暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

ことしは閏年なんだって、だから明日一日が余分らしい

2016年02月28日 22時19分26秒 | 日常

 

2016年 2月 28日 (日)

昨日オランダのニュースで今年は四年に一度の閏年で2月が1日長いからそれによる損得の具合を分かったような分からないような計算の仕方で見せていた。 一年が1日長いのだから結局個人がそれにかかる1日の費用を1800円ほどとはじき出していた。 世間では月額計算というものがあり、それならこの1日はいわばボーナスのようなもので月契約なら一日分が得なのだが使用量などによって計算されるものがあるのだから、それは例えば電気代とか水道、ガス代金なのだがそれらに関しては一年間でこの1日分はきっちり徴収される。 月契約のものとはどんなものなのだろうか。 ニュースでは電話代、インターネット、テレビの料金のことを言っていたけれど本当なのだろうか。 新聞代もそうかもしれない。多少の「得」はあっても所詮はボーナスのようなもの、基本の例えば食費などについては実際にかかるのだからそれが1800円ぐらいに相当するとしたらどうだろうか。 朝昼晩と喰って飲む、それが1800円だとすると分からなくもない。 そうするとあとの分は大して変わらないということなのだろうか。 何だか分かったような分からないようなものだ。 

閏というのは「余分な」という意味らしい。 一年余分、ということなのか、余分のある年ということなのかと言葉だけでは読み取れそうだが経験上2月が普通は28日のところが今年は一日余分で29日まであるのだという。 曜日はぐるぐると滞りなくつかえることもなく周り巡るから定年の自分には日の概念も薄れがちではあるけれど曜日だけがしっかりしていて、そうなると閏っても閏わなくともこちらには何の影響もなく実際、大の月、小の月を「西向く侍」として忘れることはないけれど閏というものがありそれが何月かというと2月か4月か自信がない。 今の時期2月だというから分かるけれどこれがあと半年経ってみると曖昧になっているに違いない。 それでも日頃大切なことがあると手帳に控えていてもう40年ほどそんなことを続けていてあれはいつだったかと思い起こすのに役立っている。 そんな手帳でも毎年の2月は28日であったり今年のように29日であったりするけれどその年年には特に閏年だからというようなことも書かれてはおらずそのまま受け取っているから2月が28日か29日か曖昧になっているのかもしれず何ならカレンダーに2月が28日か29日と書かれているからそうなのかと思うだけであって頭の中には大の月と小の月があって大の月は31日、小の月は30日とだけしか刷り込まれていないかのように思う。 年老いてぼやけて来たからそうなったのだとも思うけれど若い時でも2月ははっきり28日、29日だと確信していた記憶はない。 ただ単にその時に知らされたことに従っていたのではないかと思う。

2月が28日か29日かそんなことには斟酌しないけれど腕時計の日付を調整しなくてはいけない。 旧式のアナログの腕時計だから毎月放っておけば31日まで行く。 小の月には30から1に調整しなくてはいけないのだから今月もそれと同じで特別なことはない。 パソコンのモニターの隅に出ているクロックは閏年もディジタルのプログラムに含まれているから自動的に閏う。 29日に生まれた者は4年に1度しか誕生日が来ないのだろうし正式な年齢はどうなるのだろうか。 普通の人間の4分の1の年齢だと面白おかしく言うことが出来るけれど実際的ではない。 選挙権、自動車運転免許の年齢などちゃんと同年に生まれたものと同じにしなければ不都合ができてくるだろう。 実際閏年でないと年には2月28日の翌日は3月1日で、それを29日は通過していると見做せば加齢しているわけだから問題はないはずだ。 駅を通過する列車で4本に1本しか停車しないとしても4本通過するのを見ているのだから4と数えるのが妥当だという理屈なのかもしれない。


鱒の蒸し物

2016年02月28日 01時40分33秒 | 喰う

 

マーケットで鱒が安かったからと家人が買って来たものを料理したのは半年ほど前でそのときBBQにしたものを下のように記している。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/64731858.html

そのときは香草としてパセリとディル、それにコリアンダーをかなりのバターでこねて腹に詰めてバーベキューにしている。 野外の火で焼いているので焦げ目が魚の香りに混ざって強くなるからそれに合うような腹の詰め物で身も固くはならないものの締まって美味いものだった。

今日もまた魚屋で安い鱒があったから買って来たのだと言う。 それを白ワインと魚のストック、野菜にレモンの輪切りをベッドにしたものの上に乗せて蒸した。 腹の詰め物はディルだけにして魚の肉の温度を90℃ほどに保った。 これで火は通っているけれど身の締まり方が柔らかく、もともとスムースな触感が一層強調され、特にどの魚でも眼の斜め下にある一番柔らかいと言われる半月形の頬肉にそれが顕著だ。 蒸してあるからデリケートでディルの香が合う。 ほかの味付けは塩、胡椒にレモン汁と簡単なものだがなかなかなものだ。 

添え物は芽を摘んだ残り物のジャガイモを茹でたもの、アヴォガド、ブロッコリー、トマトとレタスのサラダだった。 


「情意」とは

2016年02月26日 18時30分20秒 | 読む

 

