暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

手術後3回目のCTスキャンに行ってきた

2018年02月28日 22時55分45秒 | 日常

 

気温がますます下がってきている。 明日になるともう弥生三月だというのに昨晩は最低気温-8℃、今日の日中最高気温は-2度だったらしい。 けれど上天気でそんな中自転車に乗って駅まで出かけるときには路上には1cmにも満たなくとも粉雪が積もっていてそれが東の風に吹かれて砂が舞うように地表を移動していた。 朝のラジオでは昨晩からスキポール空港とライデンの間は電車が不通になっているが9時には通常運転が見込まれていると伝えられていたけれど10時半に駅に着いてみると階下の表示では不通となっていたものがプラットホームに上がってみると時間通りに運航を始めるところで、それに乗り込むと5分も待たず電車はアムステルダム方面に動きだした。 

アムステルダム・レイリーラーン駅から10分ほど歩けばオランダ癌研AVLに着く。 公共交通機関で行くことにした。 雨や酷い天気なら車で行くことも考えたが今日のような青空に陽が照る日には幾ら寒くとも歩くのがいい。 あまり寒すぎれば市電で行くことも考えられるがそれほど寒ければ市電も止まる可能性があるのでそうなると結局通い慣れた道を辿ることになる。 AVLに通い初めてもう1年になる。 去年2月ごろから検査に通い、5月末に手術を受け、そこに3週間弱入院し、退院してからも折に触れ通院し、落ち着いてからは手術後3か月ごとのCTスキャンで癌が再発していないかどうか検査する。 それで今回今日で3回目となる。 検査の結果なにもなし、となれば少なくともこれから次のスキャンまで3か月は生きていられる、ということだ。 再発の可能性は手術後1年半から2年ぐらいまでがかなり高いらしい。 それから徐々に可能性が低くなるもののそれがゼロにはなかなかならないそうだ。 これは始めから言われていた。 あなたの癌は一生付き合っていくものと思ってください、と。 3か月前までの手術後半年は今の技術で判定する限り癌の活動は発見できなかった、つまり言葉をならせば、何ともなかったということだ。 先のことなどわからない。

CTスキャンの前に血液検査の為に採血される。 これもルーティ―ンだ。 今回11時を周って癌研に着いて採血セクションで自分の通院票のバーコードを機械で読み取って出てきた番号札を手に取った途端、待合室のモニターに自分の番号が出て3番ブースに行くように指示された。 前回は20分ほど待たされたのではなかったか。 寒波の影響なのか待合室には誰も居らず「営業中」なのかどうか一時は心配したからそのブースに落ち着いた時にそのことを訊いてみた。 寒波の影響ではないのだろうけれどこういう時もたまにあるということだった。 癌は曜日にも天気にも関係なく蔓延るのだ。 

CTスキャンの約束時間は2時50分だった。 少なくとも2時間前までには採血しておくこと、開始1時間前から開始時までに1リットルの水を飲んでおくこと、飲んだあとはトイレにはいかないこと、とされているのもルーティーンだ。 水を飲み始めるまでに腹に出来るだけスペースを開けておくために早めにカンティーンのスープと小さなパンで昼食にした。 水を飲み始めるまで2時間ほど時間があったのでアイパッドで音楽を聴きながら持って行った文庫本を100頁ほど読んだ。 飲み始める前にトイレに行って水気を出しておいた。 45分で1リットルの水を飲んで放射線科の待合室で何人かの人に混じって待っていると約束時間の15分前に自分の名前が呼ばれて今では慣れた Toshiba製 CTスキャン Aquilion CX の部屋に入った。 大きなリング状の機械にスライドして出入りするベッドの横になると腕から造影剤を注射されてスキャンは10分ほどで済んだ。

寒いのでこのまま外に出て駅まで歩くと飲んだ1リットルの水が効いてきて途中で小便がしたくなるので暫く静かな待合室に移動してそこで読書を続けた。 その場所は豪華なホテルのラウンジ然としたところで巨大なガラス窓からは日光がふんだんに入り気持ちが良かった。 壁には羊毛で造られた美しい敷物が掛けられ眼を楽しませてくれた。 同じ作家の作品がアムステルダム市立図書館の壁にもかかっているのをもうだいぶ前に観たことがある。

-4度ほどの外気の中を10分ほど駅まで歩いても大丈夫なようにトイレに行って膀胱を空にしてから外に出た。 毛糸の帽子を耳まで覆って被っているけれど毛糸が細いのか編み目が粗いのか寒さが入って来る。 手袋にしても薄い皮の手袋をしていると寒さが指の先から沁み込んできて手袋が用をなさないほどにも冷たい。 去年も一昨年ももう一つ持っている厚手の手袋を嵌めたことがなかったのだが明日からはそれをしなければ長くは耐えられないようだ。 その手袋を嵌めると暖かいことは暖かいのだが指の自由がきかなくて手が不自由になる。 駅まで歩いて戻る途中、このルートで雪道を歩いたのは今日が初めてだと気付いた。

来週の水曜にまたAVLに戻ってきて担当医から今日のスキャンの結果を聞くことになっている。

 

手作りソーセージ講習会 (下)

2018年02月28日 00時16分49秒 | 喰う

 

