暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

2014年 6月 29日 (日) 特に何もなし

2014年06月29日 23時27分30秒 | 日常

 

日曜日だった、といっても日常とほとんど変りはない。

昨日は久しぶりに子供二人と86歳になる姑が集まって自宅で食事をした。 自分が食事当番だったので5人分作らなければならず生涯オランダ食だけで過ごしてきた姑には寿司は別として和食には慣れていないしこの半年ほどでバタバタと姉たちと弟を亡くして気も体も弱っていることもあってここは無難に昔からのオランダの農家で喰うものにしたのだけれど一つだけステーキ肉を和牛風のものにした。 ここ10年ほど欧米では和牛風の脂肪が肉にうまく散らばっているステーキ肉が飼育され始めていてそれが近郷の村で飼われているのでその肉が近所の肉屋に入る。 それまでもう何年も赤身に比較的脂肪分を含んだステーキ肉を薄く削いでもらって鍋にしていたのだがこの肉は和牛とかわらない。 欧米では肉屋にはカルパッチョの肉は別として日本のように肉の薄切りは店頭に並んでいない。 そのステーキ用を5人分買ったら1kg弱になっていた。 その肉を姑は今まで食べたことのないほど柔らかくて旨いと言い、150gほど平らげて後は孫に廻したけれど皆その食欲を見て喜んだ。 

姑は孫たちの話を聴き昔酪農農家で暮らした自分達の若いときのことを語り他はそれぞれの旅行の話をした。 それにしても姑はこの7年ほど病を得てその変りようは30年前に初めて会ったときからするとまるで別人になったように痩せてしまい、それでもそれが結局長生きするにはよかったようでもある。 余命3年と言われてからもう7年保っている。 だからこういうことがあと何回出来るかというような砂時計を感じながらの時間でもあることには曰く言いがたいものがある。 

誰でも死ぬというのは確かだし人は往々にしてそれを忘れがちでその蓋然性が高くなる年齢になるとそれを想わないずにはいられず、そうなると周りで知人たちが逝くようになると次は、、、、、と無意識にそれを数えるようになるようで、それが鬱陶しく辛気臭いと感じその想いを払うにしてもまだ若さが幾分かあればそれに抵抗の気も起こるのだが90前後になると「お迎え」を待つような気分にもなるというのをあちこちで聞く。 10日ほど前自分にはオランダ最後の叔父の葬式に姑の腕を取って参列し晴れた青空の下で最後の埋葬の折、牧師はスピーチの中で叔父は祝福されて天国に召されたと常套句を口にしたのだがそれが「お迎え」ということなのだろう。 けれどそれでも遺族、親族には必ずしも嬉しいものではないのだからそういう風に収めないと収まりきれない人の心に対する慰めとして受け取るべきだと納得させた。

息子がインターネットで見つけた赤ワインを試してそのまま壜を半分ほど飲んでいたから自分は姑を彼女が住む居介護施設に送っていけず、そこで息子と娘が申し出て彼らの祖母を送って行くこととなったのだがその車の中では、まだ四方山話が続いていたことだろう。

今日は昼を周って起き出した。 といってもとりわけすることもなく誰もいない家から自転車を出して町に出掛けた。 今、世間ではそろそろバカンスに入る時期にあたってこれが7月の中頃になればもう人はあちこちに散らばるから人を集めるのは今だというのだろうかいろいろな催し物が行われている。 それに日曜でもあり大通りでは蚤の市、大きな駐車場では地元バンドのコンサートということになっていた。 眺めてみても取り立てて興味を惹くものでもなくいつものスーパーに入り二つ三つ買い物をして帰宅した。

 その後、家人と夕食を摂っていると近所からは物音もせず表は車も通らないからサッカーでオランダがやっているのかと想像した。 そういえば町に出掛けたときに大人から子供までオレンジ色の格好をしているのが目に付いていたからそう思ったのであって、そうだとすると大抵一つ目の試合時間は6時前からで、そうだとするとそれではもう後半に入っているはずなのに近所から何の歓声も聞こえて来なかったのはオランダ劣勢なのだろうと思って食事を終え、8時のニュースの前にテレビを点けると案の定 メキシコーオランダ 1-0だった。 あと10分ほどで終わるのかと思い、それならああ、また負けるのだなと思ってみていると得点があり庭仕事をしていた家人が窓をノックして笑っていた。 サッカーを見ていなくとも自国のチームが得点すれば隣近所のどよめき、歓声でそれが分かるのだ。 そうしているうちにと8時のニュースの前に試合がどんでん返のようにしてオランダが勝っていた。 まだ暮れるまで時間のある明るい空でそれが上がっても見えるわけでもないのにに幾つか花火が上がっているのが聞こえた。 明日のフィトネス・ジムの老人クラスでは先週に続きまたサッカーにちなんだメニューになるのだろう。 

涼しく快晴ではないけれど少々薄暗くはなっていても10時45分の西空はまだ充分明るかった。


ル・アーヴルの靴みがき (2011);観た映画; June '14

2014年06月29日 01時32分43秒 | 見る

邦題; ル・アーヴルの靴みがき   (2011)

原題: Le Havre

96分

 
「過去のない男」「街のあかり」の名匠アキ・カウリスマキ監督が、北フランスの小さな港町ル・アーヴルの裏通りを舞台に贈る心温まる人情ドラマ。ひょんなことから不法移民のアフリカ人少年と出会った平凡な老人が、彼を救うべく近所の人々と力を合わせて奔走する姿を、ペーソスを織り交ぜ優しい眼差しで綴る。主演は「仕立て屋の恋」「ラヴィ・ド・ボエーム」のアンドレ・ウィルム、共演に「マッチ工場の少女」のカティ・オウティネン。

