暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

風呂で聴くためのラジオを買ったのだが、、、、

2015年05月30日 22時06分02秒 | 聴く

 

重宝していたソニーのシャワ・ーラジオが壊れてからもう大分経ちそれに代わるものを探していた。 そんなことも下のように記していた。 

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/64288368.html

もうあれから大分になると思って日記を遡ってみるとそれからまだ8か月しか経っていない。  それだけ風呂場のラジオが恋しかったということだろう。 それがふとしたことからこの間町を散歩している時に古い電気屋に入り、まだ学校を卒業したかしないかというような若い店員とステレオやラジオの話をしていてシャワーラジオがどこを探しても思わしいのがない、と言っているとそばの古狸の店員が寄ってきて、それなら新製品があると言って紹介されたのが Tiboli Portable Radio Pal+ というものだ。 このブランドのものならもう20年ほど前にオランダからデンマークにクルーズの旅をしたときに船内の売店でスカンジナビアのデザイン商品の中にあったのを見ていて、音質ではこの手のラジオの中では満足のいくものだとは承知していたけれど浴室で使える製品があるとは思わなかったからすぐにこれを買ってリュックに放り込み家に戻ると8か国語で書かれた簡易説明書をもとに簡単なセッティングをした。 

バッテリーが内蔵されているので2,3時間充電するだけですぐ使えて片手で持ち運べるので楽である。 リモコンでセッティングしておけば押したり摘みを回したりするだけで音質も音量もFM局も選べるから楽であるし何よりも音質を調節できるというのが他のシャワーラジオにない特徴だ。 風呂場なので周りの壁によく反響し低音がよく響くけれど少々こもりがちなのでトレブルで高音を利かせるようにして音質を調整する。 そんな風にセッティングしておいて夕食後久しぶりに風呂を立ててのんびりとFMの音楽を聴いた。 

その中で特に印象に残ったのがクラシック局から流れてきたロシアのピアニスト、 スヴィヤトスラフ・リヒテルが77歳の時、1922年に録音した ジョセフ・ハイドン ピアノソナタ 31番 だった。  荒っぽく言えばバッハとモーツアルトの合わさったもののように響き、それまでに聴いたリヒテルのイメージからはとても柔らかくなっていると思った。 

結局1時間以上風呂に浸かって音楽を聴いたりニュースを聴いたりしていた。 そのあとネットで聴いたCDのことを確認してアマゾンでリヒテルのハイドンを注文した。 リヒテルを初めて聴いたのは1969年だったと思う。 天王寺図書館のレコードライブラリーでリヒテルがベートーベンが使ったピアノでベートーベンのピアノソナタを弾いたものだったと記憶している。 何年か前リヒテルの晩年のドキュメンタリーを見て感慨深いものを感じた。

シャワーラジオだと書いたがそうでないことが分かった。 箱に入っている8か国語の説明書では音質調整のことが一切出ていない。 だからネットでメーカーのサイトに入り詳しいインストラクションマニュアルをダウンロードしたものを手に調整した。 そしてその冒頭に書かれている一般の注意事項を読んでいると風呂場での使用に向いていないこと、水や湯のはいったバスタブの近くに置かないこと、湿気をさけること、と一般の音響製品と同じ注意事項が書かれていた。 前のスピーカー以外はプラスチックのケースでシールされており後ろにはいくつかの接続ホールがあるけれど使わない時はゴムのジャックで防ぐようになっていて金属のアンテナが立っているのでそれだけは錆びる恐れがあるかもしれない。 それにスピーカーに湿気が行くと音質が変わる恐れが大だ。  店員に古狸と言った意味がここにある。 この注意事項をたてに返してもいいけれどちゃんとしたシャワーラジオがないのが分かっているのでこれが使えればそれに越したことはないのだ。 だからこれから5年使えれば上出来だと踏んで湯を浴びせたり浴槽の中に落とさないように気を付けて使うことにしようと思う。 5年はどうだろうか。 2年もてばいいとするか。

 


橋本治 著  暗夜 Black Field

2015年05月29日 18時10分03秒 | 読む

 

橋本治 著    暗夜 Black Field

河出文庫 

1995年 5月 4刷  260頁

 

本書は1981年10月に単行本として刊行されたものに加筆した作品だと末尾にしるされていて、鈴木貞美が「夢の底の底への旅」と題してして後ろに解説が加えられている。 その題から見ればルイ=フェルディナン・セリーヌの「夜の果てへの旅」になぞられているのだろうし読了後本書の更なる理解のために役立つかと解説を読んだのだが鈴木の文は自分が感じたのと同じく読了後に、例えばローラーコースターに乗って降りてきた後にどのようにローラーコースターが上下してその周りに見えるその模様と如何にその軌道に翻弄され、その感情の起伏が他の橋本の諸作品とくらべると意外であったかといことに加えて、自分も今さっきそのコースターを降りてきたところであるからそのスペクタクルを単になぞった記述では何故橋本がこのようなローラーコースターを構築したのか、その意図は何だったのかを考える糸口を示していないことに少々の落胆も感じたのだったけれど、それもローラーコースターから下りて出てきてすぐの感想であるのだったらそんなものだろうとも思い直しもし、おいおいとまたそのうちコースター体験の非日常の瞬間を思い出しつつそれを反芻することになれば自ずから答えも出るかもしれないだろうという少々投げやりな解説者の心遣いからこうなったのかもしれない、と同じような感情の起伏を経験した自分のこととあわせて鈴木の橋本に沿ったような散文調の付録は忘れることとして、自分の想いは、どうして、、、、ということに戻る。 1981年の橋本が世に出した文学作品であるというところにその鍵があるのかもしれない。

