暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

一週間の休暇

2019年06月30日 01時19分00秒 | 日常

 

本日6月30日(日)から7月6日(土)まで息子・娘のカップルたちと家族6人水入らずでブランバンド州の森の家を借りてそこに休暇として出かけることになりました。 本来は8月の中頃に予定していたのですが健康上の理由から前倒しして急遽実行という事になりました。 ちょっと早い夏季休暇ですがもうボチボチ残り時間も押し詰まってきているようなのでせわしなくも思いつつ体が動くときにしておかねば、ということになるのでしょうか。 時計の針が残り時間をこつこつと打ち始めたような気もするのですがまだ気が早いといわれるようです。

それでは暫しの間このブログを留守にすることのお断りとその理由について先ずはご連絡まで。

 

vogelpoepjp 拝


ライデンの伝統行事?  Lakenfeesten

2019年06月29日 21時39分51秒 | 日常

 

2019年 6月 28日 (金)

夏日の暑さに参って家人が今晩はそとで食べようと言う。 作るのは自分ではないので、いいよ、何でもといって言うなりに町に出る。 今はライデンのお祭りでもある Lakenfeest(シーツ祭り)の時期だ。 毎年この時期に何日か17世紀のオランダ黄金時代の礎でもある繊維産業の中核だったこの町の繁栄を記念して開かれる行事だ。 何日間か、多分週末にかけて町中がどんちゃん騒ぎとなるのだがこの町だけに限れば10月3日の16世紀にスペイン圧制から解放されたことを祝う10月3日祭りについで賑やかなものだ。 だからといって何があるかと言うと地元のレストランが腕を競って広場に店を出して味を競う美味い物フェスティバルか、運河にそれぞれ小舟に装飾を施して仮装やDJでどんちゃんパレードする催しぐらいにしか頭が回らない。 先週だったかこの町のその時代に繁栄した繊維業者のギルドホールだった、今は美術館になっている Lakenhal(シーツ・ホール)が何年かの改装をへて再オープンするそのオープニングに招かれて出かけたところだからこれもあながち縁がないこともない。 ことしはこの町に生まれた画聖レンブラント没後350年にあたり、レンブラントがテーマになっているのだそうだ。

家人は久しぶりに「美味い物フェスティバル」にいってみようか、というので風車博物館の地下駐車場の上にできた広場に設置された場所に自転車で出かけた。 もう何年も前に家からはちょっと近くになるスーパーの前の駐車場でずっと開かれていたのがそこもこの何年か500台ほどが収容できる地下5階ほどになる駐車場を掘っているので今のところに越したのだそうだ。

ライデンにはミシュランに掲載されたレストランはいくつもあるのだが星のついた店はない。 けれど経験上幾つかのレストランはそれに並ぶような質のものがあり、そんなレストランのお試しメニューがこういう場合に紹介されるからそれを味わってみようという訳なのだ。 20-30のレストランにバーやカフェーなどの出店が並び、ステージではライブバンドが11時ごろまで明るい宵を盛り上げる。 一流の味付けなのだが盛られるものはプラスチックのペラペラの皿にプラスチックのナイフ・フォーク、かろうじでワイングラスがクリスタルとはいかずともガラスのジャンクフードなみの入れ物だ。 けれどもコースメニューは普通の盛りの半分以下であっても質はそれぞれのシェフが日頃のそのものだからここでの評判がこれから1年間の客の入りに左右するということなのだ。 大抵のテントでは一人のシェフに小僧が4,5人付きっきりでシェフに怒鳴られながら走り回っているのが遠巻きに見て取れる。 ちゃちな入れ物に出て来るフルコースのミニ版として4皿がガタガタのテーブルに乗せられるとしてそれに4000円以上払うのだから不味ければレストランの命とりにもなりかねない。 それに自分のキッチンとは違い日頃なれない野外のテント・キッチンでは緊張が走るのも無理はない。

