
<絶望ということ>
だから人は、たしかな足どりで現在と順応して行く。だれでも経験していることだが、だれ一人それを信じていない。習慣は偶像のようなもので、偶像が力をもつのは、われわれがそれに服従しているからだ。ここではわれわれを欺いているのは思考の方だ。なぜなら、考えることのできないことは、また行うこともできないように見えるから。人間の世界が想像力によって牛耳られているのは、想像力はわれわれの習慣から自由になれないからだ。だから、想像力は創り出すものではないと言わねばならない。創り出すのは行動である。
ぼくの祖父は70歳の頃、固形の食物が嫌いになって、少なくとも5年間牛乳で生きていた。人はこれを異常な習慣だと言った。その通りだった。ある日、家族そろっての昼食で、祖父が突然鶏のもも肉を食べ始めるのを見た。そして祖父は、われわれと同じ食事で、あと6、7年生きながらえた。勇気のある行為だった、たしかに。しかし、何に対して彼は挑んだのか。臆見に、否むしろ、自分がもっていた臆見の臆見に。また自分のもっていた自己についての臆見に。何としあわせな性質というかもしれない。とんでもない。だれもがみんな、そうなのだ。ただ、それを知らない。そして銘々、人は自分の人柄にしたがっているのである。