ネットのニュースを読んでいて、高校の校長が若者の間に徐々に夜更かしが増えているその原因の一つであるらしいスマホを夜間休ませようと「スマホのお布団」にヒントを得てキャンペーンを張っているとの記事があった。 そのこと自体は別段どうということもないのだがその動機として「もっと情意面で夜間の使用を抑えるようなことができないかと思っていたら、たまたま『スマホのおふとん』を見たので、ちょっとひらめいたのです。」とあり、そこでの「情意」という言葉が自分には分かったような分からないものだったのでこれもネットの辞書で牽いたら次のように出ていた。

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情意とは思い、気持ち、「情意相通じる」というように用いることが多い。

更に「情意」という言葉は、「能力評価」「業績評価」と並んで、人事評価についての話題の中によく登場してきます。 

「情意評価」を行う際によく用いられる評価項目には、つぎのようなものがあります。

   ・規律性 :会社の決まりや上司からの指示を守れたか
   ・責任性 :与えられた仕事を最後までやり遂げたか
   ・協調性 :組織全体の業績向上にむけて、周囲と協力して業務を進められたか      
   ・積極性 :与えられた仕事の範囲を超えて、工夫や提案、自己啓発を行ったか

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というような人事評価に関連する情意の要素が述べられているものがあった。 つまり、思い、とか気持ちというものであるけれど何故敢えて「情意」というような言葉をその校長は選んだのだろうかというところに引っかかったのだ。 「情意面で(スマホの)夜間の使用を抑えるようなことが出来ないか、、、」ということをその意味通り置き換えてみると「思い、気持ちの面で夜間の使用を抑えるようなことが出来ないか、、、」ということになり、これを要約すると、校長が子供たちの「思い、気持ち」の中に入って(スマホの)夜間の使用を抑えたい、ということだ。 つまり校長が子供たちの気持ちの中に入り影響を与えるための試作だということだろう。 更にこの「情意」という言葉は「人物評価」の話題によく登場するということからこの校長の日常業務の重要項目である将来の人材を育てるという観点からその社会性要請に応える、という点では人材の要素である「規律性、責任性、協調性、積極性」のなかでここでは早寝早起きを奨励し、そのことによって生徒たちの「規律性」を確立しようとする意図を持つと解されるのではないか。

この20年以上国民の就寝時間が遅くなってきていることは毎年報道されており当然若者の就寝時間もそれに含まれており今ではスマホが嘗ての我々にとってのテレビ、ラジオ、ゲーム機、電話、チャット機能をもつことから場所・時間を選ばずアクセスでき、小さい頃からそれに慣れているその年代はほぼ1日中それを弄ぶことになる。 世間ではそんなスマホの新製品が出るたびにニュースになり若者がそれを求めて列をなすというような社会現象も普通のことになっている。 日本に帰省するたびに電車内での乗客のそれぞれがじっとスマホに見入り多くは両手、片手で細かなキーボードを操作している風景が見え、ガラケイしか持たない自分はそんな人々を眺めている。 特に若者は周りを見渡すこともせずじっとその小さな平面に縛られているようにも見える。 そんな現象に対して校長先生の「スマホのお布団」は効き目があるのか眉に唾をつけて斜めに眺める気分だ。 それと「情意」という管理を意識した言葉との組み合わせを面白いと思った。

 ほぼ半世紀前に買った今ではセピアに変色してオーブンで焼いたようにも見える自分の広辞苑には次のように出ている。

 「情意」 感情と意志と。 情と意と。 こころ。 こころもち。

多分ここでのポイントは感情ではなく「意志」なのだろう。 「規律性」を押し付けても効果があるか疑わしい。 それに「こころ」「こころもち」などというようなふわふわしたものは今時のスマホにくぎ付けになる高校生にあるのかどうかも疑わしいような気がする。 


木を伐る (2)整理の作業をしていると、、、

2016年02月25日 15時22分57秒 | 日常

 

春と冬が競っているような天気の中、霰や雪が降ったと思えば10分後にはカラッと晴れるような猫の眼が上にあるこの2,3日、その合間を縫って先日伐った木の整理をしている。 何でもバッと大きいことをするのはその勢いで大雑把に早いけれどその後片付けには少々の時間がかかる。 チェーンソーでバッサリ大ナタを振るったあとは枝を切りそろえて処分しなければならずその作業はほぼ手作業でしか叶わない。 両手で使う大きな剪定鋏で家人は細かな枝を払いあとは自分が家庭用電気鋸で太さ7-8cmまでの枝であれば1m前後の棒に切る。 11年前に山桜の古木を伐ったときには幹や枝が曲がりくねって太く、全て鋸をギコギコ挽かなければならず手こずった。 けれど今回はそれより細いといってももうあの頃の体力も腕力もない自分には助けが要る。 家庭用の板を切る電気鋸を使った。 これは24年前まだ体力も気力もあった時買ったこの家の床、天井、屋根裏、塀などを作るのに役立ったものだ。 実際にプロに頼んだのは4x8mの居間の床だけだ。 DIYショップで材料を買ってきて学生時代大工の棟梁だった叔父のところで助手をした経験が役に立った。 けれどそれも24年前、今こんな立ち木を一人で倒せなかったことに老いを感じる。 