橋本の作は、デビュー作の68年東大駒場祭のポスター、77年の「桃尻娘」には時間を於かず接している。 それ以後は評論、随筆などで目を通すだけという具合で特に身を入れて読むという方ではなかった。 2002年の『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』新潮社、は三島由紀夫に関して書かれたものの中では野坂昭如の『赫奕たる逆光 私説・三島由紀夫』文藝春秋 1987年と並んで至極まっとうな佳作だと思った。 それにそのころ毎月目を通していた文芸雑誌の連載で小林秀雄のことを論じそのメモを記していたこともある。 2005年だった。 それにそこのころ橋本の「橋」を文学雑誌で読み、それを初めて橋本の「文学作品」に接したと感じた。 それではそれまでの評論、随筆は別にして桃尻娘はなんだったのだろうかとも思う。

この何年か毎年年末年始の時期に帰省しそれまで帰るたびに続けていた書店通いでめぼしいものをまとめ買いし、多くなれば船便でオランダに送る、ということを続けていたのだがこの数年めぼしいものがめっきり少なくなり、自分の思考能力、知的好奇心が衰えたのか心のどこかで読みたいと思っているような著者の名前、作品、好奇心をくすぐるような題名のものが見つからなくなり本屋めぐりもお座成りになってきていた。 それにもう本を買ってもわざわざ別便で郵送することもなく乱読の気ままに買ったものでもスーツケースに入る量ほどにしかならない。 今年の正月あけに戻ってきてスーツケースを開けてでてきたものの中には橋本治のものが多かったことには少し驚いた。 

『橋本治と内田樹』 内田樹共著、筑摩書房、2008年

『浮世絵入門 恋する春画』 早川聞多赤間亮橋本麻里共著、新潮社(とんぼの本)

『ひろい世界のかたすみで』 マガジンハウス、2005年

『風雅の虎の巻』 作品社、1988年、ちくま文庫

2011年『窯変源氏物語』1–14のうち1-3 原作:紫式部源氏物語』、中央公論社、1991–93年、中公文庫

『その後の仁義なき桃尻娘』 講談社、、1983年、講談社文庫

『夜』 集英社、2008年 

『初夏の色』 新潮社、2013年

それに加えて本書である。 別に橋本のものを集めようとも特に初めからこれをと目指して買ったものではない。 たまたま本屋の書架にあったものを見て買ったものだ。 上のリストの作品はオランダに戻ってからもう既に読んだものもあるしまだ途中のもの、手も付いていないものもあるけれど読了したものについてはまた別項で記すかもしれない。 取敢えず本作について。

その前に本作を読んでいて印象に残ったことがある。 それは他の作品でも感じられること、ことに評論、随筆を読んで感じたことに共通していてそれは橋本の思考に関係があるかもしれないと思うので記しておこうと思う。。 そのことが徐々に明らかに感じるようになった材料が対談集「橋本治と内田樹」で、自分は内田と同い年、橋本は我々の二つ上ということがあり、我々が過ごしてきた時代背景の違い、それに内田と橋本の村上春樹にたいする態度の違いに興味と驚きをもった。 橋本も村上も日本の文壇から距離を置いているといわれている点では共通しているけれどその文学に対する態度、文体等にはほぼ正反対のものを見る。 特に橋本の村上を論じないというより何事のようでもない、という態度にもそれが明らかで、そこには内田が村上に煎れこむような態度には、自分にとってはその意外と映りこの対談集は甚だ興味深かったのだが、この対談集が自分を本書に向ける後押しとなっていたことは確かである。 対談集で見られる橋本の自己言及に於けるその奔放な論理と自分の論を述べるときの筋道の建て方にこの人の特徴を見るようだ。 論の途中、筋道を補強する材料提供の緻密さはただ微細なものを積み上げるだけのものではなく必要最小限でもこうなった、という形のものである。 

自分はファンタジーやSFは苦手である。 描かれている世界が現実から離れている場合にはそこに描かれている世界について行こうという辛抱が足りなく、ああこれは本当ではない、と匙を投げてしまいがちだからだ。 自分には想像力が足りないとも思う。 けれど隠喩なり譬えは分かろうとするしある程度分かるつもりではある。 本作の世界は現実ではない。 けれど、そうすると文学世界は現実かというとそうではない。 写実的であるものが多くともそれは現実ではなくどちらも虚構世界であってそれぞれの世界が現実とどれほど距離があるかの違いである。 ある場合には現実から思い切り距離がある場合に現実に近づける、という場合があるかもしれないし本作がその試みの例かもしれないと思ったのは飽きやすく投げやりになりやすい自分が本作の中で途中で突飛なもの、ついていけないものとして放り出さなかったことと、いつもなぜなのか、というような疑問に引っ張られて読み続けたということからも想像できる。 そのなぜ、という餌に食いついて初めからファンタジーのようなSFのような本作を口から離さないで消化しようとついて行ったのはその餌の種類と量、餌を引っ張っていく釣り人の竿さばきの上手さの故だったのだろう。 だから自分は最後まで食いついて釣り人に釣られたのだ。 前に本作をローラーコースターに例えたけれどそれは適切ではない。 ローラーコースターならば乗ったら安全ベルトで縛られ、いやでも終点まで自分でそこから下りることはできないが釣りの餌で引っ張られる場合には嫌なら吐き出す、釣り糸をかみ切る、ひっかけられているとしてもそれと争って自分を傷つけても離れる、諦める、などの選択肢がある。 自分の感じでは奇妙な餌に誘われて喰いつき引っ張られるままに海底の様々な景色を愛でたあと餌を喰い終わった後は針が消え重い釣竿は釣り糸とともに暗い海底に沈んでいくのが見えるような体験だったと思う。

