暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

Wed. 29-06-05 リゾットと鶏の片身焼

2005年06月30日 04時03分50秒 | 喰う
リゾットと鶏の片身焼

朝    トースト、バター、蜂蜜
     トースト、バター、チョコレートペースト
     ミルクティー  500cc


昼    ミルクティー  250cc
     ビスケット 2枚


午後   紅茶ダージリン  250cc
     クッキー 1枚

夕    リゾットと鶏の片身焼
     生野菜、人参、カリフラワー、キュウリ
     炭酸水  300cc

     コーヒー 250cc
     アップルケーキ 1片

晩    フルーツジュース  300cc

Tue. 28-06-05 自家製ピザ

2005年06月29日 05時28分12秒 | 喰う
自家製ピザ


朝    トースト、バター、蜂蜜
     トースト、バター、苺ジャム
     ミルクティー  500cc


昼    フランスサラダ・ペースト
     黒パン 2枚
     ミルクティー 250cc


午後   ミルクティー 250cc
     クッキー 2枚


夕    自家製ピザ
     ミックスサラダ
     炭酸水  300cc

     苺、チョコレートカスタード

     コーヒー 250cc
     クッキー 2枚

晩    フルーツジュース  500cc

オランダ皇太子に二人目の娘が生まれた 27-06-05

2005年06月28日 06時40分52秒 | 日常

いつもの8時のニュースを見るのに我が家では決まった習慣がある。 私たち夫婦はコーヒー、息子はミルク、娘は紅茶と、そのときの夕飯後の皿洗いの当番がこれを準備して、丁度8時になるときにテレビのニュースを揃って、なにかお茶請けをつまみながら飲むというしきたりだ。

それが、今日は、薄切りの食パンを焼いてそれを丸く切ったような市販の晩というかクラッカーというか、オランダではべスカイチェ(ビスケット)というもので朝食にバターを塗ってその上に今だと苺を載せたり、ジャムを塗ったりして食べるのだが、特に習慣として残っているのは、例えば、職場でこれがお茶の時間に配られ、そのうえにピンクと白か薄青と白の甘い菓子の顆粒が乗ったものであれば、それは振る舞い主に子供が生まれたという証、ピンクなら女の子、青なら男という具合だ。 皆、そこで祝いを言って新しい父親、この場合母親はまだ家のベッドか病院なのだから、大抵は父親なのだけれど、その父親に母子の様子を聞いてお祝いのめでたい、というか、やれやれこれから大変なんだけどな、まあ、それでもめでたいかというひと時を、ということなのだ。 それが、テーブルの上にのっている。

へえ、このうちでだれに子供がうまれたの? 私、生ませたおぼえないよ、と分かりきったことを言ったら子供にばかにされた。 甘い顆粒の色はオレンジ色だ。 ピンクでも青でもない、つまり、オランダの王室、オレンジ家の色、オレンジなのだ。 昨日の午後、皇太子に二人目の娘が生まれた。 現在の王位継承権第三位ということになるらしい。 一位皇太子、二位長女アマリア姫、三位このお姫様、名前はまだない。 明日の午後、上院議長と東宮のある町の市長が陪席の下、皇太子が出生登録をする際に発表とのことらしい。 それで、このべスカイチェ、へえ、あんた、君主制支持者、オレンジ家友の会なんだ、と家内にいうと、いや、スーパーに安売りでこのセット山積みにしてあったからたまにはどうかな、と思って買ったのよ、それにちょっと美味しいし、とさりげなく答える。 まあ、これがオランダのインテリ層の平均的な反応でもあるのだろうと想像する。 私は美味くも不味くもないくすんだオレンジ色の粒粒がのったものをばりばりと喰う。

私が今日スーパーに買い物に行っていたらどうするか。 へえ、さすがになあ、とこれらの山済みを横目に見てそれで終わり、というところだろう。 別段感慨はない。 近所では国旗を家の前に出している所も在るし、東宮もここから自転車で行ける距離にあるので祝いの記帳を東宮屋敷、というか、宮殿にピクニックがてらでかけていって、その森の中の喫茶店でお茶を、という人もあるのだろう。 多分、小さなわらぶきの茶店、東屋は今にぎわっているにちがいない。

最近は無神論者の数は増えているに違いないが無神論者だというにはそれなりの理屈をもっていないといえないようだ。 わからない、というのでは無神論者の範疇には入らないのかもしれない。 神の存在を信じることが出来ない、と思っている数が増えている事は確かだ。 けれど、これは無神論にはすぐには繋がらない。 これと同じような事が共和主義者の数に適応できるかもしれない。 少数派だ。 オランダ人は王家が好きである。 民主主義国で王制を持つ。 立憲君主制だから日本と同じ。か? どうも、オランダの王、今は女王、この人の方が日本の天皇より国政に対する権限が強いらしい。 強いというのは誤りで、権限がある、というのが正確だろう。 勿論、一声で国の重大事項を決定できる、というような危ないことはない。 しかし、あるときにはっきり、ノー、と意思表示をする可能性があるらしい。 ノー、と言ったからと言ってそれで、議会が混乱するとか紛糾するとかいうことはない。 亡くなったベルギーの国王が何年も前に堕胎法案が国会を通過する時にカトリック信者であることを理由に通過法案に署名することを拒否するべく24時間王位を退いたという面白い出来事があったが、この国ではそんなことはないが、書名を拒否することぐらいはできるのだろう。 もし、それが起こっても実質は政権、法律通過に影響ははいものの大ニュースになるに違いない。 日本はそういうことさえ起こらないらしい。 

個人的には特権階級というものを認めないので共和制が望ましいと思うのだが、これも少数らしい。私はこういう王、や天皇というしくみはなくても人が世の中をやっていけることが望ましいと思うけれど、それでは今すぐやめろ、というのでもない。 そのうちなくてもいい、と皆がおもうようになれば、法体系からはずして王や天皇に普通の人になってもらえばいいのだ。 別に今のところに住んでもらっても結構、特権の負担から解放してさしあげれば円満にいくのではないか。

