暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

夜中の紫陽花

2016年06月30日 15時50分28秒 | 日常

 

生ゴミを出す日だった。 それを夜中に気付いてコンテナーをガラガラ曳いて角の収集所まで持って行った。 近所の紫陽花が咲き始めていてこの花は最後は紫色で終わるのだけれど今は一番初めの薄黄色がかった白いもので街灯の下を白羽二重のようにこんもりと広がっていた。 梅雨のような日もある鬱陶しい天気の続くこのごろのオランダで、この花は雨の日に映える、というか日本の梅雨でとおなじく湿りに似合う花だ。 コンテナーを置いて戻って来る途中で急に雨がザーッと降ってきたので慌てて家に走り込みびしょ濡れを免れた。

翌日参議院選挙の投票のために電車でハーグに行き大使館で一票を投じて来た。 大使館のある通りが車が通れないように封鎖されていて警官が警備していた。 鬱陶しく戦前の亡霊が住んでいるようにも見えなくもない前の大使館から斜め向かいの今風なコンクリート箱型の、味もそっけもない新大使館はアメリカ大使公館の前にあり、そこで祝い事があるからか外交官ナンバーがついた黒塗りの車が何台も通りに停まっていた。 アメリカ公館入口にはまるで遊園地にあるような青・赤・白の沢山の風船を束にしたとってつけたようなゲートが作られているのだがビチョビチョ降る雨の中では惨めに見えた。

 


’16春の日本帰省旅(10)新世界の喰い物屋

2016年06月29日 03時33分03秒 | 日常

 

日本に住んでいた時は大阪のキタ・ミナミのターミナルとその周辺を歩くのは殆ど何かの用事に出かけたり用事がなくとも目的地から目的地まで最短距離・最短時間で移動することが多かった。 それは若くせっかちでブラブラすることもあまりなかったからで、還暦を越してから大分なる今とくらべるとそれはせわしないものだった。 それで今偶に帰省して大阪の町をブラブラしたいと思うときに自然と足が向くのが新世界だ。 そこには大型書店も洒落た映画館もコンサートホールもないけれどブラブラするのにはまことに心地よいところだ。 

オランダに長く住み家族連れで殆どの夏を近隣諸国の田舎を車で移動しヴァカンスををしたり大都市にはでかけることもあった過去の経験からして、日本に戻って今更取り立てて他所に行くこともなく時間を潰すには新世界は手軽で面白い。 昼間から酒を飲んでカラオケでがなりたてるのも不思議ではなく、行き交う人を観ているとまるでサファリパークで動物を観察するようにカラフルな人々が見られて飽きないし自分もそこに入れる気安さもある。 急がない、別に用事があるわけではない、というのが自分のテンポに合っていてヨーロッパでもそんなところも無くはないけれどここほど華やかで元気なものではない。 それにヨーロッパのハイストリートなどキタやミナミの若者が行き交うファッショナブルな通りと同じだから自分にはもういい、というような思いを抱かせることにもこういうところに足を向けさせる動機にもなっているのだろう。 

喰い物とそれがある周りの環境には幾分かそこに出かける年齢が関係しているのだろうか。 心斎橋筋で大丸の前にいつも緑のお茶のいい香りがしていた辺りに古い「福寿司」というのがあり帰省するたびにそこで冷酒で鯖の棒寿司を喰うのを楽しみにわざわざ出かけていた。 もちろん地下鉄の駅で降りればそのまま大丸に上がり上階のギャラリーで美術品や誰かの個展を観てからのことなのだがその店に最後に二年前ほど行くと客も従業員も老齢が多くやって行けるのかと心配していたら一昨年には200年ほどかかっていた暖簾を下ろすことになったという張り紙が店の前一面に覆われた塀に貼られていた。 今回そこを見てみるとファッションビルになっていた。 ハイストリートの変化はめまぐるしい。 幾ら美味くても若者がこなければ維持できないし若者が大量に来られるのを嫌い店内を改装もせず若い娘たちには入りにくく寿司の単価もかなり高ければそんな鮨屋はよっぽどの財力の蓄えがなければやっていけない。 多分そんな一等地では土地の単価がべら棒で後継者が難しいそんな昔からの鮨屋を継ぐのを厭えば土地を売って大金を掴めばそれが老人たちの福祉にも役立つだろうからここに来ていた客以外誰にも迷惑はかからない。 名残を惜しむ客にしても10年ほどすれば大概は世界から消える。 そんなことが世界中どこでも急激に起こっているのを感じたのがこの20-30年ぐらいだろうか。 多分そういうことは古今東西いつの時代にも起こっていたのかもしれないし自分が老いに入るときこういう光景をみると自分の経験してきた昔が消えることで代替わりを感じるからかもしれない。 この5年ほど特にそれを感じるというのもそう言うことなのかもしれない。

