暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

刺青

2007年02月27日 07時20分17秒 | 日常
昨日ジャズコンサートの会場に行って始りには早すぎたものだからどうしようかと見回したのだけれどそこには食事のできるカフェーはあるもののちょっとした混み具合だったからそれじゃ下の450人収容のコンサートホールのカフェーのほうがゆったりしているしこの日はそこではコンサートがないようだったから静かに半時間ほどジンとコーヒーで読み始めた本のページを繰ろうとオランダのジャズの殿堂BIMハウスの入り口を出ようとしたら顔見知りのもぎりの女の子がぼけーっとしていたので顔見知りだけれど念のために一度そこから出る人にために押すスタンプを手の甲に欲しいといったら笑われた。 いいのに、物好きだとでも思ったのだろうがペタンを押してくれた。

ディスコやクラブなどでは入場料を払ったかどうか出入りが激しいときにはそれを区別するためにいろいろなことをする。 夜光塗料のスタンプ、腕に巻くプラスチックテープ、単純にマジックインクで印をつけたりするのだが、ここではいくつかしゃれた小さなスタンプがある。 小さなヤモリとか楽器だとか赤や青のスタンプ台の色を押してくれる。 この日は何かもぞもぞ動くローマ時代の太陽のデザインのようだった。

下のゆったりとしたカフェーでそこの女の子に運ばれた飲み物の代金を払うのに財布かに手をいれているといい刺青をいれてますね、と冗談をいわれたのだが考えてみればここのところそんな話があったのを思い出した。

熊野の温泉で正月の初めに泊まった折にはそこは1日に2000人も入る大きなホテルでその夜に皆おそろいの浴衣姿で歌謡舞踊ショーを見ていたのだが隣の陽気なものの周りを睥睨するような2,3の家族が一緒のグループのうち何人かの男の袖から彫り物が見えていたし小指の先が欠けているものもいた。 普通、浴場関係であれば彫り物のある入場者お断りの札がかかっているのが多いがここではどうなのだろうかと考えた。 ホテルに予約を入れるときには別段彫り物、刺青の有無を聞かれることはないのだから当然チェックインは問題ない。 で、温泉が呼び物で大きな浴場が5つも6つもあるこのようなところでは当然この人たちもぞろっと見事な彫り物を見せて湯に浸かる事になるのだが一晩で何箇所かの湯に入ったときにはそのような人を見ることはなかった。

昔、銭湯などでは時々そのような男たちを見たしそれが普通だと思ったものだ。 私の育った村にはそのようなものが2,3人いたし、祭りの折には酒で桜色になった肌を見せておおっぴらに倶梨伽羅紋々を得意げに見せて活躍するのだったがサウナがポピュラーになったときにはフロントにはそういう人お断りのボードが出ていたように記憶する。 不自由だなと思ったものだ。

時は移って刺青はタトゥーと呼び方を変えて流行っているのだという。 日本とは趣も歴史も少しは違うヨーロッパの老若男女の間でも大変な流行でもう50近くになろうかという義妹が15年ほど前に義弟と一緒に刺青をいれたと得意げに見せたことを覚えている。 義弟は高級オートバイの代理店を広く経営しているものだから仕事柄マッチョが客に多く、それに合わせるために2mの巨躯の上腕にケルト文様の鉄条網をゾロリと見事な黒で巻きつけてある。 そのとき義妹は同じく北欧の小魚文様をひとつかかとに入れて夏場に裸足になったときに見えるように彫ってある。 他にも普通他人に見られないところにも入れてあるのかもしれないが姉である家人からはそのようなことは聞いていない。

自分自身、食事のテーブルでそういう話になったことはあるけれど、子供たちにはそのようなことはして欲しくない、と希望は言ってある。 今のところそういうことはないが少なくとも成人すれば止めることはできないし、娘がピアスの穴を開けるのは少なくとも18まで待ってそのときに決めればいいとお預けにしてある。 お父さんは古いとお決まりのブーイングが返ってきたが今のところそれ以上のことはない。

こちらではサウナや浴場で刺青を禁止すれば商売にならない。 ま、日ごろ通うプールでも倶梨伽羅紋々ほどの見事なものを入れている人は見ないものの、ワンポイントやワッペン程度の男女は普通に見るし、若い女性の腰の辺りに模様を入れてあるのも見る。 にぎやかな買い物通りでは冬でもジーパンを下ろし尻の上ににTバックの紐を見せてそこに左右対称形の紺や黒のデザインも見ることがある。 しかし、それは本物とは限らないことがあるそうなのだがそれがファッションらしい。

