暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

レンブラントの生家がCGで再現された

2019年04月05日 19時38分23秒 | 読む

 

町のフリーペーパーが郵便箱に入っていてそれを拾い上げてみると、そこには「レンブラントの生家」と表題がついていて、レンブラント没後350周年を記念してライデン市が或る銀行の歴史的遺構保存賞を受賞したことからその賞金をレンブラントの生家をコンピューターグラフィックで再現するプロジェクトに投入してその結果がでたことを発表したのだった。 このグラフィックスは単に昔の町並みを再現したということではなく実証的歴史研究の成果に基づいたものだと強調されている。 それら研究の資料は当時の地図、建築図面、19世紀の写真、古い建築物の写真などに基づいているという。 なかでもこの地区を描いた1588年からほぼ10年間に描かれた鳥瞰図、1660年と1633年の当時の室内を描いた図鑑が参考になっている。 レンブラントの生家はそとから見れば一軒だけのように見えるが裏庭に続いて通りに平行にもう一棟がある。 そしてそれらの内装は17世紀の室内装飾や什器などの様々な研究成果を基にして再現されたものであると強調されている。 尚、このCGは次のサイトで見ることができる。 このサイトはオランダ語だけで、CGはここに見える3つの図版の中央を押せば出るようになっている。

 https://www.erfgoedleiden.nl/schatkamer/rembrandt


写真を読む; 水辺の光景

2018年07月21日 22時28分10秒 | 読む

 

このところ暑い日が続く中、毎日の買い物の行き帰り濠端を通りその度に何か面白いものがあればとカメラをあちこちに向けている。 もう何年も四季の移り変わりに沿って様々な景色がそこに現れるから同じような景色を同じところで性懲りもなく撮る。  例えばこの10年以上暖冬が続きこのごろは厚く凍ることも少なく、たとえ凍っても精々3,4日で終わってしまう一方で夏場は5月の終わりごろから徐々に気温が上がり晴れた日が続くにしたがって水辺に人が集まり、ことに夏休みが近づくにつれ子供たちの水遊びが日常のものとなる。 けれど最近のようにバカンスシーズンが始まり気温が30℃にも迫ると大人たちも水辺に集まりピクニックやバーべキュー、水に入るものも増えるてくるのは自然な成り行きでもある。

そんな景色をどうということもなく無意識にシャッターを押していて家に戻ってコンピューターに画像をダウンロードして眺めているとその一つの画角の8分の1ほどのところに眼が行った。 そして切り取った部分を大きくして見ているとなんだかこの時期に見合った小さなストーリーがあるような気がして、それをあったかなかったか知れないものとして取敢えずどのようなものだったかここに書き記してみる気になった。

普通はこの濠を船外機つきボートの家族連れが行きかう間を縫ってこどもたちが水に入り、小学生の少女二人がゴムボートで何をするでもなく時間を潰しているところにこんな暑い日は海に行くにしても海まで行くまでが暑い、少し行ったところにある自然公園でも人が一杯だろうから手短に濠にでかけて軽く涼もうと水に入った大人の男がいる。 男には女友達が居て日陰で日光浴をするつもりでバスタオルに雑誌、バスケットに冷たい飲み物とスナックが入ったものを近所の濠端まで男と歩いてでかけてきたのだった。 男は既に水に入り気持ちがいいから女に、水の中は気持ちがいいぞお前も入るといいと言って水の中から誘い、女もそれじゃあと水に入る支度をする。 

妹とその友達の見張りがてら母親に言われて来ていた男子中学生が自分の男友達もおらず少々退屈気味に水に入ったり出たりしていたのがふと横を見るとグラマーな女性が水に入るところでギクリとする。 当然クラスメートの女の子たちの体に興味がないわけではないが急に目の前に成人の豊かな肉体が現れれば当惑しないではいられない。 ボートの中では退屈する一人は別としてこれから水に入る豊満な肉体を持った女性を眺めて自分の貧弱な少女の体を思わないではないし、もしかして将来自分も成れるかもしれないそんな女性を眺めている自分の兄を認めてそばの女に嫉妬と幼い敵愾心を覚えないではいられない妹が岸を眺めている、といった光景だ。

岸の木の陰では何をするでもなく自転車で散歩に来た男がヘッドフォーンの音楽を聴きながら煙草を燻らしぼやーっとそんな光景を眺めながら夏の物憂い時間を過ごしている。

 

 


川上未映子 著 「乳と卵」 を読む

2018年03月25日 21時00分30秒 | 読む

 

川上未映子 著  「乳と卵」

 

文春文庫 か 51-1 2017年1月 第11刷

 

目次

乳と卵   P7-P108     初出 2007年 「文學界」 12月号

あなたたちの恋愛は瀕死  P109-P133   初出 2008年 「文學界」 3月号

 

「乳と卵」は第138回芥川賞受賞作品だそうで本作は受賞後の文藝春秋発表号で齧っている。 そして齧ってから初めの数ページでその大阪弁に違和感を抱き読むのを止めたのが10年前だった。 けれどその後川上の近作に興味を持ちこの間帰省した折に何作か買ってオランダに戻り自分に癌が戻って来たか来なかったのか検査するためオランダ癌研のCTスキャンを待つ間の2時間ほどで読めるものをと思いデイパックに放り込んだのが薄い文庫本に入った本作だった。 

文庫本の惹句に  「娘の緑子を連れて大阪から上京してきた姉でホステスの巻子。巻子は豊胸手術を受けることに憑りつかれている。 緑子は言葉を発することを拒否し、ノートに言葉を書き連ねる。夏の三日間に展開される哀切なドラマは、身体と言葉の狂おしい交錯としての表現を極める。 日本文学の風景を一夜にして変えてしまった、芥川賞受賞作。」 とある。 日本文学の風景を一夜にして変えてしまったのであればそれでは純文学の現状は何なのだと茶々をいれるとともに売れない日本純文学を売ろうとする出版社の祈りとも聞こえる絶叫が著者の耳にはそれが少々ウザいものと響いたに違いないとしても、その後著者が日本文学プロパー以外の多数の川上ファンを作ったであろうということには当たらずとも遠からずであり、その後早稲田文学増刊号で女性特集を編集するまでにも活躍する著者の実力がすでにそのとき知覚されていたのだろうとも思い直したのだった。

この20年ほどで興味ある女性作家のものを幾つか読んできた。 金井美恵子、富岡多恵子、津島祐子、松浦理恵子、山田詠美、荻野アンナ、笙野頼子、川上弘美、赤坂真理、黒田夏子などであるが川上が誰と親和性があるのか考えてみる。 それにはいくつかの補助線を入れると考える助けになるかもしれないとの仮定からその項を設定する。 女の生理、性、ジェンダー、社会性の項目をとひとまず設定する。 そしてそこにこの30年ほどこれらの作家のものを読んできた上野千鶴子、小倉千加子、斎藤美奈子などのコメンテーターを加えて俯瞰すると川上は彼らが述べてきた日本女流作家、日本社会で育った新しいものを携えて登場したものを本作で提示しているのだろうというのが朧気ながら分かる。 女の生理、性、ジェンダーというと様々な作家がそれぞれに社会的、歴史的制約の中から書いてきたものがあるのだろうがそれに加えて大衆社会性、ことに若い女性に視点を添えた著者のような作家が登場し風通しがよくなったような気がする。 これまでに若い女性のものを描いた女性作家は多かったもののその世界はどこか文学プロパー若しくはその周辺に響くだけのものであったのではないか。 例えば30年ほど前の山田詠美のポンちゃんシリーズに今につながる様な香りを朧気ながら嗅いだような気がする。 あれは男だったのだろうか、女だったのだろうか、女性の性が露わには出ていないのだが溌剌さを被った若い女性だったのではないか。 だから山田には女性ファンが多かったのではないかと記憶する、何か少女・女性漫画雑誌に描かれるようなヒロインの匂い。

