暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

ブログを暫く休みます

2017年05月29日 02時21分38秒 | 日常

 

 このブログにご来訪の各位

今日から胃がん手術のため病院に2週間ほど入院し、退院してもしばらくは不自由なことが続くことが考えられることから今日から2週間はこのブログを休みます。 2週間は早くなることは考えられないけれど遅くなることは十分考えられるのでその辺りは遅れたらご容赦のほど。

これまで13年ほど書いて来て3000以上の項目のストックがあるのでお暇の際にはそれぞれのコラムで面白そうなものに御眼をお通しいただいて暇をやり過ごしていただければ幸いかと存じます。 

生まれて初めての大手術に少々興奮気味ですが手術後の不自由さに少々の鬱陶しさも感じながらもこれも生きているうちに起こることだと受け止めここに戻って来ることを楽しみにやり過ごす所存です。

皆さま方のご自愛とご健勝のほどをお祈りしつつ暫し筆を置くことをここに申し上げます。

 

敬具

 

 

 


自転車で往復24km走った

2017年05月29日 01時30分50秒 | 日常

 

2017年 5月 28日 (日)

姪には7つになる娘がいるけれど生まれる前に障害があるおそれがあるけれどと言われたものの二人男の子がいて女の子が欲しいと言いリスクを承知で生んだ。 その娘は重度の障害をもって生まれてきて顔貌に体つきは他の子どもたちとは変わりがないものの脳に重度の障害があり眼が見えず言葉も発せず、筋肉ができないから生まれてからこの方車椅子から離れられない上に内蔵の成長が阻害されているから成人はできないと医者から言われていた。 けれど大学病院の看護婦でもある姪は健気に娘を夫や息子たちと一緒に愛おしみ様々な障害が起こるたびに夜昼何度ともなく病院に運び込まれる娘の命を消さない様にすべく日頃奮闘している。 だから病院の小児科宿泊施設に屡々逗留するのだがその施設はチャリティーで賄われておりそれに報いるべく友人知人を招いて日曜のハイティーを考えた。 参加者は一人2000円程度の参加費を出してそれが病院の小児科宿泊施設への寄付金となる仕掛けだ。 家族・親戚がお菓子を焼きサンドイッチをつくりそこに100人ほどが集まった。 

姪の父親、自分の義弟は大型高級バイクの代理店を経営しておりその広いショールームが会場となり快晴の夏日にバイクのツーリングをする常連客たちも参加して盛況だった。 義弟はドイツのBMWオートバイの代理店をしていたのだが近年はアメリカのヴィクトリー、インディアンというようなブランドものも扱っており今まで自由に乗れたBMWは自分には荷が重かったものがインディアンの重量級でも坐り心地が甚だよく信号で待つ時も両足がちゃんと地面につくようなデザインになっており20歳若ければ買って乗り回していただろうというようなものだ。 都市部の高速道路を走るにはもったいない。 ゆったり田舎を走るには最適だと思った。 義弟は手術が済んで体が回復したら乗りに来ればいいといってくれたから来年の初夏にはその乗り心地を実際に確かめることになるだろう。 

ここでは親戚・知人たちと病気のことを含めても話が盛り上がり午後のお茶は大盛況だった。 天気が良くきもちがいいから家からそこまでライン川沿いに往復24km自転車を漕いだ。 


暫くの間だろうけど真夏になった

2017年05月28日 12時27分31秒 | 日常

 

2017年 5月 27日 (土) 快晴 30℃

この1週間ほどオランダは真夏日が続いている。 快晴が続き日本とは違い湿度が低いから日影に入ると涼しいもののそれでも日中30℃を越すとそんなことも言ってはいられない。 暑い。 だから家の中の窓と言う窓をすべて開け放す。 レストランや事務所、車などは別として普通家の中にはエアコンはないから短い夏をこのようにしてやり過ごす。 夜になれば涼しい風が入り日中の温度との差から寒いほどにもなるので家庭ではエアコンは普及しない。

