暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

蔦の絡まるチャペルで、、、、

2008年09月29日 05時17分47秒 | 見る
2008年 9月 28日 (日)

秋の日和が嬉しい日曜日、気持ちのいい週末をすごした。

町の美術協会が主催する催しに家人が他の144人と共に参加し金曜の夜にその開幕パーティーに出かけ旧知の人たちと歓談し、いよいよ秋に入り新しい活動の季節が訪れたことを実感した。 家人はこの3,4年ほど町の中心にあるモダンな美容院に自分の作品をこの週末に展示して多くの訪問者を得、満足のようだった。

その場所は先週私がこの町の例年の行事である10月3日に町の市民への贈り物として生鰊とパンをもらうために並んだ旧公式計量所から石を投げると届くほどの距離のところにある。 主人である美容師は一週間ほどイタリアの修道院に瞑想にでかけており火曜日には戻って開店することから家人の作品や展示のためにちょっとした美術ギャラリーにも見えなくもない現代美術のインテリアがあちこちにみられる店内を直ぐに美容院として営業できるように戻すため夕方の催し物の終了後あとかたずけを手伝ったのだった。

子供達もそれぞれ出かけて戻ることもなくうちは夫婦二人であるから催し物の終了の打ち上げパーティーに出かけ子供たちの食事のことにも煩わされることもなく気楽な夕べとなるからとりあえず荷物を自宅にもちかえるべく二人で自転車を漕いで町外れに在る自宅に向けてのんびり夕空の下をうちの近くの交差点のあたりに近づくと午後6時半の夕日に映えて燃えるような光景に息を奪われた。 普通に日頃行き来するところではあるのだが別段注意を引くようなものはなかったのだが今の時期、紅葉が始まっていることをこの燃えるような赤い蔦の葉がべったり建物の壁に絨毯となり張り付いている光景に接してそれを思い知らされたのだ。 

これはモミジではないので「秋の夕日に照る山、モミジ、、、」といような唱歌ではなく、「蔦の絡まるチャペルで祈りを捧げた日、、、」と学生時代として流行った歌の歌詞が思わず浮かんで来る。 宗教には全く染まっておらず重い鞄を抱えて図書館に通うような学生時代も送ったわけではないので自分では歌うことはないけれど昔聞きなれた歌の「蔦」という言葉にに絡んで連想したのだろう。 けれどその歌詞の蔦はこのように燃えるような赤だったかどうかは知る由もない。

暫く見とれて写真を撮っているとこちらを窺う家人の自転車に気付き彼女を追って家に向かったのだった。

戦争の影; オランダ、インドネシア、日本の狭間で

2008年09月28日 10時42分47秒 | 日常
2008年 9月 27日 (土)

もう10年ほどボランティアで翻訳や通訳をしたり求められると何か日本の事を説明したりしている。 それで今日はそういった会合があり出かけてきた。 100kmほど離れた町から帰宅する途中で日が沈む美しい景色に誘われて舅姑女の処に寄ったら年寄りも含めた集合住宅の中庭で80を越した多くの人たちがバーベキューの宵を楽しんでおりその中で病弱の姑女が元気なことを喜びまた突然の訪問に年寄り達に日本人の息子だといつものように紹介されてもおりイタリア人の息子もいると誇らしげにいわれるのに少々面映い思いもした。 この人たちの所に行くたびに彼らの様々な思い出を聞くこととなり時代が今から50年60年と一気に戻るような気分になるものだ。

オランダには「JINの会」という協会があって会員は50-60人ぐらいはいるだろうか。 JINというのは漢字の人(ひと)、何人のジンでもある。

Japans-Indische Nakomelingen (日本人、インドネシア人の子孫)の略で、第二次大戦中(後)に生まれインドネシア系オランダ人を母に、日本人を父に持つ子孫を略してJINの会である。 つまり彼らは1942年から1948年の間に旧オランダ領インドネシアで生まれた人たち、もしくはその子供達だ。

この会は1991年、つまりつい最近設立された協会だ。 それは戦後63年経った現在、17年前というのは戦後史的には最近ということだ。 現在かれらは60-66歳で、すでに人生の秋を迎え自分のアイデンティティーをしっかり見据える時期でもある。 つまり、自分は何処から来てどう生きてこれからどうなるのか、自分は何なのか、ということを落ち着いて確認する時期にあるということだ。

Identityというのは厄介だ。 自分が自分である、ということの確かさはどこにあるのか。 この年になると充分世間を渡り、家庭をなしそろそろ孫もできる頃だ。 戦中(後)そして自分の青春期、壮年期を思い起こし自分の人生に影を落としてきた茫漠として見えない父親のことを知り自分が何者かということを捜そうとするのはもっともなことだ。 自分の親、先祖のことについて知りたいというのは古今東西おおむね一般の傾向でもあるが彼らがそれを行おうとするには幾つもの障害が伴う。 