オランダではかなり人気があって王家もそういうサービスに抜かりがない所もあるから当分そういう議論も起こりそうにないだろう、英国とは違うのだ。 だから、今日ここに書こうと思った動機は、この王女誕生のニュースではなく、家内がそれに反応したということがニュースだったのだ。


Mon. 27-06-05 ミンチの牛肉巻き

2005年06月28日 04時49分52秒 | 喰う
ミンチの牛肉巻き


朝昼   トースト、バター、蜂蜜
     トースト、バター、苺ジャム
     ミルクティー 450cc


午後   紅茶 200cc
     クッキー 2枚

     炭酸水  250cc
     揚げおかき

夕    ミンチの牛肉巻き
     温野菜(カリフラワー、おろしチーズ、ナツメグ)
     レタスのサラダ
     蒸しじゃがいも、バター、きざみネギ
     炭酸水 300cc

     苺、ヴァニラヨーグルト

     コーヒー  250cc
     ビスケット、甘いふりかけ

晩    フルーツジュース  400cc
   

真夏日にアムステルダムに遊びに行った(2) Fri.24-06-05

2005年06月27日 08時48分26秒 | 日常

酒を飲まなくなってから街を一人で歩いてもおもしろくはないし、他に目的もなく結局、写真美術館を出てから閉店の6時までジャズのCDを漁って、閉店前に慌てて選んだ10枚ほどをリュックサックに納めペットボトルの水を手にCD屋を出て、ぶらぶらと世界中からの御のぼりさんで溢れる通りを歩き始めたが、さて、また、何をしようということもどこへ行こうという当てもない。

腹が減ったような減らないような、暑さでまた食欲もあまりない。 けれどコンサート前までにはまだ充分時間があるけれど何か腹に入れておいたほうがいいとは思う。 こういう場合困る。 大層なレストランに入る気持ちもないし、一人で入るのだから早くて手軽でなければならぬ。 ハンバーガーは安っぽくて惨めだから考えたくもない。 

安くて美味い店はなかっただろうかと探していて、そのあたりには食い物屋が少ない事に気がついたが安くてごみごみした店が集まっている所まで戻る気力もない。 アムステルダムには回転寿司屋が4軒とか6軒とかあると聞いたが場所を知らない、寿司を食えるところをいくつか知っているがここからは距離がある。 行ったとしても酒がのめないから行ってもつまらないし、せっかく寿司を食うのに飲めないとは何か損をしたような気がするので、中途半端な気持ちに一層拍車がかかって自動歩行の針路が揺らぐ。

ふと、今まで何回かちらりと見たことはあるが入ったことがない中国飲茶店に入ってみようとそこを目指した。 アムステルダムに来る事もしょっちゅうあるわけではないし、ここを通る事もよくあるわけではないからこの前見かけたのは去年かその前の年かも知れず、今まだ続いているという保証は何もないし、ただ歩いていて覗いたか、はたまた市電の窓からチラッと見えた陰気な薄汚い食い物屋であるが、地元の人間と御のぼりさんで一杯だった印象がある。 確かではないけれどこのあたりだったようだし、時間も充分あるし、別段あてもないことであるのでぶらぶらとその方向へ歩いていった。 そこは間口も狭く飾りも何もない、普通の大衆食堂で、入り口で金を払い、何の模様もついていないただの皿を渡され、暖められた食べ物が金属の入れ物に並べられており、それを示され、食い放題だという。 店の奥に幾つか蒸篭(せいろ)が並んでいて湯気を出しているのでそれが目当てだったが結局味は期待したほどではなく、8ユーロで美味いものを腹いっぱい喰おうというほうが欲が深すぎるというもの、ここはアムステルダムで香港でも台湾でもない、自分の間抜けさ加減を恥じた。 

店のアルバイトの坊やが日本人に見えたのでオランダ語で話し掛けるが英語じゃなければ分からない、というから、こりゃ、日本人だ、と思って尋ねかけると中国人だという。 たどたどしく北朝鮮との国境辺りの小さな町から1年程前に出てきて英語を勉強してるのだというが、怪しい英語でどうも元気がない。 だれも東洋人はこんな風に話し掛けてこないから、というから、自分のの経験から割り出したパターンから判断するとあんたはどちらかというと日本人の学生に見えるからだ、とちょっと嫌がられるかともおもったけれど、そういうと、その坊や、中国も自分が中国人であることも嫌いだというから、そんなことではダメだ自分に誇りをもたなければ、と思ってもいなかったことが口からでたが、嘘ではないからそのままにしておくが、その坊やはちょっとは笑いを見せて今まで誰にもこんなこと言った事がない、と言っていた。 奇妙ななりゆきだ。 他の客が来たので、その坊や、こんなこと話せてうれしかった、と言い残し客のほうへ向かった。 

ぶらぶら人は多いものの混雑するほどでもない目抜きどおりをイタリア協会の建物のほうに向かうが大きな運河に面した昔の大きな商人の財を集めた邸宅が並ぶ通りは並木の影があり人通りも少なく涼しい。 その建物の殆どが今は個人の住居とするには大きすぎるし、固定資産税や維持費の上からよほど裕福でなければ個人では住むようなところではないので、出版社、一流企業の事務所であったり弁護士、税、計理士の事務所であったりするような、観光遊覧船の通り道にもなる運河沿いのどうろでもある。 運河に沿って車が斜めに駐車できるスペースがあり、車一台一方通行分の幅だけ道路をとってあり狭い歩道があって2mほどの高さに石段がつづいており大きな木のドアを持つ入り口を控えた200年はあろうかという歴史的建築物ばかり並ぶ通りである。 だから、金曜日の午後7時にはみな家路についており静まり返っている。 わたしはここで大きな石の踊り場に腰掛け大通りのコーヒー専門店で買った薫り高いコーヒーを飲みながら静かに休憩する事にした。 カフェーに腰を落ち着けるより今はこれが一番静かでくつろげる。 

