暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

謹賀新年

2016年12月31日 16時22分13秒 | 日常

 

 

2017年 元旦

ここにお越しの皆様方に謹んで新年のお祝いを申し上げます。

この10年かそれ以上続けてきたこの暇日記もまた新たな年を迎え、日記を書く習慣のなかったものがここまでやってこられたのを自分でも不思議に思っています。 日々是淀みなく流れていくその中でのらりくらり生きていくのをモットーにしている者には盆も正月もないのですが、それでもこのような世間の節目にはふと立ち止まり今年あったことを思い出そうとしますが日々の襞に取り込まれた想い、日常瑣末な事どもが多すぎて書ききれずそのかなりのものが手から砂が漏れていくように闇の彼方に去っていきます。

正月や 冥土の旅の 一里塚

誰かがこのように言ったものをこういう時にまた思い出し明日からの一歩として相も変わらずウダウダとあれやこれや綴っていく所存です。 そして、こんな稚拙な日記でも皆様方には何か思うところがあればその思いをお知らせ戴ければ誠に幸いに存じます。

 

各自心してご自愛のほどお祈り申し上げます。 

 

暇日記主人 Vogelpoepjp こと 鳥の糞  敬白

 

 


2016年、大晦日前日

2016年12月30日 18時01分37秒 | 日常

 

 大晦日から新年にかけて例年義弟の家で家族30人ほどがそれぞれ自分が作ったものを持ち寄って飲み食いしゲームなどで明け方まで過ごすパーティーをする。 日本に帰省していなければ大抵そのパーティーに寿司を人数分だけ作って持って行く。 もうそんなことを15年か20年ぐらいはやっているのではないか、もっと長くやっているかもしれない。 それが我が家のルーティーンになっていてそのための準備に入っている。 材料を買いに町に出た。 町の中心はライン川が町に入るときに二つに分かれて小さな川のようになっているところにあって市役所の裏から100mほど下流で再び合流して小さな港となる。 そこは幕末にシーボルトが日本から持ってきた文物を荷揚げしたところでもあるし大昔は刑場だった岸に画聖レンブラントの生家あとがあり彼が子どもの頃走り回っていた地区がある。 そこで自分は29年公務員として奉職していた。 ライン川はそこから15kmほど下流で北海に注ぐ。

市役所の裏にアムステルダムのオオクラホテルでシェフをしていた夫婦が二人だけで持ち帰りのだけの鮨屋をこの5年ほどやっていて時々はそこでいくつか握ってもらい冷酒を飲む。 今日もスーパーで食材を買ってここにきて店の窓から幅15mほどの半分だけのライン川を塞いでクリスマス前に作られた子供用のアイススケートリンクを眺めながら酒を飲み寿司を摘まんだ。 クリスマスが済んでもう年を越すところに来ているのに町はまだクリスマス気分が抜けていないようで、それは日本とは違い年末の忙しくとも厳かな気分はどこにもなく年末にかけ浮かれ気分が続く。 それに加えて明日の夜はどこも花火で喧しいのは例年のことだ。

今日ここに来たのは寿司を喰うだけではなく、この店では今年からおせち料理をつくって売るということをこの間知り、それを頼んでいて今日はプラスチックの弁当容器に入ったものを2パックもらいに来たのだった。  寿司はここの人間たちでも喰うけれどおせち料理は完全に未知で口に合うとも思えずそれだから日本語だけでしか宣伝していなかったので注文は12パックしかなかったと言う。 日本人がやっている日本料理店ですら煮物を出すところは海外では殆どないのではないか。 寿司、焼き肉など中国人でもできるものが殆どだ。 最近海外でも流行り始めたラーメン店は和食ではない。 オランダでそんな純和食が喰えるのはミシュラン星付きのホテルオークラのレストランぐらいでそれに高い料金を払う日本人の若者はほとんどいない。  

この町で12パックか、と100パックぐらい出るのかと予想していたものだからその少なさを想った。 この何年かで日本人の数が減ったのと来ていても大学に論文を書きに来ている若い日本人研究者たちぐらいでそんな貧乏な若者にはわざわざヨーロッパに来ておせちは特に恋しくもなく興味もないのではないか。 若者たちというのはそんなものかもしれない。 日本から来てこちらの様子に慣れるのに一杯で若者には油もの、揚げ物、肉類は別としても煮ものは特に恋しいとも喰いたいたも思わないのかもしれない。 年越しそばぐらいは誰にでも簡単にできるけれど、おせちは自分で作った経験もないだろうし材料もわざわざ求めて作るというような気力もないだろう。 今日本ではコンビニでおせちを売る時代で家庭でつくるところも段々減っているのではないか。 煮物のおせちが恋しいのは我々年寄りぐらいなものかもしれない。 

大晦日は寿司でパーティーだとしても元旦、2日はこのおせちでチビチビ日本酒を飲もうと思う。 

 


霧が続く

2016年12月29日 22時06分12秒 | 日常

 

オランダとしては比較的温暖なクリスマスが過ぎ雪の兆しもみせない今日この頃ここに来て霧が発生している。 一日中家の中にいても徐々に冷えてくるのが老人の膝に感じられ窓の内側からミルク色にぼやける景色を眺めて過ごすこともある。 霧は日頃のごたごたした周りの細部を覆う役目も果たしこれくらいなら日常生活にも支障は出ないし悪くはない。