(上)より続く 

さて豚肉についての講習が終わりいよいよソーセージ造りの実習となる。 赤身3割、脂身7割ほどの片手に余るほどの塊を何個か秤の上に載せ、参加者14人がそれぞれ500gづつ割り当てられるのだからといいながら肉屋は7kgまで目盛りを上げた。 参加者の一人が名指しされその塊を挽肉にする機械に放り込む。脂身7割というのでは多すぎるのではという危惧もあったけれど挽肉になってみれば普通の肉屋で見るようなピンクいろの豚ミンチになっており基本的にはこれだけで原始的なソーセージができる、というのだが参加者はそれぞれ500gづつ入ったボールを与えられテーブルの上に並んだ様々な香辛料、ピックルスに塩・コショウなどをこれから各自適宜に配合して混ぜ、つなぎに生卵をも割り入れ捏ねるわけだ。 こちらはこの30年幾つもハンバーグや餃子の具を捏ねてきているのでお手の物であるが肉屋はそれ以上によく捏ね塊を握ってブチ切れるのではなく餅が伸びるように落ちてくるように捏ねるのだといった。 当然オランダの肉屋には日本の餅の柔らかさは知らないもののそれに相当する柔らかいチーズの粘り具合をいい実際に我々の捏ねたものをチェックしていく。

自分はわざと塩を控え香辛料の量を少なくし出来るだけ元々の肉の味を試してみたいと思いその少なさを補う意味でクーミンや粗びきの辛子、それに刻んだセージとケッパーを加えて捏ねた。 それが終わるとそれぞれ二人一組になって捏ねたものを器具に詰め込みハンドルを回して豚の腸に詰めることになる。 講師がいうには今日の材料の中で単価が最も高いのはソーセージを包むこの腸なのだそうだ。 何回も腸の内外を洗浄し食品衛生官の検査を通らねば使用できない仕組みでそれにかかる人件費が嘗てはコンドームとして使われたこの柔らかい膜にかかってくるらしい。 年寄りばかりの参加者の誰もが経験のあることを思い出しながらも冗談を言って笑う者もいずそんな笑いをかみ殺しながら黙々と作業を続け長さ7-8cmのソーセージを5つか6つ作って出来上がりとなる。

突然講師は出来上がったものを各自一個彼のところに提出することを求め、それぞれの名前を控えプレートの上にならべてそれを大きなロースターの中に入れて炙り焼きにする。 その間各自に飲み物と紙片が配られ焼きあがるまで待つ。 焼きあがってから講師はそれぞれのソーセージを14個の輪切りにして我々に配り試食する。 そしてそれぞれの紙片に1から14までの番号を書きそれぞれの輪切りにした肉片の評価をプラス1かゼロかマイナス1かで評価する。 当然誰もが今喰っているのが誰の作品か知る由もなく後で講師が全ての紙片を集めて自分が控えてあったナンバーと比較してだれのソーセージが一番人気があったか発表されることになる。 この時自分のものは最下位だとおもったが一つづつ試食しているうちにどれもが市販のものより美味く薄味であるのに味にはっきりしたうま味があるのに気付く。 それにここでの特徴というのは塩が効きすぎたものははっきりわかり、それはじぶんのものではないということぐらいしかはっきりせず、他の人も意識してあまり香辛料をいれなかったのかと思った。 結局自分のものは上位3位の中に入らなかったが最下位でもなかった。 それも美味かった。 肉屋は保存剤も加えていない生ものだから家に持って帰って2日以内に焼いて食べてしまう事といった。

翌日うちに持って帰った4本をグリルにして夕食に供した。 市販されているものより美味いというのが家人の評価だった。1本半、つまり150gをサラダと喰ってそれだけで満腹になった。


もうじき弥生が来るというのにこの寒さか

2018年02月26日 15時51分17秒 | 日常

 

1月の末から2月にかけて日本は寒くこれならオランダの方が暖かいぞと思いながら戻ってきた。 とおもったら例年になく、というより2月も終わりが近づいて今まで例がないほどの寒波がロシアの方からやってきて今日などは日中最高気温0℃なのだそうだ。 夜間は-5℃まで下がったということだ。 11時前にジムに行くのに自転車を漕いだのだがさすがいつもと大気の張り方が違う。 たった5分だけれど必死に漕いで体を暖めようとしたがだめだった。 けれど陽が照って青空が出ているので気分はいい。 水路を見ていると陰の部分には氷が張っているけれど陽が当たるところは凍っていない。 昨日の天気予報では、みんな早く凍ってほしいと願っているようだけど太陽の力と言うのは強いものでこんな晴れた日にはちょっと気温が低いと言っても曇っていれば凍るのだけれど今は日光で温められるからすぐ溶けてしまうのだと解説していた。 そんな具合に水面に氷のむらができていた。

午後町に買い物に行くのに久しぶりに耳まで覆える毛糸の帽子を探して被った。 姑が編んでくれたものだ。 去年も一昨年もこれを被った記憶がない。 外に出るとほぼ皆が耳を覆っていた。 おととい土曜日マーケットに来ていつものように揚げた白身の魚を喰ったのだがそのときは5℃以上あり日差しもあったから暖かいとさえ思ったのが今日はこれだ。 土曜に教会の近くで撮った写真を見るともう春が来そうな服装で人々が歩いているが今日はみな完全武装だった。 手が冷たくなるので今日はカメラを握ることはしなかった。 この寒さだからか夕食の買い物に人が来る時間だったのにスーパーはがらんとしていた。 明日は今日よりも2℃ほどまだ気温が下がると天気予報では警告していた。


手作りソーセージ講習会(上)

2018年02月25日 16時12分08秒 | 喰う

 

2018年 2月 20日 (火)

 

大学は定年で退職したけれどその職員共済組合にはまだ入っていて毎年恒例のクリスマス・ディナー講習会には参加している。 今回地元の優良精肉店が主催するソーセージ作り講習会の呼びかけがあったのでそれに息子と二人参加した。 行く前には気分が乗らなかった。 それはもう10年以上前にドイツで宿をとったときにその隣が肉屋でソーセージを作る作業場から流れて来る吐き気を催す匂いがトラウマとなっていたからでもあるし大体どのように作るのか分かっていてそれに魅力を感じないからでもあった。

