暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

息子のリゾット

2011年02月28日 02時39分22秒 | 日常


2011年 2月 24日 (木)

木曜日は自分の食事の当番で家人と二人だけの分を作ればいいのだが、この日は息子が下宿に我々を招待して晩飯を食わしてくれるというから街中のその建物に7時前に出かけた。 家人はまだメールを送ってしまわなければならないから先に行ってとPCのモニターを眺めながら言うので、しょぼしょぼ降る薄暗い通りを自転車で10分ほどぼちぼち漕いで男女17,8人が住む200年以上も経とうかという古い石造りの邸宅に着いた。 その建物の斜め前には江戸時代後期に日本のサムライがこの町で近代システムを学ぶべく勉学に励んでいた折に下宿していたといわれる小さなうちがあり、そこは今では小さな散髪屋になっているのだけれどそんなことには誰も気にかけないしそこにはただ、入り口の壁に市の記念建築というような小さな標識が張り付いているだけだ。 

息子の下宿のある通りは名前が「藁運河」といわれているように昔は郊外からこのまちに穀物やその他のものを運ぶための運河だったのだが幕末にはすでに埋め立てられて道路になっていたようだ。 馬車が通り、自動車というものが発明され、100年以上そういうことが続いた後、それもあと何年かでここを市内電車が走るようになるのだが、それも何年も市会でもめにもめてその挙句がレファレンダムまでやっての住民投票の結果で町の環状交通網整理のための選択肢の一つとしてここが悪い籤を引いたということだ。 それでなくても今でも片側一車線づつの狭い道路が市電が通ると今以上に混雑することが予想されている。 だからここに来るときは車を使わない。 駐車スペースを捜すのにあたりをぐるぐる周ることとなり、結局駐車できてもそこから長く歩くことになるからだ。 どこの町でも大体こうだからこの歳になると他の町には田舎以外、必要以外は車では行きたくはない。 

それはさておき、この建物の重いドアをノックしてだれかに開けてもらうのだが、そうするとドアのそばの部屋から年頃の見知らぬ娘が出てきて開けてくれる。 その部屋が開いているので中を覗いてみると女の子らしく片付いており、息子が居たときの豚小屋同然とは大違いだというと、ああ、T君のお父さん? と笑いかけ握手、まだ親しくなってはいないので両頬へのキスはない。 その部屋は天井まで5mぐらいあるものだから息子が材木を買ってきてダブルベッドと棚のスペースだけの二階を作り梯子をかけて使われていない上半分の半分に階を造りつけ文句のないゆったり住める部屋となっていたのだが、住人やそれぞれの友人達、様々な男女が出入りするときに大抵ここは駄弁るのに格好の場所となり、ここの住人は門番、守衛ともニックネームをつけられるようなところだから何かするのに集中が困難になるとしてその翌年今の上階に移ったのだった。

階段を上っていくと自宅と比べて長いのに気付くがそれは当然のことだ。 昔の天井の高い邸宅の3階は今の住宅地でいうと4階から5階にあたるのだろう。 召使が2人ほど、家族5,6人の貧しくはない層の邸宅だったのだから上に行くまでには息がきれる。 小さな部屋が5つほどある3階にくると息子は自分の部屋で野菜を刻んでいた。 ステーキを焼くつもりだったが気が変わり、リゾットを作るといい、それじゃそれに使う白ワインがあるなら飲みたいというと、あ、ワインを買うのを忘れたというので仕方なくまた階段を降り、重いドアを開けて道を渡って目の前のスーパーに入る。 安物の料理用白ワインと南アフリカのシャドネー白、ミカンの入った袋を下げてスーパーの表に出ると丁度家人がそこに到着して、娘はどこかで友人達と食事をしてからここに来るという。 部屋の隣のキッチンで米を炒め始めそろそろとブイヨンを注いでかき回し始めた息子にワインを渡し、自分はどこかに転がっていたワイングラスを洗って部屋でベッドに腰掛けてワインを飲みながらテレビで可哀想なスピーチをがなりたてるカダフィ(元)大佐のニュースを見ていたら隣の住人がパイプ椅子を持ってきてくれた。 大抵このうちでは留守のときと邪魔されたくない場合を除いてはどこのドアも開いている。