夕食後そういえば昨夜出しておいた生ごみのコンテナーをまだ角のコンテナー置き場から戻してないことに気づき外気4℃に出るべくオーバーとマフラーをして通りに出た。 そのとき今日はまだカメラのシャッターを押していないのに気付き運河の堤防沿いの並木に向けて一枚撮った。 街灯の灯が拡散して景色にはなっている。

空のコンテナーをがらがら引っ張って家に戻り写真を見たら白く細かい点々が8つ写っていた。 何だろうと考えて、そうだカメラを構えた時に自転車を漕いで並木沿いにこちら側に来る人がいたのを思い出した。 今頃はライトにしてもチカチカとフラッシュするものがあったり目にはそう見えなくとも一秒間に何回かフラッシュするライトがあるのだ。 あのときチカチカするものに気付いていなかったから普通のライトに見えていたのだが実際は眼にも入らないくらいの速さでチカチカしていたようだ。 カメラの露出が例えば1秒の8分の1だとするとその間に8回チカチカ点滅しているということは8x8=64分の1で点滅していたことになる。 肉眼で見えないものでも機械を通すと見える例だ。


霧の中、銃砲許可証の更新に出かけた

2016年12月28日 22時51分00秒 | 日常

 

 

昼前に起き出したら乳白色の世界だった。 天気予報では霧が発生していて視界が悪いから交通に注意するよう言っていた。 3時に銃砲・弾薬所持取り扱い許可証の毎年の更新にハーグの警察署に出かけることになっていて普通は30分あれば行けるけれど今日は霧で道路が渋滞・混乱するかもしれないので1時間前に家を出て車で高速A4号線を走った。 運河沿いの通りにある我が家では窓の外は運河から湧きあがったのもあってかなり濃く50mぐらいしか見えないのでオレンジ色の車のヘッドライトに注意しながら地方道から高速に入った。

外気は4℃と出ていて路上は100m以上の視界が効いてどの車も速度を落とさず普通に制限の100kmを保っているのがちょっと不思議だった。 ただ牧草地や林で囲まれているA4は霧の密度は濃いようで道路の横、そばの視界は50mほどしか効かないものの高速の路上は100mから150mほどははっきり見えるので渋滞にはなっていないし交通量がかなりの密度を保っているので、これは大量の車の排気ガスやそれによる路上の温度によって霧が消えているからなのだろうと思う。 道路線方向だけに視界がいいというのは他に理由が考えられるのだろうか。 このため普通ならよく見通せる脇の林が走っているそばからぼやけて見えないのに比べて前にずらりと短い車間距離をとって連なって走る車が向うまで小さくなりつつ見えるから交通に問題にはなかった。 

30分も早く警察に着いて入口で名前と要件を告げると4階に行くよう指示された。 入口のそばにある案内板のどこにも銃砲取り扱い特別法令関係部署、というような案内掲示がない。 去年までは小さくともその表示があったものが今は消えている。 だから受付で要件を言って何階か尋ねた時に完全武装した受付の警官はこの部署のことをよく承知していなかったよう内線で部署を確かめていた。 この警察署にはもう5年以上前から来ているけれどそのとき取り扱いの警察署、所管が変わり、元々は自分の町の警察署で同じ手続きが簡単に出来ていたものが経費削減・合理化・区間合併で先ず10kmほど離れた海辺の町の警察署となり、そこに不便な夜間でかけ2,3年手続きを行っていたのだがそのうちにそこの人手不足のために事務手続きが混雑し署員にも出かける我々にも不満がつもり、挙句が混雑、遅れというような不都合の果てに5年ほど前から南オランダ州の大部分をカバーするこのハーグの中央警察署に管轄が変わっていた。 ここに来てからは以前と同じくちゃんとあらかじめ日時を決めてあってもそれまでのように特に待つこともなく署員もスマートな対応でコーヒーまで振る舞ってくれる。 10分ほどで手続きを済ませ料金を支払う段になり3000円ほどを請求されて驚いた。 この20年ほど1000円ほどだったものが3倍になっている。 冗談紛れに「政治的に正しくない」スポーツに対する「いじめ」かと言うと、笑って「消極的奨励策」だと答えた。 政治家の間では額を1万円以上にしろと言う声も出ているらしいけれどそれはいくら何でも、と今のところこの額で収まっているけれど先は分からない、と言う。 「政治的に正しくない」スポーツとしてはボクシングなども挙げられるけれど銃器を扱う「射撃」とは「暴力」の桁が異なると考えられて、射撃がいくら合法でも許可証の料金を上げることによって申請を諦めさせようとする「消極的奨励策」なのだ。

許可更新には、 1)オランダ射撃連盟の2016年度公式パス、 2)前年までの許可証、 3)一年間に17回以上射撃場で実行した旨を示すスタンプ帳、 4)家族・射撃クラブの理事が本人の精神的社会的安定及び刑事事件に関係していない旨を保証するサイン、 5)自動車運転免許などのID 6)更新料 が必要だ。