読みかけの文庫、小林秀雄、私の人生観、 中原中也の思い出、というのを読んだ。 富永太郎や中原中也については繰り返し大岡昇平のもので読んでいたしおぼろげながら概要は掴んでいるものの小林と中原の、谷崎と佐藤春夫の女性をめぐるのと同様の確執、顛末があったことを小林の言で読んだが自分にも昔そのようなことがあったことを思い起こし、自分の生きるの死ぬの、ということでも年が経つと忘れるものだなあ、と自分の勝手さを苦笑いしそうになる。 コーヒーを飲みながら涼しく歩道から1メートルほど上がった大きな冷たい石に腰掛けて涼んでいると殆ど人通りもないし、たまに犬を散歩させている人が珍しそうに私の顔を眺めて通り過ぎるぐらいだ。 それにしても、のんびりしてるのだろう、この陽気で。 ふつうなら妙なのが歩道にいても目を向けない方が安全だし、皆次にするべきことを頭の中で追っているから回りには目を向けないものだが、気分が緩んでいるに違いない。 テレビの子供向け番組でよく見る顔が犬を何匹か連れ新聞を小脇に歩いていくし、中堅小説家が日焼けしてか酒のためか赤い顔をして自転車をこいで目の前を通り過ぎるのも見えた。 さて、中原の詩。 私は詩は分からないのだがこれは心に残るようだ。


秋の夜は、はるかの彼方に、
小石ばかりの、河原があって、
それに陽は、さらさらと、
さらさらと射してゐるのでありました。

陽といっても、まるで硅石か何かのやうで、
非常な固体の粉末のやうで、さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもゐるのでした。

さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでゐてくっきりとした
影をおとしてうぃるのでした。
やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄ながれてもうゐなかった川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました、、、、、、



Sun. 26-06-05 定番スパゲッティボロニェーゼ

2005年06月27日 03時52分30秒 | 喰う
定番スパゲッティボロニェーゼ


朝、昼    クロワッサン
       トルコ胡麻リングパン
       ミルクティー  500cc


午後     炭酸水  250cc


夕      定番スパゲッティボロニェーゼ
       ミックスサラダ
       炭酸水 300cc

       コーヒー 250cc
       クッキー 2個

晩      フルーツジュース  300cc


夜中     親子丼
       玉露  300cc

ああ、3時間もテレビの前で過ごしてしまった Sun. 26-06-05

2005年06月27日 01時37分27秒 | 見る

ああ、爽やかな快晴の日曜午後、3時間もテレビの前で過ごしてしまった。 

昨日までの真夏日も何とか夜半の雷と叩きつける急な雨ですっきりと湿度も温度も下がり、ブランチのミルクティーの暖かさが帰ってきた。 

さて、書くつもりではなかったのに、まだ、ペンディングのものがあるというのに、書かないではおかれないようなことがいくつかあったので要点だけメモにしてみよう。いい天気の昼間に3時間もテレビの前に座っていたとは。

1) スビャトスラフ・リヒテル(1915-97)のインタビュー

リヒテルのインタビューをテレビで見て驚き、テレビガイドで見落としていた事を悔やんだ。 1時間番組の大半が終わっており、テレビを点けた時は3週連続の2週目だという。 ヴィデオにとって置けばよかったのだがもう遅い。 来週だけでも忘れないようにしなければならぬ。 この人のことはあちこちですこしづつ読んでいたから、その人となりのイメージがあるが、実際あざやかな画面に今は痩せ気味の老人となって、朴訥に話すことに惹き入れられた。 初めてアメリカに旅行した時の様子、セキュリティーとのどたばた話はおいても、当時のコンサート評について厳しい自己分析と批判をとつとつと語る世紀の芸術家の回想と真摯な態度に打たれる。 何年もまえに亡くなった時には8時のニュースで知り驚いたものだが。

初めて聴いたのは1969年ごろか、私が浪人生で大阪天王寺の市立図書館で受験勉強のまねごとをしつつ、その実、街をうろつき、読書の合間に図書館のレコードコレクションから幾つか借り出して聴いていたときの一枚だった。 ドイツグラモフォンのアルヒーフ版でバッハを借りて聴いていた。 貸し出しの女性はいちいち貸し出しの時にLPレコードの両面を光にあててて白紙に記してあるそれまでのスクラッチの様子を点検、確認してから貸し出してくれる。 変換の際。同様のプロセスが繰り返されるがこの時、もし、新しい傷が見つかればそれは借主がつけたもので問答無用に罰金の対象になるという規則だったように思う。ジャケットに写真もなにもない白と濃い紺だけの簡素なデザインのアルヒーフ版のシリーズを聴くのは当時のビートルズのホワイトアルバムと同じほど興奮する体験だった。 そのときに借り出した中の一枚がリヒテルがベートーベンのピアノで弾いたピアノソナタだった。 アルヒーフ版でなかったのはジャケットにそのピアノの写真が載っていたからで今ではそれがどのソナタだったかはっきり憶えていないが、くぐもった音とまだ音楽を理解しない若造の耳にどのように響いたか、それに平均律に響いたかどうか疑問も幾分かそのような印象を与えて、これは普通ではないということは分かったようだ。 けれど、それから以後私は長くクラシックを系統的には聴いていない。 ただ聴いたという記憶だけだ。