この日あちこち見まわってここにしようと注文しているとステージではコンテストの結果が発表されていて、このレストランが今年の金メダルを獲ったのだと告げられた。 シェフはそんな発表があっても客を待たせるわけにはいかないので見向きもせずキッチンの中を走り回っていた。 このレストランにはこの20年ほどミシュランガイドに載っているのをみて何回か行こうと予約を試みたこともあったけれど何やかやで実現はしなかった。 自分の仕事場に近くほぼ30年近く毎日前を通っていたのだったけれど縁がなかったということだろうか。 この30年近くでオーナーが何回か替わりレストランの名前も今のものになって15年ほどだろうか。 このところの評判は値段が高いわりに味がそこについて行っていない、というものでこの何年も自分たちが出かけるときには候補になっていなかったものが今回で今のシェフなら少々高くとも満足が行けると確信した。 そうは言っても今の自分にはもう何時間もレストランに坐る体力も啖力もないかもしれない。 

賑やかで落ち着かない会場から出て市役所裏のライン川沿いのカフェーでコーヒーを飲みたいと出かけてみると日頃は土曜のマーケットの混雑を除いて静かな川沿いが人で埋まっていた。 船の仮装パレードでそれぞれに喧しく生バンドやDJががなりたてていて見物人たちも手にビールをもち浮かれている。 雑踏を避け帰宅してコーヒーを飲もうと向う側に渡ろうとするのだが人が一杯で向うに渡れない。 そこから川に並行した裏道を辿り橋を4つばかり通り越してやっと通路だけが空いた橋を渡って帰宅した。 

帰宅してネットでこの祭りのことを牽くと企画されたのが1986年と出ていた。 なんだ、自分がここの大学の語学教師として働きだした年ではないか。 あの時分には町の行事などにはほとんど興味もなく家にいたのだからこういうところに顔を出すのも大分あとになってのことだ。 それにライデンに家を買ったのは91年だからそのころにはこの祭りも少しは形が出来かけていたのではないか。 公園でポップやロックの野外コンサートもあったはずだ。 この町の伝統行事といっても自分がこの町に来てからのことだから伝統も何も言えることではないのではないか。 小さな子供が、昔僕がこうこうだったころ、、、というのに等しいようなものだと思うのだが、、、、。


クルーズ・バカンスの旅(5) 第三日 コペンハーゲン港 人魚の像(その2)

2019年06月29日 00時12分08秒 | 日常


午後3時ごろ旧ヒッピー地区を見物しそこからボチボチ船の方角に向かって歩いた。 折しもヨーロッパ共同体(EU)の評議員/議長選挙にあたり、そのキャンペーンのための候補者のポスターが町のあちこち、とくに幾つも渡る長い橋の欄干縁に幾つも張られていた。 中にはポピュリズムに勢いをたのむ極右政党候補の顔にマジックでヒットラーの髭を落書きされたものまである。 ことしは第二時大戦中・連合国ノルマンディ上陸75周年にあたり、世界中に勢力を広げる極右勢力に警戒を促す声があっても地方・中央とそんなポピュリズムを用いて極右勢力が勢いを広げているのは日本だけではない現象であるのがわかる。

コペンハーゲンというのはオランダの町とならんで町中での自転車交通、そしてそれに対するインフラが整っていることでも知られていてオランダと同じように人々が自転車で走り回っているのが普通に見えたし自転車道も整備されていた。 ただこの町の中で眼についたのが電動スケーターの多さだった。 オランダでもそうだが観光客の為にそれぞれの町の駅で自転車を貸しているところが多く、今では使った後返還するのに一々駅まで戻らなくとも市内に何か所かある設置場所に停めて置けばいい仕組みにもなっており、その先を行く電動スケーターではどこでも乗り捨て、借りたい人はその乗り捨てられたり駅などに纏められているスケーターのメーターのところにクレジットカードか決められたカードをかざしてそこから乗ればその距離により料金が決まり、使用後にスケーターに備わっているメーターにカードをかざして清算し、どこでも乗り捨てできるというものだ。 だからここでは使ってから設置場所までもっていく手間が省けるという便利さがある。 

