暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

冬時間になってめっきり日暮れが早くなったなあ

2013年10月30日 22時18分57秒 | 日常

冬時間になってめっきり日暮れが早くなったように感じる。 冬時間になったのはもう4日前の土曜のことで、その深夜に時計の針を1時間戻して半年振りに日本とも時差が8時間になり、それにつれて日暮れが機械的に早くなったのだけれどこれまで天気が芳しくなかったので実際に日暮れを体感することがなかったのだけど今日の午後から一時的に快晴にもなりその雲ひとつない空が青から紺にそして透明で暗くなっていく日暮れとなったのをしみじみと体験したのだった。 雨が降っていたり曇っていたりするとこういうことには想いも行かずただなし崩しに暗くなるだけだ。 

そして、そんな晴れた夕暮れの体感は大体夕食時のものが基本となっている。 子供たちがまだ幼稚園に行くか小学校に行くか、という頃、それはもう20年ほど前になるのだけれど、我が家では多くのオランダの家庭のように午後6時を夕食の時間と決めていた。 5時半ぐらいから子供番組がテレビでありそれが済んで子供ニュースと続き、6時になると子供のテレビの時間は終わりだ。 食事を40分ほどしてそのあと子供たちを風呂に入れそれが済むと歯を磨かせそれぞれのベッドで20分ほど本を読み聞かせそれで子供たちは消灯、親は居間に下りてきて8時のニュースというルーティーンがかなり続いた。 子供たちも小学校の高学年も近づいてくるともう手間はかからないがそれでも食事が6時というのは変らない。  そういう具合に毎日が過ぎて行き、夕食の始まる6時の窓の外の光と空の具合で季節の移り変わりが感じられた。 今、このあいだまで食卓の上の明かりをつけなくとも食事ができたものが窓の外は透明な濃い紺色に成っているのだから冬時間による釣瓶落としの夕暮れとなったのを実感する。 

今晩は生ゴミのコンテナーを通りの角に出しておく日だ。 コンテナーにはまだ大分スペースがあるので月曜の大風で庭に落ちた木と先週伐った庭木の枝を細かくして詰め、食後ゴロゴロ引いて角まで持って行った。 月曜の大風で落ちてきた表の大木の太い枝はまだそのまま緑地に放置されている。 明日の朝は庭木の太い幹を緑地の枝がそのまま放置されているところまで引張っていってついでに市のトラックにもっていってもらおうと思う。

それにしても月曜日、大風のピークが通り過ぎて大分経って空に一瞬青空が広がったときに帰宅してそのときものすごい積乱雲が目の前で大きくなるのを観て妙な気分になった。 大抵は積乱雲は真夏のものだけれど真冬にも晴れた空にそれが出るのを何度もみている。 しかし月曜に観たものはその大きくなり方が何だか夏のものとはかなり違いどちらかというと暴力的にみえた。 夏には上に上に伸びて行き極普通の積乱雲、入道雲なのだけどこれはどちらかというと地を這って盛り上がっていくようなものだ。 写真を何枚か撮ったあとまた自転車に乗って数百メートル行ったら大木の大きな枝が道の横に無残に置かれているのが見えたのだが、その後、うちにたどり着いたら先ほどの雲がもう上空まで来ていて稲光が見え、急にかなりの雹が降ってきたのだった。 雨もあまりなく、晴れ間も見えたけれど大風の嵐だった。 

フィットネスでは物故した歌手達のBGMが流れた

2013年10月29日 03時59分12秒 | 聴く

本来なら健康のコラムに入るべきところだが今日はそこでかかった音楽について書く。 ことの起こりはニュースでルー・リードが今日亡くなったということが報じられていたことだ。 いつもなら同年輩のオーナー・インストラクター、ペーターが選ぶ音楽にあわせて身体を動かすのだがこの日は彼がフランスに住む孫を見に行ったとかで代わり来た陽気な20代半ばのインストラクターが自分で編集したものを流しそれに合わせて1時間身体を動かすことになった。 始めに我々にも景気付けにもなるルー・リードの 「Walk on the Wild Side」がかかってそれで準備体操に入った。

その後は マイケル・ジャクソン、ドアーズのジム・モリソン、まだ一人は生きてるのじゃないかと他の親父たちから疑問もでたビーチ・ボーイズ、エルヴィスにクゥィーンのフレディー・マーキュリー、ジミ・ヘンドリックスのリトル・ウイングがかかったときには一息サンドバッグを叩くのを止めて聴いたほど久しぶりだった。 70年代の初め学生だった頃クラプトンの「レイラ」に納められたこの曲をよく聴いたしその後、スティーヴィー・レイ・ヴォーンが演奏したものでも親しんでいた。 音楽はあくまでBGMだから真剣に額に汗して機械に向かっているときには音楽も聴こえなくなることも多いけれど概ねそんな具合なチョイスは我々の年代に見合った選曲だった。 ただ最近亡くなったエミー・ワインハウスがかかったときにはそうだったなと感慨深いものもあった。 最後の5分はいつもの通りマットに横になり息を整えるのだが、いつもならジャズ好きのペーターがキース・ジャレット傾向のものやゆったりとしたヴォーカルでバラードを流すのだがこの日はルー・リードの「Perfect Day」で締めたのだった。