けれど新世界ではそのテンポが遅いように感じる。 だからここに来るとのんびりする。 この10年ほどこの町には日本各地から御上りさんが来て、それは往々にして若い娘たちが多く時にはどうしてこんなところに長蛇の列が出来ているのかというような現象も見える。 イラチな自分にはそんなところで半時間も1時間も並ばなくとも近くに同様の店があるのに、と思いながら横目でそういう人々を眺めて通り過ぎるのだ。 分からなくもない。 大抵手にはガイドブックを持ち他の店に入ろうと思っても立ち飲み屋や串カツなどの店には若い者には入り難いある種の雰囲気があってとても一見では入れないような居心地悪さを感じるのだろう。 そういう店はここに見るようにオッサンが多く若い娘たちが興味本位で入ってきてもジロジロ眺めまわし値踏みをするようでもあり自分がそんな娘ならよっぽど腕っぷしの強い男友達と一緒でないと入らないかもしれない。 

通天閣のすぐ下にあるこの立ち飲み屋は誰からも進められたわけでもそんなガイドブックなども見たこともないけれど大分前に何気なく入り普通に壁に貼られた品書きを観て喰いたいものを注文し冷酒や生ビールで適当に腹を膨らませて次のところにあてもなく出るそんな場所だ。 一度行って別に差しさわりが無かったから次の時にも行くということが重なった。 鯖のキズシ、土手焼き、クジラのコロ、野菜の串カツ、紅しょうがの串カツに冷酒か生ビールのごく普通のもので十分だ。 長居をするなら縮緬雑魚に大根おろし、う巻き卵を加えてもいい。 なんとも地味な老人食なことか。 冬ならオデンの大根や餅入りの巾着オデンが加わるはずだ。 自分の宿の場所柄朝8時にはここにくることはないけれど近くに住んでいれば8時からでもそういうふうに飲み食いするだろう。 それにこの通りには美味い昔風のコーヒーを出す古い喫茶店やジャズを流す店まであるのだからいうことはない。

 

 

 


天気が定まらない

2016年06月28日 17時22分59秒 | 日常

 

この2,3日ほど昼ごろに起き出してみると雨が降っていたりするものの時には午後遅くカラリと晴れ夕方には庭で食事ができるほどの陽射しがあったり、また朝の雨がそのままずっと残っていて夕食は中だったりしても夜にはどんより曇ってもそのうち一面の透き通ったネービーブルーの夜空だったりするような定まらない天気だ。 そして日中気温は20℃を天井として行ったり来たりする。 夕食後フィットネスのジムに出かけようとすると偶々晴れていたので今はもうジムの格好で着替えをしなくともいいように運動靴まで履いてでた。 少なくともこれから1時間半は降らないだろうという予測をしたからだ。 ショートパンツからの直足でももう寒くはなく、済んでから汗でびっしょり濡れたTシャツで体温を取られないように化繊のトレーニングウエアを羽織ったら汗に濡れた体が自転車で走ると心地よかった。

10時半ごろでもまだ晴れ間があっていい夕焼けだった。 今日したことはDIYショップに行って安物のやすりセットを買うことだった。 仔牛の脛の骨付き肉の輪切り料理を昨日喰って残った骨を食事の後古い歯ブラシで洗っておいたのでそれを気儘にやすりで擦ろうという取り留めもないプランを実行すべく馴染みの店に行った。 入口で若いカップルが天井や壁に使う石膏ボードを車に積んでいるところに行き会った。 そんなことをしたのももう25年前になる。 これからもうあんなことをすることもないだろう。 そのときの大工道具はまだ物置にあるけれどもう殆ど使わない。 もしそんなものが使われるとなるのは子供たちが別の家に引っ越したり自分の家を買って好きに改造するときだろう。 その時には我々はもう手伝うこともないだろう。 彼らにはたくさん友達がいて幾らで手伝ってもらえるしそんな日の夕食は彼らが久しぶりに会う友達との飲み食いのパーティーになるのは我々が25年前にやってきたのとおなじようなパターンなのだから。 


オッソ・ブーコを喰う

2016年06月27日 02時33分19秒 | 喰う

 

我が家には誰かに時間がありそれが何か喰いたくなった時に作る料理がそれぞれにある。 家人のそんなものの一つがオッソ・ブーコだ。 もう何年ぐらい前だろうか、まだ子供たちが中学か高校に行っていた時だから12-3年前か。 家人が誰かから教わって作ってみたもので今ならこれがネットに沢山レシピーやら写真が載っているのでご参照いただきたい。 例として下にウィキ゚ペディア日本語版の書きかけの記述を貼り付ける。 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%82%BD%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%BC%E3%82%B3