今、日本の若者のなかで嘗て日本がアメリカ、ひいては連合国と戦争をしたということを理解しない若者が増えていると聞く。 そしてそういう質問があるとどっちが勝ったの?とは逆に訊くような阿呆もいるそうだ。 それが戦後、金儲けだけにまい進してきて過去の歴史を都合よく捨て去ってきた国の現在だ。 それで今その国は富んでいるといえるのか。 

会員である彼らのことを考えてみよう。 生まれたとき敵国の兵士が自分の父親で、母親はインドネシア系オランダ国籍だから戦後旧植民地から旧宗主国であるオランダに引揚者としてくれば、オランダ、インドネシア両文化に対して正面から溶け込む難しさに加えて旧敵国日本の父親をもつことでオランダ、インドネシア系両方のコミュニティーから自分の生い立ちについて有象無象の自分には故のない罪悪感、圧力を感じてほとんどの会員は生涯をこのことが重く自分のアイデンティティを考える上でなかなか抜けない棘となっている。 その経過を経て今は社会に根付き落ち着いたものの今、中年以降となり自分の父親を捜し、自分の血の中に流れている日本を確認したいということになるのは当然のなりゆきだろう。今までオランダ人でもない、インドネシア人でもない、また両国の血を引く人たちのグループとも異なった者である、と自覚してきた人生なのだから一層社会の中の少数派として同類を求める方向に進むことにもなる。 そして、そのような「運命」をともにする人々が自分たちで立ち上げたグループがオランダのメディアで紹介されてから集まったのがこのグループだ。

オランダには政府機関、学術研究機関の概算でこういう人が1000人前後いるだろうといわれているが確かな数字はでていない。 この子供達は自分の父親に興味がないか、それとも親から彼らは敵国の父親ではなくインドネシア系の父親だといわれているのか、はたまたそれが分っていても旧敵国の兵士を父に持つことを恥としてそれを隠そうとするのか、こういう会の存在を知らなく個人的は行動をとれないということもあるのか、この会が確認している名簿では概算の一割程度で会員は更にその半分程度でしかない。 そして、この17年の活動で30人ほどが父親もしくはその家族、日本の兄弟姉妹と接触をとることに成功している。 会員は父親をある程度確認できる糸口をもっていたものが多いけれど、中にはそれが殆どない者もいて希望はほぼゼロに近いにもかかわらず父親の祖国の文化、歴史を会員と共有したいと会合に参加する人々がいる。 殆どが父親から与えられた日本名をもっていることも父親と母親の関係が普通以上に深かったことを示すものと考えられる。 誰が自分の望まない子供に自分の祖国の名前をつけるだろうか。

明治以前の日蘭関係は教科書に載りオランダは日本人には親しいものとなっているが第二次大戦以後のアジアにおける戦争の歴史は暗部としてその取り扱いについては未だ明確なものとはなっていない。 それにそこでの日蘭関係以上にアジアの地政学上重要な日中関係の圧力の影が覆っていて小国オランダとの過去を清算する努力はおざなりにされてきたきらいはあるものの現在、徐々に彼らの努力が日本政府、外務省、厚生労働省を動かしつつあるようだ。 この10年以上複数の会員が、旧蘭領インドネシアにおける日本軍収容所ですごした旧軍人、軍属、その遺族の会の会員とともに日本各地を毎年訪れて対話の機会を持ち戦争がもたらした後遺症を様々なかたちで治癒するべく努力を続けている。2000年には日蘭修好400年を記念して訪蘭なさった天皇皇后両陛下とも直接面会する機会も得ていて両陛下の彼らにたいする理解と対応には皆、過去の苦労に報いるありがたいものとして喜び、将来に向けて建設的な一歩になると評価している。

けれど歴史の中でこのような運命を背負って生きている人たちに何らかの心の安らぎを与えるべき、自分のアイデンティティーを捜す旅の何がしかの助けができるのは少なくとも50年代に生まれ戦後、いつも戦争の影が纏わりついていた年代の者にとっては自分のアイデンティティーを確かにするプロセスでもある。 還暦に近づく自分にとっては彼らは自分の兄や姉であってもおかしくないのだ。

この集会に出かけるたびに奇妙な感じにとらわれる。 それはオランダ人でありインドネシア文化の中にも根を持ち彼らとオランダ語で対応する彼らが私の故郷の村人、親戚の伯父さん、伯母に相当するような懐かしい感じに捉われる事だ。 そして日本名を持ち、、、、、、。 

彼らが還暦を越しているという事実は彼らの父親はもう殆ど鬼籍に入っているということを示している。 これからは彼らの次世代と日本の家族との交流がここでの活動の主流となるのだがまだ多くの会員は父親の影を追って自分探しの旅を続けることになる。

我々の年代はともかく今の若い人たちはこのような歴史の事実をどのようにうけとめるのだろうか。


オランダにある「太平洋戦争とその後をめぐる日蘭対話の集い」のホームページ
http://www.djdialogue.org/index.htm

United 93 ; 観た映画、 Okt.08

2008年09月22日 01時09分51秒 | 日常
ユナイテッド93  (2006)
UNITED 93
111分

監督: ポール・グリーングラス
脚本: ポール・グリーングラス
撮影: バリー・アクロイド
編集: クレア・ダグラス
リチャード・ピアソン
クリストファー・ラウズ
音楽: ジョン・パウエル