今日の日本のニュースで神戸の指定暴力団の本部に250人ほどの警官を動員して家宅捜索が入ったそうだがそれを受け入れる側の背中や腕に入った彫り物を見てみたいような気がする。 昔、銭湯でみた老人の背中の般若は色も形も褪せていた。 食い物も生活も潤沢な男たちには小太りした脂ののった柔らかい筋肉にずらりと威勢のいい倶梨伽羅紋々が並んでいるのだろうか。 こちらでは警官にも刺青を入れているものが多い。

猫の湯のみ

2007年02月26日 13時48分03秒 | 日常
私のつくえの近傍、ごたごたガラクタが折り重なったなかに湯飲みが一つある。

もう25年も前に家人がまだグロニンゲンで若い芸術家たちと昔の倉庫を改造してアトリエにしたものを何人かの陶芸家たちと共同で借りていた頃に家人と芸大の同級生が隣で製作に励んでいた。 あるとき私に自分のオランダ名前をカタカナで書いて欲しいというのでそれならカタカナより名前の読みを適当な漢字に直したほうがいいだろうとそれを墨書してやったら礼に自分の陶作のなかから一つくれるというので選んでもらったのがこれだった。

当時、我々は犬を飼っていたものの猫はいなくて、その陶芸家は猫好きで自分たちは子供を作らないと決めて彼女の、中学校の教師のパートナーと猫を2匹飼っていたのだがその猫たちを湯飲みにスケッチしたものがいくつかあった。 その一つを貰ったのだが、うちの中で動く猫の様子をいくつか殴り書きにしたような稚拙なものなのだがそのうちの一つで向こうむきに座る猫の様子がことのほか気に入ったから選んだのだが、今、うちで飼っているほぼ8歳ほどのおばさん猫が近頃の小雨の庭をガラス越しに眺める姿にも似ていなくもないか、とも思うのだった。

Greg Osby Chanel Three; 25-02-07

2007年02月26日 10時47分32秒 | ジャズ
Greg Osby Channel Three   25-02-07  BIMhuis in A'dam

G. O. (as)
Matt Brewer (b)
Tommy Crane (ds)


夕食後霧雨の中、駅に向かう時から今夜の音楽は緊張を伴うものだからジャズはやめて耳の中で鳴らせるものは歌曲にした。 Burt Bachrach & Hal David, the songbook collection (EMI 7243 5 77320 2 4) 40分ほどのゆったりとした電車の中ではコーヒーを飲みながら今夜のプログラムに書かれたG.O.の近況について読むのにはちょうどいいBGMだった。


このアルトのことは6,7年前にオランダのジャズ誌で主にフリージャズの批評をしている知人から知らされて Further Ado (Blue Note 7243 8 56543 2 9)から聞き始めた。 その後何枚か手に入れその中にはMarc Copland との Night Call(Nagel Heyer 2048)も含まれているのだがどこかで釈然としないところもあった。 Further Adoではバップのユーモアをも交えたものだったがその後のものもいくつか聞いて模索中との感を持った。

昨年5月19日、この同じ会場のほぼ同じ席でG.O.の父親とも言うべきとこれは後ほど本人の口からきいたことであるのだが、Andrew Hillの、未だに枯れぬインスピレーション溢れるピアノ演奏を聴き、今日、サキソフォントリオで初めてライブで接した感想は目出度いものだった。 47歳という円熟期に入りこのトリオで自己表現の極限化を勧める力の入ったユニットとの感を得た。

このグループと同名のアルバム Channel Three (Blue Note 72438 60672 2 7)のライナーノートにG.O.自身書いているように、ピアノを含む四重奏団からピアノを抜く試みを始めるにあたって今までのアルバムでの屈託が晴れたような気がしたのだが、このアルバムの一部を聴き、会場で途中20分ほどの休憩をはさみ流れるように緻密かつ繊細、このトリオの相互の交歓を力強くクールに8曲提示したのに接し、出だしの曲から最後まで完全にクールかつホットに制御されたものを目にしたからだった。

この夜はアルバムから自作を何曲かほぼ同じ構成、しかしソロ部分ではそれぞれ十分時間をとり緩急流れるように、時には急にユニットが変速し次の局面に駒を進めるような場面もいくつかあり油断のできない展開であった。 O.コールマンのMob Jobではリズム、曲想を追うもののリズム展開はコールマン仕立てでありながら換骨奪胎するべく音を探っているようだ。 けれどアルトには逡巡はいささかもなく訓練に裏打ちされた明瞭で滑らかな音の連続が聴かれたのだった。 コールマンのユーモアをロリンズ風に入れ子にするようなところもあったようだ。

曲想、展開は独自で繊細でありそれぞれに自分の地平を押し広げる試みがなされているものの、この試みはこの10年ほどの試みに裏打ちされて骨組みができてきたように見えるのはピアノを抜いたということからでもはっきりしているようだ。 ドラムのしっかりしたサポートに乗りアルトだけのソロは少ないもののトリオでは各自が同時に演奏する場合でもソロパートと取れるような仕組みにしてあるようだ。 ベースは既に何年も一緒に活動しているだけあってまことに相性のいい演奏を見せた。 ソロは勿論、G.O.との交歓ではアルトの控えめな介入、挿入、補完が彼らのユニットの確固さをあらわしているかのようだ。