 北フランスの港町ル・アーヴル。かつてパリでボヘミアン生活を送っていたマルセル。今はここル・アーヴルで靴みがきの仕事をしながら、愛する妻アルレッティとつましくも満たされた日々を送っていた。しかしある日、アルレッティが倒れて入院してしまう。やがて医者から余命宣告を受けたアルレッティだったが、そのことをマルセルには隠し通す。そんな中、マルセルはアフリカからの密航者で警察に追われる少年イドリッサと出会い、彼をかくまうことに。そして、母がいるロンドンに行きたいという彼の願いを叶えてあげるべく、近所の仲間たちの協力を得ながら密航費の工面に奔走するマルセルだったが…。
 
以上が映画データベースの記述だ。 オランダ国営テレビの深夜映画として観た。 観ていてこのような人情話を描くのによく出来ていると思った。 よく出来ているというのは時間軸のことであって本作の様々なシーンで時間が混ざっていると感じることだ。 古い港町の酒場やそこに集う人々、そしてその地区の佇まいは1970年代のものであって映画を観るものの常でその背景の細かな道具の群れがその時代を示唆するのであって例えば登場人物たちの服装、町の佇まいに街を行く車の車種などがその時代の香りを運ぶのだがそこにこの少年をロンドンに渡らせるのに必要な額が3000ユーロであってチャリティーコンサートで集めた紙幣に5,10、100ユーロなどの使い古された札が出、隣人が現在の携帯で密告する場面が出るとそれは70年代ではありえず、警部がカフェーで注文する一杯の赤ワインは2005年の何々だというのと合わせるとそれは1970年代ではありえない。
 
何故そのようにわざわざ時間の軸をダブらせるようなことをしたのかを想像する。 一つはこれを人情話に仕立てたこと。 今の世界に設定すると厳しいものにならざるを得ず、例えば「君を想って海をゆく (2009)」なり「In This World (2002)」のような時間軸がしっかりした作品とは主題は同様であっても肌触りがかなり違ってくる。 それぞれの作を観たときに次のように書いている。 



その肌触りの違いの理由が原題に示唆されているように思える。 原題では港町の名前が題となっていて必ずしも主人公の靴磨きが話しの中で一人屹立するものでもなく男がそこに今居るということを含めてノスタルジーと人情に溢れる港町が我々のこころに残るという仕組みになっているのだと思う。 登場人物たちを人情に溢れたものに仕上げるというのは現在の移民政策に対する批評であり昔気質の警部の行動にもそれが示されているように見える。

時間軸をダブらせるというのはアフリカからの密航者たちの歴史というのは今に始まったことではない、ということを示唆しているようでもある。 ほとんど毎月、毎週のようにニュースで報道されている海難事故に北アフリカから難民達が粗末な船に押し込まれた末に転覆し死亡するという事故であり毎週何千人という避難民がスペインやイタリア南部の島に押し寄せイタリア政府がそれに対応できず難民の希望するのが北ヨーロッパであれば財政難のイタリアが自分達だけで負担するのは不公平だとEU全体への対処を諮っている現状でもあるそんな一例をとっても移民・難民の問題はアフリカだけでのことでなく戦火がみられる中東、西アジアなど多面的でもある。 アジアに関しては中国人の深く静かに問題として表面にでることの少ない移民の100年以上の歴史が思い浮かばれる。 

話が少々拡散してしまったきらいがある。 先日モロッコ旅行から戻ってきて旧植民地の言葉、フランス語がコミュニケーションとして使われているのに立会い、世界言語の英語の浸透が少ないのを経験した。 本作で少年が自分の父親はガボンで教師だったといいフランス語で男と会話しロンドンに行くのを目的としているのだがもしロンドンに行き着いたとしたら直に英語を習得しそこで生き延びるだろう。 自分の言葉と英、仏堪能な少年になる。 塾も大学教育の語学教育も経ずして習得する世界なのだ。
 
尚、本作の監督の作、「過去のない男(2002)」を観ていたかもしれないと自分の書いたものを探っているとそれを観た日に観た「キルビル1(2003)」との比較を8年前に書いているものを見つけた。
 
 
話はほとんど覚えていなかったけれど男が住む世界と映像の記憶にその感触は蘇り、その中で本作とも通じる作法や音楽などのことに思いが行った。 本作では懐かしい人々の中に生き延びているロックン・ローラーが配置されてそこで歌う場面は「過去のない男」との歌との共通項に括られるものである。
 

車中の化粧

2014年06月28日 01時50分40秒 | 日常

 

ロッテルダムで「ジャズの日」という催し物があるのでそれに出かけるべく家人と二人電車に乗った。 アイポッドで音楽を聴きながら景色を眺めていてふと眼を上げると前の座席のの隙間から女性が化粧しているのが見えた。 聞いているとパーティーか何かに行く3人組の「きれいどころたち」らしくそれぞれ手鏡、スマートホンに向かって一所懸命顔を作っている。 付けまつげの調子が悪いのか何度もまつげをカールしたり微調整したりと忙しいそうだ。 結局駅につくまでがさがさやって三人がやがやと自分達の前を降りていったのだがその服装に驚いた。 どの娘も後ろからでは見えもしなかった下半身にキンキラキンのビーズとかキラキラするものが一杯ついていた。 


