暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

ジャズにポニー

2007年08月30日 13時47分12秒 | 日常
2007年 8月 25日

田舎のジャズフェスティヴァルの大テントでビールを飲みながらライブを聴いていると腹が膨り、そこで500人ほどに対して3つほどの簡易トイレに向かうとそこは女性たちに占領されていてこれではなかなか使えそうにないので、それでは外で、と会場をでてぶらぶらと運河にかかる橋を渡り高い堤のふちを歩いているとポニーが何頭かのんびりと草を食んでいた。

かすかにライブのベースとトランペットの音が聞こえ、それに混じって風が牧草地の縁の水路に生える蘆の葉を通り抜けるサラサラという音、空にはツバメ、ときどき雲雀の囀りが聞こえるなかで水路に放尿してから一心に草を口でむしりとっているポニーに目を向けた。

子供、少女の乗り物として田舎では大抵、農家の裏の一角に放し飼いにしてあるのだがここでは堤の部分を1kmほどもあるかと思うほどの長さで囲ってある。 長く伸びた草を刈り取る手間を省くために放し飼いにしてあるのかもしれない。 しかし、この日にはその柵に目新しい張り紙がしてあった。

イギリスで最近生じた馬インフルエンザ感染防止のため、柵の中に入ってポニーや馬に触れないよう注意を促すものだった。 ドイツでは先週鳥インフルエンザが発生して何千羽と鶏が処分されたニュースがあったこともありそそくさとそこから離れ又テントのジャズに戻った。

夏はほぼ終わったようだ、それに鉄線

2007年08月29日 04時41分46秒 | 日常
昼頃に目覚めて、さて、今日は、と寝床の中で考え事をしていると、あれ、窓を開けたままで寝たのか、と思ったのだがグロニンゲンのジャズフェスティバルから帰って開けるほどのことも無かったから開いているはずも無いにと思い直したのだが涼しい。

外に出ると日の光と空の様子がもう秋だ。 カッターシャツの袖を長くして丁度いい。 自転車で走るにはジャケットがいる季節になっている。

事務所の整理に出かけようと木戸を開けるとそこについこの間植えたクレマチスが一つだけ紫色の花をつけていた。 そしてこの花に興味を持ったのは家人がここに植え、ネットで蘭名、英名から和名を調べると風車は別として、「鉄線」の名が出ていたからだ。 昔、江戸時代の読み物か何かの小説でこの名前を見たりそれよりも昔、祖父がこの鉄線の花を好んでいたことを同じ好みをもつ母から聞いたことがあったからだが、名前と花が結びつかず、和名を知ったときに、なるほど祖父好みだと半世紀以上時間が経ってから祖父の思い出を反芻したことだ。

http://www.hana300.com/kurema.html

教会内の子供たち

2007年08月28日 09時46分56秒 | 日常
週末はグロニンゲン市の外縁、田舎の村々に散らばる小さなチャペルや農家の納屋を会場にしたフリー・ジャズ中心のジャズ・フェスティバルがあり、それに出かけた。

このフェスティバルは独特の雰囲気をもっている。 それはそこに出演する演者もさることながら参加者たちが普通ジャズの会場に集まるような顔つきをしていないことだ。 こう書くと語弊があるかもしれないがジャズ、に集まるような人間は、、、、というようなイメージは、何か、はすに構えた思わせぶりな、もしくは、ちょっと他とは変わった格好で、、、、、というのがどこでも一般に考えられているイメージで、これはどの国でも風刺でジャズが使われるときには大抵そのようになっているのだが、ここでは全くそのようなことはなく、強いていえば、リラックスした日曜の教会の礼拝というような雰囲気である。

幾つのか会場はそれこそ、見渡す限りの農地の中に20戸ほどしかない村の古く小さな教会で80人も入れば一杯になりそうなぐらいのスペースでそういう音響効果がすぐれたところで聴く現代音楽、ということもあるのかもしれないが普通のジャズ・コンサートと格段に違うことがある。

村々を縫って田舎道をたどって会場に行き着くルートは家族連れ、年配のグループが多いことだ。 特に小さな子供たちがフリー・ジャズを聴く光景は他ではあまり見られるものではない。 軽快なリズムを刻む一般のジャズであればそれに体を反応させる子供たちの動きは想像できなくもないが、無調、無拍子の、クラシックジャンルの現代音楽との垣根が分かちがたいフリー・インプロヴィゼーション音楽に聞き入るまだ5つ6つの子供たちを見ているとその子供たちの脳に生起する印象を想像して将来この子供たちが聴く音楽のことに興味が行く。

