暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

Don't Worry About Me   (2009);見た映画、June '13

2013年06月30日 03時19分03秒 | 日常


Don't Worry About Me (2009)

2009 (イギリス映画)

London gentleman David spends a day and all his cash to bring his one-night stand a presentation folder at her office in Liverpool, only to be rather rudely ignored a minute later. After a ...

監督:     David Morrissey
脚本、原作:  David Morrissey (脚本),   Helen Elizabeth (原作)

出演;
Beverley Eve      Sarah
James Brough      David
Kate Henry       Karen
Jason Mulhearn     Michael
Helen Elizabeth    Tina

粗筋;
London gentleman David spends a day and all his cash to bring his one-night stand a presentation folder at her office in Liverpool, only to be rather rudely ignored a minute later. After a night on the streets, he meets diner waitress Tina, who takes pity on him. David wins spending money at the race tracks and decides to spend it on a playful tour of the city guided by Tina, which is mainly an excuse to get close romantically and learn about each-other.

日本語のネットで探しても本作についての情報は見つからずIMDbサイトから引張ってきたものを上に貼り付けそれを自動機械翻訳にしたものがネットにあったので下に貼り付ける。

ロンドン紳士ダビデは一夜だけではなく、無礼分後に無視するリバプールの彼女のオフィスでプレゼンテーションフォルダを、スタンド持参する日と彼のすべての現金を費やしている。 路上で夜の後、彼は彼に同情を取りダイナーウェイトレスティナを、満たしています。 ダビデはレーストラックでお金を費やして勝ち、主にロマンチックに近づくとそれぞれ-その他について学ぶための口実であるティナ、によって導か街の遊び心のあるツアーでそれを使うことにしました

これは映画の少し逸品です。 シンプルで気取らないが、まさにその事実のために非常に効果的です。 中央の公演は音符を逃さないと視聴者は実際に彼らの関係に関与してなります。 これは、映画制作の "以下である複数の"学校の勝利です。 デビッド·モリッシーは、彼がこの生産を行っていることの誇りになるように、すべての権利を有する。 それは監督が大きな愛情を示しているため、その背景として、リバプールの街を持っています。 中央の役者も書き込みと脚本に手を持っていたし、私はそれが非常にリアルと信じ感じる理由があると考えています。 私がしたようにあなたがそれをキャッチした場合(私は数日前にテレビからそれを記録した、今日はそれを見た)いわゆる、あなたはそれだけでそれを気に入るはずで吸収になることを期待していない。 サウンドトラックは素晴らしいですし、私の好きな​​バンド、フェアポート·コンベンション·クラシックラインアップの一つの曲が含まれていないだけで。 未解決の結末についての同情が、1つは1つが自分のものを追加することができます。

以上、なんともはやこれが安手の自動翻訳の結果かとため息が出る。 

もう30年ほど前にオランダの北の大学で日本では当時から自動翻訳の第一人者で後年国会図書館の館長になったそんな人から西欧言語と日本言語の機械による自動翻訳に関する難しさを聞いていたし、もうそのころカナダでは天気予報に関しては英仏語間の自動翻訳が普通に稼動していたそうだからアングロサクソン言語とラテン言語間に遅れて日英語の距離はどうなったのかと上をみると近づくどころかそのまま停滞していることに今更ながら驚く始末だ。 このことと本作に関係があるかどうかはそれは単なる言語翻訳だけではなく、文化翻訳に関しては言語だけではなくその上の様々な違いをどのように理解するのかという難しさに向き合う別のレベルのことであって、それは異国間の問題だけではなく同じ言語を使う国でも地方、年齢や社会の階層によって文化というものが形作られているのが普通でそこにあるギャップを前にしてどのように差を埋めるのか、両方から埋める努力をするのか、はたまたその溝を飛び越して一方が一方のほうに歩み寄るのか、それとも理解が無理であるとしてその場から去る、といういくつかの解決法を選択する場面が考えられる。 それを機械に任せようとするのが所謂進歩なのだろうが機械にどう教えるのかその結果が上の惨めな役となって現れている。 それはともかく、本作は何処にでもあるようなロンドンで生活する男にとってある意味、異文化都市であるリバプールで出会った女と過ごす数日のうちに二人の間にある差をどのように認識し縮め、埋めるのかという物語という風に無理やり短絡させて説明する事ができるかもしれない。

