暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

野上弥生子 著 「秀吉と利休」 を読み始めた

2010年02月22日 23時58分56秒 | 読む
野上弥生子 著 「秀吉と利休」

1964年

新潮文庫 草44B 1969年 二刷


古い文庫本だ。 いつだったかハーグ市の古本屋でほんの少しだけ日本語の本が並んでいる棚の中にあったものを2ユーロかそれほどで求め、それを「積ん読」にしておいたものを今回読むきっかけになったのはちょっと落ち着いたものを読みたいと思ったからだった。 体調が悪くそれが少し持ち直し、日曜日に50kmほど離れた射撃クラブに長銃の競技会に出かけたときにそこのバーで待ち時間中に落ち着いて何か読もうとちょっと文庫本でも、と出かける前に棚を眺めていて目に入ったものだ。

野上弥生子という人のものは読んだことがなかった。 昔、学生時代にガールフレンドが高群逸枝のことを卒業論文にしていてその際に日本の革新的な女性たちの名前が出た中で宮本百合子関連で聞いたようなことがあったし、漱石門下の野上豊一郎と結婚した、というようなことでもあったから「現代」の文学を追う当時の自分にはそのうち時間があれば「教養」として、、、、として敬して遠ざけている風があった。 古今あまたある文章のなかで手に取り読むのは砂漠のほんの一握りの砂程度なのだ。 自分の読書体験というのは脈絡のないもので、あちらこちらと手が伸び、読んだあとからすぐ忘れ、つまらないものにも手がいきがちになる。 だから「積読」が増えるし、この間、読もうか、と思っていたものがもうそれから3年以上経つ、という経験もしばしばだ。 だからこの古ぼけた文庫本を手に入れてから何年経つか記憶にない。

しかし、現代の作家たちの諸作品に比べるとその肌触りの違うことには野上作品に対する読書経験がないにもかかわらず読む前から分かっていた。 それは昔読んだ佐多稲子や幸田文などの文章に接して後々まで残るしっかりとした日本語にたいする安心感とでもいえるものかもしれない。 この30年ほどの間に変化した現代の作家の文体とでもいえるものから距離をおいて落ち着いたものに触れたいというような無意識の希求があったのだろう。 体調を壊して回復期に体に滋養になる落ち着いた食物を摂るような、粥のようなものかもしれない。

自分からこの作家のこの作品を選んだのではなく外国の古本屋の棚に凡百のビジネス書や密度の薄い通過するだけの本に混ざっていた中で作家の名前に惹かれては選んだものの「秀吉と利休」という、10年か20年ほど前に映画化でも競作にもなり、日本の文化、歴史の中でも繰り返し論じられているテーマであり歴史小説であるからストーリーには驚きも新奇さも少ないだろうし、それに人物像にしても完全に無から描いたものでもないから野上弥生子の創作といっても自然と「秀吉と利休」が大きく浮かびたちうごくであろうから読み進むうちにそれを支えるこの作家の文体をまず理解するようにして次の他の作に繋げようと考えた。

まず文末の水尾比呂志の短い解説に目を通し、その内容はともかく戦後の解説文体に久々に接した気がした。 それでも1968,9年のものである。 せいぜい40年ほど前にもかかわらずその文体は戦後を充分引き継いでいるようで歴史小説のものとしての体裁を保っている。 そのころ刊行された河出書房の「現代の文学」が毎月一冊自宅に届きそれが自分の文学体験の元になっている。 そのなかでも歴史小説はいくつも収められていたけれど谷崎は別として歴史小説の文体には惹かれることはあまりなかったように思う。 中間小説との接点のようなものをみていたからかもしれない。

そのようなことを考えながら巻頭10ページほどをクラブのバーで紅茶を飲みながら読み始めたときに自分の名前が呼ばれたので急遽本を閉じてポケットにねじ込み、そのまま道具の詰まったカバンとフリントロック式長銃を手に射場の方に降りていった。 利休の町、堺は火縄銃の製造地でもあり、日本ではフリントロック式は幕末に少しは入ってきたものの日本の銃の歴史の中では信長のころから幕末までは変化がなく、古式銃の歴史の中でも日本はある一定の時期の形式がそのまま300年も変わらず幕末まで続いた興味深いところでもあるのにも思いが行ったのだが、この日は射場では火縄銃を撃つものをみかけなかった。