小エビと教会の鐘の音

2007年08月24日 04時37分46秒 | 日常
毎週木曜日の買出しに出かけ、スーパー近くの魚屋で鱈の揚げ物が出来るまで目の前で捌かれた生鰊に刻み玉葱をつけてその尻尾をつまみ上げ、下から徐々に齧って行く間にも冷えた緑のハイネッケンの缶で生魚を洗い流すのにちびちびと咽喉を潤し、そのうち熱々の揚げ物が出来上がったものと一緒に昼飯にしてからスーパーで30kgほどの買出しをして、明日義母を朝早くこの夏何度目かの血液検査のために病院に付き添って自宅に戻しその足で250kmほど離れた北の田舎町でフリージャズのフェスティバルがあるのでそれに駆けつけるので今のうちにガソリンスタンドでステーションワゴンを満タンにしておいて、と道路に出ると久しぶりに交通渋滞に巻き込まれた。

車に優先して運河を行きかう大小の船に加えて個人のヨットやクルーザーがこの上天気のためか夏の終わりを一挙にここで締めくくろうとしているのかここでも渋滞気味で跳ね橋が上がっている時間が長引いているに違いない。 この国では水上交通が陸上交通に優先するので仕方なくのんびりエアコンの効いた車内でラジオから聞こえるニュースや音楽を聞いていた。

その1)
魚屋で目の前のいろいろな魚を見ながら昼食にしたことから記憶に留まったのだが、小エビの値段が倍増になったと言っている。 普通は店頭で1kg700円ぐらいのところが既に水揚げし、競りの段階でそこまでいっているらしいからこれからしばらくの間は店頭価格が悪く行くと今の倍額あたりまで上がるかもしれないということだ。 これは輸入物ではなくオランダで今、えび専門の漁船が350隻ほどあるのだがそれが北海のイギリスの西からデンマーク沖にかけて操業しており、この何週間かの悪天候と気候の変化のためか操業日数が少なくそれで収穫量も少なくそれに加えてどういうわけか英名 Whiting (コマイ型のタラ)ラテン名 Merlangius merlangus オランダ名 Wijting がEUの協定でこの何年か保護されていたため繁殖してこれが餌の小エビの幼虫というかプランクトンに毛の生えたようなのを食い漁り結局このダブルパンチで市場の値段が倍近くになる、という話だ。 しかし、実際、医者のアドバイスでこの何年も海老の類は口にしていないから自分には別段どうと言う事は無いのだが世の中ではこれで困る人も幾分か出るのだろうがこれで何年かしたらこの小型の鱈が出世して我が家でたっぷり鱈鍋ができるようになるのだろう。 しかし、魚屋に行けば北海産の海老でなくても世界のさまざまなところから大小の海老が入ってきているのだからあまり影響がないようなのだがそれでも北海産の小エビに固執する人がいるのだろうか。 米は日本産のものでなければ口にしない、というような種類の人たちかもしれぬ。

その2)
きのうの日記、というかゼーランド滞在記のなかで教会の塔に昇って鐘の下でこれが鳴ったら、、、、というようなことを書いたから記憶に残ったものだが、教会の鐘の騒音公害、というものだった。 都市には条例で住宅地域に限らず田舎でも住環境に及ぼす騒音の限度を70デシベル(db)に制定してありそれには罰則も付随しているとかでこの度、オランダ、ティルブルグ市の教会の鐘が今まで喧しいと住民から苦情が出ていたものの改まらなかったから担当局が今朝の早朝6時の鐘を測定したら82dbを記録して今まで改まらなかったから罰金、ということになったそうな。 それで教会に5000ユーロ(約75万円)払う義務が出来、それを誰が支払うかでもめている、という話だ。 教会の檀家か世話人たちかはたまた牧師か鐘を鳴らす技術を請け負っている業者か、ということらしいが今のところ教会の弁護士さえつかまらないそうだ。 ラジオの解説ではこれには少々裏がありそうで近年、世界中で、ここヨーロッパででも問題になりがちな移民の、宗教上ではモスリムの寺であるモスクの外に向かって行う朝夕のコーラン詠唱に対抗すべくキリスト教会の鐘の音で詠唱を消そうという意図もあるのではないか、という推測だ。 もちろん教会側はそれを認めることはありはしないものの宗教の鍔迫り合いが起こっているのかと面白く思った。 勢力を増しているイスラム教徒の数に怯えた、逆に教会離れが戦後進んだこの協会が危機感をもってやらせたものだとしたら少々鼻白む思いがする。

