暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

Persepolis  (2007);観た映画、 Feb. '13

2013年02月27日 12時21分09秒 | 見る


ペルセポリス   (2007)

PERSEPOLIS

アニメ映画
95分
製作国 フランス

監督:   マルジャン・サトラピ 、  ヴァンサン・パロノー
製作:   マルク=アントワーヌ・ロベール 、ザヴィエ・リゴ
原作:   マルジャン・サトラピ   『ペルセポリス』(バジリコ刊)
脚本:   マルジャン・サトラピ、  ヴァンサン・パロノー
音楽:   オリヴィエ・ベルネ

声の出演:
キアラ・マストロヤンニ   マルジ
カトリーヌ・ドヌーヴ    マルジの母、タージ
ダニエル・ダリュー    マルジの祖母
シモン・アブカリアン   マルジの父、エビ
ガブリエル・ロペス    少女時代のマルジ
フランソワ・ジェローム   アヌーシュおじさん

イラン出身でパリ在住のマルジャン・サトラピの半自伝的グラフィック・ノベルを、マルジャン・サトラピ自ら監督・脚本で映画化した長編アニメ。イラン革命に始まるイランの激動の現代史を、一人の少女の成長物語に重ね、生活者の目線から皮肉とユーモアを織り交ぜヴィヴィッドに描き出す。共同監督にはヴァンサン・パロノー。ヒロイン、マルジとその母タージの声を担当したのは、実生活でも母娘のキアラ・マストロヤンニとカトリーヌ・ドヌーヴ。

1978年のイラン。9歳の少女マルジはブルース・リーが大好きな元気な女の子。パパとママとおばあちゃんに囲まれ、何不自由ない生活を送っていた。しかし、革命が起きてイスラム政権が誕生すると生活は一変、反政府主義者として投獄されていたアヌーシュおじさんが戻ってくる一方、風紀は厳しく取り締まられ、さらには、イラン・イラク戦争も勃発してしまう。それでもマルジはパンクを愛し自由な心を失わない。しかし、そんなマルジの反抗心旺盛な言動は、自由主義の母をも不安にさせる。そして両親はついに、マルジを混乱のイランから遠ざけるためウィーンへと留学させることを決意する。

上記が映画データベースの記述である。

本作を観て数日後にアカデミー賞の発表があり78年のイラン革命の折、人質奪回を目指すCIAの活動を物語にした「アルゴ(2012)」が幾つかのオスカーを取ったというニュースが流れていた。 そのコメントの中に、国威発揚の活劇であるからアメリカ人にはもってこいの話だろうけれど今のイラン情勢を考えると必ずしもイラン人には歓迎されないだろう、というのがあった。 本作との接点は78年、79年のイランということなのだがアメリカ映画ではある事件に関係したアメリカ人の活劇であり、本作では当時イランの中で育ち外国に出てまた戻り、80年、90年台の戦争を経てついには外国に定住することになるというような、イラン情勢が大きく影響する中で少女から作家になるイラン人のアイデンティーを探る過程のドラマであり、アニメ映画、女性を主役にしたものという違いもあるのだが、ここではアメリカ映画とヨーロッパ映画の違いが対比されるようでもある。

多分「アルゴ」の場合、活劇であるから舞台はアメリカにとってあまり遠くない過去の歴史を絡め、第一次大戦以来綿々と関わってきた海外政策に絡むホットな地域であれば今は多分このあたりであり、ただ、そこで自国の同胞救出譚であるから英雄的な自国民の活躍に眼が行き他はほとんど捨象されてもいいとも勘ぐることができるような体裁であり、そこでは登場人物のそれぞれの生い立ち、寄って立つ信条、当該国に根を張った生活、政治状況、それに対する細かな意見などの要素はテンポを遅くすることはあれ活劇には必要がないとされるのには一定の理解ができるだろう。 

一方、本作ではその活劇では必要の無い要素である個人の生い立ち、そのなかでの両親、家族、周囲との関係や人柄、政治状況が、それぞれ様々に変化する中でその人間関係の変化や、またそれでも変わらぬ関係というものが、観る者誰もの背景と自ずと対比しないではいられないような、殊に、家族と離れて外国で成長するという点においては、日本を離れて外国、ことにヨーロッパで長期滞在したものが必ず通過する、ここにいる自分とは何か、というような自分のアイデンティーと向き合うことが本作では大きな伏流としてあり、自分の物語としてもみることも出来るようでもある。 しかし、多くの日本人には、自国というものは離れていても一定滞在期間が済み日本に戻ればそこには依然として普通の時間が流れており政治状況によって社会、及び人間関係が引き裂かれているというような変化は無い。 けれど中東情勢からすると本作の物語はただ単にイランだけの状況ではないのだ。 今まで幾つもこのような物語がさまざまな地域で、そこに見られるさまざまな絨毯に例えるとそのパターン、色合いが引き裂かれよじれた糸で紡がれて我々の前に提示されているのだ。
 
大量消費物として映画は消費されていくのだろうしその記憶というのは益々短いスパンのなかで他の情報量と押し合い圧し合い泡のように消えていくだろう。 そのなかで幾多の芸術作品を顕彰する賞も受賞作といえどもその影響からは例外では在り得ず、その祭りが済めばもう次の祭りの準備というようなものでもあるのだが我々の限られた記憶に果たしてどのようなものが残っていくのだろうか。

海外に住むものとしては例えば誰かが中東国で攫われたときの話を考えると自分はそこで攫われた者となるのか、その回りにいる地元民かその国にとっての異邦人となるのか、救出するヒーローになるのかで物語りは大きく変わり、その設定の可能性の幾つかからこの二作を考えることが出来るだろう。 そうするともう若くもない自分は日頃、現実感のないアニメを嫌うものではあるけれど政治、異文化、個人史、普遍的な家族愛などという要素を採りいれて画像の素朴さが話の現実の厳しさを和らげる効果として意図されているだろう本作の方に親和力を感じるのは自分としては納得のいくことではある。

調子と数字

2013年02月26日 02時46分56秒 | 健康

体重を減らさなければいけないと言われ自分もそうしようと思うけれどなかなかはかどらない。 それはつまるところ本気ではないからだ。 正月に帰省して都合のいいことに泊まっているホテルにサウナと露天風呂がありその隣に簡単なジム、そこには幾つかの鉄の錘にベルトコンベヤーのランナー、壊れた車輪の無い自転車、車輪のない自転車を壊れたというのではなくてこの機械の幾つかのデジタル指標が壊れているのでどれくらいの速さでどれ位の距離を走ったのか分からない、緩すぎるので脚にもっと負担をかけようとしてもそうならない、という意味で壊れたというのだが、朝起きて風呂とサウナの前にこのジムで汗をかいて、、、、と昨年は靴を持ってこなかったので出来なかったジョギングを今年はわざわざ薄汚いジム用の靴を持っていていたから自転車は止めて腕立てやダンベル、体操などをやってからコンベヤーの設定を時速8kmとして2km走ってから風呂に入ることにしてた。 ちょっとキツイかなと思ったけれど風呂やサウナの爽快さで疲れがとれ、日頃しない朝7時起きさえ気にならなかった。 それを3日やった後、何かの拍子に腰がギックリ鳴った、と思った瞬間に腰に痛みが走った。