自分はガチな能天気な男として幼少時から西部劇、戦争映画やその類のスポーツものも含むマンガ雑誌の勃興期に育っている。 今でもその傾向は大いにありその種の映画を好む。 子供の時少女漫画は生理的に受け付けず見たこともないままに還暦を遙かに越して今この頃インターネットで漫画を見るようになり(漫画は見るもので読むものとはいわない、との教育をうけている)多少はこの半世紀の移り変わりをその中に見る。 現代は圧倒的に漫画というかコミック、いまではアニメにその種のジャンルがメジャーとなって映画産業に貢献する時代であるのだからそこを文化領域として生息する若者たちに川上がアピールしないわけはないと感じたのはその生理・性・ジェンダー・社会性を自然体として表現しているからで漫画・アニメに飽き足らないと感じる若い女性たちを引っ張る力があると感じたからだ。

自分には本書の細部は語れない。 それは自分がCTスキャンを受けてからもう大方4週間は経っておりそ、そして今のところ癌は戻ってきていないという診断結果を受けて緊張感が薄れたのと同時に本作の記憶が薄れたことによる。 その後読んだ本作に添えられた̪詩とも小説とも自分には判断のつかない散文、および川上の同じく刺激的・挑戦的でもあるタイトルを冠する詩集を読み、川上の感覚がそれらの作品でより一層光っていることを確認したことで川上の詩と小説作品の関係をおぼろげながら理解したような気になっている。

初めに述べた自分の本作との初体験で初めの数ページで違和感を抱き二度目はそれを感じなかった理由は多分作中の主人公と思しき娘が大阪から出てきて東京で多分創造的な仕事をしているように想像されるその設定での大阪弁である。 多分違和感なり言葉の振れを感じたのは主人公の言語環境の変化のなかでのその影響と主人公の揺れでもあるのかもしれず、もともとくせのある大阪弁を文章の中に押し込めるのは、話し言葉を書き言葉の中にねじ込むことで起こる振れ、揺れであったのかもしれず、それは既に漱石や一葉が経験したことでもあるかもしれず、だから本作でも主人公の名前は一度しか夏子として現れなかった一葉の名前でもあったはずで、著者はそれにも充分自覚的であったはずだ。


芳川泰久 著  「蛇淵まで」 を読む

2018年03月06日 11時09分58秒 | 読む

 

芳川泰久 著  「蛇淵まで」

文學界 2018年 2月号  P82 - P131

 

雑誌巻末の執筆者紹介のところには早稲田大学文学学術院教授、51年生まれ。「吾輩のそれから」とあって、本作の中から著者に近似と思われる泰則という大学教師である主人公は漱石にからんで英文学が専攻だろうかと想像できるのは文中、高校時代の思い出でラブレターに I Need You と書いてその不埒さを教師からこっぴどく叱られたというエピソードを示していることから想像したことであって、フィクションと作者を結びつける幼稚なことはしないつもりでいても下衆な勘繰りも名前だけはこの何年も文学雑誌でみていたし記事も作品も眼にしていた筈なのに一向にその印象がないそのことがこんな下衆の勘繰りを後押しているのかもしれない。

帰省の折自分が奉職していた大学の図書館に「文學界」がないことからこの自分が愛好している雑誌を地元の小さな書店で手に取って、もう継続して読まなくなったのはこの7,8年のことになる、と思い返したのだった。 1980年代の中頃から30年近く「すばる」と「文藝」を加えて三誌を取り寄せ、読んだあとは日本学科の図書館に寄付していた。 図書館には「新潮」と「群像」が入っていたし芥川賞受賞作は中央公論の横に並んでいた文藝春秋で読んでいた。 だから本作の作者名もそんな中で記憶に残ったのだが作品の印象がないというのはどういうことなのだろうか。 若い時に創作で文芸賞をとりその後鳴かず飛ばずで教師になるという作家を多く見て来たしそんな教職と並行して創作活動をして成果をあげている作家も何人かはいるし鳴かず飛ばずでいるという作家・教師も大勢いる。 純文学は売れないのだし喰えないのだから子供に知識を切り売りして口に糊してそのうち公務員のようになる。 

第一、純文学などという言葉にしても死語であり文芸雑誌に活気があるかどうかということも文芸三誌を取り寄せることを止めた理由の直接間接的なものかもしれない。 毎月家に届けられていたものを梱包して郵便局まで歩き船便で送ってくれていた母が介護施設に入ったからというだけが理由ではなかったように思う。 自分が年を取り書かれているものに魅力を感じなくなったりそんな雑誌の風景が霞んで遠のくように感じたからでもあるのだろう。 いくら面白いと思って始めた道楽でもいつかは辞める時が来る。 それは自分の方の理由が大きいけれどそれを後押しするのはそういう道楽の現場の様子にも依るのだ。 同じようなことが自分の道楽の一つであるジャズでもいえる。 4年ほどジャズの現場を離れたら分からなくなるし自分の鼻が利かなくなっているのを感じる。 それも自分の肉体的条件である鼻が鈍感になるということと現場の匂いが変わってしまっているということもあるのだ。 それを今回感じた具体例としてこういうことがある。

2018年2月号の「文學界」をざっと見渡して特に印象に残るものがなかったのだ。 自分の鼻が鈍っているのだろうか。 新春創作特集として保坂和志、三木卓、藤野千夜、南木佳士、椎名誠、芳川泰久の創作がならんでいるが殆どが「老人もの」である。 高齢者に材をとるもの、高齢者が書くものの特集かと思った。 純文学は死んでその化石が再生産されているのかとも思う。 それならまだこの間読んだ「新潮」での橋本治の連載「九十八歳になった私」の方がどれくらいパンチがあって文芸を蹴散らし文学しているかそのバカバカしく見える文体に溢れている。 その違いが橋本が「文學界」に出ない理由であるのかもしれず「文学界」が文芸エンターテーメントの牙城として生き残っている理由であるのかもしれない。 けれどこういうものを誰が読むのだろう。 こういうもの、というのは2月号のことであり、また本作のことでもあるのだが、こういうことを長々だらだらと現に書いている自分が、そろそろ70に手が届くという自分が読んだではないか。 この文はそのことに尽きる。

今、1月から2月にかけて日本に帰省したときのことを忘れないために日記として書いている。 母が亡くなりその整理に帰り、納骨、分骨、散骨をしたことを中心に書いているのだがその時の記憶が自分より一つ年若い作者の本作品と重なる部分が多いのを読み進めるうちに認め、それがこの文を書く動機になっている。 大阪の四天王寺に納骨をした記憶がまだ新しく残っている自分に本作の泰則がそのあたりの寺に納骨に行く場面があり納骨、墓のこと、戒名のこともストーリーの曲折にからめて面白く読んだ。 母親にとっては康則は世間の分かっていない大学につとめる息子でしかないように描かれているが若い読者には退屈に続くだろう叙述の終わりに父親の出身地である四国の山奥にでかける話が続き、先月散骨の為に四国に出かけて山襞を掠めたこととも重なり、また大昔、石鎚山に登ったり山奥の村に出かけたこともあるのを思い起こし最後近くまで表題の「蛇淵まで」というのがでてこなかったものが一挙に話が「お話」に収斂され年寄りインテリの母恋ものがたりとして治まる体裁になっているのだ。 自分がもし今回の帰省旅行もなしに、また20歳は若く壮年のはしくれにぶら下がっているのなら洟にもかけない物語であり、何の外連味もない文芸としてどうということもないのだが同じような経験をもつ同年配の話としてはよくあることだとして「あるあるネタ」の一つとして記憶に残るものになるのだろうと思う。 その時にはこれが作者の体験をもとにしているのか創作であるのかそんなことはどうでもいいこととして、お噺のもとである、あったかなかったか知らねども、あったことにして聞かねばならねえという態度をとらねばなるめえ。


