暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

これで暑い夏もおわりか

2019年08月31日 01時20分05秒 | 日常

 

8月が終わり9月になった。 昨日あたりから気温が下がり過ごしやすくなった。 7月中頃にオランダの史上初めて40℃を越したとき自分にはまだ体力が残っており、暑かったとはいえそれには余り辛いと感じることはなかった。 けれど一昨日当たりの30℃を越すかと言うときにはもう自分のバッテリーの残高が少なく、暑さに対する抵抗力もほぼ尽きかけており、何を、多寡が30℃ごときで、、、と思っているときに、ああ、これが死にゆく年寄りに堪えるあの暑さなのだなと実感した。 今年のオランダは真夏日のピークが二つあって二つ目が8月の終わりに来るのは珍しいのだそうだ。 それをなんとかやりすごした。

夜中に窓を開け放っても27℃になっていた。 そして汗に濡れた体に風を送るのに団扇を探したのだが見つからなかった。 もうだいぶ昔、日本の土産に渋団扇を幾つか買ってきて使っていた。 大抵は30人分ぐらいの寿司を造るときに酢飯を冷ますににバタバタ熱い飯を扇ぐのに使うためだった。 他にはバーベキューの練炭の火を起こすのに使ったかもしれない。 元気な時に暑い夏に熱いシャワーを浴びて片手にはビール、片手には渋団扇というようなことをしたこともあるかもしれないがそれはまだ若い時だったのだろう。 その後は盆踊りの団扇だの村祭りのダンジリの団扇だったりしたのだが今になってもうどこに何があるのかそんなものはどこにも見つからない。 そういえばあるときから酢飯を冷ますときに段ボールの切れ端で扇いでいたし、新聞をまとめて扇いで風を送っていたのだから周りから徐々に団扇が無くなっていたのだろう。

急にデイパックのリュックサックのポケットの一つに扇子があるのではないかとひらめいた。 ここには幾つものポケットがあり非常用の薬を頂点として様々な小物が入っている。 カメラのバッテリー、ミニ三脚、ペン、メモパッド、飴玉、チューインガム、頭につけるライト、ディッシュにポンチョ等々、、、。

あった、何年ぶりだろうか手に取るのは。 今はもうベッド生活なのだが1か月ほど前までは外出時には必ずデイパックをもちあるき、それはオランダの日常だけではなかった。 隣国に出かける時、3か月前に最後の旅としてクルーズでバルト諸国やロシア、スカンジナビアのの国を巡った時、日本に出かける時にもこの何年も、もう10年ほど同じものを携帯して歩きまわっていた。 だからオランダと日本を何度も往復していた筈だ。 けれど使った記憶はあまりない。 それは日本に出かけたのは夏ではなかったからなのだろうし、夏に2か月間、母親のゴミ屋敷を処分しに行っていたときには熱暑のなかで扇子どころではなくほとんどクーラーからクーラーへと移動する日々だったのだろう。 扇子というのは微妙なものだ。 渋団扇とは格が違う。 それを実感した。

ベッドに横たわって扇子を拡げ、ゆっくり左右に動かす。 微かな風が濡れた肌に心地よい。 体力のない病人にはこの微かな力で微かな風を起こし、それを涼しいと感じるのだから繊細なものだ。 それは今の暑さがもう夏の峠を越して秋の気配を含んでいるからなのだろう。 これで少しは助かったと感じた。 1か月ほど前に自分の寿命は10月の中頃だろうと踏んでいて夏の暑さは何事でもないと軽んじていたふしがある。 それがこの2週間ほどで急激に落ち込みあと3週間はないだろうと思うようになると急に暑さが堪えた。 けれどこの扇子でうっとりするような繊細な風を感じられたのは嬉しい収穫だった。 

かき氷を売る店の軒にかかっていたつるしのデザインを配した涼しい扇子だがこれをいつ誰に貰ったものなのか思い出せない。 


副葬品だろうか

2019年08月27日 01時51分35秒 | 想うこと

 

もうだいぶ前、2年ほど前になるだろうか、国立癌研で手術を受けたときに縫いぐるみの鯖について次のように書いたことがある。

https://blog.goo.ne.jp/vogelpoepjp/e/0342de3ace3c4c5d54c205ea113d0c9a

https://blog.goo.ne.jp/vogelpoepjp/e/c3d6d7284d23af6aecef688e4cb7d822

 