後半ではコルトレーンのバンドでのジミー・ギャリソン風にベースがイントロを始める中、スタンダードとなっているキャラバンをやるのかと思いきや変速アラブモードともとれるアルトが自己の空間を構築していくうちにそれがMy Heart Belongs Daddyであることが判明し、なおかつイパネマの娘のフレーズまで出てくるリラックスした展開になったのだが、ここでは明らかにアーチー・シェップの名演イパネマも頭にあるのかも知れない。

後半はこのように自己の空間、モードの中にコーラージュとしてエリントン、モンクなどの引用が散見されたがアルバムに収められたドルフィーのミス・アンも聴かれなかったしいわゆるドルフィー節の引用もなかったようだ。 このことを尋ねようとしたのだが忘れてしまって聞かずじまいになってしまった。

アンコールはなかったものの既に11時半をまわっており平均年齢が40歳を超えるかと見られる観客たちも十分満足して帰宅する折、控え室に下りてサインを口実に一言二言話を聞こうとするとベースとアルト以外は訪問客がだれもいず、私は電車の時間を気にしながら二人に印象を話したのだが、アルトは自分はできないながらベースは日本語が少しは話せるを話を振って彼らの日本人との交友を語った。 実際にG.O.にしても日本人とのセッションは多くありかなりの名前が口からこぼれ、自身、大五郎という、子連れ狼の息子の名を日本名として持っているのだと説明していた。 しばらくしてマネージメントが書類のサインと彼らのパスポートを集めに来たのでそれを機会に部屋を離れ霧雨のなか帰途に着いた。

内容の濃密なコンサートの後、夜汽車の中では美空ひばり「HIBARI sings Fascination」 Columbia COCA-70364 が心地よく、1時半をまわって帰宅し居間に座ったときには最後の17曲目「Pretend」が丁度終わったのだった。

島田雅彦 : 溺れる市民

2007年02月24日 12時53分26秒 | 読む
島田雅彦 : 溺れる市民

河出書房新社 2004年 初版


02-04年に雑誌「文芸」、週間雑誌、「群像」などに掲載されたものを束ねて単行本にしたものである。

東京郊外、眠りが丘に関係して堅実な市民たちが溺れる欲望、その様態について書かれたものであるらしい。

しかし、目次を繰ってみると初級、中級、上級編と三部に別けられ初級にはショートショートが9作、中級には3作、上級には中篇が2作となっている。

欲望というのはここでは性欲であるらしい。 現に本をむき出しでリュックに入れて持ち歩いていた折に、ショッキングピンクに白抜きで高校生と思しき女学生が大きく持ち上げた腿の間に老人、学生、児童までを花で囲って挟んだ表紙を見て日本語の分からぬ知人がこれは何だと尋ねるのにいまどきの文学部の学生のための入門書だと答えればニヤニヤしながらいつの時代でもポルノは入門書にいいものだといいながら眺めていたものだ。

島田のものはこの15年ぐらい目を通していたがわたしはあまり彼のいい読者ではないようだし、ショートショートは私の好みではない。 いや、好みのショートショートはまだ見たことがない、というほうが適切か。 学生時代には友人たちは星しんいちや筒井康隆などを好んでいたがそのよさが分からなかったしアイデヤは理解できるもののいつも血肉が欲しいと思っていたから島田にも時々はそのように感じていた。

最近といってもこの3年ほどか、皇太子の嫁をめぐる連作は面白く読んだし、そのだいぶ前に漱石に関連して「彼岸先生」も好感をもったものだが、戦中、戦後を「細目雪」設定で性を元手に渡る三姉妹を描いたものには最後で置いてけぼりを食うような感じがしたのをまだ覚えている。

中上健次亡き後、その衣鉢を継ぐというような自負をもったのか若い文学を目指すものに向けての配慮というものが働いているのかというような勘繰りをした。 どこかで都市近郊文学だと自分を規定しているようなことも読んだ覚えがあるからこれがそうなのだろうと思う。

ここでも古今の作家の名前が散見するしその作家たちの作品、人となりを写して作品に仕上げてあるのだがかなりのところで爆笑した。 中でも大島渚監督の「愛のコリーダ」に絡めた「幻の女優」ではストーリーはともかくとしてこれが島田がみたノーカット版を見てからのものものだとしたら解釈に首をかしげるところもあった。

いずれにせよ40代の島田が性欲をめぐって作をものしたのだとすれば読後の印象はこの表紙に収束される。これならば昔見た山上たつひこ漫画の思想体系や文学大系にはもう少し血肉があったのではないかと愚考もしてみる。