渋滞も解け橋も開通して自宅にもどり買い物をそれぞれ収めるべきところに収め車に戻ると自宅前の歩道の上に柏(カシワ)の枝が通行人の邪魔をしそうなところまで降りてきていたので枝払いをした。 この柏の木も今は12,3メートルまで伸び幹も直径20cmはあるようだ。 この15,6年で平らな何もないところからここまで伸びたのだが直径30cmになる前に切り倒す予定だ。 それ以上になれば市当局に伐採許可を申請せねばならず時には厄介なことになるから30cmになる前に倒すことだ。 何れにせよ今はもうドングリを沢山つけており何年か経つとこれが次から次ぎへと細かい双葉を庭の芝生の間から芽吹かせるのだから自然の力のたくましさを感じないわけにはいかない。


(コマイ型のタラ)ラテン名 Merlangius merlangus 、オランダ名 Wijting 
http://en.wikipedia.org/wiki/Merlangius_merlangus

尚明日から3日間北部の町グロニンゲンでのフリージャズフェスティバルに出かけるのでブログはお休み。

ゼーランド日記(5) ミドルブルグで一日遊ぶ 上

2007年08月23日 10時01分28秒 | 日常


2007年 8月1日 (水)

この日は私たちが滞在しているフリッシンゲンの町から6km離れた、かつて島だったゼーランド州の中心である州都ミドルグルブルグに一人で自転車に乗って一日遊びに行った。

この町の粗方の説明ははウィキペディアにまかすとして現在のオランダの国が出来る前、北フランスからベルギーを通過して多くの移民がアムステルダムを形作りオランダ語といわれるものが歴史に記される平安中期以前に既に日本の平安初期にはこの町は形成されていたのだから文化的にはローマ時代とはいかないまでも、ローマ帝国が北の方はイギリスにまでのぼっていたのだからここにもローマ兵が駐屯していたことは確かであるし、そのまえのケルト文化さえあるのだから明らかにローマ、フランスの、南のヨーロッパ文化の香りがこの古都で充分感じられて当然という地である。

それはここから南東のオランダ最南端の古都マーストリヒトでもそのような「南」が感じられる。 これは一概に、オランダ、ドイツなどの北ヨーロッパの硬質な文化に対して柔らかかなものが、まさに文化の地域差、温度差となって感じられるのだろう。 だから光と暖かさを求めて北の住人、ドイツ人が北の海から温かみのある光のゼーランドの海岸に押し寄せるのも充分理解のできることである。

家人と娘は家でぶらぶらしている私を放って自分たちでピクニックのバスケットに色々なものを詰めて海岸に一日出かけ水に入ったり日光浴をしたり、また、読みかけの本を砂浜に寝転んでページを風に吹かせながらうとうとと日がなすごすつもりで自転車にのって出かけていた。

私たちが今いる町、フリッシンゲンはもう大体どこにどんなものがあるか分かってきたので興味は徐々に外に向かっていて、ここにいるときは極力車は使わず自転車か徒歩で済ませたいと思うから、あちこちを眺めながらこの島を古くから縦断する運河に沿ってその今日はミドルブルグに向かった。 町の中は別としてそこから外に出ると平らな島だからどこからでもミドルブルグの教会の塔、これは「のっぽのヤン」と呼ばれているのだが、これが見える。 50mほどの党は10km程度の距離でも田舎の広がりの中では目に付き、今は夜には下から照明があてられるからまるで光る陸の灯台といった風情があるのだが普通の灯台と違うのは先からは光が出ないことで、照明で白く光った塔自体が存在を示して中心にたっているから古来親しみをこめて「のっぽのヤン」と呼ばれているのだ。 25年以上前からはこれを何度も眺めているのだが今日は初めてここに昇ってみようと決めた。

街中に入るとどこでも同じ、町の中心に沿ってショッピングが出来るような通りが沢山ありオランダ人観光客と地元の人たちが混ざって皆のんびりと買い物をするのが見られるのだが早速わたしはヤンの壁に自転車を停め3ユーロ50セントを払い、まず狭い石の螺旋階段を200何段か上って45mほどの「のっぽのヤン」の展望台まであがった。 はばが1mもない螺旋階段だから途中で降りてくる人がいればどちらかが石の壁に体をぺタリとくっつけて、大抵は降りるほうがそうするのだが、一方をやり過ごすこととなる。 幸いなことに私が上ったときには小学生の子供とやせたその親たちが降りてきただけだったが観光客がどっと繰り出したときには途方も無い肥った御仁が男も女もいるのだから難儀なことになるに違いない。

