暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

大晦日、別段変わったこともなし ’07

2007年12月31日 13時47分23秒 | 日常
例年のごとく兄弟の子供達、友達を集めて義弟のうちで忘年会新年会の飲んだり喰ったり遊びをしたり花火を豪勢に打ち上げるのが例年のことで昨年は我々家族は日本に帰省していたものだからそれもなく、皆が待つ寿司を40人分ほど昨日から下ごしらえをしながら今も続けているのだが、寿司飯を蒸らしている間にちょっと日記をと屋根裏部屋に上がってきてキーボードを打っている。

稲荷寿司を40個弱、夜が明けたらあと20個分は買ってこなければ作ってある黒ごま入りの内容物が余ってしまうし、一晩あわせ酢で締めておいた生のニシンの握りも50個弱これから作らねばならず、そのあといつもの、海沿いの魚屋で散らし寿司に乗せる新鮮生魚の買い物をするついでに天気予報では小春日和になるとのことだからそれを信じればそのあと家人とそのあたりの海岸を二人で二時間ほど散歩してそこにあるレストランで昼食にする予定なのだが、子供達は家で大晦日、元旦と過ごしたい、おじさん、おばさんの家に行かずに友達と家で過ごしたい、というのだが、まてよ、勝手に家の中のものを飲み食いして帰ってみればパーティーのゴミのみが残ると言うような新年は迎えたくなく、注意してあるのだがされ、どんなものか。

子供達が大人とこどものまだ間でうろうろしている状態の扱いには戸惑う。 大きな口を利く子供達にはそれなりに可愛げがあるのだが度を過ぎたときにはその処理には大人の対処の仕方があるけれど、そういうときには子供のエゴがむき出しになって家庭外でみせる顔とは違う子供の顔が出て子供に対する対処の仕方をするのだがとかく世間で言われるような、子供は親の思う通りにはならない、ということで結局は頑固親父と子供達の間で家人が何とか納めるようだ。 上の坊主はもうほぼ母艦からのカタパルトに登っていて発艦するばかりなのだが、思春期の扱いがたい娘にはあと4,5年は必要なようでもう少し鬱陶しい父親でいなければならないようだ。

ま、ここまで書いてきて、さて、飯も蒸れたことだから寿司飯を合わせて鰊の握りを始めようか、それが終わると40人分の3分の2が終わったことになる。 やっつけ日記でもう2ヶ月ほど前に撮った近所の公園の写真を貼り付けて今年の最後とする。

読み齧りの書物

2007年12月31日 07時42分40秒 | 読む
ネットの読書コミュニティーで読みかけの本のアンケートがあったので以下のように回答した。 


* 笙野頼子  萌神分魂譜   すばる 9月号 

よっぽどしっかり心得ていないとふりまわされる。 ひとすじ縄ではいかない人です。

* 東郷和彦  北方領土交渉秘録  新潮社

ああ、あのころは実際はこうだったのか、という高級官僚の国際政治のなかでの外交の様子がわかり手に汗を握るようです。 それにしても日本の報道のひ弱さがあちこちに露呈されています。 5分の3ぐらいは行ってるのかな。

* Belcampo     De Zwerftocht van Belcampo      1938

もう25年以上前に住んでいたオランダ北部の州都で知り合った老人が著名な作家だったということは後ほど聞かされたのだけれどその老人とは主に骨董のオークションで会ったり買い物のマーケットで立ち話をした人だけの間柄でその町を離れ、それから10年ほど経って亡くなったということをナショナルニュースで知ったけれど一貫して匿名で済ました人だったから写真も出ず、作家名のベルカンポという名前で通した老人だった。 夫人から若いときのことをいろいろ聞いていたのだけれど我々の会話は殆ど私のわけの分からないオランダ語と、何ヶ国語も話すけれど老人が話したくない英語で行われていたので今となってはあのときにオランダ語が流暢に喋れていたらという悔いが残る。 

* Geert Mak  Hoe God verdween uit Jorwerd  1994

今オランダのテレビの日曜ゴールデンタイムに31回にわたってヨーロッパの歴史を個人的にレポートしている作家の書いたものであるのだが、自分が育ったオランダ北部の村がどのように戦後の歴史の中で変わったかを自叙伝風に綴ったものだ。  神は如何にしてこの村から消え去ったか、 というのがタイトルで1945年から1995年に亘る戦後高度成長に翻弄された日本の地方の村の様子ともパラレルに見られるのだろうが日本の村には神などは民俗学的対象だけでしかなくもともと存在しなかったのだからだれも能天気にやり過ごしてきたものがヨーロッパの宗教を絡めているところが興味深い。