ルー・リードのものはあまり聴かなかったが思い出すことがある。 学生の頃、友人達が屯する寺の離れの下宿部屋で色々聴いたけれど其の頃、一人の友達がアンディー・ウォーホール描くところのバナナをジャケットデザインにした The Velvet Underground 、Heroin をもってきて、これすごいぞ、と言っていたことを思い出す。 そして其の頃、其の友人はクィーンのLPもよく聴いていたものだ。 あとから考えてみるとその友人はバイ・セクシャルだったようで、だからそれに関係するような音に惹かれるということもあったのかもしれない。 

北ヨーロッパに大風が吹いた

2013年10月29日 02時46分26秒 | 日常

2013年 10月 28日 (月)

2日ほど前から強風注意報が出ていて今日は外出しなくてもよければ家にいるようにともラジオは言っていた。 昼前に起きると大分風が出ていたけれど雨は酷くなく、空のあちこちには青い穴が幾つも見られるようだったから気分的には深刻さはないものの午後から仕事もあり人にも接するから約束は出来るだけ守らなければならないとえっちら腰を上げて出かけた。 ポンチョを被って自転車で表に出ると道には沢山の吹き飛ばされた小枝が散乱しているけれど交通の妨げになるようなことはなく、濠の周りを風に逆らって変速器を低い方にして漕いでいると向かい側の公園の老木が折れているのが目に付いた。 大きな街路樹が両側に聳えている中を走るのだからまだ葉や木の実が沢山ついた中を通る風の音もかなりのもので、あまり揺れていないのを確認しつつ何とか職場についてみると会うべき人たちからメールが入っておりユトレヒトまで来たけれど電車が走っていないだのアムステルダムからこちらにくる電車が停まってバス輸送もだめらしいだのと様々だった。 まあ会えなければないで何とかなるから問題はないのだがオランダ中がそんな具合らしい。 

午後二時ごろが最悪でそれから後はデンマークに向かいから北欧に抜けるらしく風速が時速150kmほどで移動しているとのことだ。 夜から朝にかけてはイギリスが酷かったらしい。 10年に一度の嵐だということだ。 夜のニュースでは結局オランダで倒れてきた木の下敷きになった老婆と走っていた車にまともに倒れてきた大木にやられた男の二人が犠牲者ということだ。 それにしても北ヨーロッパというのはこういう天変地異での犠牲者数が少ないのに驚く。 ひっきりなしに報じられるアジアでの台風、地震に津波、洪水などの犠牲者の数とは桁が違う。 事故は別としても天変地異で多くの犠牲者が出たのは1953年のゼーランド州の水害で数千人が溺れ死んだというのが有名であるけれどそれを肝に銘じてオランダの治水技術というのがそれまでに輪をかけて進み何年か前のアメリカルイジアナを襲ったハリケーン洪水の後、女王が訪米したときにオランダの治水技術を売り込み両国の国益に供したという話もあるくらいだ。 低地国という名のオランダだからの宿命なのだ。 しかし風に対してはなすすべもない。 精々警報を出して消防署の体制を整えておくことが当面の施策だったようだ。 今日一日で人口10万程度の我が市では400件の通報が消防署にあり市の緑地局の機械を総動員して倒木、落木の処理をしたということだ。 

仕事を終えて帰宅途中に自分の住む通りの角、緑地に植わっている大木から太い枝が道路に落ちたものを片付けてあった。 上を見上げるとずいぶん高いところにこの枝がよじれてもぎ取られたような、まだ木の香りが充分嗅がれるような跡が見られる。 それにしても出るときにはただ小枝だけで自転車でそれを踏んで出かけたものが帰りにはこの調子だ。 正に気象庁の警告に逆らって午後ここを通っていたらと思うとぞっとした。 この程度の枝が落ちているのはここだけではなく通勤の途中だけでも3,4箇所で見られたし道路を公園・緑地管理局の枝を粉砕してチップにする作業車があちこちで稼動しているのを横目で見て帰ってきたのだった。

ズッキーニの蒸し物

2013年10月25日 03時08分49秒 | 喰う

家人はこのところスチーム・オーブンに凝っていて何でも蒸す傾向にある。 今日はズッキーニを蒸した。 大体野菜や魚を蒸すと食材そのものの味が立ち上がってくるようで、ジャガイモやブロッコリーはもう既にルーティーンになっているのだが今日はズッキーニを薄く削いでそれが蒸されていた。 とりわけ味もどうということはないのだがそれでも普通はあまり注意もいかない味がここでははっきり分かるようだった。 中古の店で買ってきたテーブルの上のランプがオレンジ色で写真の映りがよくない。 もうすこし何とかしなければならないようだ。