2時を廻って土曜のマーケットに行くべく家を出て濠端を自転車でのんびり走っていると公園の芝生に沢山の若者たちが寝そべって日向ぼっこをしているし子供たちは浮き輪に乗って水の上をプカプカ浮いている。 水路になっている濠ではボートが行き交い真夏の雰囲気が充満している。

マーケットに来ると意外と人が少ない。 こんな暑い日には庭の木陰で休むか海岸の砂浜に寝そべるかしているようで、ラジオの交通情報などでは浜辺に行く人の車で混雑するので名のある浜には夕方6時まで出かけないよう呼び掛けていた。 だからマーケットが終わる5時ごろからは土曜の人ごみを見越して買ってあった苺やその他の果物、野菜をただ同然の値段で投げ売りする声も聞こえるけれど人は必要以上には買えないのでそんな声を聞きつつそこを通り過ぎて家路につく。

当分出てこられないので魚屋でムール貝を揚げてもらい大蒜入りのタルタルソースで喰いながらぶらぶらとジャズカフェーの方に向かい4時からのライブを期待していくとここも客は自分を入れて二人だけだった。 けれど女性ヴォーカルがスタンダードを歌っていた。 ピアノは知り合いのボブ・ヴァイナンだった。 もう7,8年は会っていなかった。 8年ほど前にハーレムでジャズフェスティバルがあったとき彼はアルトのピート・ノルダイクのピアノを演っていてコンサートのあと込み合った野外の街を二人で彼方此方のカフェーに入ってビールを飲んだ。 ボブは殆ど眼が見えないので込み合った中を歩くのは彼の左手を自分の右肩に置いて人をかき分けて進むのだ。 ノルダイクはオランダのジャズの大御所でどこの国にもいる戦後チャーリー・パーカーに憧れてアルトを始めたジャズメンで日本で言えば渡辺貞夫が相当するだろう。 イギリスのピーター・キングはまだ健在だがノルダイクは2011年に逝去している。 ボブは相変わらずハーグ中心に活動していて今はハーグのコンセルバトワールで教師をしていてなんとか喰えていると言った。

兎に角暑い一日で、こんな日には木陰や水辺には人は押し寄せるけれど土曜のマーケットやジャズライブには人は集まらない、ということだ。 

 


10日ほど家を留守にしていると庭も大分変っていた

2017年05月27日 20時18分33秒 | 日常

 

日本に行く前、オランダは寒冷で12,3℃の日が続いており何とか大きくなり始めた藤が房を広げようとしていたので去年のことを思い出し今年は帰ってくる頃には大分咲いたものが増えていてそれがまだ残っていると思っていたら去年ほどの葉も残っておらず花はまったくついてはいなかった。 急に暑くなって水の補給が効かず早々と藤は済んでいた。 けれど石楠花は盛りを越すところでちゃんと咲いているのだからやはり若木にはこの暑さが辛かったのだろうか。

それでも庭の様子は随分変わりあちこちに白、紫、薄青、赤の苧環(おだまき)が咲き乱れていた。 これは結構長く咲き秋前まで眼を楽しませてくれる。 両隣に接する裏庭の垣根が繁って盛り上がり、火曜の手術までには散髪をせねばと梯子と剪定はさみを手にとりかかった。 片一方の垣根を電動ヘッジトリマーで10分ほど作業をしていると近所のヤンセン夫婦がやって来て庭でお茶にした。 

二人は家人から病気のことを聞いて様子を見に来たと言った。 二人とも自分と同年配で医者である。 ハンスはロッテルダムの大きな病院の技術部長でティネカは児童心理療法士だけれど二人とも定年してからもう2年ほど経っている。 彼らには男の子が3人いて一番下が家の息子と幼稚園の時から高校までずっと仲のいい友達でフィールドホッケーのクラブまで一緒だった。 今では皆プログラマー、医師、電子機器設計と仕事を持ち家を出ている。 どこもこの辺は老夫婦の二人暮らしが多い。 

ヤンセン夫婦が帰ってから両方の垣根を刈り取ったら腕が痺れ筋肉痛がした。 やはり9週間の抗癌剤治療で筋肉が弱っているようだ。 それにこの間フィットネスの筋トレもしていなかったので余計に筋肉の後退が目立つ。 夕食の後早々に就寝した。