* 立野正裕  精神のたたかい 非暴力主義の思想と文学   スペース伽耶

作家が対話する老作家に曳かれて読み始め4分の1まで届いて一休みしている。 非暴力の可能性を否定するような銃器を趣味として扱うものには示唆に富む書物だ。 文学に現れた暴力、非暴力の系譜を辿るのは20年ほど前に読んだ老作家のライフワークを再読するようでもある。

* Translated by Taigen Daniel Leighton and Shohaku Okuma
  Dogen’s Pure Standards for the Zen Community       1995

永平清規の翻訳なのだが近所のオランダ人禅僧から借りていて道元の規則で禅の鋳型を作っていく様子が面白いと思うのだがその後の個人の身の振り方を助けるものとしては今でも充分俗世に活用できるだろう。

* John Banville   The Sea  Picador 2005

去年の今頃日本に帰省の折、スキポール空港の売店で手に取ったものだ、往復のルフトハンザ機内で読んだのだが飲み食いと機内の映画に邪魔されて20ページほどの導入部で放ったままになっているのだが、四半世紀以上前にオランダにわたるときに伊丹空港の書店で読み始めたIris Murdock のThe Sea, The Seaに曳かれてほぼその作家のものを読んだのだがこの作家にはそれほどのインパクトがないようにも思える。

他にもまだ幾つか齧っただけのものがあるのだろうが散らばった屋根裏部屋の中では捜せない。

久しぶりにジョギングをした

2007年12月28日 07時53分26秒 | 日常
昼に起きて毎週の買い物をスーパーで済ませ家に戻ってくると子供達が隣町のショッピングセンターにあるスポーツ専門店に連れて行けと言う。 ホッケーのスティックと靴が要るのだと言う。 彼らがそれぞれ靴とスティックを選んだり試したりしている間に店を眺めているとジョギングのトレーニングウエアーが目に付いたので、そうだ、これからの時期はこういうのが要る、と自分もジョギングウエアーが多くぶらさがっているあたりで適当なものを選び始めた。

もう半年ぐらい前に何回かジョギングをしていたのだがそれは夏の時期で6時の夕食後、9時ごろに走り始めて少し離れた公園のなかを回って10時をだいぶまわってから家に戻るというような大体5,6kmのコースで、これには夏の日暮れ前のことであるから着るものといえば別段何も要らず、ただTシャツにショートパンツと言ういでたちで、ジョギングのための靴だけが必要だった。

けれど、今、夜間が3度ほど日中も5,6度とこの時期にしては比較的暖かい温度ではあるものの、汗をかけば普通の綿の衣服だけでは汗が綿に吸い込まれ、それが外気と接触すると急激に肌を冷たくするのだと言う。 だから、軽くて保温に優れたハイテクスポーツウエアが寒い季節の外での運動には要る、と聞いていたので夜間、9時ごろに惨めな雨の降る中でもジョギングができるようなウエアを買おうと思っていたのでそれがこの機会だと考えたわけだ。

それに一月になってちょっと温度が下がり零下になる日が何日も続き、地面が凍り始めた頃に2,3日家人とオランダのどこか田舎を50kmほど歩こうと計画していることもあり、そういう機会にもこういう衣服は体温を保つのに有用でもあるから持っていてもいい。

家に戻り北アフリカのクスクス料理を作り、そのトマトソースに赤ワインをたっぷり注いでコトコトと煮込み、夕食にも赤ワインをグラスに一杯つけて満腹に近いほど食事を摂ったからか8時のニュースをテレビで見ているときにまどろんでしまった。 30分ほど眠り、そのあとすっきりした頭で家の前の運河に沿って走り、橋を渡って向こう岸を戻るコースをジョギングして買ったジョギングウエアを試そうと思った。 夏の間は橋を向こうに渡って広い公園に入り距離を2km以上伸ばして戻り運河の向こう岸を戻ってくるのだが今の時期は広い公園の中は真っ暗であるからそれもできないので短いコースにする。

