暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

霧の夜ジムに出かけた

2011年11月30日 04時14分41秒 | 日常

3日間で75kmほど田舎を歩いて戻った夜はさすが疲れもあり毎週月曜のジムはパスしたけれど翌日の夜には脚と足首に注意しつつも下腹部の脂肪はそれぐらい歩いただけでは取れずはずもなく、腹と上体の筋トレのつもりで夕食後自転車で家からも5分ぐらいのところまで出かけた。

霧が出ていた。 街灯の色はともかくも信号の青がそこにアクセントをつけてそれがそろそろ近づくオランダのサンタクロースの祭り、シンタクラースの飾り付けのようにも思え、またそんなことで夜に明るさをつけなければこれからの長く暗い、だから鬱陶しい北ヨーロッパの冬の夜には備えられない。 

それにしても町の外縁と昨日まで歩いた国境付近の田舎の夜の違いを思わないではいられない。 隣まで500mあまり、見渡す限りの闇で遠くに明かりがぽっつりと見えるようなところは町の人間からすれば別世界だ。 けれど車があればその距離も暗さもなんでもなく、だから田舎に車が必需品となることも分かり、そうなると交通機関に頼ることも少なくなり、そうなると当然バス路線も寂れる、というような経緯が分かる。 それに一番打撃を与えられるのが我々のような他所から来て田舎を歩き、時にはバスで移動しようという人間だ。 バス路線とその少ない便の時間を見合わせその間を縫って歩くというようなこともするからそんな時せめて自転車でもあれば、という気にもなる。 けれどその間便さを比べ合わせてみればそのときに歩きながら見る景色、自転車に乗りながら見る景色、バスに乗って見る景色などの肌の、温度の、匂いの違いははっきりしている。 時間があれば歩くのが一番だ。 

1時間のジムが終わりまだ温かい体で外に出ればしとしとと雨が降っていて霧が消えていた。 来たときほどのんびりペダルを漕がずに頭をかがめてしっかり自転車を漕いで出来るだけ早くうちに帰れるよう急いだ。 熱いシャワーとそのあとの冷たいビールはこの何日かの夜には欠かせないものでそれは今日のような1時間のジムのあとのものとは変わらないけれどそのありがたさは自分の足で一日25km歩いた後のシャワーとビールのありがたさにはとても叶わない。 

それに比べると3日間他所のベッドで眠ったけれどゆっくり寝付くにはやはり慣れた自分のベッドに潜り込むほどの気持ちよさはない。

三日間ドイツ国境あたりを歩いた (1)

2011年11月28日 22時37分51秒 | 日常
金曜から月曜まで4日間家を離れ家人と一緒にドイツとの国境あたりの田舎を3日間歩いてきた。

オランダには様々な遊歩道が整備されていて自動車の通らない田舎道を縫って東西南北歩けるようになっている。 家人はこの3年ほどオランダ北海沿いの村からドイツ国境近くまで東西に歩ける Trekvogelpad (渡り鳥の道)を歩いていて今回それを完結させるのが目的だった。 国土が九州ほどの土地だから東西といっても400kmほどで自分もスタート地点の北海に面した Bergen aan zee という村から15kmほど、アムステルダムの東側を迂回する18kmほど、今回3日間で75kmと全行程4分の1程度は歩いたことになる。

オランダ自然友の会(NIVON) Trekvogelpad 概要;オランダ語;
http://www.nivon.nl/wandelen/index.asp?WandelpadID=1182344845&GroepsID=175&GidsenID=8

第一日目

電車で 国境付近の町 Enschade へ。 駅で自転車を借りて自然友の会の宿舎までそこから15km走る。 地図の上では12kmほどだが途中で道路標識を見逃したため余分な3kmが加わった。 大抵友の会の宿舎は幹線道路、町から離れた森の中にありそこにたどり着くのが苦労ではある。 今回のように車を使わない場合、バスという手もあるけれど田舎では1時間に1本あるかどうかでもあるし週末には間引きされ不便でもあり、停留所から遠いというようなこともあり、今回のように3日でそれぞれ20km以上のルートを連続して歩くのにはそれぞれの日の終わりに泊まる宿舎のこともあり、たまたまウォーキング第一目の始点にバスで出かけるのに Enschade まで戻らなければならないことから駅で自転車を借りることにした。 この自転車がこの日の夕食のために国境を越えてドイツ内のレストランに行くのに役立った。 

4時前に宿舎に到着して管理人から部屋と宿舎の説明を受け、シーツとタオルを借りてベッドメイキングをしたらもう外は暗くなっていた。 天気は鉛色の空でそれは週間予報でも週末はそのようになると言っていたので雨の用意は常にしているし今の時期、文句をいうこともない。 管理人の説明はこうだった。 付近の村には店はない、スーパーは国境近くまで出かけること、そこまで2kmほどであること、そこは夕方6時までである。 宿舎にはちゃんとしたキッチンがあって大人数の宿泊客がいても問題なくそれぞれ自由に自炊が出来るレストランのキッチンのものがあること、などなど。 けれど我々は早朝から歩く予定をしているから自炊はせず朝食は湯を沸かす程度で今回は夕食は全て外食にするつもりだった。 一番近いレストランはただ一軒、国境を抜けてドイツの村のはずれにある農家を改造した大きなレストランでそこまでは片道2.5kmであるということも聞いた。

とっぷり日が暮れてもう夜中のように見える午後6時、普通は田舎でも車道、自転車道には街灯がつくのだけれど、このあたりの国境付近になるとそれもなく殆んどなにも見えない闇の中を自転車のライトを頼りにレストランに出かけ3時間ほどかけて食事をしてからまた宿舎まで戻り、シャワーを浴び、翌日に備えて11時ごろ眠りに就いた。 普段では考えられないような早寝だ。 

(2)に続く




アウェイ・フロム・ハー 君を想う (2006);観た映画、Nov ’11

2011年11月23日 23時45分38秒 | 見る

アウェイ・フロム・ハー 君を想う(2006)