クロッカスの花

2007年02月24日 11時44分08秒 | 日常

午後四時をまわって買い物からもどり角の経理士の事務所前の掲示板を見れば12度と出ていて曇り空であるもののこの温度なら暖かいなあと、この2週間ほどの推移を想った。 2,3日前夜中の1時をまわってここを通ったときには8度で手袋もつけずに自転車を漕いだのだからそれは必ずしも夜汽車の中で体に入れたベルギービールだけのせいではなかった。

それでそこに続く屋敷にそって自転車を走らせて庭にある山桜の古木を眺めて驚いた。 なんと、白にほんのささやかな紅がとけたかどうかという細かい花がびっしりと曇り空を背景に広がっていた。 それは中年以降の女性の着物の柄に合うような、米寿の贈り物にも喜ばれそうだとも思ったのだが、どれ、安物デジタルカメラに収めようとするとこれではとてもだめだと気がついて、頭の中でシャッターを押して記憶だけに留めた。 光の乏しい満開を撮るのにはとてもこんなちゃちなものではいけないからだ。

しかし、ここを毎日のように通るのだがこの時期にこのような満開をみたことはない。 暖かいのだ。 うちの表の木蓮の木にも芽吹く様子がみえるけれど、しかし庭には芝生は柔らか味のない硬い緑のものだけれどほかにはことしは雪割草は雪もないので花は見せずどこから飛んできた種のものだろうか家族の自転車で踏まれてもひょろひょろと咲き始めた一株だけの惨めな黄色いクロッカスだけがうちの一輪挿しよろしく地面に揺れている。

夜食

2007年02月24日 10時23分20秒 | 喰う


「喰う」のコラムは1年前ほどからほとんど開店休業だがそれは基本的に日常の食事はそれまでに書いたものと変わらなく、食餌療法の役目、というより日常どんなものをどれだけ口に入れているかというものを記録した一つのサイクルが終わったようなのでもういいかと止めたからだった。

半分定年生活に入ってから日常の生活はそれまでと変わり、完全に夜型となり朝食をずらせて朝昼兼用のブランチというものにしているがブラインチといっても内容はそれまでの朝食とはまったく変わりがない。 水分を補給するために濃いミルクティーをマグカップに2杯、500cc、毎日のことだ。 良質の紅茶でない限りはカフェーでもお呼ばれでも自分でティーバッグを按配してこれで通す。 オランダ流の紅茶は飲めない。 イギリスではコーヒーは飲めないがミルクティーはいい。 それに倣う。

で、夕食だが、バリエーションは大して変わりなくその代わり夜食が午前二時前後に入るようになった。 たいていは夕食の残りであったりインスタントラーメンか餅を焼いてそれを虫養いにするという具合だ。

今夜の場合は遅くまで起きていた息子が冷や飯にお茶漬けの素をふりかけ、それにわさびをチューブからひねり出し、熱湯をかけたものをずるずるたったまま口に流し込み今夜初めてガールフレンドの両親とその家で食事をした話をした。 私はといえば夕食のザワークラウトを直接なべからフォークですくい、ソーセージと豚肉の混じったものを口にしながらでビールを飲みそれを聞いた。 秋からは二人で同じ町の大学に行くらしい。

家の女どもは夜食は摂らずちゃんと規則正しい生活く眠り、たまに夜中に起きたときは暖かいミルクを飲むぐらいなのだが我々ぐうたら男どもはどうもそれでは持たないようだ。

私はたまには夜食代わりに林檎や果物で酒をのむのだが、安い赤ワインでバナナというのは悪くない。

老ヒッピーの逆襲

2007年02月21日 04時59分56秒 | 日常
夕方、ホッケーのトレーニングに行くからと息子が自分で当番の夕食を早めにパスタで簡単に仕上げて同じく学校が1週間春休みの娘がそれではイチゴのババロアをデザートに作ろうといっていたものを冷蔵庫からだしてきて皆で食卓につき家人とワインで夕食を済ませたら夕方6時をちょっと廻ったところだった。

曇り空なのだがさすがに日がそろそろと長くなってきたのかもう暗くはない。 地軸の動きが徐々に感じられてそういえば公園や道端のあちこちでクロッカスの黄色や青い花が見られることを思い起こした。 

自室に入りインターネットで日本の新聞や映像付の日本のニュースなどを見ていたら家人が風呂をたてて自分が先に入ったので、私にはいらないか、と誘ってきた。 彼女はこの何日か心身ともに調子が悪い義父、その世話のために疲れた義母まで風邪をひいて寝込んだから姉妹連中と繰り合わせて交代で親の世話をしに出かけていたので多分その肩こりをほぐすための風呂でもあったのだろう。