その前日家人はその肉屋で求めたステーキ肉を焼いて食前に上げた。 スーパーの最上級の肉より1割ほど値段が上だが味は比較にならないほど美味い。 3週間に一度ほどはここの肉を喰う。 この日まだ30代に見えるこの日の講師、この肉屋の主人に訊くと近郊の農家と特約して育てたものでして精肉の塊にしてから7週間寝かしてから店頭に出すのだそうだ。 初めて入った店内は清潔で広く我々はこの講習の途中何度も手を洗うことになる。 今まであちこちで経験した肉屋の中で最も清潔な作業場である。

ソーセージは豚肉で作る。 欧米でどこの国でも肉の消費量で一番多いのが豚肉だ。 目の前に場で処理されて半身に切られた豚が寝転んでいた。 内臓と頭、尻尾を取られ半身になったものは40kgあり、元は88kgだったものだと肉屋は肌に押された幾つもの検印スタンプを見ながら話す。 ベルギーの養豚農家と特約していてそこでは交配を重ねて納得のいく肉種を求めた結果がこのようになっているのだそうだ。 1年ぐらい経ったものかと思ったのが生後半年だと聞き驚いた。 更に驚いたのは普通スーパーに出回るのは生後3か月で120kgほどまでに成長したものまであるということだ。 時は金なりの論理もここまで押し進められ、速く重く作られた肉が市場に出回り、その結果、味は後回しにされ、そんな肉を焼いてみると水分ばかりが出て後はパルプのように味気ない硬い肉が残るという結果にもなる。 当然部位により肉質の違いがあるにせよ概ねそのようなもので、それに満足できない農家が味を求めて長い時間をかけても小ぶりの豚を飼育するのだからその結果が味になっても値段の方も1割から2割高くなるのは当然のこととなり、それは味でカバーできるとしたら1割、2割が決して無茶に高いものではないというのは理解できることだろう。 生鮮食料品の価格競争の中にあってこのようなメカニズムを説明されればそれは今の経済社会の中のどこのセクターにもいえ、ここでもそれが例外でないことが理解できる。 結局は安ければそれでいいとするか味をとるかが分け目になる。 

肉屋の父親はこの町がまだ村だったころから牛を自分の牛舎で交配していてそれを育てて自分で・解体して店に出していたけれど時代が変わり食品衛生法等も変わり分業が進み精肉だけの店になったのだという。 それを見てきたこどもたちが跡を継ぐ段になり店に並べる製品を自分たちで吟味しマスプロダクションに少なくとも対抗する意識をもって日頃様々なワークショップを主催し広報に努めておりこの日もその活動の一環だというのだ。

そんなことを話しながら肉屋は淡々と半身を解体していく。 刃が細い肉切り包丁と鋸をつかって大きな塊に分けていくのだが作業は淡々と力も入れず滑らかに塊が外れていくように見える。 鋸にしても4,5回挽くぐらいで力も入っていないが関節の部位を見分けてそこに刃をあてるだけなのだろうが見ていて気持ちがいい。 この日ソーセージに使われる部位は喉から肩の上部だけで我々が主に見たのは普通豚肉としてさまざまな名前で店頭に並ぶ部位を塊にする作業だった。 これからするとソーセージというのは豚肉では比較的重要ではない部位を使った製品だということだ。 赤身が重要なのはいうまでもないがそれに倍する脂身が肝心でここに育てられたものが凝縮しているのだと言う。 

ここまできてよっぽど肉に近づかなければ匂わないことに気付いた。 それも獣の匂いは一切なく、清潔な作業場を洗浄する化学石鹸剤の匂いもこの空間には一切なかった。 後ほど家人が娘のころ肉屋の営業後洗浄するアルバイトをしたときのことを聞いたが肉屋と言うのはよっぽど念を入れて作業場を綺麗にしないと必ずどこかで匂ってくるからこのような匂いがついていない洗剤を使う肉屋はそのこと自体で作業場を清潔に保っている優良店の証なのだそうだ。 長年昔ドイツでトラウマになっていた臭いソーセージ作業場の呪いがこの日解けたような気がした。 


オリンピック雑感

2018年02月23日 14時52分56秒 | 日常

 

今週月曜日のフィットネスの折だった。 韓国での冬季オリンピックがたけなわで自分が週2回通うジムではそれぞれの「患者」にトレーナーが一人づつついてトレーニングするのだがトレナーの一人がノートパソコンにオーバーヘッドプロジェクターを繋いで壁にテレビの画面を映してスピード・スケートの実況を見せていた。 自分は通常1時間でこなせる運動を順番に済ませていくべく機械を使ってボート漕ぎをしたり荷重を両腕で押し上げる筋肉トレーニングに励んでいたけれどオランダのコメンテーターががなり立てる実況は聞こえていた。 オランダはスケート王国で或る世界大会では賞を独占するのでそれを防ぐのにルールを変えようかという声まででているという噂もあったほどのスケートに強い国だ。 だからオリンピックがなくとも毎年冬になると、いや冬にならなくとも氷が張るようになるとスケートの話題が世間に蔓延り更にオリンピックなどがあるとそれに火が注がれたように熱狂する。 それが今オリンピックのためにこんなジムでも盛り上がっているのだ。

自分は暖かい大阪南部で育ち雪や氷にはあまり縁がない。 自然と冬季オリンピックの種目にも興味が湧かず誰が勝った、どの国が何個メダルを獲得したというようなことにはまるで興味がない。 それは夏季オリンピックについても同じことだ。 いつごろから興味がなくなったのか思い出してみるとオランダに越してきた1980年代ごろからだと思う。 例えば運動の世界大会なりそういう個人が表にでるものには興味がなくもない。 自分も少年のころ地元の陸上競技会に出て賞をとったこともあるのだ。 ボクシングやラグビーなどにも興味がある。 けれどサッカーには興味がない。 多分あからさまに個人、チーム、団体の成果が「国威発揚」なり「(健全な)愛国主義」的な性格に繋がりスポーツに別の色合いを見せるのがあからさまにみてとれて、それに嫌気がさすのだろうと思う。