二つの橋の間隔は1.3kmでこちら側と向こう岸をぐるっと周って来ると2.6km走ったことになる。 もう半年もジョギングをしていなかったこともあり、兎に角、今日はゆっくりゆっくり走ろうと決めた。 競歩に毛の生えたぐらいの速度でもいい、止まらず一周するすることにしてi-Podのジャズを耳の中で景気付けにして気温3度ほどの外に出たのだが、全く寒いと感じない。 夏の涼しい夕方でかなり調子のいいときであれば2.6kmを周ってきてやっと汗が出始め、ここを2周するとかなり汗が出て走った気持ちになるのだが、今日はすでに1.5kmほどのところから汗が出始めた。 速度も遅く、20分ぐらい経っているのだろう。 しかし、汗が出てもそれで体が冷えることは無く、ジョギングを終え、シャワーを浴びるために家の中でトレーニングウエアを脱いだときに体の汗が体温を急激に下げ寒いと感じた。 けれどこのウエアを身に着けている限りは寒さはかなり防げるのだろう。 ハイテク衣料なのだそうだ。 60半ばの自らもシニアの部でマラソン競技会の常連でもあるこのスポーツ店の店主が、我々の年頃の顧客が多く、今の時期にはこういうのがよく売れると言っていた。

クリスマスも終わり新年になる前に歳末の売り尽くしの20%、30%ディスカウントセールの時期でもあるのだという。 それでも靴を除いて上から下まで一揃えの4着ほどを買えばかなりの値段になっている。 これを償却するのに何百キロジョギングしなければならないのだろうか。


クリスマスの食い物

2007年12月26日 13時25分09秒 | 喰う

家族みんながそれぞれの年末のパーティーも済まし、身内に入院している者があるので家族では取り立てて何もしないということからクリスマス前の買い物も大したことも無く、ゆったりと家で皆勝手に過ごし暇をもてあましているように見えるこのごろ、25日の夕食はさすがに格好だけはつけようということになって冷蔵庫にあるもので家族がそれぞれコースを担当して寄ってたかって料理することになった。

息子が前菜の、メロンにパルマハムをまいたものとフランス風ジャガイモのグラタン、家人が本采の子羊の肉を北アフリカ風のマリネに浸しておいたものをグリルにしたものとチコリの蒸し物、私がミックスサラダ、娘がシャンペンシャーベットとチョコレートムース、ライチにパッションフルーツの盛り合わせのデザートとそれぞれ簡単なメニューで午後3時から食事にした。 白ワインで始めてコーヒーで終わると5時をまわっていて、その後私は子供達を車に乗せて40分ほど走り一週間ほど前に腎臓を摘出したばかりの義母が入院している、オランダチーズで知られているハウダとかゴーダとか日本では表記されている町の病院に向かった。

クリスマスのデコレーションがあちこちに飾られている人気の少ない病院の、集中治療室からやっと普通の病室に移され、昨日までは体中に7本も8本も管を繋がれていた老人は今日からは管を抜かれ、歩いて病室内のトイレに歩いていけるようになってはいるものの、依然として流動食であり、紅茶やヨーグルトは今日から摂ってもいいと言われていた。クリスマスの時期だからなのか廊下の端のテーブルにはコーヒーに紅茶、クッキーにケーキ、チョコレートがおかれ見舞い客が各自適当に摂られるようにしてある。

普通、この病院の食事のメニューは入院患者の状態が様々でも皆に同じカードが配られており、肉食、魚、菜食、若向き、年寄り向き、という風に前日に選べるようになっているし、それに宗教上の違いも加味されており、ユダヤ教徒、イスラム教徒のためにもメニューがある。 勿論、この病人は何も受け付けないので毎日メニューカードだけが配られてくるだけだ。

しかし、さすがにクリスマスのメニューは前菜、本采、デザートとコースメニューになっていて一般のレストランのクリスマスメニューとおなじ体裁で、これは流動食しかうけつけない老人には目の毒みえるのだが元気であればうらやましいのだろうが体力が殆どない老人にとっては何の感興ももよおさないらしい。 もし、このメニューカードにワインが加えられていたならば不遜にも明日はここで夕食にしてもいいと思ったぐらいだ。 

家に帰ってきてからは家族とテレビを見ながらブリーと熟成ゴーダチーズで白ワインを飲んだ。

ホランド ニュー(新鰊)