本作はBBCテレビの深夜映画として観た。 テレビガイドをみても見知った俳優名などなく精々監督の名前をどこかで聞いたかもしれないと思ったぐらいで、小さいながらも佳作というのとリバプールの町と風景の中で進むドラマだという紹介だけが深夜にビールを手にソファーに沈み込ませる働きをしたのだと思う。 性格づけの上では公営ギャンブルの寂れた売り場カウンターで売り子をする女の設定にいかにもリバプールらしい設定だと思うのだが、それも訛りが強く若年失業者が多い町の女というある意味ではイギリスではクリシェになっている設定ではある。 けれどダウン症の弟のせわをしつつ健気にその日を働く若い女を敬虔なカトリック教徒と設定してあるところにアクセントを置いてロンドン住まいの鬱屈はあるとはいえ自由な男と対称させて話が進むにつれその距離の変化を地味な話としてみせることに眼目があるのだろう。 特に二人がベッドを共にするような場面ではセックスのことがおおらかに男の方から語られるが女の方からは男にとっては考えられないぐらいにシャイで、それまで彼女が外で話す言葉には男を驚かせるほどの奔放さを見せてはいたけれど性に関しては昔風であるところに大都市にすむ若者にはないイギリスの若者の一つのパターンが示されているようだ。 多分そのシャイさというのはカトリックという宗教からきていると説明されているのだろう。

性と宗教ということになれば今の日本では若者の間にはその制約がほとんどないと見ていいのではないか。 というより日本では宗教の力は殆んどないと見ていいだろう。 日本には文化としての宗教色はあってもヨーロッパやアジア・アフリカの宗教に対称するものはないのではないか。 日本の若い女性にとってはイスラムの女性の性にまつわる言説に触れるとそれはまったく別世界のこととしてしか見られないだろう。 それは個人がおかれている社会のなかで宗教がどれだけ個人の中に入り込み世界観を規定しているかということでもある。 ここでの若くはあるけれど生活から少しのやつれも見える女の屈託というのはただ一度の性交で妊娠しその事情から堕胎したという罪の意識も大きくありロンドンから来た若者との意識の大きな差は教会での会話や告戒の場面で明らかだ。 表面的には先進国の宗教離れが言われる中、伝統的な宗教観をもつ若者も多くいることを示す好例だろう。

二年ほど前かイングランドとスコットランドの境目、湖水地方を100kmほど歩いた帰り、二日間リバプールで過ごしその記憶もまだ新しい中で観た映画であるから背景になるさまざまな場所を少々懐かしくも思い、中でも屋上から街を俯瞰する聖堂の眺めに興味を持った。 大学キャンパスから近代建築の教会を通り古い港町のほうに降りていくところにその聖堂があり何か長方形の鈍重な塔の印象を持たせるレンガ造りの聖堂だったように思う。 それはヨーロッパからイギリスに行くと感じる産業革命を経た国の記念物のようであり我々のホテルで働いていた地元のおばさんたちの訛りと合わさってリバプールの印象を刻むものだと思う。 要はリバプールに拠点を置いた男女間の異文化のギャップを埋める話のようだ。

薔薇の第一ラウンドが終わりそうだ

2013年06月29日 14時03分25秒 | 日常



今年は薔薇の花が咲いたのに気付かず今になって見ればもう開花の波の第一ラウンドが終わりそうなほどになっていた。 雨が降ったり寒かったり台所の改装などでごたごたしていてゆっくり薔薇をみるようなことはなかったように思う。 もっとも時間があってもこの薔薇にはもう一つ力がはいらない。 なぜか色目がしっくりこないのだ。 うちの並びの住宅は1958年に建てられていて、今うちにある薔薇は建てられた当時どこの前庭にも植えられていたものだと思う。 越してきた22年前にはまだ一二軒の前庭にこれと同じものが見えたけれどそれも徐々に消えて今はうちだけになっている。 自分にはどんな庭にしたいかというようなヴィジョンもなにもなく、そこにあったのだからそのままにしておこう、というような甚だ消極的な、どちらかというと怠惰の極みのような態度をとっている結果今ここにまだあるという薔薇なのだ。 その薔薇の並びの中にこの22年で自然に団栗から生えて今は3階建ての屋根の高さまで育った木まである。 捨て育ちポリシーの結果なのだ。

手入れも最小限度にしていて誰かのアドバイスの通りに、一月には出来るだけ枝を短くしておくこと、というようにしようとしているだけだが怠けて剪定をしなかった年もありいわれたとおりのコンパクトにできずにだらだらとしたしまりの無い株にもなっている。 それでも咲くのだから生命力が旺盛なのだろう。 虫もつかず病気にもならないのだから初めにこれを選んだときにはそういうことも考慮していたのだろうか。 ズボラな家主を設定していたのかそれとも家主が自分で好みの花を選ぶまでの一時しのぎの植木だったのかもしれない。