樋口一葉 著 「たけくらべ」を読む

2017年12月16日 20時34分50秒 | 読む

 

 

樋口一葉 著

たけくらべ  

初出 1895年1月 - 1896年1月 「文學界」

現代日本文学全集 4  P256-P272 

筑摩書房 1956年刊

 

幾つもの本を並行して読んでいる中で、何故今樋口一葉なのか、という問いには、何故今夏目漱石なのか、という問いにもひっかかるものでもあり、若い時には一応一葉にも漱石にも目を通していてそれぞれ書庫の奥に文庫本として埃をかぶったまま眠っているのをうろ覚えに記憶しているものの、何故、といわれるとそれに対する明らかな答えは見つからない。 ただ言えるのは自分がこの半年ほど病床にあって落ち着いて読める長い物の手始めに橋本治の「窯変源氏物語」14巻を読んだことが呼び水になっているのは確かだ。 けれど、それではそれが漱石、一葉にどうつながるのかというと何とも繋がりが薄いようだし脈絡も見えない。 ただ、漱石、一葉は明治の代表的な文学者であり双方のキャリアが際立って対照されること、漱石の兄と一葉がもしかして婚姻関係になっていたかもしれないけれど一葉の父の金の無心が激しかったのでその話も立切れになったことを後付けすれば取って付けた詰まらないトリビアルな関係にもならないことはない。 漱石は幾つか読んでいたけれどそれが心の奥に残らず、なぜ文豪と呼ばれるひとの神髄が自分のこころに残らないのかを自分の感受性、世界、人間に対する理解不足として半ば諦め気味にしていたけれど自分が人生の秋から冬に分け入っている現在今度こそ何か掴めるかと試みるものとして再読しているのだ。 そして中途半端に放っておいた「こころ」をなんとか読了してもまだすっきりしないものがのこるまま「虞美人草」や「草枕」を読んだ。 そこでは男の考えることはなんとか分かるものの登場する女たちの方に曳かれた。 「こころ」の女については保留、「虞美人草」の女については憐憫、「草枕」の女にたいしては自由闊達の感をもった。 

自分は男より女の方が好きで女という存在により興味がある。 江戸時代の色の道に、男がその道を究めるにあたり行きつくのが「衆道」であるとあった。 けれどそれは女を経験してこその色の道の一つ、ゲイでなくてはならないというものでもなくそれはバイ・セクシャルの態度なのではないのか、それに人生の早い時期もしくは青年期以後ゲイやバイであるという自覚は自分にはない。 怠惰な自分は「衆道」を経験することもなく多分このまま生涯をおわるかもしれない。 興味としては男が好きになれるのかどうかは例えば「ベニスに死す」の原作も読みもし、映画も観もしたが文章や映像に描かれている男には魅力は感じなかった。 それはヴィスコンティがゲイでありトーマス・マンがゲイでなく、自分も多分ゲイでないということに関係があるのかどうか。 偶々自分は身も心も持って行かれるような男に出会わないだけだったかもしれない。 けれど自分がゲイでないとしたら、そしてもし自分がゲイであったとしても自分とは違うジェンダーの「女」というものを女が好きな自分はどう捉えればいいのかいつも思っていた。 それは高校生のときに齧り読みしたボーボワールの「第二の性」以来であり、それが更にウーマンリブ、フェミニズムと続くその関連の中でここにきて川上未映子の作に行き当たったということがある。 川上の作で初めて読んだのが「ウィステリアと三人の女たち(2017年)」でその後「「苺ジャムから苺をひけば(2015年)」を読み、川上が明らかに現代のフェミニスト作家の一人であることを喜んだ。 実際川上の創作に接するまえに川上の対談集に接しそのなかで樋口一葉の文が読めない、といっているところに引っかかったのが本作を読む切っ掛けになっている。 

書庫のどこかに埃をかぶって眠っているはずの「たけくらべ」だから若い時に読んでいたのは確かで、源氏の原文は読めないものの明治の文なら当時から現代語訳もなくそのまま読んできたはずだし、それなら自分はどのように不明なところを飛ばし読み、垂れ流し笊読みをしていたのかとそれを確かめるために今回再読したのがきっかけである。 実際、川上が読めないといった陰には川上が「たけくらべ」を新訳するプロセスにあたって明治の世界から我々が如何に離れているかというところを指しているものと解釈した。 彼女は今時の18ぐらいの小娘、ギャルではないのだ。 苺ジャム、、、の主人公は12歳の女の子であり同級生の男の子とのからみがうまくできていて、そういうことから13,14歳の主人公美登利と年下の正太、年上の信如の話である本作に導かれたというのには脈絡があるのではないか。

自分は少女漫画というものを読んだことはない。 大昔に見たことはあるが自分には分からなかったし面白いとは思わなかった。 本書を読んで優れた漫画家ならこれを漫画に出来るのではないかと思った。 アニメより漫画の方に細やかなニュアンスが表現できるのではないかとも思った。 多分もう誰かが漫画化しているのかもしれない。 「草枕」や「こころ」の漫画化がすでに行われているかどうか承知していないがそれには大して興味が湧かないものの「たけくらべ」の漫画化には興味が湧く。 それは一葉の描写の瑞々しさに依るからなのかもしれない。 明治の文体の上で漱石も一葉も文語体から口語体への変換は頭にあったといわれているものの特に漱石の「虞美人草」の文体と「たけくらべ」の文体は両方とも文語文ではあるけれどその描写に於いてはぎこちなく肩に力が入った漱石より一葉の文語体の方が遥かに美しい。 その美しさと瑞々しさに魅了されほとんど一葉に恋心を抱くほどだった。 だから鴎外が一葉の文章力に魅了されわざわざ一葉の元を尋ねたという逸話には充分説得力があるものだと納得した。

「たけくらべ」本文を読む前にどこかで、最終章あたりで主人公美登利の態度が変化する、その原因が職業としての「性的初体験」があったからだ、なり「初潮」がそうさせたのだという論争があったということを承知していた。 だからその点に留意して読み進み水揚げがあったからだとは思わなかった。 将来色街で人気者となり「出世」することが有望視されている美登利には自他ともにその自覚はあるものの髪型が少女から少しは大人びたものに変わったもののまだ本格的に色街の世界にでることもなく、それにはまだ投資も支度も必要であることは確かで母親の、そのうちまた普通に戻る、と言う言葉には晴れやかに職業的にデビューしたというニュアンスはとてもみられず、多分「初潮」というごく普通のことも関係があるにせよ周りから暫くするとどのように自分が処していかねばならないのか具体的な説明をされる時期にもなり、それにより色街で育ってきて姉のように、いや姉以上に出世したいとおもっていたものが具体的に近い将来のものとして具体的な性行為を説明されてたじろいだのだろうと推測した。 それに「性」と「恋愛」が一つになって起らねばならないという考えにも至っていないだろうし第一「恋愛」感情の芽生えも自覚していないようにも見える。 幼馴染の正太は美登利に幼い恋心をもっていることは確かではあるが勝ち気で年上の美登利にはその気があるようには見えない。 かといって下駄の鼻緒が切れた信如に布切れをおずおおずと渡すにしても恥ずかしさはあってもそこにはまだ恋心には至っていない。 こういう状況での美登利であるからこれに関しては川上未映子のブログで女性の眼からみた「たけロス」と呼ぶ美登利の態度の変化に対する観察には充分納得した。