鋳物の厚鍋でことこと煮た牛肉とナッツとオリーブのサラダが添えられ白米を解凍してそれが飯になった。

明日から3日間、この週末にオランダの南を歩いてくるので3日ほどこの日記は休みます。

自転車のブレーキと庭の枯れた立ち木

2013年10月24日 00時42分54秒 | 日常

今日驚いたこと二つ。


1) 自転車のブレーキ

昨日ハーグに電車で行った時、駅前の駐輪場に自転車を停めておいた。 戻ってみると倒れていた。 起こしたのだがどうも調子が悪い。 前ブレーキがかかったままの様でブレーキの握りが一杯に開いていて握っても握れない。 それで色々やってみても結局6段変速の一番遅い1のところにすると何とか進む。 けれど負荷がかかっていてちょっと重い。 何か変速器や両方のブレーキから出ているラインが短くなっているようで、それにそれらがハンドルのシャフトの周りに纏わり付いているようなのだ。 変速器もなかなかスムーズに動かない。 なんとか家に帰り着いて夜、近くのフィットネス・クラブに行ったときにはブレーキの握りも少し緩んでいるようでまあいいか、とそのままにしておいた。 今日の午後、木を切ってから買い物をしなければとスーパーに急いでいると近くの通りにある自転車屋の若いのが表の自転車を運んでいるところだったので、今時間があるか、と訊いたのだけど、いつものように、今客が来ているから時間は無いよ、なんだい、というから、こうこう、と説明すると、ちょっと下りて御覧といって自転車をうけとりハンドルをぐるりと一回転させたらラインが元のようにもどりそれに連れてラインの緊張というか張りが緩んでもとのようにブレーキの握りも変速器のレバーもスムーズに戻った。 その若いのは一瞬こちらを救いがたい奴だというような目を見せ、こちらが礼をいい、金を、という前にこちらの声も聴こえないほどの距離まで奥まで歩いていてそこに待っている客に対応しているのだった。 こちらはまさか自転車の前輪がぐるっと一回りするとは思ってもいなかったからそこには目が行かなかったのだがそれもちょっと考えたら分かるはずなことなのだろう。 窮すれば鈍す、という言葉があるけれどこれは「老いれば鈍す」なのかもしれない。 なんで気がつかなかったのかという驚きが一つ目。

2) 庭の枯れた立ち木

家の中を掃除した後、晩飯の買い物をするにはちょっと早いけどまあいいか、と庭に出たら物置の入り口を塞ぐかたちで庭の立ち木が倒れていたから買い物に行く自転車も出せず、それではまず倒れている木を何とかしなければと考えた。 この木はこの家に越してきた22年前からそこにあった。 春に細かな白い花が咲きそのうち小さめの葉が一杯になって庭に木陰をつくり真夏にはその下でピクニックをしたり昼寝をしたりして便利は便利だったのだがこの数年どういうわけか老いた風だった。 葉裏に細かく白い虫の卵かカビのようなものが出来、真夏にはベトベトする細かな露のようなものがあたりに降る時期があり去年あたりから葉の付きが悪くなり、今年は新芽が出なくなっていた。 枯れてしまうのではないかと思っていたらそうなった。 そしてこの日記にも2,3日前に栗のことを書き、枯れた木を処分して来年は栗か何か木を植えようと思っていた矢先にこの始末で驚いた。 これが二つ目だ。

倒れた木を前にして考えた。 大きな木でもなく枝は張っているけれど高さは4mほどで根元の太いところは円周がせいぜい60cmほどだろうか。 これから買い物をして晩飯を作らねばならず物置の自転車が要る。 だからこのまま明日まで放っておくわけにはいかず、かなり太い枝をのこぎりで切らないでは自転車を取り出せない。 幸いなことに鋸は別の棟にあるからそれを使えばいいのだが少なくとも物置のドアを開けられるようにするためには太い枝をその鋸で4,5箇所切り落とさねばならない。 それが出来るほど体力があるかどうか、それなら今からDIYのスーパーに行ってチェーン・ソーをレンタルするかどうかの選択肢を頭に浮かべ結局今から車で町外れのスーパーまで車で行く時間と面倒を想ったらそれに30分ほどもかけるより取り合えず鋸ですぐやってみようということにした。 しかし結局のところ自転車をだせるようになるのには2時間近くかかった。

二週間ほど前まで6週間ほど休んでいたとはいえ毎週ジムに通ってフィットネスをしている。 けれど不自然な格好で二時間ほど木を切っているあいだに右手の平がこむらがえりを起こすような気配を出し、左脚の太ももの裏側の筋肉が痛んだ。 何とかの冷や水、というような諺が頭をよぎって、それでそこで切るのを止めて切った枯れ枝を他のところに盛り上げ何とか自転車を出すスペースを確保して買い物にでかけようと自転車を出したら前ブレーキが重かったのに気がついたのだがそのうち自分で点検しようと家を出た。

家を出るときこの前垣根を枝を払ったときに出た葉や枝を入れてある大きなサイコロ型の袋を見たらこの前より大分嵩が減っていた。 しかし枯れ枝ばかりの今日の成果を入れるにはまだこんな袋が4つ5つは要るに違いなく、そうなると市の公園管理局に取りに来てもらうには太い枝の長さをどれくらいに揃えておかなければならないか電話で問い合わせなければならないだろう、というようなことを横目でその白い袋を見ながら自転車に乗った。


