Ed van der Elsken, MY AMSTERDAMという写真展に行った
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先日、テレビで私のアムステルダム、という題のドキュメンタリーフィルムが1時間半ほど放映されて家内とテレビの画面に見入った。 ドキュメンタリーといっても或る問題を掘り下げるとか特定の人物に密着するといったものではない。 街とその中を移動する、この場合、カメラの前を通り過ぎる人びとを写すだけのものである。 写真家のカメラで取ったショットが動く、といったものだろうか。 それを眺めていて、家内の言には、亡くなって15年経つのにまるでエドがそこにいるみたいだわね、というぐらい彼の存在感と喋りが画面から伝わってくるのだった。
私がエドと初めて顔を合わせたのはグロニンゲン大學の理学部の学生達が自主研修旅行を立案、実行して教授3人をその旅行に招待し、日本の先進技術を研修、各大学、政府機関を訪問してそれぞれの研究者、学生と交流を深めるという30人弱のグループプロジェクトに半年間の準備期間の間に学生達に日本語初級を教え、ガイド、必要の場合通訳として同行するという、全て資金繰りからスポンサー探し、計画から事後報告の出版物まで全て学生主体の、日本では考えられないほど実行力に富んだ大人の計画でエドは付き添いの写真家として同行すべき、スキポール空港の集合場所での、1985年5月の或る日だった。
もう既に日本には1958年に初来日して以来、今ではかなりの数の写真集の中で多くの作品はクラシックの有名なものになっている。 迂闊な事に、このときまで私が大學の写真部に在籍していた時に討論や教科書の一つとして用いられていた「スイートライフ」「セーヌ左岸の恋」が、実際この写真集はエドが船で初めて日本へ来るときの途中のショットが主なものだったはずだけれど、この写真家だとはどうしても頭の中で繋がっていなかった。 オランダ人だとも思っていなかったのだろう、名前からはドイツ人でもデンマーク人でもない、まぎれもなくオランダ語の名前であるのに。
小柄な髭面の男はしょっちゅう動きまくり、やかましい喋り魔、というのではないが発言は簡素、直接、自分の質問の答えをすぐにさあ答えろ、とでもいわんばかりの意気込みで矢継ぎ早に発し、答えを反芻する態で分かってもわからなくても、「うん、結構、結構、、」と注意が自分に向かい、それから自分の注意の赴く方に同時に体も思いもそんな風なのだ。 他の普通のオランダ人とはかなり違う印象だ。 私はすぐに響くこのような反応を示す人柄、性格を好ましく思った。 つまり、おもわせぶりや、人を弄ぶ、とか他意をもつ、とか言う事は無いと見たのだ。 そのかわり、エゴイストの印象をもたれてもしかたがないといえるし、エキセントリックとも書かれた人物評が普通に出回っているようだが、わたしは必ずしも納得しない。 それは、質問者、こちらの出方に反応する彼の言動をこちらがどう取るか、ということにかかっているからで、彼は決して人をほっぽりだしにしたり、気持ちを忖度せず常識はずれな事をする、といったことはしない。 紳士的でさえある、彼のやり方で。
私たちは2週間のぎっちり詰まったスケジュールをこなしていった。 彼は我々に同行していたが、同じ年に既に日本に家族と一緒に滞在しており自分のテーマをもっており、日本でも何回か今まで個展を開いていたり、写真集を出版したり公私さまざまな関係を作り上げていた。 ここでの契約は一行が行動するときはそのカメラマンとして同行する、フィルムや撮影に必要な費用は学生が負担してプロジェクトに必要な写真は学生達が要求するままに学生が使用するが、その後の権利はエドに属する、というもので、滞在費、往復の航空券も学生側が負担、研修旅行が大阪で終わった時には自分の航空券の帰りの日にちを変更していよいよ自分ひとりだけの滞在にきりかえており、彼にとっては願ったり叶ったりの機会だったに違いない。 私も同様、大阪で現地解散として、家内と大阪駅で再会し、実家に連れて行き親に会わせたりして親戚にも金髪の家内を紹介し言葉がわからぬことに両方から文句をいわれ結婚の披露宴まがいまでそそくさと行なっている。
