2017年 5月22日 (月)
22日の午後関西空港を発ち同日22日の午後にスキポール空港に戻ってきた。
関西空港では航空会社のカウンターから出国身体検査の折、今更ながら溢れる中国人観光客の間に混ざり物と身体の検査場に届くまで長く待たされたがそれでも絶えず細かく前に移動する長蛇の列ではあまりイライラすることもなかった。 それは9日に日本に入国した時にオランダ国籍を持つ子供たちが外国人たちだけの長蛇の列に並びいくつかの機械を通って来るのを自分は難なく日本人用の通関を2分ほどで通過して外で待っていたのを思い出し、そういえば8日にスキポール空港で出国の際、身体検査にはこの2年ほどはいつも数百メートルの長蛇の列を巡っていたのが今回は5分ほどであっけない入り方をしたことも思い出されて出国に際して長蛇の列に対する日蘭の対応が良くなっていることに思いが行った。
けれど自分の子供たちが日本に入国するに際しての通関の外国人専用の列には参った。 当然ながら自国民には迅速でも外国から入って来る者たちへの対応はこと細かく調べられ、そうなると余計に待ち時間が加算されるのだ。 日本では中国人を筆頭にアジアからくるものたちに、オランダではEU以外の国から入国するものたちへ、と言う具合である。 こんなことをうだうだ書くのにはオランダに入国する際にその長蛇の列の待ち時間が列の最後尾に付いた時にはモニターに30分から35分となっていたのが実際には1時間近くかかったことに怨みを持っているからだ。 関西空港で子供たちが調べられている時でも1時間はかからなかった。 EUパスポートを持つ者には5分もかからなくそこをすり抜けていくものが、10以上もあるチェックカウンターが4つしか開いておらず通関職員のストかと思うような対応だった。 自分の日本国パスポート有効期間が1か月ほどしかないのでそれを心配した息子が通関の折面倒なことになれば自分のオランダパスポートを出して援護射撃すると言い張るものだから娘をEUゲートから一人送り出しスーツケースを纏めに行かせたのだが息子と父親は目の前のインド系と思しき小柄な若い母親が3歳ほどの娘を一人横抱えにしながらなんとかあやしつつ動く後ろに付いて行ったのだった。
いよいよ係官の前に近づくと中国人の老婦人が係官から尋ねられた事項に分かったのか分からないのか猛烈に何か話しているのに係官が業を煮やし家族か誰かいないか並んだ者たちに尋ね慌てて走ってきた中年の男と話しているがこの男も要領を得ず無駄な時間が経っていくのだがそのうち観光ヴィザのハンコを押して貰って向うに行くのを見て一同やれやれといった顔をしたのだった。 何が怪しいのか何人も壮年の男が完全武装した憲兵隊員に皆の前を通って別室に護送されていくのを見ている。 その結果はこちらからは伺えない。
自分の番が来てパスポートと永久滞在許可証を見せオランダ語で挨拶をすると「コンニチワ」と返す。 自分は寿司が好きだから何か土産にそんなものをもってきたかい、と尋ねるので自分の腹を指さしてここに入っていると言ったら笑って通過となった。 10年ごとの永久滞在許可証の延長は先月してあったのでパスポートのことは問われないのだ。 それは日本国の事情でオランダには大して関係がないということだ。 そして別れ際に係員がオランダの永久滞在許可証を持っているならこんな込み合ったところに並ばずにどうしてEUゲートに行かなかったのかい、次にはそうするといい、と言われがっくりきた。 これでここが国籍がどうというパスポートコントロールではなく滞在に関するチェックが主な目的だったことに納得しなるほどと思った。
うだうだと出入国について書いたがこれが今回一番面倒だったことで他は一つのことを除いて全てスムーズにことが進んだ。