 

http://www.mieko.jp/blog/2015/02/27/858.html


Christine Arnothy著 「日本の女性」を読む

2017年12月13日 22時56分18秒 | 読む

 

 

Vrouwen van Japan  (日本の女性) 1959年

Christine Arnothy  (文)全58頁

Mark Riboud (写真) 全98葉

A. W. Bruna en Zoon,  Utrecht   1959

 

1  目次

2 日本の女性、 3 柔軟かつ従順、 4 混合する二つの世界、 5 夜の光、 6 似顔絵を描く娘、 7 音楽、 8 家庭生活、 9 或る程度の深い話、 10 そして、それからゲイシャ?、 11 可愛い舞妓、 12 浴場で、 13 自由!、 14 畳、 15 料理、 16 理容室で、 17 茶事、 18 花嫁、 19 産児問題、 20 女性が立ち上がるのを見る、 21 更なる変化、 22 西洋演劇、 23 文字、 24 女流小説家、 25 真珠と海女、 26 サヨナラ

 

先日町の古LP・CD屋のペーターに貰った古本である。 何語かからオランダ語に翻訳され、原書のタイトルも原語に関する記述もない。 エッセーと写真が半分半分で1959年、昭和34年に出版されている。 写真の版権はパリ・ニューヨークに拠点を置く写真家集団マグナムのもので、著者は1930年にハンガリーで生まれ45年の終戦末期、15歳のときブダペスト包囲戦を命からがら家族と共にフランスのパリに逃げてきて後に作家活動に入りフランス語での「15歳のわたしは死にたくない」などの著作がある女性である。 2015年没とネットの記述にある。 読了後まで著者のことは知らなかったが読み進めるうちに徐々に著者の背景がうすうすと理解できるような記述があった。

西欧人が日本を訪れて旅行記をものするのはイエズス会の神父のものをはじめとして古くからごまんとあり、80年代前半には日本の経済発展はピークを迎えて欧米では文化人類学・サブカルチャー研究フィールド・ワークの舞台として多くの人が来日し長期・短期にわたり逗留、そして日本社会は精査されその結果として学術書なり様々な書物が出版されてきた。 日本ではすでに60年代から日本人論が好まれそれは現在でも以前として書かれ読まれ続けている。 そして興味のあるのはその論なり出版物は書かれた当時の社会をさまざまな意味でその時代を映す鏡となっていることだ。 その写された時代の姿とそれを覗く観察者がそこに映し出されているのがはっきりとわかるのをみるのは興味深い。 ことに書かれたのが今からほぼ60年前の日本であるということにことさら興味が惹かれる。 自分が日本を離れたのが37年前、自分がまだ9歳のときの日本の姿を著者と写真家は観察している。 自分が育った小学校低学年の頃の日本の田舎やそこからたまに出かけた都会の印象はノスタルジーとともに深くこころに残っている。

自分の知人でオランダの写真家、故エド・ヴァンデル エルスケンが初めて日本の土を踏んだのが本書の写真が撮られた年だった。 それ以来ヴァンデル エルスケンは度々日本を訪れいくつもの写真集を出版している。 その写真と本書の写真を比べると明らかな違いが認められるだろう。 それは本書の被写体は女性だけに限られているけれどその佇まいは概ね静かで日本人がみてもどちらかといえば慎ましく大人しい、当時のそれぞれの職種、年齢の平均的な姿なのだが、ヴァンデルエルスケンの被写体はその場所から切り取られはっきりとした輪郭と表情をもつ人々の姿でありそこではっきりとそれぞれの出版物の意図がにじみ出ていることだ。 尚本書に掲載された写真のページの幾つかは次のサイトに紹介されている。

http://bintphotobooks.blogspot.nl/2015/06/women-of-japan-marc-riboud-photography.html

シモーヌ・ド・ボーヴォワールの「第二の性」がフランスで出版されたのが1949年だから著者がそれに触れなかったことはほぼ無いだろう。 戦争を経験しハンガリーからパリに逃げて女性作家として自立するプロセスでは女性としての自覚、社会に対する何らかの批判性をもって活動していると見做してさしつかえなく、ことに「日本の女性」とした本書であるのだからそこには単にエキゾチックな日本の探訪記には収まらないものがあるものと期待していいだろう。 冒頭、既婚・未婚に関わらず日本を訪れる者に対して知ったかぶりの者はウインクし、男には芸者の国にいくのかいといい、女性に対しては、男のいう事をよく聴き淑やかで無駄口をきかず理想的な女たちの国に女性としていくのなら比べられるのを覚悟しているのだろうがそれはいい根性だ、とも言い、日本の女性を妻とする男の幸せは言うべくもない、と言われてきた著者はフランスから飛行時間だけで40時間、6か所を中継して途中怪しい食事をテヘランで摂り、熱暑のニューデリー、バンコックを経由して日本に向かうのであるが機内での日本人スチュワーデスはフランス人のアナウンスを忠実に唄うような日本語で繰り返すがその事務的な微笑みの陰には夢見るようなまなざしはない、と書く。 香港から乗り込んできた中国人スチュワーデスはぴっちり体を包んだチャイナ服の切れ上がった股の部分から端正な脚が覗き疲れ切った乗客の眼には目覚まし効果が十分ではあるが夜の10時に羽田に到着した著者はこれから出会う女性たちが一般に言われる日本の女性像からは違ったものであることを半ば確信して東京の町にでる。

伝統的な髪結い、現代的なヘヤーサロン従事者、学生、芸者の卵、主婦、作家、バーの女性、農家の主婦など様々な女性にインタビューしたあと良子、幸子、静江、稲子、真理子などの名前を反芻しその名前に付けられた意味を想う。 日本の町で、とりわけ東京での移動に使うタクシーの荒っぽさに驚き「カミカゼ・タクシー」と呼ばれていることを知らされる。 日本女性の柔軟性と従順さには生きる知恵が裏付けされていて盲従ではないことを確認し、そこではアメリカ女性とは対照的な知性をみる。 こういう部分が当時も今も残るフランス人のアメリカ人に対する批判、偏見が充分うかがえるようだ。 戦後の日本の女性に対しては新旧、西洋/東洋の二つの相反する異なった世界の価値観が混ざり合わさっていることを観察している。 これは戦後70年経っても程度の違いはあれ社会に通底していることであるものの西欧からきて日本に長く滞在している者には認められるものではあるのだろうが日本人には当時に比べるとそれが見分け難くなっているのではないか。 