尚ウィキ゚の各国版に写真がありそれを見ると今日のものはフランス語版の写真に近いようだが今日のディナーはイタリア風だったからスターターのインサラータはルッコラにモッツァレラチーズ、イタリアの生ハム・プロシュットに庭から摘んできたフランボワーズ、安物のシャドネーワインだった。 本菜のオッソ・ブーコは庭から摘んできた伝統的なハーブ、生のトマト、仔牛の脛肉を4-5cmの厚みで骨付きの輪切りにしたものを5時間ほど比較的低温で煮込み最後にレモン汁を加えその輪切りとソースだけで喰った。 その残骸が本日の写真である。 厚い肉を繋ぐ腱というのか靭帯というのか膠にはできるだろうが喰えない物と長さ5cmの骨が残った。 骨の中のとろけるような髄はソースが沁み込んでデリケートな珍味だった。 その後まだ胃に入る余地があるからそこにオッソ・ブーコの土地ロンバルディア地方のパスタ・パッパルデッレを茹でて肉のソースをかけたもので腹を安定させ、デザートに冷えたカンタローペ・メロンで締めた。 

家人がこれを作ろうと思ったのは最近自分が殆ど毎日出かける町のスーパーの斜め前、普段は100台以上駐車できるところに今まだ移動遊園地の観覧車が立っているのだがその近くに出来たイスラム系のスーパーの肉屋のものが近所の肉屋のものとくらべると質は同じで値段が3分の1だということからだった。 町のあちこちにイスラム系の店が沢山あるのだがこんな大きなスーパーはこの辺りには中国系のスーパーでもないので2,3度見に行ってなるほどと納得していたのだった。 イスラム系なら野菜が新鮮で潤沢にあるところが多いけれどここにはまだそこまで行く余地を残すものの肉のセクションには迫力がある。 そこで4人分としてこれを3つ買ったのだった。 輪切りには厚い赤身の肉が骨の周りに二つ付いていて自分たち年寄りにはそのうちの一つだけで充分であるから子供二人が来るのを予測して3つ買ったのだったけれどこれを夫婦が二日で喰うことになった。 子供たちはあとで好物のオッソ・ブーコを喰いそびれたことを残念がるだろうが、我々は翌日この残り物を喰うことには何の異存もない。

尚、分厚い骨の残骸を見ていて何か細工をしようかという気になった。 どんなものになるかまるで予想はできないけれど出来上がったらそのうちここに載せるつもりである。


蓮實重彦 著 「伯爵夫人」 を読む

2016年06月26日 20時55分23秒 | 読む

 

 

伯爵夫人

蓮實重彦 著

新潮 2016年 4月号 300枚  8 - 102頁

 

伯爵夫人とは何者なのか。 寝台の上の淫蕩な戦士? 戦火の預言者? 映画めいた世界の均衡を揺るがす、驚嘆すべき小説家の登場! と文芸雑誌の惹句にあった。  

雑誌を手に取って蓮實の名前があるとパラパラとページをめくるのは1980年にオランダに来て暫くして「反=日本語論(1077)」で、日本語の外から見ると日本での日本語を巡る言説に対する批判を熟成しつつある論で目を開かれ、その後それがアメリカでフランス文語を学び日本語を教えた水村美苗の「日本語が亡びるとき(2008)」に繋がるのに気付き、「表層批評宣言(1979)」に接してから日本の文芸誌がフランス色に席巻されているのを感じたのはその中心人物が蓮實であり、一方では多分彼を尊敬、畏怖もし、フランス研究から小説を書き、その何人かは日頃は読まなくとも新聞に出るとその名前で分かる日本を代表する文学賞を得た作家となってもその作家たちからは「見る前に跳んでいない」感はぬぐえなかったことの裏には蓮實が大きな影となっていることには無自覚だった。 だから小説家でなくとも蓮見の磁力から距離をとろうとするかのように見える評論家もいる。 

誰もが権力の甘い罠に誘われる。 その権力とは世界を己が儘に弄ぶとことであって意識・無意識にしても好むと好まざるにかかわらずそれは政治に向かわざるをえない。 政治とは人を動かしたいという欲望を体現する営為なのだ。 もう昔、二人の物理学者に会った。 その後、一人は学部長から総長を経て文部大臣となった。 もう一人はその政治を研究の方に使い20年経ってノーベル賞を取った。 蓮實は多分自分から望んだのでもなく瑣末事に忙殺されることになるのを知りつつ総長職を引き受けその後の「随想(2010)」中で書くように退屈な学会の合間に彼が体験した一人の学長との何気ない会話から覚醒し、1953年当時、軽薄な流行に走り勝ちな高校生のジャズ体験が示す特権的な出自も明らかに本作に投影されているようにも見える。 本作ではその舞台が政治の暗い時期であったのにそれには触れず、多分それは本作の意図ではないだろうものの随想の中では小林秀雄のモーツァルトとラプソディーインブルーを対照させそこで政治思想の触れ合いを燻しだしているようにも見えるのだが、ともかくもこの随筆ひとつだけとっても戦後すぐに青春を迎えた多感な少年・青年の特権的に軽薄な流行の最先端を追った経験から匂い出てくるのは戦前は続いているということなのだ。 その自覚が本作の舞台をこのように設定しているのだと思う。 それは一種、70年当時唐十郎の芝居世界に感じた唐十郎の戦前・戦中と響き合うものとして自分に体感されたのだった。

