Don't Worry About Me (2009)
2009 (イギリス映画)
London gentleman David spends a day and all his cash to bring his one-night stand a presentation folder at her office in Liverpool, only to be rather rudely ignored a minute later. After a ...
監督: David Morrissey
脚本、原作: David Morrissey (脚本), Helen Elizabeth (原作)
出演;
Beverley Eve Sarah
James Brough David
Kate Henry Karen
Jason Mulhearn Michael
Helen Elizabeth Tina
粗筋;
London gentleman David spends a day and all his cash to bring his one-night stand a presentation folder at her office in Liverpool, only to be rather rudely ignored a minute later. After a night on the streets, he meets diner waitress Tina, who takes pity on him. David wins spending money at the race tracks and decides to spend it on a playful tour of the city guided by Tina, which is mainly an excuse to get close romantically and learn about each-other.
日本語のネットで探しても本作についての情報は見つからずIMDbサイトから引張ってきたものを上に貼り付けそれを自動機械翻訳にしたものがネットにあったので下に貼り付ける。
ロンドン紳士ダビデは一夜だけではなく、無礼分後に無視するリバプールの彼女のオフィスでプレゼンテーションフォルダを、スタンド持参する日と彼のすべての現金を費やしている。 路上で夜の後、彼は彼に同情を取りダイナーウェイトレスティナを、満たしています。 ダビデはレーストラックでお金を費やして勝ち、主にロマンチックに近づくとそれぞれ-その他について学ぶための口実であるティナ、によって導か街の遊び心のあるツアーでそれを使うことにしました
これは映画の少し逸品です。 シンプルで気取らないが、まさにその事実のために非常に効果的です。 中央の公演は音符を逃さないと視聴者は実際に彼らの関係に関与してなります。 これは、映画制作の "以下である複数の"学校の勝利です。 デビッド·モリッシーは、彼がこの生産を行っていることの誇りになるように、すべての権利を有する。 それは監督が大きな愛情を示しているため、その背景として、リバプールの街を持っています。 中央の役者も書き込みと脚本に手を持っていたし、私はそれが非常にリアルと信じ感じる理由があると考えています。 私がしたようにあなたがそれをキャッチした場合(私は数日前にテレビからそれを記録した、今日はそれを見た)いわゆる、あなたはそれだけでそれを気に入るはずで吸収になることを期待していない。 サウンドトラックは素晴らしいですし、私の好きなバンド、フェアポート·コンベンション·クラシックラインアップの一つの曲が含まれていないだけで。 未解決の結末についての同情が、1つは1つが自分のものを追加することができます。
以上、なんともはやこれが安手の自動翻訳の結果かとため息が出る。
もう30年ほど前にオランダの北の大学で日本では当時から自動翻訳の第一人者で後年国会図書館の館長になったそんな人から西欧言語と日本言語の機械による自動翻訳に関する難しさを聞いていたし、もうそのころカナダでは天気予報に関しては英仏語間の自動翻訳が普通に稼動していたそうだからアングロサクソン言語とラテン言語間に遅れて日英語の距離はどうなったのかと上をみると近づくどころかそのまま停滞していることに今更ながら驚く始末だ。 このことと本作に関係があるかどうかはそれは単なる言語翻訳だけではなく、文化翻訳に関しては言語だけではなくその上の様々な違いをどのように理解するのかという難しさに向き合う別のレベルのことであって、それは異国間の問題だけではなく同じ言語を使う国でも地方、年齢や社会の階層によって文化というものが形作られているのが普通でそこにあるギャップを前にしてどのように差を埋めるのか、両方から埋める努力をするのか、はたまたその溝を飛び越して一方が一方のほうに歩み寄るのか、それとも理解が無理であるとしてその場から去る、といういくつかの解決法を選択する場面が考えられる。 それを機械に任せようとするのが所謂進歩なのだろうが機械にどう教えるのかその結果が上の惨めな役となって現れている。 それはともかく、本作は何処にでもあるようなロンドンで生活する男にとってある意味、異文化都市であるリバプールで出会った女と過ごす数日のうちに二人の間にある差をどのように認識し縮め、埋めるのかという物語という風に無理やり短絡させて説明する事ができるかもしれない。
本作はBBCテレビの深夜映画として観た。 テレビガイドをみても見知った俳優名などなく精々監督の名前をどこかで聞いたかもしれないと思ったぐらいで、小さいながらも佳作というのとリバプールの町と風景の中で進むドラマだという紹介だけが深夜にビールを手にソファーに沈み込ませる働きをしたのだと思う。 性格づけの上では公営ギャンブルの寂れた売り場カウンターで売り子をする女の設定にいかにもリバプールらしい設定だと思うのだが、それも訛りが強く若年失業者が多い町の女というある意味ではイギリスではクリシェになっている設定ではある。 けれどダウン症の弟のせわをしつつ健気にその日を働く若い女を敬虔なカトリック教徒と設定してあるところにアクセントを置いてロンドン住まいの鬱屈はあるとはいえ自由な男と対称させて話が進むにつれその距離の変化を地味な話としてみせることに眼目があるのだろう。 特に二人がベッドを共にするような場面ではセックスのことがおおらかに男の方から語られるが女の方からは男にとっては考えられないぐらいにシャイで、それまで彼女が外で話す言葉には男を驚かせるほどの奔放さを見せてはいたけれど性に関しては昔風であるところに大都市にすむ若者にはないイギリスの若者の一つのパターンが示されているようだ。 多分そのシャイさというのはカトリックという宗教からきていると説明されているのだろう。
性と宗教ということになれば今の日本では若者の間にはその制約がほとんどないと見ていいのではないか。 というより日本では宗教の力は殆んどないと見ていいだろう。 日本には文化としての宗教色はあってもヨーロッパやアジア・アフリカの宗教に対称するものはないのではないか。 日本の若い女性にとってはイスラムの女性の性にまつわる言説に触れるとそれはまったく別世界のこととしてしか見られないだろう。 それは個人がおかれている社会のなかで宗教がどれだけ個人の中に入り込み世界観を規定しているかということでもある。 ここでの若くはあるけれど生活から少しのやつれも見える女の屈託というのはただ一度の性交で妊娠しその事情から堕胎したという罪の意識も大きくありロンドンから来た若者との意識の大きな差は教会での会話や告戒の場面で明らかだ。 表面的には先進国の宗教離れが言われる中、伝統的な宗教観をもつ若者も多くいることを示す好例だろう。
二年ほど前かイングランドとスコットランドの境目、湖水地方を100kmほど歩いた帰り、二日間リバプールで過ごしその記憶もまだ新しい中で観た映画であるから背景になるさまざまな場所を少々懐かしくも思い、中でも屋上から街を俯瞰する聖堂の眺めに興味を持った。 大学キャンパスから近代建築の教会を通り古い港町のほうに降りていくところにその聖堂があり何か長方形の鈍重な塔の印象を持たせるレンガ造りの聖堂だったように思う。 それはヨーロッパからイギリスに行くと感じる産業革命を経た国の記念物のようであり我々のホテルで働いていた地元のおばさんたちの訛りと合わさってリバプールの印象を刻むものだと思う。 要はリバプールに拠点を置いた男女間の異文化のギャップを埋める話のようだ。