テレビが好きな自分はあちこちの国の局を逍遥しては同じスポーツイベントを眺めていたことがある。 それぞれの国のコメンテーターがほぼ自国の選手のことだけを語り、期待感をまくしたて、自国の選手とその背景のみが絨毯爆撃的にばらまかれそれが延々と続くというのが普通だ。 それぞれがそれぞれの小部屋で自国の選手だけしか見ず自国の聴衆を扇動する。 冬季オリンピックは別としても夏季オリンピックでは自国の選手・選手団が優勢な種目のみがスポットライトを浴び延々とその映像が流される。 フランス・ベルギー・オランダ・ドイツ・イギリス・イタリア・トルコなどの局を巡ってみるとそれがはっきりする。 それぞれがそれぞれの関心事のみを語りここぞとばかり柔らかい愛国心を煽り立てるのだ。 そしてメダル獲得数を列挙してその中で自国を称揚し将来嘱望される選手たちを紹介し聴視者の興味を先につなげる。 健全な闘争心といいスポーツマンシップというけれどそこに自分はすんなり入りきれないものを感じるのだ。

壁にテレビ画面を持ち込んだトレーナーが自分のところに来て妙なお辞儀をしてオメデトウと言った。 なにが、と問い返すと日本のこれとこれがこれこれの記録で金メダルをとったから、というと自分はそれを知らなかったから、自分には関係がないし興味がないというと驚いた様子であんたは日本人だろ、うれしくないのか、というので別にと応えると、こんな日本人もいるのだなと呆れ気味だった。 日本人は群れて自国の旗を振り回すように思っているのだ。 それはここのオランダ人と同じである。 そのうち金をとった日本人女性がマイクの前で何やらオランダ語を話しているのが聞こえたが発音がはっきりせずインタビュワーが何回か同じ質問をしていたが諦めて自分の勝手な解釈にして、次に画面はその日本人メダリストがオランダ人でかつて長野で幾つか金を取ったマリアンナ・ティマーという女子選手とアイパッドの画面を通じて話すのが見られた。 日本人選手の何人かはオランダで訓練され、或る種目の日本チームのコーチはオランダ人だそうでその40代半ばに見えるオランダ人男性コーチもテレビの前で、オランダに比べて日本は個人プレーというよりチームワークを重んじそれが日本文化にもあったものだというような薄汚れたステレオタイプの発言をしているのに接してスポーツ界によくいる単細胞な男だと少々うんざりした気分になった。

別の世界選手権の試合ならとりたてていうこともないことがオリンピックとなると個人の成績が国の業績となって表に出てくる。 そして勝者は国を代表するものとなり自分を誇ることがそのまま国を誇ることにされ、ことにオランダや日本のような小国はここぞとばかりに一時の胸のすく思いを爆発させることになるのだ。  個人は勝つために練習を重ねるがだれも国のために勝つのだなどとは思ってはいまい。 それはいつ南北が統一できるのか確かではない精々北の参加者が考えることでしかないのかもしれない。 帝国主義のきな臭い時代に考え出されたオリンピックというものが今ではコマーシャリズムとナショナリズムが合わさってそれにドーピングが絡まってテレビ画面を通じて世界を煽る様な時代である。 個人がどれほど等身大の個人でいられるのか危い時代でもあるように思う。

自転車を漕ぐ機械に或る数値の荷重を設定して6分で2.5kmの仮想の距離に到達すべく汗を流していた。 自分には壁に映された競技より自分の競技の方が切実でどこの国がメダルをとったのかはどうでもいいことだ。 最後の30秒を必死で漕いだから自己新記録の3kmに到達し、息をゼーゼー切らしているとトレーナーから心拍数が160近くまで上っているのを指摘され、やり過ぎだと言われた。

 

 

 


眠りの定型

2018年02月22日 10時14分44秒 | 想うこと

 

若い時から眠りに入るのに苦労しなかったし眠ってからも夢を見ることは殆どなく眠った次の瞬間にはもう朝だ、というようなパターンだった。 友人に枕元にメモ帳を置いて目覚めたら必ず見た夢を記録してそのうち或る程度夢を自分で制御できる、観たい夢をみられる、というような者がいた。 そんなことができるのがうらやましいと思う一方、どこかでそれではつまらないとも思っていた。 夢は荒唐無稽だから面白いので自分の計画したものがその通り見られるのはそれはただの自作映画でしかない。 映画は他人の作った自分が予期もしなかった物語が眼前で繰り広げられるから面白いのであって、それに自分は自分で映画を創りたいとも思わない。

眠りに入るのに苦労しないというのには小さい頃からの習慣が作用しているのかもしれない。 運動や仕事で疲れている場合寝床に横になるとそのまま苦労なく眠りに入れるのはいうまでもないけれど日常生活では大きな疲れもなく寝床に入るのが普通だ。 眠くなるまで起きていて寝床に倒れ込むようにしてそのまま眠りに入るパターンも多いけれど普通は眠りが訪れるまで読書するのが習慣になっている。 大抵複数冊の書物を枕元に置いている。 机の前で読書することはほとんどなく自分の読書経験の多くは寝転んで読んだものだ。 一番幸せなのは時間の制限なく興味の赴くままに読み続け疲れたら眠り目覚めては読む、というパターンだ。 思い出す幸せな思い出は高校生の夏休み、畳の上に枕一つで横になり文庫本を飽きるまで読んだことだ。 幸せな思い出となったのは多分書物が軽いものであったり少年のための文学作品というようなものだったからだろう。 後年、徐々に腹に応え、重く、また人間の不条理というようなものが描かれるものに親しむにつれて徐々に自分の青さが変化していくようでもあったけれど読書体験だけで人生が理解できるというのは一面的にすぎるというものだ。 いくら退屈だからといっても我々の実生活が本番である。

