暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

突然の日本帰省

2016年08月25日 01時19分00秒 | 日常

 

2016年 8月 25日 (水)

昨日に続いて今日オランダではほぼ熱帯日だといい、各地で日中30℃を越すところが沢山あった。 明日は今日以上の暑さとなり自分のいる町の辺りには33℃ほどになるだろうと言われている。 日曜の朝涼しいアイルランドから飛行機でスキポール空港までの時間は1時間半だったものが急遽日本に帰省しなければならないことになった。 老母の具合がよくない。 明日の朝日本に向けて発つ。

今のところ 9月の6日に戻って来る予定なのだが場合によっては遅くなるかもしれない。 


’16夏 アイルランドを歩く(3)徒歩第1日目 その2 山を越え池のほとりで昼食

2016年08月24日 00時38分48秒 | 日常

 

歩き始めたときには晴れてはいなかったけれど雨も降ってはいなかった。 けれど1年で7月8月が一番降水量が多いらしく、それは何年か前に歩いたイングランドとスコットランドの境目にある湖水地方でも普通に晴れ間が殆どなく湿りけの多い中を歩いたのと同じで今回、晴れ間は全く期待していなかった。 登り始めて草の斜面を歩いていて地面が水気を含んでいて柔らかいのは雨のせいだと思っていた。 けれど登るにつれて霧か雲の中を歩くと一気に湿度が上がりそれがこれだと分かった。 山の背を越したのだろう、岩場を下がってくると池が見えた。 先ほどの背から高度で50mほど下がるともう見晴らしがいい。

池の傍に来て海からの風を避けるのと湿った草に坐るのがいやだったから石のある水辺に腰かけて昼食を摂った。 昼食を摂っていると我々がこれから行く方向から6人ばかりの若い娘たちと中年男一人のグループが降りて来て道を外れ我々の後ろの草の中を過ぎて我々が今下りて来た道を登って行った。 若い女の一人がサンダル履きで足が濡れて汚れていた。 誰もが登山靴を履いているのに何と無謀なものかと呆れたけれど精々400mにもならない山であるので生命の危険はないものの濡れた草や石、岩の上をあるくのだから草葉の端や石、岩の角で多少の血を流すのは目に見えている。 

そこからは海が見えて今日歩き始めたグレンガリフから直線で10kmほどのアドリゴルが奥にあるここからは細長く見える入り江がすぐ下に、その遙か向うに翌日の目的地キャッスルタウン・ベアの向かいにあるベアラ島が見える。 このときには気づかなかったし知ることもなかったけれどこの全長10kmほどの島の西3つほどの峰が右に見える。 ここからは見えないが右端には火を焚いたか狼煙を上げた石の塔の残骸、次のてっぺんには大きな白い十字架、左の峰には軍事施設の塔がそれぞれ立っていてその鞍部には2500年から3000年以上前の3m弱の石が立っている。 ここは海を渡ったフランスのノルマンディーやブルターニュと同じくケルト人が昔住んでいてその遺跡なのだ。 もう30年以上前にそんなフランスの地方を類似の直立する石やストーンサークルを見ながら旅をしたことがあるからここでもあちこちにそんな石の群れがあるのをみて懐かしくも思う。 そして池を越して望む景色に見えるそんな遠い島のことなどまだここでは知る由もなかった。

山を下りきると田舎の道の十字路に出て丘の上方3kmのところにB&B, 下り3kmはアドリゴルだと標識にあった。 アドリゴルの三叉路にペグの店というのがあってそこでお茶ぐらいは飲めるからそこに着いたら電話すると車で迎えに行くからと我々の案内には書かれていた。そこに着けば老婆が一人もう40年以上小さな店を切り盛りしていた。 店の前にある大きなパラソルの下で紅茶を飲んでいると2mもあろうかというでっぷりした30前の男が来てあんたらも今夜は上の交差点の道路標識にあったB&Bかいと訊くのでそうだと応えるとそれではB&Bに迎えにきてくれるように電話しようといって携帯を取り出し我々も着いていることを言って電話を切りペグ婆さんのところに行ってダイエットコーラを掴んできて我々の横に坐った。 暫くしてもうとっくに70は越している老人が車で来て四人とそのリュックを乗せ両方から枝が車を擦るような細い道をくねくね上がって老夫婦のB&Bに着いた。 たとえあの交差点で標識に出ていた方向に歩いてこちらに来ても途中で迷っていたにちがいない。