10分ほどで手続きを終え警察署の前に停めた車でもと来た道を戻った。 その途中にハーグを拠点にするサッカーチーム「ADO Den Haag」のスタジアム、「Kyocera Dome」のそばを回り込むようにして通ったときにこの京セラという名前も近々なくなるということを思い出した。 この何年か経営不振で財政不足の経営陣が中国人に経営権を渡していたのが約束していた資金が流れずいくら催促しても契約通りならず結局経営破綻、破産という憂き目にあって中国人経営者を訴追すればこの男は数千万から億に及ぶチームの金を自分の飲食、高級車に使い有罪になるということが報道されていたのだが京セラがそれに嫌気を差してこのドームの名前から京セラを引き上げると言ったとか言わなかったかというようなことを地方テレビで観ていたからだ。 最近観たドキュメンタリーの中に、超高級ワインを捏造して自分は中国財閥の一員だと名乗り金持ちの間を渡り歩き粉飾したワインを売りもし、また世界中のオークションに流し市場を混乱させた末アメリカで刑事裁判の末10年の禁固刑を言い渡されて収監されている中国人がいたけれどこれもその手口に似てもなくはなかった。 この何年かハーグのサッカー・チームがこの中国人に頼る様子が報道されていて折からの中国ブームの中で地元の政治家たちの名前もあがりその華やかさに危いものを感じていた挙句が「バカなオランダ人が狡猾な中国人に」膨大な飲食・車代を、自分の地元の言葉で言うと「コマされた」ことになったことになる。

80年代から海外に進出した日本企業がオランダに拠点を置いたり共同で起業したりする例はあってそこでの問題と言うのは経営文化や戦略・戦術などの企業活動内でのことであり日本人に対する信頼は高いものでありそれがアジア人に対する評価にもなっており企業を食い物にするこのような粗くチャチな犯罪というものは聞いたこともないしマスコミには出てこないけれどここでも中国人の「骨太さ」に感嘆する。 80年代に上海近郊に日・中政府絡みで大製鉄所を共同で出資設立したものの結局資金を回収できないままに製鉄所を「コマされて」日本政府が泣き寝入りをしたこともあったそうだ。 だいぶ前にそれに関係した日本人から話を聴いたことがあって真面目な日本人が太刀打ちできない異文化を経験したというのに強い印象を受けているからここ何年か海外の日本沈滞から日本人撤退気運の中で中国人の幾つもの単発事件に接すると複雑な気持ちにもなる。 

もう一つハーグのサッカーチームで日本関係のことを思い出した。 今でもまだいるのだろうか。 日本人の若いサッカーをする選手がオランダに来ているということは聞いている。 昔ハーグのチームにもいたということも聞いていた。 去年か一昨年聞いた話はオランダ人の選手だが日本で育ち日本語は堪能だがオランダ語が怪しいと話題になっていた若者だ。 多分国際結婚のほとんどのように父親がオランダ人、母親が日本人というパターンなのだろうがサッカーができてオランダに戻って来たからこのチームに入って活動を始めたというのだった。 聞いただけだからこの妙なオランダ人がどれほど日本語ができるのかオランダ語が出来ないのかに興味がある。 このスタジアムでは去年か一昨年フィールドホッケー世界大会が開かれていたはずだ。 オランダはフィールドホッケーでは金メダルをよくとる国で盛んだがプロはない。 銀行などのスポンサーがついていて経営は安定しておりプロサッカーとは経営規模や戦略、内容がまるで違うけれどそれはサッカーが世界規模の企業組織としてあることからすれば理解できることだ。 

高速に入ると外気は7℃と上がっており周りの牧草地も視界が数キロほどまで戻っていて霧はほぼ晴れていた。 自分の手帳の中では今年の予定はこれでほぼ終わりであとは義弟のうちで大晦日の宵から新年まで続く持ち寄りのパーティーのために寿司を30人分ほど作るだけで静かに年が暮れる、はずだ。


’16夏、アイルランドを歩く(10) 老人たち

2016年12月27日 13時02分21秒 | 日常

 

 

これは8月18日の日記として書いた中に登場するジョン・コリン爺さんである。 今回の旅では様々な人に会い話もしたたけれどこの爺さんも言っていたようにこの辺りのどこでも聞いたのが若者離れ、過疎化ということだ。 

アイルランドの歴史は朧気ながら多少とも承知しているけれど実際歩いてみて美しい風土の中に自分には想像のつかない厳しさに触れたような気がしたのは老人たちに接したからでもある。  それは自分の親、叔父叔母たち、もう齢90に近い人々の経験してきたこととも幾らか重なるようでもある。 今の子供たちにはなかなか想像しがたい経験でもあるしそれが日本では底に沈んであぶくを上げているのにもかかわらず情報のいびつな配分に隠れて感じがたいものがここではこの風土の中ではまだ綿々と続いていると感じられるようではある。 自分の家族でも経験したことでもあるけれどこれからまだ加速する日本の超高齢社会の老人たちの近未来を想うと憂鬱なものを感じるけれどここではまだ自然に囲まれたゆったりとした中で余生を送る人々に接し複雑な気分だった。

例えば、今回、日本の片田舎の素朴な民宿に共通する様な幾つかのB&Bに宿泊してその度に主人の老夫婦たちから聴いた昔話にそれが出ている。 我々が歩いた地域はそこにホテルもないようなところで村や町はずれに一軒か2軒しかないような素泊まり朝食付きの宿を辿って歩くのだから自然と宿を提供してくれるのは自宅の子供たちも巣立ちスペースができたからそこを有効にわずかながらでも収入源とする夫婦の家でもある。 周りに道も確かではない何もない所に客を呼ぶのだから年寄り特有の律義さで清潔な心地よい空間を自分たちの住む家の中に作りそれを一番の客へもてなしとしているからここに根付いている老人たちと訪れる宿泊客たちとの交流、一時の団欒も彼らの楽しみでもあるのだろうから自然と出されるお茶・お菓子での茶の間の会話にそれが出る。 殆どがこの辺りに生まれ若い時にイギリス、北米などに出稼ぎに出てあるときに故郷に戻ってきた人々たちだ。 出稼ぎで得た資金で故郷に家を得てそこで子供を育て余生を故郷の山河に囲まれて暮らす、鮭が川を下り大海を経て元の渓流に戻って次世代を作りそこで果てるというパターンだ。 つまり終の棲家は厳しいけれど昔ながらの自分が生まれ育った自然の中にすると決めて住んでいるということなのだろう。

