暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

モルヒネポンプ導入

2019年09月18日 03時48分24秒 | 健康

 

2019年 9月19日 (木) まだ生きている。

3日前モルヒネを絶えず体内に注入するポータブルなポンプ器が来た。 その前日、右側下腹部、盲腸のすこし上あたりの筋肉が猛烈に痛み、救急医療隊に来てもらった。 そのときは手持ちのモルヒネの座薬と通常の痛み止めでなんとかやり過ごしたが何時間か経って手を下腹部に添えるとまだ痛みが感じられ、そのとき家庭医の判断で絶えず体内にモルヒネを注入でき自分でその量を統制できるポンプにしようと決めた。 それ以来それまでの6時間ごとのモルヒネ座薬、3日ごとのモルヒネ張り薬、6時間ごとの痛み止め錠剤を徐々に撤退させてこのモルヒネポンプに統一することになり、今はもうそれぞれの服用時間に縛られることもなく一応の安定は保っている。 これからはモルヒネの量が徐々にあがっていくことが考えられるがそれに伴って意識が朦朧となることも屡々となるだろう。 痛みは消えるわけではなく逆に強くなるのだがそれ以上に痛みを抑える麻薬効果で脳に痛みを感じさせないようにするのだそうだ。 いまのところ注入量は最小値あたりなのだが手で触れれば明らかに痛み、咳をすれば痛むのだから明日医者が来れば増量を頼むことになる。 

いよいよ心積もりをしていかなければならない。 葬儀案内の和文は昨日仕上げた。


戸惑ったこと

2019年09月08日 12時33分01秒 | 健康

 

4週間ほど前に死ぬほどの苦しみを経験した。 けれど死ななかった。 その中でかろうじてなぜそれが起こるのか医者にもだれにも分からないままに自分の判断で多分そうだろうという結論を導き、まともな食事を止めてから今それをなんとか防ぐことができている。 けれどそれがまた起こらないという保証はまったくなく、逆にその可能性がいや増しになっていることも皆には分かっている。 何時間にも亘る耐えられない痛みの波状攻撃の中でその時初めてこれが具体的な安楽死の動機となることを確認した。

その後何日かは安静に過ごしたけれど或る時、風邪かなにかかと思えるような咳が出て痰が絡みそれが徐々に酷くなった。 医者の見立てでは風邪ではないという。 熱もない。 胃や食道に充満する癌腫瘍が増殖して肺を圧迫しているのだろうと言う。 咳薬と食道、胃を滑らかにする薬を処方された。 いつも軽い咳がでて痰が絡む。 だから寝る時も仰向けに平らに寝ることができず傾斜をつけたベッドで眠れるよう努めている。 ここまでのことは既に書いた。

一昨日、金曜の夜、夜中の2時ごろ急に悪寒に襲われた。 ベッドの中で震え、歯をガチガチいわせ耐えた。 熱があるとも思えなかった。 10分ぐらいして耐えきれず家人を呼んで体温を測ると37度だった。 彼女は直ちに医者に電話し対処法を問い、先ずは痛み止めのパラセタモールを2錠服用すること、30分後に効果がなければ再度電話するよう指示を受けてそのようにした。 結局30分後に震えは止まりその後徐々に体温が上がり3時間後には39℃近くまで昇ったけれど少し下がり38℃をすこし越したところで安定した。 朦朧としたまま翌朝、午後を過ごした。 これについいての説明の一つが医師である娘からされた。 癌の末期、様々な症状が起こりうる。 患者の体力が衰え、それに付け込んで体細胞が様々な菌や癌細胞に侵される時に起こる生理、化学作用の表れが例えばそのようなものとなって発現するのだと。 分かったような分からないような説明だがこの悪寒もその起こりうる可能性の一つであったのだろうということだ。 一難去ってまた一難、どこで何が出て来るか分からない。 

歯を食いしばって震えに耐えていた時、まだ死ねない、ここで死んではならない、と思った。 予定ではまだ少なくとも一週間は有るはずだ、と勝手に予定していたのをその理由にしていた。 人々との別れは大事な人たちを除いてほぼ終わっている。 家族のことで憂いはない。 ただスケジュール通りに運ぶということに拘っている。 今回戸惑ったことはこの間の痛みの時とは違って、この震え、悪寒が酷くなればそのまま奈落の底に持っていかれるのではないかと危惧したことだ。 痛みであればそれから逃れるためには死しかないとその刹那考えていた。 

