暇つぶし日記

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ハートブレイカー (2010);観た映画、 Oct.  '13

2013年10月07日 19時09分37秒 | 見る


邦題; ハートブレイカー(2010)
原題; L'ARNACOEUR

105分
製作国  フランス/モナコ

監督:  パスカル・ショメイユ
脚本:  ローラン・ゼトゥンヌ、 ジェレミー・ドネル、 ヨアン・グロム

出演:
ヴァネッサ・パラディ     ジュリエット
ロマン・デュリス       アレックス
アンドリュー・リンカーン    ジョナサン
ジュリー・フェリエ      メラニー
フランソワ・ダミアン     マルク
エレーナ・ノゲラ       ソフィー
ジャック・フランツ       ヴァン・デル・ベック
アマンディーヌ・ドゥヴァーム   フローレンス
ジャン=イヴ・ラフェッス     ドュトゥール
ジャン=マリー・パリ      ゴラン

フランスを代表する人気スター、ヴァネッサ・パラディとロマン・デュリスの共演で贈るロマンティック・コメディ。娘の結婚式を阻止せよとの大富豪からの依頼を受けたプロの“別れさせ屋”の青年と、ターゲットとなったヒロインが辿る愛の行方をユーモラスかつロマンティックに綴る。監督はこれが長編デビューとなるパスカル・ショメイユ。

パリに暮らす青年アレックスはプロの“別れさせ屋”。手練手管を駆使してターゲットを誘惑し、ミッションが成功するや、決して深入りすることなくきれいに姿を消す。そんなアレックスに大富豪からの依頼が舞い込む。ターゲットは彼の娘ジュリエット。10日後に迫ったイギリス人青年実業家ジョナサンとの結婚を阻止し、10年間断絶状態だった彼女を自分の手に取り戻したいというのだった。さっそく、結婚式の準備が進むモナコへと向かい、父親が送り込んだ“ボディガード”としてジュリエットに近づくアレックスだったが…。

上が映画データベースの記述である。 世間が寝静まる午前2時をまわって居間に下りてテレビをザップしていたらイギリスBBC局でたまたま本作が放映されていて、その中にヴァネッサ・パラディを見かけたのでソファーに落ち着いて見続けた。 話は別段どうということもないのだし主演が他の女優だったら多分この筋書きでは見ていなかっただろうとおもうけれど彼女だから観たというところが大きい。 BBCの深夜映画にしても内外の英語、米語の映画が殆んどでありドイツやイタリアのように吹き替えもなく字幕着きで放映されるというのはかなりのことで本作が敢えて字幕着きで、非英語圏のクラシック映画のように放映される理由はなんなのだろうかと想像すると多分ヴァネッサ・パラディが理由なのだろうと思う。 自分にしては彼女を観るのはパトリス・ルコントの「橋の上の娘(1999)」以来であり、ヴァネッサ・パラディには少々の思い入れがある。 

そもそもがMTVがまだオーソドックスなロックやポップを今からするとまだ牧歌的に流していた90年代初頭、ヴィデオ・クリップでレニー・クラヴィッツがプロデュースのパラディが歌う「ビー・マイ・ベイビー(1992)」を見たときだ。 自分には年代がかなりはなれたクラウディオ・カルディナーレやブリジッド・バルドーは年齢からしてただエキゾチックで彼女たちのセックスアピールというものを子供の自分は理解もできずその後も消化し切れてはいなかったし以後は殆んどアメリカ映画のセックスシンボルが席捲しそのようにポップカルチャーは動いていたように思う。 フランス、イタリアのラテン系というものはその後姿を消す。 そんなときに久々に観るフランスの新しくもクラシック・リバイバルの20歳がパラディだったのだ。 けれどそれもアメリカ文化のパックス・アメリカーナの文脈の中でしかないものの自分には彼女の登場は意外な衝撃だった。 彼女はすでに幼少の頃からフランスでは知られておりポップ・シンガーとして人気があったらしい。 大きく前歯に隙間が開いたこのフランス顔は所謂美形ではなく野生的であり危ない女のイメージがありフランス的、バルドー的だったのだ。 そしてそれから何年か経っての「橋の上の娘(1999)」だったからそれまでの彼女のイメージとは繋がりがあったもののその後自分には彼女を観る機会がなく本作との間にほぼ15年弱の隔たりがあったか本作を観たときの感慨がひとしおであり、画面に見入った。 ただロマンチック・コメディーとして38歳の彼女の歳ではストーリーに少々無理のある作だとみた。 

それにもう一つ。 「橋の上の娘(1999)」を観た頃だろうか、彼女がジョニー・デップと一緒になったと聞いてやられた、と思ったことだ。 いままで別にスターにしても誰にしてもそんなことを思ったことがなかったのに、それに特別に彼女の作を観たり聴いたりしていたわけでもないしCDを集めるわけでもないのにそう思ったことが自分が無意識に惹かれていたことを露呈していたのだと思う。 やられた、と思ったのには自分でも苦笑が出る。

そんなことを思い出しながら本作を観ていて複雑な思いがした。 デップとの間の二人のこどもを育てた母親が職場に復帰して働く姿であり、ある種この能天気なストーリーには痛々しさが垣間見られるようであるけれどそれでも救いは少々疲れたように見えなくもないパラディでも何ショットかには昔ながらの愛らしさがみえたことだ。 多分パラディのそれまでのイメージの延長として本作が作られたのだろうがその賞味期限の限度がここでは明らかであるように思う。  バルドーやカトリ-ヌ・ドヌーブのように脇役でも光彩を放つ役者になれるのだろうか。 尚、デップの作ではジム・ジャームッシュの「デッドマン(1995)」を採る。