いとこ会

2013年10月22日 22時43分26秒 | 日常


2013年 10月 19日

義妹が声をかけていとこ会をしようと春に言っていて、それを秋に予定していたものがいよいよ開催された。 このいとこ達というのは家人の母親のきょうだい姉妹のこどもたちのことで、そもそも家人の母親は田舎の村の酪農農家の子供12人の、女が11人、一番下が男という大家族の丁度中頃にあって今年85になる。 30年前初めて義母方の生家の新年会に招かれて彼らに会った。 当時はまだオランダ語もできず英語が達者ではない人たちの中では必ずしも居心地がいいとはいえなかったけれど人の集まり方をみていれば自分も大阪南部の農家の出であるので男達、女達が固まってそれぞれの話に夢中になり、その間を小さなこどもたちが走り回るというような光景は自分が育ったこどものころの法事や冠婚葬祭の景色として記憶にあるものと重なって農家の集まりには洋の東西では大きな変わりがなくそこにはただ違う言葉が使われているだけのものだった。 

40頭ほどの乳牛を飼う納屋に住居が繋がった伝統的な屋根の高い大きなオランダの農家の住居部にやんちゃな子供たちも含めて60人は集まっていたのではないか。 その農家は一番歳下の長男夫婦が家を継いで外に嫁いだ女達の生家を守っていてここでの恒例の新年会が唯一家族が全員集まるときだった。 それから何回この新年会に参加しただろうか。 そのうち叔父さんが定年で農家を辞めるというのでその歳の新年会が家族が全員集まる最後となった。 15年ほど前だったろうか。 叔父さんには娘二人、息子二人がいたが息子たちは農家を継がなかった。 乳牛40頭では規模が小さすぎて将来にむけて採算がたたず、それに土地は借地だというのが理由だった。 皆で記念写真を撮った。 そのときにはその農家の子供たち12人は全て揃っていてその子供たち、その連れ合い、孫たちが農家の前に並んだ。 戦後すぐにオーストラリアに夫婦で移民した一人もこのためにメルボルン近郊から来ていた。

ここでは自分にとっては叔父さんは一人だけだしはっきりと誰か分かるもののあとのおばさんたちは殆んど区別が付かない。 兎に角顔かたちが似ているのだ。 どっしりとした幕内体型は特徴的なものだ。 そしてそのオバサンたちは殆んどそういう機会にしか会わない人たちでその連れ合い、子供たちが傍にいると大体どの家族か分かるものの賑やかなこういう会では皆バラバラで、時々会う2,3人を除いてはほとんど分からない。 名前もごちゃごちゃだからだたおばんさんというだけでお茶を濁して名前は言わない。 それが今まで続いているのだからもう今となっては仕方がない。 パン屋の、、、なり、消防の、、、とか、自分で教会をたちあげた、、、だの、造園の、、、と言った具合だ。 前回家族の新年会をしなくなってそのこどもたち、つまり我々いとこたちが企画して村のスポーツクラブのクラブハウスで初めていとこ会をしたのが6年前だ。 70人ほど集まっただろうか。 オーストラリアから叔母とその娘、孫娘も参加した。 叔母の娘で小学校の教員をしているいとこはオランダ語を話したが孫娘は英語だけだった。

この6年の間に初め12人いた農家の子供たちは80から90になり、数は半分になっていた。 家人の父方の方では父を含め兄弟二人は既に亡くなっておりその連れ合いたちも他界している。 母方の方でも3人は3年ほど前までに他界し、今年3日ほどの間に二人が亡くなっている。 オーストラリアの叔母は健康がすぐれずもうオランダに来ることはないだろうとこの機会に親を置いて二週間ほどオランダに来ている叔母の娘が言っていた。 自分も還暦を越したこの歳になると、だからたとえ家族会、いとこ会がなくとも自然とだれかの葬式のときには顔を合わしているのだが、それでもそんな機会はこのような家族会とは全く雰囲気が違い、このようないとこ会では顔合わせも華やかなものになる。 造園で知られた町のそんないとこの一人が経営する造園の温室を改造したパーティー会場で午後一日楽しく飲み食いした。 前回、6年前は12人全部揃って記念写真に納まったのだが今回はそれもせず、皆これが一堂に集まる最後の機会になるのではないかと感じているようだ。 だから皆が持ち寄った料理やケーキなどが用意され食事に入る前にシャンデリアの12本の蝋燭をそれぞれ一つづつ灯したときにそれをしみじみ噛み締めている風だった。 今年亡くなった母親の代わりに点灯し、オーストラリアから来られなくなった母の代わりに点灯した子供たちは思いがつのって目に涙を溜めていた。

30年前に新年会でうろちょろしていた子供たちは叔父、叔母たちの孫たちだったものが今回そんな小さなこどもたちは彼らの曾孫になる。 初めて農家で見た4つ5つの子供たちの子供たちがいまちょうどそんな歳ごろなのだ。

とっぷり日が暮れて降っていた雨が暫し止んでいる間に姑を車に乗せその村にある老人ホームにつれて戻った。 昼の4時から8時半まで飲んで食べてよく喋っていた。 自分の部屋に入るとさすがに疲れたと洩らしたけれどそれにも増して嬉しかったと言った。 不治の病であと3年だと言われたのが6年前だった。 次のいとこ会はいつになるのか想像もつかないが、そのときには果たして叔父、叔母たちはまだ何人存命でいられるのだろうか、それには想像も付かない。