原題; AWAY FROM HER

110分

製作国  カナダ

監督:  サラ・ポーリー
製作:  ジェニファー・ワイス、 シモーン・アードル、 ダニエル・アイロン
製作総指揮: アトム・エゴヤン  
原作:   アリス・マンロー  『クマが山を越えてきた』(新潮社刊『イラクサ』所収)
脚本:  サラ・ポーリー
撮影:  リュック・モンテペリエ

音楽:  ジョナサン・ゴールドスミス

出演:
ジュリー・クリスティ   フィオーナ・アンダーソン
ゴードン・ピンセント   グラント・アンダーソン
オリンピア・デュカキス  マリアン
マイケル・マーフィ    オーブリー
クリステン・トムソン   クリスティ
ウェンディ・クルーソン  モンペリエ
アルバータ・ワトソン   フィーッシャー医師

「死ぬまでにしたい10のこと」「あなたになら言える秘密のこと」の実力派女優サラ・ポーリーが、弱冠27歳にして記念すべき長編映画監督デビューを飾った感動ヒューマン・ドラマ。原作はアリス・マンローの短編『クマが山を越えてきた』。認知症という悲劇に直面した老夫婦の心の葛藤と深い愛を静かに見つめる。認知症の妻を演じたジュリー・クリスティには多くの賞賛が寄せられ、ゴールデングローブ賞主演女優賞をはじめ数々の映画賞を受賞した。共演は「リトル・ランナー」「シッピング・ニュース」のゴードン・ピンセント。

結婚して44年になるグラントとフィオーナ。決して良き夫とは言えない過去もあるグラントだったが、いまはフィオーナを深く愛し、夫婦仲良く穏やかな日々を送っていた。ところがやがて、フィオーナをアルツハイマー型認知症の悲劇が襲う。物忘れが激しくなったフィオーナは、ついに自ら老人介護施設への入所を決断する。施設の規則で入所後30日間、面会を許されなかったグラント。そしてようやく訪れた面会の時、フィオーナはグラントを覚えていないばかりか、彼の前で車椅子の男性オーブリーに対し親しげな振る舞いを見せるのだった。その後も日増しに深まっていく2人の仲を目の当たりにして動揺を隠せないグラントだったが…。

上記が映画データベースの記載だ。

本作はもう何年か前に後半部だけ観たことがある。 テレビでカナダやオーストラリア、ニュージーランドの地味な作品がかかると出来るだけ観る様にしているのだがこれもそのうちの一つだ。 

昨年から今年にかけてそれまで長年独りで住んでいた自分の母親を介護付き住宅に落ち着かせたことが、後半半分とはいいながら二度目に観るのと初めて観たときとの印象を大きく変えている。 古くは「老人ボケ」といい、今は「認知症」というそうだがその内容は言葉を変えても変わらない。 本人には今まで晴れていた世界に雲がかかり、その雲に邪魔されて徐々に晴れ間が少なくなり、そのうち何処に何時晴れ間が出るのか、たとえ出てもそれがどれだけ続くのかなどのその保証もなくなり、そのうち全て灰色の世界に蔽われて、、、、、、となるらしい。 それを少しは自分の肉親の中に見ているから本作で初めから手早くまとめられた導入部に納得もし、映画であるから自分の経験からするとやはりテンポが早すぎるような気もしないでもないけれどそれは時間の限度内での映画言語では必要充分条件をみたしたものと看做さなければならないだろう。

湖畔に落ち着いて余生を送る老夫婦はいづれにせよ他人から見れば微笑ましくも静かな生活に見えるけれど人には若いときからの歴史があって、その序盤、中期にはさまざまな出来事があるのが普通で、その末の余生なのだ。 その生涯の荒波が収まり、納まらなくてもそれを収めようとし、穏やかなものに軟着陸しようとするときにこの「認知症」がくる。

時代的にみて世間で注目を浴びる病気には変遷がある。 明治から戦前、戦後すぐまでは「結核」がそれで、世界の文学にも貢献し、それが経済成長期から現在に至ると「癌」であり、今そこに高齢化社会に入るにつれて話され、アイテムになっているのが「認知症」なのだ。 「結核」は青年の、「癌」は成年の、「認知症」は早期に発症するものがあるものの概ね「老年」の病気と言われるから世界を動かす若者、成年、熟年にはまだそこまで距離があるものだろう。 それは年金事情と同様に、暗雲が垂れ込めそうだがまだ少し時間がある、と言ったぐあいだろう。 本作でも若い女性はただ一人だけ、ホームに住む老人を訪れた孫か誰かだけだしあとは若いといっても中年以降、それもホームで働く人たちだけだ。 それが老人達の周りの世界なのだ。 この夫婦にしても子供たちの気配もなく、一組の友人夫婦が登場するだけであり、フォーカスは夫婦の間に「認知症」が入り込み、座り込み、それに対してどう対処するかということの経過を綴ったものであるのだけれど関係性を二人とホームに搾ったことで他の疎ましさが捨象できている分少々ロマンチックに写るきらいがあるように思う。 

問題は明らかなのだからここでロマンチックというのは、同じ問題を抱えた世界中の幾多の人々が存在し、まだ増え続けること、世界中でどのようにそのような人々とその周囲の人々が闘っているかを現実的にみるとまだ本作の話は楽だという人がかなりいるのではないか。  そこには我々の世界をいつも煩わせる金、家族友人知人との人間関係、介護施設などに関してかなりの神経とエネルギーを消耗させている者にはここでは余りにもスムースに事が運んでいるように見える、という声も聞こえるかもしれない。 だからそれをスマートに、また俯瞰的に見せる話としては良く出来ている、という感想もでるものだ。 