自分に死をもたらすものは癌ではあるけれど直接的には痛みであったり単に咳き込む痰詰まりであったり悪寒によるショックであったりするわけで、そういう意味では様々な死亡通知の中で、例えば今日のニュースであったように82になる作家が急性肺炎で亡くなったというのも元には他の大きな病気の最終段階としての直接の死因だったのかもしれないということだ。 現に4か月前に癌専門医が自分の起こりえる可能性の例として示したのは腸閉塞だった。 今のところこれについてはずっとその対策をとっているので全く問題なく自分の腸の調子は万全だ。 けれどあちこちに伏兵が潜んでいる。 まだ訳の分からない敵があちこちで自分を待ち構えていて捕まえようとしているのだし自分はそのうちそれに捕まることも承知しているのだがまだもう少し捕まるわけにはいかない。

 


痛みがなく安定しているのだが、、、

2019年09月05日 23時49分45秒 | 健康

 

2019年 9月 5日 (木) 

このところ比較的楽に過ごしている。 楽と言うには言い過ぎだろうと思うけれど3週間前の悪夢のような痛みは現在モルヒネや何種類かの痛み止めで抑えられており、その点では痛みのない日々ということでは「楽」なのかもしれない。 それもあくまでそれまでの痛みとの比較の問題であって何も問題がないということではない。 その後風邪かそれとも癌が肺を圧迫してかは定かではないものの咳がでて痰が絡む。 それで咳止めや痰を和らげる薬を処方されて服用しているものの咳が気管の奥まで下がっていくような気にもなり、それがいまのところ憂慮の種になっている。 医者は肺の炎症ではないと判断しているし実際熱もないからその通りなのだろう。 呼吸の不便さについて女医は自分には分からない説明をした。 胃や食道の癌腫瘍が膨らんできて肺を圧迫して妊娠後期の婦人が経験するような呼吸の苦しさに似ているのだろうと。 自分は妊娠したことがないからその例えが分からないと笑ったのだがそんなものなのだろうか。 

現在のところ夜中にも咳き込み、体の角度を変えたりうつむいたりすると吐き気や呼吸の難しさを感じ、それを和らげるには二つの方法が考えられるだろう、と家庭医は言う。 その1 酸素ボンベで酸素を肺に送り込むこと。 その2 モルヒネの分量を多くして呼吸の苦しさを和らげること。 酸素ボンベを使っても肺が酸素を取り込んで楽になるかどうかは分からない、 モルヒネの量を上げていくにも限度がある。 以上から今のところ緊急の必要性が見られないので様子を見ながら時を待つ、というのが現在のところの暫定的な結論だ。 小康状態のように見えるけれど癌腫瘍の成長は確実に感じられる。 胃の辺りがかなり硬化しているようにも感じられ急にうつむいたり階段の上り下りに吐き気に似た嫌な気持ちになる。 足腰が弱り、階段の、ことに下から上へ15段を登ったあとでは3分ほどは息を整えるために横にならなければならない。

咳こむ問題が起こってからベッドに平らに横になれない。 胃液のような苦いものが寝ている間に込み上げてきて吐くような行動を起こし痙攣、咳が起こるからだ。 ベッドの上体側を起こし背にクッションを置き斜めにして寝るようになるのだがちゃんと眠ることが出来ず、それにしてもクッションを厚くしすぎれば下顎で胸を圧迫する形になり息が苦しくなるので顎を上げて気管を拡げるようにしなければ楽ではない。 咳止めと痰を和らげる薬を服用しているのだがその効果は完全なものではないようだ。

2,3日ごとに体調が変化しているのを感じている。 体力が落ちていることは確かなのだが癌の進行、特に腫瘍の成長を体感する。 自分の体を機関車に例えると癌を増殖しながら突き進むこの機関車は破滅・脱線への道をまっしぐらに向かっている。 そしてその乗客はいつ、どのように終わりが来るのか分かっていない。 ただそれが1か月先ではないこと、もっと身近にまで迫っていることだけは知っている。 機関車にはこの暴走にに耐えられる力がもうないことがわかっているからだ。


日に日に悪化する痛みのパターンのあと、、、、、

2019年08月20日 19時23分55秒 | 健康

 

2019年 8月 15日 (木)