モロッコの旅(7)エッサウィラの町に来た

2014年06月26日 23時45分58秒 | 日常

ウィキペディア;エッサウィラの項;(日本版には情報が殆どなく、そこから辿る英版・仏版に画像、諸情報が多く見られるのでそれらを参照されることをお勧めする)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%83%E3%82%B5%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%A9

 

マラケッシュで4泊してそこから冷房つきの主に外国人観光客用のリムジンバスで150kmほど西に離れた古くはポルトガルの要塞があった港町、今は観光地・漁港のエッサウィラに来た。 

オランダ・スキポールから3時間飛び、ボルドー、ピレネー山脈の雪をいただく山を見下ろしそこに見える道を眺めていてそれが聖地を巡るルートなのだろうかなどと見ている間にポルトガルを抜け、ヨーロッパとアフリカを隔てる海を跳び越すと薄茶色の地面が続く。 そうしているうちにマラケッシュに着いたのだからその後モロッコを見たといっても旧都であり内陸部のマラケッシュだけでそこに4日も居るとカルチャーショックとその過剰さにちょっと食傷気味にもなる。 だったらそこから離れた海辺の保養地で泳いだり何もしないでぶらぶらしたいとアパートを借りて5泊を組んだのは正解だった。 知人などはモロッコの旅2週間といってももっとあちこちに行っている。 車を借りて走ったり鉄道の旅だったりとマラケッシュやエッサウィラなどは一泊か二泊で済ませて移動するというようなもので、それは出来るだけ沢山見ようという意欲からくるものだろうけれど自分にはそのような意欲は無い。 

もともとどこでもよかったのがたまたま家人が探してきてそれに乗ったというだけなのだから予備知識などないし今更タブレットを手に現地を歩き回る気もない。 そんな中でもマラケッシュに5日いてあちこち歩き回りここに来てのんびりすことになった。 マラケッシュは5日で見るのには大きすぎる。 エッサウィラから戻ってまた5泊するのだがマラケッシュを分かるには半年以上は住まねばならないだろうしもっとかかるかもしれない。  自分はオランダに2,3年かと思っているうちに34年になり自分の経験から半年や一年住んだだけでそこが分かったという人の知識を疑うものであるから自分の経験したことからして見知らぬ北アフリカにくるとそれを思い出す。 

交通手段、言葉などの不便さから自由にあちこちには出かけられず、もしこれが30年前であればホイホイでかけたのだがもうこの歳ではマラケッシュのような過剰な都市は少々荷が重い。 友人に借りた何年か前の英版 Lonely Planet だけでは移動するには便利ではあるけれど町の情報が少なすぎ、それは初めに自分で準備しなかった報いでもあるのだがそんなマラケッシュに比べるとエッサウィラは居心地のいい町だった。

この町の印象は古くてこじんまりしていてマラケッシュにあるようなハッスルは少ないようだ、というようなものだった。 だからゆっくり出来た。 それに我々の家主夫婦とは自由にオランダ語で話せ、50前とみられるモロッコ人、イケメンのカリッドは今自分の住む町にも住んでいたこともあり、また彼のオランダ人の夫人と一緒にすぐ上の階に住んでいるので毎日顔を合わせ必要な情報は得られていたから楽だった。 そこはホテルではなく普通のアパートであるので周りの住民に混じり日常生活の中に入る、といったものだ。 これが要るならその角の店、パンならあそこ、生鮮食料品ならメインストリートのあの店、と言った具合だった。  エッサウィラはモロッコでも有名な観光地であるらしく5月の終わりではまだバカンスの季節ではないから比較的観光客が少ないということだしマラケッシュに帰る翌週からアフリカの民族音楽とワールドミュージックの世界的に知られたフェスティバルになるとホテルが取れないということも聞いていた。 けれど我々のいたときは当然観光客に依っている町であってもモロッコ内外の御のぼりさんが多いのは確かだったけれどそれでもゆったりしたものだった。

エッサウィラは風の町として知られているらしい。 我々が滞在した5日間で初めの4日は嵐のため漁船が出られず漁港に舫い密集していた。 それも我々が着く前4,5日もそうだったというから魚を喰うならちょっと、という話も聞いたけれどレストランでは久しぶりに炭火焼きの鯛を喰い満足した。 ここでの嵐というのは強風のことで雲も何もなひとつない青空が続く毎日だった。 大西洋からの風が常時吹いているのだという。 マラケッシュとは違いここは日中歩いても暑さでばてて昼寝をしなければ持たないということはなかった。  だから夜になると雲のない星空の下、かなり冷えるので頭からすっぽり被る灰色のジャラバというフードついた民族衣装を買ったのだった。 これがこの旅で一番の自分への土産だった。 

直径1kmほどの旧市街は城壁で囲まれ幾つかある門の一つ、北東の Bab Doukkala門から100mほど外に離れたところにアパートがあってそこではマラケッシュのホテル住まいで少しは隣近所の普通の生活は観ていたもののここの城壁の外では物売りに纏われ付かれることもなく誰からも何もかまわれなかったのにほっとして嬉しかった。 それにこの町は昔から町の色というのがあってそれは白と青でありそうするとこれは地中海のギリシャのイメージともかさなるようでもあってそれは滞在中いつも頭の上にあったここの青空に符合している。