これに関して思い出したことがある。 精神病院で看護婦として働いていた母親をまだ大学生だった自分が連れ出してジャック・ニコルソンの「カッコーの巣の上で (1975)」を大阪難波の南街シネマの封切り時に観たことがある。 多分それが二人で観た映画の最後だっただろうが彼女の感想は、なんとも贅沢な、だった。 それはそこでの病院の隔離された病棟から自由を求める患者の営為のストーリーを評してのものでなく、70年代中ごろの日本の精神病棟とアメリカの病棟を比べてその施設の違いに驚いた、ということだった。 なるほど、自分も一度か二度覗いた母親の職場とはまるでちがったものだったからその感慨の一端が理解できたというところだ。 精神病棟と認知症の受け入れ施設は違う、といっても当時にはまだ「老人ボケ、痴呆症」がかなり進んでいた人たちもかなりその病棟に「隔離」されていたことは確かだ。

昨年末から帰省先で母親の落ち着き先を見つけるのに幾つもそういう施設を訪れてその違いと状況に驚いた。 認知症が進んだ人たちを収容するところを幾つも廻ったけれどそれらは認知症のとば口に立っている母親には見せられないようなところが多かった。 とてもそこにはいれられないと悩んだものがが幸いなことに自立を基にした普通の老人達も住める介護つき住宅を見つけることが出来、本人もそこを終の棲家とすることに納得したようだった。 しかし彼女は私に自分がもと精神病院の看護婦だったということを誰にも言わないように口止めしたのだった。 一週間に二回ほどデイケアの施設で遊び、マイクロバスでショッピングモールにも出かけ、一日三食栄養士が計画した年寄り向けの食事を上階の食堂に出かけて摂り好きな本や新聞を読み、テレビで時間を過ごし、今のところは介護付きで近所を散歩することも出来て自由時間がたくさんあって満足だと言っているが、これから徐々に体力が落ち認知症が進むとその行き先は皆他の人たちが辿る道となる。 

いくらこれから医学が進むとはいえ還暦を過ぎたものには劇的な対処法はすぐには見つからないと見た方がいいだろう。 あと15年か20年経てば自分も同じような道を辿るようになるかもしれないと覚悟しなければいけないのだが、実際それがどのような形になるのかはまだまったく見当もつかない。

久しぶりに映画館で映画をみた

2011年11月22日 16時25分40秒 | 日常

2011年 11月 20日 (日)


地元の映画館で面白そうなものがかかるから一緒に見に行かないかと息子から電話で誘われ、それじゃお母さんやお前の妹も誘ったらどうか、というと母さんはカーアクションや拳銃バンバンの血なまぐさいのはいやだから止めとこう、妹ならいいかもしれない、と題名も誰が出るのかも知らないままに家人と二人だけの夕食後、霧の夜に町の名画館の前に放映前の8時半に来て見たらもう息子がそこにいて、開くのにはまだ15分あるというのでそこのポスターを幾つか眺めながら時間をつぶしていたら2,3人の客が来て自転車をそれぞれあちらこちらに停めてうろうろ寒空のしたでドアが開くのを待っていた。 

映画館で観るのは本当に久しぶりだ。 この前映画館に来たのはこの場所で、あれは吉田喜重,岡田茉莉子夫妻がアムステルダム映画祭に滞在中に一晩ここで放映の前に挨拶のスピーチを聞いた「戒厳令 (1973)」の時で、去年の二月だったからあれからもう大方二年近く映画館に来ていないことになる。 あのときにしても観客は20人程度だったと記憶している。 初めて3mほど前で見る大監督大女優夫婦の様子はいかにも寂れたこの映画館に相応しいように思った。 それほど映画的だったのだ。

いろいろな経営形態に興味を持っている息子が一体こんな映画館を経営するのにどれぐらいかかるのだろうか、一本配給を受けるのにどれぐらい要るのだろうか、というようなことを話しているとガラスドアの向こうにブリキの現金出納箱をもってきた若い大男が見えて、よく見るとそれは知り合いの日本語も分かる青年だった。 ガラスの戸を開けると皆がぞろぞろ入ってきて青年はいちいち数を記録し10ユーロ紙幣を受け取って25セントのつり銭をブリキ箱から出す作業をする。 後があるので子供たちの分も払っていい席を求めて中に入り、真ん中に三つ並んだ席の一つにコートを背もたれにかけてからビールや飲み物を買いにバーと書かれている方に行くと閉まっている。 じゃ途中の休憩のときまで待たなければいけないのかとちゃちな机に出納箱を置いて座っている青年に聞くと、もう一人のバーのアルバイトがまだ来てないからバーはまだちょっと開けられないね、ま、自分もすぐに映写室に上がって準備があるからね、日曜の夜、18人か、そんなもんだろうね、ちょっと映写室のぞく? というからついて行った。 そうすると下から駆け込んできた客が呼ぶのでその男はレジのところに降りていった。 

今の映写機というのは全てデジタルでフィルムなどどこにも見られず3Dのスイッチも見えそれをラップトップコンピューターでで操作するらしい。 昔ながらのフィルムというのはもうノスタルジーの世界になりつつあるようだ。 昨日テレビでみた「ゾディアック ((2006)」の後半部に出てきた古いフィルムの積み上げられた地下室のイメージが残っていたからそれに対照してここにあるコンピュータにつながれてレンズが付いた四角い箱の中では世代の変わったデジタル・フィルムが処理されている。 下の座席に座り、息子の疑問に上で聞いた答えを伝えた。 配給には色々あるけれどここでは入場料の80%を配給元に納めるだけらしい。 だからこの回でここに残るのは35ユーロ、4000円弱だ。 一人は休んでいるものの今日のアルバイトはどれぐらいになるのか知らないけれどこれでは営業にはならないだろう。 だから映画同好会の財団組織にして各種の文化助成金がなければやっていけないのは当然だ。 第一、安い人件費を加えて建物の家賃、諸々の維持費は馬鹿にならない、といった具合だ。 流行の映画館に比べて名画座の寂れ具合はとみに著しいのはDVDやネットのサイトでダウンロードが簡単であることなどに加えて今の慢性不況だ。 息子にしてもよっぽど映画に入れあげて損得勘定などに目をつぶってやらなければ経営などやっていられないということが分かっただろうし、彼にしてもそれほど映画に入揚げているようには見えないから多分自分の起業の対象にはなっていないだろう。 それに最近は人が入るようなブロックバスターにはあまり興味をもってはおらず一昔のクラシックやマイナーな方に興味を持っていれば映画館経営は自分の将来の可能性の中から除かれているに違いない。 このような人が入らなくなっている傾向はジャズの世界でも同様だ。