ウィキペディア 野上弥生子の項 ;
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E4%B8%8A%E5%BC%A5%E7%94%9F%E5%AD%90

今日は2km歩いて車を受け取りに行ってきた

2010年02月20日 01時38分42秒 | 日常
この四日ほど体調を崩して床についていた。 

月曜日の夜半に急に下痢が始まりそれが止まらず体力が急激に低下し少々往生した。 オランダで言う Buikgriep (腹風邪)というやつだ。  自分の通常の風邪のパターンであればそれは長年知れたもので、まずくしゃみ、鼻水、涙に少々の発熱、のどが痛み、ティッシュの箱を空にし、、、と続き、約1週間で完治するものだが、今回は様子が少々違った。 腹が緩んで下痢が止まらず寒くガタガタ震えたのは発熱したからなのだろう。 寝床に納まってしばらくしても寒さにガタガタ震え温まるまで時間がかかった。 そのまま体力が消耗してしまい、通常の風邪の場合と違い食欲も無く、無理にもほんの少しの食い物を口にして紅茶で湿気を摂る、という風だった。 はじめの2日ほどは腹にはほとんど何もはいっていない。

それでも日常の生活はこなさなければならずなんとかそれをこなし、夜間はまともな人間の就寝時間からは1、2時間ぐらいは早く床につき、12時間ほど眠って休養に努めたのだがそれで腹の緩みは治らない。

それでも約束してあった車の車検のために朝運転してガレージまで持って行き、夕方には出来上がったものを引き取りにまたガレージまでから歩いて出かけた。 

ガレージはちょうど家から1kmの距離にある。 朝はフルーツジジュースを体に入れているだけだったけれど歩くぶんには支障も無く、ふらつくこともなくしっかり歩いてガレージから戻ればちょっと体が汗ばんでおり、体を拭いてまた床に就き4時間ほど眠った。 午後に目を覚ましてから新聞を読んだりインターネットで遊んでから車検の済んだ車をとりに再度ガレージに向かって歩いたのだった。

インターネットでうちからガレージまでの距離を測るとちょうど1kmだった。 この何年かは何かあると「僕の歩いた跡に道はできる」という便利なサイトで世界中のいろいろな場所で正確に距離を測っている。 そこではグーグルマップスの上の或る一点から少しづつクリックして距離を伸ばしていき世界中どこでもその距離を測ることができるから時々はそれで遊んでいる。 

うちから出て運河にかかった橋をわたりその運河と直角に交わる同じような幅のライン川に沿ってすこし行くと橋が架かっていてそれをわたると隣町になる。 その橋の上にユーモラスなブロンズ像があり、ひとはこの橋をその像にちなんで「種付け牛の橋」と呼んでいる。 スペイン風、ミロかピカソ、オランダの50年代の「コブラ派」の趣のある牛なのだ。町の橋にはこのような動物の像があるようなものがいくつかあり、孔雀の橋、というのもある。 日頃は車や自転車で通り過ぎるからじっくり眺めることはないけれどこういうときにはユーモラスな目つきや足を上げた格好が観察されるから悪くない。

ここまでで700mだ。 考えてみるとこの3ヶ月ほど出かけていないアムステルダムのジャズクラブまでアムステルダム中央駅の裏口をでて港に沿って歩くとこれと同じ距離になるのに気がついた。 アムステルダムのほうは直線であり、ここではいくつか曲がりくねっているもののおなじ距離なのだがジャズのコンサートの行き帰りでは時間の違い、雰囲気の違いがあるのか同じ距離なのにそのような気がしない。 

スイスからドイツを経てオランダ付近で3つも4つもに枝分かれしたライン川の支流のひとつがこれで、「古ライン川」と呼ばれていてそれがここから10kmほどの下流で北海に注ぐ。 ライン川と世界中に知られているのは大抵ドイツのマインツのあたりの両側からワイン畑の斜面に挟まれてローレライの岩あたりの印象なのだろうけれどこのあたりでは普通の運河と何変わることもなく、ドイツを流れる同じ川だどは思いもつきがたい。そんなライン川を跨ぐ橋の上でこの「種付け牛」はのんびりと脚をあげてポーズを決めている。

 

積もった雪がとけ、それからまた降り、それが溶け、、、

2010年02月15日 10時56分40秒 | 日常
日曜の朝、そろそろ射撃の競技会にでかけるのに起きようか、と寝床の中で考えていると家人が来て、今すぐ病院にいくから支度して、というのでそうした後外を眺めると車の上にうっすらと雪が積もっているのが見えた。