この間ニュースで報道されていたのがこのシステムの「放埓さ」だ。 つまり管理者側は決まった設置場所を用意しなくともいい、管理場所から放置されたスケーターのバッテリー残量をモニターしてバッテリーをそこまで持って行くかそこからスケーターを需要の多い場所まで持ってくるかするだけなのだ。 問題は使い捨てる人が勝手に道の脇に放置し、不安定なスケーラーを倒して去ることで舗道を通る歩行者の妨げになることだ。 これがコペンハーゲンの町のあちこちで見られた放埓な現象だ。 使用者のマナーというより貸す方の管理方法が一考されるべきだろうしそのうちそれによって利益を受ける方、つまり管理者の責任が問われることになり、そこで何らかの策がうたれるということになるのだろうがいまのところこれに関しては野放し状態であるように見えた。 それには使用者のマナーの問題も多少はあるのかもしれない。 マナーについてはなかなかすぐにものごとが上手くいくとは限らないようだ。 

昔のように社会の中にある種の常識があって、また社会の編成にしても今のように多様なものではなく社会の成員のほとんどが互いに理解可能な価値観とか規範をある程度共有しているときにはマナーというものが機能するのだろうけれど、今のように多民族、世代間に多様な価値観がある場合には簡単にマナーといっても共通理解に至るのは容易ではないだろう。

4時半までに船に戻らねばならぬのでクルーズ船が着岸している場所まで水辺を辿って、同様に他のいくつかのクルーズ船に戻る人たちとともに同じ方向に急いでいた。 或るところまで来ると急に群衆が集まっているところが見え、何か催し物があるのかと訝りながらそこまで行くとその訳が分かった。 そこにはコペンハーゲンといえばこれと謳われて必ずコペンハーゲンの観光案内のトップに君臨する人魚姫の像があるのだった。 もう20年ほど前に観光バスの窓からちらりと見た記憶があるのだがそれがここだったかどうか分からなかったから突然の再会に驚いた。 そのときのバスは学会の流れであり、他国の研究者たちと日本語教育について熱のある話が続いており、アンデルセンの人魚姫の物語は承知しているもののそれには興味が湧かなかったし、そのとき雨模様の鬱陶しい中で侘しく水の中から突き出た岩の上に坐る像をああこれかと眺めただけだったように思う。 それが今、人だかりの先に、岸からほんの少し先の引き潮だったのか水も見えない岩続きにその像が人ごみに囲まれて唐突に現れたので驚いたのだった。 20年前の記憶の人魚は普通にコペンハーゲンの人魚の像として水から突き出た岩に坐るごく普通のありふれた印象だったものが、ここでは人で溢れ、人魚の岩まで岩伝いに人がびっしり押し寄せて人魚をバックに写真を撮っているものだった。

ここでもまた目についたのは中国人の観光客グループだった。 彼らは最前列に陣取って人魚をバックに一人づつカメラに収まっているのだがいつまで経ってもその場所は譲られない。 あとからあとから次々にそこを占領して圧倒する。 周りのものはそれを遠巻きに見ているだけだ。 衆を頼んでその場を圧倒するというのはどこでもどの社会でもあることなのだから今更驚くことはないのだが今中国人には世界中でこの勢いが目覚ましいようだ。 観光地、ショッピングセンターなどではこのような中国人観光客でにぎわっていると聞く。 だからどこでも観光収入になるから大歓迎なのだろうけれど彼らの行動が異様にうつるときがあって、それがあるときにはマナーの問題として比べられるようだが、彼らとは文化、民度、社会性などの価値基準が違うということがあり、異文化との接触に慣れていないということも大きい要素かもしれない。 だから彼らの世代間でのこれらの溝というのは若い中国人たちの服装に見られるようにそのギャップは明らかだ。 それをまざまざと見たのはクルーズの中国系の人々の態度・様子からだった。 2600人ほどの乗客の70%以上がほぼ70歳以上という老齢集団の中でも中国系の乗客たちの態度・服装などは旧世代に属するもので町で見る中国系の若者のものとは雲泥の差がみられるようだ。 それに伴って若者たちの行動様式・価値観も西欧のものに近似しているようにも見受けられるがその根幹の違いは当然あるとしてもマナーに関しては他人の行動を見る、と言う点では「横柄に映る」ということからは免れているようにみえ、そこにはどの社会にも見られるような他人の眼を気にするというような「初々しさ」という要素もあるのかもしれない。 

