暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

隣家の猫に餌をやる

2019年05月31日 19時33分27秒 | 日常

 

自分たちがクルーズから戻った翌日隣家のゲイのカップルがバス程の大型キャンピングカーで3週間ほどのバカンスに出かけたので1週間ほどは我々が朝晩猫の餌をやることになった。 その向うの隣家も今バカンスに出かけており彼らが戻り次第猫の世話をバトンタッチすることになっている。 これはもう何年も一年には2回以上やっていることでそれぞれ両隣にはそれぞれの家の鍵を日頃から渡してあり何かあればこのように見てもらったり緊急の場合には連絡し合うことになっている。 

で、この猫はキトといい片手に入るほどの子猫の時から二匹でこの家に飼われている。 もう10年ほどになるだろうか。 この二匹は小さい時からじゃれ合っていつも連れ立って彼方此方を探索する風でうちの庭にも毎日何回か訪れていた。 もう一匹の方は比較的こちらに慣れて背中を撫でさせる風でもあったのだがこのキトは疑い深いと言うのか臆病というのか自分から、というより他家の者たちからいつも4,5mは距離を置いてこちらをうかがう風だった。

もう一匹が近所の緑地の垣の下で死んでいるのが発見されたのがもう3,4年前になるだろうか。 我が家の猫が死んでから2,3年後だっただろうか。 我が家の猫は内気で自分の庭の領域でもまともに守ることはできず、あちこちから我が家の庭を通って行く猫たちを窓からながめているだけの姿が見られたのだが隣家の猫たちとは仲が良い方だった。 それに特別親しんでいる黒猫がいた。 それは我が家の雌猫、プキが死んだ後でも庭の隅でプキを待っている風にも見えた。 流石今ではそういうことはなく今では老いた黒猫が物置の屋根の上で日向ぼっこをしているのを時々見る。 

方割れの猫が死んでからキトの日常は相変わらず、他の猫とじゃれることもなく猫のすることを毎日やっている。 こちらを眺める態度も変わりがない。 あちらがこちらの脇を通って庭から出ようとしている時に対面することがある。 そのときこちらが立ち止まって眺めているとこちらの顔色を窺って自分の脇を迂回して足早に自分の後ろに去っていく。 こちらが座って手を出しても何の反応もせず今まで通り素早く通り去っていくのだ。 それが今回、朝晩と餌をやるときには自分の家の中だからそうなのか、オドオドする態度が消えていた。 もう何年もやっているとおり勝手知ったる他人の家で朝は乾いた餌、夜は袋に入ったキャットフードの肉をやるのだが今までは食事中に体を触らせなかったのが今回はそんなこともなく首から背中を撫でても今までのように逃げることもなくこちらのすることを何事もないようにそのままさせる。 喰い終わったあとは足元に体を擦り付けることまでする。 当然今までこちらから話しかける風にして餌をやるのだが今まではそんなことには見向きもしなかった。 だからこんなことはこの10年ぐらいで初めてのことなので驚いた。 何か月か前までそんな風だったものがこの間一体何があったのだろうか。 

キトは食事の後暫く部屋の中をぶらぶらしていたけれどそのうち台所の扉の穴から裏庭に出てしばしば庭を眺めていた。 何の変わりもなく相棒の猫も今はおらず、追い散らかす近所の猫も来ず、そんな庭をただ眺めている。 そこには老年期に入った人間と同じような雰囲気をがある。 毎日顔だけはみていて何か月かに何日間か餌を呉れる見知った隣の老人に体を触れるのを許すような気になったのは人間でいえば還暦ほどになった老いからだろうと解釈した。 

その家の居間の天井の隅にはカメラがあって猫の動きを観るようになっていると家人から聞いたのは一昨日で、もしそこに映った像が保存されているならば自分の動きもまたそこにはあるはずで、自分がキトに話しかけ屈んで背中を撫でている姿とキトが自分の足に絡んでいるのが見える筈だ。 そういう自分の姿を見られるのは少々恥ずかしくもあり、明日からはここにいるときはこちらの方からキトとは少し距離を置く様に見せようと心がけるつもりだ。 