前夜なんとか痛みをやり過ごし、午後家庭医の訪問を受けた。 痛み止めとしてモルヒネの経口剤か座薬を処方することを話し合った結果、今までのパターンでは必ず吐き気の痙攣が伴うから飲み込むものより座薬がいいだろうとそれが処方され、午後家人が近所の薬局に行って受け取って来た。 

夕食後2時間ほどして9時を周って猛烈な痛みが下腹と腰にやって来たがそれは今までのパターンと同じだった。 そこで先ずディクロフィナックの座薬を挿れて20分ほど待つと痛みが幾分か引いた。 腹が張るのでトイレに行って戻ると吐き気が来た。 これもいつものパターンで背中を曲げて嘔吐の格好をしているとその時だけは腰痛が引くようだった。 これで収まるかと待っていると第二波が来た。 堪らずベッドの上を転げまわったけれどどうすることもできない。 ディクロフェナックの座薬がまだ入っているのでもう一度挿入するわけには行かずパラセタモール錠剤を服用した。 苦しみの中で薬の作用かどうかははっきりしないものの今までのパターンから感じていた或る現象を知覚していた。 

それはどんな格好で寝転んでも座っても痛む最中の或る時、或る格好で坐っていると左の下腹部、大腸のあたりがグルグルと音を立て腸の動きが感じられ、あるときに一度に急に痛みが引くことだ。 医者の説明では、食道・胃の殆どの部分が閉塞していて大腸の外部、腹膜に拡散・増殖している腫瘍が腸の部分か腰骨に関わる神経に接触し、それが痛みの原因になっていて、それがあるとき腸の動きか何かに依ってその接触が解け、離れた時に痛みが消えるのではないか、つまり、痛みは食物の塊がその辺りに来た時に神経を刺激するからかもしれない、ということだった。 つまり、腸にガスが溜まって他の部位を圧迫すると痛みが来るように下腹部の激しい痛みはそのようなメカニズムにも依って起こるのかもしれないということだ。 しかしはっきりとしたことは解らない。

このような痛みはほぼ30分に一度何波も戻ってきて結局9時から1時半まで続いた。 その間に処方されたモルヒネの座薬を挿入したがかなりの痛みは消えたものの腰骨の痛みは完全に消えることはなかった。 そんな痛みの経験と酷い疲れの中で寝入っていた。

 

2019年 8月 16日 (金)

昼前に家庭医の訪問を受けた。 前夜の経験から常時痛み対策をとることが検討され、8時間ごとにディクロフェナック座薬、6時間ごとにパラセタモール錠剤、3日ごとにモルヒネ貼付薬を繰り返すこと、そしてそれでも痛みが来れば取敢えずはモルヒネ座薬を入れる事となり、以来それを続けている。 今日(20日)に至るまで痛みは発症していない。 尚、食物が痛みの原因になるのだから朝食は別として昼食、夕食は取りやめ、スープなどの流動食にした。 もう普通の食事をすることはない。

 


モルヒネが待てないから代用薬、ジクロフェナクの座薬をつかった

2019年08月14日 23時21分37秒 | 健康

 

2019年 8月 14日 (水)

耐えられない痛みを経験した何日かだった。 痛みの中で七転八倒しつつ待ちに待った後にやっとのこと訪問医師からモルヒネを投与されなんとか収まったのだった。 そして痛みが周期化するのならと予防の鎮痛剤の処方を得てそれを服用してなんとかしのいでいた。 そのことを昨日記した。 そのとき自分の寿命があと3週間ほどだろうと予感したことも記した。 この2週間ほどの自分の体調・体力を鑑みるとこの痛みの経験と併せて理のあることだろうと思っていた。

痛みのコントロールはなんとか無難に行っていると思っていた。 それが今日午後4時、次の鎮痛剤服用まで2時間を余してまた痛みが急激に来た。 そのパターンは1回目、2回目と全く同じだったがそれは夜の10時ではなく午後の4時。 鎮痛剤はまったく効いていない。 耐えられなくなって家人を呼び、医者に電話してくれと叫ぶと、この時のために座薬を処方されているからと言われ、そうだったとそのことを思い出した。 鎮痛剤は8時間ごとに飲んで痛んだ時のために予め飲んでおくための物、もしそれで効き目がなく激痛が来たときにはそのときに医師を呼びモルヒネを投与されるまでには40分以上かかるためそんなときのためにジクロフェナク座薬を常備しておくことを処方されていたのだった。 