解説で鈴木は鶴屋南北の世界を想起させることを言っている。 古典、特に歌舞伎を出発点としてきた橋本世界には当然のことではあるけれど、ことに終盤、本作の題ともなっている暗夜の章での記述はヒエロニムス・ボッシュの世界を思わせる。 それに三島なら好んだであろう主人公の大学生と眠れる美女との交感、その女が彼女を看取る医師の眼前で朽ちる様子は平安時代の絵巻物にある小野小町変化の図を見るようで古典の視覚美術やものを編むことに長けた橋本の材料を選び自分のデザインに従って練った作品であるから何も知らずに喰いついた自分が途中で嫌になったり諦めたりして吐き出すこともせず最後まで辿りつけたのだろう。 この文庫全体のものか本書だけの装丁なのかはっきりしないけれど少々レトロな粟津潔のデザインが合うようだ。 そこに何かのぐあいに指を切った時に染み出た血か苺の大粒を齧ったときに付いた果汁か判別しがたい汚れをつけたまま本書を閉じた。

暗夜と漢字で書かれていて読みが出ていない。 アンヤであるのかヤミヨであるのか声に出してみても落ち着かないような気がする。 それをそのままにしておいて Black Field とあるものをそばに置いて重ねるとそこには本作のイメージが広がるようでもある。

 


プロヴァンスを歩く(6) Aix en Provence で小休止

2015年05月27日 22時14分53秒 | 日常

 

2015年 5月 5日 

5日の朝、他の3人と Jouques で別れ、一人バスで Aix en Provence に向かった。 これから3泊するホテルとその周辺、観光地でもあるこの町の景観は前もってグーグルマップスとストリートビューで見てあったからバスが町に入ると急に来たこともないのに見たことがある通りに入ったので驚いた。 そこはホテル Globe の通りだった。 停車のボタンを押そうとするとバスはもうそこを通り越してそのまま終点の方向に進み、左足の膝が痛むのであまり長く歩きたくはなかったけれどバスターミナルは街の中心地に近いこともあるのでグーグルマップスの記憶をもとにそのまま終点まで乗って行った。 それまで毎日15km以上山坂を歩いていたから足が痛むといってもホテルまで1kmというのは何でもなく、それにこの街はプロヴァンスの都会でもあるから御上りさんの気分にもなり、見るもの全て物珍しく一人のんびりきょろきょろと杖を突きながらバスターミナルからホテルの方に大通りを向かうと400mほど行くと中心に大きな噴水のあるロートンデと呼ばれる周回交差点があり、そこには都合のいいことに大きなツーリストインフォメーションセンターがあったのでそこに入って英語で尋ねると、たどたどしい英語でオバサン係員がどっさり英語とフランス語のパンフレットをくれた。 国籍はと訊くので日本と答えると日本語のものを呉れたのだがそれにはポール・セザンヌゆかりの町であり彼のことがことが細かく書かれている観光案内だった。 よく見るとホテルの近くに彼にまつわる場所が幾つも示されているので後でそこを散歩がてら廻ってみることにしようと決めた。 日本から来る観光客はセザンヌがらみがほとんどなのだろうと想像した。 もし歩けるならば明日セザンヌが何枚も描いたサント=ヴィクトワール山に登るはずだった。 そこが今回のGR9のルートになっているからだ。 明日皆で山の北側の麓まででかけるのだがその麓というのは3人が今朝Jouquesを出発して夕方到着することになっている場所なのだ。 彼らはそこからバスで夕方このホテルに来ることになっている。 彼らにとっては明日の朝またそこまでバスで行きその麓から頂上をめざし山の稜線を6kmほど歩いて南側に下りてPuyloubier村からまたこのホテルに戻ってくる。 そして明後日はこの街で休憩と洗濯の予定になっている。

ホテルはその噴水から600mほど歩いたところだった。 ホテルの近くにセザンヌが結婚式を挙げた教会があるのだがそこを通り越してホテルに入り取敢えず午前中でもあるけれど事情を話しあとの3人は午後に着くことを言ってチェックインし自分の部屋のカギを貰い部屋に落ち着いた。 2週間の旅ではあるけれど連泊するのはここだけで、それは2週間の中間で洗濯日が必要だったからでもある。 リュックサックの限られた重量と容量では1週間分の衣服しか詰められないからこうなるわけで下着から上に羽織るものまですぐ乾き軽くて嵩にならないものを選んである。 それらは日頃身に着けるものとは少々趣を変え、綿を避けて、いわばジョギングウエアと同じ化繊のものが中心だ。 幸いこの期間中天気はよかったので寒さに悩まされることはなく流れる汗で日陰で冷たく感じるぐらいだけだった。 いずれにしても下着と靴下は洗濯する必要があり、ホテルのすぐ近くにコインランドリーがあるのを歩きながら見ていたので時間と距離を無駄にすることはなかった。