直径7,8mの窓のついた塔の展望台にくるとここは丁度この教会の鐘の下にあたり、毎日鳴るに違いないこの鐘が鳴り響くときにはここにいると鼓膜が破れるほどに違いない。 だから多分、一日の拝観時間が過ぎて夕方の6時に鳴らしているのかもしれない。 ガラスがまだ今ほど均質で平らでなかった頃の小さいものを木の窓枠にはめ込んだ小窓を開けると涼しい風通しとなり、それぞれ10km未満のこの島の端々が見える。 我々の滞在するフリッシンゲンの灯台や海岸のプロムナードに沿った高層ホテルがここからはっきり見えるし、塔下には中世の町並み家並みがぐるりと取り囲んでいる。 

近代以後の工業地区は町の外郭、田園地帯との境目に作られているようだしこの町も例外ではないのだが概観を考慮してか無粋な工場などの建築物は高い立ち木の茂りで遮蔽して見えなくしてあるようだ。 はるかかなた、ベルギー方面20kmほどのところに原子力発電所の太い冷却煙突から蒸気を出してそのまま雲になるようなものが見えるとここはまさしく現代だと時間を覚醒するのである。


ミドルグルフが正式な日本語表記のようだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%95

ハーフ・ペンション

2007年08月22日 04時40分30秒 | 日常

オランダではペンションというのは普通には、ペンションという、一般家庭で何がしかの料金を取って3食と宿泊を提供する施設、ということとペンション生活、つまり年金生活ということを意味するのだが、だからハーフ・ペンションというのは昼食はなく夕食と朝食だけの宿泊、という意味になる。つまり英語のB&B(ベッド アンド ブレックファースト)プラス サパーである。

年金生活というのは通常は仕事からの引退であるから仕事はしないのであるけれど私の場合、何年か前までの旧オランダの社会福祉制度により通常の63歳からの年金生活が、諸所の事情から58歳から63歳までの間に自己申告で様々な形で、つまり全く引退するのか半分引退するのか引退しないのか決めることが出来る制度であり、特例ではそれ以前にこの制度を適応することが出来て、この旧制度も10年弱しか施行されず我々の年齢の人間以外は殆ど知られなかったものの、今では社会の高年齢化に伴って老齢者にももっと働け、という趣旨からこの弾力性年金制度が廃止されてしまい又旧態依然の一律63三歳定年に戻っている。 議会の議論ではそれをもっと伸ばして65歳から70歳近くまでということも検討されていると聞く。  幸いなことに私はこの旧制度の適応を受け、まだ現在の定年制度まで10年弱あるものの、給料は以前と変わらず、一週間に半分、20時間働き、あとは御随意にということになり、仕事の性格上、仕事場には週に2度ほど顔を出せばよく、あとは自由に年金生活を送ればいいという、まあ、年金生活の予行演習、軟着陸時期、ということで、これが私のハーフ・ペンションである。

あちこちで知り合いや人と話しているときに、どうしてるんだい、と聞かれて、ハーフ・ペンションさと答えると、このハーフ・ペンションはある時期だけの言葉だったこともありオランダ人皆に知られていることでもなく、ま、ちょっと考えればわかることだからそこで、あ、それはいい、昼飯抜きかい、腹を引っ込めるのにはいいじゃないか、と笑って返されることもあり、そのときは、その昼飯のために半分だけ働いているのさ、と返したりもする。

今日は夏休みもほぼ終わり9月の新年度からの仕事の都合もあり、必要事項はメールで済ませられるものの久しぶりに仕事場に顔をだすことにした。

昼頃にゆっくりと家を出て昼飯を仕事場近くのロンドンパブでサイダー、フランスののシードル、を飲みながらシェパード・パイで昼飯にしようと思ったのだがオランダ語をしゃべらないコックニーアクセントの強い女の子に、コックは夏休みだからランチはできないのよと謝られ、仕方なくそこを出てふらふらとまた自転車に乗った。 それで通りすがりの場末の中華料理屋に入った。 そこで焼き飯に肉の煮込み各種の簡単なインドネシア料理、ナシ・ラマスを注文した。 食事のあとコーヒーで読みかけの本を少し読み支払いを済ませ、また自転車にのってぶらぶらと漕ぎ出した。 

