暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

モルヒネポンプ導入

2019年09月18日 03時48分24秒 | 健康

 

2019年 9月19日 (木) まだ生きている。

3日前モルヒネを絶えず体内に注入するポータブルなポンプ器が来た。 その前日、右側下腹部、盲腸のすこし上あたりの筋肉が猛烈に痛み、救急医療隊に来てもらった。 そのときは手持ちのモルヒネの座薬と通常の痛み止めでなんとかやり過ごしたが何時間か経って手を下腹部に添えるとまだ痛みが感じられ、そのとき家庭医の判断で絶えず体内にモルヒネを注入でき自分でその量を統制できるポンプにしようと決めた。 それ以来それまでの6時間ごとのモルヒネ座薬、3日ごとのモルヒネ張り薬、6時間ごとの痛み止め錠剤を徐々に撤退させてこのモルヒネポンプに統一することになり、今はもうそれぞれの服用時間に縛られることもなく一応の安定は保っている。 これからはモルヒネの量が徐々にあがっていくことが考えられるがそれに伴って意識が朦朧となることも屡々となるだろう。 痛みは消えるわけではなく逆に強くなるのだがそれ以上に痛みを抑える麻薬効果で脳に痛みを感じさせないようにするのだそうだ。 いまのところ注入量は最小値あたりなのだが手で触れれば明らかに痛み、咳をすれば痛むのだから明日医者が来れば増量を頼むことになる。 

いよいよ心積もりをしていかなければならない。 葬儀案内の和文は昨日仕上げた。


自分は人が好きで人に興味があったんだなあ

2019年09月11日 05時15分00秒 | 想うこと

 

自分の人生に幕が下りようとしている現在、先ほどまで熱にうなされ汗びっしょりになったパジャマを家人に換えられるのをうつらうつらとやり過ごしたあと何時間か居眠り、そんなこともあったのだろうかと夜中に目覚めれば久しぶりにすっきり頭の中は覚醒していた。 これならパソコンの前に坐れると息を整えブログにもらった知人たちへのコメントもし、まだ幾つかこれから載せようとしているモノクロポートレートの写真を眺めてもいた。 すると自分がなぜこの1年ほどそれまで撮れなかった人物ポートレートを撮ろうとしていたのか分かった。 分かったといってもそれは今更のことでもないのだが改めてそのことを実感した、ということなのだ。

初めてカメラを手に取ったのが父からもらったトイカメラでそれは6つぐらいの時だっただろうか。 神戸摩耶山頂とパラソルの母親の写真を撮っている。 どういう訳か母親の顔はなくパラソルの縁と母の胸元が上辺に見える。 そのことをここにも載せた。

https://blog.goo.ne.jp/vogelpoepjp/e/5590d99adbe8331d93820265e2ef5ded

 それから高校・大学と写真部に所属した。 大学では写真・芸術・世界観などについて少しは学んだがそのときの様子は上記のサイトに少し書いた。 けれどポートレートについては触れていない。 受験・大学進学と自分の興味は社会や世界がどのようなものでなりたっていてどのように動いているのか、というような漠然としたものに向いていた。 その骨格としての法律というものを学べばそれが解明されると思っていたふしがある。 大学に入るとすぐに教授が我々に、君たちのように世間も何もわかっていないものが法律の骨だけを知っても何の役にも立たない、法だけを学ぶのであればその骨のまわりの身にも血にもなっている人々のことを先ず知らねばそれはただ死んだ勉強でしかない、法は成文法である、だから法律書に並んで古今の文学を紐解きそれに親しめば法律理解にも深みが出るだろうと言われた。 そして自分の乱読が始まった。 高校の教師が言った、悪書というものはない、何事にも目を開きよく見て読み、自分の頭で判断する、するとそこに一定の判断がついてくる。 すると悪書といわれるものが何故そう言われるのかが理解できて、そのとき悪書は単なる悪書でではなく理由のともなった自分を豊かにする読書体験材料となる、という言葉も乱読を後押しするものだった。 それ以来乱読は続いている。

ポートレートである。 高校・大学と写真というものについて多少は齧ったものの殆どが町のスナップショットだった。 当時我々が尊敬していた写真家たちのスタイルは概ね承知していたしそれを真似て撮ってもいた。 「雰囲気」である。 そして写真の中に在るもの、そこに写っているものの意味を考え討議する。 当然そこには町や景色だけではなく人々も入り、ポートレートも含まれている。 けれど人物ポートレートというものは一つのジャンルとして出来上がっていたように思う。 例えば家族が写真館にでかけて記念のポートレートを撮る、パスポートや自動車免許証用に撮った写真もそのようにいえるかもしれない。 写真館の前にはそういったような写真が並んでいる。 それを前を通る人々は立ち止まってじっくり眺めるようなことはあるだろうか。 顔を知られた有名人や飛び抜けて特長をもつ顔でなければ一瞥の後には忘れ去られることとなる。 

 