2007年12月25日 13時10分49秒 | 見る
クリスマスイブの宵、16になる娘はディズニーの「ダンボ」を一人で見ており、それは先週ベルギーのテレビ局の子供番組で放映したものを私が録画しておいたものだった。 そのとき、録画しながらもう50年ぶりぐらいで幼稚園児ほどの自分が見たものを今、子供が見ているというような妙な気分になったのだが、そのあと夜中に一人で時間を持て余して、さて、何を見ようかとヴィデオの棚の中をごそごそしていると古いヴィデオが出てきたので手に取った。

もう10年ほど前に蚤の市かガラクタ市で買ったものかもしれない。 当時はオランダの貨幣ギルダーか、もうユーロに統合されていたのかもしれないがいずれにしても日本円で100円ほどのものだったのだろう。 だれも気にかけない古い記録フィルムだ。

北ヨーロッパでは古くから北海の魚は食料として重要でタラ、ニシンがとりわけ値段は別として価値の高い魚である。 日本でも北海道の江差追分などで歌われるようにニシンは北の魚として関東以北では明治か大正のころまでは沢山獲られていたようだがあるときから途絶えたように言われている。 大量に捕獲しすぎて商業的に絶滅したのだという人がいる。 北海でも同じような事情がこの10年ほどで起こっており、絶滅を防ぐために北海周囲の国で保護協定を結び何年かは捕獲を停止するか、抑えたようなことがあり、その効果がでたのかまた一定の捕獲高を設けて獲りだしたため市場には昔と同様潤沢に出回っているようだ。

けれど、我々の食糧事情、食生活の変化は70年ほどまえに比べて大きく、ニシンにしても当時は子供の小遣いの小銭程度の値段だったものが今ではオランダでは一尾200円近くまで上がっていることとオランダ人にしても海洋国であったにもかかわらず魚離れが進んでおり昔に比べると需要が大きく減っていることも捕獲高制限を設けても大きな反発がでなかった一因かもしれない。

このフィルムはどのようにしてニシン漁が行われるのかを記録した1930年代から1950年代の終わりごろまでのモノクロフィルムで色々な点で興味があった。

5月の初め頃に出漁して5-7週間ほど北海に出てスコットランドの沖辺りまで出漁するようなエンジン付き中型漁船の生活が示され、そこでは小学校を上がったばかりのまだ子供の風貌が濃い小さい体に長靴、かっぱに身を包んだ見習い漁師が口にタバコをくわえているのも見られ、漁師達の分業の様子と激しい労働が当時の第一次産業に従事する一般の労働者が汗とながす形態を見せている。 現在の機械による自動化、省力化でこのフィルムで見られた数百隻の漁船も同じ港で毎年行われるニシン漁の祭りの際には3隻ほどで殆ど自動化され大型の漁船に少ない乗組員の様子が昔の船員のイメージとノスタルジーを大きく変えた、というのをドキュメントで見たのはほんの半年前ぐらいだった。 だから、このフィルムではその昔からの伝統的な様子が見られるので懐古趣味に安心して浸れるのだ。

ちょうど毎年、この頃になるとチャップリンやバスターキートンの無声映画がテレビで放映されるのだがこのニシン漁のヴィデオもそのころのドキュメントとしてチャップリンやキートンが今でも我々に感興を起こさせるのと同じように私がほぼ毎週口にする生のニシンの味にもノスタルジーと生き生きした趣をあたえてくれるのだ。

 

クリスマスらしくなって来たと思ったら、、、、

2007年12月23日 13時00分23秒 | 日常

慌しくも仕事を収め、毎日忙しくあちこちでクリスマス前の祝いと新年の挨拶のグラスを交わし、これから2週間仕事場にも入れず何だかせかせかと建物から追い出されたようで休めるのが嬉しいのか嬉しくないのか妙な気持ちだ。

一番いいのは何年も前のようにクリスマスの前後は休めるものの、家族との飲み食いの日々に飽きたら、たまには散歩がてらに人気のない仕事場に行って日頃は見ることのない書類に目を通したりしてそれから何処かの静かなカフェーで軽食とともに一杯やって晦日前の商店街を眺めて家にもどり新年の3日ぐらいは家族、知り合いとも飲み食いし、それでまたぶらぶら仕事場に顔をだす、というのが気晴らしになったのだが、官庁規則でこの暮れの1週間と新年1週間は一切事務所に入ってはならぬということになったのだからなんとも面倒だ。