昼前に仕事に行く前にシャワーは浴びていたので今夜の風呂はゆっくり横になって何もすることもなくただラジオの音楽か7時からの1時間ほどある文化トークショーでも聴こうと湯に横たわってスイッチを入れたら元気な老ヒッピー詩人の声が流れてきたのだった。

Simon Vinkenoog(シモン・フィンケンオーフ)
http://nl.wikipedia.org/wiki/ (オランダ ウィキペディア) 

私の父より一つだけ若い1928年生まれである。 母親に育てられ早熟で賢い子供であったのだが反抗心が強かったらしい。 落ち着きもなくいじめにもあったらしいが活力がありすぎるぐらいあったらしい。 生活の中に戦争も体験している。 大戦後は49年から56年までパリに住みユネスコで働くかたわらオランダ語で散文を執筆していてそのとき以来オランダに戻ってからも小説、詩、文を製造し続けているのだがパリ時代からオランダ、ベルギーの文学畑の重量級、ノーベル賞ノミネートかといわれる作家数人も含める芸術家と交流を続け60年代のドラッグエージの洗礼を受けるがすでにパリ時代には十分の予行演習があったものとみなされる。 特にLSDの効果を創作に持ち込み68年から数年前までヒッピー系の雑誌の編集にも携わっていた。

興味を引いたのは、この人のことはあちこちで引っかかっていたもののまだ60代の中ごろかと踏んでいたから若くしてヒッピーの中を泳いできた者と思っていたのだが今そろそろ80に手が届こうかという年齢をこの番組の紹介で知ったからだった。 すると60年代のヒッピー旋風ともいうころには30代の半ばから40代の初めだったことになる。 これでは筋金入りのヒッピーだ。 すでに物事をわきまえ、世界の動きを身に沁みて体験してきた彼の60年代でありパリの50年代も大人の仲間入りとして経験している。 私が個人的に知り合った写真家エド・ヴァンエルスケンのパリ時代の写真の中にもそういえば今はノーベル賞を欲しがっていそうな作家の若い頃と並んで彼の若き姿を見たような記憶がある。

60年代に少年時代を経験した団塊世代の尻尾の自分にはその時代の影響は物事が終わりつつあるものを見てきたという感慨があり、学校、大学の中でも騒乱はあったものの手探りのようでそのうちすべて目の前から消えて卒業後はみなちりじりばらばらに社会の中に溶け込んでしまい挙句が今の状況である。 今、回顧的に報じられるヒッピー文化は消費されるべきの空疎なものに成り果ててその実質、生き残りをみることはほとんどない。

耐えることなく言葉を口からつむぐ老ヒッピー詩人は若いインタビューワーに答えてその当時の状況、製造した作品について語るのだがフリーセックス、ドラッグ、実験芸術などの質問の言葉に対して当時の状況に絡めて精緻な記憶と分析力で現在では神話と成り果てたそれぞれの言葉の意味を子供に説明するように胡椒混じりのつぶての言葉を投げつける。 そのいちいちに湯の中で笑いがひろがり湯が自然に熱くなるのを感じるのだった。 私はもともと詩はわからないと自覚しているのでそれに外国語で語られるものは、ほとんどわかってもキーワードにかけられている重力が感じられなければその世界が剥落することもあり気を入れて聞かない。 

けれど彼の息せき切ってつむぐ言葉のコラージュともいうべき朗読を聴いていてそのメッセージを理解したと感じた。 まさに戦後すぐの実験絵画、ポラックやコブラ派の抽象絵画の世界だったようにも思う。 それは音楽の世界とも共通して抽象音楽に熱を持たせたフリージャズのものでもあるから、50年代からそういうような試みを行っており、現にネットで拾ったフリー・ジャズの紹介サイトにも多分80年代だったのだろうがオランダの代表的フリージャズメンたちと朗読したものが出ていることから現在でも健在だ。

「Bo Vande Graaf(Sax)を中心に、Michiel Braam(ピアノ)、Fred Van Duijnhoven(ドラム)とSimon Vinkennoog(語り)によるバンドです。BBBやI Compani的なとぼけたサウンドはめちゃくちゃオランダ的!! 」   日本版グーグルで検索したらフリー・ジャズ関連で出てきた。 ここでは語りとなっているがこれは彼のオランダ語での詩の朗読である。

彼の詩の朗読はさまざまに行われており、当時のアメリカヒッピー文化席捲の折にはアラン・ギンズバーグのような詩人には彼はそれに多くの影響を受けたものとして眺めるのではなく見事に自分の活動の延長上にあるものとして同調している。 つまり当時の影響された学生、若者ではなくもうすでに大人としてその真っ只中で生きていたということである。 

この日、若いジャーナリストがスカンク(マリファナ)でスタジオを充満しようかというような相変わらずのこのヒッピー爺さんの様子を紹介するのを聞いて、アメリカではほとんどアカデミックに成りはてた人種がここに変わることのない生活態度で生息しているのを寿いだ。