眠りを削ってまで本に曳かれるというのも良し悪しである。 もう眠らなければ翌日に響くと分かっていてもやめられないときがある。 昔仕事をしていたときにはそんなとき本を読むのをやめても興奮しておりすぐに眠りにはいれないことがあった。 そういうときには強い酒をナイトキャップ、眠り薬として飲むのが常だった。 定年し年金生活者となっている今は明日とりたてて約束があるでもなく、朝はやく起きなくてもいいから制限なく好きなだけ読み続けていいのだが体力が追い付かずそのうち沈没するのが定型になっている。 

眠りにも体力が要るようだ。 昔は例えば1時ごろ眠りに就いても朝の7時ごろまでは一気に眠り、途中小用に起きるということもなかった。 けれどいつのころからか、たぶんこの5,6年だろうか必ず途中で起きるようになってきている。 今のパターンは例えば12時に眠りに入るとすると5時半ごろに小用に目覚め済ませた後寝床に入ると眼が冴えているから読書を1時間ほどしてから疲れて本を置きそこから2時間ほど眠り起床するというのが慣例となっている。 

もうこんなブログを書くことを足かけ14年ほどやっている。 ああでもないこうでもないと考え考え綴るのだから結構時間がかかる。 深夜の物音のしないところでポツポツとキーボードを叩くのが好きで音楽を聴いたり読書をしたりネットであちこち眺めたりして時間を過ごす。 だからこの十数年の生活パターンは朝5時ごろ就寝して昼前の11時ごろ起きるというのが日常だった。 起きて朝昼兼用の食事を済ませ自転車で職場に急ぐと言うようなことをしていた。 大学の日本語教師としての授業時間をすべて12時以後にしていて朝は起きなくても済んだのがこのような睡眠パターンが可能な理由だった。 この時には11時起床という制約があったので就寝にあたって強い酒、オランダのジン、ジネーヴァをショットグラスで飲んでその力で眠るのが常となっていた。

眠りのパターンが変わったのは去年の胃の手術からだ。 5月の末に胃癌で胃の8割を切り取る手術をして体力がほぼゼロから徐々に回復した。 当初体力がないものだから眠りにしてもパターンはなく始終朦朧としていた。 ものごとに集中も出来ずベッドに横になって微かな音量でネットで探したクラシック局から軽いクラシック音楽ばかり聴いていた。 それしか聴けなかったのだ。 ポップはおろか自分の好むジャズでさえ煩わしく、ましてや活字を集中して追う読書などできるものではなかった。 3週間の入院の後自宅に戻りベッドの上の生活となり徐々に眠りのパターンも出来て夜8時のテレビニュースを見てから暫くテレビの番組を眺めていたけれど辛抱が続かず二階の自室に戻りベッドに横になる。 始終微かにFMのクラシック音楽を流していて眼を瞑ってはうつらうつらとし、数時間眠っては目覚めることを繰り返していた。 そのうち徐々に読書も叶うまで体力が戻り、そんな室内だけの生活の中で横になることが中心の時間が続きテレビ好きがテレビから離れるようになる。 なにを観ても面白くないのだ。 また、ジャズは体力が充実していなければ聴けない種類のものであると悟った。 元々ものを書く時のBGMとしてグレゴリオ聖歌を専門にしているネット局があってそれを聴きながらことを進めていたのが今は殆どがクラシック局になっているのだからここに音楽と体力ということの相関関係をみるようでもある。

こんな中で徐々に体力が恢復するにつれて眠りのパターンも定まってきたのだが夜型の生活時間は戻ってこなかった。 現在でも夜は11時になると寝床が恋しくなる。 昼間に運動したり長い距離を歩いたときには夕食後にもう寝床が恋しくなっている。 そんなときは調整するためにせめて10時ごろまではおきているようにするのだが横になると沈没するのが常である。 胃が殆どなく繋いだ腸を訓練して胃に補填するようにしているのだと医者は言うのだが、実際働きとしては文句のいいようがないとしても容量が甚だ小さいものだから大食いの往時の7割ほどにもどってきた現在は食欲・味覚は何事もなかったかのように振る舞っていても胃もどきの器官が入って来る量に泣き言を言い悲鳴を上げる。 だから食事の後は10分ほどベッドに体を横たえて胃もどきの負担を軽くするような体勢をとるのが日常にもなっている。 そのとき本を手に行を追うのだがしばしば一時間ほど微睡むことになるのもまた日常的である。 そんなときにも夢などみることはない。

この度3週間ほど日本旅行をした。 地元の村の大邸宅を中国人が買って改修しホテルにしたところに滞在していた折、畳の大部屋に4人雑魚寝し畳が珍しい他の3人は喜んでいたものの自分は寝起きに足腰の骨に負担がかかるのを感じ歳を感じた。 別の部屋ではベッドが3つで4人寝ていたこともある。 子供たちがオランダに戻った後は夫婦二人で幾つかのホテルに宿泊しそこでは一つの部屋で二つのベッドに寝ていた。 普段はそれぞれ各自の部屋で生活しているから眠りのパターンが邪魔されることもなく自分勝手な眠り方をするのだがこういうときには困ることがある。 これは数多の夫婦の問題でもあるのだろうが、一人が眠りたくとももう一人がまだ明かりをつけて読書を続けたいとき片一方がアイマスクなどで自分の眼を暗くして眠れるならば問題がないのだがそれでも気になるというとそこで一方がまだ眠くなくとも部屋を暗くしなければならなくなるのだ。 ここでは眠ってからの鼾やその他の行動については問題にしないことにして取敢えずは眠りに入る体制に入ることを問題にする。 そうするとまだ眠くなくとも眠らなければならず、日頃そういう訓練をしていないものにはある種の拷問となる。 羊を数えるか頭の中で眠くなるような想いを膨らませるか、往々にしてそんな時頭に浮かび上がってくるのはちょっとした思い煩っていることやどうでもいいことなのだが自分にはそんなものごとの種が頭の中で徐々に育ち逆に大木となって眠りを妨げるようになりがちで始末に負えなくなる。 