ここまで書いてからほぼ一週間が経った。 この間容体が悪化してベッドから2mのところにあるパソコンにむかうことができなかった。 まだ自力で4mむこうのトイレにはよちよちあるきで通っているものの消耗が激しくベッドに戻るとゼーゼーと息を整えるのに5分はかかる。  じぶんの寿命もほぼ尽きかけているのを実感する。 本来ならば推敲しちゃんと終わるつもりだったものがもうその時間もないように思うのでここでこの項は中途半端ながらこのままにすることにした。

要は、じぶんの命がもう長くないと悟ったときからそれまでできなかった人物ポートレートをこの1年ほど始めて、街頭の人々を中心にほぼ250人撮った中で、自分は人が好きで興味があったんだなあ、と実感した、ということだった。

もうひとつ今日これに関してうれしいことがあった。 ほとんど膈にちに救急医療チームを呼ぶ。 今日来た看護人の女性はうちに来るのが2度目で自分のブログを見たと言い、日本語は分からないもののポートレートに印象付けられた、できれば撮ってもらいたいと言われたのでベッドから彼女ともう一人の男の救急隊員を撮ったのだった。 命の終わりにこういう風に言われたのに意外な嬉しさを感じる。  これで後5枚ほどここに挙げなければ収まらない。 隊員達にも言ったのだけれど、あと4、5日の命だとして約束はできないということだ。  現にこの文もパソコンからではなくベッドの中でiPadから慣れないまま不自由しながらポツポツと打っている。


クルーズ・バカンスの旅(10)終章 バルト海の夕焼け

2019年09月08日 22時49分58秒 | 日常

 

4か月前に夫婦でこれが最後になるだろうからというのでバルト海巡りのクルーズの旅に出た。 その経験を今まで9回にわたってボチボチと記してきたのだが自分の健康状態がここに至りこれ以上は書きづづけるのが難しくなっており、まだサンクトペテルブルク、ヘルシンキ、ストックホルム、キール、アルハルスと寄港地の半分以上の思い出を書き綴ることもないままでこの紀行を終わることにする。 

たったの4か月前だったのにクルーズ中には船のプールで泳ぎ、何回か一周140mのトラックを10周ジョギングするようなこともし、寄港地では毎回10km以上歩いていたのだから今のことを想うと隔世の感がある。 更にこのクルーズから戻って9月の終わりにはスイスへの列車旅行の可能性も探っていたのだから予め分かっていたこととはいえ急激な体調の悪化には驚くものがある。 

この日記にも今は鬱陶しいことばかり書き連ね、それに触れる読者にはさぞ鬱陶しいことだろうと他人事ながら同情がつのる。


戸惑ったこと

2019年09月08日 12時33分01秒 | 健康

 

4週間ほど前に死ぬほどの苦しみを経験した。 けれど死ななかった。 その中でかろうじてなぜそれが起こるのか医者にもだれにも分からないままに自分の判断で多分そうだろうという結論を導き、まともな食事を止めてから今それをなんとか防ぐことができている。 けれどそれがまた起こらないという保証はまったくなく、逆にその可能性がいや増しになっていることも皆には分かっている。 何時間にも亘る耐えられない痛みの波状攻撃の中でその時初めてこれが具体的な安楽死の動機となることを確認した。

その後何日かは安静に過ごしたけれど或る時、風邪かなにかかと思えるような咳が出て痰が絡みそれが徐々に酷くなった。 医者の見立てでは風邪ではないという。 熱もない。 胃や食道に充満する癌腫瘍が増殖して肺を圧迫しているのだろうと言う。 咳薬と食道、胃を滑らかにする薬を処方された。 いつも軽い咳がでて痰が絡む。 だから寝る時も仰向けに平らに寝ることができず傾斜をつけたベッドで眠れるよう努めている。 ここまでのことは既に書いた。

一昨日、金曜の夜、夜中の2時ごろ急に悪寒に襲われた。 ベッドの中で震え、歯をガチガチいわせ耐えた。 熱があるとも思えなかった。 10分ぐらいして耐えきれず家人を呼んで体温を測ると37度だった。 彼女は直ちに医者に電話し対処法を問い、先ずは痛み止めのパラセタモールを2錠服用すること、30分後に効果がなければ再度電話するよう指示を受けてそのようにした。 結局30分後に震えは止まりその後徐々に体温が上がり3時間後には39℃近くまで昇ったけれど少し下がり38℃をすこし越したところで安定した。 朦朧としたまま翌朝、午後を過ごした。 これについいての説明の一つが医師である娘からされた。 癌の末期、様々な症状が起こりうる。 患者の体力が衰え、それに付け込んで体細胞が様々な菌や癌細胞に侵される時に起こる生理、化学作用の表れが例えばそのようなものとなって発現するのだと。 分かったような分からないような説明だがこの悪寒もその起こりうる可能性の一つであったのだろうということだ。 一難去ってまた一難、どこで何が出て来るか分からない。 