何年か前にその前兆があってチンパンジーが立って歩くようなことをして何とか凌いだ経験があるものの寝込んだり医者に行くようなことはなかった。 今回日本の医療システムにも入っておらずこういう旅行中の保険もかけていなかったので日本という異国で医者にかかる面倒さを厭い、それからは朝はジム通いを止めてその前を素通りして風呂とサウナだけの日課として過ごした。 残念なことに帰省中腰を使うここ一番というときに軽い痛みがあってそれをやめたのが悔やみとなり、何とかの冷や水かと自嘲しながらもその後2ヶ月経って何とか元に戻ったようだと判断して今日のジムとなったのだった。

今年になってからフィットネスクラブのトレーニングは3回目だ。 その前にイスタンブールに8日間いてイスタンブールに行くまでの機内の4時間ほどでも軽い痛みが腰にあった。 幸いなことにそれは1月半ばに関西新空港からスキポールまでの13時間に比べると何のことはなかった。 関空行きの正月3日の便のほぼ満員状態ではなかったから機内もスペースがかなりあり、体を丸めたら寝転んで横になれる列もいくつかあるようだけれど廊下側にとった自分の席はそうもならず、ただ両側が空いているので何時間かに一度は廊下を歩き廻り小窓から外を眺めたりオランダへ帰る客室乗務員たちと喋る時間もあったのだが、それでも鈍い痛みは腰のどこかにあった。

イスタンブールではデイパックを背中に、ぶらぶら歩いたり見物するようなところがないエリアは30分ほどひたすら歩くということをしていたから、それで治ったのか帰りの飛行機ではそんなことがあったことさえ忘れていた。 けれどそれがジムのトレーニングになると話はまた別になるので3週間前今年初めて連中とやる前にトレーナーに、こんなことだから途中で腰が痛んだらちょっと外れるから放っておいてくれと言ってベルトコンベアーも競歩より遅い速さにして済ませたのだが幸いなことに、恐れたようにはならなかったから安堵していた。 先週は息を整え1分半のサンドバッグ叩きでも不都合は出ず連中から頑張り方を揶揄され、それにはちょっとはいい気持ちにもなったのだが、それでもこんなことがある。 

今日昼間、スーパーに買い物に行き一壜330mlの小瓶ビールが24本入ったカートンを腰の高さから下して自分のカートに乗せるときに腰は兎も角、腕の弱さを自覚した。 2週間に一度これをやってもう何年になるのか。 5年前には軽々と楽にできたものが今これだ。 これが還暦をまわったほとんど誰にも訪れることなのだ。 還暦でなくともすでに体力のピークは過ぎているのだがトレーニングしても衰えるという証左だ。 それはトレーニングが足りないと言われるかも知れないが老人でもジムのマニアがいるのだから彼らに訊いてみるといい。 

今日は初めに自分できついと思うものを二つ6分間つづけ、その後別のものをやってみよう、途中で休んでもいいけれど普通は精々2分のものを3倍の6分だ、というのでベルトコンベヤーで走るのを選んだ。 設定は時速8km、6分ならいけるだろうと踏んだからで、その根拠はここのところ腰には痛みがなかったからというだけだった。 結局、6分のうち5分30秒ほどはなんとも無くまだあと大分いけそうだったので残りは時速9kmにしてゴールに飛び込んだのだが大丈夫だった。 あとで計算してみると日本のホテルで2km走った時にはそれに15分かかっていた。 今日はその半分以下の時間でだから距離は900mも行かなかったけれど腰は大丈夫、脈拍は毎分178まで上がっていたもののすぐにそれも治まった。 

これで腰は全快したと思い気を良くした。 その後今に至るも痛みはない。 ここでこの話は終わりなのだが、結局のところ、いくら細かいことをいっても肝心なのは体重の数字を下げることだと心のどこかで思っているのだ。 けれどそのつもりがないのかまたも懲りずにシャワーのあと冷たいビールを飲みながら都合のいい数字を探すのに余念が無いからそのうち忘れた頃にいつかまた、、、、、。 

雪の日曜日

2013年02月25日 15時42分57秒 | 日常


オランダの今の時期の昼間は最高平均気温は6℃で夜間は2℃らしい。 それがこのところ夜間の気温は零下で昼間は2℃ほどだ。 さすがに今まで部屋の中では感じなかった膝の寒さを感じる。 寒さが沁み込んでいるからだろうか。 昼前に起きだして50kmほど離れた射撃クラブに競技に出かけるのにはまずは車の雪を取り除けなければならなかった。 週間予報ではまだ一週間ほどこういう天気が続きそれからは平年並みに戻るらしい。

射場から戻る途中で介護施設に住む姑を訪ねた。 駐車場の車の中に銃や道具を置いておくわけにはいかないので重いものを両手にぶら下げて仕方なく安息の領域に物騒なものを持ち込んだ。 看護士には興味を持たれるが看護婦には胡散臭い風に見られるのは仕方が無い。 姑はこのところ風邪を引いていたけれど大分良くなっていて、まだ少し咳はするものの普通に椅子に座って窓の外を眺めていた。 1時間半ほどそこで取り留めの無い話をした。 大抵は昔話や家族のゴシップなのだが、先日ここの別の棟に住んでいた彼女の94になる長姉が逝き、亡くなる2日前までは自分の部屋に遊びに来てはお喋りしたと言って俯いた。 兄弟はいないが戦後農家で育った自分と、11人姉妹の真ん中で末っ子は男と言う大家族酪農農家で戦前に育った姑のオランダと日本の昨今を比べて話をするのはいつもながら面白いのだが中心は過去の思い出である。 家族のなかの関係、親戚との付き合い、農業や世の中の移り変わりのことなどを綿雪が降る大きな窓の外を眺めながら話をしていると時間がじきに経って午後のお茶の時間はとっくに過ぎたのでまた今度にその続きを、とそこを退出した。

シン・レッド・ライン (1998);観た映画、 Jan. '13

2013年02月22日 23時57分48秒 | 見る


シン・レッド・ライン(1998)

THE THIN RED LINE

171分

監督:    テレンス・マリック
製作総指揮: ジョージ・スティーヴンス・Jr
原作:    ジェームズ・ジョーンズ
脚本:    テレンス・マリック
撮影:    ジョン・トール
美術:    ジャック・フィスク
音楽:    ハンス・ジマー