マナーということでクルーズ内で面白いと思ったことがあるのだがそれはまた別の項で記すことにしようと思う。 ここではそんな喧騒の様子を人魚姫は乾いた岩の上からただ国際観光に貢献すべく涙も枯れた眼で虚ろに眺めているだけだった。

 

 


子供たちと過ごす (3)だるま

2019年06月27日 18時06分44秒 | 日常

 

この間息子と娘がかわるがわる家人の留守に自分のお守をしてくれたことをここに書いた。 その時、娘の「当番」の折りに彼女が無聊を慰めるのに何やら編み物をしていた。 この間の父の日にも彼女は怪しいプレゼントを編んで自分にくれたのだった。 それはいつもズボンの左のポケットに入っている。 今回は赤いものをクルクルと編んで行き、見ているとボール状のものになったので何だと尋ねると、ええと、あの、日本の寺や神社で売っているあのマスコット、起き上がりこぼしになっているもの、というからああ、ダルマか、というと、そうそう、その dharma といいながらそのうちに白眼だけのものが出来上がった。

何か願い事をするときに片目を入れるらしいから今願いを言え、というので、できるだけ意味のある命を伸ばせることを願うというとチョコチョコと雑な右目を入れた。 ダルマというものは願いが叶ったときにはもう一つの方にも目を入れて完成するのだけど、この場合の完成時には命が延ばせた、ということでそのときには命は終わっているわけなのだから、近々、といってもあと4か月ぐらいは保つのだろうから自分が死んだらそのときに成就ということになる。 だからそのときに黒目ではありきたりだから黒ではなく赤い眼にしてくれといってパソコンのモニターの前に置いた。

ちょうどそこには細かいものが雑に並んでいてまるで仏壇のように見える。 小さな仏像と石の立像、自分が好むダージリン紅茶にエネルギー補給のキットカットチョコレート、リンゴが並んでいてまるでお供えのようだ。 これから何か月もダルマはここにあって自分がポツポツとキーボードを叩くのを眺めている。 キーボードが打たれなくなった時にダルマの片目に赤い眼が入るのだがそのときには自分はどこにもいない。


自分の命が残り少なくなっていることを医師と面談して実感してきた

2019年06月26日 23時08分38秒 | 健康

 

2019年 6月 26日 (水)

今朝ライデン大学病院にでかけ主治医である癌専門医と面談し、先週の胃カメラ分析結果ならびに昨日撮影した食道及び胃のレントゲン画像を基にして主治医の所見を家人、娘と共に聴いた。 結果はこちらの予想の範囲に合致するものだったが最も厳しいものだった。 

つまり、1)胃カメラの画像からみると悪性腫瘍の拡張ぐあいがその範囲を大きくしていて放射線による駆除は不可能であること、 2)抗癌剤投与で癌の進行を抑えることがほぼ不可能であること、そしてもし投与を行ったとしても  a)癌細胞にこれまでの抗癌剤投与によって抵抗力、抗癌剤を排除する機能が築かれており既存の抗癌剤では進行を抑えることはほぼ無理であること  b) 何もしないことに比べて一、二か月かの時間稼ぎとしての投与を行ってもその副作用が今までのものより厳しく、特に体力の消耗の度合いが著しくなりそれに耐えられずに中止するケースが多いこと、例え短期間の時間稼ぎとしてもその間の患者の「生活の質」が著しく低下し、それをしなかった場合の現在の「健康状態」からしてそれまでする価値があるのか疑問が残ること  3)食餌の困難さが唯一であることを除いてごく健康な現在の状況からして体重を落とさないようにするためタンパク質、カロリーのサプリメントを摂っている現在、これからは食道、胃の癌巣増殖によって一層食餌が困難になると予想されるけれどそれにたいしては錠剤で食道の筋肉を弛緩させ食物を胃に送り込めるように試みはできるもののそれには限度があり、またカロリー、タンパク質を補給するほど癌細胞の増殖に貢献することとなりそのうちに全身の部位に癌が拡散し、その状態、程度は予想できないもののそれは手の施しようのないものとなり末期ということになる。