 


癌研で手術前のCTスキャンを撮った

2017年05月25日 22時56分36秒 | 健康

 

 2017年 5月 24日 (水)

3時前にアムステルダムの国立癌研AVLで手術前のCTスキャンを撮られることになっていた。 少し早めに家を出てアムステルダムの目抜き通りの洋服店で入院時のパジャマになるようなものを2セット買った。 腹に穴があけられパイプで流動食が腸に入り、別のパイプからは排泄物が流れ出るのだからこのような体を包むようなゆったりとした寝間着が要るようでそれに備えた。 手術の翌日か2日後には歩くことを促されそのような管に加えて点滴のポールを押して病院を行ったり来たりする日々が始まるらしい。 手術そのものには何の疑いも恐れもないのだが手術後の不自由さには少々の嫌悪感がある。 しばらくは仰向けに寝た足の上に架かったモニターでみるテレビショッピングぐらいにしかに興味が行かず読書も音楽を聴くことにも集中できないと聞く。 オバサン看護師に軽いセクハラをして抓られるほどの元気があるのだろうか。 アイパッドを持って行くことは確かだが眺めるぐらいでメールの返事もブログの書き込みも出来ないだろうと思う。

カルヴァ―ストラートにあるカフェーでチキンケバブとミントティの昼食を摂り市電で癌研に着くとまだ約束まで20分ほどあった。 このCTスキャンの為にはスキャンの1時間前から水を1リットル飲んでおくこととされていてアムステルダム中央駅の売店で500ml入りの水のボトルを2本買って30分で1本、もう一本を約束の5分前に飲み終えた。 今まで2回CTスキャンをしているけれどそれには前夜12時から絶食、絶水というような条件が付いていたり時には牛乳1リットルなり水1リットルと一定時間前に飲んでおく条件が付いていたが今回は前夜からの絶食絶水の拘束もなく昼食を腹一杯喰うことが出来て楽だった。 今回のスキャンは手術に備えて肺と腹の状態を診るのが主眼らしい。 

名前が呼ばれスキャンの移動寝台に仰向けに寝ると腕に点滴の針が刺され造影剤が注射された。 すぐに体が熱くなり前回にも経験したようにまるでパンツの中に失禁したかのような感触があった。息を止めたり吐いたりするような指示に従い撮影は10分もかからずに済んだ。

結果は26日に電話で知らされることになっている。 そして26日の朝、執刀医師の連絡では肺にも腸にも異常はなく胃の腫瘍は抗癌剤の効果なのかかなり小さくさえなっていて手術には都合がいいと言われた。 火曜には手術を行うことになっているけれどそれに同意しますかと再度確認を求められ、お願いしますと返事をすると手術の際鼻の孔から管を通すのだけれど右の毛細血管はこの間レーザーで焼いているから左の孔に、小麦アレルギー体質であるから流動食にも麻酔にもそれを考慮にいれてあることを言い、月曜夜8時に入院ですからそのつもりで、それまで精々美味しいものを楽しんでくださいと言ってその若い執刀医は電話を切った。 あとは荷物を纏めて入院するだけだ。


癌研の食餌療養士と話しハーグの大使館へパスポート更新に出かけた

2017年05月25日 07時27分44秒 | 日常

 

2017年 5月 23日 (火)