この辺りにはパブもレストランも何もないからこの夜はこのB&Bで夕食を摂る予定だった。 けれど先日数キロ離れたところにパブが一軒出来て日頃は飲み物とスナックぐらいだけれど日曜はちゃんとしたディナーも出すので婆さんが日曜の骨休みをしたいからといって体よく我々をそのパブまで爺さんに車で送り迎えをさせた。 パブの喰い物には文句はなかったし婆さんの手料理がどんなものか知りたくはあったけれど想像ではパブのものとあまり変わらなかっような気がする。 地元のパブは近所の寄り合い所のようなもので酒を飲みながら喧しい。 それはこのあたりは何もない牛の放牧だけの原野の中にポツンポツンと人家があるだけだからで周りが灯の無い闇のなかでポツンと灯の点ったパブに集い喧しく過ごすのは分からないことではない。 我々は余所者であるから離れたところで飲み喰いしてその間にこの巨漢の男はドレスデンの大学で食品化学を修め政府の食品検査研究所に勤めるドイツ人の青年でもうアイルランドに7回来ていること、アイルランド民謡のマンドリンを習っていること、スポーツはウオーキング以外経験はなく友人は少ないこと、翌日も我々と同じB&Bに泊まること、だから翌日は我々とつかず離れず同じコースを行くことなどが分かり喰い物の話で盛り上がったが彼にしてみれば今更仕事に重なる話しにもウンザリしていたのかもしれない。 

今夜老夫婦の家に泊まってその家の歴史のような家具調度を見て、老人にまたパブまで我々を拾いに来てもらい戻ってくると他の者たちがそれぞれの部屋に落ち着いたあと自分だけ老夫婦とオリンピック中継を見ながら居間で11時を廻ってまでなんやかやと喋った。 ここもオサリバン家だった。 ここが今回の旅行で泊まったB&Bのうちで一番普通の家屋のようでもあり一番倹しい質素なうちだった。 老人はこの村の生まれ、老婆は5kmほどいったところの生まれ、貧しい村だったから若くしてロンドンに出稼ぎに出てそこで知り合い二人で金を貯め子供をつくりこの家にもう30年ほど前に越してきて息子はIBMのエンジニアとなり世界を渡り娘は看護婦となりカナダに移住という現在でも昔からのアイルランドのパターンだ。 自分も1950年代に大阪南部の農家で育っているからこの辺りのこととも話が通じこの半世紀の移り変わりの激しさ、けれどこの辺りの経済的に貧しさには昔から変わりがないことを聞いた。 この後、他の土地でも老人たちからは同じことを聞いたけれど同時に田舎の自然の美しさには経済の活発な土地にはないかけがいのないものがあるとの意見には一致をみた。 だから老人たちは落ち着くのにこの土地に戻って来る。

アイルランドを巡っては自分の好きな白黒映画「静かなる男(1952)」というのがある。 西部劇のスター、ジョン・ウェインと女優モーリン・オハラのコンビで、ここからアメリカに渡った移民の子のウエインがボクサーとなり対戦相手を試合で殴り殺してしまったことからアイルランドにもどりオハラと結婚し、、、、、その家族、周りとのやりとりが面白いものだったと老人にその話をすると老人が自分の知り合いがオハラの弟だ、と言ったので驚いた。 老人も知り合いがオハラの弟だといわれても姓はオハラでもなし、というと若い時に自分の姓、フィッツシモンズで2,3の映画に出たけどぱっとせずオハラに変えてから大女優になったという。 ここからあまり遠くないところに家があり冬はアメリカのアイダホ、夏はここと半分半分に住んでいて去年90の半ばで亡くなったと聞いた。 モーリン・オハラは好きな女優で時間があれば住んでいた家を見てみたいと思ったけれどその時間はなかった。 翌日の快晴の下、老人に車でペグの店を越え海沿いに走り山登りに入る順路のところで降ろしてもらいまた山登りのきもちのいいウオーキングを始めた。

 

 


’16夏 アイルランドを歩く(2)徒歩第1日目 その1 スタート 

2016年08月23日 23時17分05秒 | 日常

 

2016年 8月 14日 (日) グレンガリフからアドリゴルまで 13km

前日コークからグレンガリフの湾を望む宿に落ち着いたのだが、コークからグレンガリフは2時間半のバスの旅のはずだった。 けれどそのバスが途中で道路に開いた大きな穴に車輪を落としたのだろうか。 物凄い音と振動がしてその後金属を擦る音がしたと思ったらバスは路肩に停まって運転手が外に出て見ていると何かのタンクが外れ落ちて地面を擦りそこからオイルがこぼれ100mほどそんな筋を作っていた。 運転手はすぐさまどこかに電話をして替えのバスを頼んでいるのだがそこまでにコークから1時間ほど走っていたから代えが来るまでに1時間は待つ覚悟がいる。 乗客は皆降りてバスの胴体から荷物を降ろしぼんやりと待っている。 すると工事の車が来て砂を撒きオイルの汚れだけは紛らわすのだがのんびりしたものだ。 乗客も運転手もこんなことはよくあることなのか何の動揺もない。 時間通り1時間後に代えの新しく乗り心地のいいバスが来てきっちり1時間遅れでグレンガリフに着いた。