暇が出来ればそれだけ暇を持て余す、ということもありえるのだが、それでも自分がしたいことができない、というのは精神衛生上如何なものだろうか、面倒なことだ。 忙しければ忙しいで文句をいい、暇なら暇でまた文句を言うと言う。 ああいえばこういう、何とも嫌われそうな爺になりつつあるようだ。

話変わって、先週の金曜日からしばらく足が遠のいていた水泳とサウナの組み合わせを始めたのだがプールの受付のオバサンにパスを見せたら、もうとっくに期限が切れてるからもう1年以上来ていないんだね、使えないよ、といわれてびっくりした。 それに、まだ4,5回残っていると思ったのだけれど使えないのかな、と訊くとウインクして、いいわよ、ま、あと2回ぐらいはね、といってスイッチを押してゲートを開けてくれた。 そこで、へえ、もう一年も来ていなかったのか、とおもったのだけれど、そういえば爺さん婆さん達の顔ぶれも少々代わっており、顔見知りの爺さんが一人相変わらず枯れ木みたいな体をサウナの湯煙の向こうに見せて座っていた。

外は零下3度、水温30度、サウナは75度以上あるようなもので、入るときと出るときに浴びなければならないシャワーの辺りがとても冷たくて皆往生していた。 そこがほぼ10度ぐらい、ということだからだろう。 一年以上ここで泳いでいなかった衰えはこれから2ヶ月ぐらいかけて徐々に回復させていかねばならないのだろう。 先週はさすがに2,3日は腕と腹筋が堪えて腹筋の痛みはまるで下痢の前兆のようだったし、腕の筋肉ではなるほど、これでは3kg弱のピストルを的に向かってゆっくり上げたり下げたりするのに安定できないはずだと認識した。 ここでトレーニングすれば来期は射撃の成績も今年のような惨めな結果にはならないだろうと期待してプール通いも習慣化しなければと思う。

外は霧氷の冬景色、このあと義母の手術の結果がこれから年末の我々の過ごし方を決定する。


冬夜(とうや)

2007年12月22日 09時05分10秒 | 日常
冬夜(とうや)は冬至の前日の夜のことで毎年うちの近所にある曹洞宗の禅寺では関係者若い入門者達が招かれて住職がこしらえた料理と酒で宵を過ごす習慣になっている。

この1年ほどはここは毎日前を通り過ぎるものの座禅には通っていなかったのだが街中で住職に出会ったときに招かれて評判のよかった風呂吹き大根を炊いてくれないかと頼まれた。 生憎、その日が冬夜だったため自分では買い物にでかける時間が無く、住職に必要なものを知らせて5時ごろまでに揃えるように言い、家に戻ってそそくさと家人と子供達のために夕食を作り寺に戻った。

寺と言っても昔のオランダの町屋の一軒を住職が一人でこつこつと内装から仏壇、畳に襖を作り奥には禅堂をこしらえ20人は座れるような本格的なものだ。 この住職とはもうかれこれ20年ぐらいの知り合いなのだが、私の親友が3年ほど前に突然亡くなってその後、その衝撃を何とか持ちこたえるためにもここで座って無想を保とうと試みたのだが、神戸の震災の中心地で家が倒壊したのにもかかわらず生き延び、その時の様子を彼がオランダに来たときにこの寺の本堂で我々に語ったのもつかの間、我々の年齢としては若く去った友人への複雑な思いをなんとか平静に出来たこともありこのつい近所の寺は正にオランダでは普通ではありえそうもない稀有な場所でもある。

風呂吹き大根を大鍋一杯に炊き、住職が一日がかりで作った寿司とともに8時ごろから徐々に集まってきた老若男女20名ほどに熱燗酒と一緒に供した。 酒が回るに従って歌も踊りもでて夜半1時ごろまで陽気な冬夜となった。

住職が福井県小浜にある佛国寺で修行したのはもう20年以上前であり、今でも日本語が不自由な人ではあるのだけれど禅僧としてはしっかりした野性的な坊主である。 ここからは定期的に若い人が小浜に修行に出かけており沸国寺でのコミュニケーションはたどたとしい英語だそうな。 平均するとオランダ人は日本人に比べるとおしゃべりで何をするにしても理由が要る。 それが叶わなければ頑固であったり人の言うことには簡単に従わない。 だから言葉の分からないところでも修行はかなり難しいはずなのだがここに集まる連中には禅での無理を受け入れる下地ができているようだ。