前日日本から戻り時差ボケを調整するのに眠い目をこすりながら夜までずっと我慢していて耐えきれず10時ごろ就寝したらそのまま朝の7時まで熟睡した。 

朝食後オランダ癌研の食餌療養士と電話でこれから開腹手術まで一週間ほどの食餌の指示を受けた。 電話では今までの食餌の習慣、その内容を訊かれ特に日本滞在の折の食事内容を細かく訊かれた。 手術準備のためには出来るだけタンパク質を摂ることが強調され抗癌剤治療が始まって肉を欲し毎朝ローストビーフの薄切りを摂っていることを言うといい傾向だと言われた。 動物性、魚、鶏などに加え大豆製品の植物性タンパク質、木の実、ナッツ類なども多く摂ることを勧められた。 癌が見つかってから体重が減っていないこと、日本に行って1.5kgほど増えたことをいうと手術後は喰えなくなるので痩せるから今まで体重が減らなかったのはプラスに働くと言われた。 手術後の特に腹にパイプをつないだまま流動食から普通食に割合を徐々に変えていく場合の食餌については病院で直接指示をうけることを言われ30分ほどの電話を切ったがタンパク質のものは間食としても摂ることを勧められたのには少々驚いた。 だからその後ハーグに出かけた時にはハンバーガーをダイエットコークとともに昼食に、間食には生鰊を摂った。 

10年毎に更新するパスポートの期限が6月29日で切れる。 だから更新手続きに写真1葉をもってハーグの日本大使館に出かけた。 ハーグ駅のバーガーキングでテキサス・バーガーをダイエットコークで喰い癌研の栄養士が言うようにタンパク質を腹に入れた。 天気が良かったし午後の開館時間まで間があるのでブラブラ歩いて行くことにした。 中国人街にこの25年ほど折があれば出かけているジャズ専門のCD/LP店があるのでそこに行った。 偶々その上には息子がこの3年ほど住んでいる。 今の時間は仕事に出かけていないのでCDを2,3枚買っただけでそこから町の中心地を抜けて途中美味いアイスクリーム屋があるのでそこでバニラアイスを買いそれを舐め舐め大使館まで今まで通ったことのない通りを選びそこを眺めながら歩いた。 大使館では一週間でパスポートが出来上がると言われたけれどその時期は手術の時期に当たり自分で取りに来なければならないなら3か月ほどはちゃんと歩けないから来られないというと6か月預かることが出来るからと言われたので安心してそこを出た。 

別のルートで中央駅に戻るのにハーグの国会議事堂のあるビネンホフを抜けているとジャーナリストたちが集まってオランダ第二院(衆議院)の入口の前で屯している。 見てみるとテレビで顔なじみの政治コメンテーター、国営テレビの8時のニュースで政治解説をする者たちが何人ものカメラマンと一緒に大臣、議員たちが出てくるのを待っていたので面白半分に自分もそれに加わった。 この2週間ほどテレビを観ていなかったのでオランダの政治状況は分からなかったけれどそばにいた暇人に訊くと連立内閣の組閣に緑の党が加わらないことが先週発表され保守党は過半数を獲得するためにキリスト教保守党と連立しようと画策しているけれどリベラルな党がそれに反対してもめているのだということで今キリスト教民主党とリベラル党の党首が目の前の建物の上で折衝しているのだが長引いていて外に出てきて説明するのに手間取っていると言っていた。  それに目の前でカメラの前でしゃべる解説委員も同じことを言っていた。 いつもテレビで観る解説委員の一人がびっくりするほど背が高かったのには驚いた。 政党の党首や大臣、首相が出て来るまで待とうとカメラマンと駄弁ったり1時間以上いたがジャーナリストたちは仕事で待っているのだが8時のニュースでこれが見られるので自分には辛抱がたまらずそこを離れて駅に向かった。 ハーグ中央駅に着くと今日7.5km歩いたことになっていた。


恙なくオランダに戻ったのだが

2017年05月24日 08時35分55秒 | 日常

 

2017年 5月22日 (月)

22日の午後関西空港を発ち同日22日の午後にスキポール空港に戻ってきた。 

関西空港では航空会社のカウンターから出国身体検査の折、今更ながら溢れる中国人観光客の間に混ざり物と身体の検査場に届くまで長く待たされたがそれでも絶えず細かく前に移動する長蛇の列ではあまりイライラすることもなかった。 それは9日に日本に入国した時にオランダ国籍を持つ子供たちが外国人たちだけの長蛇の列に並びいくつかの機械を通って来るのを自分は難なく日本人用の通関を2分ほどで通過して外で待っていたのを思い出し、そういえば8日にスキポール空港で出国の際、身体検査にはこの2年ほどはいつも数百メートルの長蛇の列を巡っていたのが今回は5分ほどであっけない入り方をしたことも思い出されて出国に際して長蛇の列に対する日蘭の対応が良くなっていることに思いが行った。 