屋上の縁に坐る男

2019年05月30日 21時27分15秒 | 日常

 

クルーズに出かける前にロッテルダムの娘のところに行った話をここに書いた。 5月10日のことだった。 そのとき書かなかったことがあり、それは日頃あまり経験しないようなことだったから、それをここに忘れないうちに記しておこうと思う。

ロッテルダムの中央駅で地下鉄を降りて一旦駅の外、線路の下を抜けて裏側に行くべくバスターミナルのところに出て何気なく向かいのビルの屋上を見ると誰かが10何階かの屋上の縁に足をダラリと下ろして腰かけているのが見えた。 近頃はアートのインスタレーションでそういう像をそんな風に置いて人を驚かせる態で設置してあることもなくはなく、それにしても物騒なインスタレーションで、これなら間違って人を騒がせることにもなりかねないのにと思いながら確かめるのにカメラを向けてズームで撮った。 するとそこには置物や像ではなく生身の年配の男が紛れもなく坐っているのが写っていた。 娘にそれを言うと写真を観て、危ないと言い、すぐに警察に電話してこのことは既に警察に通報されているかどうか確かめた。 けれど他にはまだそのことの報告はないという返事だった。 

医者でもある娘の専門は内科から精神科の方に移っていて、このような事例もその範囲として扱っているから、ここでは飛び降り自殺の可能性もあるから警官が来るときにはパトカーでサイレンを鳴らしてくることは止めるよう指示した。 我々はできるだけ上を見ないようにしてその男の真下にある入口の方に歩いて行くと5分ぐらいで自転車に乗った警官が3人ほど我々のところに来て電話をかけた者を確かめ、あと4,5人の警官が来ること、飛び降りる可能性があるので辺りの人通りを迂回させる警官を3人ほど手配したこと、何人かの警官が裏口から上に上がって待機すること、警察署長と説得・交渉の専門家が来るので娘の手伝いは要らないことを告げられた。 その間にも通行の何人かは警官の動きに反応して屋上を見上げるものもいた。 警官は娘の助言通り人々に、本人を刺激させないため上を見ないことと呼び掛けていた。 我々は男の真下でこんな話をしていたのだが、もしも男が飛び降りたとしたらと思うとゾッとする。 ただ上にはコンクリート製の軒があるので我々には直接打撃はないもののその凄まじい音と飛び散るものの凄さをおもうと堪らなくなる。 我々にはその時点でもう何もすることがないので駅の方に戻り娘の家を目指すことにした。 写真を撮ったあたりまで戻って見上げると三人の警官が男を掴んで引張り、建物の内部に連れ込むところだった。 それを見て一同ほっと胸を撫で下ろしたのだった。

その後我々は無言で歩いたのだが、それぞれの胸には男が何を考えてそこに坐っていたのだろうかということを想っていたことには間違いなかった。 はっきりとしたことは我々には知る由もない、ということだ。 けれどその可能性は想像することができる。 一番罪がないのは、酒に酔ったか若しくは興味本位で高い所から下界をただ見下ろしていたということだが、それでも警察で事情聴取のあとお灸をすえられることになるのは確かだ。 

人には生きている中で様々な鬱屈が起こることは確かなのだがそれがこのような行動に出るのかもしれない。 それは別に飛び降りるとかそういう意図がないにしてもそれにつながる様々な心の動きが起こることもあるだろう。 精神的な病、鬱ということも考えられるが、それらは町で行き交うだれにも起こりうることだ。 ただここでこのような危険なところにそうして座らせるものが何かということでは町で行き交う人にもその可能性があるもののそれと明らかに違うのは実際にこの男がここまで来たということだ。 孤独、絶望、若しくは自覚せぬそういうもので本人も自覚しないまま人々の関心を惹きたい、救われたいというサインとしての行動ということもありえるだろう。 いずれにしても警察の事情聴取だけではなくある種のケアが必要なことは明らかだ。 もしそれがなければ同じことが起こり、もしかしてその時は飛び降りに成功するという可能性はあるだろう。