その後この鯖はいつも自分のベッドの脇に置かれていた。 そして今まで機会があるたびにマーケットや端切れ屋でヒレになるような端切れを探していたけれど思わしいものが探せずそのままになっていたとき、このあいだの隣組のバーベキューの折り、そのときの話からこのあいだハンスのボートで舟遊びをすることになったそのハンスの連れ合いのティネカが、私、孫のための縫いぐるみを作るのに端切れを沢山持っているからその中にいいのがあるかもしれない、さがしてあげるわ、と言ってくれてこのあいだ家まで鯖をとりにきた。 ハンスもティネカもふたりとも医学博士の号をもつ医者なのだが、児童精神医療医であるティネカは未だに喫煙の習慣が断たれず我々は密かに彼女を「ニコティネカ」と呼んでいる。 息子が小さい時から彼らの3人の息子の一人と仲良しだからしょっちゅう互いに行き来をしていて、ことに自分が病を得てからは何かと気を使ってくれている。 それで適当な端切れが見つかれば自分で縫おうと思っていたものが2日ほど前に突然家にやってきて、出来た、と言って手渡されたものがこの完成品だ。

ま、自分でやる手間が省けたし造りがまことに丁寧に造ってあって自分の口出しできるものではない。 癌研で手術以来の鯖だからこれをこのまま棺桶に入れてもらうことにした。 多分自分が横たわる腕のあたりにこの鯖が横たわることになるのだろうか。 そして自分の右手の人差し指には娘の父の日のプレゼントである珍宝・金玉の指当てが嵌っている算段となる。 なんとも珍妙な体裁だけれどこれが自分の希望する格好だから皆自分の棺桶を覗いて苦笑でもしてくれれば本望だ。

ここまで来て、これは古代いろいろなところで行われてきた副葬品じゃないのか、とおもったものの、埴輪にしてもエジプトの様々な副葬品にしても葬られる時にそのままの形で後々まで残るものだ。 自分のこれらのものは自分の体とともに焼かれて残らないので副葬品といえるのかどうか、どちらにしても火を通されるのだから鯖は燻製になればいいのだがそうはいかず丸焼けになって跡形も残らなくなるだろう。 まあ、それで結構、これでこの鯖の役目は終わる。 可哀そうに幼くして逝く子供たちの小さな棺にはディズニ―や日頃身近に置いている縫い包みが添えられて新たな悲しみを誘うのだろうが、70に近い耄碌ジジイのそばには珍宝・金玉と縫いぐるみの鯖とは如何にも面妖、困惑を誘うもの、そのとき覗き込む弔問客に片目でも開けられたら楽しんのだろうがそこまでは期待できないし、そうなると悪趣味の極みとなる。

 


夏日が戻って来た

2019年08月25日 23時23分03秒 | 日常

 

一昨日まで20℃ほどの涼しい日々が続いていたのにまた30℃あたりまで気温が昇る夏日が戻ってきたようだ。 死にゆく病人にとってオランダでは普通のクーラーもない家では窓を開け放ってやり過ごす以外に方法がないけれど、それでもまだ湿気がない分これを凌げないことはない。 夜も11時ごろまで西側のバルコニーに続く部屋の窓を開け放っていたものが少しは涼しくなり、蚊が入らないよう網戸をつけて戸を閉めると室内は26℃とまだ暖かい。 けれどそんな部屋に横たわり静かにしていると夜の冷気が徐々に感じられるようでもあり、あと3,4日凌げばまた過ごしやすくなるとの予報を頼りに体の痛みが再発しないよう願って息をひそめる。 

日中庭に出るとハイビスカスが日差しの中で咲いていた。 写真を撮るのに一瞬のことだが息を詰めてシャッターを切って姿勢を元に戻すときにバランスを崩した。 これだけのことにも体力が無くなっている。


最後の晩餐のようなものなのか

2019年08月22日 23時07分53秒 | 喰う

 

胃と食道が徐々に癌の腫瘍で閉塞してきている実感があるからあと何日食い物が自分の喉を通過するのかという数が数えられるかもしれないというところにきている。 耐えがたい痛みの原因が夕食であるだろうということからもう夕食を摂ることを止めた。 だから一日で一番食事らしいものを摂れるのは朝食だけになっている。 昼食、夕食ともに小さなエスプレッソカップほどに入ったスープと小さな欠片のトーストぐらいで昼食には半熟卵かスクランブルエッグが添えられるくらいだ。 だから朝食が今の自分の食事らしい食事となる。 それを最後の晩餐のようなものか、と言ってみる。 でもまだ多分二週間ほどは生きているのだろうから「最後」とも「晩餐」ともならず、単なる貧しい朝食でしかない。 けれどこれが食事らしい食事としての自分の最期の晩餐らしいものとなるようだ。

もう半年以上前から喰えなくてパン一枚をトーストにしてそれを3つか4つに切って何かを塗ったり乗せたりしてそれをミルクティーで済ますのが自分の朝食である。 元気な時は大抵パン二枚で色々なものを組み合わせて喰ったのだがもうこの半年ほどがこれが定番になっている。 オーブン180℃で両側それぞれ3分焼いたパンに無縁バターを塗り、自家製の苺ジャム、オランダ王室ご用達のソーセージにフランス・デジョンマスタード、農業産品直売場で求めた地元の蜂蜜、この日は乗せなかったトリフ入りのチーズなどで喰う。