エクス・アン・プロヴァンス観光局公式サイト;

http://www.aixenprovencetourism.com/ja/

このサイトには街のあちこちが360度回転して見られる写真があり、上に書いた周回交差点もある。 けれどそのなかの Place des Precheurs という青空マーケットが出る場所では今回の旅行の救いの神ともなった店があってそれが写っている。  L’ORTHOPEDIE という骨・関節・筋肉の運動器系に問題のある人のための助具などを売る専門店なのだが、このあたりを歩いていて角に薬局が見えたから入って運動の時に使う膝のサポーターを買おうと思い女性に英語で話しかけてもなかなか通じない。 ようやく分かる人が出てきて持ってきたのが包帯でそれでは話にならないと話を繰り返すとここにはないから隣に行けという。 隣に行くとそこは化粧品店で話を繰り返すとそれは隣だという。 なるほどその隣のショーウインドウにはそういう専門店に見え幸いなことに店の年配の主人は流ちょうな英語を話すので話はとんとん拍子に行き巻尺で膝周りを測ってもらい適当なのを選んで身に着けてみた。 すると不思議なことに今まで悩まされていた痛みがどこかに消えて杖を置いてピョンピョン飛び上がることもでき、その主人も驚くほどだった。 これがなければここで自分の徒歩旅行も終わっているはずだったものがこれで一度に希望が湧いた。 それに加えてこれまで山登りで汗が流れ眼鏡がずれるのでフィットネスでも使う眼鏡を留めておくコードのようなものを訊ねるとスポーツ用具の店は旧市内にはなく、そういうものは皆郊外のスポーツ用品量販店か眼鏡屋だと言われそれは後日探すことになる。 

言葉の不自由なところで意思が通じるというのは安心するものだがこれでもフランス人は英語を話すようになったと思う。 35年前はほぼ絶望的だった。 それでも25年ほど前パリでは夜中に街を歩いている時警官と英語で立ち話ができるようになり楽になったと思ったけれどそのうち田舎でも大型スーパーでは店の責任者は英語を話すようになり観光地なら今は少々の不自由はあってもほぼ英語は通じるのではないか。 今回の旅では自分を除く3人はフランス語が自由にできるからこちらは何もしゃべる必要がないから楽ではあるけれど一人きりになると相手の言うことは朧ながら分かってもこちらからは話せないから困る。 だから押し付けるようにして英語でフランス語の分からない外国人で通すしか仕方がないわけだ。 それでもないも喋らないよりはよっぽどいいので話し続けることだ。 まだ日本語で押し通したことはないので分からないけれどそれでも黙っているよりはましなような気がする。

膝にサポーターを着け足取りも軽く市庁舎の前の小さな広場から路地を抜けて長方形のだらだらと少し坂になっている広場に来た。 Place des Cardeurs というらしい。 レストランが集まっているので昼食にパスタでもとそんな一つのテラスに座った。 メニューを見るとリゾットがあったので海のものが入ったものを注文して白ワインでもと思ったけれどこれだけ足が軽ければ明日からのあと半分の徒歩旅行も続行できると思い酒は止めて炭酸水のボトルを伴に旨いリゾットを口にした。 夕方他の連中とホテルで合流して夕食にまたここにもどってくることになる。

細い路地を抜けてセザンヌの家族が冠婚葬祭に使った教会がありその前が彼が絵を志す前に通っていた大学の法学部の建物だというので行ってみた。 今の大学は味もそっけもないコンクリートの箱に教室があるだけのものが多いけれど古いヨーロッパの町には古くからの建物があって味わい深い。 機会があればいろいろな街の大学の建物を観たけれどこの建物も味わい深かった。 隣には多分大学院であろうと思われる政治政策・経済研究部の静かな佇まいの建物があったので由緒ありそうなドアを潜り中庭に出てみれば少人数用の講義室から講義の声が聞こえていた。 このような大学の建物で学問を修めた若者と味気ないマスプロ教室から押し出されて世の中に出る若者の質には違いがあるかないか入れ物だけでは中身は判断すべきではないのかもしれないけれど日常こういう環境で生活する若者の方が将来への希望を育めるような気がする。 掲示板には講時間表が小さく出ているだけであることからすると上級コースの建物のようだ。 

セザンヌゆかりの様々な場所を歩き回ることでこの街の旧市街を見ることができて都合もよく5時を周ってホテルに戻ってみると他の3人が到着していた。  彼らがシャワーを浴びた後皆で街の中心に出かけた。  自分にとっては2回目で何がどの辺にあるか大体分かるようになっていた。 旧市街はそんな小さな地区にある。 ホテルから300mも離れていないようなところにほとんどがあるようなところだ。 ヤープは食い物にはうるさいほうで夕食のレストランは粗方頭の中に入っている。 古いミシュランレストランガイドのページを破って手帳に挟んでありこういう旅だから星のついているところにはいかないけれどガイドのお勧めレストランに目星をつけてそこに行くというのが方針だ。 皆彼に任していると楽なことは楽だからぞろぞろついていく。 この日はノルマンディー風料理屋の Le Poivre d'Ane というところでそこは昼に食事したレストランのすぐ近くだった。 

http://www.restaurantlepoivredane.com/index.php?PS=0

昼食事したレストランのテラスにならんでここのテラスもあるけれど小さなレストランの中のテーブルに落ち着いて37ユーロのセットメニューを選んだ。 突き出しから前菜、本菜、デザート、コーヒーと料理は旨いものだったが客が多かったからか時間がかかり3時間近く居ることになった。 昼買ったサポーターのことを話していると皆はホテルからここまで歩いて来たのを観察していてちゃんと歩けることに驚き、明日の1100mサント=ヴィクトワール連山登攀が実際にサポーターの効果があるかどうかのテストケースになると言った。 明日のことがあるので早々に宿に戻り就寝。 10時半だった。

 

 


新聞にレンブラントの使った和紙のことが書いてあった

2015年05月27日 19時21分15秒 | 読む
 

この間カフェーかどこかで暇つぶしに新聞を眺めていたらレンブラントが使った紙のことが書いてあったのでそれに目を留めた。

オランダの大衆紙ADの文化欄だったから他の高級紙とは違い詳しいことはほとんど出ておらず一般的なおざなりなものながらその意図はどこにあるのか少々測り兼ねながらも次のように読んだのだった。