2kmほど離れたスーパーのこと、そこまでのタクシーは片道700円だと交渉する額も家主夫婦に教えて貰い、そこでどんなものが売られているのか物珍しく眺めながら食材も買い、馬車のタクシーも横目で眺めながらアパートに戻ってきて自炊できたのもゆっくりできた理由の一つなのだろう。 そんな小さな町だしいつも気持ちよく晴れ渡り涼しかったので昼間の暑いときでも理由もなく城壁の中を歩き回った。 今それらを思い出しグーグルマップスの地図や衛星写真を眺めていると自分のいたアパートの吹き抜けの庭の四角い穴が見え、それがそこの町では普通だし、そうすると、マラケッシュのホテルの建物の構造とも符合しているのが分かってモロッコの伝統建築のことも少しは体感できるようだった。 

 


雨樋を浚った

2014年06月25日 23時49分56秒 | 日常

 天気がよかったので雨樋をさらった。 毎年やっていることだと思うのだがどうもそうではないようだ。 日記をくってみても去年も一昨年も記録がない。 前に浚ったのがどの季節だったのか思い出せないけれど大分戻って5年前の10月に「樋に詰った落ち葉を取り除けた」と題して次のように書いている。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/59844558.html

そのときには雨が降って樋が詰ったから泥のようなものを取り除かねばならなく、10mもない雨樋に溜まったずっしり重いものをバケツで3杯運んだとある。 今日のはカラカラに乾いているから1杯で済んだので比較的楽だったけれどそのために梯子でガレージの屋根に登ってそこから屋根の端の下についている樋を掃除するためには傾いた屋根から下に向かって作業するのでそのとき妙な危ないバランスを感じることがあった。 今までは高いところに上がって作業するのを何とも思わなかったけれど徐々にこんなときに歳を感じる。 あと5年ぐらいは出来るかもしれないけれどその後はどうなるのだろうか。

夕食の後今年の夏初めて庭に散水した。 今まではそこそこ雨もあったのだがこの1週間ほど乾いていてまだ4,5日このような調子らしいからこういうことも要るのだ。 


ブラック・スワン (2010);観た映画、June '14

2014年06月25日 03時02分07秒 | 見る
 

ブラック・スワン(2010)

BLACK SWAN

108分




 
 
 
「レクイエム・フォー・ドリーム」「レスラー」のダーレン・アロノフスキー監督が、野心と嫉妬渦巻くバレエの世界を舞台に描く異色の心理スリラー。バレエに全てを捧げるヒロインが新プリマの座をめぐり、自分とは対照的で勝気な新人ダンサーをはじめ熾烈な競争を繰り広げる中、次第に精神的に追いつめられていく姿をスリリングに描き出す。主演は、その迫真の演技が絶賛され、みごと自身初となるアカデミー賞主演女優賞にも輝いたナタリー・ポートマン。共演にヴァンサン・カッセル、ミラ・クニス、ウィノナ・ライダー。

ニューヨークのバレエ・カンパニーに所属するニナは、元ダンサーの母親の期待を一身に背負い、バレエに全てを捧げて厳しいレッスンに励む日々。そんな彼女に、バレエ人生最大のチャンスが訪れる。長年バレエ団の象徴的存在だったプリマ・バレリーナ、ベスの引退を受け、新作の『白鳥の湖』のプリマにニナが抜擢されたのだ。しかし、白鳥の湖では純真な白鳥役と同時に、奔放で邪悪な黒鳥役も演じなければならない。優等生タイプのニナにとって、魔性の黒鳥を踊れるかが大きな試練として立ちはだかる。対照的に、官能的にして大胆不敵な踊りで、芸術監督のルロイに理想的な黒鳥と言わしめた新人ダンサーのリリー。彼女の台頭によって、不安と焦りが極限まで高まってしまうニナだったが…。
 
以上が映画データベースの記述だ。  サッカー世界選手権試合に沸いているオランダで連日夕方から夜中まで男達がサッカーに夢中になっている中、女性向け民放のゴールデンアワーにサッカーに興味のない女性をターゲットにした番組編成のプログラムの一つとして観た。 バレー映画である。 チャンバラ、西部劇に戦争映画で育った男だからバレーなどもともと興味もなく、その中の白鳥の湖のストーリなど鼻で笑っていた。 そのスタイル、繊細さ、優雅さには合わない。 母は戦後すぐにバレー映画「赤い靴(1948)」を観ていたく感動したようで中学生の自分に見ろ見ろと言ったのだが自分にはまるで興味がなく数年前までその機会もなく、それを観たときに次のように記している。
 