FN Browning M1922;  思ったより早く手に入った

2013年10月22日 04時15分55秒 | バンバン



買ったピストルの許可証の手続きがいつもの通り長引くだろうとつい先週ここに書いたら金曜日だったろうか警察署から電話があって書類が出来たから取りに来るようにと言われ、11月の中頃になるのではないかと誰もが予想していたことに反して警察の反応の速さが予想外で、それは嬉しい驚きだった。 すぐその足で警察に向かい許可証をもらい銃砲店に廻ってピストルを受け取り、その夜自分が所属する射撃クラブで初めて撃ってみた。

FN Browning M1922 7.65mm 刻印が BZ24xx と打たれており、通常市販の7.65mm 若しくは 32口径の弾丸が使えるので自分で作らなくとも済むからその分手間が省ける。 

初めは10mはなれた紙の標的に向かって5発、片手で狙って撃ったのだが自分の撃ちなれている44口径のものに比べて反動が小さく狙いやすいもののそれでも外れがあり、両手撃ちに変えた。 すると全て直径15cmほどの円の中に納まった。 15mの距離にして両手撃ちにすると25cmほどの円の中に納まり、練習するとその円がもう少し小さく纏まるのかもしれない。 日頃競技会にも出ている古式銃の火打ち石式フリントロックピストルに比べると気持ちのいいほど性能のいいものだ。 もっとも競技会の方は的の距離が15mではなく25mで、昨日の競技会では一辺50cmの紙の標的に13発撃って6発しか着弾しなかった。 カリブの海賊のもつ銃から400年ほど経って第二次世界大戦前後の銃との差がこれなのだ。

書類の手続きは済んだけれど実際に所持している実物を見せ確認するために今日再度警察に出かけてきた。 移動には日本手ぬぐいに包んでもって行ったけれど何れミリタリー・グッズの骨董屋などでオリジナルのホルスターを探すつもりだ。

この栗は、、、

2013年10月20日 16時57分04秒 | 日常

通りの端、緑地の外れに今の時期、毎年のように落ち葉を集めるケージができている。 このところ雨とともに吹く風で木々の折れ枝が路上に落ちているのも見られるからこのようなケージも今の季節には必要で適切なものだ。 公園のそばを通っていると栗の木から沢山の実が落ちているところに行き合わせた。 公園であるから栗の木が植わっているものの栗はもともとオランダのものではない。

このあたりではフランスの中部あたりから南に栗が見られるのではないか。 ドルドーニュあたりになると太古から様々な木の実が食され油がとられている経緯があってそれが地元の名物になっているのだが、オランダは栗の北限以北なのだろう。 もともと栗は生えない。 だからもともとのオランダの食生活にはそれがなく、フランスの影響からか今では栗を食うようにもなって今の時期、スーパーでも売られているし、トルコやモロッコ系の移民が利用する食材店にもバラ売りの栗が山積みになっているのが見られる。

道に落ちたこの栗は風雨のために落ちたので、まだ熟れてはおらずイガにしてもまだ青い。 棘も硬くはなく、人がその上を歩き、自転車のタイヤがそれを轢いて行くけれど痛くもなくパンクもしない、というような硬さなのだ。

春の一時期には栗の花が匂う。 けれどそれは町のあちこちにあるトチノキの花でトチノキはオランダ語で Paardenkastanje といってこの Kastanje というのが栗であり、だから、馬の栗という意味になるのだが、トチノキの実には栗のような鋭い棘のようなものはなく形では栗との違いがはっきりしているしトチノキの実には毒性があるといわれていて町の中に植わっている大木は圧倒的にトチノキが多く、栗は町の中にはほとんどない。 だから或るとき春にものすごく栗の花が匂ったときにはさぞかし秋には栗の実がみられるのだろうと想像していたのだが実際に見るのはここにあるこのあまり大きくない木から落ちたこの実ぐらいなものなのだ。 それも熟れて茶色になって硬く自転車をパンクさせるような棘をもつようなものでもなく少々の雨風に打たれて落ちた未熟の青いものなのだ。

バカンス ’13 (2) ミュンヘンの街をサイクリング

2013年10月20日 06時19分14秒 | 日常





2013年 7月31日

7時半にキャンプ場のスーパーが開くのを待ってそこで朝飯のドイツ流のパンと牛乳を買いテントに戻ったら隣に真っ赤なフェラーリのスポーツカーが停めてあったのに気がついた。 雑多な国籍の様々な車がこのキャンプ場に数百台は駐車していて多分数千人が様々な様子でキャンプしているところでツーシーターのフェラーリである。 あまりの場違いに皆不思議に思っているに違いない。 そのドライバーは車の隣に停めてあるキャンパーで寝泊りしているのかもしれない。 第一、車にはテントを入れるスペースもないのだろうしこんなものでこんなところに来て小さなテントに寝泊りするというのも合わない。 たまたまここに来ている知り合いのところに寄ってそのままい続けているのかもしれない。 もちろん牽引車を引っ掛けるような金具も後ろについているはずがない。 