歯を食いしばって震えに耐えていた時、まだ死ねない、ここで死んではならない、と思った。 予定ではまだ少なくとも一週間は有るはずだ、と勝手に予定していたのをその理由にしていた。 人々との別れは大事な人たちを除いてほぼ終わっている。 家族のことで憂いはない。 ただスケジュール通りに運ぶということに拘っている。 今回戸惑ったことはこの間の痛みの時とは違って、この震え、悪寒が酷くなればそのまま奈落の底に持っていかれるのではないかと危惧したことだ。 痛みであればそれから逃れるためには死しかないとその刹那考えていた。 

自分に死をもたらすものは癌ではあるけれど直接的には痛みであったり単に咳き込む痰詰まりであったり悪寒によるショックであったりするわけで、そういう意味では様々な死亡通知の中で、例えば今日のニュースであったように82になる作家が急性肺炎で亡くなったというのも元には他の大きな病気の最終段階としての直接の死因だったのかもしれないということだ。 現に4か月前に癌専門医が自分の起こりえる可能性の例として示したのは腸閉塞だった。 今のところこれについてはずっとその対策をとっているので全く問題なく自分の腸の調子は万全だ。 けれどあちこちに伏兵が潜んでいる。 まだ訳の分からない敵があちこちで自分を待ち構えていて捕まえようとしているのだし自分はそのうちそれに捕まることも承知しているのだがまだもう少し捕まるわけにはいかない。

 


終のベッド

2019年09月08日 01時24分15秒 | 日常

 

いよいよ体力が減退してきて階段の上り下りが厳しく、また、食欲もなく、出来ればベッドの中で過ごしたいと思うようになってきたこの頃、ちょっと起き上がって動くにしても家族の監視がまとわりつくようになってきている。 葬儀アドヴァイザーとの懇談でそろそろ地区の看護チームとの接触をもったらどうかというのでそのようにした。 それは懇談の結果、400mほど離れた子供たちが通っていた中高一貫校横のホスピスで最期の時を過ごすかあくまで自宅でその時を迎えるかという選択を迫られたときに迷わず自宅を選んだからで、そうなるとこれからの24時間体制の看護には家族だけでは賄いきれないことになり、殊に夜間の看護には家人に休養を十分とらせるためにもプロの介護が必要になる。 自分は楽にそのまま衰えて行けばいいのだが周りの負担が徐々に重くなり、これが長くなればもう家族の手だけでは無理になるのは当然のことだ。 在宅で終末を迎えるのは本人は望んでもそれを実行する家族には難しいこととなる。 安楽死を選択肢として重要なところに置いている自分には病院やポスピスでの最後の時間というのは初めから除外している。 

翌日、地区の終末医療を専門にする看護婦が我が家を訪れその説明を聞いた。 患者の付き添い、身の回りの世話、買い物、介護の手助けをする介護スタッフは何人かのボランティアのチームがあたり、看護婦チームは医療機器、薬品などを扱い、家庭医との連携で昼夜看護する。 家庭医は緊急の場合すぐに往診するけれど1週間に2度自宅を訪れることになっている。 この体制を始めることの誓約書にサインして手始めに介護用のベッドを入れることになった。 

終のベッドである。 手元のリモコンで背中側、脚側、高さの調節が自由に効くようになっている。 殊に尻から腰の部分が曲がって上げた足先の部分が下がって都合がいい。 この手のベッドで最新式のものはオランダ癌研での入院時に経験していてそれは素晴らしいものだったがこれでも充分快適である。 患者の為であるのは当然ではあるけれど介護人のために高さの調節ができる事がかれらの腰を守るために必須のようだ。 

胃、食道の癌腫瘍が迫ってきて仰向けで平らに寝ることが難しくなっており、夜は背の部分に傾斜をつけて眠る。 このベッドでその傾斜の部分を調整して一晩眠った。 悪くはないけれどまだ慣れない。 傾斜をつけて眠るというところに慣れていないのだ。 けれど昼間ベッドのなかで過ごすには快適だ。 本を読んだりタブレットを眺めたりするには様々に足腰、背の角度を変えて過ごす。 今はまだ食事には階下に降りて食卓につけるけれどじきに全てがベッドの中で、ということになるだろう。 ベッドの上で食事を摂れるようなこのベッド用のコマつきの小型テーブルが明日届く筈になっている。 尚、レンタルのこのベッドは1日1800円ほどと請求書に書かれていたが他の医療チームの費用とともに全て医療保険で降りる事になっていて年金生活者の本人も家族も安心していられる。 今日のニュースで見た日本政府が今計画している年金、医療保険制度の改定案では自分がここでうける医療は高額所得少数者のものでしかない。 60年代から試行錯誤で辿って来た北欧型福祉制度を標榜するオランダと70年代の高度成長期に福祉制度の基礎を作れなかった日本との差がここにまざまざと現れているように思う。 終末に臨んで憂いが無いというのは幸せなことである。

看護婦を呼ぶということがいよいよ、ということになり、それはあと1週間か、10日になるかと踏んでいる。 現在のように意識がはっきりしている中でどのように自分の状態が変わっていくのか興味深いところでもある。 実際昨夜、もうだめかと思った新たな出来事があり、それは予想もしていなかったことでもあるけれど、それはまた「健康」のコラムに記そうと思う。 

相変わらず毎日来客や電話がある。