カリフォルニアからの到来物である月桂冠の酔いに身を任せて寒くない夜中に自転車を家に走らせていると雲のカーテン越しにかすかに満月が見えた。

曹洞宗 高堤山 睡蓮寺
http://www.zencentrum.nl/
 

オランダ国語力書き取り大賞

2007年12月21日 11時07分12秒 | 見る
毎年この時期になるとオランダ国営放送で国会第一院(参議院)の会議場を使って国語力測定番組が放送され、その中で各界の歴歴に混ざって作家たちもその国語力を競う。もちろん一般の応募者達も衆議院会議場のモダンな佇まいに比べて格調ある19世紀以前の議場で静かにペンを走らせる。 今、問題になっているベルギーの分離問題の核心、ベルギーの公用語、フランス語、フラマン語の確執の中、フラマン語は幾分古いオランダ語でありフラマン語圏の一般人、ベルギーの著名人もここに参加している。 更に、今まで17年間の優勝者数ではベルギーがオランダを圧しているという事実もある。 実際、オランダ語圏からノーベル文学賞が出るとしたらフラマン語の作家の方がオランダ人作家より賞に近いとも噂されていたりする。

兎に角、英語に限らず綴りがどの国語でも大切なことは言うまでも無く、それが出来るか出来ないかで言葉の力があるかどうかが分かるとされている。 そういう意味では綴りがその人の人格を決定するといっても過言ではない。 私は自分自身、何とか毎日の新聞を読んだり会話はこなすものの別段オランダで教育を受けたわけではないからメールなどでは読む方に分かるようには書けるものの、まとまった文章に関しては綴りや細かい言い回し、文法については誰かに直してもらわなければならなく、こういう書き取り番組では初めからお手上げでブラウン管から流れてくるオランダ国営放送のアナウンサーが読むテキストを家族が書き取るのを眺めているだけなのだがけっこうおもしろい。

今回はこの間無くなった1960年代からその奔放な造形、絵画、詩に加えて小説で人気のあるヤン・ボルカーズの作品からテキストが取り上げられており、ヒッピー時代の雰囲気を伝える内容のものであり結果は相対的に今までの硬いテキストに比べて良好のようだった。 間違いの数で競うのだがいままでは平均して30前後だったものが今年は23程度で優勝者は5つだったように記憶している。 そして優勝者はベルギーの中年女性だった。

こういうことは日本語でも行われているのだろうか。 漢字検定というのは知られているのだが、書き取りというのは行われているのだろうか。 昔、法学の授業で教授が読むものを書き取ったことがあるのを思い出す。 確かにそこではネックになったのが漢字であったことは間違いないのだが法律用語については殆どが前もって知識が無ければ想像しがたくカタカナを使って後に確かめた事をかすかに覚えている。

今、若い人の日本語力が低下していると言われ、現に今ここで書いていることでも漢字が分からなくてもワープロで叩けば変換の段階で本人が正確な漢字を選べばよく自ら書かなくても済むので識字力さえあれば用を足せる時代である。 紙にペンで書くことになった場合おぼろげな形は分かるものの正確には出てこない漢字が多いのも事実でメモにはカタカナがあちこちに見られるのも弱っている証拠である。 我々の世代にはキーボードを打てないものが多いものの若い世代はキーボードには慣れているものの語彙の乏しさと長文に対するアレルギーが言われている。 

オランダではまだ小さいときからさまざまな本を子供達に読ませるということが行われており、高校の国語でも卒業までに何冊も課題図書をこなしてそれに対するレポートや教師の口頭試問がある。 各市町村の公立図書館は貸し出し文庫が豊富でよく利用されている。 自分がどこに属しているかというアイデンティティーの元は言葉だといわれるとおり、言葉が弱れば人が属する国もおのずと弱まるという認識があるのだろう。 このような番組が一年の終わりに近く行われるというのは国語をないがしろにしない、ということの表れだろうと思う。




これは霧氷かな、、、

2007年12月21日 10時26分58秒 | 日常

一年で一番忙しい週ともなり早朝に起きて出かけねばならぬこととなり今年は何回この時間に起きたかという午前七時半、外に出てみればミルク色の大気に木の葉が完全に落ちて骨格だけとなった立ち木の細枝に一面何か粉を吹き付けたようなことになっている。 これが霧氷というものだろう。