そしてこの日もラジオ出演は収入に貢献するものと定義して、老作家の予定表に書かれている数字を覗きその意味をインタビューワーから尋ねられてあっけらかんと出演料だとつぎつぎにその額を並べていくのにはヒッピーの面目躍如たるものを見てまた風呂の湯を笑いで波立たせたのだった。

絶えず社会に言葉のつぶてを投げかける老詩人がプロモーションにわざわざスタジオに入ったのは去年オランダのロック、ポップで賞を受けたSpinvisというバンドが実験的に演奏するところで詩の朗読をしたものが出たことのためだった。 このグループのCDは家人の誕生日プレゼントの希望リストにもはいっていたものだ。

日本のネットではこのCDについて内容はほとんど書かれていない。

http://www.lastfm.jp/music/Spinvis+%2526+Simon+Vinkenoog

80に近づいた詩人に、今では自分の葬儀に希望の音楽を流したりメッセージを用意したりすることが多いがと問われてその用意は一切ないし、自分の日常、作品がそれであること、死に対しては一切恐れはないしその準備はLSD体験でできていると答え最後まで言葉と世界を同一化しようとする態度にほとんど湯あたりしそうになりながら50分も浸かっていた浴槽から冷たいビールを求めて出たのだった。

傷跡

2007年02月18日 09時46分35秒 | 日常
義父の調子がはかばかしくない。 

ま、80を越せば誰しも何がしかの持病や過去の危なかったことの一つや二つはもっているし、若い者からすればそろそろお呼びがかかっても不思議ではない、と考えるものだ。 5年ほど前に肺がんで弟をなくしその義妹を3ヶ月ほど前に送り、地元の盆栽協会の理事をしていた兄を2年ほど前に病院感染のエイズで失い、その年では今度は誰の番かということも村の日曜礼拝の教会で顔ぶれを見ていると当然の話になるものだ。 私もそれぞれそのおじ、おばたちをを感慨をもって送った。

戦中、戦後と世の中を見て来、今ひ孫も何人かいるまでになりゆっくり余生を楽しんでいい時に長年の苦労が体のシステム疲労を早めている。 気管支喘息、糖尿病の毎食前のインシュリン注射はもう日常になっていたのだが子供たちにしてみれば昔あれだけ飲酒、喫煙の生活をしていれば当然だというけれど戦前戦後は酒は飲めないと、タバコぐらい吸えないと、というような風潮があった。 私の若いときもそうだったし、今も多少とも残っているのではないか。 けれど、今、昔のことが応えてくるのはそれだけではない。

私が初めて義父に会ったのは日本人がパリでオランダ人女性のフランス語家庭教師を殺害してその体を喰ったという事件の直後だった。 初めての会話が、お前もうちの娘を喰うのか、というジョークでこちらが喰われてます、というのが精一杯の返事だったのだが、そういうピリッとしたジョークを言うぐらいであとはどこでも人前では控えめな紳士だったのだがその過去を家族から徐々に聞くに及んでああここでもか、と思ったものの当然であり、これが私たちの親の生きてきた時代だったのだからだ。 

私の物心がついてからはいつも戦争の影がつきまとわっている。 それを我々はこの前の戦争というのだけれどそれは第二次湾岸戦争ではない。 二十年戦争といったり太平洋戦争というものを含む第二次世界大戦である。 この人もそれを引きずっている。 というより頭から離れないのだ、システム疲労が進むとそのようにもなるらしい。 そうでない人もたくさんいる。 現に今日義父のうちで話した教会、家族の友達の老人は過去は似たようなものではあるが、過去の醜いことも清算しなければしょうがない、でなければ前に進めない、といって屈託がなかったが、それも性格というものもあるようだ。

二十歳にならないうちに隣国ドイツに占領され強制労働のためルール工業地帯で数年すごし言葉がわかる人間どうしが一方を家畜のように扱うのを、いや扱われるのを経験し、味方の爆撃があるときには防空壕の外に置かれ、戦後は敵国日本が占領していた旧植民地インドネシアの独立を抑えるために兵士として惨めで寒い北ヨーロッパから熱帯のインドネシアで幸いなことに銃火を交えることもなく帰還したもののそれでもかなりの重荷であったようだ。 

数多の兵士、被占領民が経験するように厳しく耐えられない記憶を暗黒に閉じ込めることがあるようだ。 籠もりがちで言葉少ない人ではあるが他人には自分の体験は理解できない、と家族の同情を厳しく拒絶する。 自分の体験を時にひりひりするほどの気持ちで家族に話しても沈黙で迎えられるもののそれでも繰り返さずにはいられなくそれが疎まれ結局自分の腕の底に収めて無言、退役軍人会にも関心がない。 そういう中年は掃いて捨てるほどいるだろう。