興味深かったのは産児問題について語られた部分だ。 女性問題でネックになるのはこの部分でもあるからだ。 昨日のニュースでも託児所の不足が政府発表と調査機関の発表とはことごとく異なり、まるで安倍政府が女性の職場参画に対して消極的であるかのような施策を未だ採り続けているといった批判がなされていたことだ。 本書が書かれた当時、日本の人口が8600万人、戦中には産めよ増やせよ、との掛け声がそのまま戦後ベビーブームを起こし、町のどこにも背中に負われた赤子がみられるようになり産児制限、避妊、受胎調節というような言葉も広げられ女性の脳に組み込まれるようになる。 けれど実際にはキャンペーンは公には行われず年出生数は170万人に及び、1951年には出生数が死亡数を130万超過したことがここでは述べられている。 1957年には出生数は156万人で政府のキャンペーンの効き目があったのか胎児の死亡率が上昇し、20秒ごとに新しい生命が誕生し、42秒ごとに死亡が数えられる。 斯くして統計数も1945年当時のものにほぼ戻り日本政府の政策が一定の効果をもたらしたものではあるが産児制限の陰に違法の堕胎が数多く行われ大きな問題となっていることも記されている。 

著者は当時日本の著名人にもインタビューしている。 歌舞伎の女方尾上梅幸43歳に何歳に見えるのか尋ねられ32と答え普通の男が女になっていく姿を見て驚愕し、新劇女優東山千恵子の来歴を聴き、ことに外交官夫人としてモスクワで観たチェーホフの「桜の園」以来西欧演劇を志し第一人者となり女優を養成する姿に接し、作家では林芙美子没後であり著者は1930年代にフランス語に翻訳された「放浪記」を読んでいることから同じ女流作家である吉屋信子に接し彼女のパリ時代の思い出をも聴きだしている。 

帰国に際して著者が日本で出合い見た日本の女性について、当然人形のように美しくおとぎ話の妖精のような女性たちを見ることはあっても一概には、日本の女性も他国の女性と同じく人生と格闘する人間には変わりないことを確認する。 そして10年後の日本の社会について、著者は子供の数は減少し、町は多少とも静かになっているかもしれないと想像する。


黒田夏子 著 「abさんご」 を読む

2017年11月15日 16時06分29秒 | 読む

 

黒田夏子 著

abさんご

文藝春秋 2013年 3月特別号 P414-P374

或る文芸雑誌で本作が蓮實重彦の強い推薦で2012年に第24回早稲田文学新人賞を受賞し、その後第148回芥川賞を受賞したこと、そのとき何人かが蓮實の推薦がなければ芥川賞はなかっただろう、蓮實が、我々に読むことを強いる誰にも好かれるということではない文学、と言うような意味のことを語っているのが伝えられていたので興味をひいて本作について読んで見ようと言う気が起こった。 それにその時、文学雑誌に芥川賞の選者から、どちらかというと読みたくない種類の文であるようなことが匂わされていて蓮實の推薦が選者の脳裏に影を落としている風にも読み取れるものだったので余計に興味を引いて図書館にでかけ2013年の当雑誌を12冊借り出しその場で本作掲載号を選び出し家に戻ったのだった。

蓮實の推薦が選者たちの頭に何がしかの影響を与える、というのは今に始まったことではない。 70年代から文芸・映画批評を読んで来た者には蓮實は避けて通れない道路の大石のような存在だったし今でもそれは好むと好まざるにかかわらずそこにある。 その大石に苔が生えて丸い印象をあたえるかどうかは別として依然として大石である。 90年代になると大石を迂回するような道もできてわざわざよじ登って向う側に行かなくともよく、それでも脇を抜けて通るときには見上げたり無視したりししても傍にあるその存在を否定できないもののようにみえる。 蓮實はおもいつきで主張するような人ではない。 たとえ思い付きでもそれには理由がある。 そういう引っ掛かりにこの作品があったのだと想像した。 文芸の迂回路をなんの逡巡もなく通り過ぎるものたちに今額に汗して岩登りをすることで弛緩した文芸の風景に新鮮な眺めを紹介する意図がみえる。 そしてその新鮮な眺めがそこまで昇って来たものにそう見えるか見えないかは別の話だ。 

自分の想像したのはこれは自分の聴くジャズでいうと良く練られたインプロヴィゼーション系の音楽かもしれない、ということだった。 ジャズにもピンからキリまであって、玄人ごのみの50年代のピアノジャズからカルテット、今流行りのラウンジからラップを盛り込んだもの、メインストリーム、ニュー―バップにポストバップとさまざまだ。 そして創造的ジャズは純文学と同様、流行らない、落ち目である。 売れるのは相変わらず趣味のいい、また60年代には活気のあった今では手あかが何重にもついた定番ものぐらいだ。 だから地道に長くジャスの精神を追って聴いて来た一部の人には新たなものを求めてインプロヴィゼーション、フリーを聴く人がいる。 クラシックのコンテンポラリーと重なる部分もある。 それは誰にも好まれるとはかぎらず耳触りがいいとは限らない。 聴くのにはある程度の努力を強いるものもあり、思わぬところで思わぬ角度から感興を覚えることもあり、また覚えないこともある。 かたちに捉われずあらたな地平を目指すその態度と些かの結果に期待して聴くものはコンサートホールに足を運ぶ、という種類のものだ。 自分は自分の経験からして本作はそのようなものだろうと想像して読み始めた。

作者は75歳でデビューだと書かれていた。 高齢で芥川賞受賞なら過去に1974年「月山」で受賞した当時62歳、今回までその記録を保っていた森敦がいる。 当時「月山」も「われ逝くもののごとく」にも眼を通し大いなる感興を得たことを覚えている。 けれど森の数学書か哲学書かというような「意味の変容」には手も足も出なく魁偉な人だと言うような印象を持った。 だから今回高齢の新記録を打ち立てた作家の背景にも当然興味を持ったのだが一貫して創作をつづけてきて様々な職業を経て多くは校正のしごとをしてきた、というところで読後納得するところがあった。

本誌の364頁に、本作は414頁から始まります、と書かれ同頁には Contents として次のような名詞が並んでいた。

 

受像者

しるべ

窓の木

最初の晩餐

解釈

予習

柔らかい檻

旅じたく

満月たち

秋の靴

草ごろし

虹のゆくえ

ねむらせうた

こま

本作の特徴はまず、横書きであること。 横書きの作ならすでに例えば1995年に水村美苗が「私小説」でそれを行っており、そこには欧文を混在させる意図からそうなったのだろうが本作では欧文はアルファベットのaとbだけであり外国語の借用語がカタカナで書かれていることもない。 それら外国語が表現されなければならないとしたらそれらは日本語に翻訳され、多くはひらがなで表記されている。 漢字で表記されている名詞、形容詞、動詞などもあるが「普通の」創作文に比べると圧倒的にひらがなが多く、これが読むことを強制する要素となる、と或る評者からいささかの批判的言辞でささやかれる部分ではあるがそれも作者の計算の内であるようだ。 評者の一人はひらがなを頭の中で漢字に変換しなければならないのでそれに時間がかかると述べ、それをネットの読者に批判される。 曰く、その読み方は誤っている、ひらがなをそのまま読み、その意図、ひらがなのかたちづくるどのようなイメージであってもそこから喚起されるものがポイントであって、それをいちいち漢字に直す作業というのは明らかに文学界で動脈硬化を起こす病理に加担するものと言いたげな口吻だ。 つまり本作は語られる物語というより呟かれることばから紡がれる生涯のそれも幼年時代のイメージが多く、その記憶の折々の場面を綴った長い韻文の纏まり、のように思えた。 だからそれぞれの章にあるタイトルが韻文の題であり喚起するイメージの連なりが散文的な物語を構成するというような仕組みだと思う。 その韻文のイメージを育てるためにひらがな、横書きは必須なのだろう。 自分は詩を読まないのでだれに比べられるのか、またどのようなカテゴリーに入るかそのような知識も興味もなく読み始めて初めは戸惑いながらもそのうち自分でゆっくりしたテンポに落ち着き最後まで読み通すことができた。 評者の一人は味わうのに三度読んだと書いてあったけれど自分はもう一度読み直すかどうか分からない。  同誌に黒田と早稲田の同級生で同人誌に一緒に所属していた元アナウンサーの下重暁子が対談していて、一作仕上げるまで10年かかると述べられていた。 けれど、だから彼女の多分十年後になるかもしれない次作にはもし彼女も自分もまだそのとき生きていれば自分は必ず眼を通すだろうということは確かだと思う。