自分がこれから何か月かして病死することは確かであってもこのような場面に直面すると自分とは違った死の相をここで覗いたような気がする。 病気の最終段階で絶えられなくなった時のこととして安楽死の手続きをしている。 

あの男が警官に引きずられて建物の中に入った時によかった、と思ったその感情は何だったのだろうか。 あの男の中に耐えられない苦しみや悩みがありそこで決心した結果としてそこにいたとしたら我々はそれを邪魔したことにはならないか。 自分には安楽死としての自殺が保証されているのに彼にはああいう形では自死できなかったとするとそれは方法の問題でもあるけれど、それでもまだ何かしっくりしないものが残る。 自分にはそこからもう生へは戻れない、何らかの耐えられない苦痛・不快しかないという時点でそれが周りから認められ医師に助けられた自殺が安楽死ということになるけれど、あの男の場合にはあの形では周りから認められた死ということにはならないだろう。 例えばあの男には不治の病が宿っていてその解決策としてあの形があったとしたら彼の安楽を奪ったことになるのかもしれない。 それではなぜ自分はほっとした、よかった、という感情をもったのだろうか。 傍観者として人は自身や他人が死ぬのに直面したくないからかもしれない。 ことに人知れず入水するなり森の奥で枝からぶら下がるのでもなく、あからさまに公衆の眼前にその無残な姿を晒すそのことを見るに耐えられないからかもしれない。  この男のような死を選んだとして、男には死後の無残な姿というのは思い描けていてもそれは彼には何の意味をなさないのかもしれない。 無残な形より自分の何らかの苦痛や耐えられない現生から逃れたいということを選ぶなら性急な方法を選ぶのも理解できなくもないがそれでも自分にはそれが出来ない、跳ぶのが怖いのだ。 跳んでしまえばそれで解決するのは分かるけれど高所恐怖症の自分はしり込みするだろう。

何か月先かの自分の死には怖さはない。 周りに見守られ医師の助言の元、自分で状況をみながらその時を待ち決断・実行する。 臆病であるからこのような手段となった。 自分は痛みに対しては臆病である。 けれどあの男が想像しただろうことと同じく、跳べば一瞬の痛みで終わる、いや痛みさえか感じないのかもしれない。 病気での痛みは今では様々な療法があるので痛みに関しては問題はない。 ただ様々な機能不全に伴う不都合が一番の問題となるようだ。 それを探るのが自分の課題となるだろうことは確かなことだ。 自分にとってはあの男と同じく自死ということになるのだろうが方法が違う。 もし自分があの男に何か言えることがあるのだったら、どうせ死ぬのだから肩の力を抜いてもっと気楽に行こうじゃないか、と言うのではないか、相手の切羽詰まったことも知らずに能天気な言葉ではあるけれど、、、、、。 

 


物憂い一日

2019年05月29日 08時59分30秒 | 日常

 

クルーズの疲れか、戻って二日目は物憂い一日となり、何もせずパジャマのままでベッドに横になったり集中が出来ないものだから本も眺めるだけ、タブレットで You Tube の大食いチャンピオンたちの喰いっぷりをだらだら眺めているだけで一日が過ぎた。 午前中は雨が降っていたものの午後からは晴れて、外を歩くなりジョギングをするなりそんな事でもすればよかったのだけれど物憂い気分の中でそんな気にもなれず、ちょっとの間だけ庭に出て紫色に咲いたネギ坊主を写真に撮っただけだった。 

 


クルーズ・バカンスの旅(1) バルト海巡りの船旅概要

2019年05月28日 01時11分30秒 | 日常

 

今回私たちが参加したのはホランド・アメリカライン社 ロッテルダムを母港とする ニュースタテンダム号 の14日間クルーズパッケージ「バルト海の宝石」と題されたもので、そのスケジュールは次の通り。 船籍はオランダではあるが資本はアメリカ、基本的にアメリカ人の顧客を念頭に営業しているクルーズのようだ。

 