何世紀にも亘り目覚ましい産業、職のない土地柄で子供たちの手には職をつけ彼らを外に送り出し、子供たちも世界のあちこちで暮らし将来また戻ってくるかもしれないというサイクルを続けさせるものはこの土地の持つ地力、自然の貧しさだ。 寒冷で穀物・作物が育たず、だから穀物を基にする乳牛も飼育できず精々小規模の肉牛やあとは羊が収入源の土地である。 産業が育たないから近年は徐々に観光が収入源になりつつありイギリス人は疎らながら顕著なのは我々のような徒歩旅行をするドイツ人、オランダ人が来て、ドイツ人が別荘として家屋を買う例もあるということだ。 実際あちこちの田舎のレストランでドイツ人家族が会食しているところに出会い陽気なアイルランド訛りの英語に混ざって耳に響くドイツ語が聴かれたことにもそれが証明されている。 

アイルランドの経済は2000年あたりでケルトの虎といわれるほどの経済成長を示しヨーロッパ小国の希望の星ではあったけれどそれも再度低迷し以前のように移民の国になっているようだ。 この落差は今回接した老人たちからは聞かれず彼らは依然として職のない「貧しい」土地としての印象を持ち続けているようだった。 彼らのほぼ100年に及ぶ実生活感からすればこの土地を除く10年ほどの都市部の繁栄は何のほどでもないのだろう。 イギリスがEUを離脱した中、だれもがEU内にいて良かったという。 今回の旅行でも日頃使うユーロが英語圏のアイルランドで使えるというのが便利ではあったけれど少々奇妙な感じがしたのは長年イギリスの植民地であり英語圏であるということでどこかでイギリスにいるような気分になっていたからだろうか。 

漁港では漁船の規模が小さいので同じUE圏のスペインの漁船に持って行かれることが多いけれどEUを離れたら壊滅的になる、それは西アフリカの漁業が中国の大船団によって壊滅させられた例に明らかだ、というのを聞いてここでも中国がこのような引き合いに出されるのを時代だとおもったけれど世界の果てまでどこでも金になると見こしたら住み着く中国人たちでもこの辺りにはあまり見ないのはここはさすがに金にならないと見られているからなのだろうか。 そういうことが一つの指標にはなる。 


’16クリスマスディナー主菜; Mul タテジマヒメジ

2016年12月25日 21時40分54秒 | 喰う

 

姑を我が家に招いて午後から夕にかけて遊ぶ恒例のクリスマスのディナーのメニューが決まった。 12月の初めに職員共済会が例年のように近くのシェフの店でクリスマスディナーの講習会をするのだが今年は自分と息子がそれに出かけて夕方7時から11時半まで前菜・中菜・本菜・デザートとそれぞれシェフが手本を見せてそれを我々がなぞり、作ったものをそれに合ったワインで飲み食いする会に行ってきた。 そのとき前菜で作ったタテジマヒメジの菜種油焼きがえらく美味かったのでそれを今年のディナーの本菜にすることにした。 それは平生の牛や豚などが食卓に上るのではなくこんな特別のディナーであるので近年は鹿や猪などの肉を供する傾向にあったし我が家でもそのようにしていた。 けれど最近はそれにも少々重いものを感じていたし、実際講習でも猪の背肉のステーキに添えて猪肉を低温で長時間煮て解したものをウサギの内臓のパテで和えて小さなハンバーガーにしたものが主菜でありそれが美味ではあったといっても我々には重く、ましてや90に手の届くような姑には負担がかかりすぎるだろうという想いからこの美味かった魚を本菜に持ってくることにしたのだった。

オランダで Mul と呼ばれる魚だ。 英名 Striped Red mullet、ラテン名 Mullus surmuletus で日本ではあまり馴染みがなく探し当てた和名は タテジマヒメジ だった。 昔、親たちがヒメジは美味いと言っているのを聞いてはいたがそれを自覚して喰った覚えはない。 ホウボウの仲間であるらしいがホウボウは味わったことが無い。 いずれにしても昔の年寄りたちが口にしていた名前を憶えていたのだろう。 1960年代以降は自分の耳にも口にも入っていない。 ホウボウを小型にして扁平にしたようなメゴチは生まれ育った泉南ではガッチョといい、子どもの頃から大阪湾の堤防から釣り上げて持ち帰った覚えがある。 煮物は別として自分の好物はガッチョのから揚げで、ビールのつまみに美味いものだ。 小さなガッチョになると本題のヒメジからほど遠いものとなって身は小さく格も大分下がるようでもある。

オランダ語でムルというタテジマヒメジを料理するのは簡単だ。 強火で熱くしたフライパンに菜種油をひき、塩コショウを軽く施した魚を皮に筋を入れた側を下にして置き、指で10秒ほど押さえ焦げ目をつけるのと平らにして一様に火を通しその後裏返して弱火で暫く焼いて火が通ったら出来上がりである。 要はステーキと同じく火は通っているが焼きすぎないこと、肉に新鮮な弾力を保つことだ。 実際数分で済む。 けれど魚を乗せる台と魚のソースには準備が要る。 