食事の量が少ないのは一度に飲み込める量が極端に少ないからでもある。 大きいものを飲み込んで一度痞えるともうあとが行けないから自然と細かく刻んで時間をかけて少しづつ噛み、そろそろと飲み込む。 こんなだから飲み込むときには殆ど味は消えている。 味気ない話だ。 

味覚・嗅覚は健全だ。 だから階下で夕食には何が料理されているかが分かる。 スープにするのに赤パプリカをローストしているとその独特な香ばしい匂いが立ち上がりステーキを焼く脂が甘い。 スープは別としてその他のものはもう自分の口には入らない。 その匂いだけでどのようなものなのか味わえるのでもう喰えなくとも残念だとも思わない。 自分の食事はもう想像の中だけでしかなく、今はもうそれで十分だ。

 


時間が限られていると分かると人は忙しく、、、、

2019年08月21日 21時44分57秒 | 日常

 

このところ日記を書かなかった日が多かった、といういより書けなかった日が多かったというべきか。 それは自分の体調が頗る不安定なうえに悪かったことと忙しかったことに由る。 夜は七転八倒の痛みに襲われ続きその対応に追われ、その翌朝、午後には医者の来訪をうけていたこと、それに痛みがない時には人の訪問を受けていたからPCの前に坐ることができなかったこと、例え坐ることができていたとしてもその時間がとれなかったということからだ。 

何事も時間が限られていると分かると人はそれに間に合わせるために忙しくなる。 それが自分にも当てはまる。 自分は自分に限られた時間に何ができるか、もう殆ど出来ないことばかりなのだが、それでも動けない中でどうにか塩梅しようとしている。 そんな中、知人、友人、縁故者がここにきて一時に連絡を取ってくる。 遅くならないうちに、まだちゃんと落ち着いて話し合えるうちに会っておこうというわけだ。 当然こちらから会いたくないと思う人たちは誰もいない。 けれどそれが連日となるとちょっと辛い所がある。 一日に2時間、一組ぐらいなら何ともないのだが、重なるときがあればちょっと疲れる。 大抵は前もって電話で都合を訊いてくれるからそこで約束をして対応する。 そしてその折、自分としても驚いているのは着た切り雀の自分がこれが最後なのだからとちゃんとネクタイ・ジャケットで対面することだ。 これには皆内心驚いている風なのだが自分にとっても毎日パジャマで過ごす中で外にも出ないからせめてこういう風に気分を換えて、という気持ちからなのだが、そんなとき自分でも気分がシャキッとして気分が高揚するのを感じる。 だからそういう時には自分が近々この世を去るものには見えないとの彼らからの感想もきかれるのもむべなるかなとも思う。 会っていると楽しく時間を忘れ、そんな自分を家人は普段とは別人のようだという。 実際自分でもそう感じる。 そして彼らが退出するとベッドに戻り横になる。

これから当分こういうことが続くのだがそのうちこの面会が自分がベッドに横になったままになり、そして、、、、、、

ここに記す日記にも終わりが近づいているようだ。 それが突然何の前触れもなく終わるのか呆然と温めている最後の言葉をここに記すことになるのかまだそれははっきりしない。 自分は急がない。

 


日に日に悪化する痛みのパターンのあと、、、、、

2019年08月20日 19時23分55秒 | 健康

 

2019年 8月 15日 (木)

前夜なんとか痛みをやり過ごし、午後家庭医の訪問を受けた。 痛み止めとしてモルヒネの経口剤か座薬を処方することを話し合った結果、今までのパターンでは必ず吐き気の痙攣が伴うから飲み込むものより座薬がいいだろうとそれが処方され、午後家人が近所の薬局に行って受け取って来た。 

夕食後2時間ほどして9時を周って猛烈な痛みが下腹と腰にやって来たがそれは今までのパターンと同じだった。 そこで先ずディクロフィナックの座薬を挿れて20分ほど待つと痛みが幾分か引いた。 腹が張るのでトイレに行って戻ると吐き気が来た。 これもいつものパターンで背中を曲げて嘔吐の格好をしているとその時だけは腰痛が引くようだった。 これで収まるかと待っていると第二波が来た。 堪らずベッドの上を転げまわったけれどどうすることもできない。 ディクロフェナックの座薬がまだ入っているのでもう一度挿入するわけには行かずパラセタモール錠剤を服用した。 苦しみの中で薬の作用かどうかははっきりしないものの今までのパターンから感じていた或る現象を知覚していた。 