5月 12日 17時 アムステルダム港 出航

   13日     一日洋上

   14日 7時 デンマーク コペンハーゲン港 入港

      17時                出航

   15日 7時 ドイツ ロストック外港 ヴァーネミュンデ港 入港

      22時                       出港

   16日     一日洋上

   17日  9時 エストニア タリン港 入港

       18時            出港

   18日  7時 ロシア サンクトペテルブルグ港 入港

   19日 18時                 出港

   20日  7時 フィンランド ヘルシンキ港  入港

       18時                出港

   21日  8時 スウェーデン ストックホルム港  入港

       18時                  出港

   22日      一日洋上

   23日  7時 ドイツ キール港     入港

       18時               出港

   24日  8時 デンマーク アールフス港  入港

       18時               出港

   25日      一日洋上

   26日  7時 アムステルダム港  入港

 

ホランド・アメリカライン社 のクルーズ一般とニュースタテンダムについてのカタログ サイト;

https://vigour-travel.com/?p=13950

https://www.best1cruise.com/user_data/charms/111/other_images/holland_america_line_2018-2019.pdf

 

ニュースタテンダム号;

長さ 約300m、 幅約35m 最速時速40km弱、 エレベーターの数 12基、 階数 15階、 排水量 10万トン

乗客2600人(30を超える国籍、乗客の半数以上がアメリカ人、オランダ人600人、日本人3人、 中国系多数、イギリス人、オーストラリア人、ニュージーランド、フランス、カナダ、スペイン、イタリア人が続く)、 乗務員1100人(船長、オフィサーを除いてほとんどがインドネシア人、少数のフィリピン人、ベトナム、タイ人)船内使用言語は英語とオランダ語 

施設; レストラン数9、ジャグジ風呂付10mプール2、140mのジョギングトラック、アスレチックトレーナー付きジム、クラシック、ディスコ、ロック、ブルース各クラブステージ、1200人収容大劇場、カジノ、免税ショップ、手術のできる医療クリニック、等々 我々が泊まったのはバルコニー付きの部屋でバルコニーには寝そべることのできるデッキチェアーが二つ置かれゆったりとした空間が用意されていた。 船室も同様ではあるが船内の空間は肥満形の多いアメリカ人客を想定して設計されたものではないかと想像した。 

旅程14日の内、洋上4日、訪れる港に留まるのはサンクトペテルブルグに二日のみで後は午前中に着いて午後離港するというもの。 サンクトペテルブルグとストックホルムを除いて船から町の中心まで徒歩で1km以内であることから一日とは言え一応の観光はできる。 基本的には港巡りということである。 バルト海諸国の主要都市は港が元になっているという事でもあるのだろう。

本の知識ではこの時期のこの地域の気温は10℃から20℃の比較的寒冷な気候ではあると示されていたものの最終寄港地アールフスの一時小雨を除いて晴天が続き16℃から24℃と暖かい日に恵まれ初夏を思わせる日も何日かあった。 持って行ったオーバーを身につけたのは2日ほどであとはセーターやTシャツで街に出た。

このクルーズ体験については次回からボチボチと綴っていくことにする。

 


二週間の船旅から戻って一段落

2019年05月26日 21時35分02秒 | 日常

 

2019年 5月 26日 (日)

今朝7時に出発したと同じくアムステルダム駅近くの埠頭に戻って来た。 ターミナルの入口には息子と娘がそれぞれのガールフレンド、ボーイフレンドとともに待っていて、彼らに混雑の中を助けられそれぞれの車に荷物を積み込みライデンの家まで戻って来た。 戻ると隣人がキャンピングカーで4週間スペイン、ポルトガルの休暇に出るところだった。 反対側のゲイの隣人たちも来週あたりから大きなキャンピングカーで何週間かのヴァカンスに留守にするとのこと、この時期、休暇に出る人が多いようだ。 家に落ち着き子供たちに買ってきた土産を振り分け、溜まった洗濯物を器械に放り込み、子供たちの持って来たケーキでお茶をしてその後昼食を摂ってからそれぞれがハーグ、ロッテルダムの家に戻って行った。

船旅は天候にも恵まれ快適で、想像していた以上に体調がよく、別段何の不都合もなく恙なく旅を終えたことに満足している。 そしてここではこれからボチボチとこの旅について記していこうと思う。 子供たちが家から去り、静かになったら流石に疲れがどっと出て1時間ほどベッドに横になった。 