子供たちがまだ小さいころから夏の休暇には車にテントを積んでヨーロッパのあちこちに出かけていた。 そんな折、この問題に対処するために当時はカセットテープの音楽をヘッドホンで聴きながら眠るという方法を採っていた。 これならだれにも迷惑がかからず眠りに入れる。 それがCDウオークマンに変わりそれが小型のアイポッドになり今もそれを持ち歩いてバカンスの折りのこんな時の睡眠導入材としている。 ジャズのスタンダード・ヴォーカルでバラードを唄ったもの、クラシックのピアノソナタやモダンクラシックなどが自然に眠りに導いてくれるから技術的にこの問題を解決してくれるので何人かとの旅行には本は必携ではあるがそれ以上に自分にはアイポッドが欠かせないものとなっている。 一人で寝室を采配できるのなら眠りは比較的簡単なのだが二人以上となると眠りの形が社会的問題となり誰もが満足のいく解決方法はいまのところこれ以外に考えられない。 これにはまだ室内温度がどうこうということになると問題が複雑になるのだが大体が男が女の言い分を受け入れるということで治まるようだ。


ふとん着て寝たる姿や東山  服部嵐雪

 


'18、 1月2月帰省日記(4);四国八十八か所 第一番 霊山寺

2018年02月21日 23時15分21秒 | 日常

 

2018年 1月 26日 (金)

朝7時に宿舎を出て徳島行きフェリーに乗るべく車を和歌山港に走らせた。 和歌山市内に入ると朝のラッシュアワーに巻き込まれ和歌山城辺りまでノロノロ運転で8時35分発に間に合うのか少々気がもめたが何とか間に合った。 雪雲がでて天気が崩れそうだったが波はなかった。 二時間ほどの船旅の丁度なかほどでデッキに出て太平洋側に何粒か散骨した。 これから何箇所かで散骨するためにプラスチックの蓋つきの小鉢を買ってその中に小分けにした遺骨をいつもデイパックに入れて旅をすることにしている。

徳島駅前の観光案内所で祖谷渓に行きたい旨の問い合わせをするが雪で道が危いこと、かずら橋が3月まで修理の為通行ができないことから祖谷に行くことを諦めて美術の島、香川県の直島のことを問い合わせるが民宿などの情報を余り知らせたくない素振りだ。 理由は「公式の」旅館組合に参加していないから「公式の」旅館を案内する組織として推薦しがたいからのようだ。 そこを無理に民宿の住所、電話番号などを問い合わせ行くか行かないかはそのときに行き当たりばったりに考えることにしてそこを出た。 駅前のデパートの中にあるレストランで昼食にして北上、先ず四国八十八か所第一番の霊山寺に向かった。 その後高松港に向かうが直島行きのフェリーの最終便に間に合えばいいけれど間に合わなければ高松で宿を探すことになるだろう。

霊山寺の駐車場に着くと外は雪がちらちら舞っていた。 第一番であるから売店には様々なグッズが置いてあって家人は英語版の案内書と地図、娘は何にするのか朱印帳を買った。 店の売り子の婆さんは何が不満なのか愛想が悪かった。 そこから正門に廻り境内に入る。 本堂の明かりと天井の竜の絵が印象的だった。 参拝、巡礼の人影は殆どなかった。 オフシーズンなのだ。 本堂前の六地蔵そばの蘇鉄のうえこみで小さな庭になったところに数粒散骨した。 八十八か所のうちこれから何か所廻ることになるのかこのときはまだ確かではなかったし、第一この日の夜どこで泊るのかさえはっきりしていなかった。


'18、 1月2月帰省日記(3);四天王寺での納骨

2018年02月20日 11時36分01秒 | 日常

 

2018年 1月 23日 (火)

寒いながら木漏れ日も射す一日だった。 遅い朝食を摂ってから四人はこの日の為だけにオランダから持ってきた正装をして車で大阪の四天王寺を目指した。 子供たちには去年の5月に四天王寺に連れて行って見せてあるので勝手は分かっているはずだが携帯で見つけたパーキングは寺から大分離れている。 自分にはビルの谷間に停められては方向が皆目分からない。 それに無人パーキングの機械の使い方がその日本語自体が皆目わからず結局そのちかくの説明がわかるところに引っ越して駐車したのだが日本語の分からない他の者たちにはさっぱり何のことか分からないようだ。 それは日本語の問題ではなくてなんでもスマホでしてしまうここの勝手なシステムとさっぱり説明が分からないその書き方と、またそんなものに全く理解のない自分の齟齬の問題であり、それは説明書が嫌いな自分に迫る厄介でもある。 現に次のパーキングでは日本語が読めなくとも息子はちゃんと機械を操作していたのだから問題は独りよがりで分からない説明をする機械の方にあるのだ、と再度腹を立てた。 きょろきょろあたりを見渡しながら息子の携帯で方向を探っていると四天王寺郵便局のそばに出てそのうち大通りに来るとなんとか方角が掴めるようになった。 四天王寺学園近くの古い喫茶店が開いていたので入った。 ばあさん二人でやっているトイレもないような小さな喫茶店でそこでは常連の爺さんたちが新聞を読んでいた。 家人も子供たちも興味津々というところだった。 コーヒーは美味かった。 皆こういう喫茶店が好みであることが徐々に分かってきた。 