翌日朝食後我々の大きな荷物を次の宿に持って行ってくれるタクシーがついでに我々を途中まで乗せて行ってくれることになっていた。 車が1台だけしか通れない狭い山道を3kmほど上り森を抜けたところまで運んでくれた。 運転手はオサリバンだと言った。 宿の女主人もオサリバンだったから従妹か親戚かと訊くと何の関係もない、この辺の7割がオサリバン姓だという。 昨日どこで夕食をしたのかと言うのでパブの名前を言うとその隣で10時から2時までアイルランド民謡のバンドでライブをやったと言った。 スチールギターをやっている、自分たちのCDもあるし You Tube にもライブの様子が載せてある、と言ったけれどバンドの名前が巻き舌の発音ともごもごいう声で聴きとれなかった。

我々は地図を基に Beara Way というベアラ半島をめぐる周遊コースを辿る。 地図を見ながら道端にほぼ100mほどの間隔で建っている黄色のポールに歩いている人の姿とその矢印が記されている標識を辿るのだがここのようにはっきりと立っているというのは稀な方だ。 雨風の吹きつける視界の効かない斜面では100mというのは心細い。 そんなところでは2mほどのポールにしてあるところもあるし黄色でも薄暗い霧の中では灰色に見える。 この後何枚も写真を撮ったけれどこんなのんびりした平地はここぐらいだった。 森を上がって抜けたところで大きな木はもうないもののまだ1mか2mぐらいの立ち木はあってここから斜面を50mほど上がったところからはもう草ばかりだ。 斜面を上がり切り稜線を向うに進み雲の境目を向うに降りると直径¥500mほどのバーレイ池を見下ろすところに出る。

 


’16夏 アイルランドを歩く (1)概要

2016年08月22日 15時25分01秒 | 日常

 

8月12日から22日までアイルランドを歩いて来た。 歩いたのはそのうちの6日間でその距離はのべ110kmほどだった。 

オランダのスキポール空港から1時間半ほどでアイルランドの南西部の都市、コークの空港に着く。 カタカナのトの字型に交差して滑走路が2つあり、我々の乗ったエアーリンガス航空エアバス320は曇り空の下そこに着陸すると上客180人ほどは霧雨の中タラップを降りホールまで歩かねばならなかった。 空港の地面を歩いたのは2年ほど前のマラケッシュ空港以来だった。 

コークはダブリンに次いでアイルランド第二の都市で11万人ほどを擁すと資料にあった。 町の南にある空港は高台にあるようでバスの窓から町に行くのには谷に並んだ屋並みを見下ろしながら進んだ。 6kmほどだっただろうか。

我々の旅はいくつもある小さな地元の旅行会社の一つが我々夫婦と娘の希望に沿って手配した極小3人グループ、1週間弱の徒歩旅行のプランで、順路に沿って宿舎を予約していくので出来上がるまで少々時間のかかるものだった。 旅行会社からはルート、1日に歩く距離に時間、宿舎のB&Bとそのあたりにある見どころ、食事のできるレストランやパブの情報も出発前にはメールで送られてきて、小さな村々を辿って行くので時にはレストランもパブも店も何もないところもあり、そういうところではB&Bで夕食の手配をしてもらうこともあった。 基本は徒歩の周遊旅行で還暦を過ぎた夫婦であるから肉体的に厳しいものを避ける、というものだった。 重い荷物やスーツケースは毎日タクシーで次の宿舎まで運んでくれ我々はその日に必要な雨具や水と食料ぐらいをリュックにしょって歩くだけのものだったもののそれでも1日に300mほどの山を幾つも越えるのが毎日では楽なものではなかった。 去年南欧を毎日すべての荷物13kgを担いで移動したことに比べると楽なのには違いがないけれど晴れ間のほとんどないアイルランドと毎日初夏の美しい日差しの中を歩くのでは精神的に違いはあり結局どちらもいい思い出として残るのだから少々の困難も思い出となれば美しいものと変わる。

日程はアイルランドの南西部にいくつもある半島の中のベアラ半島の根元、グレンガリフ(Glengarriff)に先ず到着し、そこのB&Bで一泊、そこから歩き始めてアドリゴル(Adrigole)、キャスルタウン・ベアラ(castletounbeara)で2泊する、それは2日目は目の前に見える長さ10kmほどのベアラ島にフェリーで渡り一周し戻って来るからで、翌日はアリヒース(Alihies)までの山越えのあと町から3kmほどの宿で一泊したあと砂浜も微かにある断崖の続く山を南に越え、ダ―シー島を見晴らす半島の突端部の宿に泊まり翌日はダ―シー島を一周してその足で翌日コークに戻るためキャスルタウン・ベアラまでタクシーで来て泊まり、バスでコークまで3時間の旅をして戻るというものだった。 そして長さが6kmほどのダーシー島一周を終えた時点で総計が110kmになっていた。 