それは、この建物は息子が属する学生団の持ち物で、団員である住民が持ち回り、割り当てでみな何らかの分担をもつというような仕組みになっていてかなりの信頼関係にあるからなのだろう。 簡単な補修、月々の支払いなどにもかかわる家事経営にも役割が振られる自主管理であるから互いの結びつきが強い、ということにもなっているのだろうし、これは個人が住む普通の学生アパートとの家賃を払うだけで隣人とはあまりかかわりあわないようなところとも趣が少々違う。 このような学生団は欧米の大学では普通だが日本には見られないように思う。 強いて言えば戦前の寮がいくぶんかこれに似ていたかも知れない。 戦前、帝国大学などのあちこちにあった寮は当時のドイツの仕組みにならっていた風もあるのではないかと想像する。 現在2000人弱ほどのこの団にしても、もう100年以上続いていることから卒業生たちは何世代に亘っても社会の彼方此方に何千人と散らばっていて、政治、経済分野でも人脈が豊かで中には大臣経験者も何人もいるということだ。 そういう団の形態というのは欧米社会には様々に見られ、ただ趣味やスポーツだけの部活動とはかなり違うようにおもう。 西欧個人主義を認めてなおこのような団に属すということはそれでバランスをとるメカニズムがどこかで働くのだろうか。 帰属と排除、周りを巻き込みまた巻きこまれるというようなアソシエーション原理で大人の世界を渡る訓練にもなるのかもしれない。

初めてリゾットを作るという息子をワイングラスを手に眺めていた家人が見かねたのかそれとも自分の「秘伝」を見せたいのかキッチンで場所を占拠しているところに女子学生が来なかったのが救いだ。 そんな息子はマザコンだと馬鹿にされるし家人も女同士のインスティンクトから嫌われるに決まっている。 

いそいそと食事を済ませると娘がやってきてさて、でかけようか、という。 そこから4,5軒離れた並びの同様のほかの学生団の建物でオランダで人気のバンドSPINVIS のプライベート・ミニ・コンサートがあるのだという。 名前だけは聞いたことがあるけれど若向きの音楽には興味がないから家でテレビでも見るからと一緒に50mほど歩いて今は雨も止んだところを家にもどりテレビの深夜映画を観た。


後でネットでみると、SPINVIS というのは Erik de Jong という今年50歳になる男のワンマンバンドで、それをみていると1970年代初頭の「はっぴいえんど」が今のオランダに住んでいれば多分このようなものになるのではないかというようなテキストやヴィデオクリップ映像を制作している。 

YouTubeにおける Spinvis ファーストシングル Smalfilm (2002)
http://www.youtube.com/watch?v=9toCufcJAAI&feature=list_related&playnext=1&list=MLGxdCwVVULXdsb-Zo4SjwytfW265p24_k

日記を書きながらYouTubeから勝手に流れる関連のポップを聞いていたら Portishead - glory box が流れてきて、なるほどこれにも繋がるような雰囲気をもっているなと YouTube のアソシエーションプログラムがくっ付ける音楽的傾向の方にも納得のいくものだった。 それにこれが90年代のブリストルサウンドに繋がるならその当時バカンスの長距離ドライブの折に幾夏もカーステレオで聞いていて今はいつの間にか子供達にもっていかれたCDアルバムのいくつかのなかにあった Fila Brazillia 「A Touch of Cloth (1999)」 や Morcheeba 「 Big Calm (1998)」とも距離はあまり遠くないような気がするが多分今の若者はこれには賛同しないだろう。