パンを買いにキャンプ場の入り口にあるスーパーに行くまでに停めてある車のナンバープレートを順番に眺めて行くとヨーロッパのほとんどの国のものがある。 ちなみに9台並んでいるところでは9つとも国名が違っているのも見た。 こんなことは初めてだった。 それにしても早朝のこういう大きなキャンプ場をそんな車やテントなどを見ながら歩くのは妙なものだ。 夜中の暗い中を歩くのと今のような朝の静寂の中を歩くのでは大して変らないのにムードは違う。 あと30分ぐらいすると皆眠け眼でバスローブとサンダルでシャワーとトイレのある棟に向かう様子が見られるのだ。 そんな棟がざっとみてもあちこちに7つ8つはあるだろうか。

それにしてもこの30年ほどの間に色々な国の色々なキャンプ場に行ったけれどここほど密度の高いところは初めてだ。 ドイツはヨーロッパの人と物の交差する場所であり殊にミュンヘンは最も豊かな地方の国際都市であるからヨーロッパ各地からバカンスに車で訪れるとなるとここ、ということになるからこれほどの収容能力のあるキャンプ場にしなければその数を処理できないのだろう。 ことに近年は旧東欧諸国、バルカン諸国から西ヨーロッパに出てくる人々が多いのもそのナンバープレートーの多彩さに現れている。 

キャンプ場の入り口の柵のところに張り紙がしてあるレンタル自転車屋に電話すると15分で4台持ってきた。 天気予報では雨が降らないというのでそれぞれデイパックに水とウインドブレーカーだけ入れて出発した。 昼飯は町のどこにでもあるサンドイッチ屋か町のカフェーでしてもいい。 身軽であることが一番だ。 目安としてはミュンヘンの町の南の端にあるキャンプ場から町の西にあるイングリッシュガーデンという大きな公園に向かって川沿いに10kmほど北上すること、それから西に折れて旧市街に入り西の端を南下してキャンプ場にもどる約25kmを大体の予定にしていた。 川に沿って続く公園仕立てのサイクリング専用道路をイングリッシュガーデンを目指して走った。 この10kmには街の中にもかかわらず信号がひとつもない。 だから軽快に走れるのだがその有難さを痛感したのは後半公園を外れて街の普通の道路を走ってからだ。 大都市の道路は少し行くと信号がありその度に停まって待たなければならず面倒だ。

イングリッシュ・ガーデンというのは大きな公園でその中の芝生が広がるところは広大なスペースとなっており多くの人がピクニックをしているのだが、その広さのためそれが過密にもならずただあちこちに人が点々としてみえるだけだ。 そこに寝転んで昼食にした。 この公園の中には日本庭園があり日本風茶室もあったがそこには入れないようになっていた。 イングリッシュ・ガーデンを抜け二つほど通りを行くとヨーロッパ式の大きな庭があってそこは宮廷の庭と名前がついており、小道が集まったその中央に時計台のようなたてものがあってそこでロシアのバラライカを演奏する年取った女性が涼しそうに坐っていて建物のドームに響く楽器の音が人の足を留まらせていた。

その宮廷の公園を出たら前日夕方に地下鉄で来たオデオンの Theakineker 教会のところに来たのでそこに自転車を停めて木陰のカフェーのテラスでビールを飲んだ。 前日前を通ったライカの店に一人で行った。 今まで見た事のないほど沢山のライカ・カメラが古いものから順番に並んでいてその数に圧倒された。 博物館並のコレクションで見とれるほどだった。 壊れてそれを騙し騙し使っているカメラが完全に使えなくなったときのために2年ほど前に今のカメラとあまり変らない Leica D-Lux 5 というのを買ってあり、それはもうこの6年ほど使っている Lumix DMC-FX100 のフラットなボディーよりレンズ部分が飛び出していて少し嵩が高いので腰に常時つけるためのいいキャリングケースを探していたのだ。 それでライカにそういうケースがないかこの機会に問い合わせに来たのだった。 中年男の店員は慇懃な態度で皮の特性ケースを勧めるのだがそれは首や肩から吊るす形のものでベルトに通して腰に吊るすものはないという。 カタログでそれは知っていたけれどそれも承知で訊ねたのだったがその店員はあくまで自社のものを勧め、固執し、とりつくしまもないから Lumix を見せ、これの姉妹品なのに腰に吊るせない不便さをいえばそれにムッとしたようで、従来のものが当社の伝統なのだとつっぱねた。 それでも尚、なぜそのような可能性を考えないのだろうかと踏み込むと、それなら Lowepro というカメラ用ポッシェット専門ブランドがあるからそこにあるかもしれない、と言った。 今うちの机のなかにある D-Lux 5 を包んでいるのがそれなのだ。 店員の対応を面白いと思いながらその店を出てふと同じドイツ製品で昔ポルシェについて聞いたことを思い出した。 ポルシェは911というモデルが有名だが944というモデルがあってこれが貧乏人の買うポルシェだというのだ。 その理由は知らないがそういうのを聞いてからは944モデルが走っているのを見るたびにそうなのか、とその言葉を思い出したものだが、今自分の持っているライカの D-Lux モデルというのがそれに相当するのではないか、とそんなことが頭の端を通り過ぎた。 自分が選んだのはただ単に今使っているものの継続モデルとしてそれがたまたまライカになっただけなのだがこのショールームの店員の対応でそんなことを考えたのだった。