けれど自分の子供たちが日本に入国するに際しての通関の外国人専用の列には参った。 当然ながら自国民には迅速でも外国から入って来る者たちへの対応はこと細かく調べられ、そうなると余計に待ち時間が加算されるのだ。 日本では中国人を筆頭にアジアからくるものたちに、オランダではEU以外の国から入国するものたちへ、と言う具合である。 こんなことをうだうだ書くのにはオランダに入国する際にその長蛇の列の待ち時間が列の最後尾に付いた時にはモニターに30分から35分となっていたのが実際には1時間近くかかったことに怨みを持っているからだ。 関西空港で子供たちが調べられている時でも1時間はかからなかった。 EUパスポートを持つ者には5分もかからなくそこをすり抜けていくものが、10以上もあるチェックカウンターが4つしか開いておらず通関職員のストかと思うような対応だった。 自分の日本国パスポート有効期間が1か月ほどしかないのでそれを心配した息子が通関の折面倒なことになれば自分のオランダパスポートを出して援護射撃すると言い張るものだから娘をEUゲートから一人送り出しスーツケースを纏めに行かせたのだが息子と父親は目の前のインド系と思しき小柄な若い母親が3歳ほどの娘を一人横抱えにしながらなんとかあやしつつ動く後ろに付いて行ったのだった。 

いよいよ係官の前に近づくと中国人の老婦人が係官から尋ねられた事項に分かったのか分からないのか猛烈に何か話しているのに係官が業を煮やし家族か誰かいないか並んだ者たちに尋ね慌てて走ってきた中年の男と話しているがこの男も要領を得ず無駄な時間が経っていくのだがそのうち観光ヴィザのハンコを押して貰って向うに行くのを見て一同やれやれといった顔をしたのだった。 何が怪しいのか何人も壮年の男が完全武装した憲兵隊員に皆の前を通って別室に護送されていくのを見ている。 その結果はこちらからは伺えない。 

自分の番が来てパスポートと永久滞在許可証を見せオランダ語で挨拶をすると「コンニチワ」と返す。 自分は寿司が好きだから何か土産にそんなものをもってきたかい、と尋ねるので自分の腹を指さしてここに入っていると言ったら笑って通過となった。 10年ごとの永久滞在許可証の延長は先月してあったのでパスポートのことは問われないのだ。 それは日本国の事情でオランダには大して関係がないということだ。 そして別れ際に係員がオランダの永久滞在許可証を持っているならこんな込み合ったところに並ばずにどうしてEUゲートに行かなかったのかい、次にはそうするといい、と言われがっくりきた。 これでここが国籍がどうというパスポートコントロールではなく滞在に関するチェックが主な目的だったことに納得しなるほどと思った。