ウィキペディア(蘭) Spinvis の項
http://nl.wikipedia.org/wiki/Spinvis#Albums

Boogie Man: The Lee Atwater Story (2008);観た映画、Feb '11

2011年02月24日 03時16分11秒 | 見る
Boogie Man: The Lee Atwater Story

2008年

86分

ドキュメンタリー

配給; Interpositive Media LLC

監督; Stefan Forbes


ドミノ倒しのように中東の強権政治が敷かれていた国々の首長が倒れ、昨日イギリスの外務大臣にカダフィ大佐はベネズエラに逃亡したのではないかという声明が出されるとそれを跳ね除けるかのように翌日瓦礫の中で自分に歯向かうものはネズミを駆除するように一匹残らず殺害するとテレビにいきがる姿をみせていた急展開、その波が今日はまたギリシャまで及び、はては中国にも幾分か政府批判が押しよせているのではないか、との観測もニュースに出た今日、観た本作はそんな中では一昔も二昔も前のアメリカの大統領選を巡るドキュメンタリー映画だったのだが、中東、アフガン関連で言えばあながち繋がりのないことではないのだ。

それにベルギーのオランダ語テレビ局にかかったアメリカ映画でこの20年ほど海外で戦われた戦争がどのようなトラウマとダメージを自国で与えたか、というような軍隊・スリラーとでもいうようなものを観て、その1時間後にオランダ国営テレビ局にかかった本作、ドキュメンタリー映画を観たのだが、積極的にみようとおもったのは、本作の舞台がレーガノミクスからブッシュ・シニア、更にはその後大統領になるブッシュ・ジュニアにわたるアメリカ政治エスタブリシュメント内の、そこに若くして入り込み、ブレーンとなって選挙対策に辣腕をふるい、挙句がブレーン(脳)腫瘍で1991年に没するまで走り続けた男の軌跡に興味をもったこと、年齢も自分と変わらない男がなんとも信じられないような動きをしていたこと、そして86年レーガン政権時イラン・コントラ事件あたりからはホワイトハウスに出入りしていたキャリアー政治家と自分の越し方を比較してそれまでのアメリカ政治の折々に影響を与えていた人物が当時から彼に関わるジャーナリストを含めて著名の人物の証言を挟んでの構成だからそれがまるでドキュメンタリーとも思えないほどの奇妙な人物像をたちあがらせることに驚いたからでもある。

ブッシュ・シニアの大統領就任パーティーでギターを弾き歌う姿は圧巻である。 それはアメリカのエンターテイメント界にとっては桧舞台であるのだが「政治にブルースを持ち込んだ男」「ブギーマン」と称される男の一種狂気がかったパーフォーマンスでもある。 

階段をのぼりつめて88年から91年まで共和党全国委員会(The Republican National Committee 略称:RNC)委員長につくことになる。 それは日本の政党でいえば党幹事長とでもいうべき重職なのだろう。 その威光が露になるのが90年以降脳腫瘍治療のあと没後のほぼ準国葬ともみえる国の重鎮たちが葬儀に参列した光景である。

もしこの男が91年に亡くなっておらず健在だったらクリントンは大統領になっていなかった、ということが言われている。 ラムズフェルドやチェイニーが依然としてかれらのやりかたで内政外政の舵をとっていたのなら中東の今の情勢は変わっていたのかどうか興味深いところではある。


ウィキペディア(英)での本作ドキュメンタリーの項;
http://en.wikipedia.org/wiki/Boogie_Man:_The_Lee_Atwater_Story

ウィキペディア(英)でのリー・アトウォーターの項
http://en.wikipedia.org/wiki/Lee_Atwater

新潮社サイト; 有馬哲夫/著 中傷と陰謀 ―アメリカ大統領選狂騒史― (2004) 
http://www.shinchosha.co.jp/books/html/610087.html

Cachorro / Bear Cub (2004);観た映画、Feb '11

2011年02月22日 21時57分00秒 | 見る
原題; Cachorro

英題; Bear Cub

邦題; ベアー・パパ

2004年 スペイン映画


いつもの映画データベースに資料がないのでネットで行き当たった次のグログの記事を参照した。

http://azafran.tea-nifty.com/blog/2005/09/cachorro.html

YouTubeに予告編のクリップが幾つかある
http://www.youtube.com/watch?v=_ztzxkArZrU

金曜夜のオランダ国営テレビ局の深夜映画で観た。 出だしからオイオイ、いいのかこれ、というような性描写が続き、これじゃ日本の保守的な映倫じゃとおらないだろうな、というような性質のものだ。 かなり過激、衝撃的ではあるがこれが異性愛の描写であれば普通にはありふれていて別にどうということもない、かな?