出演: ハリド・アブダラ ジアド・ジャラ
ポリー・アダムス デボラ・ウェルシュ
オパル・アラディン シーシー・ライルズ
ルイス・アルサマリ サイード・アルガムディ
デヴィッド・アラン・ブッシェ トッド・ビーマー
リチャード・ベキンス ウィリアム・ジョゼフ・キャッシュマン
スターラ・ベンフォード ワンダ・アニタ・グリーン
オマー・バーデゥニ アフメド・アルハズナウィ
スーザン・ブロンマート ジェーン・フォルガー
レイ・チャールソン ジョゼフ・デルカ
クリスチャン・クレメンソン トーマス・E・バーネットJR.
ライザ・コロン・ザヤス ウォレスカ・マルティネス
ゲイリー・コモック リロイ・ホーマー
ローナ・ダラス リンダ・グロンランド
デニー・ディロン コリーン・フレイザー
トリエスト・デュン ディオラ・フランシス・ボドリー
トリッシュ・ゲイツ サンドラ・ブラッドショー
ケイト・ジェニングス・グラント ローレン・カツゥーチ・グランドコラス
ジェイミー・ハーディング アフメド・アルナミ
ピーター・ハーマン ジェレミー・グリック
タラ・ヒューゴ クリスティン・ホワイト・グールド
マルセリーヌ・ヒューゴ ジョジーン・ローズ・コリガン
シェエン・ジャクソン マーク・ビンガム
ジョー・ジャムログ ジョン・タリナーニ
コーリイ・ジョンソン ルイス・J・ナックII世
J・J・ジョンソン ジェイソン・M・ダール
マサト・カモ 久下季哉
ベッキー・ロンドン ジーン・ピーターソン
ピーター・マリンカー アンドリュー・ガルシア
ジョディー・リン・マクリントック マリオン・R・プリトン
ナンシー・マクダニル ロレイン・G・ベイ
リビー・モリス ヒルダ・マーシン
トム・オルーク ドナルド・ピーターソン
サイモン・ポーランド アラン・アンソニー・ビーヴァン
デヴィッド・ラッシュ ドナルド・フリーマン・グリーン
エリック・レッドマン クリスチャン・アダムス
マイケル・J・レイノルズ パトリック・ジョゼフ・ドリスコル
ジョン・ロスマン エドワード・P・フェルト
ダニエル・サウリ リチャード・ガダーニョ
レベッカ・スカル パトリシア・カッシング
クロー・シレーン オーナー・エリザベス・ワイニオ
ベン・スライニー ベン・スライニー
オリヴィア・サールビー ニコール・キャロル・ミラー
チップ・ジエン マーク・ローゼンバーグ
レイ・ジンマーマン クリスティン・シュナイダー
パトリック・セント・エスプリト

2001年9月11日、アメリカ国内の空港を飛び立った旅客機4機が、ほぼ同時にハイジャックされる。うち2機はワールド・トレード・センターに、もう1機は国防総省ペンタゴンに激突炎上した。しかし残る1機、乗客40人を乗せたユナイテッド航空93便は、なぜかターゲットに到達することなく、ペンシルヴェニア州に墜落した。本作はこのユナイテッド航空93便に焦点を当て、家族との電話で自らの運命を悟った乗客たちが乗る機内での様子や、テロの事実に混乱しながらも被害を最小限に食い止めようと必死で事態の掌握に務める地上の航空関係者たちの緊迫のやり取りを極限の臨場感で描き出す衝撃のノンフィクション・サスペンス。監督は「ブラディ・サンデー」「ボーン・スプレマシー」のポール・グリーングラス。監督をはじめ製作スタッフは、遺された家族の人々や管制センターはじめ関係機関への入念な取材を行い、今となっては決して誰も知ることのできない機内の様子を含め、当時の状況を可能な限りリアルに再現、ありのままを徹底したドキュメンタリー・タッチの手法で撮り上げた。なお、本作に登場する管制官や軍関係者の一部は、9月11日に実際に現場で勤務していた本人が自ら演じているという。

以上が映画データベースの記述なのだがここでの配役のクレジットの長さとその中には日頃見慣れるスターたちが見られないことともあわせて興味深いのだが、乗客の中に一瞬見られたアジア人らしき人物がこのクレジットを見て初めて日本人であったことが分ってもそれが別段どうだということでもない。 もうこの事件から7年経って未ださまざまな憶測が飛び交う中、当時メディアで入ってきた情報をここでほぼ事実に即した映画のドキュメント仕立てにして作るのではスターを配置すれば意図せずともアメリカ映画の性格上、ヒーロー、もしくはアンチヒーローものになってしまいがちになることからあえてこのような配役になったのだろうと忖度する。 普通の人の日常がたまたま行き会った惨劇なのだ。

