God Rot Tunbridge Wells! (1985)
119 分
監督: Tony Palmer
シナリオ: John Osborne
配役;
Trevor Howard Georg Friedrich Handel
Dave Griffiths Middle-aged Handel
Christopher Bramwell Young Handel
Ranald Neilson The Boy Handel
Tracey Spence Mary Granville
Anne Downie Vittoria Turquini
Simon Donald Prince Ruspoll
Peter Stanger Domenico Scarlatti
Beth Robens Handel's Mother
Mitzi Mueller Francesca Cuzzoni
Elizabeth Lax The Second Soprano
Chris Young Buxtehude
Caroline Woolley Marie Sall�・
Shona Drummond The Handmaiden
Isabella Connell The Princess of Wales
粗筋;
Shortly before death, George Fredrick Handel (1685-1759), old, blind, portly, sometimes raging and usually reflective, narrates a look back over his life. As he tells his story, his music plays as background or is performed on screen. As a youth, he is Buck, a prodigy, attractive to women and to patrons. He travels from Halle to Italy then to London, where he finds himself completely at home. He composes constantly. He pleases princes and dukes; he displeases prelates and critics. He's in court to defend his copyright. He makes and loses money; he engenders a cat fight between two divas. At the end of his life, he observes that he helped the English with their religion.
自宅の屋根裏部屋で机に向かっているときインターネットのバロック音楽の局から流れてくるものを聴きながら作業をすることがおおいのだが、或る日、聴いたことのある旋律が流れてきてそれに被せて男の低音の独白が何か人生に対する辛らつな想いを語っていた。 この局では他の音楽局と同じく大抵は音楽だけしか流れて来ずこのようなことはないので妙だなと思ってタイトルをみるとヘンデル、God Rot Tunbridge Wells! と出ていた。 それをコピーしてグーグルで検索したら本作の情報が出てきて You Tube に二時間ほどの本作が貼り付けられていることも分かったのでそのまま机のモニターの前でほぼ2時間本作を観たと言う訳だ。 なかなか面白いものだった。 惹句に「悲劇的な人間喜劇かコミカルな悲劇か」とあって、ウィキペディアの記事から想像できるヘンデル像からは少々逸脱した、いかにも人間的なヘンデル像が立ち現れていた。
1685年というのは音楽史の上では画期的な年だ。 ドメニコ・スカルラッティ、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ、それに本作の主人公ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルが生まれた年でそれから300年が経って生誕300年を記念して制作されたのが本作だそうだ。 そういえば85年にヨーロッパの各国でバッハの生誕記念イベントやコンサート、CDボックスなどが発売され、その後、モーツアルト年、マーラー年などと続き、自分はレコード店で Mitsuko Uchida のモーツアルトピアノ協奏曲、オランダ・コンセルトへボー交響楽団、ベルナルド・ハイティンク指揮のマーラーの第5番を買って聴いた記憶がある。 けれど自分の好みはモダン・ジャズでクラシックにはあまり明るくないのに加えてヘンデルに対する知識というのは小学校、中学校の音楽の授業で習ったものから少しも出ない程度であり時々はFMラジオから流れてくるものがたまたま耳に入ってきてそれがヘンデルのものでオーソドックスで少々構えが大業であり受けはいいけれどこれでもかというようなバロック音楽だと捉えていたようだ。 自分の中ではJ.S.バッハをバロック音楽の最高峰として認識していた風もあり音楽史でもそうだと思っていたのだが当時はそうでもなくむしろヘンデルの方が成功し名声も高かったと今回資料に目を通して知ってそれを面白く思った。 本作中でも老いたヘンデルがバッハに関しては疎ましい存在として毒づく対象にはなっているけれど自分より上のものとしては描かれていない。 人生の終わりに際して孤独な老人の回顧と世界に対する呪いとも言うべき罵倒の対象一つとしてバッハが登場している。 むしろこのヘンデルの方が富と名声を一手に集めていたのだからそれは理解できる。 そこで自分の好みの音楽の中でバッハのLPやCDは幾つかあるもののヘンデルのものがないことの理由を考えた。
小中学校の音楽の授業から今まで残っていた印象はヘンデルはイギリスの作曲家だということだ。 それに現在でもイギリスのテレビ、ラジオの様々な文化、歴史、音楽番組の中では比較的多くヘンデルのものが流され、だからそれと合わさって絵画と同じくヘンデルをイギリスを代表する作曲家だと思っていたのだろう。 絵画の世界と同じくヨーロッパの中での文化交流から音楽もドイツ、フランス、イタリアと人が古くから交差するのは現在と同様であるのだが1960年代の中学生にはその交流の様は知る由もなかった。 島国に住むものにはヘンデルはイギリスとして固定されていたようだ。 イギリスも日本と同じく島国ではありその国民性、文化には島国性があるもののヨーロッパ大陸に対する距離と歴史を考えると日本の島国性とはかなり異なったものである。
バッハとの違いを考えてみた。 それは作品と彼らの生涯から想像するものだがバッハの作品群にみられる機械的とも言えるほどの平らな音の持続は好ましい市民のものであり、ケレン味の強いヘンデルのものは富を有する者、権力者のもののように思える。 結果としてそこから子沢山の家系を築いたバッハと孤独に終わるヘンデルの気性がみえるような気がするのだがこれも後付けの半可通の言葉でしかないだろう。 両者とも成功者ではあるけれど演劇的にはヘンデルのほうが面白いのはミロス・フォアマンの「アマデウス(1984)」と同様である。
小さなスピーカーから流れてくる音楽と男の声から本作を観ることとなったのだが、その声を聴いた時にそれは「レッド・オクトーバーを追え!(1990)」で駐米ロシア大使を演じその演技と声に惹かれた Joss Ackland かと思ったけれどそうではなかった。 Trevor Howard という俳優の風貌にはどこかで見たような記憶があるのだがその作品リスとをみてもはっきりとは浮かび上がってこないけれど唯一の記憶はデヴィッド・リーンの「ライアンの娘(1970)」でのものだろう。
尚、本作の末尾で Andrei Gavrilov がピアノに向かい 'The Passacaglia' を弾くのが観られるがこれがヘンデル生誕300年記念映画の演奏としてふさわしく、素晴らしいものだった。 後ほど You Tube でこれを再度聴こうと検索すると次のものが出た。
http://www.youtube.com/watch?v=ZM-quRm71Vk
ここでは1979年のコンサートツアーの録音が見られ、ことに嬉しかったのはまだ若い Andrei Gavrilov のとなりにリヒテルがならんで楽譜のページを繰るのがみられることだ。 本作の演奏のほうが録音といいダイナミックさということでは映画にふさわしいものではあるけれどこのコンサートの録音の10年ほど前にまだ自分が浪人生の頃、大阪の天王寺図書館からリヒテルがベートーベンが使ったピアノでベートーベンのピアノコンチェルトを弾いたLPを借りて聴きいたく感動したことを思い出し、それを懐かしく思ったものだ。