そのうち見ていると可笑しくて笑ってしまうからこれはコメディー仕立てでもあり同性愛者の元気な物語に家族の絆の話を絡めたらこういう風になるような構成かと思った。 異性愛者に対する同性愛(ここでは男性同士)の啓蒙意図も多分にあるように感じる。 それがスペインである、というところにも意外な気もしないではないがもともとマチズモには色濃く同性愛が絡み付いているのだから分からなくもないものの保守的な土地柄でもあるからここに登場する少年の祖母の行動というのも普通の反応に対応しているのだろう。 

本作最後のシーンで墓地が登場するがその土の乾き方と明るい墓地の広さが印象的だ。 それは本作の本質的に重いテーマを軽味でみせる造りに対応しているように見える。

落し物、拾い物

2011年02月21日 17時05分08秒 | 日常

少し前のことだ。 仕事場でコートのポケットに手を突っ込んでいたら何か右のほうが嵩が低いので、あれ、と思っていると手袋の片一方がない。 また落としたのか、とくさって、はて、どこで落としたのかと、そのことを思い返しても思い当たるフシはない。 このところ手袋をするほどの寒さでもなかったのだがポケットに入れたままだったからこの前ポケットに手を突っ込んだのはいつだったかと思いをそちらのほうに向けても自転車の鍵はズボンのポケットだしコートのポケットには大したものも入っていなくてそこには手は向けていない。

とにかく仕方がないのでまた買わねばないか、面倒だなあ、店に行ってまたあれやこれやと選ぶのか、とまた面倒の虫がもぞもぞと頭をもたげ首を伸ばして右左を眺めているのを無理やり抑えた。 左側の残ったほうを眺めながら、これもゴミ箱に放り込むことになるのかと考えていると、そういえばこの二重に履いていた手袋の下の薄いものは3年ほど前の真夏のバカンスの折、スイスのダボスでキャンプしたとき真夏でも雪が降って急に手先が悴んだから地元のスポーツ用品店に飛び込んでスキー用に使うのだというとても薄いハイテク繊維のこれがいいといわれて買ったのだけど、さすがこれ1枚だけでは氷河のあたりを歩くには指先の冷たさは避けられなく、バカンスが済んで帰ってきて冬が来たときにオランダのサンタクロース、シンタクラースに頼んでプレゼントにもらった普通の手袋と二枚重ねてつけていたものだった。

質に関係なく一度使い慣れたらそれが朽ち果てるまで身につける癖がある。 穴があいても汚れても、この歳になったからでもなく、若いときから見栄えにはとんちゃくしなかった。 靴などはちびたり形が変わったりして履けなくなると仕方なく捨てる。  衣類など家人が見るに見かねて捨てる。 それも私の目の前にそれをかざして死刑宣告をしてから破るなりゴミ箱に放り込む。 残酷なやりかただ。 学生のときから愛用していた放出品のカーキのコートがあったのだが、それは友人からもらったものだった。 ベトナムでアメリカの兵士が着ていたもので名前や部隊名が入っておりフードもあって重宝した。 大きなポケットがあちこちにあってなんでもかんでも入るから便利で広げて草の上にでも敷けばそこで昼飯も食えた。 さすが商社マンをしているときには仕事には着なかったが休みには着ていた。 オランダに来てからも大学の研究室にもそのままで通っていたし、そういう連中もいたから別にどうということはなかった。 けれどそれでも長い年月の間に徐々に擦り切れ穴が開き、ときには入れていた物を落とすようにもなり、あるときにそれが身元から消えた。 家人が見るに見かねて棄てたのだがそのことで大喧嘩をして3日ほど互いに口をきかなかった。 1985年のことだ。 それ以来物が時々消え、ときには死刑宣告が下され、目の前で処刑される。 しかし、この手袋が消えたのは家人の仕業でもなく誰が見てもまだまだ使えるものだ。