以上のことから医師は自分に二つの選択肢を示し家族で相談の結果を知らせてほしいと要望した。 その選択肢とは 1)抗癌剤投与を様子を見ながら行う事  2)b)の理由からこれ以上大学病院での処置は行わず終末医療に向けて家庭医との連携でこれから出て来る症状に対応する。 尚、医師の助言は 2)だった。

夕食を息子、娘、家人との4人で摂った。 結論は出なかったものの全員が 2)の意見に傾斜しているように思えた。 2日ほどの間に結果をだして主治医に連絡するつもりでいる。 今のように健康でいられるのはあと3か月ほどだろうか。

 

カーポートの入口の陰になったところに小さな紫陽花が花を開かせて始めていた。 


子供たちと過ごす (2)

2019年06月25日 00時52分26秒 | 日常

 

2019年 6月 19日 (水) ー21 日 (金)

19日  この日は電話で2件 栄養士と食餌について、国立癌研の執刀医とは2か月ほど前にライデン大学で撮ったCTスキャンについてのセカンドオピニオンを聴くという予定があって一日中家で待機というつもりだったのが二人とも午前中早くに電話をかけてきたのでものごとがすんなりと行き、予定していた時間が大幅に空いた。 娘は Karwijk の浜で泳ぎたいというので11時を周って彼女の車で出かけた。 25℃を越す陽気だったのだがいつもそよ風が吹いていて爽やかだった。 もし風がなければむしむしして暑かったかもしれずそのときは自分も水に入っていたかもしれない。 先ず魚屋のレストランで魚のスープで昼食を摂ってから浜辺に出て浜のカフェーでデッキチェアーを借りてそこに寝そべった。 気持ちよく、持って行った本を読んでいる間に1時間近く居眠っていたようだ。 その間に娘は水に入って泳いでいたようだ。 そよ風と言っても水の中では冷たくないものの水から濡れた体で出ると肌寒いらしく何百人と浜辺にいても泳いでいるのは娘ぐらいだった。 もう少し風があれば借りてウインドサーフィンができたのにと残念そうだった。 

20日  この日は何か月か前に焼いた鼻の毛細血管の結果を担当医と早朝に話し、午後から胃カメラを呑んで検査することになっておりこれについては先日そのときの写真と共にここに記した。 

21日  娘がロッテルダムの写真美術館で開かれている Ed van der Elsken の Lust for Life展 (生への渇望)展に行こうといい、それに付いて行った。 Ed については1985年に知己を得、その後2週間の日本旅行に同行した後、家族ぐるみで付き合っていた。 生まれて半年たった孫の顔を見に日本から母親が来た時も子供を連れてエドに会いに行ったし、その後北ホランダ州の家に泊りがけで訪れたこともある。 1990年の暮れに亡くなったときにはエドの家から牧場ごしに見えたエダムの大聖堂で葬儀に参列し裏の墓地に埋葬されるのにも立ち会っている。 その後何回かの回顧展にはそのオープニングで未亡人とその後の様子を話していもいた。 未亡人自身写真家でもありここに来るのは何年か前にロッテルダムのこの写真美術館で彼女が個展を開いた時にそのオープニングに来て話して以来だ。 この間娘たちとこのそばの古いホテルで昼食を摂って遊んだ時にこの展覧会のポスターを見ていて開期が5月から10月までとかなり長いのでそのうちに来ようと思っていたから娘の提案に二つ返事でのったのだった。