以前、何かの番組でホロヴィッツがトスカニーニの娘と結婚してそのときのトスカニーニのファミリー8ミリフィルムをみたことがある。 戦争前でカラーの映像に驚いたものだ。トスカニーニと若きホロヴィッツが庭で談笑する他愛のないものだが、それまでにカラーで歴史的な印象を残していたのが広島原爆後の広島の町を撮ったアメリカのドキュメンタリー、アメリカの戦艦に体当たりするゼロ戦の橙色の火花と濃い海の紺ぐらいだったから、それ以前に撮られた一般人の撮影カメラの映像に少なからず動揺したものだ。 それはともかく、リヒテルの新インタビューでの面白みはグレン・グールドのリヒテル評や感想に対して自分の信念、音楽観を朴訥にかつ真摯に語って、それがことごとく神話を剥ぐという、意識なしにそれを行なっているその事だ。 シューベルのピアノ曲をまるで10歳の子供が弾く速度で満身の神経を集中して演奏するところは、自己を無くして頭の中のあるべき音楽を忠実に現前させる努力の結晶で同じ解釈の方法論、態度でグレン・グールドとは対極にあるものだろう。いちいちの発言がシニカルな否定的なものに響きがちだが、それは自己に厳しい、全てを過ぎたものとして置くのではなく病理学者の解剖メスでさぐるように自分の過去の演奏を解剖して批判をくわえるのだ。 もともと淡々とした厳しい発言者だったらしいが、それも今では厳しさも内容は変らないものの響きはおおきく柔らかくなっているような印象を持った。 しかし、このインタビュー、10年以上前のものに違いないが、エドのインタビューと同様すぎた時間を感じさせない。

2) 週間政治座談会

ヨーロッパ憲法と呼ばれているけれど実質は憲章とでもいうものだろうが、フランスに続いてオランダも批准を拒否した昨今のヨーロッパ統合についての議論と9・11以後オランダでそれに直接、間接に関係して起こる文化、社会のイスラムをどうするか、どうみるか、といった議論を少々いらいらしながら見た。 その理由は単純ではない。
a) オランダ文化省大臣の最近の発言、メディア自由化とテレビの再編案、競争原理を導入して合理化し新風を導入する、という案。 この何年かの動きを見ていてこういった大臣の案をまともな人間なら誰が信じるだろうか。 比較的、公正、地道で満遍なく目配りが行った公共放送の文化、ドキュメンタリー等の番組が風前の灯火にさらされていると解説される。 私の職場のこの5,6年の動向をみても同様なことがいえるのだから、センセーショナリズムで煽っている事ではないのが明らかだし、残念ながら質の低下を煽ることになるのだろう。 
b) 駐蘭英国大使が任を終え本国に戻るのだという。 01年に赴任して以来英語のアクセントは強いものの自由にオランダ語を駆使するこの外交官はこの四年間に起こったことを回想しながらオランダ社会の変化を語ると共に自分のオランダ観の変化を語り、また、ここでもヨーロッパ統合のオランダの位置をイギリス政府の態度を巧妙に織り込むことで外交プロの手腕をみせつける。 ここで思ったことは、何語でもいいけれど望ましくはオランダ語で、自由にこのように論壇に現れて発言できる外交官が日本人には極めて少ない事だ。 何年か前にはそのような外交官がいたことはあるが残念なことに政治のスキャンダルで外交の舞台からまれな手腕を発揮することなく消えていった。 誠に残念な事である。 英国大使を見ていてこのことが思い出されて残念でしかたがなかった。
c) イスラム世界をどううけとるか、という問題は自国の文化をどう対応させるか、自国の文化とは何かということを考えた上で進めるべきで分離しては論じられない、というのが大方の意見だろう。 しかし、アメリカの非西洋文化にたいする態度が徐々に世界中に浸透する現在、上記の前提を受け入れる論壇でも目の前の国内の異文化、宗教観がことなることに由来するさまざまな問題の捉え方が右傾化するけいこうが最近顕著になりつつあるようだ。 そういう言論の発露を今日のコラムニスト達の討論を聞いて感じる。 ゆったり腰をおちつけて問題の淵源を分析して地道な対話から始めるという、そのための様々な方策を語るというのがマンネリに聞こえ攻撃されかねない雰囲気が明らかにある。 明らかにネオコン信奉者が論壇に勢力をもちつつあることは愁うべきこどだ。 あまりにもばからしい政治的発言が選挙で第3政党の席にとってかわろうかという予想もあるほどの政治風土が現在のオランダであり、角度は少々違ってもこの国を去る英国大使の分析と共通する部分がみられる。 


3) ユーロヴィジョン、ヤングダンス・コンペティション - ポーランド・ワルソー

これが本日の華だ。 ユーロヴィジョンコンテスト、ときくとああ、またか、とソング・コンテストの方に連想が行くが、これはダンス・コンテストで、若き芸術家の登竜門とでもいったものだ。 

ソング・コンテストのほうは眼もあてられぬぐらい惨めなものに成り果てている。 ポップであるから当然の事であるのだろうがマクドナルド化が極端に進んで国際化とナショナリストを自覚させる両方の役割を果し、それはそれで現実のありうべき方向を示して今更何もいうべきものはない、世界中どこに行っても頬張れるハンバーガ文化だからだ、それがポップだというのがクールな言説ではある。 サッカーと同じだと、活躍するプレーヤー達は資本の網に絡まれ明日は売られる身、国際試合になるときだけパスポートに記載された国のチームメンバーとなってにわかにナショナリズムを鼓舞する熱狂に荷担すると、そうも言える。

20歳ぐらいまでの若いダンサーたちが自分達の鍛錬を競う。 あこがれはパリのオペラで踊る事だという。 早いのは3歳から鍛錬を始め、殆どが10歳になる前に本格的なダンスの訓練を始めている。 ダンスである、バレーと共通する練習もあるのだろう。 バレーは旧東欧各国の強いところだ。 10組の各国から選抜された、個人、2人のペアが踊る。 その前に一人2分ぐらいのインタビューがある。 自己紹介であるが、殆どが英語で話す。 基本的には自国語で話してもなに差し障るわけではないのだが幼少から国際的に訓練を受けた都合からなのか様々な英語を話す。演技のさいには全てに神経を行き渡らせ、張り詰めたものだがインタビューの言葉、発音、文法のあやまり、しぐさにまだ子供が抜けきれていない若者の声が聞こえて微笑ましいのだ。 この人たちもあと2,3年で使う言葉がおおきく変り、成人することは確かだからだ。 7,8歳から初めて、その後コンセルバトワールで鍛えられその世界に入る。 競争は苛烈だ。 その成果はこの数ヶ月オランダのジャズシーンでも見ている。 かれらの眼は自分と世界に対して厳しく向いている。