 
そこでは上昇志向タイプ映画ともみられなくもない「ビリー・エリオット、リトル・ダンサー(2000)」との比較もしていた。 バレー映画、ダンス映画もさまざまにあり、本作もさもあらん、というようなつくりになっているけれど主人公の心理的状態、ハルシネーションが映像となり観る者に現実と虚像の間をさぐる緊張を強いるうまい効果を作っているしブラックスワンを形作るCGもよくできたものだ。 振り付け師との関係における緊張感もクリシェを含めてそのクリシェの依るところに幾分かの真実を含むような納得の行く運びになっているようだ。 それは芸術を極めようとするものたちには憑き物といってもいい部分もあり、舞台監督と役者、指揮者と楽団員の関係などでもよく聞く話だ。 優れたものの持つ絶対権力、その求めるものをどのように受け入れるのか、というところでもあるのだろうか。 それにプリマドンナというのは幼少の頃からの厳しい訓練を経て何千というバレリーナ、競争相手の中から選ばれて頂点に立つ人物なのだ。 声楽以上に肉体を過酷に用いての専門性が強く長きに亘る肉体鍛錬の結果その地位を得る、という過酷さは周知の事実であり、その動きの一つ一つにそれまでの「投資」が感じられるものでもあるようだ。 そう書くのは本作を観る一ヶ月ほど前にオランダ・ナショナルバレーがどのように機能しているか、またプリマドンナを含めてそのメンバー達の動向を何週間かに亘って見たことによる。 そこではそれぞれの日常が海外公演を含めたプロジェクトでの専門職集団のものとして映し出され、それを見たあとでは本作での画像、シーンは少々ロマンチシズムに傾いた嫌いもなくはないけれどバレリーナたちの心理、特に役を得ようとし、得たらそれをどう保とうとするかその営為の軽いソープ仕立てなのだからお話としてよく出来たものなのだろう。 
 
男として自分の生い立ちからバレー、それに白鳥の湖は得意ではない。 けれどバレーは肉体を酷使しそこから流れるような美しさを表現する芸術であるということは理解できる。 けれどその肉体の動きの形式にはまだ食わず嫌いの残滓はあるものの肉体の動きの可能性を探るダンスはこの20年ほどは時々観ている。 それは学生時代に触れた暗黒舞踏などの印象をも含め、それに近年は BUTO として知られたもの取り入れた新しい表現形式であってオランダには NDT(ネザーランド・ダンス・シアター) というグループがナショナル・バレーとともに国際的に知られている。 そこでは振り付け師、コリオグラファーとダンサーとの創作プロセスでの関係を面白いと思ってみていた。 本作を観ていてバレーの振り付け師とプリマドンナとの関係で振り付け師の機能は理解した上でどれほどプリマドンナの自主性、アドリブのスペースがあるのかに興味をもった。 
 
「レオン(1995)」でのナタリー・ポートマンから15年後である。 未だに自分にはレオンでのマチルダであるから現在の彼女をカリブの海賊でヒロインを演じるキーラ・ナイトレーとは区別がつきにくい。 現に先日ナイトレーがイギリスのチャットショーでポートマンのそっくりさんとして「スター・ウォーズ エピソード1・ファントム・メナス(1991)」で採用されたと言っているのを聞いている。 マチルダのあとポートマンのものは幾つか観ているがマチルダの印象がそれほど強いから自分にはほとんど別人だとみているようでもあるのだが本作での演技は成人してから演じた幾つもの役から群を抜いて優れたものだと思う。 それにバーバラ・ハーシーもここでは適役で好ましい。 もう一つ、自分には以前の役のイメージが離れないのがミラ・クニスだ。 長らくテレビのコメディー・チャンネル局で放映されていたシリーズ「ザット ’70sショー(1998-2006)」で自己中でおばかなジャッキー役の姿だ。 だから本作でのすばしこいリリー役にはここでは矛盾なくあてはまり齟齬がないように思えた。
 

今日したこと

2014年06月24日 02時33分47秒 | 日常

 

買って一年以上になる車の定期点検のため自分にとっては早朝の9時前、1kmほど離れたガレージに持って行った。 1kmだけれど戻ってくるのに折りたたみ式の自転車を使おうと久しぶりに毎日物置の隅に見えるそれを取り出したらタイヤの空気が抜けていた。 去年息子がガールフレンドと二人でテントとこの自転車を車に乗せて2週間フランスでバカンスをして以来使っていない。 実際フランスでも使うことがなかったと言っていたからもう2年ほど使っていなかったのだからぺたんこになっていても不思議ではない。 だからポンプの空気入れで直径40cmほどの車輪に空気をいれる。 けれど車輪のサイズがこれだから普通の口金ではだめで特別なものが要る。 こういう小物は自転車部品、道具の引き出しに入っているか居間、キッチンの細かいものを入れておく壜や木の皿に入っているはずなのだがそれが見えないから息子に持たせた口金を戻していなかったのだろう。 自分の普通の自転車を車に乗せても入らないことはないけれど、そうなると後部座席を倒して、、、、、と面倒だから帰りはブラブラと歩いて帰るつもりでそのまま出かけたのだった。

モロッコの朝のように青空が広がる下、大抵は自転車で通るルートを歩いて家まで戻った。 途中水路の畔を歩いているときにオランダでFuut(フュート)と呼ばれるカンムリカイツブリの親子が水に潜ったり一家でいるのがすぐ眼の下に見えたのでカメラに収めた。 つがいのカンムリカイツブリが春に孵った雛を一羽たずさえてのんびりと移動するのについて歩いた。 雛の外見が今の時期瓜のようでそれは猪の瓜坊と同じだ。

うちに戻ってミルクティーでパンにコールスローを挟んだもので朝食にした。 仕事場にでかけ事務員に書類を渡し、これでこれから8月の終わりまで夏休みに入る。 銀行に行ってモロッコ旅行のために使った余りのユーロを口座に戻した。 それが今日の車の定期点検の代金になるはずだ。 午後代金を電話で知らされて予想より多かったのに驚いた。 様々な部分の補修がいるらしく去年買ったときに驚くほど安かった理由がここに出ていると思った。 だから補修費に去年買った代金を加えると妥当な車の値段となるとすればそれも納得のできるものだった。 

