ライデン大学病院から自分のデータが先週オランダ国立癌研(AVL)に送られ、ここで検討されるはずになっていたその結果であるセカンドオピニオンを訊きにアムステルダムに家人、息子と出かけた。
思い起こせば自分の胃癌が発見され、そのときには末期と診断されたのが2年前の1月、大学病院では手の施しようもなくそのままでは大体4か月の命、実験材料になる気があるのならと紹介されこの国立癌研に初めて来たのがその2月の22日でその時のことを「アムステルダムの癌研に行った」と題して下のようにこまごまと記している。
https://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/65533331.html
余談ではあるがそのときに載せた写真に写っているロビーから向かいに見えるアムステルダム・スロートファート病院は去年突然倒産の憂き目に会い、アムステルダム市の力及ばず今は売れる当てもなくほとんど廃墟となっているのをニュースで見ていたものを今日確認した。 何か月か前のテレビのドキュメンタリーからの印象では保険会社に嵌められその犠牲になったような印象を受けた。 日本でも保険会社が自分の利益のために顧客に被害を与えていたことが今日報じられていた。
この癌研で胃を八割切除する手術を受けたのがその5月の末、それからほぼ3週間入院し、家に戻ってきてからは定期的にCTスキャンを受けていて手術後半年は日本に行くような旅行はできないと言われていた。 7月の終わりに母と姑の葬儀をオランダ・日本で同日同時刻に行うようにもなり、こちらの姑が安楽死で逝く際には別れを言えたけれど実母の死に目には会えなかった。 実際家族の誰も死に目に会えておらず、たとえその場にいたとしても意思の交歓はできなかったはずだ。 こういうことを書くのは自分の死が具体的に迫っていることを今日確認したからで、それぞれの死に際のことが念頭に浮かんできたからだ。
手術後1年半は再発の兆候もなく、気力も体力も充実していたけれど去年の10月の末から11月にかけて2週間帰省した時に4回胃に異変を感じていて、オランダに戻ってから検査すると癌が戻っていて回復の見込みがないことを再度宣告された。 実際、初めに癌が見つかった時には全治することはないとは言われていたけれどこの時には再手術はできない、抗癌剤での延命治療でしかもう方策はないと言われ、そのための治療は毎度アムステルダムまで出かける必要もなく、地元のライデン大学病院で行われることになり、自分の身柄はライデンに転送されることになった。 その後、抗癌剤治療を今年の1月9日から6期18週間、5月10日まで行ってそれからの様子を見る事にした。 そして12日から5月の26日まで2週間バルチック海2週間のクルーズに出かけている。 その当時自分の寿命は多分年を越せるかどうか、というところだろうと踏んでいた。 けれど6月20日の胃カメラの画像では放射線治療は無理でほぼ万事休すの宣告が下され、無理をして抗癌剤治療をつづけるか、それをしないでこのまま「生活の質」を保つように終末まで努力するかの選択を求められていた。 だからその時に国立癌研に今までのデータを送ってセカンドオピニオンを尋ねるオプションを選び、癌研の判断を今日訊きに行ったと言うわけだ。
大学病院で診断され今日行く前から初めから万事窮すというのは分かっていたのだが、食道と胃の不都合、吐き気、むかつきを和らげる方策が少しでもないかどうかそれも訊きたかったわけで、手術時の担当医に久しぶりに顔を合わせてそれを訊ねるのが主眼だった。 予想通り癌専門医・外科医・放射線専門医たちの所見は大学病院のものと同じだった。 ただデータを精査した中で腹膜から腸を覆う膜に腫瘍の発達が見られ、食道・胃での進行具合と併せてこれからこれらが徐々に体調の不都合となって現れるのがほぼ確実だと知らされた。 食事が通らない、それに伴って体重が激減し、体力が下降し、腸の症状から排便が不規則になり便通の為の薬が必要になり、それが続き激しい痛みに襲われることが考えられ、急に腸の活動が遮断されればショック状態に陥り予期せぬ時に倒れ、時として半日で絶命することもあるとも説明された。 それが何時か、そうなるかどうかは確かではない、けれど、余命は今から4か月ぐらいかとの質問には、はっきりとは言えないがそれは楽観的な予測で、その2か月前から急変することも考えられるとのことであるから、あと2か月は何とか今の状態から徐々に下降に入り、9月からはいつ急変するか予断を許さない状態に入るものと理解した。
尚、医師から、安楽死について家庭医と話しあいをしているかとの質問があり、それにはもう既に準備段階に入っていると応えた。 家庭医には癌研の所見とこれからの予想をレポートしておくので如何様にも変化する可能性があるのでそれに対応するのに癌研からの助言が必要ならそれを行うとの言を得た。
癌研担当医である女性との別れに際して、謝意を告げ、ここで オランダで普通別れの際に言う Tot Ziens(ではまた) ではなく Vaarwel (さようなら)を初めて使った。 この思い出深い建物に来ることはもうない。