ダンスというものにあまり接点がなかった。 踊りか、というのが印象だ。 バレーじゃないか、と思う時期もあった。 女、子供のもので大人の男が見るものではない、というけしからん考えさえ持っていた、勿論、そんなことは口が裂けても言えない事ではあるのだが。 バレーには偏見があって軟弱と毛嫌いさえしていた。 けれど、この街に越す前、まだ子供がおらず、家内と二人でハーグに住んでいたことがあり、そこからはコンサートホールや劇場も自転車で行ける距離でもあったのでそういう時期にNDT(オランダダンスシアター)の公演を観て感銘を受けた。

その頃はチェコから抜擢され監督に就任したイリ・キリヤンとオランダのハンス・ファン マーネンが世界的に名前を広げていて好評だったその一つを見たのだけれど、音楽、音響と肉体の動きが舞台の上で見せる一瞬一瞬の動きに魅了された。 あとでNDTは日本でも公演を行い好評を博したと新聞で知った。 それはともかく、多分、バレーの動きを、それ自体は後に私自身、美しいと観るようになるのだが、バレーの音楽、ステレオタイプの動き全体が合わさってシステムとして嫌悪感には行かないもののバレーを避ける気持ちがあったのだろう。 多くの人がジャズに持つ気持ちもこれから察せられるのだが。 しかし、ダンスの肉体表現、多くは闇の中に浮かび上がり動くダンサーの動きの息を飲むほどの一瞬の美しさを知った事だ。

ダンスとバレーはジャズとクラシック音楽との関係に似ている、大きな権威としてのクラシックがあり、そこから出て独自の世界を創ろうと道を辿ってきたところが。 このアナロジーはここでひとまず措くとして、この若者達のコンテスト。

彼らは自分の最上のものを見せるべく踊る。 かなりの参加者がクラシックバレーの動きをほとんどそのままか、それに新しいクラシックでは使われない動きを加えておどる。 もちろん、無音で踊る組もあるが殆どが音楽を使う。 クラシックが多い。 当然、音楽と踊り、動きは大きく有機的な関係があるのだから音楽を聴くだけでも内容は想像できるというものだ。 保守的な印象を受けるものが多い。 

20年程前、NDTの公演で感銘を受けたのは言外にクラシックバレーの大きな影が見えていたことだ。 それはダンスに対峙するものとしてで、無視するのか、踊りの文法からクラシックの文法を排除すべく新しい踊りを成型していくのか、クラシックバレーを「自然な」動作の連なりとみなすところに楔を打ち込むべく「不自然な」動きの連続を対峙させる、といった気分も当然あるに違いなかった。 人間の肉体の動きを美しいと知覚する概念を土を掘り起こすが如く地面に空気を入れて大地の匂いを導く意図もおおいにあったに違いない。 そのなかでは日本の舞踏のながれもおおきくダンスに影響をあたえている。 観客の私はそのいちいちに戸惑ったり驚いたり、苦笑したり肉体の動きを眺め、その可能性に刺激を与えられたのだ。 このことは全ての分野で物事を理解する事に当てはまるつもりでいるのだが、バレー、ダンスを理解することのプロセスはここで勉強になるものであったし、音楽や絵画を理解する上でも共通する所が多いことをまたもや再確認したのだった。

そういう意味で面白いと思ったのは旧東欧諸国の参加者がダンスとバレーの違いを分離できないほどオーソドックスに踊った事だ。 そういう意味では私にはその違いが分かるだけの素養がない。 スカンジナビアの国からはモダニズム、私たちが20年前から振興分野として際立たせてきた新分野の文法にのっとって動くダンスをみたし、10組の中で唯一ダンスの現在ともいえる動きを見せたのが20歳のオランダ女性参加者だった。 音楽もラウンジ・ヒプノというもので、日常の自然な動きの連続ではあるが確実に訓練された洗練された動きを示す見事なものであったから、その振り付けは何年かダンスから遠ざかっていた私には新鮮なものだった。実は昨日のニュースで、この緊張を見せない自然体の彼女がグランプリを取ったということを事前に知っていたので公平に眺める事は難しかったが、参加者の中では踊りが総体としてずば抜けて今日的であったことは確かである。 ただ、いままでの教育、訓練の成果を測るという意味では私にはそれを測る技量、眼はない。 けれど、作品でもっとも興味を引いたのはこれだったのだからそれでいいのかもしれない。 バレーを血みどろになって技術獲得のために練習してきた他のオーソドックスな訓練の成果はどこへいくのだろう。

これで日曜の午後を何もしないで終わってしまった。 ウインブルドンのテニスで唯一の優雅さを誇るフランスのマリー・ピアスを見逃したかもしれない。

Ed van der Elsken, MY AMSTERDAMという写真展に行った

2005年06月26日 06時52分45秒 | 見る
Ed van der Elsken, MY AMSTERDAMという写真展に行った
http://www.foam.nl/index.php?pageId=40&tentoonId=28
http://www.edvanderelsken.com/index.php?page=home

先日、テレビで私のアムステルダム、という題のドキュメンタリーフィルムが1時間半ほど放映されて家内とテレビの画面に見入った。 ドキュメンタリーといっても或る問題を掘り下げるとか特定の人物に密着するといったものではない。 街とその中を移動する、この場合、カメラの前を通り過ぎる人びとを写すだけのものである。 写真家のカメラで取ったショットが動く、といったものだろうか。 それを眺めていて、家内の言には、亡くなって15年経つのにまるでエドがそこにいるみたいだわね、というぐらい彼の存在感と喋りが画面から伝わってくるのだった。