9週間に亘る抗癌剤治療が終わったとはいえその影響を行く前には少し心配していた。 体力が続くかどうか心配でひょっとすると宿で寝込むことになるかもしれないと予想していたのが杞憂に終わった。 手術前にすることとして毎日30分ほどは歩くこと、スクアットというのか腕を前に伸ばして膝を曲げ上体を前に傾けないで屈みこみそして立つことを10回、30秒休んでそれを一単位として一日3単位はすることを義務付けられていた。 毎日よく歩いた。 夜に宿に戻っても疲れは感じていなかったから体力は回復していたに違いない。 食欲は充分あった。 日本では食い物に困ることはなく子供たちが喰いたいというものにもついていった。 子供たちがいたおかげで気分が大分紛れた。 前回10月に一人で一か月いた時には母のところと借りていた部屋の往復で気分が落ち込むことが多かったけれど今回は母のところに4,5回行ったものの認知症が進みほぼ会話ができる状態ではなかったから却って楽だった。 病院の医師、看護師、介護施設の介護士、叔父、叔母夫婦とこれからのシナリオについて相談、話し合いをしてこれから半年、自分が戻ってこられない間に起こることを想定してオランダに戻ったのだった。 友人たちにも会って食事をすることも多かった。 できることをほぼしたという満足感はある。 毎回のように地元の墓地の墓参りも子供たちとし、特に娘から問われるままに多くのことを話した。 どこも行くところ見るところに自分の育った昔が重なり合いそんな昔話をすると家族の系譜や関係についての質問が絶えなかった。 自分では日本語でそんなことをメモにしてあるのだが子供たちには読めず今回の旅での子供たちとのやり取りで彼らにも父方、日本の家族の来し方がはっきりしたのではないだろうか。 娘も息子も今回国際運転免許証を持ってきていてレンタカーで気軽に移動できたのも大きなプラスにもなり帰国の前日高野山まで日帰り旅行までしている。 彼らは自分の日本の友人たちとの席にも陪席し父親の交友関係を実際の眼でみている。 やはりこういうことは彼らにとってももしかしてこれが最後になるのかもしれないという思いがどこかにあるから自然と濃いものに成るのかもしれない。
知人叔父叔母から様々なものを土産にもらった。 ありがたいことである。 帰りのKLM機の中で退屈しのぎにいつもするように最後尾に出かけ小窓からシベリアの景色を眺めながらカップヌードルを喰おうと客室乗務員に頼んだ。 中年のオバサン乗務員とオランダ語で話していてどうしてオランダ語ができるのかという話になり問われるままに今回の日本旅行のことを話した。 日本人乗務員もおりその人とも日本語で話していたけれどもそれを押しのけて質問をして来る風で病気のことをいうと盛り上がった。 日本人がこういうことを話すのを信じられないとも言った。 それは彼女が接する日本人の英語が十分でなく、ましてやオランダ語ができる日本人には会ったことが無かったことにも依るのだろうと言った。 彼女の日本人に対するいままでの興味がここに来て爆発したような想いがした。 家族のことオランダでのことなどを尋ね子供たちと来ているというと後で彼らに冷たいものでも持っていって話をするからどこに坐っているのかまで訊かれた。 自分にとってもこんな乗務員は初めてである。 あとで日本人乗務員が手に入る様な小さなデルフト焼きのオランダ家屋のミニチュアをもってきて私たちからあなたの手術がうまくいくようにとのメッセージと共に手渡された。 まるで重症患者へのプレゼントのようだったので少々戸惑った。 ありがたくいただき後でよく見ると煙突の部分にはワックスで封がしてあり振るとチャプチャプという音が聞こえる。 底をみるとオランダの代表的な酒会社のオランダのジン、ジェネーヴァがはいっている。 普通なら映画の二つ三つを観ながらスコッチをチビチビと口にするところが出来なく残念に思っているところにこれである。 皮肉かとおもったけれどスキポールに着いて降りるときに礼をいいながら手術後全快して医師から許しが出たら一番に封を切って飲み干すことを約束し両手で握手しつつ機を離れた。
このジンが飲めるようになるのは何時になるのだろうか。 手術後6週間は左の下腹部に孔が開けられパイプがつけられそこから流動食なのだがそこにアルコール30%を混ぜることは無理だろう。 第一直接腸に行くアルコールでは酔うのだろうか。 大抵色々なことは試してみたいとおもうけれどこれを実行する蛮勇はない。