それはともかくかなり大振りな花を咲かせる。 一年に二度ほど花を咲かせ今は第一波の終わりごろなのだ。 かなり枯れて首を垂らしている花がもうかなりあるからそれがついている小枝から鋏で切り落とすだけのことはこれからしなければならないだろう。 それをしないと家に人が住んでいないかのような印象を与えるほどの無残なようにもみえるから仕方なくマメに花が枯れるごとに切り取ってちゃんと咲いているだけの花を残すことをする。 そうしているうちに花が全部なくなって次に8月の終わりから9月の中ごろに第二波がくるまで蒼い葉だけになる。  

今年初めて垣根の剪定をした

2013年06月28日 04時38分31秒 | 日常

日中気温16℃、雲が高く雨が降りそうにはなさそうだったので今のうちに垣根の剪定をしようと決めて作業に取り掛かった。 裏庭には両隣のあいだに二つ垣根がある。 一つは柘植(ツゲ、Buxus)の垣根で高さが3mほどだろうか。 この家に越してきたときからそこにあり枝も葉も柔らかいので電動ヘッジトリマーで済むから楽と言えば楽なのだがこの頃徐々にトリマーが重く感じるようになっている。 特に梯子の上から水平にトリマーを動かすのに腕を伸ばして機械を支えながら左右に1.5mづつゆっくり振るように移動させていると腕の筋肉に疲れを感じる。 これには毎週のフィットネスで訓練してもそれでは足りないのだろう。 

もう一方の垣根は15年ほど前に植えたものでこちらはオランダ語で Beukenhaag、 ラテン名 Carpinus betulus なのだがこの日本名を探すとイヌシデというのが出てくるのだがイヌシデというものは大木になるものでイヌシデでは垣根用の低木になる画像が出てこない。 betulus というのが大木になるイヌシデに対応しているのだろう。 Carpinus betulusに対応する和名は見つからない。 日本ではこういう垣根はないのだろうか。 葉の形はケヤキのものだがケヤキは大木になり垣根にはならないだろうから結局これもイヌシデとするより Beukenhaag としておくほうが正確だろうと思う。 こちらのほうは枝の太くなってヘッジトリマーでは切り払えないので大きな鋏を両手で開閉させて切るしか方法がなくこれにも腕の力が要り梯子の上から伸び上がるようにして上部を水平にそろえるのに力が要る。 これら二つの垣根は落葉樹だ。 

もう一つ玄関脇に棘のある常緑樹 Berberis julianae があって、こちらの方は伸びて育った若枝をヘッジトリマーで刈ってしまえば棘がバラバラ落ちてきてそれが乾くと硬い針のようになって危険なので1本1本剪定しなければならない。 メギ(目木)というのが和名であって別名のコトリトマラズというのもあるらしい。 棘があるから鳥も止まらないということなのだろう。 

これらを剪定し垣根の形をそろえたら一日仕事になった。 といっても冬の前に一度刈るとそれで終わりだから一年に二度のことだ。 ついでに芝も刈ったけれどこちらは今年二度目だ。 芝生の方は一年で5,6回は刈るだろうか。

一日こういうことをやったら腕がだるく夜にはマグカップでコーヒーを飲むにも少々腕が震えるほどだった。 もうこういう作業をほぼ15年から20年やっているのにこれほど疲れる事は今までなかったことだ。 これも歳ということなのだろうか。

ゴモラ  (2008);観た映画、 May, '13

2013年06月27日 04時56分16秒 | 見る


ゴモラ    (2008)

原題;  GOMORRA

135分
製作国 イタリア

監督:  マッテオ・ガローネ
製作:  ドメニコ・プロカッチ
原作:  ロベルト・サヴィアーノ   『死都ゴモラ』(河出書房新社刊)
脚本:  マルリツィオ・ブラウッチ、 ウーゴ・キーティ、 ジャンニ・ディ・グレゴリオ、 マッテオ・ガローネ他

出演:
トニ・セルヴィッロ        フランコ
ジャンフェリーチェ・インパラート  ドン・チーロ
マリア・ナツィオナーレ      マリア
サルヴァトーレ・カンタルーポ   パスクワーレ
ジージョ・モッラ        ヤヴァローネ
サルヴァトーレ・アブルツェーゼ  トト
マルコ・マコール        マルコ
チーロ・ペトローネ       チーロ
カルミネ・パテルノステル    ロベルト
シモーネ・サケッティーノ    シモーネ