選者の村上龍は、本作のような高度な技巧的洗練で成立している作品が果たして新人賞に相応しいものかを疑い新人のための芥川賞に推さなかった、作品の受賞に反対し、かつ受賞を喜んだ経験はこれからもう二度とないだろうと書いていた。 ことばの隅々まで意識的で或る世界を構築した作品であることは理解できた。 森敦を読んだのは自分が二十代半ばの頃で圧倒された。 今70に手が届こうかというところで「新人」黒田夏子の文に接し今からなら現代の韻文にも多少とも親しみがもてるかもしれないという感を持ったし、センテンスにカタカナ言葉はシャットアウトするのにコンマやピリオッドを使い、日本文学の可能性を広げる営為を続けている人を知って頼もしく思った。 尚、、、、する者は、という使い方が本作で多用されているけれど外国語で暮らす自分の日常に於いてこれは日常の通常センテンスであるから親しみをもち違和感は全くなかった。

 


夏目漱石 著 「虞美人草」を読む

2017年11月12日 16時24分01秒 | 読む

 

 

夏目漱石 著

虞美人草 (明治40年、1907年)

新潮文庫 1981年 第61刷

巻末の本田顕彰の解説にこうあった。 「虞美人草」は明治四十年、漱石41歳の作であり、6月23日から10月29日まで127回にわたって朝日新聞に掲載された。 漱石は、この年の三月に東大講師、一校教授の職をなげうって、朝日新聞に入社して、一大センセーションをまき起こした。 漱石としてはすでに「吾輩は猫である」によって一躍名声を馳せ、つづいて「坊ちゃん」「草枕」等によって不動の地位を築いており、、、、。世間が彼の最初の一動を固唾をのんでみまもったのはいうまでもない。 彼が、いよいよ「虞美人草」を連載するという予告を自ら書いて新聞に発表すると早速三越は虞美人草浴衣と銘打ったものを売り出すし、玉宝堂は虞美人草指輪というものを売り出した。 始めての長編小説を書くという事で既に十分緊張していた漱石は、一世の期待を身に感じて、ますます緊張した。 その緊張を我々は「虞美人草」の文体に息苦しいまでに感ずる、という具合だ。

本作を読む前に半年ほど前に「こころ」を最後の20頁ほど残して読んでおり、その文庫本は去年帰省した折に買ったものだったけれど、その後その文庫本の行方が分からなくなり、結末は分かっていたものの肝心のところが分からなく、それを残したまま放っておいた。 それがひょんなことから書庫の隅で、80年代の初めにグロニンゲンに住んでいた時日本に帰省した折りに新潮文庫本で漱石の作を殆ど全て買ってきて読んだものが見つかったのでそれで残りを読み終え、続いて一緒に自室にもってきていたのが本作だった。 本作を読了した今、次にはそのとき書庫で見つけた「草枕」を読もうかとも考えている。 漱石を読んだのはこれが初めてではない。 こどものころから「猫」や「坊ちゃん」を読み、日本の文学史上頂点に立つ文豪の一人と誰もが理解しているように意識していたし、80年代には「こころ」にも「草枕」にも本作にも目を通していたのにその記憶がない。 辛抱が続かなく途中で放ったのかもしれない。 興味がなくなったか、当時の自分に響くものがなかったか、文豪の文豪たる所以が理解できなかったのだろう。 そして自分には感受性が欠けると見做して当時自分の興味のある作家の作にばかり向いていたのだがそれでも様々な作家論、日本文芸が語られるところでは漱石は必ず引用されているから無視しては通れないし避けられないのだが自分にはどこかはっきりしないところが霞のようにいつも棚引いていた。 それは今でも変わらない。 

「こころ」を読了して少し時間が経った今、こころに残るのは「こころ」のお嬢さん、つまり先生の奥さんになる女性のことなのだが、本作でもこころに残る魅力ある女性がいる。 それが藤尾である。 漱石の作では男性たちは饒舌であるけれど女性に関しては若い女性はしとやかで年配になると世間知が勝つ。 その中で本作の藤尾の性格はクレオパトラに喩えられている。 解説によると、後期の作の中心的問題となるのは我の問題である、男女間の愛情と理性と正義の問題である、と言う。 具体的に本作で言えば、我の人として藤尾があると説明される。彼女は明治四十一年にはなかった新しい型の女であり、後の新しい女を予言する女性とされているが、あれほどまでに才を頼み、虚栄心が強く、我を押し通して一切を踏みにじって顧みない女は、今日もなお珍しいかもしれないという。 あれほどまでに才を頼み、虚栄心が強く、我を押し通して一切を踏みにじって顧みなかったからその罰として漱石に殺されたのだ。 才があって虚栄心がほどほどで我を押しても一切を踏みにじっても少しはそれを顧みるならば、恩賜の時計を持っていても財産をもたない小野さんをみごと掌中に収めて一生自分の掌で転がすことができたのだ。 そうなると金色夜叉の男女逆バージョンが出来上がり小野君は小夜子さんや糸子さんから下駄で多少は蹴られることになるのかもしれないけれど将来は安定する。 これが世間で起こる蓋然性が甚だ高い結末だがそれでは余りにも普通でドラマにならないから「我」をカリカチュアライズして藤尾さんに被せその挙句が彼女を殺してしまうのだから漱石のモラルの強さは大変なものだ。 こうでなければならない、という確信をもって説くのが藤尾さんの葬式が済んで甲野さんが書き込んだ日記の件である。 これが明治の世間の期待を一身に感じて肩に力が入った漱石の講談なのだと思う。 強いて言うなら講談の機能である俗情を扇動しそれと結託しているのだ。

小野君の優柔不断、気配りに軟弱さは一般のものでその描写は説得力はあるし、甲野さん、宗近君の会話にはユーモアがあり、もう半世紀ほど前に読んだ「猫」をぼんやりと思い出すほどだったのだが最後の場面での宗近君の堂々たるカッコ良さには少々鼻白む思いがした。 これも外交官試験に通った勢いが背中を押しているからなのだろうか。 これでは藤尾さんが浮かばれない。 理性は脇においておいて正義と「我」について考えてみよう。 ここでの正義は法律がからむ社会正義ではなく「義理」という倫理観であり藤尾さんにはなんらそれに反するところがない。 それは主に小野さんの問題でありそこが本作の肝心な点であるから外交試験に通ってロンドンに行く宗近君が必死になって小野君を説き伏せ、みごと「回心」するので小野君はなんら罰せられないのにここでは「我」が少しばかり強かっただけの藤尾さんはあっけなくひっくり返って漱石に殺されてしまうことになる。 つまり「我」もそこそこにしておけ、というのがここでの教訓となる。 