私がエドと初めて顔を合わせたのはグロニンゲン大學の理学部の学生達が自主研修旅行を立案、実行して教授3人をその旅行に招待し、日本の先進技術を研修、各大学、政府機関を訪問してそれぞれの研究者、学生と交流を深めるという30人弱のグループプロジェクトに半年間の準備期間の間に学生達に日本語初級を教え、ガイド、必要の場合通訳として同行するという、全て資金繰りからスポンサー探し、計画から事後報告の出版物まで全て学生主体の、日本では考えられないほど実行力に富んだ大人の計画でエドは付き添いの写真家として同行すべき、スキポール空港の集合場所での、1985年5月の或る日だった。

もう既に日本には1958年に初来日して以来、今ではかなりの数の写真集の中で多くの作品はクラシックの有名なものになっている。 迂闊な事に、このときまで私が大學の写真部に在籍していた時に討論や教科書の一つとして用いられていた「スイートライフ」「セーヌ左岸の恋」が、実際この写真集はエドが船で初めて日本へ来るときの途中のショットが主なものだったはずだけれど、この写真家だとはどうしても頭の中で繋がっていなかった。 オランダ人だとも思っていなかったのだろう、名前からはドイツ人でもデンマーク人でもない、まぎれもなくオランダ語の名前であるのに。

小柄な髭面の男はしょっちゅう動きまくり、やかましい喋り魔、というのではないが発言は簡素、直接、自分の質問の答えをすぐにさあ答えろ、とでもいわんばかりの意気込みで矢継ぎ早に発し、答えを反芻する態で分かってもわからなくても、「うん、結構、結構、、」と注意が自分に向かい、それから自分の注意の赴く方に同時に体も思いもそんな風なのだ。 他の普通のオランダ人とはかなり違う印象だ。 私はすぐに響くこのような反応を示す人柄、性格を好ましく思った。 つまり、おもわせぶりや、人を弄ぶ、とか他意をもつ、とか言う事は無いと見たのだ。 そのかわり、エゴイストの印象をもたれてもしかたがないといえるし、エキセントリックとも書かれた人物評が普通に出回っているようだが、わたしは必ずしも納得しない。 それは、質問者、こちらの出方に反応する彼の言動をこちらがどう取るか、ということにかかっているからで、彼は決して人をほっぽりだしにしたり、気持ちを忖度せず常識はずれな事をする、といったことはしない。 紳士的でさえある、彼のやり方で。

私たちは2週間のぎっちり詰まったスケジュールをこなしていった。 彼は我々に同行していたが、同じ年に既に日本に家族と一緒に滞在しており自分のテーマをもっており、日本でも何回か今まで個展を開いていたり、写真集を出版したり公私さまざまな関係を作り上げていた。 ここでの契約は一行が行動するときはそのカメラマンとして同行する、フィルムや撮影に必要な費用は学生が負担してプロジェクトに必要な写真は学生達が要求するままに学生が使用するが、その後の権利はエドに属する、というもので、滞在費、往復の航空券も学生側が負担、研修旅行が大阪で終わった時には自分の航空券の帰りの日にちを変更していよいよ自分ひとりだけの滞在にきりかえており、彼にとっては願ったり叶ったりの機会だったに違いない。 私も同様、大阪で現地解散として、家内と大阪駅で再会し、実家に連れて行き親に会わせたりして親戚にも金髪の家内を紹介し言葉がわからぬことに両方から文句をいわれ結婚の披露宴まがいまでそそくさと行なっている。

プロの報道写真家なら事件や何かがあれば比較的短いスパンや限られた事項について緊張した動きが要求されるに違いない。 彼のようにテーマを持ち自分の周りに去来する人々を撮る場合では絶えず自分の求める、こうあらま欲しき像が具体的、抽象的を問わず頭の中にあり、それをその場で即事に判断して一番のスポットに最短距離で向かい、瞬時にカメラに収め、次に移動する、といったことを繰り返す。 獲物をねらう禽獣は一度獲物を取ればすぐに安全な場所に引き上げるが鋭い目をもったこの写真家は撮り尽くすまで何度も場所を変え興味がなくなるまでシャッターを押しつづける。 奪い尽くすのだ。 彼の写真をみるがいい。 自分の好ましい題材ばかりだ。 いとおしむ眼で撮る。 多分、偽善が見えればカメラをそらすのだろう、嫌いな人間は普通出てこない。 被写体、多くは人物であるが正面、近くに寄って撮る、とったあとは必ず声をかける。 にっこり笑い「ハイ、ドウモ、ドウモネ」、眼は笑っていない、商売の顔であるが、掛けられた方はあっけにとられるものの悪い気はしない。 私はときどき集団で移動する時、どういう風に撮れば皆を納められるだろうとか、これならアングルが、、と思ってとそちらのほうを見るとしばしばそこにエドがいてシャッターを押した後、次に移動するところだった。 いつも一番いいところにいる。 だから、グループと移動する時は団員の数倍は歩いている。 犬とかサル、の俊敏さが要る。 そして、その時にはすでに50の半ばに達していたのだが。

移動中も我々の目的、スケジュールだけでは彼の写真の猟場はおさまらない。 日本語を解さないにもかかわらず、自分であちこち移動する、時間を見つけて団体からはずれる。 なんのことからだったか、必要な時に捕まらなかったからか、それともスケジュールを消化するのに神経をとがらせていてそういうストレスが溜まっていたからか、わたしと彼はつかみあいの喧嘩になるような一瞬があったが、彼は若造の私にあやまり、私は事なきを得たが、それは私の至らなさと、彼の世慣れた狐の賢さを知って後味のいいものではなかった。 全ては写真が優先する。 しかし、写真はエドが撮る。