ナポリに拠点を置く新興の巨大犯罪組織“カモッラ”の実態を暴きセンセーションを巻き起こしたロベルト・サヴィアーノの衝撃のノンフィクション『死都ゴモラ』を、イタリアの新鋭マッテオ・ガローネ監督が映画化したカンヌ国際映画祭グランプリ受賞の犯罪ドラマ。世界の裏経済を牛耳る巨大組織の末端に生きるそれぞれの登場人物たちに焦点を当て、その複数のエピソードをドキュメンタリー・タッチでリアルかつ衝撃的に紡いでいく。

カモッラはナポリに拠点を置く犯罪組織。いまや、かつてのマフィアを凌駕する世界最大級の規模を誇り、利潤追求の行動原理をその大きな特徴としていた。対立する組織間の抗争が絶えない地域に暮らす少年、トト。早く組織の一員になりたいと願う彼は、危険な度胸試しの儀式に挑む…。組織の帳簿係のドン・チーロ。ある日、息子が敵対する組織に入った母親から相談を持ちかけられる…。組織の関係する産業廃棄物処理会社で管理の仕事を任されたロベルト。高収入の仕事にやる気を見せるが…。組織が仕切る下請け工場で不当な仕事に甘んじていた仕立屋のパスクワーレ。彼の腕に目を付けた中国人に声をかけられる…。無鉄砲なチンピラの若者マルコとチーロ。ある日、組織の倉庫で大量の武器を見つけて有頂天となるが…。

以上が映画データベースの記述である。 本作をベルギーの国営テレビの深夜映画として観てもう一ヶ月以上経つからその記憶も薄れてきているけれど真迫の映像には説得力があり本作は自分のなかに長く佳作として記憶される事は確かだと思う。 説得力というのは組織暴力、犯罪、それにそれを含む社会問題の割合がそれぞれ違ったり重なったりする映画が常に生産・消費される中で多分本作は普通にさまざまな町で起こっていることとは基本的には変っていないと感じさせ、その登場人物たちからそれぞれ幾分かのシンパシーを喚起させられるということでは我々の持つアメリカ映画のこのジャンルのものに対する印象とは少々かなり違いがあるだろう。  

主演といえる若者達には華やかなところも突出してとんがったところもなく、ごく普通のイタリアの低所得者たちが住む地区の若者達でそのアパートでたち動く帳簿係のドン・チーロや仕立屋のパスクワーレたちはある意味典型的な普通の中年の労働者である。 ところがそれが組織の駒に組み入れられているとなると話は別となる。 巨大組織の末端らしい。 幾つもの階層を経てその末端や中枢は社会に張り巡らされているらしい。 だが本作では政治の方に向きがちなベクトルを矯めたのは現実にイタリアの政治家たちが権力維持のためにそれらの暴力組織と持ちつ持たれつの関係を保っている事が他の国との相似形をなして存在するのをそれぞれの国民は長く知悉しており、それに対する物語を絡めるには話が広がりすぎるからとミクロの世界に限定してドラマ仕立てにしたからかもしれない。 自分の家族にもシシリア・マフィアの介入に嫌気が差してオランダに越して来たものがいることもあって本作での若者達の姿は容認はせずとも理解はできる。

本作で一つ感心したのは今世界中で起こって典型的な現象をここで興味深く見た事だ。 中国から合法・違法渡航者として移民の働く姿とその方法が示されていて、それは、追い詰められた仕立て屋が中国移民のスウェット・ショップに技術を売り渡すプロセスに単なる小さな出来事として示されているけれどこれこそが必死にのし上がっていく新しい国を象徴するメカニズムであり、それによって自分達のパイを横取りされるマフィアの怒りは世界各国で起こっている中国人の活動に対して間接的に向けられているのだ。 

フィットネス・クラブに二週間ぶりに出かけたら、、、

2013年06月25日 00時18分04秒 | 健康

雨は降らないものの薄曇りの月曜日でちょっとした欝を晴らすのに夕食後フィットネスに出かけた。  尻の笑窪の上のほうがまだ痛んでいてこの筋肉痛についてはこの前書いた。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/63471656.html

けれど動いていればそれも紛れるかもしれないと出かけたわけで初めの10分間のウォーミングアップの時、体が徐々に温かくなっていき汗が皮膚の下から出てきそうな兆しが感じられ、その後、インストラクターから今日は BBB をやると言われた。 BBB というのは オランダ語の Borst (胸)、 Buik (腹)、Been(脚) の頭文字を言ったまでで、その部位の筋肉を主にトレーニングする。 けれどそれだけではなく、胸の筋肉を動かすときには同時に腕も使うわけで腕の筋肉も同時に動かすことになる。 十幾つかの運動を器具や機械を使ったりマットの上に横たわったりして行う。 前回やらなくてもいいものを非常に重い負荷をかけてやったので今でも尻が痛いのだから今日はその負荷に気をつけてやった。 やる運動によって負荷が違うけれどそれでも15kgから35kgまでだった。