霧の行進

2011年11月21日 22時50分25秒 | 日常

2011年 11月 20日 (日)

昨晩やっつけで夕食に百姓のオムレツ(Boerenomelet)と呼ばれるものを直径26cmの鋳物フライパンで分厚く焼き上げ、メロンの小片で終えたのだが、女二人男一人の夕餉だったから少なくとも円盤の90°角、四分の一は残るだろうしそれなら、しめしめ、ビールとともに夜食にしよう、とたくらんでいたのだけど、その後娘とテレビで映画の「ゾディアック ((2006)」を観ていてコマーシャルの7分間の度に厚い医学書の幾つかを膝に置いてこそこそと勉強しながらぼそぼそと喰っているものを見たらそれは自分の夜食のはずのオムレツだった。 映画を見終わるまでにコマーシャルの度に何回も台所と居間を行き返りしていた。 若い娘といってもスポーツもし毎日忙しく動き回っているのだから腹も減るのは分かるけれど、いつも体重がどうのこうのと母親と言い合っているわりにはよく喰うものだと映画の終わりにビールをとりに冷蔵庫に向かったら90℃が〇°になっていて嬉しいやら少々の失望も味わったのだった。 ネギをどっさり放り込んだのが成功の元だったのだろう。 それに炊き立ての白米だ。 最後の3分で蓋をしてあったフライパンに粉チーズを沢山振りかけたのもよかったのだろう。

Boerenomeletの画像;

http://www.google.nl/search?q=boerenomelet&hl=nl&prmd=imvns&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=RXfKTrbKA8__-gaUhKUf&sqi=2&ved=0CEUQsAQ&biw=1522&bih=941

映画が終わり辞書のような本を何冊も二階にもって上がり娘は自分の部屋で寝るのだという。 自分の下宿に帰らず今は空いている自分の部屋に泊まるのは明日の朝母親と御爺ちゃん、お婆ちゃんのところにご機嫌窺いに出かけ、そのあとその村から一駅離れた町まで田舎を歩いて帰ってくるからだというのでそれじゃあ自分も、とそれに加わるつもりにして3時ごろまであれやこれやとネットで遊んでから眠りに就いた。

翌朝起きてみると世界は霧に蔽われてミルク色だ。 車で出かける予定がそれはよした方がいいとして自転車で近くの駅まで出かけそこから電車で20分ほどのその村まで出かけた。 窓の外は平らな牧草地で面白くもなんともないのだが今日は何にも見えない。 駅について1kmほど歩いて舅夫婦の家に着いた。 これから何年持つかという病気をかかえた姑はこのごろ肉つきはよくなって元気そうだったけれど舅はこの天気で塞ぎ勝ちだった。 となり近所や姉妹のあれこれのことをコーヒーカップごしに聞かされてから彼らが昼飯にするというので暫くそこにいて出たのだった。 古い農家の習慣を今も続け昼食が一日で暖かくボリュームもある一番大切なものだ。 そのあと2時間は昼寝する。 自分も日本の農家で育ったときには子供の頃、夏には昼食後に皆とそろって昼寝をさせられた記憶があるのでそれはよく理解できる。 村を出てミルク色の世界に向かって歩き出したのだが、もう25年以上前、5月の中ごろに家人と同じ道を歩いたことがあるので単に5kmぐらいだと思っていたものが後で地図でよくみると12kmだった。 まっ平らな農道の自転車とトラクターだけが通れるようなまっすぐな道をただ歩くだけなのだが並木も途中に農家もまったくないところで5月の半ばとはいえ陽射しの強いところで当時家人は暑さにほぼ参ってしまった。 そのとき、これでは日本には夏には連れて行けないと覚悟してそれ以後は帰省は年末年始の3週間ほどだけにしていた。 そういうルートなのだが今回は何も見えず娘と母親の二人の会話を後ろに前に聞きながら黙々とあるく、ということになり、間には時々鴨が互いに突付きあう声とか水路から羽ばたいて飛び上がる白鳥の群れの羽音ぐらいで全く静かな世界なのだ。 日頃なら遠くに見える自動車道を走る豆粒ほどの車の音も聞こえるのだが霧がダンパーとなるのかそれさえも聞こえない。 向こうの水路の傍にじっと立って水面を眺めている青鷺も我々がそこに徐々に近づき3mほどになっても飛び立とうというような気配も見せず我々はその後ろを通り過ぎていくという具合なのだ。

今週月曜夜のジムでは気合が入りすぎたのか翌日から右足首がまた痛み始め、それがまだ少し残っていて来週の週末3日間で60kmほど歩く予定をしていたから今日の5km(後で分かったのは12kmだったのだが)の具合で様子が分かると踏んでいたのだけれど、結果、12kmでも痛みもなく調子が良かったから来週には安心してドイツ国境あたりを歩けるものと確信して嬉しかった。 駅につくとすぐに電車が来て中に入るとかなり込んでいた。 さて、調子が良いから家に帰って熱いシャワーの後、ビールだな、テレビでラグビーをやっていたら最高だ、というとそばにいたこのあたりの若い娘が声を出して笑った。 その娘の親父と自分が同じようなことを言っている、というような笑いなのだろう。 そのあともこっちをみてまだクスクス笑っていた。 

自分の駅に降りて自転車をゴソゴソやっていると娘がお先に、といって自分のチームのフィールド・ホッケーの試合に行くために別の方向に行ってしまった。 家に着いて熱いシャワーにビールは最高だったのだがあいにくラグビーはやってはおらずちょっと拍子抜けがした。