オランダに戻ってから問われるままに何度か彼のうちに家族で出かけ、様々な彼の写真を見、今まで彼が疑問に思っていたことに回答を与え、また、問われても疑問が残るものも多かった。 それは、彼が考えたその時のある状況が果たしてそうだったのか、なぜある人物はそのような行動をしたのか、他の可能性があったのか、或る動き、しぐさ、形、の意味等々、そういう疑問、回答の可能性の連続で話はつきなかった。 何時間もそのように話し、大抵は夫人のお茶コール、なり食事コールで中断するのだった。 私が小学校に上がった頃、エドは日本にいて、今、写真集で見られるような世界を歩き回っていた、と考える事は愉快だ。 そのころの洟をたらした坊主頭の少年がわたしであっても不思議ではない。 瀬戸内海の下津井の海岸でポケットに手を突っ込み海を眺める少年、こんな写真を日本人は撮っただろうか。 

話は大きくこの写真展からそれた。 けれど、ここでは、この写真展、我がアムステルダム、自分のうちを中心に町とそこに生活する、とは言うまい、生活の、働く、住まう、という要素を剥いでただ路上で見た行き交う姿、それを看る眼だ。 文字通り興味本位から、カメラは見て、なまなましい写真家の視線を示す。 写真展の写真にはきっちりとした構図があり、色調を整えられた作品の写真が壁に展示されているので我々は安心して覗き込むことが出来るのだが、先週テレビで放映されたフィルムでは写真家の生なあからさまな視線が纏わりついて耐えられないときがある。 それは、なにか、自分が被写体の人物に対面してその視線に耐えられないのである。 写真家の興味の強さ、それを支える、被写体と同類であるという眼、ときには若い娘に恋する眼であり、いいよる眼であり、麻薬中毒者によりそう眼でもある。 まともに正面に向き合い、見尽すまでそらさない、執拗な眼である。 

今回の出品作は私には今までに殆どみたことのあるもので、新しいものはすくなかったものの、なじみの筆跡でオリジナルにかかれたちょっとした説明や署名がなまなましく、複製の写真というものではあるが生身の写真家がそこに在り、今にも後ろからまた、このときの様子を説明されそうな気持ちになる。 展示されているように手紙は大抵自分のポスターや何かをコピーしたものの裏側の白紙の部分にかかれており、デザイナーを意識した意匠、筆跡であり、うちにも何通か見知った筆跡のものがある。 今回の作品展で一番私が面白く思い、また、この写真家の目を意識したのは、べた焼きを見せていたが、まさに私が経験した動き回る写真家の獲物の周りを動き回る猟犬の位置よろしく構図アングルが無駄なくしめされていることだ。 もちろん、出版や雑誌、新聞掲載となると何本も撮ってそのうちからワンショットあるかないか、ということに厳選されるのは言うまでもないが、しかし、鼻をつけるようにしてそれぞれのショットを眺めるとそれはまさしくドキュメンタリーのカット割に対応する。

今はアムステルダム市立美術館の温度、湿度ともに調整された収蔵庫に保管された膨大なネガとオリジナルプリント、並びに数々の資料を再度大規模な展覧会として我々に示される機会を待ちたい。 

Sat. 25-06-05 親子どんぶり

2005年06月26日 02時33分57秒 | 喰う
親子どんぶり


朝    トースト、バター、苺ジャム
     クロワッサン
     ミルクティー  400cc


昼    トルコ胡麻リングパン
     ツナペースト
     炭酸水 200cc


午後   エスップレッソコーヒー 100cc
     ダージリンティー  200cc
     サクランボ  150g

夕    親子どんぶり
     味噌汁
     キュウリの酢の物

     コーヒー 250cc
     クッキー 2個

晩    フルーツジュース  400cc


夜中   アップルジュース  300cc

真夏日にアムステルダムに遊びに行った Fri.24-06-05

2005年06月25日 09時28分34秒 | 日常

真夏日の今日アムステルダムに遊びに行った Fri.24-06-05


ここ3日ほど暑い。 30度を越え、夜も寝苦しい。
今日は少し早起きして家庭医の所に9時前に行き、痛風の薬を副作用のないのにしてもらうべく新しい処方をもらう。 これはヴァカンスの間に発作が起こったときの常備薬としての準備でもある。 我が町はすでに真夏の朝の光であり、薬局で待つ間すでに入った冷房が心地よい。 私の横で客のアスピリンの処方について薬局の女性が困っている。 別に医者の処方がなくても買えるものをなぜわざわざ医者の処方箋から引き落とすのか、自己負担分を保険からおろそうとの意図らしいが、保険ではアスピリンは払われないこと、医者も承知であるから、処方箋は受け取れない、しかし、医者の処方だから、うんぬん、奇妙なやりとりだ。 かみ合っていないし、薬局の女性が突っぱねもできないようだ。 客の中年の女性、別段変ったところも見えないが、ひょっとして麻薬中毒、神経症かんれんかもしれぬ。 アスピリン中毒というのもあるらしいから。 他の客も当惑気味だ。 これを横目に通りに出て次の用事へ。

通りを2つ自転車で行くと、行きつけの古い散髪屋だ。 予約を一々しなくても空いていれば刈ってもらえる。 他にも客がいればそこで日頃は見ることのない裸の女性が多くこれでもか、どうだとグラビアに載っているグラフ誌を眺めて待つ。 今日は都合のいい事に待ち人は一人、20分で済む。 それで、裸とセンセーショナル、サッカー、犯罪のグラフ誌をパラパラとめくる。 

へえ、もうあの日本人がオランダ娘を喰ってから25年になるのか。 その記事がある。 パリで留学生がオランダ人のフランス語個人教師を射殺して、その肉を喰ったことがある。 ひっくりかえるようなおおさわぎになったものだ、当時は。 丁度、私がこの国に来てあまり時間が経っていない頃だ。 たまたま、私が働いていた北の州都にある大学に日本から教授が尋ねてきて街の中央広場を歩きながら、JALの飛行機で配られる新聞の記事を私に示しながら、私は思わず周りを見渡した。 そうでなくとも潜在的に反日の空気があるのにこういう場合には首根っこを押さえられ、お前らはわしらを喰う野蛮人だろうが、と糾弾されても仕方がない雰囲気でもあるのだ。 幸い、というかあまりにも現実離れしているというか狂人の仕業ということになったのだが、その後の処置はオランダ人は必ずしも全て納得しているわけではない。