9歳で戦争終結の年を迎え180cmを越す体躯まで成長した映画好きフランス文学者のゾケサ的、戦前・戦中の世界を磁場として想像力を拡張しようとするものには戦後派の若輩は尻尾を巻いて引き下がるしかないと思わせる近年ないワクワクさせ、大笑いさせ、芝居的渦に巻き込ませられ、戦後の性を巡る言説を文化の方から一挙に飛び散らせることにも貢献する快挙だと本作を読んで感じた。 つまり今だれもやらない戦前・戦中・戦後を戯作で総括してみようとする営為だったのだ。 

 丁度本作を読んだころ「ろくでなし子」被告に女性器を3Dプリンターでスキャンし、データをインターネットなどで配った『わいせつ電磁的記録頒布』と、女性器をかたどったわいせつな造形作品をアダルトショップに陳列した罪などに問われていた裁判で、「ポップアートの一種と捉えることは可能で、芸術性や思想性が認められる」としてわいせつ物陳列を無罪、「女性器の形状を立体的かつ忠実に再現したもので、閲覧者の性欲を刺激するのは明らか」だと指摘し、罰金40万円の判決が下った、と訳の分からない判決が下りたことに首を傾げた。 それでは自分が嘗てここに載せたものはどのように日本では扱われるのか。 無味・無臭で性欲を喚起させない、日本と諸外国の認識の違い、芸術だと言い逃れるのか。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/57616140.html

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/61871304.html

 芸術性や思想性には性欲を刺激する、という要素がなく芸術や思想は無味無臭・洗い晒されたものなのかという甚だ思考狭窄に陥ったところに笑いを禁じ得なかったのだが、、わいせつ三要件

  1. 通常人の羞恥心を害すること
  2. 性欲の興奮、刺激を来すこと
  3. 善良な性的道義観念に反すること

とという要件があるらしい。  戦後のチャタレー裁判、面白半分の四畳半襖の下張り裁判に続いてそれから30年過ぎての性を巡る状況、特にアダルトヴィデオと称する媒体が猖獗を極めている現在での文芸作品である。 これを戦後の戦争放棄を謳った憲法第9条と比べるつもりはないが現実と建前の違いに想いが行き大島渚の「愛のコリーダ」が完全放映なされない国での本作は80に届いた蓮實・瘋癲老人・筆の戯れかもしれない。 谷崎は蓮實の大先輩だったではないか。

 ここまで書いて蓮實が三島賞を受賞した、ついてはその受賞に関してインタビューの記者たちを前にして怒ったという記事を読み、面白いと思った。 如何に今の記者たちのあっけらかんとした「凡庸・無知・失敬さ」と文学の現状に苛立っての発露かと思ったからだ。 その後下の発言を読むに至ってこれでほぼ説明はついたと思った。

http://news.asahi.com/c/affIdPvO8heoqsaj

http://news.asahi.com/c/affIdPvO8heoqsak

本作の雑誌扉写真となった電灯の覆いにもノスタルジアを喚起され、そんな本作に「インスパイヤー」される若者が多く出ることを望む。


15 ミニッツ  (2001)観た映画、 June ’16

2016年06月25日 19時17分41秒 | 見る

邦題; 15ミニッツ    (2001)

原題; 15 MINUTES

FIFTEEN MINUTES


121分

 
視聴率のためにより過激な映像を追い求めるメディアと、それを利用して名声とカネを得ようと起こされた凶悪犯罪をめぐるサスペンス・アクション。ニューヨーク市警殺人課刑事エディ・フレミング。数々の大事件を解決してはマスコミに登場するスター刑事。ニュース番組『トップ・ストーリー』のアンカーマン、ロバート・ホーキンスも、そんなエディの人気を利用して視聴率を稼いできたひとり。だが、エディの捜査同行リポートぐらいでは視聴者は満足しなくなってきていた……。格闘ファンはUFCチャンピオン、オレッグ・タクタロフの凶悪犯ぶりも要チェック。
 