出演:
ショーン・ペン
ジム・カヴィーゼル
エイドリアン・ブロディ
ベン・チャップリン
ジョン・キューザック
イライアス・コティーズ
ニック・ノルティ
ジョン・サヴェージ
ジョン・C・ライリー
ジャレッド・レトー
ウディ・ハレルソン
ジョージ・クルーニー
ダッシュ・ミホク
ティム・ブレイク・ネルソン
ジョン・トラヴォルタ
ミランダ・オットー
ポール・グリーソン
ウィル・ウォレス
ペネロープ・アレン
ニック・スタール
トム・ジェーン
光石研
前原一輝
酒井一圭
ラリー・ロマーノ
サイモン・ビリグ

70年代に「地獄の逃避行」と「天国の日々」という二本の傑作を残したきり、映画界から忽然と姿を消した伝説の監督テレンス・マリックが20年ぶりにメガホンを取った待望の新作。過去にも「大突撃」として映画化もされていたジェームズ・ジョーンズの小説を題材に、太平洋戦争の激戦地ガダルカナルで日々を送る若き兵士の姿を描く。

1942年、ソロモン諸島。アメリカ軍は日本軍の駐留するガダルカナル島を、太平洋戦争の重要な拠点と見なしその占拠を図った。ウィット二等兵(ジム・カヴィーゼル)やウェルシュ曹長(ショーン・ペン)をはじめとするアメリカ陸軍C中隊の面々も作戦に参加、彼らを乗せた上陸用舟艇は美しい南洋の孤島に次々と上陸していく。だが一歩ジャングルの奥に足を踏み入れると、そこは紛うことなき戦場であった……。

上記が映画データベースの記述である。 尚、戦史という観点からコンパクトにまとめられた下記のウィキペディア、ガダルカナル島の戦いの日本版、英版を対照して概観すると本作の貌とは少し違った姿が見えてくるかもしれない。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%80%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%AB%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

還暦を大分過ぎた年代には戦争は常に影としてあるように思う。 物心ついてテレビや週刊漫画誌が興る頃になるとそこには当時アメリカのテレビ番組が大きく戦争番組を連ねそこでは日本と同盟国のドイツ、イタリアを敵にしたヨーロッパ戦線のシリーズ「コンバット」や後には「史上最大の作戦」などが見られ、漫画ではゼロ戦の勇姿と祖国のために散っていく若い兵士の物語などもあり、それが親以上の年代から聞かされる戦争の又聞きの情報に加えられ、男はチャンバラ、戦争、西部劇というような実際は血なまぐさい話を砂糖菓子でまぶしたような世界の中に我々子供達はいた。 それがヴェトナム戦争のころになると世界に類の少ない永久戦争放棄という憲法の下、間接的にはその物量補給という形で戦争参加し、そのお陰の好景気、高度成長のなかで兵士として生死をかけた戦いに身を晒すことのない世代となっていた。 明治生まれの祖父はそんな我々がヴェトナム戦争反対と能天気にシュプレヒコールを叫ぶ姿に、こいつらも一度徴兵されて根性を入れ替えたら世間が分かるというけれど誰もそれには耳を傾けないような時代となっていた。 現首相はその自衛軍としての日本軍のステイタスを確立すべき憲法改正の手続きに具体的な姿勢を述べたのが昨今のことだ。 

叙情的な映画でもある。 端緒から南方の自然が美しく映し出され、それが激烈な戦闘の中でも示されその映像は普通の戦争映画に登場する類のものではない。 自然の中に偶々紛れ込んで起こる人間の営為というような意味をさえ示唆するような質であり、第一次世界大戦の泥の中での大量殺戮の対極にあるような映像である。 ヴェトナム戦争の佳作コッポラの「地獄の黙示録」にもこのような叙情性はない。 それに主役ジム・カヴィーゼル二等兵の脱走兵としての過去を持つ思索とそれに対応するショーン・ペン曹長の言動が本作の柱だろう。 家人は途中まで観ていたもののもともと戦争映画やアクションものを嫌う性格に加えて戦争と叙情、ある種の哲学的思索に嫌気がさして自分のベッドで誰かの伝記を読むのを選んだのだが自分は多彩な俳優が登場するのに興味が惹かれ最後まで興味を持って観た。


尚、昨年この監督の「地獄の逃避行」を観て次のように書いた。
http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/62676313.html

両作に共通するのはある種の叙情性と観る者に暴力を巡る人間を慈しむ眼で眺めているようにみえることだ。 ことに暴力が描かれるときにそれと同時にそれが無くとも世界は太古からそこに在って存在し続けるかのように描写されているようだ。 そこには暴力に対する直截な価値判断を保留したある種の達観さえみえるようだ。 それをとりあげて批判することは簡単なようだが両作を観てからそれを試みようとするものにはかなりの力が必要でどのような納得の切り口が可能になるのかそこに興味を覚えるし今から半世紀前の少年達が本作にどのような感想を発するのかに時空を越えて訊いてみたい気がする。

今年初めて床屋に行った

2013年02月22日 03時30分12秒 | 日常



相変わらず気温は氷点の辺りを上下している。 誰もが顔をあわせれば寒いな、底冷えだな、というような挨拶で始まる中、エリックの床屋でも同じだった。 この前は正月前で寒くはなかったからそろそろ春の兆しがあってもいい頃なのにまだ寒い。

そんなことを言いながらコートやマフラーをハンガーにかけて四つある椅子の三番目にかけた。 散髪の椅子に一人、四つの椅子ににはまだ一つ開いているからこの分ならあと50分ほど待てば順番が来て一時間一寸で済むと判断した。 エリックは散髪台の客と取り留めのないことを話し、隣の定年親父とおぼしい男は新聞をみるでも雑誌を手に取るでもなくボーっとしている。 あとでこの男が台に坐っているとき話していたのは何日かあとどこかのクルーズに行くことになっていてエリックから、あんな退屈なものにあんたよく辛抱できるな、といわれ、それにブツブツ答えているのだがエリックの揶揄する口調には皆慣れているから話半分として対応するし、エリックもここに来る客のことは承知しているからそんなことを言うのだ。