早朝に日本の老母と電話で話した。 2週間以上前にマラケッシュから絵葉書を送ったのだけれどそれが着いているかどうか訊ねた。 まだ着いてない、と言う。 アルツハイマー初期なので最近の記憶が飛ぶので調べさせたらあった。 読んだかどうか訊ねると返事がなかった。 そしてその場でそれを読んだ。 こちらも何を書いたか忘れていたので老母が読むのを聞いていてそのときのことを思い出した。 冗談で誰かが一ヶ月はかかると言っていたので普通に届くのだなと思った。 姑が義兄のシシリアの家に何かを送ると3週間かかると言っていたからモロッコからはシシリアより早く着くのかもしれない。 けれど比べているのは同じヨーロッパ内とアフリカと日本間のことを言っているのでそれも妙なものだ。

夕食は裏庭で摂った。 そのあとバクテリアのことを家人と話していた。 それは我々がモロッコに行く前には防疫のために何種類かの予防接種をしたのだが娘も9月に南米スリナムの病院でインターン研修をすることになっていてその予防接種を先日したということを聞いての関連からモロッコでの出来事を話していると隣近所から歓声が上がった。 オランダ・サッカーチームが得点したのだ。 暫くしてまた歓声があがりそのうちに花火の音がした。 試合が終わり勝ったのだろうと思った。 そして暫くして8時のニュースではチリを2-0で下しワールドカップの準決勝に進んだ、と言っていた。

久しぶりにフィットネスのジムに行ったらそのことばかり話していた。 ジムからそのままの格好でうちに戻りシャワーを浴びた。 夏至を過ぎてもまだ11時ごろまで裏庭で新聞が読めた。 

 


モロッコの旅(6);ジャマ・エル・フナ広場周辺で

2014年06月23日 05時16分33秒 | 日常

 

マラケッシュにいるあいだはジャマ・エル・フナ広場が行動の中心的目安となっていて昼は町のあちこちを歩き回り幾つもの宮殿や遺跡などを巡ってそれらの中庭で涼をとってはまた迷宮のような通りの間口2mほどの商店が延々と続くところを彷徨ったりした。 雑然と人々、バイクが肩をすり抜けるようにして行き交うところでは面白い写真が撮れたはずなのだが観光客とはっきりわかる我々は両側の店から幾つもの眼で眺められて自分の眼がそちらの方にいくと必ず声をかけて何かと店に呼び込む手練手管をかけてくる。 だからそんな溢れるような人ごみの中で能天気にレンズを向ける気にはならない。 カメラに集中するとどこかに隙ができそこに擦り寄られるのが気がかりなのだ。 疑心暗鬼以上の昼間に感じる居心地の悪さだ。 ちゃんとした写真を撮りたければそこに1ヶ月ほどは住まなければ撮れないのではないかと思うほどだ。 それに子供たち、すばしこい者達はそういう人間を逃さない。 金をせびるような目つきもする。 そうではなくとも年寄り、女性は写真を見知らぬ人間から撮られるのを嫌う。 生鮮食料品の市場で肉を扱うところでカメラを向けると怒鳴られた。 つまり向こうもかれらの非衛生さを自覚しているのだろう。 だからそれがどこかで公表されるとまわりまわって自分のところに災難が及ぶのではと恐れての行動なのだと思う。 他の町の同じような場所でもそんな場所を写真に撮ったとして画面からその非衛生さは分かるもののそこを離れても中々鼻から離れないようなものすごい悪臭は写真ではわからない。 そんなところで作業している男達から追い払われたことも一度や二度ではない。 だから一番面白いところの興味深いところは眼に収めるだけでそんな写真はない。 

ジャマ・エル・フナ広場の周囲にいくつもあるそんなスーク(市場)を一人で歩き回ることを何度かしているうちにそのうち迷ってみたいというような欲望に駈られた。 それは少々身勝手で安物のロマンチックな感傷でしかないのは分かっているのだけれど延々とくねくねと続く店の連なりの幅2mもないような横道に入るとそこはもう迷宮で、昼間でも人通りがなくそのうち行き止まりになる。 店の並ぶ通りからどう来たのか分かるから戻るのだがそれでも曲がりくねった迷路だから分かりにくい。 そんなところで突然屈強な男二人ぐらいに無理やり木戸に引き込まれ戸を閉められたらたら自分は世界から消えてそこに残るのはくねくね曲がる人通りのない横道だけという少々寒気がするようなシナリオが現実可能なものとなって頭の中に浮かぶ。 迷宮で名のあるカスバでなくともこうなのだから一人きりでそういう場所に佇むとこれほど異邦人であることを感じたことはなかった。 

実際は普通の警察に加えて観光警察署というものがあってそれは観光客が蒙ったトラブルを扱う部署らしくそれが広場の一角にあるし、外国人観光客に対する犯罪行為はモロッコ人に対する刑罰より数等重いから観光客に対する犯罪は極端に少ない、とアムステルダムから乗った飛行機の隣に坐ったアムステルダム在住のモロッコ人の青年から、だから安心していい、他の町は危ないけれどマラケッシュは特に観光に力をいれているから大丈夫だと聞かされていたのは覚えているけれど実際、そんな迷宮に入り込んで曲がりくねった壁の奥で突きあたりに遭遇するとそんな言葉に対する信頼も揺らぐ。 実際には迷っても誰かが必ず手を差し伸べてくるから安心ではある。 何回か迷っているような気配を見せると大人は別として小学校高学年から中学生あたりの子供が寄ってきて、どこ、どこ、と英語で訊いてくる。 地図でみてこの近くにあるはずなのに分からない何々邸だの博物館などの名前を言うと聞くが早いか付いて来いと言い先に立って我々を先導する。 あるところまで来てもう分かるからと言っても離れない。 結局それからそこが見えるところまで来て自分の親切さに報酬を、ということになる。 ホテルで何かにつけて出すチップの100円ほどを与えると不満のようでまだせびるのでこちらも声を荒げてこれで終わりだといって向こうがすごすご戻る、ということを何回か経験している。 この子供たちはそれで小遣いを稼いでいるのだ。 何回かの経験からすると普通の観光客達はせびられるままに500円ほどを渡しているように思えた。 

