伯爵夫人
蓮實重彦 著
新潮 2016年 4月号 300枚 8 - 102頁
伯爵夫人とは何者なのか。 寝台の上の淫蕩な戦士? 戦火の預言者? 映画めいた世界の均衡を揺るがす、驚嘆すべき小説家の登場! と文芸雑誌の惹句にあった。
雑誌を手に取って蓮實の名前があるとパラパラとページをめくるのは1980年にオランダに来て暫くして「反=日本語論(1077)」で、日本語の外から見ると日本での日本語を巡る言説に対する批判を熟成しつつある論で目を開かれ、その後それがアメリカでフランス文語を学び日本語を教えた水村美苗の「日本語が亡びるとき(2008)」に繋がるのに気付き、「表層批評宣言(1979)」に接してから日本の文芸誌がフランス色に席巻されているのを感じたのはその中心人物が蓮實であり、一方では多分彼を尊敬、畏怖もし、フランス研究から小説を書き、その何人かは日頃は読まなくとも新聞に出るとその名前で分かる日本を代表する文学賞を得た作家となってもその作家たちからは「見る前に跳んでいない」感はぬぐえなかったことの裏には蓮實が大きな影となっていることには無自覚だった。 だから小説家でなくとも蓮見の磁力から距離をとろうとするかのように見える評論家もいる。
誰もが権力の甘い罠に誘われる。 その権力とは世界を己が儘に弄ぶとことであって意識・無意識にしても好むと好まざるにかかわらずそれは政治に向かわざるをえない。 政治とは人を動かしたいという欲望を体現する営為なのだ。 もう昔、二人の物理学者に会った。 その後、一人は学部長から総長を経て文部大臣となった。 もう一人はその政治を研究の方に使い20年経ってノーベル賞を取った。 蓮實は多分自分から望んだのでもなく瑣末事に忙殺されることになるのを知りつつ総長職を引き受けその後の「随想(2010)」中で書くように退屈な学会の合間に彼が体験した一人の学長との何気ない会話から覚醒し、1953年当時、軽薄な流行に走り勝ちな高校生のジャズ体験が示す特権的な出自も明らかに本作に投影されているようにも見える。 本作ではその舞台が政治の暗い時期であったのにそれには触れず、多分それは本作の意図ではないだろうものの随想の中では小林秀雄のモーツァルトとラプソディーインブルーを対照させそこで政治思想の触れ合いを燻しだしているようにも見えるのだが、ともかくもこの随筆ひとつだけとっても戦後すぐに青春を迎えた多感な少年・青年の特権的に軽薄な流行の最先端を追った経験から匂い出てくるのは戦前は続いているということなのだ。 その自覚が本作の舞台をこのように設定しているのだと思う。 それは一種、70年当時唐十郎の芝居世界に感じた唐十郎の戦前・戦中と響き合うものとして自分に体感されたのだった。
9歳で戦争終結の年を迎え180cmを越す体躯まで成長した映画好きフランス文学者のゾケサ的、戦前・戦中の世界を磁場として想像力を拡張しようとするものには戦後派の若輩は尻尾を巻いて引き下がるしかないと思わせる近年ないワクワクさせ、大笑いさせ、芝居的渦に巻き込ませられ、戦後の性を巡る言説を文化の方から一挙に飛び散らせることにも貢献する快挙だと本作を読んで感じた。 つまり今だれもやらない戦前・戦中・戦後を戯作で総括してみようとする営為だったのだ。
丁度本作を読んだころ「ろくでなし子」被告に女性器を3Dプリンターでスキャンし、データをインターネットなどで配った『わいせつ電磁的記録頒布』と、女性器をかたどったわいせつな造形作品をアダルトショップに陳列した罪などに問われていた裁判で、「ポップアートの一種と捉えることは可能で、芸術性や思想性が認められる」としてわいせつ物陳列を無罪、「女性器の形状を立体的かつ忠実に再現したもので、閲覧者の性欲を刺激するのは明らか」だと指摘し、罰金40万円の判決が下った、と訳の分からない判決が下りたことに首を傾げた。 それでは自分が嘗てここに載せたものはどのように日本では扱われるのか。 無味・無臭で性欲を喚起させない、日本と諸外国の認識の違い、芸術だと言い逃れるのか。
http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/57616140.html
http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/61871304.html
芸術性や思想性には性欲を刺激する、という要素がなく芸術や思想は無味無臭・洗い晒されたものなのかという甚だ思考狭窄に陥ったところに笑いを禁じ得なかったのだが、、わいせつ三要件
- 通常人の羞恥心を害すること
- 性欲の興奮、刺激を来すこと
- 善良な性的道義観念に反すること
とという要件があるらしい。 戦後のチャタレー裁判、面白半分の四畳半襖の下張り裁判に続いてそれから30年過ぎての性を巡る状況、特にアダルトヴィデオと称する媒体が猖獗を極めている現在での文芸作品である。 これを戦後の戦争放棄を謳った憲法第9条と比べるつもりはないが現実と建前の違いに想いが行き大島渚の「愛のコリーダ」が完全放映なされない国での本作は80に届いた蓮實・瘋癲老人・筆の戯れかもしれない。 谷崎は蓮實の大先輩だったではないか。
ここまで書いて蓮實が三島賞を受賞した、ついてはその受賞に関してインタビューの記者たちを前にして怒ったという記事を読み、面白いと思った。 如何に今の記者たちのあっけらかんとした「凡庸・無知・失敬さ」と文学の現状に苛立っての発露かと思ったからだ。 その後下の発言を読むに至ってこれでほぼ説明はついたと思った。
http://news.asahi.com/c/affIdPvO8heoqsaj
http://news.asahi.com/c/affIdPvO8heoqsak
本作の雑誌扉写真となった電灯の覆いにもノスタルジアを喚起され、そんな本作に「インスパイヤー」される若者が多く出ることを望む。