交通機関に関してバスを利用したのはコークの空港から市内まで6kmほどで20分ほど、市内からグレンガリフまで90kmほどの2時間半、帰りは島の突端からタクシーで荷物とともにキャッスルタウン・ベアラまで25kmほど30分ほどで戻り、そこで一泊して翌日バスでコークまで3時間だった。 コークのB&Bでは結局3泊した。 その間に市内を歩きその地理が大体頭に入るようになっており幾つかのパブを経験し伝統的なアイルランド音楽にも接した。

帰りの飛行機が朝の6時前に出るので午後は市内をぶらぶらし食事をした後B&Bの居間で3時に頼んであったタクシーが来るまで仮眠した。 3時半に空港に着いたらガランとしたホールには人は殆どいなかった。 4時過ぎにチェックインが済みぼちぼち開き始めたレストランで最後のアイルランド風の朝食をビールで摂って5時前にボディーチェックを済ませて搭乗、6時前に飛んだら1時間半でスキポールに着いた。 前日田舎の半島を3時間かけてバスに揺られてコークに来たのと比べると妙な気がした。 スキポール空港から電車で自分の町に戻りバスで近くまで来るともうアイルランドは遠いものになり日常が大きくのしかかってきた。 これから徐々にこのアイルランドベアラ半島巡りの徒歩旅行のことを書いて行こうと思う。 


暑中御見舞いと夏休みのお知らせ

2016年08月10日 19時38分22秒 | 日常

 

暑中お見舞い申しあげます。

 

日本は連日の猛暑と報道されていてもこちらは日中20℃にも届かない涼しいオランダ、我が家も恒例の夏のヴァカンスで娘と家人の三人でアイルランドを歩いてきます。 

アイルランドの南にコークという町があり、そこから西に2時間ほどバスに揺られベアラ半島のふもとの村から8日間で120kmほど歩いて半島を一周し、途中2つの小さな島に渡ります。 なだらかな山や丘の緑が広がり、のんびりと景色を楽しんで来ようと思います。 ガイドには日焼けクリームをもっていくとひょっとして使うチャンスがあるかもしれない、と書かれているように7月8月は一年で一番降水量が多い期間でもあるのでの日光は期待せず空から降るものがある灰色の世界も楽しみです。 鬱陶しい北ヨーロッパに長く住んでいて陽が出るとなんだか嘘くさく感じる性向が育ったのかもしれません。

このブログも24,5日頃から再開することになりますがそれまで暫くの暇乞いを。

 

 

 


薬局に薬を取りに行った

2016年08月10日 01時25分15秒 | 健康


先日註文しておいた薬を薬局に取りに行った。

毎晩食後に服用する、コレステロール値と尿酸値を下げる薬2種、それに抗ヒスタミン剤、胃酸調整薬だ。 肉体疲労とグルテンが結合するとアナフィラキシーショックが起こる。 その前兆として蕁麻疹が出るのだがそのときに服用するのが抗ヒスタミン剤だ。 それでも効かなければエピペンというアドレナリンの入った注射を自分で腿に射さねばならずそのペンの効力はまだ12月まであるから新しいのに替えるは必要ない。 自分にこの稀な持病があると分かってからこの5年で幸いなことにまだエピペンを使ったことが無い。

尿酸値が高くなりすぎると4か月か5か月ごとに痛風の予兆があるからそのための青い錠剤も要るのだがそれはまだあるので結局常備薬は最低6種類だ。 コレステロールと尿酸値の薬は3か月ごとにもらう。 それがほぼ切れているのでこの金曜から出かけるアイルランド行の準備のためにこれらを補充するのに薬局に出かけたことになる。

三日ほど前から右足親指の付け根が痛む。 痛風の兆しだとみて痛み止めを一錠飲んだ。 翌日痛みが引かないのでまた一錠、今日も朝まだ痛みがあったので1錠飲んだものの午後になっても引かなかったのでもう1錠飲んだら何とか痛みが消えた。 多分アルコールの摂取量が先週は普通より多かったのだろう。 今はアルコールを控えている。


恋するリベラーチェ (2013);観た映画、Aug. ’16

2016年08月09日 03時45分51秒 | 見る



邦題; 恋するリベラーチェ   (2013)

原題; BEHIND THE CANDELABRA


118分

監督: スティーヴン・ソダーバーグ  
製作: ジェリー・ワイントローブ  
製作総指揮: グレゴリー・ジェイコブズ  
  スーザン・イーキンス  
  マイケル・ポレール  
原作: スコット・ソーソン  
  アレックス・ソーライフソン  
脚本: リチャード・ラグラヴェネーズ  
プロダクションデ
ザイン:
ハワード・カミングス  
衣装デザイン: エレン・マイロニック  
音楽: マーヴィン・ハムリッシュ  
出演: マイケル・ダグラス リベラーチェ
  マット・デイモン スコット・ソーソン
  ダン・エイクロイド シーモア・ヘラー
  スコット・バクラ ボブ・ブラック
  ロブ・ロウ ジャック・スターツ医師
  トム・パパ レイ・アーネット
  ポール・ライザー フェルダー
  デビー・レイノルズ フランシス・リベラーチェ
 