市営キャンプ場の近くにスーパーがあったのでそこに寄って夕食の材料を買った。 この日は息子と娘が料理するというので我々はクーラーの効いた涼しい店の中をぶらぶらと眺めているだけでデザートにするスイカを半分に切ったものを買った。 今回初めてテントの中で料理をしてその夕食後、まだ11時ごろまでは明るいのでこんどはキャンプ場の南のほうに向かって川沿いの自転車専用道を走った。 子供たちはテントの中にいてインターネットをして過ごしていたのだが我々は結局往復で20kmほど走ったから今日一日で45km走ったことになる。 11時前でも自転車道は森の中を行くのでこのころにはもう暗かった。 ランプをつけて走るのはいいけれど時にはジョギングする人たちに出会うことがある。 着ているものに光を反射するようなものが付いていないので姿が見えず危ないことも再三だった。 日頃うちの周りで夜ジョギングする人たちをみるけれど皆そんな反射板がついたトレーニングウエアーを身につけていてそれに見慣れているからこれには少々驚いた。 キャンプ場にもどりテントの近くの棟でシャワーを浴びてビールを飲みすぐに眠りに落ちた。 

Boz salkyn  盗まれた花嫁 (2007);観た映画、Oct. '13

2013年10月19日 03時44分33秒 | 見る


邦題;  盗まれた花嫁   (2007)
原題;  Boz salkyn
英題;  Pure Coolness 

95分

制作国; キルギス・カザフスタン


監督; Ernest Abdyjaparov
脚本; Ernest Abdyjaparov

出演;
Asem Toktobekova Asema
Tynchtyk Abylkasymov Sagyn
Siezdbek Iskenaliev Murat
Elnura Osmonalieva Burma
Osnura Asanalieva Anara



土曜の深夜映画としてオランダ国営テレビで観た。 久しぶりのアジアの映画である。 この前このジャンルで観たものには4年前に観たモンゴル映画、「天空の草原のナンサ(2008年)」があって下のように書いた。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/58851245.html

本作については You Tube にロッテルダム映画祭の折の予告編が次のように載っていた。 

http://www.youtube.com/watch?v=SjlZyssDqhc

尚本稿の参考に映画データベースを牽いても皆目情報はなく、下のように本作の根幹をなすキルギスの誘拐婚について述べたものがあった。

http://matome.naver.jp/odai/2136542141247064301

本作には男女の繋がり、結婚をめぐる話が根にあり、そこでは誘拐婚が大きな役割を占めている。 誘拐婚というのは耳に新しく、邦題の「盗まれた、、、」から連想して略奪婚の一種かとおもったけれどその性格がかなり違うようだ。 2008年に本作品が福岡国際映画祭に出品されたときに詳しく述べられた下のようなブログの記事もある。

http://blog.goo.ne.jp/pa-da/e/3e270138142ff19afd02fed939c246fe

世界がグローバル化しているという言説がある。 その内容は世界が徐々に同一の価値観、習慣、ライフスタイルを共有しつつある、ということになるのだろうが、それではそれはどんな価値観、ライフスタイルなのかとなると西欧の価値観、ライフスタイルが徐々に世界に浸透してきているということだろう。 価値観の相違、相克となると文明の衝突といわれたり、ひいてはそれが大きくなって戦争となるような宗教観、価値観の違いが問題になり、現在のところイスラム急進派と西欧民主主義大国の紛争ということに体現されている。 

本作に少しは沿った最近のそんな例としは女性の教育権を主張したパキスタンの少女がそれを認めないイスラム急進派に狙撃され九死に一生を得て回復後、その勇気がたたえられてノーベル平和賞の候補にもなった、ということがある。 イスラム急進派にとっては認めがたいことであろうし、そうなると彼女の命は自国では保障できないと彼女はイギリスに滞在して世界各国のメディアに登場していると聞くが、ここでもその世界各国というのは主に西欧各国もしくは西欧化された発展途上国ということになるだろう。

つまりグローバル化しているという言説があるが、そこには厳然として価値観の違いによる紛争が存在する。そんな状況で非西欧社会がどのように「グローバル化」するか、という命題をもって西欧化のプロセスがみえるものとして本作をみることもできると思う。 その例が本作で主題となっている「誘拐婚」だ。 本作がコメディー仕立てになっているように見えるがそれはその主題を深刻に掘り下げ、問題の所在を明らかにするというシリアスな作品であればここで想定される本国の女性視聴者には現実とこのように仕立てられた幻想に直面するには荷が重すぎるという結果を生むのではないかとして俗情との結託という熟慮によって軽いものに仕立て上げられたのが実際ではないかと愚考する。

都会に住む娘が親にも男を会わせるか会わせないかと言うような慌しさで「茶も飲まずに」許婚として紹介した都会風の男とバタバタと休暇で田舎の男の家に出向くのが発端なのだが、ここでは既に都会=近代化=善、田舎=後進性=悪というような公式が前提としてあるようで、田舎に住む男の親は娘に、ここはまだ田舎で遅れているけれど我々は都会風の生活をしている、と娘に自分達を紹介する。 つまりここは遅れているけれど我々は後れていない、と言い訳をするわけで、この構図、言い訳は世界各地でみられるものだろう。 日本でも全く同じ言葉を実際聞いているし、これがグローバリゼーション過程の中にある状態を示しているけれど、ミラニアムを越した現在の日本ではもうこの言葉が必要でないくらいグローバル化が行き渡っているのかもしれない。 