ジクロフェナクは昔痛風の時に経口錠剤として処方されたけれど下痢の副作用に悩まされた経験がある。 その後痛風の痛みには奇跡的な薬としてバイアグラに似た色・形のアルコキシアが取って代わり今に至り重宝している。 このような体験があるからここでジクロフェナクと聞いてちょっと二の足を踏んだ。 服用するのはいいけれど紙オシメをする毎日になるのかという気がして鬱陶しかった。 けれど、自分の食道、胃、腸が殆ど閉塞している現在、経口錠剤よりは座薬の方が下痢の心配も少なく効く速度も速いだろうから、という考慮からの処方だった。 ウィキ゚ペディアには「ジクロフェナクは癌による慢性痛や炎症の抑制にも用いられる」とも記されている。

猛烈な痛みの中で座薬を肛門に押し入れた。 10分ほどすると吐き気と腹痛が収まった。 けれど前の経験と同じく腰痛はなかなか消えなかった。 念のためにベッドにシーツを敷いて急な下痢に備えたがそんな兆候はこなかった。 30分ほどしてほぼ平静に戻った時息子と娘が我が家を訪れた。 もう平静にもどってベッドに横たわっていた自分は彼らに、もう半時間早く来ていれば面白いショーが見られたのに、と言うとそんなショーは見たくもない、と嫌そうにいうので、それも予行演習なのだ、まだこれから何回もある、そのうちこれで打ち止め、というときがくるかもしれない、あと3週間だな、と言っておいた。 自分はそれを信じているか信じていないか分からないが取敢えずの3週間なのだ。



モルヒネを打った

2019年08月11日 18時33分41秒 | 健康

 

2019年 8月 10日 (土)

食が段々細っているけれどなんとか夕食をこなし、二時間ほどして胃から腸にガスが溜まりその圧を抜くのに苦労したけれどなんとか楽になったと思ったら下腹部が痛みだした。 ガスが溜まったり便が留まっていたりするとそんな痛みが走るのだが先ほど腹をへこましたところなので妙だと思っていたら痛みが激しくなった。 家人に医者に電話するように言っていると吐き気がして込み上げてくるものがある。 洗面台のところに行って吐こうとするけれどこの2年ほどの経験からこういう時には何も出てこないのを知っている。 ただ吐こうとする痙攣気味の力が入るだけだ。 何度も背を曲げて力を入れるものだからあるときに背骨を傷めたのかぎっくり腰になったような痛みも走った。 ベッドに横になって医者を待った。 吐き気の痙攣、下腹の痛み、それにも増して腰骨の痛みが耐えがたかった。 仰向きになり、横になり、背を曲げてみたりしても痛みは増すばかりだった。 結局医者が看護師を連れて来たのは11時前で、痛みだしてから電話するまで20分、それから40分待って彼らが到着したのだった。

救急医師団は医師の夜間宅急便である。 近隣の地区を医師の開業時間外に担当し、彼らは電話があってから到着するまでにコンピューターの患者のファイルには一通り目を通しており、その家に到着するとすぐ手当にかかることになっている。 自分が終末医療患者であること、癌研、大学病院の担当医師の名前やその2日前に家庭医と安楽死についての3回目のセッションを行ったことを確認している。 実際目の前で患者が七転八倒の苦しみをしているのを見てその緊急性を疑うこともなく、モルヒネを打ってもいいかと訊ねられた。 そのとき自分はいよいよだなという自覚を迫られたような気がした。 

耐えがたい痛みの中でモルヒネと言う言葉は、いよいよだな、ということと、もう一つは自分の唯一のモルヒネ経験のことを想い出させるものだった。 それは2年前の手術の後、痛み止めとしてモルヒネが処方されそのときの天にも昇る様な気持ちよさを忘れられなかったからだ。 そのときモルヒネ投与の前には耐えがたい痛みの中でそれが打たれたという記憶はない。 だから甘美な記憶だけが浮き上がり、ぜひ頼むと願ったのだったが今回その期待は叶えられなかった。 医者は5分から10分で効き始めると言い残して去ったけれど、実際は2時間ほどしてからやっと腹痛は消えたものの腰痛は依然残り、曖昧な痛みの中で居眠ってしまっていたようだ。

 

2019年 8月 11日 (日)