うだうだと出入国について書いたがこれが今回一番面倒だったことで他は一つのことを除いて全てスムーズにことが進んだ。 

9週間に亘る抗癌剤治療が終わったとはいえその影響を行く前には少し心配していた。 体力が続くかどうか心配でひょっとすると宿で寝込むことになるかもしれないと予想していたのが杞憂に終わった。 手術前にすることとして毎日30分ほどは歩くこと、スクアットというのか腕を前に伸ばして膝を曲げ上体を前に傾けないで屈みこみそして立つことを10回、30秒休んでそれを一単位として一日3単位はすることを義務付けられていた。 毎日よく歩いた。 夜に宿に戻っても疲れは感じていなかったから体力は回復していたに違いない。 食欲は充分あった。 日本では食い物に困ることはなく子供たちが喰いたいというものにもついていった。 子供たちがいたおかげで気分が大分紛れた。 前回10月に一人で一か月いた時には母のところと借りていた部屋の往復で気分が落ち込むことが多かったけれど今回は母のところに4,5回行ったものの認知症が進みほぼ会話ができる状態ではなかったから却って楽だった。 病院の医師、看護師、介護施設の介護士、叔父、叔母夫婦とこれからのシナリオについて相談、話し合いをしてこれから半年、自分が戻ってこられない間に起こることを想定してオランダに戻ったのだった。 友人たちにも会って食事をすることも多かった。 できることをほぼしたという満足感はある。 毎回のように地元の墓地の墓参りも子供たちとし、特に娘から問われるままに多くのことを話した。 どこも行くところ見るところに自分の育った昔が重なり合いそんな昔話をすると家族の系譜や関係についての質問が絶えなかった。 自分では日本語でそんなことをメモにしてあるのだが子供たちには読めず今回の旅での子供たちとのやり取りで彼らにも父方、日本の家族の来し方がはっきりしたのではないだろうか。 娘も息子も今回国際運転免許証を持ってきていてレンタカーで気軽に移動できたのも大きなプラスにもなり帰国の前日高野山まで日帰り旅行までしている。 彼らは自分の日本の友人たちとの席にも陪席し父親の交友関係を実際の眼でみている。 やはりこういうことは彼らにとってももしかしてこれが最後になるのかもしれないという思いがどこかにあるから自然と濃いものに成るのかもしれない。

知人叔父叔母から様々なものを土産にもらった。 ありがたいことである。 帰りのKLM機の中で退屈しのぎにいつもするように最後尾に出かけ小窓からシベリアの景色を眺めながらカップヌードルを喰おうと客室乗務員に頼んだ。 中年のオバサン乗務員とオランダ語で話していてどうしてオランダ語ができるのかという話になり問われるままに今回の日本旅行のことを話した。 日本人乗務員もおりその人とも日本語で話していたけれどもそれを押しのけて質問をして来る風で病気のことをいうと盛り上がった。 日本人がこういうことを話すのを信じられないとも言った。 それは彼女が接する日本人の英語が十分でなく、ましてやオランダ語ができる日本人には会ったことが無かったことにも依るのだろうと言った。 彼女の日本人に対するいままでの興味がここに来て爆発したような想いがした。 家族のことオランダでのことなどを尋ね子供たちと来ているというと後で彼らに冷たいものでも持っていって話をするからどこに坐っているのかまで訊かれた。 自分にとってもこんな乗務員は初めてである。 あとで日本人乗務員が手に入る様な小さなデルフト焼きのオランダ家屋のミニチュアをもってきて私たちからあなたの手術がうまくいくようにとのメッセージと共に手渡された。 まるで重症患者へのプレゼントのようだったので少々戸惑った。 ありがたくいただき後でよく見ると煙突の部分にはワックスで封がしてあり振るとチャプチャプという音が聞こえる。 底をみるとオランダの代表的な酒会社のオランダのジン、ジェネーヴァがはいっている。 普通なら映画の二つ三つを観ながらスコッチをチビチビと口にするところが出来なく残念に思っているところにこれである。 皮肉かとおもったけれどスキポールに着いて降りるときに礼をいいながら手術後全快して医師から許しが出たら一番に封を切って飲み干すことを約束し両手で握手しつつ機を離れた。 

このジンが飲めるようになるのは何時になるのだろうか。 手術後6週間は左の下腹部に孔が開けられパイプがつけられそこから流動食なのだがそこにアルコール30%を混ぜることは無理だろう。 第一直接腸に行くアルコールでは酔うのだろうか。 大抵色々なことは試してみたいとおもうけれどこれを実行する蛮勇はない。


日本に帰省のこと

2017年05月09日 00時28分37秒 | 日常

 

9日(火)の午後スキポール空港から関空に飛び22日に戻ってくることになりました。 日本では老母の見舞いともしもの時の準備、人にも会ってその間に子供たちと関西のどこかを訪れるという忙しいプランが出来上がっています。 その間このブログも暫しお休みをいただきます。 5月の23日頃に再開できればと考えています。 それまで各位ご健勝のことをお祈り致します。


手術の準備

2017年05月08日 23時04分05秒 | 健康

 

2017年 5月 8日 (月)