今年もまたシンタクラースがやってきた

2011年11月21日 03時40分26秒 | 日常


2011年 11月 19日 (土)

5年前にもここで同じようにシンタクラースを見て次のように書たのだが、そのときの写真の方が今日のよりましだ。 土曜の午後の青空マーケットにいつものように出かけ向こうの方から景気のいいブラスバンドが聞こえていたのでそこに寄ったらたまたまシンタクラースがいたので撮ったもので、このあとその傍の鶏屋で卵と鶏肉を買って帰ったのだった。 もう何回ここでこれを見ただろうか。 

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/42406309.html

昨日の日記にシンタクラースのことを書きもし、その参照先も示してあるのだから今更ながらそれを説明する必要もないとして、またこの季節が戻ってきたのだ。 実は公式にはシンタクラースは先週スペインからオランダのドードレヒトに蒸気船に乗って来たのだから先週それが済んだと思っていたのだがそれは誤っていた。 国営テレビ放送で到着の模様がライブで見られその時の模様は既にYouTubeに下のように貼り付けられている。

http://www.youtube.com/watch?v=gRUDf4TNb1A

けれど子供の夢のシンタクラースがドードレヒトに来るとしても自分の町まで来るのに時間がかかる。 サンタクロースではないのだ。 空を飛ぶ赤鼻のトナカイも橇もない。 あるのは霜降り色の馬と馬鹿でふざけた従者の黒人ピートがむやみやたらとあちこちを跳ね回りお菓子をばら撒いているのだが、子供たちは自分達のこれまでの行いを見られていて全ての行いが書かれたシンタクロースの覚書の分厚い本を恐れるのだ。 結果がよければあと2週間ほどあとのシンタクラースの宵にプレゼントをもらい、もし悪いことをしていたら黒ピートの袋に詰められてシンタクラース一行が住むスペインまで連れて行かれそこで強制労働させられる。 子供たちはおそるおそるシンタクラースの前に進み出て家で書いてきたシンタクラースのためのお絵かきを手渡し、その白ヒゲの爺さんの膝に抱えられ親の構えたカメラに一緒に納まって12月5日の夜を心待ちにする。 

5,6歳までそれを信じるそうだ。 その後は幾つになってもシンタクラースは存在すると信じ(るふりをし)て代々それを次世代に繋げるというのがオランダの伝統だが、昨今はそれにポリティカル・コレクトネスが加わって従者黒ピートの存在に小さなスッポットライトが当てられることもある。 白人聖人が黒人奴隷を使って子供を脅し飴と鞭で幼児虐待をする、というのだ。 勿論これはジョークではあるけれど少々の真理が含まれているかもしれない。 宗教の名においてあまねく世界の小人を黒人奴隷に飴をばらまかせることと白人の閻魔帳の鞭で偃武し小人が大人になっても次世代にそれを順送りで再生産するというのが文化の深層だろう。

ま、それは部外者の深読みなのだろうけれど自分もこれをもう20年以上やってきてそのうち何回かは若者のパーティーのなかでシンタクラースにもなった経験からするとある意味ではこの伝統は日本のサンタより個人の表層から内部に入り込んでいるように思える。 日本でなんとか子供、宗教に関係があるとすればそれは施餓鬼の行事に近いかもしれないが、そこで圧倒的に欠落しているのは子供たちの内部に印象付けられる勧善懲悪の意識だろう。 それに日本のこどもたちは実在のサンタをこのように自分を切り刻むような気持ちで待ち望むだろうか。 善悪のバランスを3-5歳のときからとらされその審判官である数百歳の老人の前に出るのだ。 なんという緊張感。 けれど、当然それから3,4年もすると真実が分かるようになり、それ以後は単なるお祭・パーティーになるのだがそれでも心のどこかに嘗てそこに立ったという記憶が残っていてそれを善とするのだろう。 

我が家にはもうそんな子供はいないし次世代が現れるまでまだ10年はかかると見ているのだがそんな中でも12月5日の夜は互いに自分達の悪行をくいることなく、あろうことか罰当たりにも罰として飛行機の旅より豪華な蒸気船でスペインまでのクルーズが楽しめそこでは弛んだ脂肪腹をすっきりさせる運動が待っているとシンタクラースを待ちわびるのだ。 だからそのためのプレゼントを集めに昨日のように慣れない女ものの小間物屋をシンタクラースの名代、黒ピートの下働きとして良い児の希望通りのものを求めて商店街をうろうろするのだ。 やれやれ。 ちなみに自分は世間並にその自分の希望リストにジャズCDと映画のDVDを載せてシンタクラースにお願いしたのだった。 この一年間自分はいいことをしてきたのか悪いことをしてきたのかそれには全く自信がない。

冬至まであと一ヶ月余り

2011年11月20日 03時18分44秒 | 日常

そろそろ冬至まで一ヶ月余りとなり日暮れが早くなっている。 日本では秋の日のつるべ落とし、とよく言ったものだ。 釣瓶落とし、といっても農家の台所の井戸から水を釣瓶で汲んで日々の物事に使っていたのは精々中学に入るかどうかまでで、それも電動ポンプになり、そのうち井戸が埋められ土間がフロアとなりそのダイニング・キッチンに水道が通って水の不味さに閉口したのが60年代中ごろだっただろうか。 ここではその釣瓶を底に落とすときの感じがそんな夕方に歩いた店の並んだあたりを彼方此方見て廻る間に外に出ると急に表が暗くなりだしたことでそれが釣瓶落としを感じさせたのだった。 北ヨーロッパの秋は駆け足で日が短くなり秋分から冬至までの3分の2が過ぎた、というところだ。 朝は起きないので何時頃まで暗いのかは知らないけれど8時ごろまでではないか。 雨が降るともう午後の3時でも暗いからそれはこの日のように晴れていなければはっきりとは分からない。