中年には仕事があり家族を養う仕事もあり気も張り体も思うとおりに動くしそのことを当然とするのでこの闇も心の意識の中には浮かぶことが少ないのだが、余生を油絵の模写、工作や妻の伴侶として表向きには穏やかな隠居生活を何とか続けていく健康が保たれていれば幸いなのだがそのように徐々に薄暮のかなたに消えていくのが普通のこととされているところで、このところの暖冬ではありながら湿度の高い気候に喘息、肺炎の症状があるとして入院した。 はたしてそうだったのか疑問が残るとも言われている。

その前から義母の訴えがありうちの人は何時間もソファーに深々と身を沈め、新聞を読むわけでもなくテレビも絵筆にも興味を示さず何やらおかしなことをいうと言われていたが我々がでかけると別段そういうこともなく普通にしゃべるのでそれでは息子たちがたまには誘い出してどこかにいこうと話もしていた。

2,3日の入院と、その間の義母の休息、患者の訴えに対する検査結果はさしたることはなし、退院して結構、というのだったが冷ややかな病院の部屋が気に入らず夜中3時に急に、オレは帰る、と言い出した。 子供ではなし、普通にそれで帰れるものではないのは周知の事実だから、ゆっくり休息して翌日帰ればいいと当直看護婦に言われたのは当然である。 何があったのかこのころから少々錯乱気味だ。 そこで押し問答の末、警備、警察の人員が呼ばれ、男たちの制服を見るやいなや何かが記憶の中から弾けたのだろう、暴れた。 収拾がつかず、そこで私の義妹が真夜中に電話で起こされ父を引き取りに出かけ帰宅した。 

その後、連絡を受けた子供たちは母親を見舞い、別室で眠る父親の今後の対応について話し合った。 家庭医、母親、子供たちの連携がなければ一人や二人だけでは難しいことになるのは目に見えているし、長引くかも知れぬ。これはくるべきことの予行演習でもあるようで、他人の家族の例とも比べられ、同様のことが義弟の父親にもあったと伝えられた。 その人は晩年耳が遠く、目もかなりあやしく家族のパーティーでは何時間も同じソファーに座って飲み食いするだけの穏やかな爺さんだったのだが聞いたことがなかったもののそういうこともあったらしい。

義父に関しては来週まで様子を見て家庭医と連絡をとりあって、もしまた何かあれば再入院ということになるに違いない。錯乱がたびたび続けばしかるべき処置をすることになるのだが、そうなれば段々我々が見知っている人から離れていく。 情緒のとがった角を削り取るのだ。 そうするとたいらな何もない茫洋としたものがあるだけになる。 帰りに義母が私の肩に顔を乗せて、そんな人にしたくない、と泣いた。

人生の幕引きの時期に今まで抑えていたものが老齢のシステム疲労から湧き上がった心の傷はそんな歳になって癒せるのだろうか。他人事ではない。




五条霊戦記 GOJOE: 観た映画 Feb. 07 (4)

2007年02月16日 14時36分05秒 | 見る
五条霊戦記  GOJOE

2000年  137分

監督 : 石井聰亙
助監督  :藤江義正
脚本  :中島吾郎 石井聰亙
原案  :石井聰亙 大崎裕伸 諏訪敦彦
音楽  :小野川浩幸
 
配役
   
遮那王 :  浅野忠信
鉄吉 : 永瀬正敏
武蔵坊弁慶 : 隆大介
湛塊 : 船木誠勝
平忠則  :岸部一徳
朱雀法眼  :國村隼
阿闍梨  :勅使河原三郎
朝霧  :粟田麗
芥子丸  :細山田隆人
剛人  :成田浬
少進坊  :鄭義信
聖  :光石研


中途半端な映画だ。  歴史ファンタジーのジャンルに入るのだろうか。 3年ほど前に帰省したとき京都の友人と辻清明神社の前を散歩していて数年前まで寂れていた神社が一時のブームで吹き返し友人の娘も巫女としてアルバイトで潤いおどろいたといっていたのをこの映画で思い出した。 のろい、護摩焚き、あまたの呪術空間で敵味方が通じ合うのだ。 まあ、1000年になろうかともいうべき時代背景なのだから何をやってもいいのだろうか。

子供のころから役行者にゆかりのある中学校の同級生ともいうべきものが住職を勤める修験道の寺で、そこには現在も家族がもう何十年も月参りをするようなところで子供の頃から渓谷つたいの聖域を経験しているからこの護摩、加持祈祷の様子はわかるもののこれでは漫画、劇画、軽量級今様歴史ファンタジー小説の映像化ではないか。

夕食後のワインの効果もあるのか暗く不透明な映像の中で3,4回こっくりしそうになった。 2000年当時のCGではこのように武者が鬼か悪魔に首を切り落とされて惨めな血飛沫が赤い噴水になり飛び散るお粗末さなのかとあきれたのは2箇所だけではなかった。