仕事が済んで外に出て手袋をつけるような気温でもなく、今年の夏もアルプスにいくことはないからもう次の冬まで要らないか、またシンタクラースに頼めばいいだろうと思いながら水路のそばを走らせていたら見覚えのあるものが水路の端に落ちている。 自転車を停めてそれを手に取ると紛れもなく自分の右手だ。 12時ごろここを通っているからそのとき落として5時半までそのままここにあったわけだ。 散歩の犬に小便をかけられているわけでもなく、ここを通る人にも拾われているわけでも子供達に弄ばれているわけでもなかった。 そのあいだに雨が降っていなかったようでレンガが濡れているわけでも手にとっても湿ってはいない。 それに、落としたのが今日だということもわかった。 それではどうしてちゃんとポケットに入っていたものがここで落ちたのだろうか。 無意識に何かを探ってそのときに落としたのだろう。 買い物のメモでも無意識に探っていたのだろうか。 まあ、拾い物記念にと手にとった片一方をもとのあったと場所にもどして写真を一枚撮っていると背中に視線を感じ、振り返ると老人が窓を通してこちらを胡散臭そうに眺めている。 実際に落ちていたそのままの形ではないなあと思いながらも手袋を動かすのも気が引けて後ろに視線を感じながらそこをスゴスゴと退散した。 何もこちらが悪いことをしているわけではないのに妙な気分でもある。 後でそのショットをみるとなんだかしらじらしい手つきが感じられてなんだか気分が納まらない。

また残り物の夕食か、で、リゾットだって

2011年02月20日 16時08分56秒 | 喰う
2011年 2月 14日 (月)

家人も自分も一日中冬篭りで夜半に外に出ようとして何時もなら開いているはずの裏戸や物置の戸まで鍵がかかっているのに気付き、結局一日中夫婦は外に出なかったのだということに気付き、それもそうだった、夕食もまたそのようだったのだからと納得した。

茸があったからそれを使うことが頭にあって結局リゾットにしたのだという。白のシャドネーと茸がこの日のポイントで、チーズもサラミもオランダ製だがそれでもイタリアで喰うような味がしたからその理由はなんだったか知りたかったのだがわからなかった。 いつものようにペコリーノ・チーズがかかっているのなら分かるのだがこの日は普通のオールド・ゴーダチーズだからアイタリアのものほどクセントが利かないような気がするのだが、それほどでもちゃんとリゾットの味になっているから不思議だった。 結局は茸の味がオランダからイタリアのほうに引っ張っていたのだろうと勝手に結論付けた。

チーズ屋の山羊

2011年02月19日 23時52分59秒 | 日常


急いで買い物をせねばとマーケットを歩いていたら息子が幼稚園から一緒の友達の親、パウルが陽気にチーズ屋の店先で話しているので声をかけてふと見ると店の上に木彫りで首にワンコの首輪を巻いた山羊が立っている。 

この山羊はあちこちに出没する。 ここに並ぶ店は大体どの辺りに立つかは決まっていて野菜の店が5つほど、その次が鶏やウサギ、鶉などを売る店、ここは大きなオーブンが置いてあって鶏の丸焼きや腿、脛などがローストされていて買わないで通るというのが難しいほどのいいにおいをさせている。 腹が減っているときは200円ほど払うと熱々の脛が4つ5つ袋に入って渡されるのだが今日は何人もローストされるのを待っているからそこはパス。 それに続いて果物商が4つ5つ、小さい運河の小橋を渡ると端から魚屋が5,6軒、花屋が4,5軒、という風になっていてその間にナッツや中東のオリーブの漬物類を売る店が挟まっている、という感じなのだが、そして100mほど向こうには雑貨からペットショップに自転車屋、おばさん、娘っ子たちが群がる安売り、装飾品の店店が続くのだが、このチーズ専門店、時にはあちら側、反対側、端っことよく動いている。 そして、そのたびにこの山羊が立っていてこちらを眺めていたりどこか別のところに首を向けている。