この展覧会はエドの活動でモノクロ写真が一般に知られていることなのだがここではカラー写真にスポットをあてて特集していることだ。 膨大なネガのうち42000点のカラースライドが劣化・剥離の危機にありその補修・復元作業が一応済み、そのまとめを見せる意図もあったようだ。 驚いたのはいままで見知っていたモノクロ作品がコダック・エクタクロームのカラースライドからモノクロとして焼かれたものが多かったことだ。 その経緯としてエドはオランダでは50年代の終わりごろからカラースライドフィルムで撮っており当時はまだプリントに難点が多くカラー作品は写真の世界では「芸術」とは認められていなかったときに既にカラー作品集を上梓しておりそのときの保守的な批判が今では如何に陳腐なものとして響くかとの資料として示されてもいる。 自分も実際60年代後半にエクタクロームやサクラ、フジのカラースライドを使って撮ったこともあるけれど当時でもまだ自分で現像することもたやすくなく、ほとんどがモノクロフィルムを自分で現像することで満足していたことを想い出す。 当時のカラードキュメンタリーが会場で流されておりエドの声を久しぶりに聴いて嬉しかった。 

https://www.nederlandsfotomuseum.nl/tentoonstelling/lust-for-life-ed-van-der-elsken-in-kleur/

この日の午後、ロッテルダムから帰宅すると家人が骨休めの北の島でのバカンスから戻っていてそれと入れ替わりに娘がロッテルダムの自宅に戻って行った。

 


You Tubeで大食い動画を見て思う事

2019年06月23日 23時33分16秒 | 想うこと

 

この頃、夜中に目を覚ましそれから眠れないという時には寝床でタブレットを覗き込み You Tube の「大食い」動画を見る事がある。 どういう訳か幾つも見てしまう。 そしてどうしてそれまでして自分はそんな動画を食い入るように眺めているのか不思議に思い、その理由をちょっと考えてみた。

普通の男が大食漢として喰うのなら分かるけれど華奢な女の子が3kg、4kgとラーメンや丼もの、カレーなどを驚くほどの速さで平らげる。 あんな小さく腹も出ているようには見えない娘たちによくあれだけの量が入るものだと思うがそこにはそれで精神的、肉体的な悩みもあると仄聞する。 つまり、体は早く大量のものを入れ込む一時的な入れ物でしかなく、食後じきに上から出したり下に流したりすることも多いとも聞く。 さもありなんとも思う。 自分の乏しい、大食いとは真逆の経験からも理解できることだ。

その「喰いっぷり」に見とれることが一つの理由なのだがそれにはこちらの事情もある。 自分には20%ほどの胃しかなく、80%は2年前に癌が発見されたときに切り取られている。 手術後食餌には苦労している。 食事の内容には苦労はないのだが胃が食物の受容を簡単には許さない。 量がだめだ、急いでは駄目だ、と大食い連中の活動とはまるで真逆の状態なのだ。 それに手術後長く消化に問題があって何かあると即座に下ってしまう。 見事なほどだった。 だから体重が減って栄養素が体に残らないから下痢を止めることと下から出る以上にカロリーやたんぱく質を補給することが重要で、この何か月かで下痢も止まり腸が安定しているものの、それにより体重を落とさないことが最重要課題となっている。 中学以来初めてというようなぺったんこの腹と幾つも作ったベルトの穴を見るたびにダイエットをしなければならないはときには丸かった腹がそんな腹でなければいけない時にぺったんこで、衣服がどれもダブダブで買い換えなければならないという皮肉な結果となっている。

ただ大食い動画をそんなことを想いながら観るのなら特に長く眺めていることもないのだろうがここまで惹きつける理由は、何人かの男子大食い「フードファイター」たちが何キロもの食物と格闘する最終段階での苦しみ方がまるでスケールが違うものの自分が毎晩夕食のテーブルで体験する苦しみに似ているからだと思う。 目の前に残った食い物を競り上がって来る吐き気と闘い、飲み下すその感触を自分のものとして受け止めているからなのだろう。 胃から下に流れれば少しは隙間が出来て楽になる、それまでの息も出来なく人に話しかけられても応えることのできないその苦しさを共有しているという想いがあるのだ。 自分が20分も30分もかかって腹に入れる量は彼らが一口か二口で飲み込む量であってもその苦しみは変わらない、と想像している。

彼らが賞金や名誉をかけてのフードファイターであれば自分もそこに命がかかっているフードファイターなのだ。