アムステルムの癌研AVLにて

8:15 看護主任から手術前、中、後のことについてレクチャー

5月29日は手術前日で、夜8時に入院すること。 12時以降は飲み食いは一切だめ、翌日手術当日は早朝シャワーを浴び手術着に着替え準備室で麻酔各種の注射のあと手術室に運ばれ、そこで再度麻酔、開腹手術、胃の下部70%ほどを削除、それに約3時間、その後腹膜を2種類の抗癌剤を混ぜた体温に暖められた液で洗浄、これに約3時間、朝9時前から午後4時ごろまで手術でその後集中治療室に運ばれ術後1時間ほどで覚醒、翌日まで集中治療室(ICU)に居てその後一般病棟に移動しそこで2週間ほど入院。 初めの4日ほどは麻酔が集中的に投与されその後は漸次痛みの程度により少なくする。 栄養は全て管から送り込まれる。 左腹部に穴があけられ腸に繋がった管から液状の「食事」が投与される。 これが約4週間続き漸次普通食へと割合が変わっていく。 初めの一週間ほどは首の血管からも栄養が投与される。 手術が済んだら当分は体中に管が繋がっていて動きが取りにくいけれど2日目ぐらいから歩く訓練が徐々に行われること、小便は腹に開けられた管からポリタンクに溜められる。 大便は1週間は出ないがその後徐々に排便訓練を経て自然に戻る。 これに加えて様々なことをきっちり1時間レクチャーされた。

9:15 身長、体重、心拍等計測。 心臓には異常なし。

9:30 麻酔医にこの3年ほど使った薬、アレルギー等について問われ、薬局処方の資料に則って調書を取られる。

11:30 フィジオセラピストから手術前に出来る運動のことを例を挙げて説明される。 手術前、日本帰省中も毎日1時間程度歩くこと、腹や腿の筋肉を痩せさせないように毎日30回はシットアップをすることを勧められる。 手術の翌日からどのように体を動かすか実際に付ききりでサポートされることになっている。

以上の事柄は小冊子にも説明されているけれど実際に必要な時には患者はほとんど覚えておらず、それだから看護人、麻酔医、フィジオセラピストが直接その場に応じて処置することになっている。

23日には栄養士からレクチャーがあり、24日には肺と腸のCTスキャン、26日にはスキャンの結果が話される。

これで一応の概略が掴め準備も具体的になってきている。

 

 

 


椿もそろそろ終わりに近づいてきたようだ

2017年05月07日 15時01分30秒 | 日常

 

2017年 5月 7日 (日)

この間まで一杯咲いていた椿も殆ど散って最盛期の一割ほどまでになっている。 あと2週間もすると散ってしまっているのだろう。 その頃には大阪からもどってアムステルダムの癌研で最後の検査をして30日に癌除去と腹膜洗浄の手術をすることになっている。  けれど椿は済んでも後から後から様々な別の花が咲きはじめ、例えば去年初めてかなりの房になった藤も今は咲き始めている。 それに好きな苧環もぼちぼちあちこちに見え始めこれから長く様々な色の花で楽しませてくれる。

明日はアムステルダムの癌研で朝8時15分から手術についての説明があり6時に起きて7時ごろの電車に乗れば間に合うのだがこんな早朝に起きるのも久しぶりだ。抗癌剤を1日2回朝7時半と夜7時半に服用するのに毎日6時ごろ起きていたのがもう昔のような気がする。

昨日2軒向うの71,2になるハンスが脳溢血で急死したと今日隣人から聞かされた。 時々立ち話であれこれ話した人だが小柄で太ってもいず脳溢血とは、と家人としばらく呆然とした。 婦人は動顚してもう結婚して子供もいる娘二人が慌ててこの家に来て付添っているとのことだ。 自分は明後日大阪に発つのでお通夜も葬儀にも出られない。 色々な組織で役員をしていたので知り合いも多く夫人はごく身内だけでことを済ませたいと言っているそうだ。 いずれにせよ案内が来れば家人は出かけるといっている。 2週間ほど前にゴミのコンテナーをガラガラ角の集積場まで引っ張っていったとき普通に立ち話をしたのだが当然その時にはそんな素振りは見えなかった。 

合掌