久しぶりの電ノコを掴み作業を始めるのだが丸みのある枝のちょっとしたゆがみや湿気を含んだ木質ではほんの些細なことでも鋸の歯が折れて跳び、初めの日だけで2本駄目にしてしまった。 それでそれからは最後の一本でなんとかソロソロと切る。 これが折れれば大工道具店にでかければいいだけのことなのだけれどそれが億劫で何かあちらの方向に用事があればそのついでに買っておこうと思うけれどその用事もなく、耳にイヤープラグを差し来んで i-Pod のジャズを聴きながら作業をする。

カーポートに大きな枝を引き入れて作業をしていると様々な人々が前を通り過ぎて年寄りの散歩がてらの暇つぶしに話していく。 此方もちょっと疲れた時にそんな年寄りと話しているとこの何十年かの移り変わりが見えるようだ。 うちの並びで10軒ほど離れたうちと同じ造りの家はそこに住んでいた老婦人が亡くなってから娘夫婦がそこを改造して下宿屋にしており学生などが4,5人住んでいる。 その一人が日本で整体を修めてオランダのサッカーチームのセラピストになりたいと単身渡蘭したK.H君だ。 去年か1年半ほど前に博物館のオープニングの時に、日本からアーティストを自分のギャラリーに招聘して展覧会を開いているアメリカ人女性がらみで紹介された。 その時英語もほとんどできずオランダ語を始めていた彼もこの間うちに引っ越しの挨拶に来て家人を交えてオランダ語で話したときには若い人の言葉を習う速さに驚いた。 なまじ英語が出来なかったことがオランダ語を進める力になっているのだろう。 今日前を通りかかった夫婦と話しているとその二人がその下宿屋の家主だった。 テナントとは殆ど接触がないのだけれど彼を知る限りではそのうち彼がオランダの免許をとれば年寄りの多いこの辺りのことでもあるのでクリニックを開くかスポーツジムで働くことになればいいとも言い、多国籍国家のオランダで最近、移民、難民が増える中、働き口を見つけるのは容易でないけれど日本人には優秀な技術があるから中国人のように顔が見えず徐々に広がるアジア人とも違い信頼が置けるとも言った。 そんなことを話していると又時雨が降りかかり我々は慌ててうちの中に電ノコと道具を抱えて物置に、その夫婦は走って自宅方向に急いだ。

雨が上がったあとの地面で働くので木靴を履いて作業しているとそれが面白い、もうそんなものを履くものは少ないのにと言う人がいた。 だけれどこちらは日本で下駄を履く習慣に慣れているからこれが甚だ使いやすいので何の違和感もなくまた毎日裏庭に出るのに都合がいいのだと応えるとそんなものかと納得したかしなかったかのような顔をして、木靴というのはオランダの専売特許だと思ったのにそうでもなかったのかと思い返している様子だった。 自分の国のものごとが自分の国独特のものだと思い込むのは視野狭窄の結果でもあり物事を相対化することの妨げにもなりかねない。 

こういう風に毎日雨や霰、雪の合間を縫って2時間ほど作業をしていると日頃とは違う体験をする。 何人かから誰かが自分の家に来るときあの木を目指してそのあちら側やこちら側と目印にしていたものがそれが無くなって寂しいという声も聴かれてそんなものかと思った。 この通りの並びは同じような家が40軒ほど続いているオランダ式かまぼこ長屋なのだ。


隣の猫に餌をやる

2016年02月25日 01時21分22秒 | 日常

 

隣のゲイのカップルがキャンピングカーでまた2週間ほどイタリア辺りに出かけたのだろうか、猫の世話を一週間頼まれた。 初めの一週間が隣のもう一軒向うの、我々より少し若いけれどもう2人孫がある夫婦で旦那は教育委員会のアドヴァイザー、その連れ合いはやはり学校関係で定年が近い。 何週間か前にゲイの一人が46の誕生日のパーティーを開き親戚、友人たちを交えて50人ぐらい4時から9時ぐらいまで飲んだり食ったりと親しく混ざり合ったのだがそのときにこの夫婦とテーブルを囲んで家人を含め普段立ち話か挨拶ぐらいでしかなかったものが四方山話で今まで知らなかった互いのことを面白可笑しく披露しあったのだった。 この夫婦には犬も猫もいないけれど彼らの息子や娘の家の猫の世話をするのに慣れているのでなんともない。 うちの猫が死んだ時と大体時を同じくして隣も2匹なくしていて、その後家は当分動物は飼わないのだけれどこのゲイのカップルは猫には目が無く早速雌雄2匹の子猫を飼い始めたのだった。 一度週末かに頼まれて餌をやったことがあったのだがその時はまだ小さく2か月ほどは外に出していなかったその間だったのでほんの小さな恐れを知らない猫たちにもう何年もしてきたように餌をやったのだった。