上記が映画データベースの記述である。 邦題はなんとかならなかったのか。 これでは脳が無い、本作を観ての邦題なら誰かが嘗て言ったように誰でも3分は有名になれる、とでもいうようなことから簡単に「インスパイヤー」できる筈なのだ。 それとも本作のB級さに匙を投げたからなのかとも疑う。 サッカーの欧州選手権が佳境に入る前の2日間休憩でポカッと空いた隙間に入れ込まれた本作である。 デ・ニーロの刑事もの・犯罪ものにももう些か飽きも感じるものの嘗てテレビのシットコムで長寿番組でもあった「チアーズ」と「フレージャー」で精神科医を演じたグラマーがデ・ニーロと二人で写っている写真がテレビガイドにでていたのでその組み合わせに惹かれて観た。 結果グラマーのほうは承知の演技が見られたものの期待していたユーモアは感じられず少々残念な思いがしたのだが、本作は2001年の作で今から15年前だったのだ。 そのころはまだデ・ニーロは還暦前の壮年で「アナライズ・ミー (1999)」やその後シリーズになる「ミート・ザ・ペアレンツ (2000)」などのコメディーも試みそれまでに「ヒート (1995)」や「RONIN (1998)」に慣れていた我々を当惑させるような、またアメリカのお笑いで一層真似をされる「怪演」ぶりも花開いたのだった。 
 
こういう犯罪ものでは悪役に惹かれる。 格闘技のチャンピオンだったことも知らなかったタクタロフの演じる、特にフランク・カプラ映画オタクには面白いと思ったのだが殊更ローデンには惹かれた。 タクタロフの方には憎めない映画オタクという風な貌が窺われて可愛げがあるのだがローデンの方にはいかにもというような悪役ステレオタイプが見られる。 けれどそれを我々に記憶させるのは「心身耗弱」なり「精神異常」を口実に刑を免れるべくそれでマスコミを利用して乗り逃げようとする、「文明国」に見られるジレンマを逆手にとる悪役だからである。 結末はアメリカ映画の常である建前はどうでも銃の暴力で済ませるB級映画で終わるのだがそれでもその皮肉をローデンのステレオタイプが垣間見せたというところにポリティカルコレクトを突く針にもなっている。 それが故にというかもう少しブレーンがいればそこから問題提起だけのエンタでおわることもなかったのだとそれが惜しまれる。
 
一瞬セロンが現代風売春宿のマダムとして登場したのを喜んだ。 セロンとデ・ニーロに共通するのは自分の体を膨らませて改造しそれまで二人にあったイメージを壊すことでそれ以外の何かへ向かおうと試みたということだ。 それにより二人は賞を射止めている。 賞はあとから追って来るものなのだが彼らが演じたのは凄惨であり人間的な存在を示したことだ。 そういうことからすれば本作での二人はそれを経験してからのスマートな仕事である。 そんな二人の二作を経験している者にはデ・ニーロにはアル・パチーノがシェークスピアのシャイロックを演じたようなことは期待しないものの、セロンが今世界的な化粧品ブランドのポスターやテレビのクリップに登場している姿を見て「モンスター」に変われるセロンのほうにこれから30年ほどどうなっていくのか楽しみにしていようと思う。

さて、これで何年行けるのか

2016年06月23日 23時34分45秒 | 日常

 

この間36年間使って来たマグカップがもういよいよ駄目になり引導を渡したあとガラクタ・骨董を収めた棚に収め、さて、どんなカップをこれから一生使おうかと考えていた時に漠然と形が頭に浮かんできた。 それはもう何年も前に自分の住む町の古い茶屋で見たイギリスの古いティーカップの形だった。 口が漏斗のように開いていて少し窄まったところから丸い樽型になっているもので多分白地に紺のプリント模様が施されていたように思った。 今もまだそれがあるのか町に行ったついでにいつも通るところにある町で一番古い茶屋に行ったのだった。 VOC という看板が付いていてこれはオランダの17世紀に黄金時代を築いた世界最古の株式会社組織オランダ東インド会社の略号なのだ。 そこで輸入されたコーヒーや茶葉をここで商っており小さい店ながら今なお町の人間が伝統的なコーヒーや紅茶を求めてやってくるところだ。 

前に見たカップのことを陽気なオバサン然とした中年女性に話し乍ら棚に並んだものを見ると普通のマグより小さなものがあって、それと同じ形でかなりの量が入るものを訊ねるとカタログを持ってきて註文できると言う。 欲しいものが在庫にあるか、まだ工場で生産されているかどうか、あったとしてそれがここに来るまでどれくらいかかるか分からないけれど、兎に角選んでくれれば註文だけはするというのでショーウインドウの皿にある絵柄を選んだ。 自分の想像では多分もう生産していないのでは、あっても半年ほど待たねばならないかもしれない、ということだった。 だから急がないしあまり期待もしないで待っている、と伝えて自分の電話番号を知らせて店をでた。