この四半世紀以上知る床屋は日頃見知らぬ人たちとは交わらない自分には周りから面白い話の聞こえてくる気楽なところだ。 政治のことなど面白いのだがそれも頭に血が上っている誰かがいるとそれを突付いて時間つぶしをするのもおもしろいけれど時には気まずい終わり方をすることを皆知っているので精々町の政治ぐらいのことしか俎板に上げない。 曰く、この町の評議員だった緑の党の代表が国会で緑の党の代表になるらしい、それにしてもあの男の住む家の狭さ、その地区の没落気味な寂れ方からすると他の政治家とは違った頑張りかたをするだろう、けど、政治家というのはイメージだからあの男の風采の上がらなさはもうちょっと何とかしないといけないな、あれじゃ保守党の肥え太った奴らみたいな金の貯め方をちょっとは勉強しないといけないのじゃないか、いやいや、イメージだとするといくら緑の党だとはいえそれなりの蓄財のしかたはやってるだろう、うんぬんかんかん、といった具合だ。 ちょっと行ったところにはこの町出身の保守党現道路交通相の家があってそろそろ二人目か三人目の子供を身籠ってもいいのじゃないか、いやいや政治は夜でも忙しいから政治か性事かどっちかを犠牲にしないとな、あれほど野心があるのならあと10年ぐらいは政治に力をいれないと充分な年金はたまらないだろう、もう腹は膨れないだろうと勝手なことも言う。 小さな国では以外に身近なところに日頃テレビニュースに登場する人物が住んでいたり顔をあわせたりするものなのだ。 そういう意味では政治も等身大に近くなる。 例えば緑の党には多分オランダで初めての日系女性議員がいるのだが多くの人種が混ざった国であるから見た目には中国、インドネシア、南米系とも見え、何系というのには殆んど意味がない。 また、オランダで前内閣を弄んだ極右政党の王制さえも反対するオランダ愛国党党首が昨日オーストラリアでブーイングを喰った話も、一旦潮が退いた落ち目の政治家がどのように扱われるのか民主国家だからああいうのもいる、という話で納める床屋談義なのだ。

エリックはインターネットで剃刀や化粧品の類を売っていて毎度店の椅子に坐っていると必ず誰かが何かを買うだけに入って来る。 ときには200km以離れた町からでも買いに来る。 髭など剃らない自分にはそんなものはホテルの浴室においてあるプラスチックの剃刀で充分だろうと思うけどそうでもないらしい。 今日も一人若者が入ってきて中国に旅行したときに中国伝統の剃刀でいいからと買ったものがあまりにも酷くてエリックに言われるままにそのあとここで買った日本製剃刀の素晴らしさを5分ぐらい喋って帰って行った。 あとの客は呆然とそれを聞いているのだけれど何れにしても憑かれるとか入れ込むということはあって剃刀にもそれは例外ではないらしい。 あんな客がいるからたとえ1本二万円ほどするものでも結構売れるんだ、という。 うちで扱っているのは日本製とドイツ製だ、今日本製が上げ潮で大阪から輸入してるんだけどオランダでの輸入独占権をとりたいと思ってもけど数が出ないからフランスの代理店を通してでないと買えない、オランダで独占権をとれたら安くできるからもっと売れるんだけどと商売の愚痴もでる。 エリックは自分が大阪から来たということを知っていてまだ行った事のない大阪が贔屓だという。

剃刀も大阪だし、あんたらが坐る散髪台の椅子も大阪のものだと聞かされた。 剃刀はよく知られているブランドだけれど椅子は聞いたことがなかった。 昔のものを集めているこの床屋は今ではこの町だけではなくオランダ、ベルギーでもちょっと知られているらしい。 それは新聞、雑誌、のちょっとした記事のせいでもあるしオランダのテレビにもちょくちょくでるからでもあるのだろう。 このあいだも待っているときには写真をやっている男がここにきてフォトレポルタージュをやりたいといいエリックが仕事をしているのを30分ほど撮らせてもらっていた。 そんなことをここに書いた覚えがある。

URL: http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/62694804.html

だれかが、あんたは有名人だな、いいことあるかい、と馬鹿にしたようなトーンでいうと、半分真面目な顔で、いいことなど一つもない、あんたらに馬鹿にされるし、あんなメディアというのは邪魔になって仕方がない、時間ばっかりとられてな、初めは気持ちもいいし、何か宣伝になるようなことになるのではと期待していたけどなにもない、さっき来ていたような入れ込んだ奴なんかあんなメディアできてるんじゃないからな、口コミだ、テレビなんか2分画面に出るのに3時間も4時間も店の中をぞろぞろうろうろされて邪魔なだけだ、それにこないだのカメラマンにしても撮らせてやる代わりにプリントを送ってこいと言ってあったのに全くなしのつぶてだ、もうマスコミはいいと言っているものの、それもまんざら悪い気持ちもしていないようには見受けられる。

自分の番になって台に坐るとうちの息子のことをいう。 こないだ来たけどあんたの髪と似ているようで違うな、あんたのは25年以上前からごま塩で黒いのを見たことないけどあんたの息子のはブロンドに黒がだいぶ混ざっていい感じだ、 殆んど黒でなんかの拍子に軽くブロンドに染めたように見える。 けどあんたが還暦を越して頭の後ろの方が薄くなっているのならあんたの息子はあんたと違ってこっちの柔らかい髪質だからあんたより早く禿げるかもしれないな、と職業的経験からの予測をしてくれるがこちらにとってはそれが別にどうということでもない。 こんどあいつが来たときにそれを言ってくれ、それそれに俺は禿げていないというのも言ってやってくれ、といって、また7週間後にくるわ、と1700円ほどを古いキャッシュレジスターの横に置いて店を出たのだった。

イスタンブールの旅;(6)ウスクダラ遥々訪ねてみたら、、、、

2013年02月20日 23時12分53秒 | 日常


出かける何週間か前から家人は図書館で様々な本を借りてきてイスタンブールのことを調べていたから自分は何もせず、英語が通じるなら行き当たりばったりでいいや、トプカピ宮殿の陶磁器のコレクションをみて本物のトルコ風呂に入られればそれだけでいいとしていた。 初めの何日かホテル近くの目ぼしいところを見学したり町をテクテクあるいたりしたあと、ホテルでベッドに寝転んでi-Padでその日のオランダのテレビニュースをみているときに次はどうしようかと家人に尋ねると、ヨーロッパ側は一応の感じは分かったから今度はフェリーでアジア側に渡って歩いてみたいというのでそうすることにした。 

15分ぐらいフェリーに乗ってアジア側に渡ったらそこはウスクダラだという。 どこかで聞いたことがある名前だ。 そういえば子供の頃アーサ・キットというアメリカ人歌手が「ウースクダーラーはるばるたずねてーみーたーらー、、、絵ェにもかけないうーつーくーしーさー、、、、」と歌って流行ったものを思い出した。 ここがそのウスクダラだったのだ。 その歌のこと、またそんな歌が子供に影響を与えていた昔を思い出してここがあのウスクダラかと感慨も深かった。 けれどその他にはここのことなど何も知りはしなかった。 小さな船着場を出てとりあえず人の歩く方向についていくとマーケットがあった。 サイズはヨーロッパ側のエジプトバザールやグランドバザール、それに近郊の町の中にあるマーケットとは比較にならないほど貧しく小さかった。 けれどそこに並んでいる魚、野菜の新鮮さ、手入れのされ方は他の何処にもないような、ヨーロッパの最高級食材マーケットに見られるような眼を見張るものだった。 フェリーの桟橋に近いほんの20軒かそれぐらいの店がならんでいるだけのものだけれど殆んどがそんな眼を見張らせるものだった。 なかでも魚は新鮮で眼は透き通り大人が片手を広げたぐらいのものであれば殆んどがエラをひっくり返されてワインレッドの新鮮で張りのあるビラビラを見せていた。 野菜のひとつひとつが丁寧に手入れされていて萎れているもの、汚れなど一つもなく整然と瑞々しく並べられ眼を見張るようだった。 というのは我々はヨーロッパ側の中心地だけではなく市電の端から端まで乗っていて終着駅のあたりの普通の市街地を歩きまわり普通の青物商、精肉店、魚屋、スーパーなどは百に近い数を見ているからそれらと比べるここは飛り抜けて素晴らしいものだったから驚くのだ。 残念なことに我々はホテルに滞在していたから自分達で料理をすることなど叶わず、そんな思わず手が出そうなものも買えないで残念なことだった。