紅茶の湯を沸かしている間にエンジンと室内を暖めようと車のスイッチを回してエンジンをかけたまま又うちに戻ると、舅が心臓発作を起こして救急車で病院に運ばれ今は集中治療室にいるのだと家人から聞かされた。 とりあえずミルクティーで体を温めつつ病院とほぼ同方にある射撃クラブに今日の競技出場をキャンセルする旨連絡して細かく軽い雪の降る高速を走った。

80も半ばにさしかかる舅姑夫婦はこの数年体の調子が芳しくなく、いつどのようなことが起こってもおかしくない、と主治医に言われているのだがそれでも日常の生活をまだ二人で送っており、子供たち、孫たちが連絡しあって誰かがほぼ2日に一回訪れるなり電話で様子を聞いたりして様子を窺っている。 

舅はもうほぼ20年以上まえに村のはずれにある運河の関門管理員として公務員定年してから運河沿いの一戸建て官舎の住宅にしばらく住み、それから村の中心にある村としては新しいコンセプトの住宅に越してきた。 そこは3世代混合の独立集合住宅コンプレックスで人種の異なった40世帯ほどと暮らしている。 といっても半分ぐらいはこの村で暮らしてきた老人たちだ。 地方政府は村の閉鎖的なところに人種の異なる若い世代の家族を配することで身近なコミュニケーションをはかる、という意図もあるようだ。 村の社会では今だ旧弊なところがあり新オランダ人たちのことはアムステルダムやロッテルダムで都市化問題として報じられるニュースでしか接することもなくそれだけでは何かと偏見を助長するというようなことも言われており、国際化を進める地方のこのプロジェクトは始まったころには老人たちも週末にしか出会わない若者たちを警戒の目で観ていたようだけれどそれもこの何年かで徐々に互いに打ち解けるようになっている。

二階建ての棟に囲まれた中庭はガラスの天井で覆われて大きな温室のようになっており日光、温度調節もいきどこき一年中暖かく、そこでは老人たちが常時植物の植わったあちこちのそばに置かれたテーブルにお茶やお菓子を置いてのんびりと話をしたり編み物をしたりして一日を過ごす。 若い世代は昼間は仕事に出かけるからほとんど不在で顔を見せないけれど土曜、日曜には老人たちの子供、孫たちに混ざっていろいろ肌の色の違う若者があちこちに混ざって見うけられる。

この建物地下の駐車場への出入りは磁気カードで行い、地下からはエレベーターで中庭のある上階にあがることになっている。 今朝舅の異変に気づいた姑が家庭医に連絡し救急車が到着したのだがあいにくこのエレベーターが故障していて急遽消防署に連絡が行き消防署員が担架に横たわった舅を窓から運び出して救急車に乗せたのだという。 手はずがうまくいって電話をかけてから15分以内に舅を乗せた救急車はそこから10分ほどの病院に走り出したらしい。 搬送するときには主治医も同伴して途中で心臓マッサージも必要ではないかと待機していたらしいがその必要ななかったようだ。

我々が病院の入り口に着くと入れ替わりに義弟とその娘が出てきた。 舅のうちにもどって片付けものをしてなにやかやと必要なものをもってくるのだという。 舅は発作のあと持ち直して今はまだ体中いろいろな管をつけられているけれど比較的元気らしい。 集中治療室を訪問するのはあまり気持ちのいいものではない。 他の病棟であれば面会時間が決められているけれどここでは病院内の「特別」区域であり何かと緊張が漂う。 けれど舅の部屋は穏やかで日ごろに比べると力は弱いものの普通に話ができ、想像していたほどではなかったから肩透かしを食わされた様な気がしたけれど一応は安堵したのだった。 そこには義妹と姑がおり、水曜日に姑の癌の進み具合の検査があり、手術できるようなら来月の初めに手術が行われる可能性もあるということも聞き、忙しいことだとため息がでかかり、この何年かはこの二人が出入りするこの病院にはなじみができている。 何週間か前には姑が階上のベッドに横になっていたのだった。

そこに3時間居たのだけれど別段話すこともなく時には病人、付き添い経ちも居眠りをすることもあり看護婦の出入りで目を覚ますこともあった。 壁には面会の際には二人まで、と書かれていたけれど「緊急」の際なら「集団」になるほどの人数もくることもあるのだろうから厳しいことも言われないものの、病人も当分はここに居続けることになるのだろうからと一時間後には義姉夫婦が付き添いにくることを電話で確認して皆病院を出たのだった。