目覚めると痛みは全て消えていた。 通常ある胃の重い感覚もなくなっており、この2か月ほどなかったほどのスッキリ感がもどっていた。 子供たちが家人から自分の様子を訊いていたので慌てて集まった。 当然、これが終わりの始まりであることをみな承知している。 モルヒネで一応の平静が戻ったので安心してそれぞれ家に戻った。

夕食後昨日と同じパターンとなった。 家人が救急医師団に電話している時それまでなかった吐き気とその後腰痛が戻ってきて昨晩と全く同じパターンになった。 今回は女医と女性看護師のコンビで、医師たちが到着するまで50分は痛みに耐えていただろうか。 昨日と同じくモルヒネを投与された。  午前3時を周っても腰痛は消えなかった。 そのうちうとうととして眠りに落ちた。

 

2019年 8月 12日 (月)

目覚めると痛みは消えていたけれど二日連続で同じパターンの痛みに襲われたので今晩も同じパターンになるものと見做し、そのための薬の処方、アドヴァイスを家庭医に求めるべく昼間に回診に来てくれるよう電話した。 自分の家庭医の二人の女医は今ヴァカンスで留守だからクリニックの最年長の男性医師が若い見習い医師を連れて我が家を訪れた。 ラップトップでこの二日ほどの経過を辿り触診の後大学病院の担当癌専門医に連絡し何が最善の策か助言を求め後刻連絡すると言い置き家を去った。 後刻この医師から連絡があり通常の鎮痛薬パラセタモールを処方された。 6時間に500mgを2錠服用することになり午後4時からそれを始めた。

 

2019年 8月 13日 (火)

パラセタモールが効いて痛みは戻ってこない。 けれど副作用として怠さがまとわりついてベッドに横になっていたい。 この何日かの様子と食欲の減退からもう先は長くないと自覚した。 それまでは10月10日ごろが命の尽きる目安だと思っていたけれどこのままでは3週間ももたないような気がする。 痛みが来なくともじきに食道が閉ざされ胃が機能せず、腸の周りの腹膜に癌巣が広がり胃腸の機能停止は目前だ。 その時衰弱して息絶えるのか自分でそれを決定して終わらせるのかどうなるのかはまだ分からない。


死ぬ準備と死んでからのための準備

2019年08月06日 18時22分47秒 | 健康

 

2019年 8月 6日 (火)

 

今日は忙しい一日だった。

12時から1時間半家庭医の訪問を受けた。 彼女は先ず、この4週間ほどの自覚症状を問診し、ライデン大学病院とオランダ癌研から受け取った報告によってこれから始まる終末医療に向けての準備の概要を説明した。 それには嚥下が更に難しくなる食餌の内容をどのようにするか栄養士との連携を密にすること、終末をどこで迎えるか、それには数々の要因が考慮されなくてはならないもののそれも結局予測のつかない終末の症状によることで、基本は自宅で安楽に終末を迎えられればいいのだがそれはあくまで希望であって必ずしもそうなるとは限らず、どのような介護の可能性があるのか、どれくらい迅速にその介護がうけられるのか、自宅で終末を迎えるといっても不測の場合が起これば自宅では看護が難しい場合も起こり得てその場合は病院ではなく近所のホスピスで終末を迎えると言う可能性も浮かび上がり、それらに関しては家族とそれぞれの機関、及び家庭医の連絡を密にする必要があること、自分に関わる女医二人の家庭医は三週間のヴァカンスでクリニックを留守にするけれど電話連絡はいかなる場合でもつき、すぐさま代替えの医者が直接接触を図ること、などが連絡された。 それに加えて自分の安楽死希望の申請が受理、登録されていることが確認された。 それに家庭医が休暇からクリニックに戻ってきてから更に我が家を訪問をすることになっている。 これが当分の「死ぬ準備」についての打ち合わせだった。

午後3時から葬儀コーディネーターというかアドヴァイザーが1時間半ほど家に来て3回目の話し合いをもった。 これが「死んでからの為の準備」である。 葬儀はあくまで本人家族の意思、希望によるものでそれに必要なことは葬儀会場と葬儀以後の歓談会場をどこにするか、それと人数がどのくらいになるか、というのが大まかな重要事項になる。 本人、家人、息子、娘のリストを併せて約150名の葬儀案内の為の名簿が出来た。 そのテキスト、意匠は追々決めることとして葬儀・歓談会場についてはまだ決められない。 それには葬儀の式次第、火葬場をどこにするかを先ず決めねばならないからだ。 オランダには火葬の際日本のように骨上げの儀式がない。 火葬場の職員が骨を大雑把に選り分けて掻きあつめ機械で粉砕し灰にして骨壺に納めるだけで家族はその場におらず、法律の規定によりそこに30日間保管されなければならず、その期間が済んでから家族に骨ではなく「遺灰」が手渡されるというのが普通である、とのことだ。  