その小さなマーケットを抜けるとそれで終わりだった。 あとは人家が見渡す限り岡にへばりついて観光するものなどなにもない、というような景色だった。 実は、家人はここではなくそこから5kmほど南に下がった港までフェリーで行ってそこからさらに南に歩き出したかったようだが自分は前夜にホテルでこのウシュクダラという文字を地図で見ていてここに行こうと言い張り、それじゃあなたが一日ガイドして、と言われていたのだったが実際、船着場についてからの目的も算段も何もなかった。 ウスクダラはるばる訊ねてみたら、、、、というのを経験したかっただけなのだ。 ウスクダラはるばる訪ねてみたら、、、うらぶれた人家が密集していただけだった。 家人は呆れて、これからどうするの、と尋ねるので取敢えず見知らぬところにいけば取敢えず一番高いところに上がって見晴かし、それからだ、とわけの分からぬことを言って自分から道をどんどん上に向かって登っていく。 なるほど観光地ではない。 店もないし物売りもいない。 車がやっと通れるかぐらいの舗装道路が傾斜のきつい上に向かっているのを一番高そうなところを目指して登っていくけれど見晴らしは全く利かない。 朝飯はホテルで充分摂ってきたので10時を廻っているといっても空腹でもなく、地元の朝食が色々バイキング方式で並んだなかから持ってきたカステラのようなものもデイパックに入っているからカフェーのようなものもなくともいい。 けれど手元に簡単な地図はあってもそこには通りの名前が書かれていないし通りの角々にもどこにも住所が出ていないから参る。 途中で若者に地図を見せてここがどこだか訊いても要領をえない。 狭い道路が折れ曲がっているから方向もわからず頼りは上に登ってとにかく見晴らしのいいところへ、、、、ということだったがそれも叶わない。

なんとか岡のほとんど上のほうに来たような気配がするのは傾斜がなくなったこと、空き地も何もない人家の密集したところだけれどかろうじて道が交差するあたりの空間、その上方を見て何もなさそうだからここが大体頂上だと思われるところにくると小さい入り口の中にモスクがあって落ち着いたたたずまいなのでそこがどんなところかも知らずに入った。 男が一人掃除をしていていいかと英語で尋ねるとうなづいたので庭のほうに廻ってモスクに入った。 それが自分にとっては今回の旅で2番目の収穫になった。 今グーグルで確かめたら、それは アティク ヴァルディ モスク だった。

英版ウィキペディア; Atik Valide Mosque の項;
http://en.wikipedia.org/wiki/Atik_Valide_Mosque

日本語版ウィキペディア; ヌール・バヌ(皇帝の生母、母太后)の項;
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%8C

入ったときにはここが何だかその由来も何も知らなかったしそれまでに幾つかのモスクには入っていたのでただ休憩のため、座りたかった。 これも自分のバカンスのパターンだ。 ヨーロッパの山や野、町を歩き、そこでちょっと疲れたら開いているどこかの教会に入り座る。 できれば観光客のいない無人の空間であればそれ以上のことはない。 自分は観光客であるがそれは無視する。 有料であれば入らない。 日本の観光地でことに寺は魂の安息を経験するのに格好の場であるのにもかからわらず本堂にぶらっと入って坐るということを奨励しているところはほとんどなく、名のある寺は入るのに拝観料というものをとる。 だから日本では寺は日常の安息を求めて座る場所を保障していないのだ。 しかし美術品の見学であればそれは別だ。 今自分は美術見学に来ているわけではない。 ただ座りたかったから来たのだ。 モスクの絨毯に座る心地よさをその何日か前に経験していてそれが今回の一番の収穫だった。 それも広い空間の中で長時間静寂に浸り一人坐った経験だ。 坐ることは何年か前、一年ほど毎週自分の町の禅寺でオランダ人の坊主を導師として一週間に一度、1時間半ほど坐っていた。 モスクではそれと違った安息を得るという経験した。 それはまた別の機会に書く。

このモスクは奴隷としてベニスからトプカピ宮殿のハーレムに連れて来られてきてそこから出世し、皇帝の生母、母太后という称号を初めて得た女性が建てた寺だと知ったのはその内部で一時間ほど坐っていて、その赤い絨毯を静かに掃除する人が一人いるだけの空間から退出し、外にあった英語版の説明を読んだからで、そのとき家人が、だから女が坐る後ろや上階のスペースがあれだけ大きかったのね、と言った理由が分かるようだった。 数日前家人は礼拝のとき大きなモスクにいて下の空間が一杯になり本来女性の空間であるはずのところに男性が入ってきてその挙句女性が奥へ奥へと追い込まれるような経験をしていたからここでは女性達がどのように扱われているか北ヨーロッパとの違いを身をもって経験している。 何世紀も前のことを考えるとヌール・バヌの無念と魂の救済を願う想いに想像がいくだろう。

そのモスクを出ようとすると入り口にこのモスクの名前があって地図のどこに位置するのかそろそろ昼の祈りに集まる人に訊いたけれど言葉がわからず要領を得ず、その中の一人が自分のカーナビに自分を連れて行きそれと比べても要領をえないので諦めて取敢えず向こうの方に見えていそうな海に向かうことにした。 その方角にはかなり大きな公園を意味する緑が地図の中にあったからだ。 イスタンブールに着て以来、森、林には行き当たっていなかった。 どこも家家家建物、だったからだ。 けれどそこに行って見るとそこは森ではなく墓地だった。 墓地巡りも長年我々のバカンスの行事に入っていてその林の中にある整然とした墓地の墓標を眺めながらそれぞれの生年没年、墓の形などを見ながら海の方向に向かうとだらだらの下り坂になっているところで物見の塔、若しくは公園のように遠くから見えるところがあり、そこを抜けようとすると門が閉じられていて軍の建物だとある。 結局そこへ行くまでの数百メートルをまた戻らなければならないこととなり、もうそこまでかなり歩いていたからこれで少々気がめげた。 