この山羊、子供も大人も撫でて通るほど可愛く、また腰、腹の具合と乳房が豊かでこれからだと一回どれくらいのミルクがとれるのだろうか、100ccぐらい搾れれば上出来かなと思案してそれをそこのお上さんに聞いてみようと思ったのだがそのおばさん、パウルとお喋りに忙しく、まあ、いいか、こっちもこちらで向こうでジャガイモ1kgとリーチー、バナナに西洋梨を買ってその足で50mほど離れたジャズ・カフェーでのセッションに飛び込まねばならぬから忙しいのを思い出し、写真を一枚撮って歩き始めた。 この山羊のオールド・チーズは1kgで12.9ユーロだから1400円程度か。 乳の量と作る手間を考えたら高くはない。 うちではサラダなどに付け合せるのにフェタというギリシャか北アフリカあたりの山羊の出来立てソフトチーズを使うけれどこれはどんなものか。 オールドだったら赤ワインに合うのかもしれない。 次にこの山羊がどこかに立っているときには試してみようとおもう。

砂と霧の家 (2003);観た映画、Feb '11

2011年02月18日 19時14分25秒 | 日常


砂と霧の家(2003)

原題;HOUSE OF SAND AND FOG

126分

監督: ヴァディム・パールマン
製作: マイケル・ロンドン、ヴァディム・パールマン

原作: アンドレ・デビュース三世  『砂と霧の家』(DHC刊)
脚本: ヴァディム・パールマン 、ショーン・ローレンス・オットー

出演
ジェニファー・コネリー   キャシー
ベン・キングズレー    ベラーニ
ロン・エルダード     レスター
ショーレ・アグダシュルー  ナディ
フランシス・フィッシャー
ジョナサン・アードー
ナヴィ・ラワット
カルロス・ゴメス
キム・ディケンズ
レイ・アブルッツォ
マルコ・ロドリゲス
アキ・アレオン

 アンドレ・デビュース三世の同名小説を実力派俳優の豪華共演で映画化したヒューマン・ドラマ。ある一軒の家をめぐって対立する孤独な女性と移民家族が織りなす人間模様と彼らを待ち受ける悲しい運命を痛切に描く。主演は「ビューティフル・マインド」のジェニファー・コネリー、「ガンジー」のベン・キングズレー。共演のショーレ・アグダシュルーは本作でアカデミー助演女優賞にノミネートされたほか、様々な映画賞で助演女優賞を獲得、高い評価を受けた。

美しい夕陽が臨める海辺の一軒家。亡き父が遺したこの家に独りで住む女性キャシー。彼女は結婚生活が破綻して夫に去られ、仕事もせず悲しみに暮れていた。そして、そんなキャシーに追い打ちをかけるように、わずか数万の税金未納が原因で家を差し押さえられてしまう。それは間もなく行政の手違いと判明するものの、家は既に他人の所有となっていた。新しい家主となったのはベラーニ元大佐の一家。彼らは政変でイランを追われ、アメリカに亡命してきた。祖国では上流階級だったベラーニもここでは肉体労働者として働かざるを得なかった。ベラーニは愛する妻ナディと息子のため、この家で人生をやり直そうと固く決意、残りわずかな財産をはたいてここを手に入れたのだった…。

以上が映画データベースの記述である。

三年半ほど前に本作の原作者の父親の小説を基にした「インザベッドルーム」という映画を観て次のように記した。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/45822318.html

本作はもう半年ぐらい前に後半だけを観ていた。 それはそのとき偶々テレビにかかっていたものを横目で見ていてその雰囲気がどこかで見たものに似ていたからソファーに沈みこんでとにかく終わりまで観たということだった。 その理由は上記の「インザベッドルーム」と幾分か重なる雰囲気をもっていたからかもしれない。 