スティーヴン・ソダーバーグ監督が、悪趣味とも評される派手な衣装と奇抜なステージでエンターテイナーとして一時代を築いた往年の人気ピアニスト、リベラーチェの晩年にスポットを当て、彼とその恋人となった若い青年スコット・ソーソンの愛憎劇をマイケル・ダグラスとマット・デイモンの共演で描いた伝記ドラマ。スコット・ソーソンの自伝を基に、2人の愛の軌跡とソーソンの葛藤、同性愛者であることを死ぬまで隠し続けたリベラーチェの苦悩を見つめていく。

絢爛豪華なショーで一世を風靡する希代のエンターテイナー、リベラーチェ。人気絶頂の1977年、彼はハンサムな青年スコット・ソーソンと出会う。そしてリベラーチェに見初められたソーソンは、ほどなく住み込みの秘書となり、彼の豪邸で2人だけの愛を育んでいくのだったが…。
 
上記が映画データベースの記述である。  成人女性をターゲットにしたオランダ民放テレビ局のゴールデンタイムに放映されたものを観た。 ダグラスもデイモンもすでにソダバーグの他の作品で観ているけれど本作では実在した主人公をダグラスが演じるというところに力が入っているのをみた。 そばで観ていた家人が何回も奇妙だ、突飛だ、言ったのだがダグラスとデイモンの普通の作品を幾つも観ているものにはそう映るのは不思議ではないだろう。 一つにはラスベガスのショービジネス、70年代のゲイである人物像が加わって普通ではないバイアスがかかっているのだ。 それは普通にダグラスだのデイモンが演じて来た幾つもの作品の中で作られてきた彼らのイメージがあり本作ではそれに幾分かの違和感を感じるからかもしれない。 現代ではゲイが政治的適切さのなかに組み込まれそれを映画の中に組み込むことで違和感も薄れてきており、そんな戸惑いを描いた「人生はビギナーズ(2010)」というような作品もあるけれど「普通の」人々として登場するものも多いしテレビのシットコムなどでは登場人物群にはゲイのキャラクターが配されていることもある。 本作の舞台は70年代で舞台がラスベガスであれば家人が感じる「奇妙だ」「突飛だ」という感慨は「キンキー・ブーツ(2005)」で普通の製靴工場の従業員がトランスヴェスタイン用のブーツに対するときのように、またオーストラリア映画「プリシラ(1994)」でドラッグクイーンのショーをあっけにとられたような目で眺める田舎の観客のものと共有できるかもしれない。 だからダグラスの数多く演じて来た役が形作ってきたイメージとの拮抗がその違和感をおおいに掻き起こすのだ。 結論としてその違和感がここで目論まれたものとして作用することで本作の成功の何分の一かは保証されている。
 
昨日はアムステルダムでこの20年ほど続いているゲイ・プライドという世界中からゲイ(同性愛者)を集めた水上パレードが市内の運河一杯に行われ数十万人を数えたとテレビニュースで報じられていたのだが人々の服装が派手なものでそれが恒例になっていることからその光景、形式もステレオタイプ化していることは否定できない。 たまたまそこを通りかかった家人から飛び出したのは、わかっているけれど奇妙で突飛な常套句化されたゲイの姿で違和感を感じたのだそうだ。 それはヘテロの人間がゲイに感じるものではなくてヘテロの人間が「いかにもゲイ」の人たちの服装・仕草に感じるものであるようだ。 自分の周りに多くのゲイがいて隣人はゲイのカップルだ。 別段それを隠しもしないし、それぞれの親たち、親戚たちも定期的に来て歓談する。 彼らはヘテロの人間たちとはその仕草、服装には何ら変わるところも無く偏見から逃れるために努力して平静を装っているのでも全くない。 そしてこういうカップルは普通にいてヘテロの人間たちからは見分け難い。 彼らにとってはゲイパレードで「はしゃぐ」ゲイたちの姿には必ずしも賛同するものではなく逆にゲイのイメージの固定化をはかる上では貢献することはあっても自然で自由なゲイの多様化からは足枷になるようだと考えている節がある。 ただ2016年現在のオランダと1970年代ラスヴェガスのショー・ビジネスのなかでの差を考慮するべきことは確かである。 
 
これを書いていて出演者の名前にデビ―・レイノルズの名前が出ていたのに驚いた。 そしてそれが主人公の母親役だったのをみてまた驚いた。 ジーン・ケリーとのミュージカル「雨に唄えば」で我々には忘れられないスターとなり、「スターウォーズ」のレイア姫、キャリー・フィッシャーの母親でもあるレイノルズが本作中、単に老婆の存在だけで主役の背骨に食い込む母親だったことにはその演者名を知らずとも感心していたからだ。 フィッシャー自身も最近は映画の中では年齢を経て得られる「匿名性」の中で味わいのある演技を見せはじめているのだからその母親がここで年齢に寄る存在感を示していることには母娘のキャリアが重なるようだ。
 