帰りの高速道路は除雪されていたものの自宅付近の小路に入ると半分溶けかかった雪が凍結していて急ブレーキは禁物だということを心して走らねばならないような状態だった。 いつまでこういう状態が続くのだろうか。 積もっては溶け、溶けてはまた積もる冬はまだ終わりを見せる兆しは無いようだ。










銃がからんで、、、、

2010年02月14日 01時56分53秒 | バンバン
アメリカの大学で生物学の女教授が銃を発砲して人を殺傷したというニュースの後に日本では取調べ中の被疑者が警官の拳銃を奪ってこれまた発砲、警官の腕に大怪我を負わせた、ということが報道された。

世界にその銃社会として知られるアメリカの、今では少年からカルト集団、極右までが武装して学校、教団、集会場にコンビにとたてこもり銃撃戦をくりかえし果ては自分の頭をうちぬいて自決したり、とにかく話題ににことかかなく、世界にこの種のニュースを継続的に提供し、何が起こっても銃にからんだ事件には麻痺しがちでたいていは驚かないのだが、今回、大学の生物学教授が同僚か大学職員に対して発砲した、それにそれが女教授だというのは新種で驚きだ。

解説ではなにかこの女教授が、希望していた常任の職に就けなかったことから怨恨の果て、ということだったのだが恐ろしいものだ。 学者の世界でもここまで来たのかとため息が出る。 何とも即物的になったものだ。 学内派閥がどうのこうの、自分の工作していたことが成就せずそれに恨みをもって、、、、というのは古今東西学究世界でもあるのは普通一般と同じだというのは皆承知のことだが、その腹いせ、無念が高じてここまでくるのは金絡み、情痴がらみと変わりがなく、アカデミックの世界でも現実的、いかにも人間的な激情の発露として我々に見せてくれるのだから分かりやすく、まさにいまどきのアメリカ的な現象なのだろう。 それに女教授というところが新しい。 女性の恨みということでは女性が発砲するというのは不思議なことではないのだが、生物学の女教授、というところが新規だ。 男性より女性のほうがこの種のことで頭に血が上って指が引き金にかかる時間が短いのだろうか。 普通の世界のことではなく学究の世界のことを問うているのだ。 西部の酒場のマダムなら十分納得ができるのだとしても、、、、何だか、、、、。

それともアメリカでは男の教授が逆恨みか何かで同僚に発砲することはよくあるのだろうか。 情痴の縺れというのなら分からなくもないのだが、、、、、。 といっても普通の人事の恨みから発砲というのはあまりないような気もするけれど今回のことがニュースになったのは珍しいことで、それは犬が人を噛むのはニュースにはならないが人が犬を噛むとニュースに、ということなのだろうか。 それならこういうことが男の場合では犬扱いでニュースのネタにはならなかったということなのだろうか。 

何口径だったのかという瑣末なことにも興味が行くけれど、それは一般的な9mmかもしれないけれど女性なら軽い本体から飛び出て体の中に入ればたちのわるい22口径弾かもしれず、、、、、彼女は今頃留置所の中でその瞬間を反芻しているのだろうか。 いずれにせよ何年か服役してからの彼女の人生に興味が向く。

まさに西部劇の酒場のやり手マダムのような勝気な姿が目に浮かびそうになるがあながちそうでもなさそうだ。 世界中どこでも緊縮財政のあおりが隅々にまで及び学究の世界でも同様なのだろうが特にアメリカでは大学のなかに残る、もしくは常任の職を手に入れるまでの厳しさはあちこちで聞いているからたとえ教授という名がついていても常任でなければ根無し草に甘んじる味気ないこととなり、そこに男世界か何かでのことから待遇が不公平だという思いが自分の心に住み込み始めてそれがすくすくと育ち、かなり辛い事になり、、、、、、。 そして、その挙句銃を手に教授会の席でズドンとか小口径ならパン、、、、、ということか。