自分の好みのボクシングのグローブをつけてやるサンドバッグ叩きでは今日はストレートではなく胸の筋肉を鍛えるためフックを打つ様に言われた。汗でずれる眼鏡を上げるとき以外はずっと打ち続け一分半やったら心拍数が160まで上がっていた。 還暦を越した自分の保たねばならない心拍数は130なのでこれはあまり芳しくないもののこれもボートを漕いでいるとすぐに140ほどに落ちて呼吸も楽になった。

この日は先々週やった背筋と脚の筋肉のために負荷をかける足の屈伸はやらなかったけれどこのあいだ自分がやった負荷の最高を145kgと書き、当然そう思っていたのだが今日その部分をみると145kgではなく195kgだった。 ゲージの一番下の部分の数字がそれで145kgというのは下から三分の一ほどのところで一番下ではない。 思っていたより50kg多く尻の筋肉に負荷をかけていた事になるのに気付いてなるほどこれは酷いものだとおもったけれど負荷がかかるのは腕ではなく脚であってそれも両方だからそれぐらいにもなるのだろうと思っていたけれどそれでも普通は35kgや45kgというところでやっているのだから195kgなどは特に我々の年では正気の沙汰でしかない。 


今更ながら天候不順で寒いけど、、、

2013年06月24日 18時20分52秒 | 日常

久しぶりに電気工事の職人ピーターがやってきて台所に配線してあった様々な端末にスイッチやコンセント、埋め込みの灯りを設置し玄関のベルを元のように戻した。 というのはそれまでに玄関、廊下、台所の壁、床、天井の改装をしなければならず、それが一応済んだから今配線工事の最終段階に入ったというわけだ。 隣町で一人陽気に暮らす50になったかならないかのピーターはそれが済んでから台所で水道と温水がでる蛇口をとりつけた。 この蛇口については前に書いた。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/63429797.html

それを書いたのが5月の30日で、そのときは工事を始めてから4週間たっていたから、そうすると今はもう始めから7週間以上経ったことになる。 何年も夏のバカンスにはテント生活のキッチンで過ごしていたけれどそれもも3週間弱なのに7週間とは今更ながらうんざりするほどの長さである。 それにバカンスなら3週間も経てばその不自由さにも慣れているのに自宅の二階の雑然とした緊急避難キッチンにはなまじ下から運んだ物が溢れているのでどこに何があるのか分からずテントキッチンより不便ではあるから何かにつけて手の届くところにあるはずのものがどこにあるのか分からずイライラすることが多くて気が休まらない。 特にものが床に雑然と置いてありいちいち腰を折り曲げ不自然な姿勢で探し回る作業にうんざりするのだ。 来月の10日にシステムキッチン業者が仕様道理に納入しなかったドアや流しのシンクなどの工事に来るまで完成はない。 けれどこれまでに様々な部分が徐々に機能できるようになってきているので長いトンネルの先には光が見えてきた心地がする。 

鉛色の空から雨がが降っては止むという中でカーポートに出ると隣との境に植えてある、今年は全く実が望めない梨の木の下に星形で薄紫色の小さな花が咲いている。 その名前も思い出せず、それに嘗てその名前を付け焼刃的に覚えていたかどうかということにも確かなものはなく、けれど今はそれもどうでもいい。

The 101 Best Written TV Shows of All Time

2013年06月23日 23時05分27秒 | 日常

オランダのテレビガイドを見ていたら全米脚本家組合(The Writers Guild Of America)のシナリオライター達が今までに創られたテレビシリーズの中から101を選んだアンケート結果がでたそうで、その10位までが示されていたのでそれに目を留めた。 この組合は2007年に待遇改善を要求して12000人がストをした事もまだ記憶に新しく、またプロの彼らが選ぶものは一般視聴者が選ぶものとも少しは趣きが違うだろうからどんなものが出ているのかに興味があった。