考えてみれば自分の住む街ながら、もう2ヶ月も仕事場に出かけていなかったからこの町も少々違った風に見え、ヴァカンスで滞在したゼーランドの町とも重なり、まだオランダにいながら先ほどのどちらの店でもオランダ語が不自由であったことも加えてヴァカンスにいるような気分にもなる。 ヴァカンスで退屈しのぎに読み始めたペーパーバックのレンブラントを題材にした小説を読んでいることもあり、その洟垂れ小僧が実際に走り回っていた場所に来てなるほどと、この見慣れた景色が少々昔にもどったように見えた。 絵描きの父親がまわしていた風車近くのレンブラント橋から見ると、かつてはシーボルトが日本から戻って山ほどのコレクションを保存していた家のあたりも見え、今はそこもタバコ屋か安っぽい会員制のカジノかということになっているから昔日のなごりなどひとかけらも見えない。

そんなことも思いながら先ほど喰った1500円ほどの昼食を稼ぐためにのこのこと仕事場に自転車を漕いだ。

夏休みも終わりに近づくとまたジャズフェスティバルが来る

2007年08月18日 10時58分12秒 | 日常
2007年 8月17日 (木)

午後スーパーに買出しに出かけ、息子の希望で親子どんぶりを夕食に手早く造り、早めに夕食を済ませ今日はわが町からはそう遠くないハーレム(Haarlem)という古くから栄えた町に出かけた。 

ハーレムはアムステルダムに近いことからオランダの黄金時代、東インド会社で儲けた金持ちたちが館を立ててここに住み、ごみごみした町の喧騒を避けてここから馬車などで通勤しながらゆったりと暮らしたところでもあり、今も当時の古い面影が多くの残っている町でもある。 ニューヨークのハーレム地区は名前が知られているのだがここがオリジナルなのでもある。 ニューヨークは古くはニュー・アムステルダムと言われわずかの金でイギリスに売却したという話をきいたこともあり古いニュー・アムステルダムの近郊だからニュー・ハーレムとも呼ばれていたのだろう。

この町にはオランダの肖像画家フランス・ハルスの美術館があり、そこにはもう20年以上前に来たのがこの町を訪れた最初だったのだが、その後、何やかやで2、3年に一度ぐらいは訪れている。 この前はいつだったのだろうか。 大聖堂下の荒木経惟写真展だったかイェッセ・ヴァン ルラー、ミヒル・ボルストラップのギター、ピアノ・ジャズを聴きに来たときだったのだろうか、いずれにせよ去年か一昨年のことだ。

この日はオランダで無料コンサートとしては最大のハーレム・ジャズ・フェスティバルということで知り合いのジャズメンたちが何人かでるのでプログラムを見て7時前に始まるものから夜中までぶらぶらしながら見てみようと家を出たのだったが日頃アムステルダムにジャズを聴きに出かけるときも同じような時刻に電車に乗り同じ方面に向かう普通はハーレムを通ってアムステルダムに向かう列車をさける。 それはスキポール経由でアムステルダムに向かうものは最新の車両を使い30分でいけるところがハーレム経由だとそれに加えて15分ほど長くなるからなのだ。 ただ、アムステルダムから戻りの夜汽車で夜中もかなりすぎてここを通過することが多いけれどそのときの人気のない昔風の駅に2,3分停車する構内の印象が強く、明るく人通りのある駅舎に降りてこの町に出るのは久しぶりだ。

17世紀中盤のオランダの風景画家ライスダールが描いたこの町の風景がある。 海岸の砂丘からこの町を遠景に空の比重の大きい有名なものだがこのなかにこの町の中心である大聖堂が見える。 この大聖堂のパイプオルガンを弾くバロックの権威トン・コープマンに師事しようと日本から音大の学生がおしよせたこともある、と聞いたこともあるが今でもそうなのか、今は日本人より中国、韓国からの学生が大層増えているような気もする。

駅から町の中心までゆっくり歩いても10分ほどしかかからないのだが道路がすでに柵で遮断されていて歩行者以外車は入れないようになっている。 町の中心大聖堂のまえのマーケット広場には1000人ぐらいははいるようなテントの特設舞台がしつらえられており、大聖堂の周りの広場、通りに舞台がいくつも設置されてチラシにかかれているように5日間で数万人の来場者を期待しているというような町を挙げてのお祭りでもある。 とおりには周りの食べ物屋、カフェーの出店がならび子供から年寄りまで混雑する通りを一杯にそろそろ日が短くなってきたとはいえ10時ごろまでは明るい夏の終わりをあちこちから聞こえてくる音楽に耳を傾け散策するのだった。 夜も10時をまわり本格的に暗くなるとこの一帯は万単位の人数が繰り出して各自プラスチックの透明カップに入った飲み物を手にあちこちの舞台を覗いてはゆったりと移動しながら人ごみと音楽を楽しんでいるのだった。