自分には脊椎の一部、あごの骨、頭骨の鉢になった部分を一つに、それから喉の骨を分骨して、喉の骨を来年大阪四天王寺に納骨、その他の骨を家族が日本を旅行する折り、四国や熊野古道の適当な場所で散骨されることを希望している。 コーディネーターは今までにそのような経験も知識もないのでオランダの慣例のように骨をすりつぶさず自分の希望通りにその部分だけを拾い上げ骨壺に収納できるかどうかを幾つかの火葬場の職員に問い合わせることを約束し、それができる火葬場に棺が送られることになるだろうと説明された。 葬儀会場はまだ決まっていないけれど式次第は一応の形式があるので、式までの待機場所、会場に入る際の10分ほどの間に流す音楽、スピーチが3人ほど、その後、別室で歓談、そのときに会場の何か所かにしつらえられたスクリーンに流される映像などその内容、細部についてはこれから漸次決めていくということになる。 式、その後の歓談を含めて約1時間半ほどが予定されている。 棺、霊柩車はすでに選んである。 尚、遺体の状態が良好の場合は式の前に希望者に遺体と対面する機会が与えられる。 式の最後にオランダでは例のない焼香を希望しているがこれが消防法に抵触する危惧もあり、それも幾つかある葬場の候補地に問い合わせることとなる。 家族はできるだけ本人の希望、つまりオランダでは異例の方式をも織り込んだ葬儀ができるかどうかを探っている。 これらが死んでからのための準備の概要である。

今日以上のことがらを3時間に亘って話した。 実際には家人と娘がそれぞれ家庭医、葬儀コーディネーターと相談する場に陪席して問われる場合に応えていたのだがかなり疲れるものだった。 本来このような機会には本人は陪席せず、重篤であるかすでに亡くなっているのが普通なのだが「健常」な本人にはほぼ「どうでもいい」と思えるようなものでもあるけれど生きているから仕方なく付き合っていると言うようなものだ。 このようにして死んでいくというのも面倒なものだ。

近所を散歩していて曇り空の下、壁に蔦のようにからまって繁殖しているパッションフルーツの茂みがあった。 毎年同じように幾つも花を咲かせている場所である。 実はならないようだ。  実がなるものの和名はクダモノトケイソウ(果物時計草)というそうだからここのものは単なるトケイソウ(時計草)なのだろう。 曇り空の下でもひときわ目を引く花である。

 

 


徐々に体力が落ちているように感じる

2019年08月03日 21時41分43秒 | 健康

 

この間まで寿命は後3か月と言っていたものがそれからもう半月ほど過ぎたので今は2か月半と訂正しなければならないようだ。 それに伴って体調も徐々に変わってきているのを感じている。 

ものが喰えないのは今に始まったことではないのだがその量が減り、少量を噛み、飲み込むまでの時間が伸びて、そうなると元々の食事は美味かったものが長々と咀嚼するものだから味気がなくなってしまい食事の愉しみはそれに伴って消えた。 食道の閉塞が更に進んでいるのだろう。 それに胃から腸にかけての癌の増殖具合を感じる。 それは胃から下腹にかけて腹筋の過労痛のようなものが感じられて、例えば朝ベッドから普通に起きることが出来ないのだ。 脚を振り子のようにして勢いをつけて起き上がるか横になり肘をついて起き上がるかしなければそのままでは起き上がれない。 

大腸の働きが癌の増殖によって阻害され、大腸の蠕動が徐々に固まって行き、挙句が腸の内容物が流れない状態になるというのでこの間から軽い便通を促すものを飲んでいる。 けれどもともと食物の量が少ないので便自体が少なく毎日は便通がない。 これについて医者から逐次便通の記録をつけておき、異常がないように留意することと言われている。 末期には腸閉塞の可能性もあるということだ。 つまり自分は糞詰まりで死ぬ可能性もあるということで、そのときには苦しみが伴うことを覚悟しておかねばならず、既に登録されている安楽死のカテゴリーには入るものの安楽死のプロセスに入るとしても5日ほど時間がかかるからそれでは腸閉塞の緊急性には間に合わない。 だからそのときにはそれに準じた措置が取られることになるだろう。 これが一つの例で、実際に2か月後ごろから始まる現象をどのように予測するかは容易ではないようだ。 だから医者である娘が準備した様々な場合を想定したそのときの措置についてこれからも検討していかなければならないことになる。 