このところこの二匹はグングン大きくなって前の猫よりはるかに大きく育っている。 猫の日課、食事などについて書き置きがしてあり、黒と茶色のが雄のキト、三毛猫が雌のザラだ。 この2か月ほど昼間は裏庭から表の辺りを徘徊している。 けれど警戒心が強く物音を立てたり急に近づいたりすると驚いてどこかに隠れたり逃げたりしていたのが子猫のときからそうだったのだけれど雌猫のザラは好奇心が強いのかこちらが立ち止まったりかがんだりして見ているとこちらのほうを眺めつつ徐々に近づいて来る風だった。 物置の戸を開けて中にいると扉のところまで来て中を窺いこちらが動かずそのままいると物置に入って自分が立っているところを中心に中を偵察して出る、といった具合で近頃などはキッチンを開けておくと中に入ってきてぐるっと回って出ていくということもしていた。 時にはガラス越しに庭のザラを眺めていると彼女もこちらのほうを眺め、フイと踵を返し表の方に消えるということもしている。

前庭の立ち木を伐りその後片付けに毎日何時間かカーポートで電ノコで枝を伐り長さをそろえて芝刈り爺さんのようなことをしていると猫がそばを通りかかり新鮮な鋸の木っ端に鼻を付けて匂いを嗅ぐようなことをするのだがキトはまだ警戒心が溶けないのか遠目にこちらを窺ってそそくさと通り抜ける。 それにこちらはそんなときには猫のことなど構っていられないから放っておくと彼らに害のない人間が何かやっている、という風に思うのか徐々に警戒心も溶けてきている風だ。

朝家人は隣の家に入り乾いた餌を少しやり、台所のドアにしつらえた小さな通用口のロックを外し自由に出入りが出来るようにする。 この二匹の皮膚にはチップが埋め込まれていてIDとこの通用口に反応して彼らは出入りが出来るけれど他所の猫には開かないという仕組みらしい。 だからこの二匹は一日中あちこちと自由に歩き回りこの何日かの変わりやすく冷たい天気ではうちの中でのんびりしているということになるのだがまだ1年にもならない猫にはすべてが興味津々なのだから昼間にはかなり遠出をすることもあるようだ。 

夜の食事を済ませ鍵を手に隣の玄関に来ると足音を聞きつけた二匹が自分の足元でドアが開くのを待ちかねている。 中に入ると二匹とも行ってはいけない二階に上がるのだがなんせ腹が減っているので居間からキッチンに入るドアを開けるとバタバタと降りてきて餌の容器のところに飛んでいく。 そこでするのがまず乾いた小さな塊の餌を二つの容器に入れて通用口にロックする。 そうすると明日の朝までここにいなければならないことになる。 そのあとは湿った餌を用意する。 魚とか肉、鶏の肉を別々に入れてある小さなパックの内容物を二つの容器に入れてやつらの鼻の先におくとこっちのほうがよっぽどいいのかカラカラと金属の容器が鳴るまで舐め尽しそれが済むとまた乾いた餌に戻って来る。  死んだ前の猫二匹の場合は12歳ほどになっていたけれど雄と雌の性格がかなり違い、まるで子猫のようにみえた小さい雌猫は自分のものは手早く喰ってしまい自分より大きいおっとりした雄猫のぶんまで掠め取るようなことをするので叱るようなこともしていた。 湿った餌を用意している時に流しの上に飛び上がって容器に頭を突っ込みかねないことをするので手ではたき落とし待つようにしつけをしていた。 今の雌猫は前のに比べるともう遙かに大きくなっていて程度の差はあっても前と同じような性格が垣間見られるようだ。

猫が餌を喰っている間椅子に坐って眺めていた。 三日ほど前には椅子を動かすときにちょっと音を立ててもびくっとこちらに一瞬視線を寄越すのだが3日目となるともうそれもなく徐々に慣れてきたのだろう。 ザラのほうは今日初めて抱いてしばらく腹や頭を撫でている間されるに任していたけれどそれでもまだ体が硬いように思う。 キトのほうは晩飯を食った後は爪を引っ掻いて尖らせる柱のところに行きガリガリと音を立てて爪を磨く。 自分は部屋を薄暗くして玄関から自宅に戻る。

外に出ると一日中降ったり止んだり晴れたり暗くなったりしていたものが今は雪が降っていた。 この辺りには野良猫はいない。


木を伐る (1) 11年前に比べると、、、、、

2016年02月24日 03時20分48秒 | 日常

 

2016年 2月 22日 (月)

24年前に引っ越してきた時にはなかった木を伐った。 何もせずともどこから来たのかドングリから芽が出てそのまま放っておいたら屋根の上まで伸びたのだから12m程だろうか。 夏には路上駐車している車の上に 大きな影を作り何時乗っても涼しかった。 夏の暑い時に時々年寄りが立ち止まって涼をとっていたこともある。 無から12mというのを身をもって体験したのは初めてだ。 いわば我が家の歴史を見て来た木なのだ。 周りの人々は前庭には大きすぎるだの、大きくなりすぎれば大風の時に倒れて思わぬ被害を被りかねない、今のうち、というのをこの2,3年聞いたけれど建物の陰になってオランダではいつも吹いている西の風はここには来ず揺れる恐れはない。 けれどここに来て歩道と庭の低いレンガのしきりに罅が走ってきた。 根が張って歩道のほうに伸びそのうち舗道の敷石を持ち上げることになるのだろう。 そういうところは町のあちこちにあり歩行、とくに乳母車や老人が乗る電動カートには障害となる。 だからここに来て仕方なく伐れ伐れコールにゴーサインを出した。 