別のところでは迷ったことを楽しんでいた。 住宅の迷路に迷ったのではなくスークで探している店が見つからなかったのだ。 そのときには大体大まかな方向が分かっていたのだが細かな道を探していた。 そこで興味深かったのは大人である程度の教育を受けているはずの人々、例えば、眼鏡屋で調整する技師の女の子、警察官に地図を見せてここはどこなのか自分の行きたい場所を示しても彼らは地図が読めなく自分がいるところさえ分からなかった、という驚くべきことを経験した。 アラビア語で書かれていれば読めたのだろうがアルファベットが読めないとは驚きだし、特に警官二人に尋ねてもまるで頓珍漢な方向を指されて余計に迷うという経験をした。 時間に制約もなく何をするという目的もないし日中であってもスークでは狭い通りの上はよしずのようなもので影が出来ているので暑くもないので迷ってもそのうちどこかに出るということもあって結局回り道を厭うだけの話だった。 そんなときに小さな分かれ道があってそれぞれ別のスークに入ることになる。 地図では今いるところが朧でそれを見ていると高校生ぐらいの男の子が来て東京、千葉、と訊く。 大阪だというと大阪なんとかというサッカーのチームの名前を言った。 こちらはそんな名前は聞いたことがあるけれど知らない。 あとはこの前の子供と同じパターンで、分かれ道で方向を指せばそれでいいところをどんどん歩いて進む。 それで分かったからいい、もう帰ってもいい、バイバイだ、といっても帰らない。 金は払わないぞ、というと神の慈悲、せっかく知り合えたのに善意の報酬があってもいいじゃないか、と同じ台詞。 仕方がないので財布の小銭を捜したら生憎50円ほどしかないのでこれで全部だと言って渡したら呆れた風情で戻って行った。

ホテルと大通りを結ぶ細い路地に化粧品、薬草を売る小さい店がある。 初め、あんた日本人だろ、と言う。 そうだというと、実は俺の兄弟が日本人と結婚していて東京に住んでいる、その写真を見せてやるからちょっと店に入れというので導かれるままに間口2mほど奥行き3mほどの中に入ってその男が持ってきたファイルを見るとグループの中に日本人女性らしいのが見えてそれがそうだと言う。 それで、、、うちの家族がやっている旅行社があってここから日帰りツアーをやっている、あんたそこのホテルにいるんだろ、行かないか、というのだ。 つまりそのファイルは日帰りツアーのカタログだったというわけで、それならそこから20mほど行った大通りで呼び込みをやっている男たちと同じことだったのだ。 それが分かったのでいらないよ、と言ってそこを出た。 当然その後もそこを通るたびにその男と顔を合わすのだがもうカモにはならないからこちらの方を見ようとはしない。 あるときこちらから、お前の兄弟の日本人の嫁さんの名前は何て言うんだ、と言ってやったらソニーやニンテンドーぐらいは知っているのだろうけど存在しない嫁の名前など咄嗟に出てくるはずもなくニヤケてこちらに握手して来てお茶を濁したということがあり、その後はそこを通るたびに肩を叩いたり握手をするという習慣が出来た。

英語でしか分からないからコミュニケーションにしても十分ではなく地元のことばが分からなくで残念なことをした。 もし言葉が分かればもっと面白いことを経験できたはずだ。 言葉は異文化への扉だと言われる。 まさにそんなことを知らしめられた経験だった。 


近所の樹

2014年06月22日 01時27分22秒 | 日常

 

歩いて5分ほどのところにうちの子供たちが通った中高一貫校がある。 下の娘が卒業してからもう5年経ち子供たちがここを通ることはもう殆ど無いのだが自分はこの20年以上ほぼ毎日ここを通って町の中にある仕事場に通う。 最近は行き帰りにここで見る子どもたちを眺めてはまだ自分の子供たちがそこにいるような錯覚を感じることもあるのだが、それ以上に意識、無意識に感じるのがこの木だ。 晩秋に葉が落ちて箒をばらばらにして逆さに立てたように綺麗に広がった枝を湛えるバランスのいい樹でもある。 冬になりそこに雪が絡まって凍るようなこともあるし、自分の感じでは一年の80%ほどが灰色の空の下、周りの木と並んで鬱陶しく立っているのを眺めながら通る。 

どこに行ってもそこに立っている木に眼が行く。 大抵は大木でその樹齢を想像しその時間にそこでどんなことがあったかに思いを馳せるのだがそれも広がらないファンタジーであってその後はまたそこにある樹に眼が戻る。 最近眺めたのがモロッコの町で人々が涼を摂る公園の大木だったし車中から眺めた砂漠の中にポツンと遥かかなたに立っていたりする樹だ。 小さなホテルの中庭を上空から突き刺すかのように遥か屋上を超して聳える椰子の樹でもある。 三階の屋上からニョキリと首と長い葉を湛えた椰子の樹は丸い箒を逆さにしたような形とも見えなくもない。 