それはどんな格好で寝転んでも座っても痛む最中の或る時、或る格好で坐っていると左の下腹部、大腸のあたりがグルグルと音を立て腸の動きが感じられ、あるときに一度に急に痛みが引くことだ。 医者の説明では、食道・胃の殆どの部分が閉塞していて大腸の外部、腹膜に拡散・増殖している腫瘍が腸の部分か腰骨に関わる神経に接触し、それが痛みの原因になっていて、それがあるとき腸の動きか何かに依ってその接触が解け、離れた時に痛みが消えるのではないか、つまり、痛みは食物の塊がその辺りに来た時に神経を刺激するからかもしれない、ということだった。 つまり、腸にガスが溜まって他の部位を圧迫すると痛みが来るように下腹部の激しい痛みはそのようなメカニズムにも依って起こるのかもしれないということだ。 しかしはっきりとしたことは解らない。

このような痛みはほぼ30分に一度何波も戻ってきて結局9時から1時半まで続いた。 その間に処方されたモルヒネの座薬を挿入したがかなりの痛みは消えたものの腰骨の痛みは完全に消えることはなかった。 そんな痛みの経験と酷い疲れの中で寝入っていた。

 

2019年 8月 16日 (金)

昼前に家庭医の訪問を受けた。 前夜の経験から常時痛み対策をとることが検討され、8時間ごとにディクロフェナック座薬、6時間ごとにパラセタモール錠剤、3日ごとにモルヒネ貼付薬を繰り返すこと、そしてそれでも痛みが来れば取敢えずはモルヒネ座薬を入れる事となり、以来それを続けている。 今日(20日)に至るまで痛みは発症していない。 尚、食物が痛みの原因になるのだから朝食は別として昼食、夕食は取りやめ、スープなどの流動食にした。 もう普通の食事をすることはない。

 


モルヒネが待てないから代用薬、ジクロフェナクの座薬をつかった

2019年08月14日 23時21分37秒 | 健康

 

2019年 8月 14日 (水)

耐えられない痛みを経験した何日かだった。 痛みの中で七転八倒しつつ待ちに待った後にやっとのこと訪問医師からモルヒネを投与されなんとか収まったのだった。 そして痛みが周期化するのならと予防の鎮痛剤の処方を得てそれを服用してなんとかしのいでいた。 そのことを昨日記した。 そのとき自分の寿命があと3週間ほどだろうと予感したことも記した。 この2週間ほどの自分の体調・体力を鑑みるとこの痛みの経験と併せて理のあることだろうと思っていた。

痛みのコントロールはなんとか無難に行っていると思っていた。 それが今日午後4時、次の鎮痛剤服用まで2時間を余してまた痛みが急激に来た。 そのパターンは1回目、2回目と全く同じだったがそれは夜の10時ではなく午後の4時。 鎮痛剤はまったく効いていない。 耐えられなくなって家人を呼び、医者に電話してくれと叫ぶと、この時のために座薬を処方されているからと言われ、そうだったとそのことを思い出した。 鎮痛剤は8時間ごとに飲んで痛んだ時のために予め飲んでおくための物、もしそれで効き目がなく激痛が来たときにはそのときに医師を呼びモルヒネを投与されるまでには40分以上かかるためそんなときのためにジクロフェナク座薬を常備しておくことを処方されていたのだった。 

ジクロフェナクは昔痛風の時に経口錠剤として処方されたけれど下痢の副作用に悩まされた経験がある。 その後痛風の痛みには奇跡的な薬としてバイアグラに似た色・形のアルコキシアが取って代わり今に至り重宝している。 このような体験があるからここでジクロフェナクと聞いてちょっと二の足を踏んだ。 服用するのはいいけれど紙オシメをする毎日になるのかという気がして鬱陶しかった。 けれど、自分の食道、胃、腸が殆ど閉塞している現在、経口錠剤よりは座薬の方が下痢の心配も少なく効く速度も速いだろうから、という考慮からの処方だった。 ウィキ゚ペディアには「ジクロフェナクは癌による慢性痛や炎症の抑制にも用いられる」とも記されている。

猛烈な痛みの中で座薬を肛門に押し入れた。 10分ほどすると吐き気と腹痛が収まった。 けれど前の経験と同じく腰痛はなかなか消えなかった。 念のためにベッドにシーツを敷いて急な下痢に備えたがそんな兆候はこなかった。 30分ほどしてほぼ平静に戻った時息子と娘が我が家を訪れた。 もう平静にもどってベッドに横たわっていた自分は彼らに、もう半時間早く来ていれば面白いショーが見られたのに、と言うとそんなショーは見たくもない、と嫌そうにいうので、それも予行演習なのだ、まだこれから何回もある、そのうちこれで打ち止め、というときがくるかもしれない、あと3週間だな、と言っておいた。 自分はそれを信じているか信じていないか分からないが取敢えずの3週間なのだ。