銃を手にあの同僚、理事、人事の奴を、、という発想が怖い。 発想はなんでもいいけれど、そういうのは探偵小説のなかに満載されているのだが、撲殺、刺殺、毒殺でもなく実際にどこから調達してきたのか、射撃の訓練を今まで受けていたのか、どうでもいいようなそういう瑣末なことに興味が行き、銃の発砲ということが困る。 もし地元の射撃クラブの会員であったりしたらお手上げだ。 それみろ、ああいうことがあるからいくら射撃クラブの会員で観察、検査がされているといっても、その上、たとえ大学教授という世間的にもっとも落ち着いたような血の気の少なく見えて、温度の安定した人種でもこうなるのだから、、、、と私たちのようにおとなしく紙の的だけを規則通りに実用的でないようなクラシックの銃で穴をあけることを道楽としているものにとってはこういうことは甚だ迷惑なことなのだ。

一方、日本の取調室でいくら手錠をかけられていたとしてもよく警官か捜査員の銃を奪って発砲したものだしそれに輪をかけて驚いたのはそういう状況で警官か捜査官が銃を所持している、ということだ。 手錠をかけてあってもまだ銃器を携帯しての取調べというのは解せないものだ。 手錠をかけてあるのだから銃は無用のはずでなんとも物騒な警察なことか。 被疑者、取調官の互いの安全のためにたとえ凶悪犯、組関係の取調べに際してといっても銃器を携帯することはないだろうと思うのだが、、、、。 何れにせよこの事件がきっかけで取調室からは銃器が一掃されることを希望する。 

それにこの間は警官の息子が父親の拳銃を抜き取りそれで自死した、という事件も報じられていて銃管理の杜撰さが指摘されている折、拳銃がらみの今回の報道だったのだ。

と、ここまで書いてあと数時間で古式銃、25mの競技会に出かけるのだがこの老眼でどれだけ当たるのやら。 さっきオリンピックのスキー・射撃競技で息をはーはーいわせながら背中に背負ったライフルから22口径を5つの穴めがけて誤りなく撃っていた世界の女子選手たちを眺めていてたとえスコープがあったとしてもスキーのあとであの沈着さは大したものだと感心する。


Japanese Story  ; 観た映画、Dec 09

2010年02月13日 03時08分31秒 | 見る


Japanese Story

ジャパニーズ・ストーリー
原題; Japanese story
監督 スー・ブルックス
脚本 アリソン・ティルソン

出演者
トニ・コレット
綱島郷太郎

公開 2003年9月25日
劇場未公開
上映時間 110分
製作国 オーストラリア
言語 英語・日本語

いつものように映画データベースを検索しても本作のデータは見つからず、仕方なくネットで探るとウィキペディアに興味深い記述があった。

映画はこのように始まる。  タイトルが流れ、オーストラリアの赤い大地をカメラが俯瞰しながら移動するのだがそれがいつの間にか、深読みなのかどうか、枯山水の石庭で黄色くしなびた苔を這うように移動しつつ写しているように見えなくもない。 車が走り、その中には30歳中ごろか40に手が届くほどの年恰好の日本人の男が一人、オーストラリアの平原をそのまま進行すするのが見えるのだが苛立ったような不安を窺わせる表情を垣間見せるようでもあり、そのうち広芒とした原野の中に車を止めて高価なカメラ、ライカM5かM6で風景を撮り、自分もその風景に取り入れようとボンネットにカメラを載せてその特徴的なセルフタイマーを操作する。 それだけでスーツを着たこの男の背景が、少なくとも遊びだけではない、ということは分かるようだ。

企業向けソフトを作る会社の共同経営者であり、30のラインを超えたか超えないかというオーストラリア人の女性は日常生活でも大雑把で、白豆を薄甘いトマトソースのなかに浸しただけのハインツの缶詰で食事をすませるような、少々疲れ気味に見えなくもない勤労女性である。 ここはオーストラリアであるからイギリスの朝食の定番の一部でもあるこの豆がここでは単純な日常生活の食料となっており、後にはこれが、男がこの女と性交した翌朝に人気のない路上のホテルの食堂で食う英国式朝食の一部でもあるのだが、この女優、どこかで見たことがあると気づいたけれど思い出せなかった。 BBCの女性スポーツアナウンサーに似た人がいるのでそれに重なってそれ以上出てこない。 アメリカのコメディーだったか他の映画の脇役で見た顔かとも思うけれど頭の中では、いや、これはイギリスだという。