魚を乗せる台は緑のクスクスでつくり、それは鶏のブイヨンで蒸らしたクスクスにあらかじめ作っておいたモロッコ風ハーブで用意したペーストを混ぜたものだ。 ペーストは市場で新鮮なパセリ、コリアンダー、ドラゴン、ディル、ミントを買ってきてそれを荒く刻み、ブレンダーにかけ、オリーブオイルを注ぎながらペーストにする。 そのときの新鮮な香りがなんともいえない。 そこに熱くしたフライパンのオリーブオイルに玉ねぎとクーミンを加え炒めてそれをペーストと一緒にクスクスに混ぜればモロッコ風エキゾチックな緑のクスクスが出来上がり、このフレッシュな香りと味わいが魚に合う。

黄色いソースは魚のブイヨンにクレムフレッシュを加え熱し蒸散させ量が半分ぐらいになるまで火を通す。 別鍋に少々白ワインを火にかけサフランの花芯を5つ6つ散らし10分ほど煮て黄色い色と香りをだしそれを先ほどのクリームソースに加えて蒸散させ仕上げはバターでとろみをつければソースとなる。

魚の調理は簡単だがソースとクスクスを先に用意しておいて魚を焼くのが順序となる。 写真のように当日はできるかどうか挑戦でもある。 当日はこれに煮た栗を2つほど添えるつもりをしている。

尚、前菜は息子が用意し、エビ・蟹の棒状のコロッケのブイヤベース・スープ添え、デザートは娘と家人の共同作業で詳細は知らされていない。 彼らはまた野菜サラダも担当している。 今年は肉なしの胃に重くないメニューとなりそうだ。 新年早々病院で胃の検査をする自分にも合った献立でもありこれに白ワインを一杯ぐらいは許されてしかるべきだと考える。


’16夏、アイルランドを歩く(9)コークのパブで

2016年12月25日 01時05分40秒 | 日常

 

2016年 8月 21日 (日) 雨

ベアラ半島でのウォーキングを終えコークに戻ってきた。 前日キャッスルタウン・ベアラの町からバスで3時間ほど揺られ今回最初の宿泊地になったB&Bにまた戻ってきた。 オランダに発つ22日の便が早朝5時であるのでここにまだ2泊し結局まだ2日半ほど居ることになるのでのんびりコークの町をあちこち歩いた。 あまり大きな街でもないので方向も大体分かるようになり繁華街の通りもどうなっているのかも見当がつくようになる。 コーク大学の正面近くにある宿から食事をする繁華街までは2km以上の距離があり、そこを往復するのに歩いたり時間が合えばバスに乗ったりした。 この日は家人が一人だけ宿舎の近くにあるプールで泳ぎたいと言うので、別段泳ぎたくもない自分と娘は特に何をするとも決めず町に出て夕方どこかで家人と落ち合って食事をすることにして別れた。 しとしとと雨が降っていたのでバスに乗って繁華街に出てブラブラ歩き晩飯をどこでしようかとレストランに目星をつけるべく店の様子や軒先のメニューを読みながら歩いていると店の者が出てきて勧誘する。 そこでこの辺りでライブの音楽をやっているスポットを幾つか聞いてそこを尋ねることにした。 一番初めに来たところがアイリッシュ民謡をやっているパブでそこに入るとかなりの人が入っていてカウンターには人が7,8人坐り、壁沿いのテーブル3つほども塞がっており土間に幾つか置いてある背もたれのついていない丸椅子が二つだけ残っていてそれに腰かけてパイントグラスのギネスを手にして見回していると壁の上にかかっている大きなスクリーンのアイルランドローカルのラグビーのようなサッカーのようなスポーツに見入っている人々の向うにミュージシャンが集まってきてそれぞれバンジョーに横笛、バグパイプにギターや横笛、太鼓などの楽器を取り出して演奏しだした。 

日曜の午後3時半というのはパブでこんな大スクリーンのスポーツを見ながらビールを飲むかこういうセッションがあればそれも聴くというのが好ましい日曜の過ごし方なのだろう。 壁にはロリー・ギャラガーのポスターが大きくかかっていた。 ギャラガーはこの町の出身なのだと誰かから聞いた。 初めから知っていれば彼の住んでいたところやよく演奏したライブハウスなどを訪れてみたかったけれどウォーキングを終えた今はそれをするエネルギーもない。 学生時代70年代の前半にギャラガーを聴いた時期があった。 アイリッシュとは承知していたけれどブリティッシュ・ロック・ブルースの括りで聴いていたようで目の前にギャラガーのポスターを久しぶりに見てここの町の出身だと言われると急に40年の時間が戻るような錯覚に陥る。 けれど目の前でやっているのはアイリッシュ民謡なのだ。 何日か前に泊まった Allihies の町のパブでもこのようなセッションに接したけれどこちらの方が本格的で楽器の種類も如何にもアイルランドのもののようだった。 金属製の縦笛がないなと思っていると男が後ほど駆け込んできてフィドルとギターの間に割り込んで座りジャケットのポケットから小さな金属パイプの縦笛を取り出して皆に合流した。 この男はアイルランド独特のスポーツの勝敗が気になるのかずっと天井近くにかかった大きなスクリーンを眺めながら指を動かしていた。

休憩の時に大きなタンバリンのような太鼓の男にどのように音の高低を調整するのか尋ねてみた。 叩くのは右手の指であったり20cmほどのバチの中ほどを摘まんでバチの両端で皮を叩いて音を出すのだが音の高低は左手で皮に触れたり押したりしてニュアンスを出すのだといった。 日本の鼓や羯鼓などは皮に繋がった胴を締める紐を握ったり緩めたりして高低を出すと言うとメキシコやアメリカインディアンなどでも自分の使っている楽器に似た形でそのようにするものもあるけれどこれにはそんな紐はついていないと言った。