トルコは軍部が強いところで、政府は軍に伺いをたてねばならないようでもある。 軍はトルコ建国の父アタチュルクの「ケマル主義」「アタテュルク主義」を守って「政教分離」をいき過ぎといわれるほどに守ろうとしている組織のようで、それは今の状況を大まかに言うとトルコのEC加入の道にも沿うし911以来西欧諸国の敵であるイスラム原理主義から距離を置こうとする態度でもあるようだ。 そういう意味では他の中東、アジア、アフリカ諸国の軍事政権とは少々趣を異にしている。

その辺りは大きな建物、軍事施設が多く、大きな道路に沿って緩やかに下りていくと大学まであった。 そのうち陸橋を渡ると下に鉄道が見え、海側にその鉄道の終着駅なのか19世紀の大きな建物が見えた。 そこに向かうのだがどうもこの辺りは勢いがなく寂れた感じだ。 駅に着くとヨーロッパ側のオリエントエクスプレスの終着駅とは比べ物にならないほど豪華な建物ながら人がいない。 ほぼ無人のように見えるがディーゼル列車は出ているようですくないながら時刻表はある。 駅のガランとしたコンコースは結婚式の記念写真を撮るカップルとカメラマン、その助手が降る雪を避けてかろうじて光が入る薄暗いホールの中で撮影していた。 外はフェリー乗り場なのだ。 家人は当初ここから更に南に歩いて行きたかったようだ。 前にはフェリー乗り場が広がる駅前の階段には12,3人のデモをする人たちが旗を持って坐っていた。 話をきいてみると政府はこの歴史的遺跡を不動産業者に売り渡そうと計画していてそれに反対しているのだという。 ここはオリエントエクスプレスのアジア側の出発点でエルサレムまで鉄道が延びていたらしい。 クリミア戦争のとき西欧は物資兵隊をここから送り込み負傷兵を連れ戻しあそこに見える兵廠ではナイチンゲールがその看病にあたったのだ、という。 そこは一時間ほど前にその前まで行って入れなかった軍の建物だったのだ。 

政府も主要な線を廃止してローカル線数本だけを残して徐々に廃止にしようとしているのだとの言でこのあたりの寂れた感じの理由が分かった。 殆んど客のない豪華な駅のその寂れたレストランで昼食にしてから元来た道路沿いまでもどり本格的な港のあるこのあたりで一番賑やかなところに来たのだが、バス乗り場、車の発着の荒々しさはヨーロッパ側とは全く別のものだった。 同じイスタンブールでありながらまるで雰囲気が変わり、この喧騒とカオスを思わせる勢いはアジアだということがはっきり分かるようなのだ。 船着場で幾つも乗り場がある中で自分達のホテル近くの船着場までいくフェリーを10分ほど待っていた。 そばで中年の女が携帯でなにか深刻そうなことを話していたのだが突然泣き出した。 まわりの人間はなすすべもなく見ている風だったのだがそのとき全身黒ずくめで眼だけ出した女性がその女に話しかけ抱きかかえそばのベンチに腰掛けさせ宥めていた。 

小雪のちらつくボスポラス海峡を小さなフェリーで元来たところに戻っているとき先ほどの駅を遠望しそのあと岡の中腹にはナイチンゲールが近代看護を効率的かつ効果的に実践した横に長い巨大な建物に沿って船は移動しそれから20分ほどすれば何日か前にポカポカとしたバルコニーで昼食にしたイスタンブール近代美術館のところまで来る。 ここまでくればフェリーは舳先を左に向けて船着場まで5分だ。

白トリュフ味のオリーブオイル

2013年02月19日 22時36分15秒 | 喰う
以前黒トリュフを試したことを書いた。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/63084409.html

食卓に就くと今日はイタリアンだという。 パスタかリゾットかと鍋を開けるとそこには細いスパゲッティがあったけれどそれには刻んだ玉葱と一緒に炒められた細かな茸が絡まっていた。 そばにはインサラータ・カプレーゼという、円盤に切ったモッツァレッラを同じく円盤に切ったトマトで挟みレタスの上に盛ったものに炒ったヒマワリの種を振りかけそこに更にバスサミコ酢を振りかけただけのサラダもあった。

だから今日は肉なし、精進料理だったのだがそれは茸の香りを引き出すためのものでそのパスタに振りかけられた、白トリュフが入ったオリーブオイルを試すためだった。 ホテルのミニバーにあるウイスキーかジンかのミニボトルをすこし大きくしたようなものに入ったオリーブオイルに混ざって微かに白い細かな欠片が見えてそのビンを振れば動くけれどそうしなければそこに浮いて沈殿しないような油で、自分がこの前黒トリュフを買ったマーケットの店でパスタに絡めた茸といっしょに買ってきたものだという。 白トリュフ入りのオリーブオイルだとラベルにある。

黒いトリュフを買ったとき白は黒の10倍ほどの値段がついていた。 だからその時、それまでして買うようなものではないと買わなかった。 けれど油に入って抽出されているのならそのエッセンスは味わえるだろうと思い試すのは悪くない。 確かに黒より香りがあり、これでこのトリュフの味を知った。 それは特に味も香りも中性のモッツァレッラに振りかけたときに顕著だった。

壜には保存は日光の届かない冷暗所に置いておく事、冷蔵庫には入れないこととある。


荒野の七人 (1960);観た映画、 Feb. '13

2013年02月18日 23時01分20秒 | 日常



邦題; 荒野の七人   (1960)

原題; THE MAGNIFICENT SEVEN

128分

監督:  ジョン・スタージェス
製作:  ジョン・スタージェス
原作: 黒澤明(クレジットなし)、橋本忍 (クレジットなし)、小国英雄(クレジットなし)
脚本:  ウィリアム・ロバーツ、 ウォルター・バーンスタイン(クレジットなし)
撮影:  チャールズ・ラング・Jr
音楽:  エルマー・バーンスタイン

出演:
ユル・ブリンナー     クリス
スティーヴ・マックィーン   ヴィン
チャールズ・ブロンソン   オライリー
ジェームズ・コバーン   ブリット
ロバート・ヴォーン     リー
ホルスト・ブッフホルツ   チコ
ブラッド・デクスター    ハリー
イーライ・ウォラック    カルヴェラ
ウラジミール・ソコロフ   老人
ロゼンダ・モンテロス   ペトラ
ビング・ラッセル

無法者の一団に、貢ぎ物を強要されている寒村があった。村人は少ない金を出し合い、無法者たちを撃退するガンマンを雇おうと決意する。そして、村人の願いを受け、凄腕の7人の男たちが集まった……。黒澤明「七人の侍」を翻案したウェスタン。こちらだけを観れば大傑作であるが、本家と比べてしまうと、やはり面白さの密度は薄い。