ハールレム(日本ではこう表記するらしい)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%AC%E3%83%A0


ハーレム遠景(Jacob Isaaksz. van Ruisdael 17世紀中頃作) 
http://nl.wikipedia.org/wiki/Afbeelding:Jacob_Isaaksz._van_Ruisdael_001.jpg 



赤い靴;  見た映画、 August  07 (1)

2007年08月17日 21時26分56秒 | 見る
赤い靴 (THE RED SHOES)

1948年
イギリス映画、カラー 133分

監督: マイケル・パウエル
エメリック・プレスバーガー
製作: マイケル・パウエル
脚本: マイケル・パウエル
エメリック・プレスバーガー
撮影: ジャック・カーディフ
音楽: ブライアン・イースデイル

出演: モイラ・シアラー
アントン・ウォルブルック
マリウス・ゴーリング
ロバート・ヘルプマン
アルバート・バッサーマン
リュドミラ・チェリナ


ロンドンのバレエ団に、ビクトリアという少女が入団した。団長のレルモントフにその才能を見いだされ、彼女は“赤い靴”のバレエ劇に出演することになる。公演は大成功をおさめ、ビクトリアは一躍スターとして認められる。だが、その地位は、“赤い靴”のように、彼女に踊り続けることを要求するものだった……。パウエル&プレスバーガーによる映像美の極致。これほどまでに“赤”の美しい画面は存在しないかもしれない、、、、、というふうに映画データベースには書かれていた。

私がオランダのゼーランド州に家を2週間ほど借りて家族で避暑に来ていたときに町を歩いたり田舎をサイクリングするのにも飽きて家族が海辺へ出かけた一日何もしないで家の中でぶらぶらしていている午後の普通はこんな天気には午後4時にテレビなどつけないだろうと言う時間にイギリスBBC局で放映されていたものである。

だれも見ないだろうというこの季節にBBCではイギリスの映画史をたどるというシリーズをやっていてそれまで白黒の映画は幾つか見ていたものでありそういうものであれば読みかけのパーパーバックに戻っていたものが新聞のテレビ蘭の「赤い靴」の題名でソファーに腰掛けて見る気になったのだ。

50年代、60年代のテレビ勃興期に育ち、中学生の頃には幾つかの映画を少ないながらも自分の小遣いから見るようなこともして高校生になるとこころよく思っていた同級生の女友達ともデートで出かけたのが「戦争と平和」だったり「サウンドオブミュージック」だったりしたのだがデートの映画は大抵女学生好みで戦争、活劇、冒険ものが好みの少年にはバレーなどは軟弱のきわみで男友達にはとてもバレーなどという言葉は発せられなかった。 そのような事情は同じく近年のイギリス映画で少年が寂れた炭鉱町で荒くれ男たちが日常と格闘する中、そんな炭鉱家族の「ビリー・エリオット」少年がバレーを通して世界に世に出るという、一面では上昇志向万歳とも取れなくもない映画からでも察せられるかもしれない。ここでは父親、兄、ビリーにダンス、バレーを教える女教師が特にいい。 

私が少年のころ友達とこういう映画を見た、という私に母親が「お前、それでもな、この映画はよかった、もう一度見てみたいなあ。 一度履いたら死ぬまで踊り続けるバレーシューズでなあ」と母親が夢見心地で言うところで、何だバレーかとこちらの気持ちはもう他に行ってしまっていたのだが、その母親の夢見心地が40年以上ぶりに思い起こされたのがリモコンのスイッチを押した大きな理由だ。 

その当時、50年代初頭だからカラーはまだ少なかったのではなかったか。 だからこのようなロマンチックな映画が、戦前、戦中と夢多き女子学生であった母親の戦中の印象は色で例えると濃いグレーだったと語っていた後に見た若い女性の脳に与える衝撃は如何程のことだったのか戦後60年以上経って生活する今の若い女性たちにこの映画が与えるものとは比較の仕様がないのではないのかとも思った。

ビリー・エリオットでは70年からこちらごろのイギリスの炭鉱町で、踊りに喜びを見出していくヘンな男の子のを通じて当時の社会状況をも照らしそのような町に合わない「お上品な」バレーを庶民が近所のビリーを徐々に支持していくという暖かいものであるのだが40年代後半のロンドン、コベントガーデンで始まるのだからこれは芸術世界のバレー映画なのだ。 