人は周りのことを知りたいと思うしそう努めるのだがいくら現場の最先端にいたとしても全てがわかるわけでもないし、とくに不測の事態の真っ只中ではそれぞれが必死で事態を乗り越えることになり、お話ではなくそれがほぼそうであっただろうというような、それ以後世界をも変える行為の再現であるから世界規模での善悪のバイアスのかかりようが製作者の一番神経を使うところなのだろうが意味は後からついてくるのだし私がこの間みた、ニューヨークでツインタワー管轄の消防署のその日のドキュメント、9・11(2002)とあわせて淡々とその事態を映像にしようと試みる甚だ良質のドキュメントとなっている。

それはその後これを契機として大きく動く世界政治やテロ、宗教原理主義論争を排した生のものであることに意味があるのだろう。 ツインタワー内部での経験はともかく、時には我々が日常利用する航空機内部での不測の事態に乗り合わせたときに遭遇する映画は人事でもなく無理やりに自分の生死をも考えさせられてしまう。搭乗員、乗客のそれぞれの会話がまさに取り留めのない日常のものであることも我々をその開いた座席に座っているような気分にさせる。 何万分、いや百万分の一かもしれない確率のとくにハイジャック譚は一度見始めると最後まで見ないと納まらない気持ちにさせる。

けれど、娯楽映画に比べると結末がどうなるかという摑みはここでは既知の事実としてあるから娯楽映画「タイタニック」から砂糖細工を除いたものを見るように、瑣末の技術、時間の経過にしたがって様々なところで関わる人物、組織の動きを後付で見るところに重点がいくようでもあり、本作では時間の経過にそっての航空管制塔内部の瑣末な数字、部署の動き、軍の関与等の台詞などがここでは事実に則って発せられているものと解釈できその臨場感が重みをつける。 

自分がその場にいたとしてどう対応するか、機内で、管制塔で、軍司令部などの場で、、、、ということなのだが、7年経ってあらかた様子が分るものの管制塔内の混乱と事態の不確かな情報が錯綜する中、徐々に事態がおぼろげになってきても攻撃の規模が摑めない瞬間には、遠くの地では戦争をしているものの近代戦を自国内では経験していない中で突然湧いたその戦争の恐怖というものが混乱の中で押し寄せてきても不思議ではない。

自国でも多くの将兵の犠牲をだしているものの、中東の当該国でそれに100倍を上回るの犠牲者を直接、間接的に出させてその国に「進行(侵攻)」しているアメリカ内の戦争の図でもある。 「なぜ」ということが消防士、ユナイテッド93便のドキュメント・映画を観ていて炙り出されるのはここでの収穫だろう。 それは単純、安直なテロ反対談義を超えた地平まで我々の思いを届ける契機となるからでもあるし殺す方も殺される方もなまなかでないことを確認するすることが世界を席巻するパックスアメリカーナ対イスラム原理主義の二項対立のジレンマに風穴を開ける契機となるのかもしれない。

この最後の方からみ始めた家人が、もう飛行機には乗りたくなるわね、という感想にしても一時的なものでそのうち何事もなかったように機内食と映画を楽しみにいそいそと休暇先のことを想いながら乗るのはみえている。

しかしこの映画の重さは、あまりにも軽くあまりの馬鹿馬鹿しさゆえに私の好きなドタバタ、スラップスティック、 パロディー映画のうち、「ケンタッキー・フライド・ムービー」で注目を集めた監督トリオ、ZAZの「フライングハイ (1980)、FLYING HIGH AIRPLANE!」でも中和できないようだ。 1980年代のハリウッドパニック映画と20年経ちフィクションのような出来事が起こったその事実の重みの前には我々は立ち尽くしこのスラップスティック映画に腹立たしさと膝が抜けるような空虚感さえ起こさせる本作である。

寿司酢をまぜる

2008年09月22日 01時08分17秒 | 見る
この間寿司を巻くのに合わせ酢を作っていたら何か計量カップの表面に模様が出てきていたので面白く思った。

普通は規則的に適当に混ぜているのだが大抵次にすることにかまけて眺めることなどしないが時間があったのだろう。 なんとなく渦巻きがゆるく流れているのを見てそのあといくらか経って戻ってみれば薄く合わせ酢の表面に渦巻きをひっぱって周りから徐々に星型になるような模様が出来ていた。

フラクタル模様というのかコンピューターの進歩でもう何年も前にそういう模様が作り出されるようになりそれが自然界でも巻貝とかブロッコリや花野菜の巻き方にそういうものを見ることもあるから自然に在る物理とか数学の摂理がこういう動植物に体現されているのを面白く思ったことが再々あるからこの日の合わせ酢の模様もそのようなものだったのかと少々違うような気もしつつ納得する。

5人分ほどの酢メシをこれで作り、そのあと少々余った合わせ酢に新しく酢を足してそれに2尾の開いた生鰊を一晩漬け込んであくる日に締め鯖ならぬ「締め鰊」にして山葵醤油で喰った。