2015年 5月 18日

 (アムステルダム発)

日蘭両国の研究者が共同してレンブラントが使った東洋伝来の紙の由来を調査していたものがこのたび結論を出した。 1647年ごろから晩年の1665年まではレンブラントは銅版画印刷のために主として和紙を使っていた。 時には和紙に筆で描くこともあった。 アムステルダムのレンブラントハウス美術館では来る6月12日からこれらの作品を展示する。 レンブラントが和紙を使用していたことは既に知られていたけれどその紙が日本のどこで作られたものか、どのようにして彼の手にはいることになったのかについては知られていなかった。 研究者たちは今回それが福井県の越前からのものであることを明らかにした。 それにこの地方は日本で一番最初に紙が作られたところでもあることとされている。

以上のような簡単な記事であって高級紙であればもっと詳しくレンブラントやその他の画家たちが当時使っていた紙、材料、技法、インクなどとその長短、和紙の性質などを述べることに紙面を使っているだろうし当然中国も含めた東洋からの紙の輸入状況にも筆が行ったはずなのだがなにせ大衆紙であり多分「レンブラント」と「日本」の組み合わせだけで記事になると考えたのだろう。 大衆紙ではそれ以上書いても誰も読まない。 それだけのことではないか。 それは「ゴッホ」と「浮世絵」の組み合わせで記事にするのとは基本的には変わらない。 異国趣味今なお健在の証であって、それはそれぞれの作家たちのものとしてではなく一般読者の異国趣味に迎合するものなのだ。 けれどその異国趣味も最近は少し捩じれた形となってこちらの若者たちのアニメ・コスプレの方向に向かっているという現象とも異端としては符合している。

レンブラントが生まれ育った町にもう20年以上住んでいる。 紙の原産地はともかく17世紀にそれがここに来た経路、手順には興味がなくもない。 そのためには態々アムステルダムまで出向かねばならないのだろうか。 レンブラントハウスには35年前に一度行ったことがあるけれど落ち着かないところだ、と思った印象があるだけだ。 このあいだプロヴァンスを徒歩旅行した時にゴッホが晩年に住んだサンレミの近くを歩いたけれど別に行きたいとも思わずそのままにしたのだがその代りたまたまポール・セザンヌゆかりのエクスアンプロヴァンスの街に三泊しセザンヌの生まれたうち、結婚して落ち着いたうち、父親の銀行の場所、セザンヌ家の屋敷、終の住所などを暇にあかせて歩いたのだが考えてみれば一人の作家のそういう軌跡を歩いたのは日頃生活する町にレンブラントの生家や父親の風車、行った学校、絵の先生の家などがあってそういうところを通るたびにああ、ここを嘗てアムステルダムに出るまでレンブラントが歩き回っていたのだな、と日頃思ったりすることからセザンヌ巡りとなったのだろうと思う。 セザンヌの絵を特に注意して観たという記憶もないし、どちらかというとマチスやマネのほうに興味が向かうのだがオランダの町では溌剌とした子供から青年までのレンブラントのイメージがあったものがプロヴァンスの街ではちょっとした変人で自分の芸術、世の中と格闘するセザンヌの姿がイメージされたのだった。

それにその町のグラネット美術館で観た一枚のレンブラントの自画像にも思うことがあった。 それはまた別の機会に記そうと思う。 


プロヴァンスを歩く(5)3日目 その2 Jouques村に 泊まる

2015年05月26日 19時27分52秒 | 日常

 

 

(1)より続く

3日目 Beaumont de Pertuis から Jouques 村 まで 22km  

長いミラボー橋を渡りそのまま左側の崖を登り始めた。 ほとんど道しるべもないような岩登りのような急なところだ。 土がほとんどなく石灰岩の岩の崖を縫うようにして100mか150mほどの標高差を登る。 不思議なことに膝の痛みは何もなく他のメンバーよりも素早く上り下りすることができたのが驚きだった。 崖登りは登りだけではなく鎖を伝って降りるようなところもあり橋からみれば何の変哲もない立ち木に覆われた崖なのだがこれを越して上の平地に出るまで1時間半以上かけた。 途中で2時前にもなり川や橋をだいぶ向うに見渡す崖の頂上付近で昼食にした。 崖登りの際に平地で感じる膝の痛みがないのに嬉しくなって鼻唄がでるほどだったのだがそれもそのうち痛みが一層増すことになる。

崖を越して平らなところに出ると今までの苦労は何だったのだろうかとも思うけれどここは山ではないのだ。 そこからは林が続き自動車道とも時々交差し次のGR9ルートまでその舗装道を歩くようななだらかな平地を歩くと膝が痛んだ。 このころになるとストックを2本使って左足をかばうようにして歩いていた。 当然他からは20-30m以上遅れて歩く。 時々は前を行くものたちはこちらを眺めて立ち止まるようなことをするけれどこちらは歩を急がすこともできず距離は縮まらなかった。 そのころ目的地の Jouques村まで7-8kmだっただろうか。 なだらかな山とも丘ともつかぬ林の中を歩いていて先頭がショートカットしようと道のない辺りに入り込みそのうちに獣道ほどの線もなくなり、地図を改めて見てから1kmほど戻ることにして自動車道の端を歩いていた時にはこの旅行で最悪の状態だった。 毎日朝ベッドから起き上がるときに痛みがあり、それでも無理やりそれを無視して歩を始めるとなんとか歩けるような状態であり二日で歩いた40kmで膝の状態はその2週間前よりもひどくなっていた。 奇妙なことに急な坂の上り下りには何ともないのだ。 この日の午後はこの旅行で一番なだらかな道が多かったからこのようになったのだろう。 