それから一週間もしないで朝早く電話で起こされた。 カップが届いたから取りに来いというもので喜び勇んでもらって来た。 家に戻って一番最初にしたことは計量カップで容量を測ることだった。 500ccのものを注文していた。 一番くびれたところまで水を入れて測ったら350ccだった。 そこから一番上のスレスレまで水を灌いで測ると丁度500ccだった。 けれどこれでは多分一杯にすることはないだろう。 もしそうすると先ず口をカップまで持って行き唇を付けて啜らないなら持つと零れる恐れがあるからだ。 多分一杯にするというのはくびれたところまで、つまり350ccで一杯ということにする。 

実際日本の緑茶はこれでは飲まないけれど紅茶、コーヒーにビールはこれで十分飲める。 冷えたベルギーの白ビールをこれで飲んだ。 普通の小瓶は330ccだからくびれの下から泡が立ってくびれの上までくる、これには甚だ具合が良かった。 もともとこのようなジャグとかマグとかいわれるものはそのように雑に使われるものだったのだから自分はこれからどれだけ生き延びれるか分からないもののそれまでは自分のカップとなる。


’16春の日本帰省旅(9)本気

2016年06月23日 19時12分59秒 | 想うこと

 

 

場末の食堂でビールを飲みながら食事をして腹ごなしに日頃は通らない路地を抜け遠回りして宿に戻る途中、針・鍼灸・整体に医療クリニックなどが線路沿いに間隔を開けて飛び飛びにある一角に来た。 周りは住宅街だからもう8時をすぎて暗く、飲み屋がポツポツとあるところといってもまだそこから入った裏筋なのでここには提灯やネオンサインなどなくかなり薄暗い。 だから急に明るい玄関に来るとついついそちらの方に目が行ってしまう。 すると目の前に「本気で治します」という文字がガラスに浮き上がっているのが目に飛び込んできた。 薄暗い入口の周りを見廻してみても何とか接骨とかフィジオなんとかとかいうのが小さく見えるだけでガラスドアにはこれだけしか書かれていなかった。 だからこそ何のクリニックなのかと見回したのだった。

1997年に開院したというから出来てほぼ20年、ずっと本気で治していたのだ。 立派である。 本気で治します、と大書するからにはこの近所にもポツポツとある医療クリニックのことにも創設当時考慮に入れての上のメッセージなのだったら、いや、もしかして日本の医療機関も考慮に入れて「本気で治します」と書くことには真面目な思慮があってこそ、ただ単に「治します」だけではなく「本気」が入っているのだ。 治すというのは医療機関の使命・仕事であって使命・仕事は「真面目に」・「本気」でやるのが本来の建前である。 ここではその「建前」を再度繰り返し表のガラス戸に表示しているのだからまさしく「本気」なのだ。 頼もしい。 もし何かあればここに真っ先に飛び込めば「真面目に」「本気」で治してくれるに違いない。 他には見向きもしなくてもいいのだ。 ここは間違いなく本気なのだから。

それでは他は「本気」じゃないのか。 ひょっとして誰かから、他に行っても治らなかった、あそこの医者は言うだけで実際には、、、、、だの、一度行ったところではそこの人のすること、言うことが分からなく効いたような効かないような、もう少し通って様子をみてくださいと言われたものの、、、、、だの、効かなかったぞ、というような人たちがいてそんな人たちを救済しようと「本気」を出しているのだろうとその殊勝な態度に意気を感じて応援を送りたい気持ちにもなったのだ。

話しは全く別のことになる。 高校在学中や2年浪人している途中にもしばしば言われたことがある。 お前はやれば出来るのに、だの、「本気」を出さないからこういうことになる、だの云々。 別に気を抜いていたわけでもないしその時その時には自分なりのベストを尽くしていたのだ。 そしてその続きでなんとか地方の国立大学に入ってその後「本気」でぶらぶらと過ごしそのままぶらぶらと同世代のものから遅れて世の中を渡り、ヨーロッパに渡り今に至っている。 自分はいつも自分なりの「本気」でいるつもりなのだがそれが本気に映らないこともあるようだ。

「本気」の反対は何なのだろうか、子供の頃に言っていた「嘘気」なのだろうか。 それなのかもしれない。 日本語の「嘘」というのは英語の「lie」とは決定的に違う。 ウッソ―、とよく若いものがいうけれどあれは「本当じゃない、真実じゃない」ということでこれを It’s a lie! だの You’re lier! と直訳するとえらいことになる。 お前は騙す意図をもって真実ではないこと、嘘をついたのだとなり、西部劇ならこの言葉で決闘のガンバトルが始まるはめにもなりかねない。 まったく、冗談でもない、のだ。 