1時間ほどここにいて雨が上がったようだったからそこを出て家人と合流すべくイングリッシュ・マーケットの方に歩き始めたのだが暫く行くと入口が閉まっていた。 日曜日は観光客の多い夏のバカンスシーズンでも休みだったのだ。

 


’16秋、一か月の帰省(6) 盆踊りと鉄砲光三郎

2016年12月23日 10時40分52秒 | 想うこと

 

10月の帰省中に一夕女友達の案内で会食した。 そこは普通の住宅街の普通の古い町屋を改造したイタリア料理の店でコース料理は美味で満足のいくものだった。 畳の部屋にテーブルを置いて普通の民家の座敷で喰うといった趣で、飲食店の雰囲気が全く感じられないそんな設定では自分がまるで明治時代に外国から来た客で日本の民家で接待されるような雰囲気もなくはなかった。

鴨居の上に筆が走った額が掛けられており「寿道和」の三文字と「宗家 家元」 「鉄砲光三郎」、 そして揮毫者の落款が添えられていた。 「和の道を寿ぐ」とでも読むのだろう。 それぞれ筆の太さが違い趣が異なりなかなか面白いと思った。 なぜか「宗家家元」の文字に一番近親感を覚えた。 それはここに一番寛いだ雰囲気を感じたからで何百回、何千回と書いてきただろう自分の名前は商標でありそれ自体がしっかりとしたコンパクトな空間を固めていて本文では「寿」のその勢いの中に慣れと自信が窺えるようだった。

鉄砲光三郎の揮毫を観たのは初めてだし彼を盆踊りの櫓の上に見たのはもう半世紀以上前になるだろう。 鉄砲光三郎は河内音頭で名を成した人だ。 自分の育った泉佐野の村は「佐野口説き」と呼ばれるゆったりした節回しに田舎の優雅なの振りの盆踊りで、それが幼少の自分の髄にまで刷り込まれ、初めて河内音頭を聴き、その踊りを目の前で観た時にはなんと忙しく、せわしない踊りだと思ったものだ。 そのテンポについて行けなかった。 これではとても明け方まで一晩中踊れるものではないと嘆息した記憶がある。 それも自分の体に刷り込まれた佐野口説きのテンポが元になっているのだからこれを基にしては日本中の盆踊りの大抵が自分には明け方まで踊れる自信のない速いものだ。 つまり、子供の自分には三日ある盆踊りの最終日は明け方まで踊る習慣があり、自分にはそんな非日常の時間、空間の中で延々と続く村の踊りを楽しみにしていたし、こどもの体力を試す盆踊り耐久レースのように考えていた風がある。 実際村の中ほどにある日頃はカボチャや西瓜、野菜が植わっている畑が青年団により整地され、若者たちが組み立てた櫓とそれを囲む薄暗い雪洞のなかでなんとか平らな地面を保っている踊り場は最終日の3日目の明け方となればもともと戸数の少ない村のこと、夜更け前には多くても80人ほどくればいいところを向うに朝焼けが見え始めたこの頃には10人もいないというのが盆の終わりの光景だ。 後年自分がモダンジャズにこれほど淹れ込んだ理由を考えて行きついた理由がこの「朝まで盆踊り」体験だった。 ゆったりとした単純なリズムに体を任せて無限の繰り返しの動きの中であるときに幽体離脱に似たような体験をしたことだ。 これがアフリカを経てアメリカで花咲いたソウルからジャズへの軌跡の核にあると後年になって実感したからだ。 肉体、リズム、運動とその終わりない連続のなかでの精神の浮揚感、高揚感が自分の原点だった。 

それは別として鉄砲光三郎である。 或る程度大きくなればそんな子供でも近在の踊り場が気になり人が集まる街の盆踊り会場に出かける。 村の外れまで来るとあちこちからそれぞれ数キロ離れた村の盆踊りの音頭が拡声スピーカーに増幅されて微かに聴こえてくる。 村の山側の村は熊取村で自分の村の佐野口説きとは違い、二つ北側の村と同じく江州音頭、とか河内音頭というものが唄われそのテンポはわが村のものより大分速い。 泉佐野市の中心部、春日神社の境内が当時人が一番多く集まる踊り場でそこに2kmほど夜道をテクテク歩いて行けば寒村から「都会」に出たような華やかさがあった。 あるとき、本来は佐野口説きだけであるはずが鉄砲光三郎自身が櫓の上で唄う河内音頭がバックのエレキ・ギターに乗せて聞こえてきて、その下で踊る圧倒的少数の「余所者」たちの河内音頭の振りを皆眺めているという場面に行き会った。 当時人気を博していた音頭取り、準民謡演歌歌手だったのだ。 当時は今東光という生臭い坊主が書いた河内のヤクザを主人公にした小説「悪名」が書籍、映画ともにヒットし河内の「悪名」が全国に広がっていた。 今東光については後年近くの水間寺、東北平泉の住職となってその「出世」ぶりには驚いたものだ。 だから瀬戸内晴美が僧侶になって同じような道を辿っても驚きはなかった。 それが生臭たちの路だと納得した。 大体がガラのあまりよくない河内や泉南の土地柄でも河内音頭はもっさりした泉南とは違い威勢のいい当時のリズムを体現した節回しのものでそこに電気で増幅されたギターが使われているのも当時の寄席の歌謡ショーとも合って新しいものだった。 当時はまだ若者のグループサウンズが出てくる前でギターも薄型ではなくそれより前のロカビリーでも使われていた胴が厚く間に空洞のあるギブソン製ジャズギターだった。 