この女性像がオーストラリアのこの年齢の女性の中でどのようなところに位置するのかは判断に困るけれど、それでは他の欧米圏の国でのこの年齢の女性についても間接的には知っていても直接には知ることはないのだから結局はメディア、映像のイメージに従うこととして、それでもどこかで監督は既知のイメージに阿って演出してあるのだろうと考えた。 この女性のイライラの原因はこのところ、というか長らく「寝ていない」ということにしてあるのだろう。

女性側からの映画であり、フラストレーションがある上に意図しない仕事上の押し付け、生活、文化、習慣の違う男と非日常の世界に押し込められたらこうなった、という映画で、男は心ここにあらず、茫洋とした平原の小さな町のカラオケでは現地の鉱山関係者たちに混じって下手な「ダニー・ボーイ」を歌い、彼らもこの日本人がオーストラリアの鉱山会社の日本側共同経営者の息子らしいから視察の意図を測りかねながらも適当に接待もしているものの、その男に振り回されがちな運転手として同行するこのオーストラリア女性は翌朝この男の泳ぐ姿を見てそこで何かを感じたようである。 一般の日本人のステレオタイプから離れてこの男の或る意味真摯さに向き合うことになったのかもしれない。

地の果てまで見たいというような男の希望に付き合って原野に迷い込み危機的状況を抜けたあと性交し、徐々に打ち解け、岩場での初めて落ち着いた会話のできたシーンでは男には妻子があると告げる。 女が、妻子を愛しているのかと問うと、男は、愛していると口に出すと内実が消えるという。 巧言令色少なしかな仁、であり、言わぬが花、ということか。

この男の屈託というのは広大な土地を見て、死ぬような経験をして、尻の大きな女とまぐわえば解決する種類のものだったのだろうか。 二人の関係の意外な結末があり、そこからが本作の題に関わるものなのだ。 結局は男のことはぼんやりと分かるのだろうがけれどもそれが何かははっきりとはせず、わからずともそれは日本人や日本については大体そうなのだからそれでいいとしているのだろうか。 だから日本は自分の近くまできて肌を触れ合わせても短い関係では結局オーストラリアの人間でははないのだからという諦観に添うこととなるのだろうか。 それは短くも突然途切れる日本人の男とオーストラリア人の女の側からみた話なのだ。 多分それを一生反芻することになるのがジャパニーズストーリーという題のこの女にかかわる話だということがわかるわけで、彼女の人生の一段階での突然始まり突然終わる日本のお話、御伽噺ということになるのだろう。

元気がよく瑞々しい演技で印象深かった「ミュリエルの結婚」(1994)からほぼ10年後の本作でトニ・コレットはここでも年齢に応じた役を得て好演している。 同じく男を巡る話なのだがここにはもうミュリエルでのような彼女の親の束縛はなく、関係の終わりにはただ男への想いと自分の未来への亡羊とした想いが宙に浮かび漂うことになる。



ウィキペディア; ジャパニーズ・ストーリーの項
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%91%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC

スーパーボウル 2010を観た

2010年02月12日 10時31分27秒 | 見る



ヨーロッパ時間で夜中を少し回ってフロリダからの実況中継をBBCで観て第三クオーターで居眠ってしまい第四クォーターで目を覚ましたときには午前3時を十分まわっていてほぼ勝負がついていた。

スーパーボウルはもう30年以上前からときどき観ていたし、ことに昨年の逆転劇にはまことに驚き、劇的なものだと感じていたから今回の第四クォーターの中ごろの時点ですでに勝負がついていた試合にはドラマはなかったもののその数時間前にはイギリスで行われている6カ国ゲームといわれるラグビーの試合でアイルランド対イタリアを観ていたからラグビーとアメリカンフットボールの違いに思うところがあった。

高校時代、もうほぼ40年以上前にラグビーを体育の時間によくやらされてその面白さに目を開かれた。 追いつきタックルするのにも、逆に追われているときにそれをかわすにも興奮したものだ。 ラグビーの野性的なところに惹かれるしチームの中での役割は決まっているものの、アメリカンフットボールのように細分化された「管理」がこのスポーツのキーワードであるように、「戦略」「戦術」というような言葉と「現代の技術」を駆使して試合を「戦争」と思わせるようなところに「全体主義」的なものを感じて距離をおいてしまうのだ。 もし、たとえ今から時を40年戻る機会があるとしても多分自分はラグビーを選ぶだろうという気がする。 