日本の「本気」「嘘」の例は艶歌に顕著である。 男女の仲の行き違いを謡ったもののうちに「本気」「嘘」がでてきてそれがヒントになるのではないか。 騙すつもりでそうなったのか、初めは本気だったものが結果的に騙す結果になって、、、、なり、その辺の男女の機微が酒と涙にため息が混じり、カラオケのマイクを握らせ今夜もそういう唄を音程の外れを気にせずコブシを重点的に二つ三つ謡うというとき「本気」がアダとなる人生を疑似体験することになる。 嘘か本気か本気か嘘か、、、、何とも難しい世界である。

本気で治さない医者や医療関係者がいるのだろうか。 一体このセラピストはどんな「本気」で患者に臨むのだろうか、別段悪い所もない自分にはこの人の「本気」を知る機会はない。  


注文していたブラインドが届いた

2016年06月22日 22時06分03秒 | 日常

 

長らく届かなかったブラインドがようやく届き業者がそれを設置して帰った。 木を伐ったからそれまでならカーテンだけで済んだものを夏の午前中に東からの陽をまともに受けてクーラーなどないオランダの民家の居間がそのうち焼けるような暑さに見舞われるからそれを防ぐのに註文していたものだった。 これまで昼間にそんな熱帯日になることもなくこのところ日中気温が20℃を天井とするあたりを彷徨っていたから何ともなかったものの今日これが来てほっとした。

これまで夏の間この25年で0から12mほどに育ったドングリの木が夏の繁った木の葉を一杯に広げたいくつもの枝で路上駐車の車や居間に大きなシェードとなって助かっていたのだが残念なことをした。 これまでこんなブラインドも要らず夜にはカーテンだけで済んでいたものが育った大木がレンガの壁を壊し舗道を持ち上げるようになるのが明白になると伐るしか仕方がない。 伐れ伐れと言われ続けて何年になったのだろうか。 残念なことをした。

さて、このブラインドで真夏をやり過ごすことが出来るかどうか。  このブラインドではカーテンのように縦のスリットを作ることが出来ない。 けれどこれは縦の代わりに横の帯状のシェードを調節して使う仕組みなのだ。 厚さといおうか幅といおうかそんな白い帯が自由になる仕組みで、だから表を通る人の上半身を覆うだけの白い帯を作っておけば上下は見えるけれどお互いに顔を合わさなくともいい、ということになる。 カーテンがスリットを作っていた時は、例えばテレビを見ている時にそのスリットの間に何かが動くのが見えればそこに瞬間的、反射的に目が行く。 時にはそこを行く歩行者と目が合ってしまう。 つまり向うもこちらを見ながらあるいている、と言うことだ。 それは毎週ゴミのコンテナーを集積所にゴロゴロ引っ張っていくときに覗き見るのと同じでそんな隣人たちの居間を覗き誰かがいてこちらを見ていれば手を振って挨拶をしそれが互いの近所付き合いであるのと同じなのだが見たことが無い者がこちらを見ていて目が合うのはどうも気分のいいものではない。 つまりブランドをこのようにすれば見なくてもいいものを見なくて済むということだ。

オランダの民家の窓ガラスを見ると隣国、ドイツやベルギーなどとは明らかに違う。 イギリス、フランスなどと比べてもその窓の面積の多さにその違いを見るだろう。 冬の鬱陶しさ、光の乏しさならドイツ、デンマークにイングランド、スコットランドの方がオランダよりよっぽど乏しいのに光を採り入れるための窓の面積を最多にしないというのは何なんだろうか。 オランダの住宅に慣れているとヴァカンスの折近隣諸国でそれらの家が内に籠っているという感をもつのはその窓の小ささと外からは中が窺えない、ということに拠るのかもしれない。 それなら日本と同じだ。 ただ窓越しに覗いても支障がないのは店なのだ。 商売だから視てもらわないと商売が始まらない。 けれど民家ではそうは行かない。 見られたくないから囲い、必要最小限に窓を穿ち板やシャッターで防御する。 例えば再開発で立ち退きを迫られているエリアやゲットー化している地区にはシャッターやボードで覆われた窓を見るのだが普通の民家は窓を大きく取ってある。 このガラス窓を通じて視る、視られる、の関係を紡ぐのだ。 

そんな中で道行く人の目をそらさせるのに使う小物はオランダ人の好きな、花や植木、外に向いて首を振るペットの置物や置物のように見えるてもそこには猫が興味なさそうに寝ているということもあるだろう。 何かのメッセージを外に向かって貼り付けているのもあるし選挙のころになれば応援候補のポスターも見られるだろう。 そういうものがあれば窓が全開でも明るい外からは中の奥までは見渡せない。 