二週間留守にしている間に庭の様子が随分変わったように感じる。 玉葱の紫の花が雨の中で綺麗に咲いているのが見える。 庭に出ることもないので写真を載せることはできないがその代わりに2日前にデンマークの Aarhus の大学植物園で撮った花を載せる。 


2週間ほど休みます

2019年05月12日 01時42分46秒 | 日常

 

 

 

 

12日から26日まで2週間バルト海巡りのクルーズ旅行の為しばらくこのブログを休みます。

帰宅の後ぼちぼちとこの旅行のことを綴りたいと思っています。 それまで過去14年ほど書き溜めたものがありますのでそれもご覧いただければ幸いです。

 

それでは皆さま、それまでご健勝で

 

 


一日子供たちと遊んで娘の新居で夕食を振る舞われた

2019年05月11日 15時41分20秒 | 日常

 

2019年 5月 10日 (金)

娘と彼女が同棲しているボーイフレンドにロッテルダムに遊びに来ないかと電話で誘われた。 彼女たちが住み始めた新居をみたいのでOKすると、家人が用意した彼らの家に置く鉢植えの植物が3つほどあるそうだからそれを貰いに来る序でに迎えに行くと言って昼過ぎにやって来て、そのまま車でロッテルダムに向かった。 昼食は向うですると言ったが何処でするとは言わない。 言われるままに彼らの家の近くに車を置いて中央駅まで歩き、そこから地下鉄で古い港や新しい大屋根の市場、サイコロを斜めに立てたような70年代の近代建築住宅が並んだ駅で降りて、歩いて暫く行ったところから水上タクシーに乗りマース川を渡って嘗てはここからアメリカに移民として出発する基点となっていた古いホテル・ニューヨークまで連れてこられた。 そこで昼食にしてそれまで小雨だったのが陽が射してきたからマース川に面した港を散策した。 この辺りはもう何度も来ているのでどこに何があるのかは一応分かっているのだが岸壁には明後日我々がアムステルダムから二週間のクルーズに出るのと同じような規模のクルーズシップが横付けされていた。 我々の乗るはずの船は長さ300m、乗客2500人、乗組員1000人ほどの船だがここに見られるのはそれと同様で巨大、その姿は壮観だった。 普通の大きなビルである。 暫くそれを眺めていた後昔倉庫だったものを今風のヒップなマーケットにした地区でコーヒーとケーキの休憩した。

陽射しのある港を散歩するのは気持ちが良かった。 そのまま様々な建築物を眺めながらロッテルダムのシンボルの一つであるヴィルヘルミナ橋の地下鉄駅までブラブラ歩いて来てロッテルダム中央駅まで戻った。 駅から10分ほど歩いたところに彼らの新居がありそこは息子と彼女が同棲しているハーグの住宅とほぼ同じ時期の1930年代のスタイルのものだった。 どちらとも3階で同じような間取りになっていてこちらの方は思ったより広かった。 そのうちハーグから息子たちがやってきて家人も駅から歩いてここに集まった。 我々が日曜から二週間クルーズに出るから暫しの別れであることと娘たちの新居を訪れることが集まりの趣旨だった。 娘たちの手料理で晩餐を済ませ10時ごろまでなんやかやと団欒を続け11時前にそこを離れた。 駅まで歩き電車でハーグ中央駅経由でライデンまで戻り、10分ほどバスターミナルで待ち自宅に帰りついたら12時を周っていた。

翌朝遅くまで寝床にいた。 朝食前に庭に出ると咲き始めていた 苧環 (おだまき)、蘭名 Akelei、英名 Columbine があちこちに白、薄い赤、青などの様々な色を見せて満開になっていた。 この花は咲く期間が比較的長くこれから庭のあちこちで少なくとも二か月以上咲き続けるからとりわけ珍しくはないのだが自分の気に入りの花でもある。 義経の妻、静御前の、静や静、静のおだまき繰り返し、昔を今になすよしもがな、の歌が想い出され、また中学生の時二夏過ごした吉野山を想い出すからでもある。