佐野口説きでもそうだが特に河内音頭ではヤクザの斬った張ったの世界を題材にした口説きが多く、それは大衆演劇の演題とも共通するものだ。 佐野口説きの中には紀州の殿様に大金を貸していた地元の豪商食野長者の話などもあるけれど大体がアウトローの世界が囃される。 口説きの世界は現代の若者には理解される種類のものではないけれど伝統だというだけで盆踊りは今でも続いている。 5年前に家を整理している時に夏には30年ぶりに地元の盆踊りに偶々来ていた息子、娘を連れて村の盆踊りに行った。 ことのとき初めて着た浴衣に身を包んだ自分の子供たちとほぼ同年代の村の青年団の若者たちから最終日でも12時には終わると聞いた。 周りから騒音の苦情がでるからだという。 盆踊りが「騒音」として扱われるようになっているのだ。

60年代にそんな盆の夜、農家の雨戸を開け放って涼みがてら自分の村は勿論、近郷の盆踊りの口説きが二つ三つあちこちから聞こえてきたのを祖父たちと寝そべってあれはどここれはどこの村と聴いていたことがある。 それは今の時期に除夜の鐘が鳴りだしたときに近郷の寺から違った響きの幾つかの鐘の音を聴いたのと重なるものである。 この間ネットの記事で除夜の鐘の音が喧しいと訴訟にもちこまれた挙句の判決結果、何と鐘を撞くのをとめられた事例があるということを知った。 そろそろ除夜の鐘が近づいているというのに盆踊りのことを書く藪にらみの結果はなんだか少々侘しい気分にさせるものだった。

 

 


修理できた自転車を取りに行ってきた

2016年12月21日 21時25分36秒 | 日常

 

3時以降ならできていると言われていたけれど家で何やかやしていて出かけるのが遅れ、雨がしとしと降りだしている表に出たら4時5分だった。 自転車屋まで最短距離が4.5kmで退屈な車道沿いだけれど5時前に店に入りたいから仕方なくそのルートを少々早足気味に歩いた。 ポンチョを着て耳にはアイポッドからジャズを流して雨など気にしない装備にした。 競歩ではなくとも普通歩くテンポで靴ひもをしっかり締めて大分速く歩いた。 雨模様の4時を廻ればもう辺りは大分薄暗くなってきているので昨日とはがらっと雰囲気が変わり、周りを眺めながら歩くこともなくただ集中して歩を進めた。 その結果店に入ったら5時までまだ10分あった。 45分で4.5kmか、だから時速6kmで歩いていたことになる。 これほど早くこの距離を歩いたのは去年の春にプロヴァンスを歩いた一日、山を幾つか超えた後の宿舎の修道院の門限前に滑り込まないと食い物にありつけないから本気で急いだ時以来だ。 あの時はまだ修道院まで5kmほどあって普通に計算しても間に合わないものだったのだが幸いなことに偶々そばを通ったイタリア婦人の車で最後の2kmを走り閉門5分前に滑り込んだのだった。 今日はあの時の緊迫感と切羽詰まった動きはなかったけれどジムで運動しているような機械的な歩きで雨の中を歩いた。

初めに頼んだようにすり減った後輪タイヤとチューブを新しいものにして緩んだチェーンを補修してもらうはずだったのだがチェーンが錆びてもうだめ、それに歯車がすり減って交換しなければならなかった、自転車のスタンドが壊れている、とそんな磨滅した部品を箱に入れたものを見せられた。 手間賃50ユーロ、交換部品50ユーロほどで1万円ほど払って帰途に就いた。

新しくなった自転車はこの何年も経験したこともないほどペダルが軽く驚くほど速く走った。 歯車は買った時の物だったから10何年か経っていてチェーンもそんなものだったかもしれない。 それとも5,6年ほど前に交換したのかもしれないが覚えていない。 そのころタイヤの交換もしている。 この2年ほど自転車が徐々に重くなってきていたので自分の歳のせいだと思っていたものがそれが歯車とチェーン、それに油を差していなかったためだったのだ。 これで少しは遠出をしても疲れないのだから春になれば今までより少し大きめの外側のリング・ルートを選んでサイクリングする気持ちにもなってくる。

 


自転車の修理をするのに隣町まで行ったついでに歩いて戻ってきた

2016年12月20日 23時24分13秒 | 日常

 

 2016年 12月 20日 (火)

毎日乗る自転車は定期的に点検・修理しなければならずそのために今日はその気配が出てきたもう10年物の自転車を4.5km離れた隣町の自転車屋まで乗って持って行った。 クリスマスの前だから何日も止めおきにされるのかもしれないと思ったけれどその時は替えの自転車を借りればいいのだし、今日は天気がいいので翌日に出来るというのだったらそのまま散歩がてらブラブラと歩いて町の中心方向まで足の向くまま晩飯の買い物をして夕方までに戻ればいい、とそんな支度をして10時を廻ってから家を出た。 近所では何かで車のフロントガラスから凍った霜を擦り落としている人も見られた。 日中最高気温が4℃ぐらいだと言っていたから今はまだそこまでは行ってはおらず2℃か3℃かもしれないけれど晴れ間がでているから歩くには気持ちはいい。