寺の参道をぶらぶらと歩き、別段予約もせず時間のことも分からずネットで調べた納骨の儀式が執り行われる四天王寺・.六時堂に入った。 ここは本堂の前に石舞台があってその両側には子供のころから聴いて親しんでいる大阪落語の「天王寺詣り」で語られる亀の池があり、いつもはこんな陽の照る日には沢山の亀が我勝ちに甲羅を干し、また水の表面を賑やかに泳ぎ回っているのが見え、それが人を呼ぶことにもなるのだが今日は亀も見えず立ち止まって池を眺める人もいない。 寒いのだろう。 寒い国から来た我々にも日本の寒さは徐々に染み渡ってきている。 美しい六時堂の屋根の形を見ながら正面左方の申込所に落ち着くとあとの3人は右方の待合の間に誘導された。 申し込みを終え待合の間に来ると13時からのグループが自分たちをいれて9組30人弱、畳の間で椅子に坐ったり畳に坐ったりして待っていた。 納骨に来たのは我々ともう一組で殆どが何回忌かの回向の為だった。 そしてほとんどが二人連れだった。 そのうち本堂に呼ばれ二列に正座して並び僧侶たちを待った。 読経の調子でそれぞれ故人の名前が戒名、俗名で呼ばれたのち施主の来訪の目的、すなわち納骨なり何回忌かということを述べ読経となった。 ここに参集した家族の宗派はまちまちだからだれにも不都合のないお経なのだが何経なのかは自分には分からなかった。 この式は15分ほどで済み一同そこを退出した。

六時堂で式を終えた遺骨は何日かは納骨堂に仮安置されその後納骨総祭供養塔に合祀される。 そこを訪れて将来帰省するときの心づもりをした。 オランダに戻って何日かすると四天王寺から供養塔合祀の法要が2月25日に行われる旨を知らせる案内葉書が来ていた。

寺の境内をでると寒かった。 参道から天王寺駅の方に歩き地下街のラーメン屋で昼食を摂ることにした。 昔浪人時代に天王寺の予備校に通っていたことがありときどき昼に喰った古潭というラーメン屋があってそこはいつも人が並んでいた。 並ぶのが嫌な自分は昼食時を避けて入ったことを覚えている。 今日もそのようになった。 待たずに入れても中は結構客でにぎわっていた。 半世紀ぶりに同じ味のものを喰った。 日本滞在の大事な行事を終えてのんびりしているのか皆歩く速度が遅いし一度店に入ると1時間以上居る。 そのあと駅ビルをぶらぶらと歩いていてパーキングにもどるころには薄暗くなっていた。 この日は息子の30歳の誕生日だったので夕食に割烹料理屋を予約しており、そこに1時間ほど車を走らせる途中で15分ほど到着が遅れることになる旨を料理屋に電話で伝え、もうとっぷり日暮れた高速を急いだ。

  



スノードロップとクロッカス

2018年02月20日 01時14分53秒 | 日常

 

田舎道を歩いていて農家の入口辺りにクロッカスが群れて咲きだしているのが見えた。 白い鈴のようなスノードロップはもうだいぶ前からあちこちに見られるのだがこの時期光が射してくるとクロッカスが開花し始めるようだ。 毎年クロッカスが咲くと何らかの形で写真にしてここに載せるのだがそれは大抵3月の初旬のような気もして、もしそうなら今年は少し早いのではないか。 ここに来るまでとここから先の水路の畔には綿々とこの花が続き深緑に白がそのうちもう目に留まらなくなるほどなのだがここにきてクロッカスの薄紫に目が奪われて本日の一枚となった次第である。 

スノードロップはオランダ語で sneeuwklokje といい、その意味は 雪の鈴 であるから同じような色の組み合わせで同じように咲く鈴蘭と紛らわしいのだが鈴蘭の方はオランダ語で lelietje-van-dalen  もしくは meiklokje と呼ばれている。 lelietje-van-dalen は英語の lily of the valley  に対応して 谷間の百合 である。 そして meiklokje の方は スノードロップの 雪の鈴 に対応してか 五月の鈴 と呼ばれその開花期を示唆するものでもある。 実際毎年「五月の鈴」が自宅の庭にも繁茂してくると、あれ今頃かと少々遅いような気がするのだが、それは今の時期にスノードロップに慣れていて鈴蘭をもう既にどこかで見たような気になっているからかもしれない。


'18、 1月2月帰省日記(2);食事

2018年02月20日 00時15分11秒 | 喰う

 

3週間日本に居て、それも何年か前のように部屋を一か月借りて住むわけでもなく何日かごとに宿を変えるホテル暮らしで自炊もできず初めの2週間は若い子供たちの希望を容れ行き当たりばったりその日ごとに何を喰うか小さな家族会議で決めてレンタカーであちこちに出かけた。 初めの2週間基点になる宿は大阪南部の田舎のホテルだった。 そこは元は地元の大きな織物会社の社長の邸宅だったものが売りに出されて中国人に買われホテルとして創業し数年経つ。 去年の5月に子供たちとここに何日か滞在して今年もまた来た。 理由は安いからというのと伯母の生家がちかくにあって半世紀以上前に一度か二度来たことがある上之郷という村というだけだった。 朝食ついて一泊3000円ほどだ。 間に四国旅行の6泊を挟んでこの村に9泊している。 