2017年に生きる我々が、110年前に書かれた明治の文学から、とくにロンドンで英国式の考え方と格闘して「自我」の問題をこのような形で大衆に自我を矯め、義理を貴ぶよう漱石が講談調で説くのに接するとき、明治の社会と平成がほぼ終わる現在の「モラル」の在り方を比べそうになる。 明治も今も金色夜叉ではないけれど、とみやまのダイナマイト、いやダイヤモンドに目が眩み世間はそれで動いている風がある。 世間には今風の藤尾さんがその高学歴と美貌で欲しいものを上手に手に入れるのが普通になっているのではないか。 ただ「我」をどのように通すかということになると明治から110年にもなると経験知の蓄積からそこには柔軟性が加わっているのかもしれない。 それとも漱石の講談が功を奏して教訓が行きわたり我を通す女性はいなくなったのだろうか。 出る杭は打たれる、という教訓だけがここに残るのでは余りにもこの小説は通俗すぎる。 自分が読み切れていないまだ深遠な問題が隠されているに違いないのだが自分の耄碌した頭には考えが及ばない。 ここでぼんやりと頭に湧くのは、漱石は男の「自我」は考えたけれど女の「自我」は別物と考えていた風があるのではないか。 それが明治の男として何の瑕疵もない考え方でありついこの間まで普通であり、今でもまだそれが「新しい女性像」として再生産されつつあるのかもしれない。 もうだいぶ前に「妊娠小説」でこの問題を男性の前に突きつけた斎藤美奈子に漱石のこの問題について述べたものがあったかどうか、あれば読んで見たいものだ。

今樋口一葉の「たけくらべ」を読んでいる。 1896年、一葉24歳没年の作であり本作に先駆ける事11年でありどちらも文語体をとっている。 本作は漱石にとって文語体から口語体に変わる変換期にあたるとあるが「こころ」を読んでから本作に至り、更に「たけくらべ」の文語と比べると本作の「無骨」な「美辞麗句」に肩ひじ張った漱石がみえ、そこから逆に一葉の文体の美しさが浮かび上がるようである。 一葉にしても様々な描写に講談調はみられるのだがそれは淡々として流れるように美しいもので本作でのごつごつした手触りはない。 それは単に男と女の違いだけだといいきれるのだろうか。 一葉も職業作家として独立したところで残念なことにこの年に亡くなってしまう。 一葉も口語体のことを考えていた風があるとどこかで読んだことがある。 もし一葉が職業作家として生き延びていて35歳で本作に接していたとしたらどのように評したのだろうか興味のあるところだ。


大江健三郎・古井由吉の対談二つとそれについての蓮實重彦の書評を読んだ

2017年11月08日 23時18分14秒 | 読む

 

 

1)大江健三郎・古井由吉 対談 「文学の伝承」 2014年 12月 3日

  新潮 2015年 3月号  P148-161

  ・ギリシャ語かラテン語か

  ・「古事記」の声の抑揚

  ・文体上の渋滞

  ・偶然には<わたくし>は発生しない

  ・<わたくし>離れ

2)大江健三郎・古井由吉 対談 「漱石100年後の小説家」 2015年 6月 29日 紀伊国屋サザンシアターでの公開対談

  新潮 2015年 10月号 P200-207

  ・夏目漱石で三冊挙げると

  ・人間が始めたものだから

3)笑ってる場合か! 蓮實重彦; 「文学の淵を渡る」大江健三郎・古井由吉 対談集を読む

  新潮 2015年 7月号  P276-277

 

 先日、古井由吉と又吉直樹の対談を読んだことをここに記した。 その後、古井が大江健三郎と対談しているものを二つ読んだのだが、そのとき別に蓮実重彦が古井・大江の対談集を読んだ感想を記したものに接しそれが面白かったので合わせてここに記すことにした。 

自分の興味の焦点は古井の言葉である。 大江のものは高校生のころから70年代中頃まで魅かれるようにして読んだ。 けれどある時期からはむりに想像力を喚起するような、他人の著作、家族のことに材ととるものが増えて徐々に興味が失せた。 川端康成がノーベル賞をとったとき、大江だろうとおもったし、大江がノーベル賞を取った時には大西巨人が分からない選考委員はイモだとおもった。 それに世界ではそれぞれの著作は世界の主要言語、主に英語に翻訳されたもので評価される。 日本国内でも知られることの少ない大西だったがその著作を翻訳をちゃんとできる人材はいないのではないか。  骨のある外国人の翻訳家が出てくるまで待つしかなさそうだが果たしてそんな手間暇をかけてまで読者もいない作品を手掛ける暇人は今の時代生き延びることができないだろう。  その点、古井の文は玄人好みの日本文学研究者には日本語の勉強材料には適しているかもしれない。 ことに古井の文体は緊張を要求するもので、文法は当然のこととして読んでいく中で「想い」のベクトルを絶えず捕まえておかねば拡散してしまい収拾がつかなくなるテキストは美しく思索的な日本文の代表的なものであるだろうから翻訳されて英語やドイツ語になった場合、日本語のなかで蠢く幻惑的な文体が途端に味気なく翻訳されてしまうようなことになり、日本語の読めない海外の読者は湿気を搾り取られた滓だけを鼻先に付きつけられる羽目にもなりかねない。 まさに幽玄や侘びを文章で生に味わう世界なのだ。

1)の冒頭、二人とも若い時からの外国語、ことに西欧社会の根底にあるギリシャ語、ラテン語の学習経験をもとに語る。 当然、西欧の教養の基礎には両言語が必須のものになっているとはいえ、どちらかといえば古井のドイツ語にはギリシャ語、大江のフランス語にはラテン語が主なものだという。 つまり、日本における嘗ての漢文が西欧のギリシャ・ラテン語である。 1937年生まれ古井は、「戦前までは漢文を修めないと日本語が書けないと言われてました。 僕にとっては漢文にあたるものがラテン語、ギリシャ語なんじゃないでしょうか(P148)」という。 「ラテン語の流れから始まった西洋では「変わる」ことが重要視されます。 比べて、日本では、「変わる」より「移る」という言葉の方を好む、同じ変移を語っても、「変わる」というのはかなりきつい表現になる」と指摘する。 これはよく言われるように西欧社会が「する」社会であるのにくらべ日本は「なる」社会であることのに対応している。

古井は作品に連歌や歌、古典のことばを挿入し単語にも古語が屡々混ざる。 そしてこの対談でそれらの節や抑揚ということを言い、はしゃぎ、浮き立ち、高らかに声に出して歌う歌謡についても言及しこれによって古井の文体を辿るものには時にはうねり、佇み、遠くを聴くような想いがして気持ちが離れるような体験をすることがあるのだがそのもとが文体の抑揚のなせる業なのだと理解する。 古井は又吉との対談でも語ったのだがここでは更に詳しく「僕はここ二、三十年、短編を書くときには、まず音律が聞こえる気がするところから書きはじめ、しばらく書くと、それが尽きる。 また次の音律が聞こえるまで待つ、ということを繰り返します。」と音律を意識する。 

2)は公開対談「漱石100年後の小説家」と題して、それは今「こころ」や「道草」「明暗」から約100年として漱石が没してから約100年ではあるが大江、古井とも80歳前後で、両者との漱石没後20年ほどで生まれているということは夏目漱石という人は遠いようでいてかなり近い作家だと言えるという気もしてくる、と言って始める。 大江は漱石は30代、40代のころまで意識せず、そのころには古井は岩波文庫の「こころ」に解説を書いており大江はそれに眼を通している。 そして古井は漱石は音から入るとなかなかの名調子だと解説する。 大江は漱石を三つ挙げるとすると「虞美人草」「こころ」「明暗」とする。 古井が強調したのは「虞美人草」は文語文から口語文に移る大事な曲がり角のころに書かれたこと、文語文仕立てで文語文にふさわしい内容であること、パトスの盛り方が今では基調だということだ。 古井の三作は「こころ」「草枕」「道草」もう一つ加えるならば「夢十夜」、もう一つと言ったら「硝子の中」。