甥の一人はオランダ陸軍から消防士になって地元の消防署で働いている。 嵐や何かの時には倒木の処理をする。 だから木を伐るのに慣れていて先日家人が伐ってくれないかと頼むと二つ返事で引き受けてくれた。 休みの日に消防署からチェーンソー一式を持ってきて伐ってやるからその代わり伯父さんの日本食を喰わせてくれと言ったらしい。 家人は二つ返事で合意して今日雨が上がった鬱陶しい空の下、どの辺から伐ってほしいか尋ね胸の辺りに切れ目を入れて舗道のほうに倒した。 あっけないほど早かった。 隣にその旨言ってあったから車は他のところに駐車してあり広がった枝が被さる恐れはないように開けてあった。 我々は車道に車が来ないように見張っていた。  意図した方向にちゃんと倒れるかちょっと心配したけれどそこはプロで慣れたもの、難なく狙い定めたところに倒し後は太い枝をチェーンソーで払い我々はその枝を前の芝生にエンヤラと引っ張っていったらそんな長い枝の大きな山が二つ出来ていた。 直径30cmほどの幹はいくつかに切りその一つは何か月か乾かしておいてそのうち何かの形に彫ろうかと取っておいた。 家人も同じように太い幹、枝で何か造るつもりのようだ。 一渡り格好を付けて後は何日かで残った枝を整理すればいい、と思ったより早く伐れたことに喜びうちの中に入り、この間ウオーキングのときに土産に買って来たグルテン抜きのビールを3人で飲んだ。

この家で太く高い庭木を伐ったのはこれが2回目だ。 前のは7,8年前だっただろうか、どんな具合だったのだろうか、憶えているのは色々面倒な書類のことで何か月もかかって伐ったのだし、一番骨だったのが根を掘り起こすことだった。 それに比べると木を倒すことなど何のことはない、とその体験を骨身に沁み込ませていた。 細かなことは覚えていないし、当時の写真もあるかと古い日記を繰ってみた。 するとそれはもう11年も前のことで今更ながら時の経つのが早いのに驚いた。

 2005年3月から11月まで7回に亘って庭木を倒すと題して下のように書いているのだが写真が見当たらない。 写真は撮っているはずだし撮っていたのなら載せているはずなのに見当たらないのはどうしたことだろうか。 テキストはメモリーには大して影響がないのだが写真は容量を喰うから古いものは消してしまっているのだろうか。 それにしても今に比べると色々とごちゃごちゃ細かいことを書いているような印象を受ける。 写真がなくテキストだけならこうなるのだろうか。

 http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/555650.html

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/579886.html

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/679453.html

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/704664.html

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/13705542.html

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/13973687.html

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/15858671.html

 

 考えてみるともう11年になるとは早いものだ。 ついこの間だと思っていたのだが今では記憶の断片、その時の穴の大きさなどの残像を思い出せるだけであとは忘れてしまっている。 だからこの日記の機能でもある、後々当時のことを思い出すためのメモ代わり、とする目的は果たしていると思う。 

しかししつこくウダウダといろいろ書いているものだなと思ったのだし、もう11年前には定年準備の週18時間勤務が始まっていたことにも今更ながら驚き、定年へのソフトランディング(軟着陸)の長さに7,8年だとおもっていたものがそんなものだったのか、だから去年定年になったときには今更落ち込むこともなく毎日が面白く、人から仕事が恋しくないかと尋ねられることが不思議だった。 今これで30歳若ければ何も言うことが無いのだが筋力、体力、持続力が無くなってきている今、こういう慣れない作業には息が切れる。 

飲みながら何かを摘まみながら甥と喋っていた。 甥は家族の若い者と知り合いの10人ほどで去年モンゴルを2か月ほど歩いて来ている。 そしてモンゴルと中国国境の4000m以上の峰に登って戻ってきた。 4年ほど前に幼稚園からの幼馴染の彼女と1年半ほどリュックを担いで世界を一周してきている。 夏はどうするのかと訊くと父親・弟・義理の兄・兄の友人10人ぐらいでサイドカーつきオートバイ何台かでノルウェーのオスロから北上し北極圏に入りオーロラを見に行くんだと言った。 テントを積んでキャンプ生活になるとも言う。 それに来年はキャンピングカーを借りてアメリカ大陸のボストン、ニューヨークやシカゴにミシシッピー河を2つ半になる息子と彼女の3人で下る計画があると付け加えた。 なるほど陸軍にいた時激寒のノルウェーの原野で鍛えられているので何処へでも行ける下地はある。 

来年と言うと甥の息子は3つ半になる。 もう30年以上前に初めて甥を見たのは4つ前で生まれた時から心臓弁膜に穴があり普通より小さく血色も悪かった。 4つになるころ何時間にも及ぶ手術に耐えられるようになったと地元の病院で手術を受けた。 その後の成長は190cmにもなって軍隊、消防士、あちこちへの旅行と普通より育ったのではないか。  自分はいわば今日伐った木のように成長する甥を見てきて今その子供がその時の甥とはまるで違った元気な姿であちこち走り回るのを見てはその世代の変わり方に月日の経つのは早いものだと今更ながら年寄りの感慨に浸る。


マスカットのジェリー

2016年02月22日 20時30分08秒 | 喰う

 