プロの報道写真家なら事件や何かがあれば比較的短いスパンや限られた事項について緊張した動きが要求されるに違いない。 彼のようにテーマを持ち自分の周りに去来する人々を撮る場合では絶えず自分の求める、こうあらま欲しき像が具体的、抽象的を問わず頭の中にあり、それをその場で即事に判断して一番のスポットに最短距離で向かい、瞬時にカメラに収め、次に移動する、といったことを繰り返す。 獲物をねらう禽獣は一度獲物を取ればすぐに安全な場所に引き上げるが鋭い目をもったこの写真家は撮り尽くすまで何度も場所を変え興味がなくなるまでシャッターを押しつづける。 奪い尽くすのだ。 彼の写真をみるがいい。 自分の好ましい題材ばかりだ。 いとおしむ眼で撮る。 多分、偽善が見えればカメラをそらすのだろう、嫌いな人間は普通出てこない。 被写体、多くは人物であるが正面、近くに寄って撮る、とったあとは必ず声をかける。 にっこり笑い「ハイ、ドウモ、ドウモネ」、眼は笑っていない、商売の顔であるが、掛けられた方はあっけにとられるものの悪い気はしない。 私はときどき集団で移動する時、どういう風に撮れば皆を納められるだろうとか、これならアングルが、、と思ってとそちらのほうを見るとしばしばそこにエドがいてシャッターを押した後、次に移動するところだった。 いつも一番いいところにいる。 だから、グループと移動する時は団員の数倍は歩いている。 犬とかサル、の俊敏さが要る。 そして、その時にはすでに50の半ばに達していたのだが。
移動中も我々の目的、スケジュールだけでは彼の写真の猟場はおさまらない。 日本語を解さないにもかかわらず、自分であちこち移動する、時間を見つけて団体からはずれる。 なんのことからだったか、必要な時に捕まらなかったからか、それともスケジュールを消化するのに神経をとがらせていてそういうストレスが溜まっていたからか、わたしと彼はつかみあいの喧嘩になるような一瞬があったが、彼は若造の私にあやまり、私は事なきを得たが、それは私の至らなさと、彼の世慣れた狐の賢さを知って後味のいいものではなかった。 全ては写真が優先する。 しかし、写真はエドが撮る。
オランダに戻ってから問われるままに何度か彼のうちに家族で出かけ、様々な彼の写真を見、今まで彼が疑問に思っていたことに回答を与え、また、問われても疑問が残るものも多かった。 それは、彼が考えたその時のある状況が果たしてそうだったのか、なぜある人物はそのような行動をしたのか、他の可能性があったのか、或る動き、しぐさ、形、の意味等々、そういう疑問、回答の可能性の連続で話はつきなかった。 何時間もそのように話し、大抵は夫人のお茶コール、なり食事コールで中断するのだった。 私が小学校に上がった頃、エドは日本にいて、今、写真集で見られるような世界を歩き回っていた、と考える事は愉快だ。 そのころの洟をたらした坊主頭の少年がわたしであっても不思議ではない。 瀬戸内海の下津井の海岸でポケットに手を突っ込み海を眺める少年、こんな写真を日本人は撮っただろうか。
話は大きくこの写真展からそれた。 けれど、ここでは、この写真展、我がアムステルダム、自分のうちを中心に町とそこに生活する、とは言うまい、生活の、働く、住まう、という要素を剥いでただ路上で見た行き交う姿、それを看る眼だ。 文字通り興味本位から、カメラは見て、なまなましい写真家の視線を示す。 写真展の写真にはきっちりとした構図があり、色調を整えられた作品の写真が壁に展示されているので我々は安心して覗き込むことが出来るのだが、先週テレビで放映されたフィルムでは写真家の生なあからさまな視線が纏わりついて耐えられないときがある。 それは、なにか、自分が被写体の人物に対面してその視線に耐えられないのである。 写真家の興味の強さ、それを支える、被写体と同類であるという眼、ときには若い娘に恋する眼であり、いいよる眼であり、麻薬中毒者によりそう眼でもある。 まともに正面に向き合い、見尽すまでそらさない、執拗な眼である。
今回の出品作は私には今までに殆どみたことのあるもので、新しいものはすくなかったものの、なじみの筆跡でオリジナルにかかれたちょっとした説明や署名がなまなましく、複製の写真というものではあるが生身の写真家がそこに在り、今にも後ろからまた、このときの様子を説明されそうな気持ちになる。 展示されているように手紙は大抵自分のポスターや何かをコピーしたものの裏側の白紙の部分にかかれており、デザイナーを意識した意匠、筆跡であり、うちにも何通か見知った筆跡のものがある。 今回の作品展で一番私が面白く思い、また、この写真家の目を意識したのは、べた焼きを見せていたが、まさに私が経験した動き回る写真家の獲物の周りを動き回る猟犬の位置よろしく構図アングルが無駄なくしめされていることだ。 もちろん、出版や雑誌、新聞掲載となると何本も撮ってそのうちからワンショットあるかないか、ということに厳選されるのは言うまでもないが、しかし、鼻をつけるようにしてそれぞれのショットを眺めるとそれはまさしくドキュメンタリーのカット割に対応する。
今はアムステルダム市立美術館の温度、湿度ともに調整された収蔵庫に保管された膨大なネガとオリジナルプリント、並びに数々の資料を再度大規模な展覧会として我々に示される機会を待ちたい。