その自転車屋ではこの25年の間に家人と自分はそれぞれ2台づつは買っていて家人は毎年一回はその自転車屋に点検に出しているから顔なじみになっており、名前をいうとうちの郵便番号も知っていた。 自分の物をこの前に修理・点検してもらったのは2年ほど前になるように思い、そのときにも今日と同じように歩いたのかもしれないからその時のことをどこかに書いているかもしれないと探してみたけれど見つからない。 近所の自転車屋にブレーキの修理に出したことは2年半ほど前に書いているけれどそのとき結局、隣町の自転車屋のほうがいいと思い直し次はそうしようと思ってからが今日になったということか。 それなら前回ここに来たのはもう3年以上まえになるのだろう。 今の自転車はもう少なくとも10年は乗っているから同じようなことをした時には2度ほどは借りた自転車で、2度ほどは歩いているはずだ。 だから前回は少なくとも3年ほど前になるということだ。 けれど記憶はまだ充分新しく去年の様にも感じる。 ステーションワゴンの後ろに積んで行ったこともあるしその車も買い換えてから3年以上になる。 自宅から真っすぐな車道に沿った径を行くから自転車で戻るのならそれでもいいけれど同じところを歩いて戻るのは退屈極まりない。 だから修理は明日の午後できるというのを聞き貸そうかという自転車を断って歩くことにして、運河沿いを歩き橋を渡って市内を目指し、、、、と歩き始めた。

カッターシャツに薄いカーデガン、その上にこの間買った防水スリーシーズンのアウトドアジャケットを着て新しいウオーキング・シューズで歩きだした。 マフラーで首筋を締め手首のマジックテープも締めて薄い皮の手袋と着けた。 手袋だけは冬用だが他は夏でも寒冷なオランダでも基本的にはスリー・シーズンの服装だ。 今の外気3℃でも寒くない。 ただこれがマイナス15℃ぐらいになると北極でも南極でも行ける言われているアウトドア・ジャケットを着る。 けれどそれはまだ冬が寒かった15年ほど前に買ったもので暖冬が続くそれ以後は殆ど使ったことはない。 そのころ一度正月頃日本に帰省した折、雪の残る800mほどの山にそれで登ったけれど身に着けていて暑いほどで使い物にならなかった。 だから今のものはマイナス10℃ぐらいまでは厚めのセーターを着れば十分役に立つだろうと見ている。 薄いので大丈夫かと心配したけれど店員のいう通り25年前のこのあいだまで着ていた古いジャケットから技術は格段に進歩しているのだ。

広い運河沿いを歩いていると行く手に野生の鵞鳥が20羽ほど道を塞いでいた。 かなり大きく、この鳥に一度警戒されるとアグレッシブになり騒いだりこちらに襲い掛かって来る恐れがあるので普通にテンポを変えずに進んでいくと皆一様に運河の水面を眺め頭を上げたまま殆ど動かず、そんな群れの中に分け入っていくと1,2歩脇に退いてこちらに道を譲るような格好をするけれど頭は自分の腿ほどまであり手の高さとほぼ同じで彼らの嘴から15cmほどしか離れていない。 もし家人と一緒に歩いていれば数メートル離れて平行に走っている自転車道を行くのだろうが自分は強がってこんなことをする。 もし突かれるようなことがあったらいつでも走り出して逃げる用意はできていた。

そこを通り抜け霜が残る遊歩道を歩いていると微かにヌルっと滑るような感触がある。 もう11時に近いのにまだ霜が完全に溶けていないからこういうことが起こる。 ゥォーキングにはあまり嬉しくない。 それならいっそマイナス10℃ぐらいになれば全て凍ってカサカサに乾くので歩きやすいから安全ではある。 運河を跨ぐ橋のところに来るとほぼ南に低く太陽が見えた。 11時なのにこの低さだ。 

その後市街地に入り大学の図書館で1時間ほど雑誌を読み知り合いと他愛のない話をしたあと日本人がやっている鮨屋で握ってっ貰ったもので1合冷酒を飲んだ。 町の中心を横切るライン川の支流には間にボートを浮かべて平らにして子供たちのアイススケート・リンクやクリスマスマーケットが出ていた。 昨夜ベルリンで夏にニースであったようなトラックによるテロ事件があったばかりだがここではそんなことは関係ないといった風に人々で賑わっていた。 その中でチョコレート・スパークリングワインを売っている店があった。 カカオやその他のナッツを白ワインに入れて発酵させたものだとベルギー訛りの男がいうのを試飲した。 ナッツの香りも味もするのだがチョコレートは味わえなかった。 これなら普通の安物のスパークリングワインの方がいいと思ったのだけれどそれも言わず値段も聞かずそこを離れた。 暫く行くとカメラクルーがいてこちらに視聴者にクリスマスのメッセージがあるかとカメラとマイクを向けて来たので日本語でまくしたてた。 マイクの男は日本語が分からないので何を言ったか説明してくれというので、メリークリスマス、いい年をと言ったんだと言葉の数はまるで少ないオランダ語で返事をした。 男は中国語とか韓国語とは言わず日本語といったけれどどうしてそれが日本語だとわかったのだろうか、それともあてずっぽうだったのだろうか。 熟年向けのテレビ局だと言ったけれどあんな自分の画像が流されるとは思わない。

その後スーパーに行きこの日の献立はインドネシア風焼きそば、明日は白米に燻製の鯖、ホウレンソウに大根おろしと決めて材料をリュックに積めて支払って表に出るともう大分薄暗くなっていた。 家に着いたら4時を廻っていた。 ブラブラ歩いた距離を測ると8kmだった。