久しぶりにフリントロック・ライフルを撃ったのだが、、

2008年09月22日 01時03分23秒 | バンバン

昼前に起きだして慌てて車を走らせ20年前に射撃を始めてそこの会員だったクラブで今日は50m長銃の地区通常競技会だった。 そこは今は縮小したオランダ陸軍の一部分、今は戦犯として収監されているミロソヴィッチ元大統領まで数百メートルしか離れていない処で、昼の麗らかな日和でクラブの前庭には簡単なテントも張ってありそこで寝覚めのコーヒーを飲みながら30分ほど自分の番が来るのを待ってあり、そこで今日私が打つ火打ち石発火方式、フリントロックの石の話をしていた。 

ヨーロッパの歴史の中で、その歴史は地方、大国、小国が入り乱れての戦争、抗争の歴史であり、そこでの武器の歴史が技術の発展に大きく寄与していることは現在でも同じことなのだが、その火打ち石でどこのものがいいか、ということになるとイギリスの変成岩が当時から今でも品質の最高位にランクされており、わたしの使うものも銃砲店で訊ねると英国産だときかされていることから16世紀ごろまでの武器ではかかせないものであり、特にイギリス、フランスの歴史は今でも犬猿といわれることもあるほどで昔からヨーロッパの王室の姻戚関係はヨーロッパ中に網羅されているものの婚姻関係はどうでも国益となるとそれは戦争の歴史でもあり、それは日本の戦国時代やその前後の歴史を対照させてみたら人のすることには古今東西そうそう変わりがないようであるのだがヨーロッパでは文化、言葉の違いが大きくその溝は今でもなかなか埋まりにくい。

オランダ建国の王、今のオラニエ(オレンジ)家の宗主、ウイリアム沈黙王にしてもオランダ語は分らずフランス語を話していたという事情もありここはそういう国柄である。 私の町の10月3日の解放記念日には欠かせない歴史上の人物であり、国家には、王家の血にはドイツの血が、、、というような文言が国歌に入っており、また、今の女王の先年亡くなった連れ合いがドイツの元外交官、父親がドイツの貴族であり、曾祖母であるエマ女王がドイツから輿入れしたようなことでもその錯綜振りがわかる。

そこで、火打ち石、なのだが、その当時、といっても1600年前後になるのだろうが、オランダの商人は何でも金になるものは扱い、歴史上恥ずべき奴隷貿易でも巨万の富を築いているぐらいだから武器を右から左、と動かすことには何の抵抗もなく、ただ、それが損になるとなれば動くはずはないのだが、オランダの宿敵英国の不利益になるためにはその火打ち石を英国からフランスに随分輸出した、と言う話を日和の中で爺さん連中が笑いながら話していたことだ。

私は今日は本来ならば1873年型ウインチェスター・ライフル、44口径も撃つはずだったのだが弾丸がなくなってもこのところの怠惰癖でそれももう半年以上作っていないので今回はパスした。 それでもあと2週間ぐらいの間にこれからの週に備えて今年の分200発ぐらいは作らねばならないと考えているのだが、このフリントロック式で丸い鉛玉を撃つなら材料を揃えておけば射場でそのまま込めればいいわけでその簡便さの対比から玉造りのモノグサ癖についついシンニョウ偏がつく。

いづれにせよこういう武器にちゃんとした弾丸がなければ、1mmでも違えば武器は武器でない。 ただの重しか金鎚にしかならない。

50mの射場は屋外で紙の的は麗かな陽射しを受けて時折雲がかかれば色も薄らぎ誠に気持ちのいい射場だ。 初めの数発は9点、8点と続きのんびりと時間をかけてそれが得点に反映するものと思ったもののあとは右肩下がりでどうもいけなかった。 30分の制限時間が28分使って規定の13発、ウインチェスターであれば10分弱で、急げば3分ぐらいで撃てるものを先込め式は手間がかかる。 80点を越えていると思ったのだが75点とまりだったとは少々めげる。  

古式銃世界大会オーストラリア、アデレード

2008年09月20日 09時05分30秒 | バンバン
オランダライフル協会月報(出版部数 38250)の9月号の表紙は第23回世界大会でメダルを取った選手たちがそれぞれの試合の様子を頭の上の小さな写真に立ったり据わったりそれぞれ長銃、短銃の部で16カ国からオーストラリア、アデレードに集まって競った結果がメダル7個だというふうに出ている。

それで中をみてみると個人の部で34種目、チームの部で21種目、なのだが個人、チーム、団体の部門でドイツが圧倒的に強いことに驚かされる。 びっくるすることにアメリカはほぼ中ほどで小国オランダとあまりかわらない。 日本は残念ながら胴一つでブービー賞というところなのだが先日この大会に参加した日本代表の方からその様子を少しブログの書き込みで伺い日本の事情が少し分ったような気がした。

古式銃の競技会であるから1880年以前のレプリカ、オリジナルの長銃、短銃で競うわけで日本の種子島銃の部門も、タネガシマ、ヒザダイ、タンヅツ と言う風にあるのだからそこでの日本の優位を想ったのだが実際はそうでもないらしいようだ。