金曜の午後、何もすることもなく、そうだ、12月5日の晩に家族で遊ぶシンタクラースの宵で誰が誰にプレゼントをするか抽選のクジをインターネットを使って曳いてそれがまた娘に当たって今回希望するのが財布だったからそろそろ女性向き洋品店、小間物屋を今のまだ込んでいないあいだに見ておこうか、と出てきたのだった。 2時ごろから5時ごろまで2kmほどある幾つかの通りをぶらぶらしているうちにあちこち廻ればやっと直りつつある捻挫の踝のトレーニングになるだろうという一石二鳥をねらってもいた。 

女性用の物は苦手だ。 だから先ず出来るだけ可能性を広く見ておくこと、まだ買う必要はない。 来週にすれば例え娘が気に入らなくても包装紙のなかにレシートを忍ばせておけば大抵2週間以内であれば交換が可能であるのであるから自分でその店に行って好きなようにすればいい。 だから今日はぶらぶらとあちらの店、こちらの店と見て歩けばいいわけだ。 こういうことも何年かに一度あるかないか、という具合で、自分のものであれば大抵どこで買うかは予め分かっているのだし好き好みは余り言わないから悩むこともないし歩き回ることもない。 

角のスナックと呼ばれる簡易食堂で揚げたジャガイモと一本に繋がったチキンナゲット様なものを缶ビールで流し込んで腹ごしらえをしてから日頃入ることのない女の領分に入るのだからアルコールの助けも要るというものだ。 男性が殆んど見えない店の売り場で物色しているとすぐに寄ってくる女性の店員達にも同じようなことを聞かれ、それに同じように答えてもそれぞれ違った答えが返ってくるのが面白い。 それぞれの好みと向こうが売りたいものが違うのだろう、そういうことが朧気に見えてくる。 そんな彼方此方の店の途中で久しく寄っていないレコード屋があるのでそこに入って眺めているとジャズピアニストとクラシックのソプラノ歌手のデュオがあったので買ったのがこの日の唯一の買い物だった。 途中で喉が渇いたのでぶらぶら歩きながら喰ったソフトクリームは買い物には入れないのは当然だ。 ここをゆっくり歩いたのは久しぶりだったのでこの半年、一年の変わりように驚いた。 中古レコード・CDの店が二つ消えていた。 前々からもう潮時だとは聞いていたけれどいざ消えてみると時々寄って四方山話をするところが減っていくのでちょっと寂しい気がする。

もう25年以上前にポルノ映画館だったところが蚤の市とか骨董屋になっていて5,6年に一度ぐらいは覗く程度だけれどそこに入ってみてめぼしいものがあれば買ってもいいと思っていたけれどなにもない。 けれど眺めるのはなかなか楽しいので時間を忘れた。 なんせ小さいといっても映画館のスペースだから小さくはなく、そこにガラクタ家具から何から全て収めるには箱型の空間を中空に二、三階の回廊をつけて整ったゴミ屋敷然としているのだからちょっとした博物館並で、中国製の古く見せた金屏風があったりトロンボーンがアンティークの机に古いテディーベアーと一緒に置かれていたり、その隣には様々な絵がぶっちゃけられているのだからたまに来るにはいいところだ。

そこを出たときに通りの上にかけられたシンタクラース商戦用の簡単なイルミネーションに灯が点っているに気がついた。 最近のニュースではこの経済不安のなかで例年の時期に比べて2割ほど商店街の売り上げが減っているということだったのだがその煽りなのか金曜の夕方にしてはここでも人通りが少ないような気がした。 6時前に停めてあった自転車のところに戻り、魚屋に寄って生鮭を二切れ買い、スーパーで大根を買って暗い我が家に戻ったら猫が台所のタイルの床に吐いたキャットフードが固まっているのが見えた。 2日ほど前にも夜中に居間の敷物の上を同じように家人と一緒に床に這いつくばって掃除したのだが近々この老猫を一度獣医に見せにいかなければならないかもしれない。 やれやれ。


ウィキペディア; オランダのシンタクラース、サンタクロースの項;
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%B9

BBCテレビ Newsnight を見た

2011年11月19日 01時44分53秒 | 見る

2011年 11月 17日 (木)

午後3時前からみんなの分の飯をでっち上げ夕方になってばらばらに集まった家族に喰わせ、出かける自分はそれまでに同じものを早めに喰っていたから自分の用事に遅れてはいけないと皆を放って出かけ、2時間ほど経って戻ってきたら家には猫以外誰も居らず、よっこらしょとソファーに沈んでテレビをつけてザップしていたら昔のコミックの再か再々々映画化の「ハルク(2003)」にチャンネルが行き、見たのは主役は知らなかったものの主役を固める後の3人の俳優のものは割と見ていたから結局どういう風に話を終わらせるのかに興味があり観続けたのだが、あと20分ほどで終わるなあと思っていたら、町の読書グループから帰ってきてそこでカフカか今度オランダの文学大賞をとっただれだかのものを厳しい舌で互いに切り刻んだりああでもないこうでもないと言いあったあとワインの一杯もひっかけて零下の夜を自転車でもどってきた家人が横に座って画面をちょっといっしょに見ていて、あれ、あなたこんなものを見るの、なんか日本文学のことをいろいろいう人がこれ?とあざ笑われたのだけれど、だけどそれぞれの俳優を見ているとそれぞれの今までの映画が思い出されたこともあって子供だましのストーリーでも別段どうということもなないし、、、と言おうとすると彼女はもう洗濯物の籠を屋根裏部屋に運びあげていて自分の言葉もそのままウニャムニャとなって横で丸くなっている猫の頭の上に消えたのだった。