平地に下り、ブドウ畑が広がる向うに丘がありその頂上辺りに村の建物が集まっている集落が Jouques村 だった。 歩くのが辛くゆっくりした足取りでそこを目指した。 麓に地方道が交差するところがあり、そこから村の中心まではかなりの坂を上らなければならない。 先に上に行っていた3人は坂の途中にあるカフェーのテラスに座って自分を待っていた。 そこにスタスタ足早にやって来た自分に皆驚いていたようだった。 一日の終わりに22km歩いて誰もの足が重いところに一日ずっと一行から20mも30mも遅れていて坂の下までではもう70-80m遅れて歩いていたものがまだこれから10kmでも歩けるようなテンポで上がってきたのだから。  実際、登り坂がこのように続けばもう5kmぐらいなら歩けたかもしれない。 痛みがない、ということはそんなものなのだ。  そこを乗り越えると丘の上に出てそこからは平らだった。 村といってもかなり裕福な様子がうかがえるのは19世紀あたりからの3,4階建ての建物が連なって続き、町の中心、丘の上は長方形の草地に沿って街路樹が植えられ大戦の記念碑があり、道に沿って駐車でき、店が少しと3,4軒のバーやレストランがあるだけなのだけれど町並みが道路に沿って出来ていて周りが見えないから丘の上とは思えない。 もっとも、これも平らなオランダに住んでいる人間の感想であって他の土地では普通のことなのではあるからこれはとるに足りないことでもある。 ここに来た時には町並みに沿って坂を上ってきたことを忘れていた。 

この日のB&Bは瀟洒な家だった。 そこの主人は住宅雑誌の内装をかなり意識しているような婦人だった。 道に面して頭を突き出して口から水を吐き出しその下には4本の管から水がチョロチョロ流れている石の噴水がありその後ろに家があった。 インターホーンを押して到着をしたことを告げると大きな鉄の扉がゆっくり開いた。 二階のシャワー、トイレがついている部屋にヤープとハリーが、我々夫婦は大きな長方形の草地の広場が細長く向う側に続いて見える窓と裏庭のプールが見渡せる窓が二方にある部屋に収まった。 我々の部屋にはシャワーもトイレもついてはいなかったけれど部屋の向かいにトイレとゆったりとしたシャワーがある扉があってそこを与えられた。 我々の他にはだれもそこを使わないということだった。 大きな洗面台で汗でぐっしょり濡れたポロシャツを洗ってハンガーにかけておいたら4時間で乾いた。 シャワーの窓からは通りが見えた。 斜め向かいの部屋には40半ばのオランダ人の夫婦がこの日宿泊していてオランダからサイクリングでこのあたりを周っているのだというのを翌日の朝食のテーブルで聞いた。

夕食はヤープがどこからか仕入れてきた情報でクレオール料理のレストランがあるからそこに行くことにした。 我々が宿泊しているところから100mもなかった。 Aux Deau Saveurs という名前で住所は 63 Boulevard de la République、13490 Jouques である。 わざわざ住所を書くのはグーグルマップスに住所を入れるとその場所が表示され、そこにストリートビューの人形をドラッグすると赤を基調とした小さなレストランが見えるからである。 表の10ほど小さなテーブルのあるテラスには胸と尻の大きい娘の給仕が写っているからでもある。 この通りを駐車スペースを左に見て進むと右側に赤いプラスチックの椅子とパラソルが立つセンターという名のバーがありそのそばにバスの停留所がある。 そこを通り過ぎ左の緑地が終わる辺り左側に噴水が見えその後ろに鉄の扉が見える。 外出するときにはリモコンを与えられそれで開け閉めして出はいりする仰々しいものなのだ。 

クレオール料理のレストランに収まると表で涼んでいたでっぷり太った老婆がメニューをもってきて注文を訊きヤープはワインを、我々夫婦は炭酸水、ハリーはアルコール抜きのビールを注文してないといわれコーラライトを頼んだ。  これが夕食の大体のパターンだった。 前菜に妻はメロンに生ハムを乗せたもの、他の3人はスモークサーモンとサラダ、これにはシャドネーが欲しかったけれどこの旅が終わるまで我慢することとしてスモークといっても脂が乗った魚を喰った。 家人は家鴨の胸肉のグリルとクスクス、他の者はカリブ海風鶏の煮込みだった。 毎日頭を突き合わせて4人で食事するのだがほとんど毎日注文するものがバラバラであるのにこの日は男は注文が皆同じ、というのは可笑しかった。 食後はデザートは摂らずに自分は紅茶、あとはコーヒーという、これもパターンになっていた。 食後周りを歩くこともせずそのまま宿舎まで150mほどもどり次の日に備えた。 9時半就寝。

翌朝もう一組のオランダ人夫婦も朝食のテーブルに就き情報交換のあと9時にここを出た。 自分は一人バスで エクスアンプロヴァンスに向かい、あとの3人は20km歩いて Vauvenargues を経てエクスアンプロヴァンスのホテルで合流することになっていた。 夕食のテーブルで自分の体調のことが討議され都合のいいことにこれから3日間はエクスアンプロヴァンスの街で連泊することになるのでそこでひとまず休養してその後の様子を見ることにしたのだった。 自分でもこのままではとてもこれから10日もこの旅を続けることは無理だと自覚していたからでもあるし歩けなければそのままどこかこのあたりを一人ゆっくり周り最終日にマルセーユで合流しオランダに戻ることが現実可能性大だろうと平らで殆ど車が通らない地方道D11号線の端を痛い足を引きずりながら歩きながら考えてもいたこととも符合する結論でもある。