家人はこのところジェリーに凝っていて暇があればデザート用にいろいろなものを試している。 寒天とジェラティンを両方試して寒天が上手く使えないようで、だからこのところジェラティンでデザートのを作っている。

この日はマーケットで種無しマスカットがあったからとジェラティンを溶いてドイツのいい白ワインを混ぜてそこにマスカットを放り込んでボウルにあけて冷蔵庫で冷やした。

カスタードソースを作ってそれをかけて喰った。 ブドウの酸味がカスタードの甘味と合うようだ。

味はともかくマスカット・ジェリーの色目と透明感が面白く、これを撮ろうとしたのだがテーブル上のランプと傘が反射して幾らあちこちと角度を変えてもジェリーの曲面に白いものが写ってなんだか都合が悪い。 


朝顔に、、、

2016年02月21日 18時10分54秒 | バンバン

 

ここに書くのは    朝顔に釣瓶取られてもらい水 (加賀千代女) ではない。 無粋なことなのだ。

 日曜の午後、定例古式銃競技会の25mの部に出かけて射場で30分過ごしそのあと次の何人かが競技に励んでいる傍で銃の汚れを綺麗にして黒くなった手を洗おうとトイレで手をゴシゴシ洗っていたら冷水だったためかこの頃近くなった小水のお呼びがかかってきた。  それで男子トイレの小便器に向かったら目の前に小さな紙切れが張られていてそこには英語の文が次のように読めた。

 

      SHOOTERS

          with 

      short barrels

        and/or

low muzzle velocity

 

       PLEASE

    engage target

    at close range

 

銃身が短く、且つ若しくは発射速度の低い射手 各位に

的を至近距離から狙うよう願います

 

射撃クラブだからアメリカのどこかのクラブで見たものを牽いてきたのだろう。 自分が今日撃ったカリブの海賊が持っていたのと同じピストルは黒色火薬を銃身の先から込める方式なのだがその銃口が muzzle で 銃口からの速度、初速度が実際に遅いのとここで言う遅さは比較にならないものだ。 昔一度込める火薬の量が極端に少なく音はしたものの10mも飛ばずにまん丸い鉛玉がコロンという音がして射場の床に落ちたことがあるけれどそうなるとそれはこの場合多分最後の滴りのことになるのだろうか。 普通は単発なのだからここでの警告は的を得ていないようにも感じるけれどまあ大体はショットガンで散弾を撃ったとすれば的は外れてはいないだろう。

射撃クラブでなくとも世界のあちこちで小便器にはそんな工夫があって小さな蠅が一匹底を這っているような絵があったり、あるところでは小さなサッカーゴールのネットにパチンコ玉より小さいようなプラスチックのボールが糸でつながっていて小水でボールをゴールに押し込むようなゲーム感覚のものまであるのだがここではそんなこともなく何の変哲もない昔からの小便器の上に張られた紙片はここならではのものだ。 

それを見ていてふと、日本にも古くからそんな文言が書かれているのを思い出したが、目の前のものに比べると遙かに抒情性があるように思う。 もっとも射撃クラブに何の抒情性をもとめるのかというものが殆どなのだけれど無骨なオランダ人たちには東洋の抒情の行くところに驚くに違いない。 もうだいぶ前に亡くなったヘンク爺さんがこれを聞いたら喜んでいたに違いなかったのに伝える機会を亡くしたのは残念だ。

 

朝顔の外に零すな竿の露

急ぐとも 心静かに手をそえて 外へもらすな 松茸の露

西へ東へ振りまくな 南の人が北なしという


ART ROTTERDAM 2016 というイヴェントに出かけた

2016年02月20日 18時28分38秒 | 見る

 

2016年 2月 12日 (金)

この日の概要は下のように記している。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/65041366.html

 

セミナー会場である世界遺産登録建築物の旧工場の事務所然とした棟でオランダ美術業界誌の主催するセミナーが募った申し込み順100人弱の参加者を集めてこの夏アーネム駅近くの丘で開かれる今回で12回目になる4年に一度の野外芸術展のコンセプトを巡って説明会形式でのセミナーがあった。 展覧会のテーマが「インドネシアの若い芸術家、グループとの交流」であるらしいのでその説明にインドネシア側から30代半ばとみられるインドネシア人の造形作家・「クリエーター」と称する芸術家がインドネシア系オランダ人女性のオランダ語での説明の後20分ほど英語でプレゼンテーションをした。 けれどそれは具体性を欠く曖昧模糊としたもので貧しいと批判されても仕方のないものだ。 その貧しさは単に彼の英語の貧しさに由来するものではなく、赫とした具体的なアイデアもプランも提示することなくただ漠然とした単に地元ローカルとの交流、自分たちの現在を提示して世界の輪で見聞を広めるというような、美術を専門にする場では謂わば詐欺師にも響きかねない説得力のなさで参加者の眉を顰めさせかねないものだった。 後の質疑応答の際にも、インドネシアの自由活発な若い芸術家たちの活動を知りたいというような参加者から、今まで様々にインドネシア内外で類似のイヴェントを組織してきて特にオーガザイザーや個人に対する政府なり政治グループなどからの影響、介入といったものに対してはどうなのか、というような当然の質問にもそれを理解できないようにも響く曖昧な態度に疑問が湧いた。 それを言葉の不自由さに由来するものかノンポリととるか、はたまた政治の介入が当然あるものとしてここで自分の発言に対する内外からの影響を恐れるあまりの対応なのかどちらにも解釈ができるのだろうがそれまでの説明からして自分は前者だろうと解釈した。 芸術はその美やそれを表現する活動を巡って政治的になる部分もあるのは当然のことで現在の世界的状況の中で特にインドネシアからのゲストを招いてこの地域の芸術家たちの存在理由をも認識する参加者たちの間には首をかしげるような回答にオランダ側の主催者に対する一部からの批判が出てもおかしくはない。