男女の関係、恋愛事情は太古から同じであるけれどそのプロセスの中で各地の慣習が男女の家をめぐって婚礼のかたちを規定する。 その制約がすくなく自由に近いというのが都会ということになるのだろうが事はどこでも必ずしも同じというわけでもない。 都会の恋愛・結婚事情となるとその条件は必ずしも自由ではないことは明らかだろう。 男の職種、年収が大きな要素となり、その条件に合わない、つまり年収が低く恋愛の機会さえあたえられないような男達が溢れ生涯独身を通さざるを得ない男達の割合が増えていると聞く。 そんな中で自由な恋愛・結婚を志向する若者達が様々なネットのサイトでマッチメーキングを試みる様はそれを営利目的とした会社を通じて自分自身で見合いを組織することなのだ。 年収、職種の大きなハザードはあるが「家」からの強制はない。  

日本でも戦前までは殆んどの場合、家、親戚、有力者を通してのマッチメーキング、つまり見合い結婚だったものだ。 実際、自分の祖父・祖母は結婚式の当日まで会ったことがなかった。 しかしその子供たち、孫たちのみるところでは彼らは名実ともに生涯幸せな夫婦だった。 その子供たちも戦中、戦後に殆んど見合いで結婚している。 田舎の農家では家の存続が第一義となり仲人が保証する他家の娘、息子を見合わせるのであり、よっぽどの理由がなければ断れないスタートであるから若い男女達もなにかしらの理由がなければ断る理由もなくそこで仲人を通じての婚約・婚姻が成立するのが日本で何世紀にもわたっておこなわれてきたことである。 今更ながら繰り返す必要はないほどなのだが、けれどそれがこの半世紀ほどでその様子が大きく変っていることも見逃せない。 家の存続、守るべき家というような制度がほとんど崩壊してしまっているのだ。 多分これも「グローバリゼーション化」の結果と言えるだろう。 見合い=封建的=前近代的、というような考え方が60年代70年代の高度成長期の若者達にはあったのではないか。 「家」が「会社」となり職場の上司などが仲人を務めるケースが増えてそれに重ねて徐々に前近代的な家の制度は崩壊している。 けれど2000年が過ぎてから縁故や仲人というような「家」に関係した機能が個人から消え、年功序列、会社が個人の生涯を保証できなくなったときには恋愛・結婚のリスクを小さくする、若しくはある程度保証されたパートナーを見つけるために個人が営利目的の見合い会社を利用する、という現象が起こってきている。

本作の誘拐婚というのは見合いの段階さえも踏まない当人、特に誘拐される娘の自由を奪った有無を言わさぬ、男の「家」を含んだ、近代的に言えば「犯罪行為」である。 それが習慣として残っている現実にどのように対処するか、というのが本作の結末となる「救い」であって、その中で娘がそれを受け入れそれが自然の中で太古から行われてきた「前近代的な」遊牧民の生活に入ることとなり、ひいては自分を天秤にかけて昔の女から離れられない、自分が選んだ都会のクールな許婚を棄てて純朴な大自然の中の「前近代的」な男と暮らすことが本来の自分である、と帰結させる契機となるのが本作での「誘拐婚」の機能である。 ここでは前に述べたコメディー仕立ての「終わりよければ全てよし」というような制度承認の態度が見られるのではないか。 それならこれは現実の悲惨な例をここでは捨象するような機能でもある。 

自分の家族の例をもう一つ言うと、生涯幸せな夫婦であった明治の祖父は農家の末っ子であった故に若くして養子縁組で他家に入り婿として結婚させられていたけれど婚家と結婚生活に耐えられずに逃げて実家に戻ったという経緯がある。 その後の祖母との見合い結婚だったのだ。 自分は見合い結婚がすべていいと言う気はさらさらない。 だから本作を「結果よければ全てよし」として女性の自由を奪う誘拐婚を認める立場を作者がとっているとなると誘拐された女性をめぐる問題解決、若しくは誘拐婚制度を吟味する方向に向かうのではなく却って笑いもしくはロマンチズムの煙幕で問題を糊塗する結果となるのは明らかだ。 本作で一番恐怖するのは誘拐された娘が新郎方の伯母、近所の女たちを含む女たちから洗脳されるシーンである。 誘拐婚の根幹は男の暴行ではなく女達による娘への洗脳プロセスなのだ。 だからその制度的な怖さを知っていた娘は許婚の不実を理由に洗脳を受け入れるのだ。 もし別のプロットが可能なら許婚が不実でもなく相思相愛の関係の中でなおかつこのような誘拐が行われた場合の作品を見たい気がする。 そうすればそれがコメディーもロマンチズムをも排した現実的な映画とならざるを得なく、そこでは痛々しい見るに耐えないものが出来上がるに違いなく、そうなると誰がそんなものに金を払ってまで見るというのだろうか。 そのような現実を直視するに耐えられないということだろう。 どこかボタンを掛け違えているような気がする。