それでそれに付け加えた50位までの結果がこれだ。 テレビが始まって以来のシリーズを概観するものであり組合員の年齢構成がどうなっているのか知らないけれど概ね20代後半から60代半ばまでがその枠なのだろうと想像するがどの辺りが一番の中堅なのかもこの結果に反映しているものと考える。 30前のライターにとっては自分が育ってきたときに観たものが強く印象に残るだろうし、当時あれが面白かった、これもよかったと段々に過去のものを「学習」していった結果残ったものもあるだろう。 60代のライターにとってはテレビの勃興期から10年単位などとして外観してみた意見もあるだろう。 自分も戦後日本のテレビの勃興期にアメリカのシリーズを観て育った世代であるから特に50位以下に懐かしい名前が多く出ているのをみてここは我々の世代のドメインだと実感したりした。


1. "The Sopranos"
2. "Seinfeld"
3. "The Twilight Zone" (1959)
4. "All in the Family"
5. "M*A*S*H"
6. "The Mary Tyler Moore Show"
7. "Mad Men"
8. "Cheers"
9. "The Wire"
10. "The West Wing"
11. "The Simpsons"
12. "I Love Lucy"
13. "Breaking Bad"
14. "The Dick Van Dyke Show"
15. "Hill Street Blues"
16. "Arrested Development"
17. "The Daily Show with Jon Stewart"
18. "Six Feet Under"
19. "Taxi"
20. "The Larry Sanders Show"
21. "30 Rock"
22. "Friday Night Lights"
23. "Frasier"
24. "Friends"
25. "Saturday Night Live"
26. "The X-Files"
27. "Lost"
28. "ER"
29. "The Cosby Show"
30. "Curb Your Enthusiasm"
31. "The Honeymooners"
32. "Deadwood"
33. "Star Trek"
34. "Modern Family"
35. "Twin Peaks"
36. "NYPD Blue"
37. "The Carol Burnett Show"
38. "Battlestar Galactica" (2005)
39. "Sex & The City"
40. "Game of Thrones"
41. (tie) "The Bob Newhart Show;" "Your Show of Shows"
43. (tie) "Downton Abbey;" "Law & Order;" "Thirtysomething"
46. (tie) "Homicide: Life on the Street;" "St. Elsewhere"
48. "Homeland"
49. "Buffy the Vampire Slayer"
50. (tie) "The Colbert Report;" "The Good Wife;" "The Office" (UK)


念のために100位までの名前を下に示す

http://www.wga.org/content/default.aspx?id=4925


これを見ているとアメリカの作家たちの好みがやはり名のあるシリーズに固まっている事は当然のこととして昔のシリーズの名前が間に挟まっているのが面白く、それぞれ見た頃のことも思い出し懐かしくも納得する気持ちにもなる。 1.は意外な気もするし当然のような気もするのだがなぜこのシリーズかというところにアメリカ映画の伝統であるギャング、マフィア、の数々の過去の映像を経験した果てに、特にコッポラが70年代から20年弱描いてきた映画のシリーズから10年経ってミラニアムに突入したころで重厚でドラマチックさを廃したこのマフィア・ドラマには誰もが魅了されたのであるから現在でもこのジャンルの系譜を辿る者にはこれを観たらこの後このジャンルで本作を凌ぐものを作るとなるとそれはなかなか簡単ではないだろう。 ライターにとってこのシリーズには様々な人間模様のアヤがさまざまに今までのマフィアの既成概念を壊したり後付したりするのに貢献するのだがその人間関係が驚くほど我々の普段の生活の襞を絡ませて悲喜劇こもごもに構成されているところにライターをうならせるものがあったのだろうと推測する。 それにその記憶がいまでも新しいことも関係しているのだろう。

3.を別としてこのランクにはコメディーというかシットコムが多いのに気付く。 この40年ほどでテレビをザップしていてよく見たものばかりだ。1,4,5,7,8で昔の4が入っているのに驚く。 人種差別的で女性の敵、頑固親父の皮を被りそれでも周りにやり込められやせ我慢をしたりするところが人気だったような気がするけれど今となってはこの中のカミサンの扱いにフェミニスト達が目くじらを立てたし今でも問題にするところがあるのではないか。 こういうシリーズがここに来るというのはこのギルドには圧倒的に男が多い事とその思想性が現れているようで興味深くうけとった。

8,15,19、23などは80年代の中ごろによく観た記憶があるけれどそれが50位以下になるとそういうものがどっさり入っていて久しぶりにみる題名にその当時の空気に触れたような気がしてその懐かしさにホッとする。シットコムでは78であったり96の「ソープ」であったりする。 とくに警察ものでは15が面白かった。 今沢山ある警察ものでチームワークやそのなかでのそれぞれの関係、キャラクターが次々に忙しく交差するところが現代の数ある警察関係ジャンルのプロトタイプとしてみると当時その出来のよさに関心もするのだ。 