男の私たちの年代は西部劇と戦争映画で育ったようなものだが間にはミュージカルのようなものが混じり、当時ハリウッドの大スタジオで製作された今ではCGでしか見られないような大掛かりなヴァーチャルではない「本物の」ダンサーたちが大規模に踊る映画も横目では見ていたような記憶がある。 当作品でもこれがイギリス映画であり、ロンドンの模様が出て言葉がちゃんとした標準イギリス語であることからすればイギリスであるのだがぼやっとみていると成功するにつれヨーロッパ、特にフランスの場面で山場を迎えるあたり芸術はヨーロッパ、フランスというようなアメリカ映画の定番設定にはアングロサクソンのフランスへの憧れが充分窺われるのだ。 そこまでいかなくともバレーであるのだからフランスなのかもしれない。 けれど団長のレルモントフはロシア名であり主人公が抜擢される前のプリマドンナもロシア名だったのだからここでもバレリーナの伝統が踏襲されている。

愛を取るかその世界で最高の芸、仕事をとるかという突き詰められたところにアンデルセンの赤い靴の童話が絡み、或る意味では今のキャリアをとるか家庭に入るかという現代的な問題とも取れるのだがそこに自分が組織する芸を極めるためには何物をもいとわない初老の団長の、恋する主人公バレリーナに対する嫉妬をも含めた権力をめぐる物語に童話の悪を絡ませた上手な造りになっている。

当時のモンタージュ技術はたいしたものだ。 芸術映画に芸術的な香りを映像でみせるのに用いられる色彩と意匠はビリー・エリオットと並んでオスカーを受賞するのに充分値する。 今、これに相当するようなバレー映画は作られているのだろうか。

しかし、子供の時には鼻も引っ掛けなかったような映画に初老となって感動するのだからそこにもクラシックの意味があるのだろう。






コトコトとクスクスソースを煮た

2007年08月16日 02時55分07秒 | 日常
一日何をするともなく昼頃起き出して自転車に乗り晩飯の買出しに出かけたのだが途中でテレビの番組を録画するテープが切れていることを思い出し家電スーパーに寄って240分用を5本買ってこれで2週間ぐらいは何とかなるだろうと空いた腹をスーパー・マーケットの前にある軽食屋で外を眺めながらビールを飲みながらでハンバーガーを喰っていた。

今日は日頃になく、陽射しが少ないのに蒸す。 気温の上下は行く人の服装にも影響するのか腹を出しながらショートパンツにサンダル履きのおっさんや妊娠ほぼ9ヶ月かとおぼしき母親の見習いが出臍をだし買い物袋をぶら下げながら腹を天空に向け闊歩すると言う風景が見られるのだし若いのは若いのでケルト文様の刺青かプリントかはっきりしないものを尻の上に見せて歩きまわるのだからこれだけで温度もわかるというものだ。 この何日か低い気温から開放されて夏らしい気分に浸っているのだろう。 しかしそんな天気でも80歳ぐらいの老人たちはきっちり夏物のスーツにネクタイ、帽子をかぶり、女性も襟元を閉めたワンピースで日傘を差して通る人たちも見えるのだから服装はこうあるべき、というような矜持をもつかもたないかということでもあるのかもしれない。 矜持を持たない私は古ぼけた野球帽にT-シャツ、コットンパンツにサンダルだからその老人たちとの30年の違いは暑さをどのように扱うかという違いでもある。

こちらはそのあとスーパーの冷んやりした空気に入り適当に食材をカートに放り込みその量が多くなかったから自分でセルフサービスのレジで商品についたバーコードを赤く光るレンズに見せて料金をカードで支払い新聞を表で買ってのんびり公園を抜けて戻ってきた。 このまえ空けたままになっていたボルドーの赤ワインが残っていたのと庭にパセリが茂ってきたことから昨日から決めていたクスクスのトマトソースをコトコトと煮てその間に来週の週末に2泊3日で出かける北の街グロニンゲンの田舎でのフリージャズフェスティバルで土曜日に聞くグループをプログラムから選び一グループあたり45分のステージで5グループをそれぞれ何キロメートルか離れた会場で聴けるようスケジュールを作った。 昨日、電話で宿を2つ予約してあり一安心というところだ。 4年前には宿がとれず一晩駐車場に停めた車の中で寝たことがあるが寝袋を使ってはいたが明け方の寒さに往生したことを覚えている。