セミナーが開かれた小さい管理棟から斜めに幾つも本館に架け垂れられている透き通った橋を渡って巨大な建物の一階の広大な空間に来るとそこでは数百人の芸術家たちが展示する120以上のブースがそれぞれヨーロッパ内外各地の作家、アートギャラリー、メディア、文化組織等に別れて数千人の来訪者を集める、という盛況だった。 当然ギャラリーのブースにはギャラリーと契約している作家の情報も提供される。 この 「ART Rotterdam 2016」というのは様々な言語が飛び交う美術界のシリアスなイヴェントであるようだ。 

混雑する会場入り口付近でキョロキョロしているとこれから将来有望な若い作家たちのセクションがあるのでそこを巡る半時間ぐらいのガイドツアーがあるから参加しないかとの一本釣りに引っかかった。 自分たちがそれに加わるというと8人ほどのグループが出来たのか大勢行きかう人の間をぬってツアーが始まった。 なるほど粗削りながら興味の惹く作風の作品が提示されている屋根が物凄く高い旧倉庫らしい場所を巡った。 10人ほどの作家のインスタレーション作品群はオランダの各地にある美大の教師からなる委員会によって選考された新人たちのコンテストの選抜展だったようだ。 だからガイドはそれぞれの作家の背景、作風の変化、何がここに選ばれたポイントなのかを詳しく説明するのだがそれは何人かが彼の育てた学生だったということ、選考委員らしいことから詳細な情報が与えられる。 そこで、その背景は我々が説明を聞くまでは未知であり、作品に対面したときの印象とその説明を聞いても作品の印象はかわらない、そんな素人の自分にとって細かな象徴主義的な説明は何の意味があるのかというような無礼にも響く質問をしてみた。 それは彼が真摯な教師であるから試みたことでそんなことからこの質問の後ツアーの中で様々な興味ある会話を楽しむことができた。 これは一般に芸術の意味と観るもの観られるものの関係をめぐるものであるからだ。 当然、ものをそのものだけと捉え周りの背景、「おはなし」は関係ないとする態度も当然あるから謂わば若い作家たちを売り込むべく努力する真摯な教師に対するいちゃもんであるのだけれど「アート・イヴェント」でプロモーションに励む学校の先生には退屈しのぎの話の振りだったようでお互いにやりとりを楽しんだ。 このイヴェントの目的は「芸術」を売り込むことで芸術とはなにか、というような「無粋」なことを話す場ではないのだけれど素人の自分が「プロ」の中に入るとこのような「青臭い」話しも「刺身のつま」として機能するのも知っているから敢えて行ったということなのだ。 偶々日本から短期オランダに来ている美大の留学生に行き合わせ、その続きを吹っ掛けユトレヒト美大の仲間と来ているシャイな女子学生に年寄りの迷惑なフリを振っている、と家人に袖を引っ張られそこを離れた。

ヴィデオ・アートというジャンルが確立されてからもう大分経つ。 1987年だったかドイツのカッセルで開かれたドクメンタを見聞してそのときヴィデオを媒体として活動する韓国人作家ナム・ジュン・パイクの作品が印象的だった。 その系譜を継承しそれから様々に枝葉を広げCG技術をも駆使した作品もいくつか観られた。 CGの分野はこの20年以上映画産業に貢献しておりそれに関連付けられるような作も見られる。  景色の中をカメラの視点で移動しどこにもないような景色を逍遥していくものがあった。 その中でその景色は虚であり、そのうち景色が展開していくにつれて前の画面が2次元に収束されさらには薄く平らな線となり舞台の書き割りが除かれて行くように移動するけれど、背後は新たなそれまでとは齟齬のない空間が続くという一種銀河系を越えてどこかにあるのではと思わせる異次元空間を提示する作品は印象的であり、それらはアニメからは決定的に一線を画するもののようだった。 このような技術に支えられヴァーチャルな世界が一層今迄以上に現実味を帯びて創造されていくだろうことは近年のメディアに於けるこの分野での進化を経験すると先は明らかだ。

現代美術の市であるから何世紀にも亘るカンヴァスと絵具による具象絵画、大理石、焼き物、金属を使っての2次元、3次元の伝統的作品は少ないものの新しい素材、手法を駆使して今迄に無かったような意匠をもつ作品が殆どだ。 ただオーソドックスな写真作家の作品もいくつも見られたけれどその大部分は何らかの割合でデジタル処理されたものだ。 ただギャラリーが並ぶブースのインスタレーションは実験的なものは少なく殆どが何がしかのステイタスを得た手法・表現であるようだ。 現代芸術の分野で様々な批判的な眼を持つ作家たちの作品、インスタレーション、アクションを集めた建物には粗削りなむき出しの広大な工場空間に無造作にそれらの作品がしつらえられ、そこでは行動する作家たちが銘々活動に励み、ブースで行われているように売り込むことには力点が置かれているようには見えなかった。 