3が意外だった。 やはりUFOなり不思議ものを追っていく26,27に繋がるのだろうが3があったからスピルバーグの「未知との遭遇」が出たのではないかとも忖度する。

日本を離れてからもう33年経つ。 海外でも配信される日本のケーブルテレビはとっていない。 だから日本の作家の連盟が、もしそういうものがあるとして同様のアンケートをとるとどうなるのか興味があるけれど、もしそれが発表されても殆んど知らないものばかりで埋まっているに違いない。 こどもの頃は「てなもんや三度傘」や「番頭はんど丁稚どん」などの大阪のコメディー、「シャボン玉ホリーデー」などのバラエティーで育ったし「三匹の侍」や「月光仮面」の真似をして遊んだ覚えがあるけれどコメディー、バラエティーは別にしてちゃんとした大人がみるような番組はしらない。

夏至なのだそうだ。

2013年06月23日 04時16分45秒 | 日常



夏至といっても夏至らしい気がしない。 それは寒いからだろう。 寒いといっても三日日ほど前は30度になろうかというような日が一日あっただけでまた鬱陶しい日が続き、そんなものだから夕食を庭で摂ってその後暗くなるまで開け放ったガラス戸から庭と居間を行ったり来たりする宵の過ごし方は今年はまだやっていない。 

外にでるときはポンチョを脱いだり被ったりするようなことをしている。オランダの北の地方では局地的に豪雨があってドイツの町ほどではないけれど洪水のおそれがあるようなところもある。 

そんな鬱陶しい昼間でも午後9時半には陽射しさえでるようなことがあって窓越しに東の空の写真を撮った。 天気予報では満月だそうで月の大きさも20%弱大きく見え、それに伴って明るさもそれに比例すると言っていたけれど生憎雲が出るからそれも見えないとも言っていた。 夜中に試しに外に出てみると南東の空は晴れていたらそのように見えるはずの北の空と同じようにぼやっと明るかった。 それは多分月の影響があるのだろう。 明日からまた日の時間が短くなるのだろうけれど今年は長くなっていくのを観察できるほどのことがなかったから多分8月の中ごろから後半にならないとそれを実感しないのではないかと思う。

Martijn van Iterson - Lo van Gorp,    Duo

2013年06月23日 03時31分25秒 | ジャズ

Martijn van Iterson - Lo van Gorp,     Duo


Martijn van Iterson (Gibson ES -125)
Lo van Gorp (vocal)

Sat. 15 June 2013
at Cafe Twee spieghels, Leiden The Netherlands


第一セット
You don't know what love is
Somertime
Round midnight
Someone in love

毎週土曜日の午後買い物帰りに覗くカフェーに旧知のギタリストが出るというので久方ぶりに聴いた。 もうこのギタリストには1年か2年会っていなかったのではないか。 けれどネットラジオのジャズ専門局では時々聴こえるからそういう意味ではまだ忘れてはいない。 この日にどんな編成で演るのかは知らなくてカフェーのひとごみを掻き分けて小さな舞台脇のトイレの扉とギャンブルゲーム機に挟まれたところに落ち着いてさて、とと見るとヴォーカルとのデュオだった。 これはいい、このヴォーカルはもう去年か一昨年ここでR&Bバンドをバックにサックスも吹き歌うのをみてからだし、その時に70年代から聴いてきたジョー・サンプル率いるザ・クルセーダズのアルバムでよく聴いた「Soul Shadows」を歌ったのでその喉とフレージングに明らかにオリジナルのビル・ウィザーズの影響を聞いたのとクルト・エリングも程よく混ざっているという印象を受けていたから今日ここでジャズ・スタンダードを歌うのを聴いてレパートリーの広さを認識するとともにそれぞれの曲の掛け合い、ギターソロに満足した。 もちろん今までこのギターは例えばヨーロッパのファーストレディーと言われたリタ・ライスのバックを続けているからこれらのスタンダードは慣れたものだ。

第一セットが終わって帰らねばならなかったので慌しく van Iterson と挨拶を交わして顔と身体に丸みが出来、老眼鏡をかけつつも演奏するのを見たのは初めてではなかったかと言うと、 眼は三年前ほどから弱くなって前に置いたスコアなどが見えにくくなったから今はもう始終かけていなければなくなった、食いものがうまいから丸くなってるだろという。  次のDCいつ出るのと聞いたのは今日のステージは出来がよく、もしいい録音技師がいれば録音できたのに、、、とと思ったからで、それをいうと、このデュエットで次のCD用為の録音はしていて、一年半ほどでそれをリリースする予定なのらしい。 