マネージャーのエイクロイドの地味な演技には初めエイクロイドとは分からなかったほどでそれと対照的なのは整形外科医を演じたロウだった。 目を細めた如何にも人工的な整形顔には笑った。 マイケルジャクソンがお手本だったのだろうか。
 
ロウやダグラスが演じる役は普通彼らには演じることのないもののようだから見る我々にはおかしさや違和感を与えるのだがバイセクシャルを演じるデイモンに関しては違和感はない。 それは今まで彼が演じてきた役が他人に押し付けがましく自分のエゴを前面に出すような性格が少なくむしろ静かに何かを受け入れ耐えるようなものが彼のイメージとなり内省的で外からの問題をどのように解決するかという点で演技が光るというようなものであったから本作でのセッティングは最適であり観察者、傍観者としての役割には今までのイメージを変えることなく演じているように見え、ダグラスとロウとの対照で言えばデイモンは二人の毒気に当てられてくすんだものに成らざるを得ず、それでもストーリーテラーとしての役目は十分果たしているのだからその平凡さで「うま味」を享受しているといえるだろう。  

蜘蛛

2016年08月08日 01時14分59秒 | 日常

 

 

先日裏庭で夕食を摂っているとガーデンテーブルの上をチョコチョコというかピョンピョンというか忙しく動き回るものがあるので見てみたら蠅の半分ぐらい、コメ粒ほどの小さな蜘蛛だった。 大体自分の勘ではオランダでは7月にはあまりこういうものは出てこないけれど8月に入ると俄然活発になるようでもある。 3階の屋根裏部屋を開け放していて蚊などほとんど入ってこないのだが偶に来るのが八月も大分経ってからだ。 庭には沢山の昆虫が動き回り早くから蛞蝓のような蝸牛のようなものは湿ってくるとあたりを這いまわっているけれどこのような蜘蛛は稀だ。 植木や植物の間に巣を張って虫を取るような蜘蛛は既に活動を開始してかなりなるのだがこのようなただピョンピョン動き回る別段毒性もなく気持ちも悪くない蜘蛛は手に取って這いまわらせても別段どうということはない。

大阪の田舎の農家で育ったものだから蜘蛛には慣れている。 便所にも浴室にもどこにも5本の指を広げたほどのものはよく這っていて蠅や他の虫を獲るからと何もしなかった。 ただそれぐらいの大きさになると自分の体を這うとあまり気持ちのいいものではない。 庭に組んだ大きな石の根元に地蜘蛛が巣を作っていて長い袋状のものが地中に続いていてその袋を摘まんで引き上げると中に一匹かわいく丸い灰色でツルツルの蜘蛛が出てくるのを袋を摘まむのが面白く定期的にやって遊んでいたことを思い出す。

手に入るデジタルカメラの使いにくいマクロ機能を使って撮ってみたものを今見ると実際の大きさでみる可愛さは消えて毛がモジョモジョとあるのが気になってちょっと引きそうになる。 オランダの蜘蛛、や夏の蜘蛛というのをオランダ版グーグルに入れて牽いてみたけれど該当するのが見当たらない。 一体何なんだろうか。


またの土曜日ブラブラとマーケットに行きがてら6km歩き自転車を5km漕いだ

2016年08月06日 18時21分34秒 | 日常

 

 また土曜日だ。 天気もいいし午後目覚めてこのところ歩いているようにマーケットに行ってぶらぶらあちこちで駄弁りもし晩飯までにもどればそれでいい、とデイパックを背に、帽子を被っていても陽射しがかなり眩しいので一昨年モロッコのマラケッシュで作ったサングラスをつけて歩きだした。 先週は近所のヤン爺さんの歩き方を心配してそれが杞憂に終わったそんなところをまた通り、同年配の日本人女性作家のアトリエの前を過ぎて跳ね橋を渡り旧市街へと歩いていると交通量、行き交う人々の少ないのに気が付いた。 どこも夏休みで人はあちこちに出払っているのだし仮令いてもこんな日差しの中では10kmほど離れた北海を望む海岸か涼しい木陰を求めて郊外の公園にでかけているのだ。

住宅の並ぶところは別として町の中心にある青空マーケットは逆にバカンス気分の人々で混雑しており様々な言語が飛び交っている。 魚屋で白身の魚を揚げてもらっているときもドイツ語、スペイン語、英語にスラブ系、イスラム系のことばが聞こえたけれどそんな人間たちが店の人間とやり取りするときは英語だった。 英語にしても様々な「訛り」がついてイタリア訛りだの中国英語もアメリカ人観光客の米語に混ざる。 