初めの2週間は20代後半の若者と60代中頃の年寄りが二人の混成チームで日本人は自分だけ、若者は何かというと脂もの、カレーに餃子、ラーメンにステーキを喰いたがり年寄りはどちらかというと胃に負担がかからずあっさりしたものを好む。 自分は初めの数日が経ってあとはもうなんでも良くなっていたけれど希望は地元の一膳めし屋の上瓦屋食堂や日根野食堂というようなチェーン店の大衆食堂だったのだが8年前の夏の2か月自宅のゴミ屋敷を処分するときに自宅からぶらぶら歩いて5分ぐらいのところにあるそんな飯屋でガラスケースから好きなものをとってきては飯と汁をもらい冷や酒やビールで晩飯にするというのが肩の凝らない気に入りの食事だったのだが今回はそんな場所には車ででかけなければならないこともあって会議でも誰の賛同も得られず寂しい想いをしたものだ。 そして会議では誰もがファミリーレストランには行きたくない、ということでは意見の一致をみており、それはこの何年もの日本滞在で経験済みで行かないということを確認している。 初めの何日かは中国人の経営する村のホテルのだだっ広い食堂での朝飯ではじまった。 おかゆか白米、焼いたシャケの切り身に漬物、ゆで卵に味付け海苔、前の農家の婆さんが毎日鍋に入れてもってくる味噌汁である。 味噌汁は悪くないのだが毎日シャケの切り身に飽きが来てその後すし屋に行ってもどこにいっても鮭は避けるようになった。 

3週間で大事なのはその日の夕食で20回、やっつけの朝食と昼食もそれぞれ20回、朝食のほぼ半分は婆さんの味噌汁とシャケだったから残りはほとんどどこかの喫茶店でモーニングセットで済ませた。 コーヒーが美味いところを探す。 昼食の記憶が薄い。 あちこちでかけるからその途中で食事となり、伯父叔母ちかくのパスタ店、ショッピングモールの中華料理屋、道後温泉近くの町屋カフェーでの有機野菜のおにぎり定食、移動中のコンビニでめいめいが勝手に選んだ食いもの、泉佐野漁港の寿司屋の寿司、大阪千日前の鯖の棒寿司、京都銀閣寺ちかくの特に美味くもないカレー、修学院離宮の近くの鍋焼きうどん、千日前珉珉の餃子に焼きめし、友人と喰った和泉市ショッピングセンターの串カツ、徳島駅前デパートの別段美味くもないリゾットなどがある。 他は覚えていない。 昼食は中途半端なものだからそんなものだろう。 それに自分の胃が小さく量がこなせないし酒も飲まれないということもどうでもいいという気持ちに拍車をかけているのだろうと思う。

メインエベントは夕食であってこれは1日の締めくくりであるから各自勝手に希望を言って妥協案としてその日の献立が決まる。 

日本に着いた日の晩に誰かが今は誰も住んでいないかつての自宅、ゴミ屋敷をもういちど見たいといい、その斜め前にある松寿司で寿司を喰いたいという。 子供たちがまだ小さい時そこで初めて寿司を食わせた時、うえの息子が7つ、下の娘が4つぐらいの時だっただろうか。 こどもたちは魚はいやだといっておばあちゃんを困らせた。 鮨屋に行って魚を抜いた寿司である。 それでも徐々に慣れ5年ほど前には蛸と烏賊を除いてて殆ど喰った。 今回は出て来るものを全て喰い、うにや鯨の刺身を美味いと言った。 あたりまえである。 亡母と同じ村の小学校のクラスメートが鮨屋を開きその息子が板前だった。 眼の端が切れ上がって綺麗な小柄な娘が一人居た。 板前の3つほど上の姉である。 その娘は小学校・中学校と自分の同級生だった。 遠くから眺めていたが一度も話したこともない。 母とその板前の父親は気安く付き合ってよく出前を取っていた。 もう40年ほど前の話だ。 そして今はその板前の息子、うちの子供たちがその店に初めて行った頃同じような背丈で店の中で塗り絵をしていたのがそこのおじさんの孫で大きくなって大阪の高名なすし屋で修行の後店を改造して店を継いだ。 7,8年前になるだろうか。 夕方に電話したらその日は予約で一杯だと言われ結局その近くの焼き肉・鍋の店に行った。 その店はそこにもう50年ほどあるが入ったのはこれが初めてだった。 しゃぶしゃぶを喰ったが可もなく不可もない味だった。 後日徳島からフェリーで和歌山に着いた時に松寿司に行きたいと誰かがいいだし電話したら大丈夫と言われ45分でそこに着いたらもう8時を周っていたのでその日は我々だけの貸し切りとなってそれぞれ好きなものを握ってもらった。 大阪湾の生きたシャコをその場で茹でてもらい握ってもらったのが美味かった。 

家族で大阪に帰省したらほとんど習慣となって出かけるところがある。 その一つが犬鳴山である。 渓谷をさかのぼり行者の滝まで行って帰って来る。 母が生前まだ足腰がしっかりしている時に屡々でかけて滝近くの七宝龍寺の護摩行で家内安全・無病息災を頼んでいたようである。 今は我々がそこで母の菩提を弔い魂の安息を祈願する。 その後下山して不動口館という旅館で風呂に入り食事をする。 もう30年以上も前に我々夫婦が友人・親戚のまえで婚姻の披露をした晩、母と3人で泊ったのもここだった。 子供たちが山に登れるようになり麓から歩いて犬鳴山から葛城山に登る途中で泊ったのもここだったから我々にはこの旅館は目新しくもないが親しく落ち着く気持ちにもなるところでもある。 今回はここの宴会の間で寄せ鍋を囲んだ。

このように書いて来るとまだまだ今回の食事でのハイライトが残っている。 それは別にまたぼちぼちと思い出しながら次に書いて行こうと思う。

写真は松山・道後温泉駅ちかくの町屋カフェ、ARUNE の昼食、おにぎり定食