とはいえ、秒単位で敵陣ににじり寄る細かい「総力戦」には興味が引かれるし、近年、ヴィデオ画面で繰り返しあちこちから数秒の動きをスローモーションで解説するそのスポーツ観戦法に「現代」だと感じるし感心することが多い。 大掛かりな中休みのショーでは去年にはブルース・スプリングスティーン、ことしには「ザ フー」といったようなわれわれの年代の「なつかしのメロディー」を演奏して楽しませてくれるのも「ショー」のアメリカ的でわるくはない。 

試合中にはプラスチックの板状にした数々のリストを手に何人もの「アドヴァイザー」とヘッドホーンマイクでやりとりして事を進める監督には戦場の提督、将軍に比肩する肩書きがあってもおかしくないし、現にあちこちの評論ではそのように述べられている。 スポーツでこれぐらい現代の機器をつかって行うスポーッはないのではないか。 或る局面での公正を期す証拠として早くからヴィデオをみせて議論の余地をなくす方法は徐々に他のスポーツでも用いられている。 だから、そのうち、もしまだそのときに相撲という「スポーツ」が残っているのならそこでも「体」がどうした土俵の俵から出た、出ない、などという「ものいい」の際にはこのアメフト流の判定方で判断されていることだろう。

深夜の習慣

2010年02月10日 09時59分38秒 | 日常
屋根裏部屋のコンピューターが使えない2ヶ月ほどの間、それまでずっと夜中起きていてごそごそと何かしている習慣がついているから今まで多く時間をすごしていた屋根裏部屋から階下の居間降りてきて、そこにある家人の日本語の使えない古いパソコンでいろいろと眺めたりソファーに身を沈めてテレビやヴィデオ、DVDなどを眺めたりしていたのだが、今年12歳になる我が家のおばさん猫がいつも近くにいた。 とりわけ今の寒い時期には昼間は別として、夜間は大して面白いことも起こらないのか近所の同類もでてこないのかガラス窓から自分のテリトリーを管理する風に眺めることもなくもっぱら暖かいところを探してそこにまるく包まって寝ている。 たいていはセントラルヒーティングのエレメントの近くでもっとも暖かいところだ。

ところが、夜の12時前にはセントラルヒーティングのサーモスタット調整が20度から15度まで落ちて徐々に室内の温度が下がり15度以下のなったときにはボイラーが作動して15度を保つようにしてあり朝の7時ごろには再度18度当たりに戻るようにタイマーと連動したプログラムをセットしてある。 もちろん日常の温度調整プログラムがそうでもその時々で温度調節を上げたり下げたりできるわけだけれどこの時間には起きているのは自分ひとりだけだから特に温度を上げるようにするということもなく寒ければ何か羽織って寒さを遣り過ごすということにしている。

今夜は外気がマイナス5,6度だから裏庭の物置にビールの空瓶を片付けに出ていくつかの戸締りをして家の中に戻ると中は15度でもしばらくは暖かいと感じるもののそのうちまた寒いと感じ出してちょっと強い酒を舐めたりして体内温度をあげたりする。 いよいよ朝も近くなり居間の店じまいをすることにして部屋のいくつかある灯りを消すと今まで眠っていた猫がうっすらと目を開け、伸びをして床に降りドアのほうを向いて私を部屋の外に先導する準備をする。 前足で一掻きすればドアは開くし誰もいないときはそうして自分で行きたい所に行くのに今はドアの前に座って誰かが開けるのを待つ。 そのドアが開けられれば次に廊下を抜けて台所に通じるドアの前で同じように座ってそのドアが開けられるのを待つ。 そのドアも自分で開けられるのに誰かがいれば自分では開けようとはしない。 深夜にはその誰かは私以外の誰でもない。先導されてちんまりとドアの前に鎮座したおばさん猫のために私がドアを開けてそこでお通り願う体だ。この何年かはそういう習慣、暗黙の決まりができている。