以上が今ではあまりこの作品が観られないのか少々残念でもある短い映画データベースの記述だ。

先日オランダ人で日本の映画を観る若者からクロサワの映画でどれがいいですか、と訊かれて内容があり肩肘こらずに楽しめるというので七人の侍かな、と答えた。 クロサワという人のものは幾つか観ているけれどどこかで肩肘が張るような気がして戦国時代のスペクタクルは数々のショットでは印象深いものがあるけれど騎馬戦、白兵戦のスケールということではクロサワの夢が叶わなかったようだし、それから何十年も経ってオーストラリアかニュージーランドでロケをして撮ったというトム・クルーズの「ラストサムライ」も貧しいものだったから七人の侍で小さいながらも空間を大きくみせたのが好みだったのだ。 それにサムライの種類、個々人の人となりが良く描かれていて単なる殺し合いではないようだったがある作品ではシェークスピアや社会正義を説くような強い線香の匂いのようなものもあって、、、と個人の感想を言った。 クロサワとミフネの組み合わせは悪くないとも言ったしスケールということでは未見ながらシベリアで撮った「デルス・ウザーラ(1975)」はクロサワが撮りたくてそれが撮れた映画なのではないかと付け加えた。

そんなことを言った何日かあとで土曜の午後、どの局も視聴率の低い時間にBBCテレビに本作がかかっていたのでヴィデオに撮って翌日観た。 実は本作を観たのは初めてだった。 名前だけは聞いていてクロサワの作がクリント・イーストウッドのほぼデビュー作、マカロニウエスタンの手本になっていることも承知しているし、本作の3年ほどあと自宅で聞いた青色半透明のソノシートというぺらぺらで折れ曲がるレコード盤に入っていたアメリカ映画テーマ曲集のなかの一曲で、そのときからテーマ曲は頭の中に居座っている。 それから50年、半世紀経って初めて本作を観たというわけだ。

ホルスト・ブッフホルツとブラッド・デクスターを除いてはこれら5人には何もいうことはない。 のちのち彼らのさまざまな映画をみているから例えば本作で「ブリット」といって声がかかったとき、え、マックィーンかと一瞬思い、寝そべる顔のカウボーイハットを上げたらナイフ投げのコバーンだった、という具合だ。 サンフランシスコ警察でムスタングを駆ってカーチェースをするマックイーンのブリット警部と一瞬重なったからだ。 それに嬉しかったのはイーライ・ウォラックがいい悪役を演じていることだ。 リー・ヴァン・クリーフとならんでクリント・イーストウッドの「続・夕陽のガンマン/地獄の決斗(1966)」での悪役に続いているのだが本作での悪役のほうがじっくりとした味のある悪のような気がする。 ここではただ単に残忍な悪ではなくじっくりと悪党の頭として無理のないヒールだ。

ここではホルスト・ブッフホルツがミフネを演じているようで、のちほどミフネが用心棒や三十郎になって貫禄が出る前の菊千代に対応している。 それならナイフ捌きを見せるコバーンの登場シーンは宮口精二が志村喬たちに認められる居合いのシーンに対応してなるほどクロサワの西部劇版だと納得する。 尚、この宮口精二の居合いシーンは昨年チロルアルプスの山小屋で実際に居合いをするハンガリア人のコックにこのシーンをノートパソコンで見ながらどれほど素晴らしい居合いのシーンか聞かされた記憶も新しい。

風車の傍を通る

2013年02月18日 04時14分44秒 | 日常

忙しい水曜日の午後一時間だけ空いたから、それではイスラム系のミニスーパーで買い物をしようかと自転車に乗った。 職場のちかくにあるモスクの前を通るときにはいつの日か訪れようと思いながらも25年以上経ち、この間いくつも観たイスタンブールのものとどう違うのか知りたいと思いながらそこを抜け、ライン川の支流にかかる跳ね橋を渡る。 そのこちら側にレンブラントの生家跡があり、渡ったところに彼の父親が持っていたという風車があってそのレプリカが25年以上前には建てられていた。 それが果たして今から500年ほど前のと同じかどうかは知らないもののそこを通るたびにそこで挽いた粉が職場の近くにあるパン屋で焼かれて自分の旨い昼飯になっていたことも思い出す。 

この風車はオランダ全国に三百以上ある風車の一つで、他のと同じようにどこからか補助金を受けたり同好の志、趣味のクラブなどが利益とはいかないまでも自分達の道楽、歴史的建造物保存のため自力で運営していて年に何回かは一般に開放している。 この中にまだ小さい子どもたちを連れて大きな木の歯車が組み合わさったものが廻って粉を挽くのを見学したのはもうそろそろ20年前になるのではないか。 

寒い。 ここのところもうすこし日光に強さがあってもいいと思うけれど何か底冷えがするようだ。 週間予報でも夜間は連日零下になることになっている。 こういうときは夕食のタジンだと家人から買い物リストを与えられ体のいいお使い坊やなのだ。 羊肉にタジンパウダー、ズッキーニに茄子、ジャガイモ、コリアンダーにパセリ、かぼちゃにパプリカだと書かれている。 しかしこれらを買って帰ってもうちに着くのが6時を周るのだからそれから夕食の支度では何時間も煮込むタジンは間に合わないのだからそれでは今晩は何だろうと思案しながら山羊の小屋の屋根のような傾斜がついた跳ね橋を越える。

内田樹(うちだたつる)の声

2013年02月17日 15時20分17秒 | 日常


自分のいない日本のことを知りたいと思う。 また80年まで住んでいてそこで経験したことを重ねて自分の不在中に起こったことを知りたいとも思い自分の今住む国では限りはありながらも色々な媒体によってそれらを追っている。 最近まではそのもとになるのが本や雑誌だった。 それに15年程前までは当然インターネットは発達途上だったから特に自分の求める情報がえられるというころまでは行っていなかったように思い使用目的を限定していた。 それを言うなら今のネットがもともと本や雑誌で得られていた情報と同じ程度のものが得られるかといってもネットは違うメディアであることとネットが目指すもの、それを制御する形態は古い出版というものとは少々違うように見える。 21世紀になってしばらくたったころからだろうか、雑誌や本で自分とほぼ同世代の内田樹の文章に興味をもって周りにあれば読んでいる。 それには幾つかの理由があるのだが一つには内田が同世代ということもあり、この30年以上日本に住んでいない自分と同世代の声が彼の書いているものから聞こえるような気がしたことが一つある。 ただ同世代と言っても我々の青年期に起こった様々な社会的な出来事を経験しての今だからただ単に同世代とくくっても同世代とは一言で括れないものがあることは承知しつつ、思考の党派性のパターンが入り組む過去を引きずった同世代でも単なる専門馬鹿、社会馬鹿な大学教授連中の多い中、この人の言動に自分の親和性が向いているということだろう。