毎週ごとの昼飯である揚げた魚を歩きながら喰い終わり、野菜・果物の店が並ぶところを眺めながら来週のデザートにパイナップルを一つ、林檎を4つ、イスラムの八百屋で小さい干し柿より甘いオランダ語で dadel(palm) 、英語でdate(palm)、日本語でナツメヤシの果実、デーツの種付き半乾燥のものを10個買ってデイパックに収めたら入れてあった水筒の重さと共に少しは歩く訓練をしている気分になってきた。 

土曜日だけに行くカフェーで冷えたビールをもらいそれを外の長椅子に座って口の油を洗い流すようにチビチビと飲みながら前を行く行き交う人々を眺めていた。 今日は見知った人は誰も通らなかった。 ただ、ここ何週間か同じ日、同じ時間に同じようなところを通っていると顔を憶える人々もいてそんなビールを啜っていると前の揚げイモ屋に来た30代半ばから40辺りかと見える夫婦に小学生の娘を連れた中国人家族を見た。 大陸の中国人には見えず香港、台湾、欧米からの家族のように見える。 それは服装、顔つき、髪型、言葉からそう想像するので当然オランダ語では通じていないようだから多分夫の方が大学に研究にでも来ているのだろうと想像してみる。 その確率は少な目に見て65%ぐらいか。 ここでは言葉で聞かなければその国籍は分からない。 人口11万ほどのこの大学町ではほとんど世界中の国のパスポート保持者の名前が市役所に登録されている。 10年ほど前には日本人が100名ほど登録されていると聞いたけれど自分が知っているのは精々10人ほどだ。 ただ中東、アフリカの紛争国からの避難民、その他の経済移民で自国への強制送還を防ぐためパスポートを破棄してしまい無国籍者として存在している者もいるけれどそれは例外的ではあり、けれどそれがEUの移民政策上の問題となっていることは確かだ。 持病が分かってから自分は救急事態に陥った時のために必ずIDは持っているけれど何年も前にはそんな物も取られないように携帯せずあちこち歩き回っていた。 一度も路上で検問に会ったことはないけれど会ってもオランダ語や英語で話せば事は足りるから問題はない。 それらの「違法」避難民は言葉が分からないか分からないような振りを通す。

20分ほどカフェーの前の長椅子に腰かけていただろうか、おかみさんが出てきてそばに座り煙草を吹かす。 お決まりのバカンスでこの店も閉まるの、と振ると週に3日しか開けていないし自分がいなくても誰かが開けて店番してくれるからね、ずっと毎度のように開いているよ、それに自分はバカンスでどっかに出かけても面白くないから家でブラブラしてるよ、という。 空瓶を渡して、来週再来週はアイルランドに歩きに行くから来ないよ、と言ってそこを離れた。 

別に当てもないけれど橋を渡って古LP/CD/DVD屋のピーターのところで駄弁った。 狭く暗い店の中でパソコンをパタパタ打っていたけれどどうもメールボックスだけが開けられない、変だといっている。 グーグルや You Tube は別段普通に動くのにおかしい、古いコンピューターはこうなるのかなと言って弄るのを諦めた。 先週お前さんが言っていたキャンディー・ダルファーがドイツテレビ局でやったコンサートライブをYou Tubeで見て、おまえさんのいうようにあのトランペットは良かった、といった。 ダルファーはセクシーで観るのにはいいけれどお前が好きなトランペットを聴くのならあのトランペットだと言って置いたのだった。 あのトランペット、何年か前にトルコ航空機がスキポール近くに胴体着陸した時にたまたま田舎をボロ車で走っていて田んぼを100mほど入って救助に駈けつけた第一号だったことをテレビで観て、ライブの時本人にそれを言ったら感謝状の紙一枚もらっただけだ、と笑っていたというと、それにしても昨日のデュバイ空港でのエミレット航空機の胴体着陸みたいに着陸の後屋根が吹っ飛んで火災になることもあるのだから助けに泥田に入るのも考え物だなという。

https://www.youtube.com/watch?v=GNx4EbTu10w

ピーターの店の中はものが乱雑に並んでいて本人もどこに何があるのか分かっていない。 ジャズやクラシックのCDがどこいらへんにあるのかは自分の経験上分かっているし新しいものが入っていればそのことをいうのでみてみるけれどこの2,3年買っていない。 古い西部劇のDVDないのかいと訊くとないのじゃないの、という。 自分はあまり西部劇に興味が無いので集まってこない、あ、こないだ観た西部劇仕立ての1950年代の探偵ものがおもしろかったから貸してやるよといって Spencer Tracy, Robert Ryan の Bad Day At Black Rock というのをこちらによこした。 また観たいから済んだら返してくれといった。 うちにもう観てたぶんもう観ないだろうと思われるような西部劇が何作かあるので返すときについでにピーターのところに持って行こうと思う。 