この二ヶ月ほど夜中の居間には私とこの猫以外にはいなかったから自然と持ちつ持たれつの関係のようなものができていた。 夕食後はカレンダーの日付がかわるまででも家族のものたちが居間にいるときはその近く、かれらのひざの上、どこかにある椅子の上、薄暗い部屋の隅でなおかつ暖かそうなところ、所定の猫のかごの中、ソファーに置かれたクッションやブランケットの上などにいる。 私がテレビの画面に見入っているときにはひざの上である。 特に、深夜に温度が下がりセントラルヒーティングのエレメントからは鉄の冷たさしか伝わってこないときには人間の体温はひとしおなのだろう。 彼女にとってもっとも暖かいのは私の膝の上のようでそこからは動こうとはしない。 ソファーで足を投げ出してテレビの画面に向かっているときにはどうということもないのだが古いパソコンの前に座っているときなどでも机と私の体の狭いところに来て膝の上に座る。 するとキーボードに向かう両の腕で抱えるようにもなり、テレビを眺めているときとは違って細かい動きがいろいろとあるのにそれでもむりやり意地でもそこを離れないという意志の強さなのか体を丸めてそこに居続けようとする。

そういうこの二ヶ月ほどの習慣が私のパソコンが修理されたことから変わって猫は2時までには居間を離れて台所の隅にある自分の所定のかごの中に行くこととなった。 そこも朝には暖房が入って暖かくなるのだがそれまでの夜間の温度は居間ほどではなさそうで、ここには餌と水、トイレがあるだから仕方なくいる、という風でもあり、ドアに隙間があれば再度居間に戻りたいのだろうけれど今はドアは閉められているからそれも叶わず結局朝まで待たねばならないと覚悟をして少々の腹ごしらえをしてすぐかごの中で丸くなる。

それから何時間か経って屋根裏部屋から下に降りて冷蔵庫をごそごそかき回し遅い夜食を用意しているときでもそのときはもうわざわざ起きだして私にまとわりつくということもせず台所の大きなガラス窓から朝の光が入ってくるまで丸い形を崩すことなく居眠り続けるのだ。

こういう習慣は自然と出来上がっていったもので夜中には互いの動きが分かるのだが昼間はこれとは全く違う両者の貌やパターンがある。

 

さて、なんとかパソコンの補修ができて、、、

2010年02月09日 09時57分15秒 | 日常
ほぼ2ヶ月ほどブログから離れていた。 あしかけ5年以上ブログをやっていてこれだけ離れたのは初めてだ。 一週間に2度ほどでかける仕事場で書けないことはないけれどないけれどそこでは落ち着かないし、それにいくらなんでもそこまでやることはないとも思うから仕事場ではメールをみる程度だ。

日本のニュースは家人のパソコンで見られるから別にどうということはないのだけれど、こどもたちが家に帰ってきたときに使ったりして家人と共用するパソコンは日本語や漢字が使えないようにしてあってそれで自分のメールボックスを開けると日本文字がすべて文字化けするから使えない。 だから自然とパソコンから離れ、12月の中ごろから今まで、夜中にことことキーボードに向かう日常もなく、代わりに寝床で本を読んだり下の居間でビールを片手にテレビやヴィデオおをとりとめもなく眺めたりしていた。

けれど、なにか今までの癖というか、これはメモをして日記に書いておかねば、、、、、と思うこともいくつかあったのだがそれも思うだけで実際に書きとめておかねば日常の些事にまぎれて記憶の底にすぐ沈んでしまう。

この2ヶ月ほどの間に二回ほどどかっと積雪のある、この10年来ないほどの以前の「普通の」冬の気候になっている。 先週の週末には夫婦二人でデルフトから二つぐらい鉄道の駅を隔てた郊外の田舎道を14kmほど歩いたのだけれど、そのときにはどこも15cmほどの積雪があり、マイナス2度ほどではあるものの青空の下、太陽が出て防寒具の下は汗ばむほどで歩行中、露出した首に太陽の温度が感じられるほどだった。

この4,5日にはその雪も消えて北ヨーロッパの重苦しい鉛色の空が広がっているのだがいっそマイナス15度から20度になれ、と期待するのだけれどこれから10日ほどは夜間は零下5,6度までは下がるものの昼間は氷点下のあたりをうろうろするらしいからこの鬱陶しい天気は当分の間は続くようだ。 けれど大体は2月の中ごろにどかんと雪が降り2月の末ごろからは徐々に春の気配が少しづつ見え始めるのだからあと一ヶ月というところだろう。

夜の10時ごろ熱い風呂をたてて冷たいビールを持ち込み1時間ほどそこに横になり、いろいろなニュースを聞いたり流れてくる音楽を聴いていた。 アメリカの東部で修理中の電力中継所が爆発して多くの死者が出た、というのは昨日のニュースだった。 今日のニュースは何だったのだろうか。 記憶にないから世界にはとりたててひどいこともなかったのだろう。