うちのクラブからはケースとマライカの夫婦が二人とも長銃の部門に参加して今回は嫁さんのほうがオランダ唯一の金をとりケースは銀で嫁さんに頭があがらない、と言っていた。

所帯が小さい古式銃部門はオランダ全国大会を私が属するクラブでやるのでこれら選手は日頃接する人たちでありそれぞれもう20年以上射撃に励んでいる連中だ。 それぞれヨーロッパ選手権でもいままでいくつもメダルを取っている。右端の男は短銃でいくつもの部門でオランダチャンピオンでもあるのだがとりわけオランダでただ一人タンヅツの所有者だ。 このあいだ彼の持ち物を写真にとって紹介した。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/54411646.html

我がクラブの会報には役員選手総勢8人の写真もあり当地や送迎の様子も楽しく見せている。 クラブの新人で昨年短銃の部でオランダ全国チャンピオンになった若者が期待を集めていたのだがこういうことは初めてで場の雰囲気に呑まれたのか成績が振るわず残念なことだったのだが若いことでもあるし他のベテランからまだまだこれから経験をつめばいいと慰められていた。 自分のクラブで全国大会をする雰囲気と外国のそれも地球の反対側でするのとは本人は達磨のような格好をしていても結構気の小さいところのある若者にはメンタルトレーニングがいるかな、とはケースの言だった。 

夫婦とも経営する会社が忙しくなりそろそろ引退することも考えているようだが毎日2時間ほどトレーニングする負担はかなりなものだ。 道楽とはいえ生半可なことではない。

明後日の日曜日には地区大会があり私も50m長銃の2部門で撃つことになっているのだがウインチェスターライフルの弾がない。 ぼさぼさとしていてこの何ヶ月も撃っておらず新しい弾を薬莢に詰めることすらしていないのだから話にならない。 火打ち石で発火させるフリントロックの50mの方は丸い鉛を黒色火薬のあとで筒につめればいいのだから薬莢もいらず楽でこれだけは参加できるようだ。

今日のテレビのニュースでパラリンピックで金メダルを取って戻ってきた選手団が女王から労いの言葉をうけていたのだがどういうわけか古式銃の世界大会でいい成績をあげたこれらの選手達には政府や女王からはなんの音沙汰もないらしい。 不公平なことだ。

麗かな秋日和

2008年09月20日 01時48分01秒 | 日常
昼過ぎからプールに泳ぎに行ったのだがさすがに金曜の午後は夏休み中のガキどもも今は学校でその時の喧騒はなく静かに空いていて、25mのプールには若いカップルと中年婦人が3人ほどしかおらず、一つだけコースを区切ってあるところは無人で、これをしめしめとそこでゆっくり500m泳ぎそのあと10分ほどサウナに入るということを3回繰り返した。

大人が立って膝ほどの深さの子供用プールと川の流れのようになったプールもあり爺さん婆さん達も子供に混じってぷかぷか浮かんでおりのどかなものだ。 偽の椰子の木の下、ジャクジーにはでっぷり肥った爺さんと30代と見える男がのんびりと駄弁っているといった風景もある。 監視員達ものんびりとして夏休みにはガキどもに目を光らせることも幼児とその親の様子を観察することもなく流れる音楽に身を任せて退屈を持て余している風でも在る。 彼らが暇な分我々の泳ぎ方に目をやってこうしたらいいよ、というようなアドバイスも時々もらえるほどだ。

サウナでピンクのビキニをつけた20代中ごろと見られるブロンド美人に行き合わせた。 今の時間にのんびりとしていられるのは主婦か定年老人達ぐらいなものだがさまざまな職場で労働時間のシフトが融通の利くオランダであるけれど今の時期に市営の室内プールにくる10代後半から40代の人は少ない。 爺さん婆さんたちのサウナであれば四方山話に花が咲くのだが若い女性と二人きりの場合にはなかなかそうは行かず結局10分ほどいて彼女は出た。 湯気のなかではっきりとは見えず、その上老眼ときているから夜目遠目傘のうち、といわれるようなものだろうか、そのプロポーションのよさに見とれていて少し若返ったような気がした。

サウナのあと冷水を浴びてまた25mプールに入るのだがよく頭を冷やしておかないと水中眼鏡、いまはゴーグルというのか、そういうものが内側から曇るので念入りに浴びたのだがまだ冷たくはない。 同じ事を真冬の1月2月にするとうだるようなサウナの後でもさすがにぶるぶると震えるのだがプールに入ったときに水が少し温かく感じるようにするにはこれがいい。


大抵三種競技の40前半の男性とか昔水泳をやっていたような30代の女性なども時々きて同じコースで泳ぐのだが今日は静かだ。 先ほどのピンクの女性は見えないから向こうの日光浴のライトの下で寝そべっているのかもしれない。 毎週見る70以上の鶴のような爺さんとでっぷりした婆さんが3回目にサウナに一人座っていると入ってきていつもの四方山話をぼそぼそとする。