その名前から精神科医で評論家の斎藤環と混同していた時があった。 内田は哲学、斉藤は精神医学が専門でありながらどちらも社会にコミットしたことを書いていることから何かで重なる部分があったのだろうか。 大学の教授を退官したところだという。 日本でかなりシステム疲労をしているようにみえる60年代に建てられた道路交通インフラがその後大きな補修策がとられていないツケが廻って危なさが顕著になっていると報じられることに並んで人間社会を築く教育システムの最終段階である大学も疲弊していると言われているようで、世界中から日本の男子学生は子供だといわれても自らはそれには気付かず、そんな中で女子大という一種特化された大学の特殊な世界にいて日本の女子学生は大丈夫だから退官してから今度は今のひ弱い男子を鍛えるのだという内田の声をポットキャストで聴いてもっともなことだとそれに同意もし、それを頼もしくも思った。 その仕方が机上で緻密に論を辿るだけでなく身体性に知性の基本を置いての上の言であることに健全な全人格的知性を感じることもその大きな理由だろう。 

書かれたものをもとにしているのだったらこの文章を書くことには至らなかったように思う。 こういうことをいうのはこのところネットで遊んでいるうちに偶々文章で発言する内田樹に行き当たったこともあるけれどそれとは別の理由に拠る。 ネットということが関係している。 自分の印象では言説に重みも厚みもなく、自分の頭でじっくりと考えた結果だとも思えない日本語の言説が跋扈するネットを海外から眺めていて、それだけではないはずだけれどと少々憂鬱になっていたところに内田の、日本の政治、社会、文化、とまともに付き合っている態度をブログで見たことが大きいのではないか。 その態度と思えるのは内田の対象は活字だけで構成された社会、文化、政治ではなく身体性をもった人間に基礎を置いているからその脳と体、ある種の倫理のようなものを身を持って実現しようとしているように見えるからなのかもしれない。 哲学者というより哲学を実践するというのはそういうことかもしれない。

もともと文章で内田に接してきたものにはブログの「内田樹の研究室」
http://blog.tatsuru.com/  

は書物の延長であり、それに接しても雑誌、単行本などの著作との違和感は全くなかったけれど最近、内田のポットキャストがあることに気付き、それで聴く様になった。

しかし、この、これを書く動機になったのは「内田樹&名越康文の 辺境ラジオ」だ。 
http://www.mbs1179.com/henkyo/rss.xml   

ここでは言説と身体性、ことに生身の声というところに面白い発見があり、それがアナウンサー、精神科臨床医との鼎談という形をとりながら時には一時間をはるかに越えるものもあり、その中で一層生身の声ということの性格が全面にでているように思え、それによって書かれたものとの違いがはっきりしたように思ったのだ。

読むのと聴くのでは同じ内容、同じ脈絡でも大きくちがう、と思わせることがある。 当然書かれたものはそれまでに推敲を経て決定稿という形で出版されるのだが放送では台本があったとしてもその文章を話すのではないから趣旨は同じであっても語りと文章は全く違うし、語りでは生身の人格が流れ込む、というように感じられる要素がある。 つまり人はその言説で判断するものだと言うけれど書かれた文章を読んで判断するのとそれを声に乗せて鼎談になったものを聴いて判断するのでは幾分か違いがでてくるだろう。 その違いに驚いたということだ。 語りには当然のことながら声という身体性要素が強くあるということだ。 特に内田の音声に関して驚きがあった。 それは一言で言うと、若いな、ということだ。 それは書かれたものの内容と写真から想像していた、少々の渋さと重さがあるものと想像していたものから全くの反対側にあったからだ。 声の質はこの歳の男の平均からは少々高めの方に位置しているだろう。 だからそこで若いと感じたのかもしれない。 だれかに似ていると思ったがなかなか思い出せなかったがバカリズム(升野英知)のものだった。 軽く笑うときの鼻に抜ける肩から力がぬけるような音がかれの立ち位置を象徴しているのではないか。 肩の力を抜いた若作りのご隠居さんといった風だ。

鼎談であるから後二人いるわけで、その二人は毎日放送ラジオアナウンサー、西靖と精神科臨床医の名越康文なのだが名越のことは知らなかった。 ただ印象では、もし自分に精神科の医師が必要になったときこの医者にかかるか、という問いを設定したときにはすぐさまイエスとは答えられない気がしたのだった。 他にいなければ当然かかるだろうが放送を聴いてからの印象がこうなった。 けれどそうなると今までかかった医者でその人となりまで知った医者がいるかとなるとそれは皆無なので自分の名越に対する第一印象というのは殆んど今までにかかった医者に向けられなければならないこととなるのは承知しなければならないだろう。 この人のある種の節操のなさ、結果オーライに向けての事大主義的熱心さを感じるからなのだがその事大主義のよってたつもの殆んど内田の言によっていることだ。 主張は違うかもしれないが大阪橋元市長の態度と共通するものを感じる。 

西靖は笑福亭 鶴瓶のラジオ長寿番組「MBSヤングタウン日曜日」でアナウンサーとして聴いたのが初めてだったけれど最近イスタンブールに行ったときホテル近くの土産物屋でここに来たよといってそのときの写真を見せられ、そういえば60日かで世界を廻るということをしていたことを思い出したのだが、それ以来ここでまた西を聴くことになった。 そのときにアナウンサーをいれてのラジオの鼎談という形式では子供の時に聴いていた「題名のない番組」というのがあったなあとその名前のない名前をふと思い出した。 それは落語家の桂米朝、SF作家の小松左京、アナウンサーの菊地美智子が様々な話題について自由に喋るというものだったのだがそこで彼らの教養にあふれた鼎談が高度なエンターテーメントとなっていることに子供の自分が惹かれたのではなかったか。 辺境ラジオではその社会に関わる専門性が「題なし」とは違ったレベルのエンターテーメントとして機能していているように感じたからもう半世紀も前の番組のことを思い出したのだろう。

米朝は落語家、小松はSF作家だから人間を分析し演じる芸人と科学をもとにして社会を論じる小説家の番組に枠を設けない構成は「内田樹&名越康文の 辺境ラジオ」とほぼ同じものだろう。 ただ題なしのほうでは女性アナウンサーがいたけれどここでは男3人であり女はいないが、その語りで女性性があるのが内田だ。 その声の質と語り方なのだが、自身かたっているようにおとこのオバサンらしい。 けれどこれは既に永六輔のもので、ここでは彼らが自分達のことをいうのにオッサンをつかっているから「おっさんのオバサン」だろう。 しかし内田の声をきいているかぎりではオッサンというイメージは湧かないからやはり「男のオバサン」だろう。

ここで言いたかったのは、或る一人の人間が書いてそれを読んで持った印象と、同じ内容でも話されたことを聴いて持った発言者の印象が大きく違うなかで、その違いの理由は語りの中には声という身体性が関わっているという至極まともで新しくもないことを再発見して驚いたという瑣末事に尽きている。