昨晩夜中には日中とほぼ同じく氷点下3度ほどだったのだがそういう日々が少し緩み、どこからか湿気が入ってきたのか、それが地面と言わずあちこちの立ち木にかりかりの結晶となって木々のコーティングとなっている。 景色は悪くないのだが零下2度とは空気中の温度で地面は少し暖かいのか凍りつかず湿っている。 微妙なところだ。 あるところではその上を自転車で走ったり歩いたりすると滑りがあってあまり嬉しくない。 靴で歩くと不安定だ。 だから市の交通局は早朝に塩が混ざった化学剤をあちこちに散布してあり大抵はなんとか滑らず走れるようにしてある。 

空気は一日中動かず夜も昼も気温はほぼ変わらない。 あと5,6度は下がって欲しいのだが天気予報によると一ヶ月ぐらいは待たねばならぬようで、来週には気温もマイナスにはならずまたもや鉛色でびしょびしょ模様の惨めな日々が続くらしい。

普通ならこういう天気は二週間ほど前にあるのだがこれも暖冬の証なのだろう。 明日はそろそろ何もしないとはいえクリスマスで店が閉まる前の買い物をしておかねばならないだろう。 この霧氷でショッピングセンターのクリスマスセールのデコレーションが出来たというものだがもう一つ意気が上がらない。

ウンザリするクリスマスの話題

2007年12月18日 08時53分33秒 | 日常
またまたクリスマスの話題でそのワンパターン性に少々ウンザリ気味な折、特に今年はその気配が様々な理由からあちこちに立ち込めているのだけれど、トイレに入れば目の前の日めくりの漫画もそのようだったのでそれで少し笑い、ああ、我々の歳になればこんなもんだと納得する一面もあった。

親戚家族の中に生死がかかるような憂いごとがあり例年なら25日のクリスマスと26日には家族友人を集めてディナーで過ごすのがもう10年以上続いていたのだが今年は見合すこととして普通に過ごすよう、そう自然にスケジュールが固まっていった。 子供達はそれぞれ大学や高校のパーティーがあるし別段一年ぐらい兄弟家族で集まらなくてもいいではないか、ということでもある。

隣人宅などではそれぞれ前庭にちょっとした灯を点して小さな植木が光のクリスマスツリーとしているところが多いのだが今年はそれもうちは無しにしてこの何年も2.5mほどの携帯プラスチック製の室内クリスマスツリーを使うようにしているのだがそれもまだ中途半端に居間の隅で箱に入ったまま立っている。

もともと子供達が小さかったときには子供達を交え夫婦でツリーを色々に飾り、特に今頃はクリスマスツリーのためだけに若木である森林資源が伐採され数週間だけで燃やしてしまうという「浪費」に終わることを避けようと伐採ツリーを見直して、樅の木のツリー農場にでかけ子供達と一緒に適当な樅の若木を選び根ごとスコップで掘り出してそれを家庭でツリーとして、クリスマスが済んでからはそれを元の農場に戻してその木が大きくなれば森に植林する、そんな再利用ツリーを使うことも何年かやったりしたのだがさすがに子供達も大きくなれば自然とツリーに対する熱も冷めるようだ。 それも終わって我が家ではプラスチック製になった。

そしてこの、12月8日土曜日の日めくりだ。 初老夫婦が町を歩いていて、クリスマスまでのこの期間街角に出来たツリー屋に差し掛かる。 初老の男がふと立ち止まり、うちでもまたツリーを、と、その気が出たのだろう。 このころには子供達も家を出て自活している。 恋人達がいればそれらと一緒にスイスかオーストリア、フランスのアルプスあたりでスキーのクリスマスをするのだろう。 孫がいれば26日にはその家族に招かれるのかもしれない。 何れにせよ自宅のツリーは徐々に小さくなって今はテーブルの上のちょっと光る盆栽ツリー程度かもしれない。 そこで、夫がまた何を思ったのかツリーを見ているので、妻が、「ケース、駄目よ、また、ツリーなんてどうせ辺りに葉が落ちで居間の中を散らかしてしまうのだから(結局は私が全部片付けないといけないんだから、、)」というキャプションだ。

この年頃の夫婦にありそうな今の風景で、結局は男は妻にひっぱられて手ぶらで家に戻るということだ。 おまけに妻はオランダの乳牛のように強いしっかりした姿のようで重いスーパーの買い物袋を夫に任さず自分の手にしているおまけまでついているから我々男はこれを見て苦笑いするのである。 苦笑いするような少々ウンザリするようなクリスマスの漫画だ。