モロッコ風の薬味を加えて焼いたミートボールに同じく来たアフリカ風味のトマトソースをかけてクスクスで夕食にしてメロンが一玉100円ほどだったのでそれをデザートにした。

猫を獣医に連れて行った

2007年08月15日 11時24分05秒 | 日常
今年は例年のように休暇に出かける前に飼い猫を動物ペンションに2週間ほど預けるということをしなかったためにそういったペンションに連れて行くための条件としてある、各種の予防接種、蚤、回虫などの駆除のための処置を4週間前には施しておくこと、というのをしなくてもよかったため、といっても2週間は家を空けたものの家は息子が留守番をしながら隣人から自動車講習の実地練習をうけたりガールフレンドや友達を呼んでうちのビールを全て空にしたりするなど有意義な時間を謳歌していたたためにオバサン猫も自宅で安穏と好きなだけ餌をねだって暢気な息子から食い物をもらっていたから少々下腹に弛みが出来ていたけれどとりたてて変わったこともなかったしこの涼しい夏に助けられたのか小さな昆虫類の駆除をしなくてもカーペットの上をピョコピョコ飛廻るごまつぶのようなものも見かけられなかった。

しかし、一年に一度は健康診断と予防接種はしなければならず、今日暇な私が一人で1kmほど離れた獣医のところまで行くことにした。 去年は娘が同行し、その前までは3人以上で連れて行く、というようなことをしていた。 それがもう8年ほど続いていたのだが今年初めて一人でいくことになった。 と、書いていや、違った、4年ほど前にも一度一人で連れて行ったことを思い出した。 あの時は昼食後に猫の首に縄をかけ縛ってデイパックにいれて首だけそこから出るようにして時々みゃーみゃーという声を肩越しに聞きながら自転車で出かけたのだった。 行きはなんともなかっのだが獣医で各種の処置をしてもらい帰りの途中でどういうわけか後ろでガサガサしていると思ったら急に軽くなって「走っている自転車から猫が飛び出した」という通りがかりの老人の声で家のオバサン、ではなかった4歳猫ではまだおてんば娘からはねあがり女、というところだったのだろうが、とにかくそう言われて急に自転車を停めて老人の指差す方を眺めてももうそのときは猫は霞と消えていた。

1kmは離れていなくとも家まではかなり距離があり今までとてもそこまでは歩き回っていたはずもなくうちに戻ってからは家のものたちに散々に私の罪状を不注意だの野蛮だなどと咎められたものの、まあ1日待って戻ってこなければどこにでも見かける張り紙を出せばいいと言って夕食の卓を囲んでいると猫もどこからか自分の餌の皿からぴちゃぴちゃと音をたてて舐めるような食事をしていたのだった。

そのときもそれではこんなことがないように車でもう一人がきっちり金網でつくった簡易檻を抱えてもっていけばいいではないかと私が主張したはずだった。 そのときが唯一わたしが一人で獣医にいったときだったからだが、今回も一人だったため、同じようなことが起こった。 それは行き返りではなく車で出かけた行きには簡易金網の檻に入れていったのだが獣医の近くに停めておいて檻を抱えて獣医院に入り受付でパーキングメーターに入れるコインを両替してもらいそれを機械に入れるべく出た5分ぐらいのあいだに医院でこの金網から逃げたのだそうだ。 わたしが戻ったときには入り口で窓を拭いていた業者の若者があんたの猫が逃げたよ、とニヤニヤしていた。 けれど中に入るとオバサン猫は医院の頑丈な手提げ檻に入ってなんともなさそうな顔をしていた。 と、これだけのことなのだが教訓はこうだ。 獣医にこの猫を持っていくときは一人では逃げれられる、二人以上で連れて行く、ということだ。

勿論、これには反論が家族からは紙つぶてととんでくることは明らかなのだが私は持論を曲げない。 オバサン猫も私の意見に同意するのは明らかなことだ、疑うなら各自彼女に聞いてみるとよい。 

食後、猫も庭に出て草木をを嗅ぎまわっているところで、数週間前に家人が植えていた香草のパセリが大きく盛り上がって何十倍かの嵩に育っているのに気が付いた。 明日はこれを使ってモロッコ料理のクスクスのソースにするとしよう。 一週間ほど前に空けた赤ワインがまだかなり残っているのでそれもトマトソースに入れて他の薬味、香草と煮ると旨みが出るだろう。 息子は大学町に出かけて新入生のオリエンテーションで3日ほど帰らないらしいから料理は3人分でいい。