毎日8時半ごろに起床しキッチンに降りて行き、トースト一枚を3つほどに分けジャムや蜂蜜にローストビーフをミルクティ―で喰う。 それに50分ほどをかけ、済むと軽い疲れを覚える。 ベッドに戻り横になるとそのまま1時間ほど居眠ってしまうことがあり、このようなことは現象は違うとしても手術後の体力のほぼ無いころのようだ。 どこかに行く予定や来客があれば無理なくそのまま接客できるものが何の予定もなければ横になりたいような気分にもなる。 これが体力が落ちてきているということだろう。 歩いたり動いたり人と接したりする分には他人から見れば健康体に見えるかもしれないのだが体力のバッテリーが枯渇しやすいようだ。 横になり居眠りをするとバッテリーが充電されるのだろう。 一日で何時間でも居眠りが出来るような気がする。 病気もなく老衰して眠るように逝くというのはこれの延長かもしれない。

玄関脇の陽の当たりにくいところに貧弱な薔薇の木があるのだがこのごろの雨でこんもり咲いた。 何年も貧弱だったものが家人が去年肥料を施した。 そうすると精気がもどったのか貧弱さが消えてきて薄暗い所に赤が映えた。

 


家庭医のところに安楽死の為の申請書を持って行った

2019年07月24日 12時31分01秒 | 健康

 

自分の葬儀のためのアドヴァイザーとも多分3か月ほど先になる自分の葬儀のことを協議しはじめ、自分でまとめ上げた安楽死の確認書をもって家人、娘と一緒に家庭医のところに行った。 家庭医には既に国立癌研、ライデン大学病院から今までの検査結果と診断書類、これからの予測とその処置について連絡が行っていた。 

2年前の癌研での手術の前に手術中、術後に不測の事態が起こり人事不詳に陥った場合に蘇生措置をとらないという確約書を作っているのでそれが引き継がれること、安楽死の確認書の書類を読み合わせたところでは法律上の問題も実質的な問題もなさそうなのでこれを医師の委員会に送って諮られ登録されること、などが詳しく説明された。

自分の場合、治療不可能、回復の可能性ゼロであることと意識が明晰であること、これらから安楽死の認定には問題がないこと、例えば本人が希望してそれが複数の医師が余命約2週間と見た時、若しくは2週間前であっても絶えられない苦痛や急な不都合が起こった場合には手続きの5日間を経た後本人の希望、その時の事情に応じた措置で実行できること、もし何らかの事態が起こり本人の意識がなく危篤状態に落ちったときには蘇生措置の不要と言う念書と容態から安楽死の範疇は離れても苦痛なく永眠できるプロセスが可能性として幾つもあること、それらのことが説明された。

以上は予めほぼ分かっていたことではあるけれどここでは一つづつプロセスを踏んだ正式の話し合いであり、これも記録され本人の意思、確認がもとめられ、自分の作った書類にサインしてミーテイングを終えた。 次は医師会の許諾を伝え、さらなる技術的なこと、症状の可能性などについて来週家庭医が我が家を訪れて説明されることになっている。

夏日となり気温が上がり陽射しが強くなってきた通りの陰に芙蓉の花が大きく咲いて、夏が本格的になってきたことを告げている。


アムステルダムの国立癌研(AVL)に行った; これがここに来る最後になる

2019年07月10日 21時06分56秒 | 健康

 

ライデン大学病院から自分のデータが先週オランダ国立癌研(AVL)に送られ、ここで検討されるはずになっていたその結果であるセカンドオピニオンを訊きにアムステルダムに家人、息子と出かけた。