政府を動かせてナンテの医療刑務所から日本に戻し、比較的ゆるやかに親の監視の元、かなり自由に振る舞っている様子。 親が亡くなってからタガがはずれ人肉嗜好のポルノにも出演し、近々また人肉を食べたいと語る。 言語道断、したい放題、言いたい放題の振る舞いだ、この記事によると。 もともと、信頼性の薄い、センセーショナルなものばかり扱う薄っぺらな雑誌なのだが、こういうものがあなどれない。 この25年、何かの折にはこの人物の言動がこの種の雑誌に繰り返し登場する。 被害者の家族の心中は察して余りある。 腑抜けた顔で女の尻に口を大きく開けて噛み付こうとしている馬鹿面がグラビア誌一杯にうつっている。 他の待ち人がいないので話題にはならないので要らぬ弁明をしなくて幸いだが、まことに不愉快で迷惑な話だ。

私が初めて義父と顔合わせた最初の会話は一生忘れない。 「あんたもオランダ人の娘を喰うのかね?」 「ええ? あのう、私はあなたの娘にもう喰われているんですが、、、、、、」
この義父は若くしてドイツに占領されたオランダから強制連行されドイツの工場で強制労働させられ、戦後は日本降伏後のインドネシアにインドネシア独立鎮圧のため兵士として送られている。 日本は敵国であり、戦闘は経験していないものの戦争の陰は消えない。 旧敵国の若造に娘をやるのか、である。

短く頭をさっぱり刈ってもらい、散髪屋を出るともうカンカン照りで旧市街を取り巻く堀の街路樹のウバメガシや菩提樹の大きな葉っぱの表面は日にきらきら輝いている。 内側から出てくる命の迸りである。 樹液というか葉液か。 大きく一杯に枝を広げ新緑の葉を繁らせた大木の街路樹並木の下を自転車で走ると霧よりも細かい液が空気中に撒かれているのを感じる。 中には長くこういう樹木の下に駐車した車のボンネットには少々ねばりのある液体に覆われている事がある。こういう時にこそ大きく枝を繁らせて陰をつくる街路がありがたい。 それに日向に駐車した車はかなわない。

暑さでばて気味の猫をそろそろと胸と首を、輪にして皮で繋いだもので固定し、紐をつけ、逃げないように按配するのが伝染病、虫駆除の注射をしてもらいに獣医の所に行く準備の第一歩だ。 ここまではいい。 獣医の所、といってもうちから1kmも離れていない。 今日は家内に猫をひざにかかえさせてエアコンを最大限にかけて蒸し風呂の空気をすこしはなんとかなった車の後部座席に座らせ、5分も乗らない獣医の診察室へ、というのがプランだ。 何年かまえ、一人で獣医の所に行かねばならなくて、猫をリュックサックに入れて持って行ったのはいいが、帰りにどういう具合かリュックからジッパーを開けて飛び出し、おまけに結わえてあった皮のボンデージもどういうわけかするりと抜けて、走っている自転車から飛び降りて逃げたものだから後ろを走っていた婦人が驚いて叫んだものだ。 猫はそのまま半日そのあたりの散歩を楽しみ、夕餉の時間にはちゃっかりエサにありつこうと戻っていたのだけれど、そのときに心配したこと、今回はその徹を踏まない。

で、今回はすんなり、泣き喚く事もせず、しっかり紐をもっていずとも診察台の上でおとなしく、新米の女医に首筋をつままれて注射針を入れられても別段反応する事もない。家内はこれで七千円とは痛いこと、とぼやく。 しかし、これをせずば猫ホテルには受け入れてもらえぬのだから仕方のない事だ。 やれやれ、これで何とか3週間以上前の予防接種の義務は済ませた。1ヶ月前に予約した猫のホテルの確認を来週はしなければならないらしい。 やれやれ。

これで、かんかん照りの2時、遊びに行く支度ができた。 ジャズギター、デュオのコンサートがイタリア協会で8時半からあり、その前にその近くにある写真美術館で昨日から開かれた知人の展覧会があるのでそれを見ること、この二つだ。

それぞれについては、「ジャズあれこれ」、と「見る」、のコラムに記す。

どうしてオランダ国鉄はこうしょっちゅう遅れるのだろう。 どこかで暑さの為、信号装置が故障、30分遅れだとか、しかし、待機中の電車に飛び乗ればすぐ出発したのだから待ち時間はゼロだ。 車内は空いていて冷房も効いていて快適である。 30分ほどでアムステルダムへ。 さすが世界中からの観光客でごった返している。 みな、薄着で私の目があちこちとうれしそうに飛び回る。 言葉にしてもスラブ系からラテン、スペイン語、中国語、に勿論英語、ドイツ語、さまざまな言葉が耳に飛び込んで来るし、さまざまな色、顔かたちが周りを移動していく。 皆、浮かれ気味で、暑さの中、小さなペットボトルをぶら下げながら歩いている。 最近はかなり日本人の姿が減り、その分、中国人の団体観光客の数が圧倒的に増えている。

コンサートが比較的早く10時には終わったので会場を出てみるとまだ日は充分出ており、そとは少しは暑さも凌げる陽射しになっているのでぶらぶらと歩く人が多い。 私も市電に乗らずに気持ちのいい、歩行者天国の中を市電やタクシーが通る、といった目抜き通りを歩く。 来た時と違うのは、皆夕食を済ませ、アルコールも入っているのかゆったりと歩き、しぐさが大きく、やたらと笑う。 それに皆薄着であれば夏休み気分充分であちらこちらでストリートミュージシャン達の音楽にもあまり興味を示さず、自分達でいい気分になっている。 

アムステルダムに来てから結構歩いているので水を1.5リットル以上は飲んでいる。 しょっちゅう汗ばむし半ズボンで歩いていてもあちこちがべたべたする。 それで12時前にうちに帰り着いてこれを打っているときでもまだ周りはボーっと暖かい。