 宿舎の前で家人、ヤープ、ハリーの一行と別れ、一人杖を突きながらそこから100mもないガラス張りのバスの停留所までとぼとぼと歩きそこに座って9時15分のバスを待ちつつ前の草地と水の出ないもう一つの噴水を眺めていると小柄な老婆が話しかけてきた。 こっちはフランス語はできないと、それぐらいは言えるから答えそれに英語だったらできる、と加えるとたどたどしい英語で、自分は昔小学校の先生だったから英語はできる、小さな学校だった、と言って黙った。 そこで、この前の草地は芝生でもないし雑草が生えたままになっているから何のためにあるのか、と訊いても答えは返って来なかった。 そうしていると汚れた作業服を着た若者が材木を担いで歩いて来て老婆に笑顔で笑いかけ老婆の方もそちらの方に行って抱擁・キスのあと喋りはじめる。 昔の教え子かもしれないし同じ村人かもしれないけれどこの老婆の反応は面白いものだった。 はきはきと颯爽として足取りも軽く履いているものはナイキ・エアーというもので微笑ましくもあった。 さすが村の小さな小学校の先生だった人だ。 そのときバスが前を通り過ぎるとこちらにフランス語で何か言ってそのあと、戻ってくると英語で言った。 じきに方向を変えて戻ってきたバスに乗ると老婆はそのあと3つほど行った村で降りた。 ここが終点でエクスアンプロバンスまで1時間ほどバスに乗った。 乗るときに終点までの料金に見当がつかず50ユーロを渡すとオララー、と驚くのでそれじゃあ、と20ユーロを渡すとまあいいか、と言うような顔で後ろに座れと指さすので20ユーロを少し超えているのだなと思った。 降りるとき呼び止められ小銭ばかりでずっしり12ユーロ75セント渡されたのにはびっくりした。 途中乗ったり下りたりした人たちが払った小銭なのだ。 考えてみれば本来なら鉄道路線があってもいいようなところがバス路線となり公共料金としてであるからそんなものだろうかとも思うけれどだから沢山の中高生が利用できるのだろう。 このあたりの中高生の通学距離はかなりのものだ。 

 


プロヴァンスを歩く(4)3日目 その1 Beaumont de Pertuisからミラボー橋まで

2015年05月25日 21時34分56秒 | 日常

2015年 5月3日 (日) 

Beaumont de Pertuisから から Jouques村 まで 22km その1

徒歩3日目 合計62km

9時30分にベルギー人夫婦のB&Bを発ち、なだらかな丘を回り込んで30分ほど歩くと景色が広がるところに出た。 一日の始まりとして大抵すぐにかなりの登り坂が1時間以上も続くことが多かったことからすれば楽な出発だった。 穏やかな日差しと長閑なブドウ畑が広がる斜面を向かいの山並みを眺めながら遠くに両側から山が迫り崖が向かい合っているように見えるあたりを目指した。 そこにはミラボー橋があるはずだった。 GR9のルートでは Beaumont de Pertuis の村から Mirabeu村を通過してミラボー橋を渡ることになっているのだがこのB&BからBeaumont de Pertuis村までは1.5km以上あるので村に戻ってそこからMirabeu村を目指しては大回りになるから夫婦のアドヴァイスに従ったのだった。 それには地図に書かれていないような道に入り、ブドウ畑の端にある鉄の扉を開けて次の径に出る、といういような細かい指図もあってもそれが分からなければ迷うような田舎道だった。 実際には言われていたような目印が見つからず500mほど無駄にしたようなこともあったけれどこれで5kmほど短くなるのなら1日に20kmの目安ではかなりの節約になる。 

11時半ごろ川の手前にたどり着いたので適当なところで休憩した。 この時左膝が痛み平坦な道を歩くのに他の3人から20mほど遅れていた。 他のものが珍しい草花や景色をカメラに収めようと立ち止まり作業をしているとそこに辿りつくものの自分ではカメラを取り出して撮っている時間はない。 そうするとそのあと余計に遅れるからだ。 だから今回かなりのシャッターチャンスを逃している。 とりわけ草花を撮ろうとすると5分ぐらいはすぐに経つ。 5分で少なくとも150-200mは歩くから平地ではまだしも見通しのきかない山の中の径では不安でもある。 それにこちらは膝に故障を抱えていれば少々急いでも追いつかない。 それでなくと相手はコンパスが長いのだ。  国道に出て舗道を歩きミラボー橋を渡った。 今回渡った川で河と呼べるものはここだけだった。 多分19世紀に鉄の時代を迎え崖が迫った両側に塔のような支柱になる建物を建てそこから鉄のケーブルで新時代の橋を吊ったのだ。 その支えの建物だけが両側に残っていてそれを斜めに見るように今の橋が架けられていてここを通る車は駐車場に車を停めて全盛期の遺跡を眺めるようだった。 

ここに来てミラボー橋と聞いたときこの名前をどこかで聞いたことがあるような気がしていた。 シャンソンや誰かの詩だったような気がしたがフランスのことにはほとんど知識がないし聞いたと言っても高校生の時に頭を掠めていった言葉の一つで今までそれとは接点がなかった。 もう20年も30年も前にパリに行ったときにそんな橋があったかもしれないと思いネットで検索してアポリネールの「ミラボー橋」堀口大学訳があるというのに行き当たった。 橋の下セーヌは流れる、というようなフレーズは今までに何回も聞いたことはあったけれどその類だったのだ。 それにしてもパリとここでは距離が離れておりこちらがミラボー橋のオリジナルなのかもしれないと思ったけれど、美しい景色というようなありふれた一般名なのかもしれないとも思う。  昔からここは交通の要所だったようだ。 