そこでDJに励む作家はLP,CDを加工し古いターンテーブルのサファイヤ針のついたピックアップで再生した音と主会場にしつらえられたマイクで集められた音をノートパソコンで編集しサウンドスケープとして提示するDJ活動だったのだがもう40半ばと思われるその作家に自分が小学校の時に経験した、重いSP盤をまだ人造宝石の針が出ていないときに単なる金属の針を屡交換して朝礼の音楽や運動会の時にラジオ体操のレコードを操作したときのことを彼がCDにスクラッチの傷を彫りこみ再生させるのを聴きながら話すとその音は今私がやっていることとあまり変わらないようなものだね、私はスクラッチノイズを世界に必要不可欠のものとして作っているんだと半分真面目な顔をしていう。 この実験棟パヴィリオンでとりわけ大きな空間が用意されているところでは細いパイプを組み合わせて巨大な怪獣か昆虫かというようなモビールを歩かせるテオ・ヤンセンが二つ三つそんなサンドビースト(砂浜の獣)と呼ぶ作品を動かして遊んでいた。 日本に行ったことがあって子供たちに喜ばれたんだよ、日本人はこういうの得意なんじゃないのかなと言い、周りが比較的若い造形作家の中で自分と同年配70前の工作好きの作家は自分が造った獣のジョイントを見て回るのに忙しいようだった。

日も陰り始め会場が薄暗くなってきたので次の会場に行く前に本館のラウンジで何か飲もうとそこに行くと併設の大きな空間にベルトコンベヤーをうねうねとくねらせた回転ずしがしつらえられており100人余りがそのうねうねとしたところに並んで座り寿司を摘まんでいた。 回転ずしの貧しい質に対してバカ高い値段にウンザリしながら眺めていたのだがなるほどこんな大型で妙な形のものを造るのもアートフェアの趣向なのかと納得したのだった。 期間限定だからできるものであってとても常設では採算が採れないだろう。  

人のごった返す会場を出るとこの時期に珍しい夕焼けが会場周辺に並べた旗の上に乗っていた。

 

写真は Corine Zomer (1983)作  「AVA Levia (2016) 」    150x150x200cm


胃の調子がよくないようだ

2016年02月19日 22時36分12秒 | 健康

 

この2か月ほど空腹になると胃が痛む。 それは何か初めは胃が空になったときに消化作業が空回りしているように感じ胸が焼けるというようなものではないけれど微かではあるけれど鈍い痛みが来て、何か腹に入れると消える種類のものだった。 大体が生活時間が朝昼逆転していて昼頃起きて朝昼兼用の食事、夕方6時には夕食、夜中の3時ごろ夜食、というのが普通でありそれがこの4,5年続いているからそのシフト自体どうということはなく何の不調もなかった。 それに加えて不規則にアルコールを摂取する。 それは早朝であったり午後、夜中と量は多くないものの毎日ビール小瓶1本、ワイン小グラス一杯、ウイスキーかジンシングル2杯ほどであって自分の不規則な食生活やアルコール摂取量を家庭医に伝え、その是非を問うても自分の年齢では特に悪いものではないとのことだったのだが、この2週間ほど睡眠時間が短いことが多く空の胃に早朝からアルコールを入れるというようなこともして胃がが驚いたということだったのだろうか。 胃の痛みが徐々に増して食事の後は痛みを感じないもののけれど食事と食事の間に痛みを感じる時間が長くなってきたようで先日いよいよ堪らなくなり家庭医のところを訪れて診てもらった。 事情を話すと医者は触診し、聴診器で胃の辺りを探っているて胃ではないようだ、ごろごろという大腸が活発に活動する音が聞こえるから一度血液検査をして判断しようといい、町の反対側にある血液採取センターに送られた。

翌日電話で血液検査の結果を訊ねると腸には異常がないことが数値で出ていて、そうなら胃酸のぐあいの痛みかもしれない、ついては胃酸の量を抑える薬を処方するから夕方に近所の薬局に行って2週間分のカプセルを受け取ればいい、とのことだった。 血液検査の結果ビタミンDが不足しているとでているからその錠剤も処方しておくから、ということで一日の終わりに薬局に受け取りに行った。 この2種類は保険適応外らしく二つで2500円ほどその場で払わなければならなかった。 医者の処方による薬は普通1年で3万円ほどは自己負担ではあるけれどそれを越すと保険で処理されるという契約になっているようだ。 この二つが自己負担だというのは深刻な病気に対する処方でもなく単なる胃酸調整剤とビタミン補給剤であるからだ。

胃酸調整のカプセルは毎日午前一錠服用することになっている。 夕方5時ごろまでは何ともなくなったけれど6時ごろ微かに痛む。 そして食後は痛みが引きそのまま翌朝まで痛みはない。 自分は今まで胃が痛くなるような経験はしていない。 だからこの症状に接して如何に習慣化された痛みが通常の生活活動を妨げるかということを経験した。