思い起こせば自分の胃癌が発見され、そのときには末期と診断されたのが2年前の1月、大学病院では手の施しようもなくそのままでは大体4か月の命、実験材料になる気があるのならと紹介されこの国立癌研に初めて来たのがその2月の22日でその時のことを「アムステルダムの癌研に行った」と題して下のようにこまごまと記している。 

https://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/65533331.html

余談ではあるがそのときに載せた写真に写っているロビーから向かいに見えるアムステルダム・スロートファート病院は去年突然倒産の憂き目に会い、アムステルダム市の力及ばず今は売れる当てもなくほとんど廃墟となっているのをニュースで見ていたものを今日確認した。 何か月か前のテレビのドキュメンタリーからの印象では保険会社に嵌められその犠牲になったような印象を受けた。 日本でも保険会社が自分の利益のために顧客に被害を与えていたことが今日報じられていた。

この癌研で胃を八割切除する手術を受けたのがその5月の末、それからほぼ3週間入院し、家に戻ってきてからは定期的にCTスキャンを受けていて手術後半年は日本に行くような旅行はできないと言われていた。 7月の終わりに母と姑の葬儀をオランダ・日本で同日同時刻に行うようにもなり、こちらの姑が安楽死で逝く際には別れを言えたけれど実母の死に目には会えなかった。 実際家族の誰も死に目に会えておらず、たとえその場にいたとしても意思の交歓はできなかったはずだ。 こういうことを書くのは自分の死が具体的に迫っていることを今日確認したからで、それぞれの死に際のことが念頭に浮かんできたからだ。

手術後1年半は再発の兆候もなく、気力も体力も充実していたけれど去年の10月の末から11月にかけて2週間帰省した時に4回胃に異変を感じていて、オランダに戻ってから検査すると癌が戻っていて回復の見込みがないことを再度宣告された。 実際、初めに癌が見つかった時には全治することはないとは言われていたけれどこの時には再手術はできない、抗癌剤での延命治療でしかもう方策はないと言われ、そのための治療は毎度アムステルダムまで出かける必要もなく、地元のライデン大学病院で行われることになり、自分の身柄はライデンに転送されることになった。 その後、抗癌剤治療を今年の1月9日から6期18週間、5月10日まで行ってそれからの様子を見る事にした。 そして12日から5月の26日まで2週間バルチック海2週間のクルーズに出かけている。 その当時自分の寿命は多分年を越せるかどうか、というところだろうと踏んでいた。 けれど6月20日の胃カメラの画像では放射線治療は無理でほぼ万事休すの宣告が下され、無理をして抗癌剤治療をつづけるか、それをしないでこのまま「生活の質」を保つように終末まで努力するかの選択を求められていた。 だからその時に国立癌研に今までのデータを送ってセカンドオピニオンを尋ねるオプションを選び、癌研の判断を今日訊きに行ったと言うわけだ。

大学病院で診断され今日行く前から初めから万事窮すというのは分かっていたのだが、食道と胃の不都合、吐き気、むかつきを和らげる方策が少しでもないかどうかそれも訊きたかったわけで、手術時の担当医に久しぶりに顔を合わせてそれを訊ねるのが主眼だった。 予想通り癌専門医・外科医・放射線専門医たちの所見は大学病院のものと同じだった。 ただデータを精査した中で腹膜から腸を覆う膜に腫瘍の発達が見られ、食道・胃での進行具合と併せてこれからこれらが徐々に体調の不都合となって現れるのがほぼ確実だと知らされた。 食事が通らない、それに伴って体重が激減し、体力が下降し、腸の症状から排便が不規則になり便通の為の薬が必要になり、それが続き激しい痛みに襲われることが考えられ、急に腸の活動が遮断されればショック状態に陥り予期せぬ時に倒れ、時として半日で絶命することもあるとも説明された。 それが何時か、そうなるかどうかは確かではない、けれど、余命は今から4か月ぐらいかとの質問には、はっきりとは言えないがそれは楽観的な予測で、その2か月前から急変することも考えられるとのことであるから、あと2か月は何とか今の状態から徐々に下降に入り、9月からはいつ急変するか予断を許さない状態に入るものと理解した。 

尚、医師から、安楽死について家庭医と話しあいをしているかとの質問があり、それにはもう既に準備段階に入っていると応えた。 家庭医には癌研の所見とこれからの予想をレポートしておくので如何様にも変化する可能性があるのでそれに対応するのに癌研からの助言が必要ならそれを行うとの言を得た。 

癌研担当医である女性との別れに際して、謝意を告げ、ここで オランダで普通別れの際に言う Tot Ziens(ではまた) ではなく Vaarwel (さようなら)を初めて使った。 この思い出深い建物に来ることはもうない。