末法、陰陽道、義経伝説にしても荒唐無稽だ。 蝦夷からモンゴルにわたりジンギスカンになったというものも事実としてあったが、それに影武者のひねりを利かせて弁慶と義経を戦わせるというものだが、結果がお粗末なような気がした。 結局、映像効果と殺陣をみせただけだったのかもしれない。 

殺陣で思い出したのだが、私がまだ幼少の頃、近所の叔父さんに連れられてちゃんばら映画を見たのだけど、それは印象深いものであったものだが中村錦ノ助、後に萬屋と姓を変えて子連れ狼を惨めに演じた役者が、源九郎と名乗り変幻胡蝶の舞を宮本武蔵の二刀流かと流麗に駆使して当時まだ出始めた頃のカラー大スクリーンの青をバックに白い衣装が印象的だったことを本作、浅野の二刀流を見て思い出した。

1962 源氏九郎颯爽記 秘剣揚羽の蝶 / 制作:東映京都 役名:源氏九郎 初音の鼓
というのがクレジットにあるがそれでは私の中学生以後の鑑賞となるのでこれには観たという蓋然性がないので、この作より前の57年、58年のものを観たではないかと感じる。 これらも本作の参照映画となっているのだろうか。 香港や中国の映画のこのようなジャンルではクリシェとなっている殺陣の様式があるがここでは闇の闘いが中心になっており白日の下でのシーンは少ない。 

今時の若者には、一時的にせよ、漫画経由の映像に興味を引くものがあるのだろうが、昔から、京の五条の橋の上、、、と今もその橋に八艘飛びかと見まがうブロンズ像があり、そのそばを歌って眺めてきたわれわれの弁慶、牛若丸の話が本作になったのなら書店の棚にこの20年ほど増えたこのジャンルのパルプ文庫本の映像化として納得はいく。 それに勅使河原と、私事、昨日もイーストウッドの硫黄島玉砕を主題にした映画でまたもや好演したとオランダの高級紙に写真入で紹介されていた渡辺謙と見まがう 隆大介の演技に観るべきものの収穫があったと記すべきだろう。 

台詞に関しては、過去の時代劇映画にはいくら模造の歴史的言葉遣いが蔓延していたとはいえその擬似日本語に慣れてきたものにとってはどうしても本作の現代語に浸りきれないものがある。 これが我々のような年寄りでhなく20代をターゲットとしたものであるのなら納得がいくがそれではここでこのDVDを選んだ自分は大きな誤ちをしたという自覚しか湧かない。

またやってしまった、、、

2007年02月16日 09時02分15秒 | 日常


この間、といってももう一ヶ月ほど前になるが、日本に帰省したあと戻って何やかやと忙しく、日曜の朝、急に用事が入ったもので定例の射撃の競技会に遅れそうになったので週日、週末の午後には交通渋滞もしばしば起こりラジオでもしょっちゅう報道されている高速道路を飛ばしてその日の会場、ハーグ近郊の射撃クラブに出かけた。

高速では引っかかることはないのだが高速を降りて一般道で引っかかることが多い。 時にはカメラがぴかっと光って、しまった、と思っても後の祭り、その後法務省交通局から罰金の振込み用紙がとどくのを1ヶ月ほど待つこととなる。

これを懲りずに何回もしている。 ある場所ではわかっているものの1年で3回も引っかかったことがある。 だからよく運転するところではどこにカメラがあるかわかるから従順に速度をおとすのだが、それでも場合による。 大抵の場合はそれまでのスケジュールに押されて急がざるを得ない場合だったのだ。

今回も同じだが、このパターンはほとんど制限速度が50kmのところを10kmか20キロメートルオーバーで、今回の場合20kmほどオーバーだったから12000円ほどとなる。

この罰金も交通安全のための何がしかの基金になればまあいいか、と思うのだがもうかなり古くなった我が家のステーションワゴンも今日定期検査と車検を合わせたら18万円ほどになるそうで、家人にこの3年ほどの罰金で間に合う額だったのに、といやみをいわれたのには少々思うところがあった。 実際家族の用事に関係しているところでスピード違反が起きているので自分だけのゆったりドライブではなんともないのであるのだが、困ったことには一方、あまりのろのろ運転では眠りそうになって往生する。 

実際土曜日に、3人の義妹の家族と両親のうちを回って何やかやと6時間ほど過ごしたのだがこのときにはポカポカ陽気でハンドルを握ったまま眠りこけそうにもなったのだ。 

もう30年以上も昔、四国の山地から川之江に抜けるあたりで居眠り運転で2mほど段差のある青田にぼろぼろのカローラを突っ込ませた実績があるので居眠り運転はできないけれどこの陽気ではどんなものか。