サンフランシスコ郊外の橋がみえる海岸沿いの霧のかかる家の前、錆びた車の中にいて恨めしそうにその家をながめる、そろそろ30に手が届きそうか、という女と彼女の感情の向かい方に危ういものが感じられ、また、彼女に絡む男の状況とそれからの成り行きの中で醸しだす雰囲気が上記作品と共通するものが多分あったのだろう。 しかし、その後の、外国から越してきた元軍人の彼女や家族に対する態度と物語の展開をみて、それは父親の作風ではなく本作原作の、息子の方の話だろうと思った。 それも所詮は後付け知識のことであって話の中にいるときには自分の想いがさまざまに登場人物たちのところに行く。 

半年前、私が見始めたときはそれまでに何があったのか知らないけれど、この美しく崩れてゆく女性のほうに憐憫の情が沸くし、「ガンジー」を観て打たれた役者、キングズレーにはその後の彼が出演する作品でも厳しい演技をみていて少々敬遠していたきらいがあるのだが、ここでもそのようなキングスレーの演技が続いたものの、それが、今回本作を最初から観てその厳しさに納得がいったし本作では大きく彼に親和力が働いた。 この夫婦のつながりと一人息子に対するキングスレーの愛と屈託が前半に示されていてこそ理解ができるというものだろう。 それに相反して主演コネリーの家族の繋がりかたが電話の会話から浮かび上がり、そこにはある種の「救いのなさ」があぶりだされる構図となっている。 ただ電話だけで女の家族関係を現すことろにも映画話法の上手なコントラストが示されている。 そして、話は徐々に結末に向かうということだ。

上記、原作者の父親の作でも本作同様、銃弾が話の展開に大きな役割を果たしていて、一発の銃弾がどのような結果を主人公達にもたらすか、つまり、それは銃がそれぞれの運命を決定する道具、話の展開を進める駒になっているかということである。 本作では主人公の女が車中で銃を操作するシーンで銃に関するアイロニーとでもいうべきものが投射されているようにみられるが、これは銃社会に対するある種の批判と受け取るべきだろうか、それともただ単に運命の行きがかり上に使われているのだろうか。 いづれにせよアメリカ社会には銃の影がいつも様々な形でちらつくことをここでも再確認させられる。

本作の移民家族では息子は学校で普通の苛めのようなものをうけるけれど、これも普通にあたらしい社会に同化するときにはどこでも不可避的に遭遇する普通のプロセスではある。 息子は父親を敬い、父親は自分の信条、上級軍人のモラルを通して今も軍人として新たに越してきたアメリカ社会で矜持と誇りを持ちながら家族のために生き残ろうと努力し、無法で手荒い警察官の対応からもその心理を逆に読み取り家族に寛容に対応するよう注意する件では良質の職業軍人としての資質が現れる一方、ここでの徐々に疲れが蓄積していく警察官にもどこにでもあるような苦いストーリーが示され単なる悪者とは描かれてはいない。 このような各自のストーリーが交差する結節点に主演のコネリーがいて、要所要所で海辺の霧が登場するという結構になっているのはシネマ制作上のドラマ設定なのだろうが、ここであぶりだされる一種の悲劇の終結点でも霧とともに苦い甘さが漂うのは主人公の女性の周りだけのことであり、この苦い甘さというのはアメリカを体現するこの女性に対する消極的な批判とみるのは無い裏をみるような、また、ないものを深い箱の底に探るような、まだ読んだことのない原作に対する読みすぎとでもいうものなのだろうか。 

春の兆し (続)

2011年02月18日 01時24分26秒 | 日常

青空が戻って気温が少し下がったものの陽あたりの中では温かみが感じられる春の兆しなのだが、この何日か記している春の兆しのシリーズに思わぬところからまた一つ話が加わった。 