3)大江・古井の対談集「文学の淵を渡る」の書評で、大江を長編作家、古井を中編作家として、中編作家が「だけど、散文は無駄な部分が生命でもありますから」というと間髪をいれず長編作家が「僕などはまさにその無駄な部分だけを大量に書いている(笑)」と応じた丁々発止の切り替えしだ、として、古井・大江と同じく80歳を越した蓮実が長編作家の述懐の最後に印刷上の処置として挿入されている「(笑)」という記号に触れ、いきなり「笑っている場合か!」と声を荒立てそうになる、と書く。 それを長編作家が屡々演じて見せる自己認識のユーモラスな鷹揚さと知りつつ、なお「笑い」を誘発してしまうことを知らぬわけでもないから、そこに苛立ったのではない、と書き、「笑う」ことができるのは、そう口にしつつある当の作家だけであり、誰一人それに同調することは許されない、と言い、その意味で批評家の絶叫は、ことによったら「(笑)」に同調しかねない一部の軽薄な読者に向けられていたのかもしれない、とも書く。 それに、とはいえ、とはいえ、と繰り返し、この「(笑)」という記号はとても「笑いごと」ではすまされない問題をはらんでいるといわざるをえない、と繰り返す。 つまり、老作家たちの最期のときを見据えた「見果てぬ夢」としてもう気力も体力も無くなったと自覚したときに小さな詩集などを希求することに対して、個人的には深く共感しつつも、ここでは自分をも含めた年寄りたちの全てをわかったうえで批評家の職業的確信が口走らせたものにほかならないと結論つける。 

この文を記そうと思ったのは丁度この前に古井由吉の「鐘の渡り(2014)」を読み終えつつあったころであることと、半年ほど前に漱石の「こころ」を最後20頁ほどのところまで読み進んでいたものがその後文庫本の行方が分からなくなっていたことに依っている。 


川上未映子 著 「苺ジャムから苺をひけば」を読む

2017年11月03日 16時41分06秒 | 読む

 

 

川上未映子 著 

「苺ジャムから苺をひけば」

新潮 2015年 9月号 P8-85 

 

本作は掲載号の巻頭作であり、目次には、知ってしまったお父さんの秘密。 それはわたしに関わりのある秘密。 襲いかかる過去と対峙する少女は、少年と二人だけの冒険に出る。 240枚、とあった。 川上の著作は先日「ウィステリアと三人の女たち」を読んで下のように記した。

https://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/65795757.html

発表順としては本作の方が2年ほど早いのだが自分の中での順序では川上の作を読むのがこれが二作目で少々勝手が違ったような印象を持った。 その理由はどちらも女性を主人公にしているもののその年齢が本作では12歳、小学6年生の女の子が主人公であるからだ。 ウィステリア、、の方では大人の女性たちの話であるので落ち着いて物語に入っていけたのだが本作は冒頭から小学生の少女の世界に入るのである。 そろそろ70に手が届こうかというような自分には場違いな気持ちが一杯で、せめてそれくらいの孫がいればなにかの手掛かりになるのかもしれないと思ったものの読み進んでいくうちにその気分も幾分うすれてきた、いや、物語の進行に紛れた、というほうが正確かもしれない。

そもそも自分が小学校6年生だったのは今からもう半世紀以上も前の事で本作の都会のこどもと田舎で育った自分、スマホやタブレットをもち、学校でコンピューターを使って自主研究をするような今の学校生活と村のそろばん教室や魚屋から習字をならっていた時代の違いは大きく、また自分たち村の子どもが群れて野山で遊んだことを思い起こすと今の子供たちの遊び方との違いにも隔世の感がある。 当然昔にも田舎の子どもと都会の子どもの出会いを描いた作はあったからいまさらそれをここでいうこともないのだがそれでも自分が経験した、村の年齢を2つ3つ越えた集団での遊び、学校では只クラスや学年だけの「閉ざされた」集団の両方とも経験したことを踏まえてその今のこどものコミュニティーの層の薄さに想いが行くのだがそれは兄弟姉妹を含むと幾分かその補償がされるかもしれない。 本作ではその未だ見ぬ姉への「興味」がこの物語の大きな推進力となる。 

元気で聡明な主人公の言動に接し、何か山田詠美の90年代初旬に書かれた学園ものに対照されるかとも考えたのだが向うは中高生の世界を対象にしており小学生の世界というところが自分にはたとえ昔経験した世界であっても今とは比較も出来ず微妙な世界であると感じる。 それは本作でも現れる男女の性がまだ明らかではなく友達の麦君がこの何か月かで5cmも伸びて主人公のヘガティーと同じほどになりそのうち麦君が主人公を追い越していく過程にある時期でもある。 そして男女の情緒のバランスのその感じは自分にもよくわかる。 クラスの背の高いおてんばの女子たちがそれから1年経ち中学にはいったとたん急によそよそしくなり周りに異次元の膜を纏わりつかせだしたのを覚えているからだ。 それは自分に起こっている変化に気が付かず彼らの反応がそうだったからかもしれない。 麦君が元気のいい女子グループのリーダーからそのうちの一人が麦君に好意をもっているから付き合えと強要されるエピソードがある。 その女子リーダーの押しの理屈と弱気で煮え切らない麦君、それに憤る主人公ヘガティーがよくできていると思った。 ありそうな話で生き生きと描かれている。 たぶん駅前の書店に行けば売り場面積のかなりの部分を占めている学園物やコミックにはこの手の描写が普通のこととして描かれていると想像するのだがそういうものにはアダルト映像に対するのと同じように興味はあっても敬して近づかない自分には分からない。

はっきりした自我をもつ女性と自己決定のプロセスを示すのが川上の作品だろうと二作だけを読んだだけで思ってみる。 そうだとすると最後のいい子ぶりはどうだろうか。 少々の予定調和ぶりには肩の力が抜けるような感じを持った。 すべては周りが設定した出来レースだったと気づいた時に泣きながら走り続けそのうち駅で待っていてくれた麦君と和解し肩を組んで夕陽が沈むのを見ていた(P79)で完結してしていると思った。 ただ、蛇足ではあるが今は亡き母へ書く手紙には感動する。 それは意識して綴る12歳の文体がそれまでの主人公のナラティブに添うからでもあって、これも当初12歳がどのような語り方をするのか、もし歳に似合わぬ賢そうな言動をみせれば揚げ足を取ろうと注意していたものが細かく切れる自然な言葉に主人公をそのまま受け入れていたことで小学生がそこにいると思ったのだった。 多分想像するに川上には本作の12歳の少女というところが要点だったのだろう。 表題の苺ジャムから苺をひけば、というのがよく分からない。 母親が生前手作りし、それを父親が引き継いでこまめにつくる苺ジャムだが苺ジャムの苺は母のことだろう。 だからそこから母をひけばそれは何も残らないのであり、だから父の秘密を知ったときから主人公は父のつくる苺ジャム、つまり母の入っていないジャムを拒否するのだが、ことが収まった時にはそんな苺ジャムでも主人公は普通に受け入れて父と朝食のテーブルにつくのだ。 

もしこれが中学生だったらと想って見る。 そうならこうは収まらないような気がする。 川上ならその中学生バリエーション版をどのように料理するのだろうか。 もう一荒れも二荒れもありそうな気がして世間に擦れた老人にはそれが気になる。 それともそういう作品は他の女性作家が既に物している、彼女たちにまかせておけばいい、というのだろうか。