2時ごろプールをでるとうらうらとした日和だ。 2,3日前の透き通った青空の午後は自分が育った大阪南部の11月中ごろの気候だったのが今日は10月の中ごろというところか。 自分の村で小さいときからダンジリを引き回していた頃の気候だ。 高校の友達の町の岸和田のダンジリの時期は先週あたりだったか、まだそのころは引き回しても汗ばむのだが10月中ごろの自分の村の爽やかであちこちで振舞われる冷酒の温かみで一層の力が入ったものだ。40年ほど前に比べて岸和田にしても自分の村にしても人が増え華やかになったものだと思う。

プールから家に戻って昨日の残り物のザワークラウトをビールで朝昼兼用にして腹に入れ、買い物に自転車で町に出た。 濠にそって並ぶ木もそろそろ紅葉しかけて黄ばんだ落ち葉が緑の芝生に沢山落ちていたから午後7時半の麗かな陽射しの中でもそこだけは秋が進んでいるのを感じる。

この週末にかけて何日か日中14度、夜間8度ほどの晴れた日が続くと天気予報は言っている。






生鰊8尾、丸パン2個

2008年09月19日 10時42分14秒 | 日常
夕食後、毎年巡ってくる10月3日の、この町が1574年にスペインの圧政から開放された記念に今も残る伝統的祭りの朝に配られるパンと生鰊(我が家では四人家族だから生鰊8尾、こどもの頭ほどのパン2個)をもらうためのチケットを家族証明のIDをポケットに自転車で10分ほど漕いで歴史的建造物の旧公式計量所に向かった。

ウィキぺディアには町のこの行事の由来にはこう書かれている。

1572年、この町はスペイン支配に対する反乱でオランダ人反乱派につき、八十年戦争で重要な役割を担った。スペイン軍に1574年5月から10月まで包囲され、堤防を人為的に決壊させた結果解放された。水浸しになった住民へ物資を船で運搬するのを容易にしたのである。前の年に示した英雄的な防衛行動を讃え、オラニエ公ヴィレム1世は1575年に大学設立を許可しこれがオランダで最初めの大学となった。 そして包囲戦最後の日であった10月3日は、今も毎年祝われている。

建物の前には夕方4時から9時までに一日で15000人分町が市民にプレゼントする伝統的な食べ物をもらうために一家族4人として4000人弱がここを訪れるのだろうがまだ明るい今の7時半には400年程前には大きなクレーンがここにあったあたりを長蛇の列が出来ていた。 もう何年も5時に仕事が終わって職場からの帰りにここに来ていたときには難なく入って5分ほどで終わったものがこの時間帯にはジャズバンドが30mほど並んだ人の列の間を縫って景気のいい音楽を奏でており祭りの景気付けはもう始まっていている。 列の最後尾についてゆるゆると建物の中に入るとまた一年が巡ってきたと感じられた。 その様子は去年書いた通りだ。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/40333608.html

そして今年の10月3日はこれからもらうチケットで生臭くもあるプレゼントを自分でもらいに来ることは出来ない。 家人と3日間この国の南部、マーストリヒトの北を歩くことになっているからだ。 朝7時からのお祭り騒ぎを味わうことも出来ずこの計量所のなかに充満する新鮮なパンとの3万尾の生鰊の匂いは来年までお預けとなる。 ことしはここから歩いて来れるところに下宿し始めた息子に鍋とビニール袋をもって取りにこさせよう。飼い猫の分ももらえればいいのだが、、、、。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/50488041.html

残り物のとりあわせ

2008年09月15日 09時50分25秒 | 喰う
昨日はマーケットで中ぐらいの鯖を二尾買って醤油、砂糖、酒(シェリー)生姜で煮た。 久しぶりに子供のときから親しんだ味で、それに茸、と茄子を別々にソテーにしたものミックスサラダと白米で食事にしたのだが動物性の脂に慣れているのか腹の具合が軽く少々頼りない気もしたのだが、これがこれからの食生活によい事は確かで徐々にこういう食事に移行すべきだとも思う。 菜食とは言わずとも肉食から少しずつシフトを移動することが無駄な肥満を軽減することになるのだろう。 デザートは果肉が薄い黄色のフロリダ産「白」グレープフルーツにした。

日曜日の今日は子供達もおらず昨日と同様夫婦二人だけの夕食だったのだが午後には私はジャズのコンサート、家人はクラブで20kmほど田舎を歩くなど別々に不在だったものだから家人がありあわせの残り物で簡単に間に合わせた。

もともとは北アフリカのタジンの残りを冷凍してあったものに同じく残り物の煮込んであったカレーを冷凍してあったものを加え更にサツマイモ、アプリコットの干物、パプリカにパースニップ(16世紀に南アメリカからジャガイモが渡来するまでにジャガイモ同様に使われていた白い人参、カブのような植物)をこの日はジャガイモの代わりに加え煮込んだから残り物の組み合わせとなったようだ。 カレーにしてもタジンにしても同様の香料を使うから香りは違うけれど全くの違和感はなくアジア、アフリカのあたり中近東でもあるようなものができてそれにイタリアのパンは悪くない組み合わせだった。