この2,3日、目の周りがくしゃくしゃしてくしゃみが出ていたから、おかしいな、油断してまた風邪か、と訝った。 還暦になったからか、地元の保健局から無料インフルエンザ予防注射の案内が11月の中ごろに入り家庭医のところに行って腕(ワン)ショット打って貰ったものの日本に年末戻ったときにひどい風邪を引き2日ほど寝込んだことから、予防注射というものの有効性は眉唾かと毒づいていたのだが、その風邪は当初注射したもののカテゴリーから外れた原因によるものだ、と言われればそれには一言もない。 風邪は万病の元、といわれているから風邪といってもそれにはいろいろな原因がゴマンとあるのだろうとも思ってみる。 とにかく、風邪か、と思っていたものが今日になり目がくしゃくしゃしているときに、はた、とその原因に合点がいった。

花粉症なのだ。 毎年これに悩まされる。 時には重く、時には軽い。 そして時には早く、他の時には遅く始まって短かったりまた長かったりする。 去年は比較的短く軽かったように思うが、喉下過ぎれば、、、ということもあるからそれももう他の年のと紛れて忘れているのかもしれない。

二月の中ごろに春の兆し、花粉症か、とオランダではどこでも使う洗顔用のタオル地の長方形手袋様の布を水に浸したもので目の周りを押さえるとその冷たさが心地よく、その部分が熱を持っていることに気付くし、それで普通の風邪ではないことに気付き、ああ、また来た花粉症だとうんざりするのが自分の毎年の行事にもなっている。

そんなことを思いながらその冷たい布を目蓋にあてて眺める夕焼けは、ここで無理に眼に関連付ければ、昔、近眼治療で通った眼科医院で感染した結膜炎の赤だ。

発作の兆し

2011年02月17日 02時19分34秒 | 健康
昨日春の兆しのことを書いたら今日通風発作の兆しがあった。

いつもの右足だが今度はアキレス腱の辺りで何時ものように何か挫いたような感じが徐々に痛みが増すようで夜の11時ごろビールで Arcoxia 120mg  を一錠飲んだら2時間ほどで完全に痛みが消えた。

この前のはバカンスのオーストリア・アルプスのキャンプ場でだったから半年ほど前になる。 まあ、この間隔だったらいつもの通りだからよしとしようか。

春の兆し

2011年02月16日 00時07分40秒 | 日常

落し物と拾い物が同時にあった今日、帰宅してみれば小部屋の中に春の息吹を感じた。 

昨日はこの何日かの惨めな天気に影響されたのか少々鬱の混ざったような日記にしてしまい、寝起きがよくなかったのだがシャワーを何日ぶりかに浴びて久しぶりに仕事にでたら悪いことといいことが起こり、これは何か縁起が、、、、、と感じ、帰宅して便所に入れば目の前にこの家に引っ越してくる遥か前から門のそばにあった木蓮の木にも春の息吹が息づいているというものが活けてあった。

昨日も夫婦揃って一日家から出なかった家人が外に出て木蓮の剪定をしたものらしい。 モノグサの自分に愛想をつかして自分でやる家人の性格に頬がゆるみ、シメシメ思う壺だと思う一方、家人もそれをあながち厭っている気配が見えないことだ。 数週間前に比較的大きな古い枝をばっさり落としていたときには近い将来今の古くて夫婦二人だけには大きすぎるステーションワゴンを廃棄して小さくて小回りが利いてなんでも後ろに放り込んで走れるペンキ屋のワゴンのようなものにしようと話していたからその車の屋根に引っかからないように剪定作業をしているのだと受け取った。

ここに引っ越してからずっと春の訪れを木蓮で感じていたしその写真も何枚か撮ってここに載せている。 木蓮はその短く感じる開花期間が過ぎて美しい花弁が地面に落ち、それが鉄さびのように朽ち、くびれた鶏の腿の骨を思わせる花芯が地面に散らばると季節は終わるのだが、また秋にはいくつか遅れてやってきたものが小さく開くこともある。

「小さい秋、小さい秋、小さい秋みつけた、、、、」という歌があるが、ここには小さい春がある。 小春か。 小春、というと浪花生まれ、いや泉州うまれの自分には坂田三吉の「女房の小春」が思いつき、それでは大分イメージが変わって苦笑に変わる。  そんなことを思いながらジッパーを上げ春の息吹が聞こえる小部屋を出る。