昨日夏至だったと誰かから聞いた。 これから徐々に日が短くなっていくけれど気候、気温が夏になるにつれて8月の中頃までは夜遅くまで明るい。 今日は曇り空ではあっても午後9時10分でこれなのだからサッカーのヨーロッパ・カップの試合をテレビで観ていてもうちの前を通る人影はない。 皆アイスランドやトルコ、スウェーデンが自国の意地をかけてボールを蹴り合っているのに夢中になっている。 そういえばオランダは予選に漏れて多くは隣国ベルギーを応援していると聞いた。 毎回この時期世界大会やヨーロッパ選手権などあると10時ごろまで皆テレビにかじりついて観ているのだがそんな時には今の時間なら外はまだカンカン照りというのが記憶にあるのだが、、、、、。


ああ、ヴァカンスの季節なのだなあ

2016年06月21日 17時22分28秒 | 日常

 

この2日ほど雨模様で気温も20℃ほどあたりを彷徨い、それまでには30℃ほどにもなっていたことからこれでは肌寒く、ウダウダと寒空を眺めつつ外には出なかった。 けれどもたとえ雨が降って外に出たくなくとも毎日喰わねばならず材料が無くなれば買い物に行かざるを得ず仕方なしにポンチョを自転車の袋に入れて霧のようなものが空気中にある外に出た。

スーパーの向かいにある日頃は100台以上が停められるかなりな駐車場になっているところに囲いが出来ていてその外れに遊園地にある観覧車が立っている。 こんな観覧車があるというのは他の場所では不思議でもなく、祭りの時には駅近くの道路を遮断して移動遊園地が出来、5月5日の第二次大戦の終戦記念日と16世紀にこの町がスペインの圧制から解放された記念日の10月3日などのお祭りの時には万を超す人々で賑わうのだが、はて、6月のこんな雨の時にと記憶を辿るとそうだここでフード・フェスティバルがあるのだった。 これからヴァカンスの季節になると町の人口がかなり減り7月の中頃、8月には人がいなくて祭りが出来ないので今の時期にこの町の飲食店、レストラン、肉屋、魚屋、八百屋などが「うまいもの市」を開いて秋からの商売に繋げようとするイヴェントなのだ。 もう10年以上前にここで小さくやっていたものが年々盛んになって今ではこんな観覧車を立てるのものとなっているようだ。 

こんな寒空と自分の記憶にあるこのフェスティバルには隔たりがある。 それは単なる天気の違いでしかないのだが薄ら寒く薄暗くなり始めている中で観覧車の灯をテストするのか赤や黄色、薄青などのイルミネーションが点いている。 夜間25℃ほどになればそれはオランダでは熱帯夜で、そんな夜にはこんな観覧車に乗って30以上もある出店のものを手に観覧車に乗って味わうのも一興だ。  それは関西空港の入口にあるショッピングモールにある大観覧車でも言えることだ。 4年ほど前の真夏に子供たちが勝手に日本に来て富士の辺りを歩いて来て自分が整理していた親のゴミ屋敷に寄ったときに一夕そんな大観覧車にのった記憶があるのだがのだがその時には手にアイスクリームを持っていたことは覚えているけれどどんな景色だったかは思い出せない。 何を見ていたのだろうか。 けれど今目の前にある観覧車がそのてっぺんに来た時には下に見える景色はわざわざそこに上がらなくとも想像がつく。

ヴァカンスの季節か。 このうすら寒さと鬱陶しさではヴァカンス気分にはならず、だからそんな気候にウンザリしている連中はヨーロッパのあちこち、世界のあちこちに散らばって10月からの鬱にたえるだけの英気を養いに出かけるのだ。 それがこの40年ほどのヴァカンス傾向なのだ。 自分には全くヴァカンスの予定もなく、そもそも定年というのはこれからずっとヴァカンスということなのだろうがここにきて8月の初めにここより鬱陶しい可能性のあるアイルランドをリュックを背負って歩こうかという計画がどこかからか持ち上がっている。 萬年ヴァカンスといってもその中でもまだ別のヴァカンスをするという図式もあるのかもしれない。 ヴァカンスだといってどこにも行かずうちで引きこもっていると余計に鬱がくすぶって来るかもしれないことに対する気分転換にはなるかもしれないだろう。 8月は何年か前にアイルランドが見えるイギリス西岸からイングランドとスコットランドの境目を歩いたときと同じでその辺りでは1年の降水量が一番多いときなのだ。 ヴァカンスに雨のビチョビチョ降る中を歩くのも日頃ヌクヌクうちに引きこもっているグウタラの眼を覚まし、1日15kmほど毎日歩けばそのうちあちこちが痛みだす筋肉にマゾヒスティックな喜びを見出すようになるかもしれない。 様々なヴァカンスの過ごし方がある。