You Tube; Martijn van Iterson

http://www.youtube.com/watch?v=RVqOwaRsCfA&list=PL4BC40013AC22A4E5&index=13
http://www.youtube.com/watch?v=GApPOF_XLN0&list=PL4BC40013AC22A4E5&index=14



You Tube;Lo van Gorp

http://www.youtube.com/watch?v=8BakGJbXifE



You Tube; The Crusaders ft Bill Withers " Soul Shadows"

http://www.youtube.com/watch?v=uEuRT-y5ftU

尻の笑窪と火傷

2013年06月22日 02時10分11秒 | 健康

1) 臀部の頬っぺた上方が痛む

二週間ほど前に毎週月曜夜のフィットネスで機械を幾つも使って筋肉トレーニングをしていた。 一つを一分半こなして順番に幾つも錘のついた様々な機械を巡っていくのだが、そのとき私の前の太鼓腹をした親父が冗談で一番重いところにゲージをセットして何食わぬ顔で次のマシンに行く。 それはレールが傾斜したものに座席がついていてその昇りの傾斜を背にシートに坐って前に付いた垂直のボードに両足を置いて曲げた足を伸ばすと座席が上に向かい両足を伸ばしたところで止まってそれから足を屈伸させて腿の下の筋肉を鍛えるものだ。 普通は45kgの負荷をかけトレーニングするのだが自分には少々軽いと思っていた。 ところが今日は重くて上がらない。 妙だとおもってゲージを見ると一番重い145kgのところにセットしてある。 自分は事態を計りかねているとトレーナーが、それは無理だ、そんな負荷はだれも使わないよ、ヤンの冗談だ、と言うのだが、試しにそれではやってみるかと試みた。 両足を伸ばしてなんとか伸びるのだが今まで感じた事もないほど背中が座席に押し付けられて腿の緊張は並大抵のものではなかった。 それでそのままゆっくりと何回も屈伸を続けて一分半が過ぎ、次に移りその日はそのまま普段と同じくトレーニングも終わった。 それから二三日経ってどうも右の臀部に筋肉痛がする。 酷いものではないけれど尻の内部で筋肉がこっているのだ。 尻の細かい名称は知らないがオランダ語で「頬っぺ」という部分に笑窪というのがあってその少し上で筋肉内部が鈍く傷むわけだ。 初めはなぜか分からなく、寝るときに片一方を上に寝るからだろうか、とか何かで踏ん張ったのだろうか、そんなに疲れるほど片一方だけに負担がかかるように立っていたのだろうか、と思い起こしてみたのだが思い当たる事はなかった。 

まさか145kgの過重がここに来たのだとは重いも付かなかったのはトレーニングが済んでその夜も翌日も痛みがなかったことと痛みが右の頬っぺたの笑窪のちょっと上あたりに起こっていて、もし脚のトレーニング機械の所為なら両足、いや両の頬っぺたが痛んでいるはずだ、と思い込んでいることからだった。 いまそれに思いが行ったのは両脚といってもだれにも利き脚というものがあって無意識のうちにこんな負荷のときに利き脚がフル稼働していたそのツケが痛みとなって現れてきているのだと分かった。 もう十日以上経っているのにまだ痛みが残っている。 ここからの教訓は出来るとしても普通の重量負荷でやらないと年寄りの冷や水になりかねない。

2)喉の下あたりを火傷した

鎖骨が首と交差するあたり、喉の下に火傷をした。 毎週金曜の夜のルーティーンで自分の射撃クラブにでかけてクラブのオートマチック・ピストル、チェコ CZ社の9mmを撃っていた。 自動ピストルだから発射するとその圧力で空の薬莢が右上方に飛ばされて同時に次の弾丸が装填されるというのがメカニズムだ。 狭いブースで15m先のターゲットを老眼鏡ではなく普通の眼鏡で狙っていて、なんとか大きいスイカ大のところに弾痕を纏めていたから悪くは無かったのだが、七発目ぐらいの空薬莢がピストル本体からはじきだされブースの側版に跳ね返り、それが自分の厚い半そでシャツの首の下に入り込んで肌とシャツの間に挟まって動かない。 鎖骨と喉が交差するあたりだろうか、一瞬熱さとそのヒリヒリする痛みに飛び上がり空の薬莢をなんとか取り出した。 肌が薬莢と触れ合っていたところは火傷して小さな水ぶくれとなってピリピリと痛む。 この20年以上もう数千発発射してきたはずなのにこういうことは今までに経験していない。