久しぶりに土曜のマーケットにでかけ自分が喰うだけの食材を買ってのんびり自転車を漕いでここまで来たときにいつか写真に撮ろうと思っていたことを思い出し自転車を舗道に停め芝生に入って眺めたら何だか繁りすぎていて伸びすぎた坊主頭のような感じがして自分がいちばん好むこの樹の格好ではなかったのでちょっと失望したのだがそれでも初めてその気になりここまで来たのだからとシャッターを押した。


モロッコの旅(5);ジャマ・エル・フナ広場に来る人々

2014年06月21日 04時06分51秒 | 日常

 

朝の涼しいときにあちこち歩いて見物し、昼にはどこかで食事し昼寝のためにホテルに戻ってきて5時ごろまで部屋でごろごろしている毎日だった。 寒冷のオランダに住んでいたらマラケッシュではまだ本格的な夏にはなっていなくともこちらにとっては昼間の暑さには耐えられないからこうなるのだ。 これを経験して自分が1950年代に小学校に入ってまもなくの頃、自宅の農家で昼食後は1時間かそれくらい家族全員でごろっとなって昼寝をしていたことを思い出した。 エネルギーの有り余った小さな子供にはこの昼寝ができずそれはただ苦痛だったけれどそうしていたのはその後、井戸で冷やしたスイカに包丁を入れるとザクリと自ずから割れる甘く熟れた果実のことだけを思って時間をやりすごしていたからだ。 それももうほぼ60年前の話で今自分はそのとき夜明けごろから起き出して農作業をしていた祖父と同じ年頃だからこの昼寝がどれほどエネルギーを蓄えるのに必要かがよくわかる。

殆ど毎日小さなホテルから200mほどのジャマ・エル・フナ広場に朝といい夜といいでかけて歩き廻り立ち止まっていつまでもあちこちを眺めていて飽きなかった。 ツーリストの格好をしていれば蝿のように群がり纏わり付いてくる物売りが面倒なのといつまでも佇んでいると物を取られる恐れがあるので買ったジャラバというフードのついた民族衣装を着て出かけていた。 ほとんど毎日何度も通る小路ではそこの物売りたちから顔も覚えられていてこれを着て初めて歩いたときには「ベルベル族の衣装だ」と言って笑われたのだがそれには、何と物好きな、、、、という意味が含まれているようだった。 その後何度もそれであちこち歩いていると声をかけられることもなくなった。 これを着るのは夜だけで昼と夜の温度差から昼の格好をしているとかなり厚さのあるフェルト生地なので暑いのだけれど冷える夜には重宝することもあってサンダルばきでうろうろした。 こういう格好をしているのは若者にはほとんどなく中年以上の男たちであり、スークという迷路のような商店街で値切りに値切って買った、その店の奥から出されてきたものは獣の匂いがしてその匂い消しに安物の香水を買おうとしてそんな店を探したけれど適当なものがなく、そのうちそれならこれがいいと小さなムスク石鹸を勧められそれをポケットにいれていればなんとか治まった。 それは去年イスタンブールのモスクで年寄りが身振り手振りで自分の手にこすり付けてくれた匂いのするものと同じようなものだった。

第一日目の夜にここに来た時には世界遺産のボードがあってもここがなぜそうなのかということが分からなかったけれどその後ほぼ毎日来ていると徐々にそれが分かってきた。 その理由の一つがこの広場で起こることが劇場として生起する文化遺産である、ということだ。 大道芸、音楽、歌に踊りは暗くなり始めた頃から夜中を過ぎて数千人が交差する広場で太鼓やタンバリン、民族楽器の弦から沸き起こるダイナミックな鼓動は焼けるような日中人通りの少ない広場からするとその様相を一変させる。 猿芝居やコブラを笛で躍らせ驚かせるというのは外国人観光客目当てであっても100人、200人の輪の中で起こる音楽、踊りは必ずしも観光客目当てではないようでもありそのなかの外国人観光客は絶対少数だ。 その歌詞、音楽に依って広場のあちこちに10以上あるそんな輪のそれぞれに違った見物人が群がり一つが終わればすぐに見物人たちが他に散らばって離合集散していくようだ。 それにそれが小銭目的であれば大抵はどこでも帽子や入れ物を持ってくまなく観衆のあいだを廻って集金に励む、ということなのだがここではそれはない。 あっても真面目に集金をしている様子もなく数百人に対して2,3に帽子やタンバリンを回せばそれで終わりという具合だ。 言葉はモロッコのことばだったりベルベル語であったりするから観光客には皆目わからない。 つまり地元の人間目的なのだ。 われわれ観光客は単なる傍観者でしかない。 歌や踊りはここのオリジナル、伝統音楽であるから興が乗ると周りの観衆が唱和する。

夜中でも女子供がそれぞれ家族、友人たちのグループで涼しい広場を行き交いする。 普通に貧しい服装の男達も多くいてそんな中では観光客は自然と周りから浮くからフードを深めに被ったジャラバを着ていればこの景色に溶け込めてどの輪に入っても観光客とはみられないようから様々なことが起こっている広場を観察するには都合がよかった。

特に家族連れを眺めていると面白かった。