その店をでて公園を横切って帰ろうと思ったので最短距離を行くと途中にエリックの散髪屋があった。 5時前だったので開いた入口のところで店の中を覗き、もう一杯やる時間だろ、手元も気もアルコールを求めてそぞろじゃないのかというと大学生らしい若いのが散髪台に乗っていて笑った。 高校生らしいのが一人ソファーで待っていた。 あのな、あんたみたいな頭ならどうでもいいけどここにいるようなこれから何年もここに来てくれるような若い客には丁寧に仕事しないといけないんだよ、あと半時間待ってたらこないだのパーティーのときあんたからもらったスコッチのミニボトル開けてもいいよ、というのでそれじゃ来週アイルランドに行く前に頭をやってもらいたいから火曜か水曜にくるからその時味見しようかと言ってそこを離れた。 

そこからは先週と同じルートで帰宅して全長6kmだった。 家人は友人とアムステルダムの街を1日歩いて来て全長15kmほどだったと言った。 だれも晩飯を作る気が無かったのでピザでTVディナーにしようとジュゼッペの店にいって買って来た。 いつもなら15分ほどは待たねばならないものが夏休みで客が少ないのだといった。 注文すればそのまますぐに焼きはじめ、厨房の中はイタリア語だけ、アルバイトのオランダ人の女の子たちと駄弁っていると5分で出来た。 自転車で行き帰りに漕いだルートを測ったら5kmだった。


馬市に行く (3)鍛冶屋

2016年08月05日 17時48分16秒 | 日常

 

 

ヨーロッパに住んでいて田舎に行くとまだ時々村の鍛冶屋というような店を見ることはあるけれど、先端技術により早く大量生産しそれによって利潤を計るシステムが基準の現代では仮令そんな昔ながらの店や作業所にみえる鍛冶屋があってもそれは嘗てのノスタルジアを喚起するアンティーク趣味の店であったり昔の道具を配置した金物屋であったりする。 

昔のことをいうと19世紀の産業革命からは大量生産の鉄の時代で日本も列強に遅れを取らずその流れを経て今の時代となっているのだが江戸時代以前には世界に冠たる鋼の技術はあったものの一般には豊かな資源を利用した木工が主だったようだ。 だからあるものは昔のそんな時代を西洋は鉄の文化圏、日本は木の文化圏というようでもある。 1950年代に自分の育った村には瓦屋、水車はあったけれど鍛冶屋はなかったように思う。 偶には自転車で何処かの空き地や道路わきに来て自分の手の届く範囲に道具を広げ壊れたり折れたり穴の開いたりした鍋釜、道具をハンダや金槌を使って修理する鋳掛屋が来ていたのを憶えている。 子供の自分にはそんな道具類を目の前で使うのを見るのは珍しいから前や横から眺よくめていた。 だからそんな風情を落語にした「鋳掛屋」で悪ガキたちに邪魔をされる鋳掛屋にはその風景が目の前にみえるようで心から笑えるのだ。

オランダに住むようになり自分が29年勤めていた仕事場の傍に中世から豚の市が立っていた通りがありそこに昔ながらの鍛冶屋の工房がある。 連綿と続いて来た技術を伝える職人であるから鉄を使ったさまざまな注文品や工芸品を作っていてその技術を後に残すのに職業学校から若い学生を助手にして研修させている。 昼休みにその前を通っていて作業が行われていると暫く外から眺めたことが何度かある。 様々なサイズ、形のものがある中に馬の蹄鉄も見られた。 それは昔西部劇で町の鍛冶屋が打っていたり出来た熱いものを水に浸して水蒸気をあげていたりしたものでもある。 馬の足を自分の股の間に挟み蹄に蹄鉄を打つのもよく映画の中で見られた。

この馬市でも鍛冶屋がいて乞われるままに馬の蹄を整えていた。 作業馬が多く全てが蹄鉄を嵌めているわけではなさそうだ。 小さい村か町かだから自分の道具を混雑した市の中を移動するには車では無理だから自転車の後ろに付ける牽引車の0.5立方メートルほどの両輪がついた車に様々な道具を入れて移動していた。 その中には様々なヤスリ、槌、様々な形の鎌、ナイフなどの他にいくつものサイズの蹄鉄が整然と並べられていた。 蹄鉄を外し蹄の間に詰まった泥やその他のもので固くこびりついたものをそのための道具で掻きとり蹄の形を整えるのに鎌のような湾曲したもので蹄を平らにしたり削ったりする。 そのあと長いヤスリで擦ると辺りには粉チーズのような蹄の削りカスが見られ同時に我々が爪を削りヤスリで整えた時に嗅ぐ匂いが辺りに漂う。 これは同時にこの何週間か晩飯の残骸の牛の脛の骨をヤスリで削っている時に出る匂いでもある。 ここでは馬市の圧倒する匂いに加えてこの爪を削った匂いが加わって嫌でも田舎を感じないではいられない。