その後イギリスBBCテレビ2局の Newsnight を見たら1時間ほどのプログラムは次のようだった。

1)シリア、ダマスカスの現在

シリアの内戦が始まって他の中東で雪崩をうって政権が次々に倒れていったそのパターンにおいて重要な役割を果たしたのは国軍で、それが改革側について市民を支えるということだったのだがそれがシリアでも起こり始めていることを伝え、昨日か一昨日それを巡って湾岸戦争からシャープな分析をしてきたマーク・アービン記者がシリアを巡る大国のバックアップを見ていてなるほど煮詰まりつつあるものだ、と感じたのだった。 そこではア記者のレポートではシリアをバックアップする国がロシア、中国、イランなどであり、そうするとここでいくら国王が大統領に辞職勧告をしても父親から引き継いだ今の二代目(大統領)はその性格からしてなかなか離せないかもしれないと思った後の今日の話だった。

この日はどういう訳かこのニュース・ショーのアンカーが女性、湾岸戦争の砂漠から中継していた女性記者も今回の分析に加わっていてダマスカスを中継して勢力図がどうなっているのかを要約し反乱軍の男性大佐や市民グループの女性リーダーとも交信していたのだが、BBCスタジオのシリア改革フォーラム代表とパリのシリア革命本部かなんとかグループの代表の一人と情勢を討議しあい二人の政治の綱の引き合いを見ていて、ふと、あれ、これ皆女ばかりじゃないかと苦笑したのだった。 うがった見方をすれば多分これも西欧社会でメディアに対するもの、西側のイスラム女性に対する紋切り型のイメージを払拭する政治的な意図でもあることが分かるけれどもなぜか可笑しかった。 軍だ何だと殺しあうのは男達でここで話し合うのは女達、ここでの対話がどれだけ前線の男達に伝わるのかが興味の的だが、メディアではすでにシリア政府が実質的には権力を掌握できていると看做していないようだ。 現に政府側のコメントは一切述べられていない。 あとは何処の強い国がこの国に唾をつけるのかというところを瀬踏みしているように見受けられる。 翌日にはアメリカのヒラリー・クリントン国務長官が他国をけん制するような発言をしたと報じられ誰が反乱軍に軍備を調達するか、というようなことになるだろう。 リビアの件ではフランスが一番に名乗りをあげたのだけど今回はそれよりもデリケートのようだ。 

2)オキュパイ運動の現在

ニューヨークでオキュパイ運動に関わる雑多な人々が占拠していたウォール街の場所が当局によって撤去された件でこれが西欧のあちこちで同様に行われている運動にどのように波及するのか、また運動に参加している者たちの意図が那辺にあるのかを元ゴールドマン・サックスで4年前まで重役をしていた男とこの運動に参加しているジャーナリストの女性が討論するのだが、1%で世界を動かし富を貪る代表と世界人口の99%に属する若者がどのように対話できるのか、というところがポイントだろう。 問題の多い金融界、いいかえれば資本主義の先兵に対して古い言葉で言えば搾取されつづける層の代表の討論だから論点は、ここで元重役が世界規模の問題に対してどのようないい訳をするのかに興味がいったのだが、彼らにしてもここにきて危機感を覚えたのか防戦一方で何を血迷ったか原因を各国の政治家の不手際、社会主義にそまる政治家が起こす悪弊の結果であり金融界には何の責任もない、運動の無駄な行動は市民生活の邪魔となりこの運動は何の結果ももたらさない、と木で鼻を括ったような反応にはさすが女性アンカーもこの答えは期待していなかったようでそれに驚き一気にニューヨークからこの男を嘲笑しながら拍子抜けしたようなジャーナリストがポイントが分かっていない男に驚いているようでその後対話にもならなかった。 あまりにもその論理の単純さと馬鹿馬鹿しさに思い当たることがないでもない。 金融界でこのことに対してコメントするにはよっぽど賢いものでなければ馬鹿をさらけだすことになる。 何も違法なことをしていない、という言葉には間違いがないものの運動側はそれを承知していて資本主義社会において法に守られたもとでの不均衡に対して社会正義を問題にしているわけで金融側もその性格上だれも社会正義などにまともにとりあうようなものがいないことは初めから明らかであるのだが、ここでの擦り合わせの結果も初めからわかっている事なのだが世界に知られた金融機関で嘗て何千人、何万人をも束ねていた男の言には呆れたようだった。 オランダでは依然としてのんびりとアムステルダム証券取引所まえの広場がテント村になっているのだがそろそろクリスマスになるとここに露天商が店を並べる頃にもなり、その商人たちが商売ができぬことを市当局に陳情するようだがこれに対して労働党の市長をいただく市はどのように対処するのかにも関心がもたれている。

3)地球温暖化をどうするのか

科学者にはいろいろあって地球温暖化を防ぐのにその対策を研究する資金を増やし、世界規模、地域規模を問わず規制の法律を強化せよと言う主張と温暖化が起こることの確実性に基本をおいてそれがこれからどのように推移するのかのデータの下、不都合を蒙る企業、団体、市民に対策費を与えよ、と主張するグループがあるそうで両方を代表する科学者が討論をしていた。 ここでのポイントは議論の余地があるものの双方の話す英語、態度に典型的な差が観られたのが興味深かった。 当然のデータと理論を頼りに順々と説く研究者と企業のお抱え学者にも聞こえる有産階級の独特な訛りのある英語で傲慢にも響く論を展開するのにはどうみても科学者とみられないようなタイプの人間の組み合わせには上でみたような違いが見られてゲストの人材を選ぶときにこのようなタイプをわざわざ選んだのだろうかとも思えるようだった。 イギリスの保守派からBBCは社会主義者の集まりだ、というようなことが言われることもあるのを思い出したのだが現在の保守党内閣のもと、別段左よりという風には見えない公的メディアである。 日本のNHKはどうなのだろうか。 中立というより色を恐れ嫌うメディアでないだろうか。 