サラダはちしゃ菜に小さなトマト、アボガド、今、庭に沢山実ったラズベリー(オランダ名フランボーズ、ラテン名Rubus idaeus)を盛ったものだがトマトとラズベリーの酸味でドレッシングは要らなかった。

白ワインが欲しかったのだが無くなっていたのでフランス南西部ルシヨン(フランス語があやしいので今までRoussillonをルザロンと呼んでいた)の安い赤を開けたのだがタジン=カレーの混ぜ物の羊肉に合った。



ウィキぺディア; パースニップの項
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%97

ラズベリーの項
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%BA%E3%83%99%E3%83%AA%E3%83%BC

Esmee Olthuis 1

2008年09月13日 11時29分32秒 | ジャズ
Esmee Olthuis  の 3夜

Fri. 12 at De Burcht in Leiden, The Netherlands

その1)  The Mystery of Guest

Esmee Olthuis (sax) Albert van Veenendaal ;  Plus 2

Esmee Olthuis (as, ss)
Albert van Veenendaal (p)
Corrie van Binsbergen (g)
Alan Purves (perc)

1st Set
1)
2) Next Day (CvB)
3) De Heks
4) Dance aan de zee
5) Esmita
6) Evil Rabit

2nd Set
7) Biology of Coffypot
8) Crowd
9) Sample or Simple
10) 34A
11) Mathilda
12)


地元のジャズ同好会が例年オランダで活躍するジャズメンを招待して三日連続でその演奏家の多用な貌をコンサートで紹介する企画であり、今年は41歳になる女性サックス奏者であり様々なプロジェクトを組織し自作他作を精力的に演奏するエスメー・オルトハウス(Esmee Olthuis)が第一夜に、ピアノで同じく作曲家のアルバート・ヴァン フェーネンダールと組んで女性ギタリスト、コリー・ヴァン ビンスベルゲン、パーカッショニストのアラン・プルヴェスを招きカルテットの宵である。

この人たちのことは何一つ知らずに出かける前に主人公のホームページで経歴、アルバムサンプルを聴いてコンサートに臨んだのだったが第一夜が終わっての印象は豊かなものだった。

アムステルダムのコンセルバトワールを卒業後、このジャンルの音楽の創造性、即興性を追及しながら例えば実際に子供達の中でこのような音楽がどのように機能するかを探りながら時にはオペラやミュージカルという形で作曲、演奏を続けている才媛は音楽と社会、教育を関連付けることが必須と言うこともあり3日目の昼には大人、子供たちを含めてワークショップも計画されている。

http://www.esmeeolthuis.nl/

上記サイトのCDアルバムではサンプルを聴くことができる。

万人のためのジャズ、とくに即興性で大人子供を問わず音楽性を追及する。 具体的にはどういう形をとるか。 ジャズやクラシック、現代音楽といったレッテルを外し楽器を有効に鳴らしその可能性を広げる努力を惜しまず、楽器から思わぬ音を引き出す驚きとその音が演奏されるその時々で全体の必然として在るようなものであり即興性もかなりの部分では一定の枠組みの中でそれぞれが行うといった全くのカオスといった形はとられないようである。 リズムやハーモニーの調性といったものは各所に見られそのバランスは見事である。

この4つの楽器で生彩を放つのはパーカッションである。 ここでの音は単なるドラムスの延長から様々なガジェットを用いウッドウインドの領域まで拡張、侵食している風である。 様々なパイプやラッパの類、ミネラルウオーターのビンやキャップまで使われ観客の中にはその奇妙さにコメディアンの音楽、ギミックを感じてか笑い出すものも出るものの目を閉じて聴くものにはそれは空間とその色彩を豊かにする音の世界であり、笑いが自分の固定概念と眼前の現実のギャップを埋めようとする一つの緊急避難のかたちであるとすると理解できるのだが音を音として曲の中に位地させて聴くとギミックでも何でもない必然として聴くことができるだろう。 そこには音の世界に対して固定概念がまだ形成されていない子供達には高度に組織された即興音楽に対する反応は笑みをもって迎えられるにちがいない。 彼らには新しく、解釈においても可塑的なものであり手垢にまみれたジャズというものはどこにもないだろう。

ギター好きにはこの50歳になる、クラシックギターをユトレヒトのコンセルバトワールで修め、エレキギター、バスギターを活動の本体に据え80年代から使われ、そのころ渡辺香津美がしばしば用いていた楽器と同様のものを86年以来愛器としているこの女性ギタリストの豊かな電気楽器にはその音色を統御するボックスが10個以上足元に置かれていてその操作状態はときにはさながらハモンドオルガンのべダル捌きを見るようでもあるのに気が付くだろう。 彼女の電気ギターで奏でられる音色とイディオムの多様性には1999年にオランダのインプロヴィゼーション奏者に与えられる大賞が贈られている。

http://www.corrievanbinsbergen.com/