4)世界サッカー連盟の中での有色人差別、もしくは様々な言語が混ざるトップチームの中で言葉による罵倒の問題にたいしてどうするのかということ

FIFAの会長が人種差別を助長するような発言をした、ということがニュースになっている。 こんなことはいまさらの話でもないのだが、職業スポーツで世界最強の連盟の長の言であるとそれは社会問題となる。 誤りを認め謝罪したそうだが辞任はしないと発表して、それがまかり通る世界かどうか、その政治的行動が注目を浴びている。 ヨーロッパのサッカーチームには様々な国から様々な言葉を話す選手たちが試合、練習の場で相手を罵倒するようなことがあり、それに連盟がちゃんと対応できていない、どころか会長までそれを助長する、ということだろう。 ある言葉が罵倒語であったとしてもそれが親愛の表現でもありえるというような倒錯したようないいわけもありえて問題は錯綜する。 発端はイギリスのチームの監督が選手を人種差別的文言で罵倒したときにそれが画面に写り読唇術の専門家がそれを明らかにして問題になったということで、あろうことかそれに会長が輪をかけたということだ。 八百長問題に加えて人種差別問題がこの肉体を使う世界では頭を痛める元凶になる。

冬の初めか秋の終わりか、どちらだろう

2011年11月18日 01時01分50秒 | 日常

うちの近くをのんびり自転車に乗って帰宅途中だった。 夕闇が迫るまでまだほんの少し間がある光の具合が秋から冬に入る季節感を漂わせていたので一体今は何度ぐらいだろうかとわざわざ税理事務所の表にある電光表示板を見に寄り道していたのだった。 午後4時27分、2℃ と出ていた。 精々4,5℃だろうと思っていたのに思ったより低い2℃だ。 そのままうちの方向に戻り自転車道を走っていたら後ろから何か話しかける声が聞こえたのでそれは誰かが携帯か両手を離しても使えるヘッドホーンのような電話で話しているのだろうと思っていたのだけれど、どうもこちらに話しかけているようだった。 赤い顔をした18,9の青年だ。 それで何か用かと訊ねると、いや、寒いな、と思って、と言った。 あまり顔が赤いから酔っ払っているのかとも思ったけれどこの寒さではこうもなることもあるしここは普通に、まあな、何度だと思う?とこっちから訊ねると、さっきあそこで見たからな、2℃だ、といって私のほぼ斜め後ろについて走っている。 

ちょっと様子が奇妙だし関わりあうになるにはどうかとそのまま少し行くと丁度都合よく自分の家の方向に曲がるところだったので、じゃあな、といってその見も知らぬ青年と別れて左に折れた。 あとでその青年のことを、ひょっとしたらこちらは知らないけれど向こうはこちらのことをどこかで見ていて知っているのかもしれないし、その青年の親と知り合いなのかもしれないとも思ったけれどそれもはっきりとは分からない。 昔こどもの学校関連で知り合った親や子どもたちなどもこの歳になって見れば親の何人かはまだ分かるかもしれないけれど特に子供は向こうから言われなければ大抵思いもつかない。 ま、それもそのうち分かるかもしれないし分からないかもしれない。 

ミニ・スーパーを通り越すとうちの通りの並びの緑地の縁に沿って何本も生えている高く聳えている大木はもう殆んど葉を落としその20m以上の枝には沢山カラスがとまっていた。 それを見て


枯れ枝に烏のとまりけり秋の暮    芭蕉


を思い出したのだけど、この句に準じると今はまだ冬ではなく秋だということになるのだが今から400年ほど前の日本でこの句が詠まれたときにはまさか2℃ということはなかったように思う。 それにも根拠がないけれどこれはどこで詠んだのだろうか。 北海道ではもう雪がとっくに降っているような今の季節ではあるけれどいくら幕府のスパイとも疑られる芭蕉といっても間宮林蔵ではあるまいしオランダに似た気候の北海道までは足を伸ばしてはいないはずだ。

老猫といっても、、、、

2011年11月16日 23時17分35秒 | 日常


イギリスBBCテレビでクリント・イーストウッドの深夜映画を観ていてふと横を見るとさっき居間のドアを開けて入ってきたうちの老猫が座って何かを見ている。 かわいいネズミである。 上を向いて歯を剥いているように見えるけれど苦しみもなかったように死んでいる。 で、うちの猫は別段それに興奮しているようでもないし、それとじゃれる風でもない。 ネズミは傷ついてはいなし、それにその獲物を自分で喰うつもりもないようだ。 ただ座って眺め、時々頭をフロアに下げて下から覗く風でもある。 居間で取ったものではないのは映画を観ている間にあたりを駆け回ることもなかったからこれはどこかから獲ってきたもので、これはこちらに獲物を見せに来たということなのだ。 でなければその辺に放っておくか隅にでも片付けるかするだろう。 大抵夜中の今頃は私のいるところについてきて横の座布団に座るか膝の上で眠るかだ。 普段より妙に落ち着いている風でもある。 どうだ見てくれとでもいうのだろうか。

この猫が動物を獲るというのはしょっちゅうではないけれど昔はあった。 蛙などとは戯れてはいても獲るというものでもなく、蜘蛛は獲って遊んだけれどあまり好きではないようだ。 動物の本能が獲るということをさせるのだろうか。 夏などは裏庭の大きな蛙を溝のそばで待ちわびている風でもある。

この1年ほど台所でガスレンジや流しの裏などを時々考え深げに、また興味深くじっと眺めていることがあった。 4,5年前には昔ながらのネズミ捕りでチーズを餌に物置の小さなネズミを取ったことがあったがそれ以後は何の気配も問題もないのだから多分これは台所で仕留めたものだろう。 これをぼけーとテレビを見ている主人に見せ付けに来たのだ。 眺めたりすかしたりするけれど噛み付いたりじゃれたりする風はない。 だからティッシュを2,3枚とってネズミに近寄り尻尾をティッシュでつまんでオバサン猫の頭をなでて裏の生ゴミのコンテナーに棄てた。

13歳のオバサンからもう婆さんになる猫では最近は獲物をとることはなかったからここに来て動きのすばやいネズミに対応できるだけの動きが取れるのには少々感心もし、獣医から2kgは落とすように言われているちょっとダブダブ気味の体でも動けることを証明したことになる。