(その2に続く)


天気が良くなったから週末の二日、歩いた

2015年05月24日 17時08分56秒 | 日常

 

この週末は天気も良く気温も例年並みの20℃ほどまで上がり、土曜にはマーケットまで行きがてら往復で8kmほど歩き、今朝は9時を周って昼飯をもって家を出た。 町の中心を通り越して二つ向うの隣町の奥に森があるあたりまで歩いて戻ってきた。 普通なら夏場の午後、自転車に乗って遠出をするあたりだ。 森の中にまわりを濠で囲まれた城があって特に有名でもなんでもないけれど森が散歩できるような公園になっているところが多いから日曜の午後など家族連れが散歩する風景がみえるような、そんなところまで出かけた。 結局往復で17kmほど歩いたことになるのだが左足の膝が少し痛んで戻りの数キロは杖をついて歩いた。

ヨーロッパのあちこちにこのような城といっていいか城のような森の中の邸宅がある。 これは昔からの貴族だとか豪族の居住する邸宅だったのだが戦後大分たって個人では維持するのが難しくなり手放して今ではそんな人たちはここには住まずほとんどが財団であるとか国、州、市に買収され文化財なりレクリエーション、研修施設になっている。 まわりの森は国や州の森林、公園管理下となり整備されて一般に開放されているからこれからの季節の日曜日などには家族だんらんの散歩には欠かせない憩いの場所となる。  ここに来るまでにも隣町にもある同様の森を通ってきたのだがそちらの方は邸宅はパーティー、研修施設として商業化されているのだがそれは殆ど維持費に充てられているようで補修には政府、財団の資金が必要であるから工事中の表示板には財源の名前がいくつも出ていた。 そこは公園内にはカフェー、休憩所があって軽い食事もできるようだったがそれも町が近いからできることで町から大分離れたここは休憩所もカフェーもなく邸宅は荒れた雰囲気も残り、壁のあちこちに荒れたところが見られもう一つの城とは対照的だった。 個人的にはあまり整備されすぎていたり商業科されすぎているところよりこの場所のように持ち主が去り少々荒れ始めているところが見えているようなところのほうがいい。 森の中にしても近くの人がくるだけで遠くから人が押し寄せるというようなことはないから日曜の午後といっても殆ど人影は見えなかった。

南仏プロヴァンスから戻って初めて2週間ほど前には毎日歩いていたような距離を歩いたのだが平坦なオランダを歩くのと山や丘を越えて歩くフランスの徒歩の違いをつくづく実感した。 平坦なオランダであっても自然道を歩くのならまだしも昨日、今日のコースはほとんどが舗装された道だったから味気がないといえば味気がないのだが体を動かすトレーニングのためであるからそれでもよしとしなければならない。 


マセラッティ男

2015年05月23日 21時04分07秒 | 想うこと

 

うちから旧市内に向かうと濠の近くに比較的裕福な人たちが住む一角がある。 屋敷町と呼んでいいのかわからないけれどその上の豪邸となると林の中にポツポツと距離をもって門構えがありそこから車が奥に入り屋敷が見え隠れするという一帯が普通なのだが大抵そういうところは町から距離をおいてある。 ここはまちなかの家で敷地は庭も含めて十分ありガレージのスペースは設けられていても大抵ここの住人は路上に駐車をしていて富豪とまではいかない裕福さだ。 人は家の構えや車でそのうちの収入を観る傾向にあるし、それは人の服装や持ち物を見て生活状態を観察するようなものでもある。  けれども当然家が小さく収入が潤沢でなくとも高価な車に乗る人たちもいるからなんでもかんでもそうだというわけにはいかないものの家の構えからはそこに住みそれに対応する生活水準をみれば自ずとその収入が想像できるのも理由のあることだ。 ここはベンツはすくないものの北欧のボルボ、サーブ、ドイツのBMWにアウディ、ポルシェといったところが並んでいる。 その他の住宅地に見られる日本車はここでは見られない。  自分の住む通りはこれらの車種を除いたヨーロッパ車、日本車が見られ家並からも同様にこの地区との収入格差がはっきりしていることが分かる。  当然不動産価格もこことは比べ物にならない。 

今回南仏、プロヴァンスの徒歩旅行であちこちの不動産屋のショーウインドウに貼られている物件を興味本位に眺めてその家の構えと値段をオランダの自分が住む辺りのものと比べてみることがあった。 市街の物件ではそのアパート、一軒家、プールつきの一軒家などそれぞれの値段はあまり変化はないものの田舎になると30%ほど安いようなこともみられるけれどその物件の場所、環境を考えると設備、家の構えはよくとも町から遠く職場、学校、社会福祉の諸施設からも遠いというようなこともあり値段それ自体だけではなかなか判断しがたいものがある。 つまり物件の値段が安くとも諸事情を勘案すれば必ずしも安くはない、というところか。  だからバカンス用の家とか町を捨てた世捨て人的な住み方をするような人たちにはそんな田舎の農家を改造したような一軒家は人気があるようで、 フランス人だけではなく他の国の人たちにもプロヴァンスのそんな一軒家は人気がある。 そんな家は徒歩旅行で田舎を歩いていてもそれと分かる。 町の人間、裕福な人間の住み方というものが屋敷の隅々まで現れているように感じるものだ。 地元のそこで生活している人たちとは違う空気と色をもっている。 そしてそういう屋敷に出はいりする車もそれに合ったような種類のものが殆どで地味なものとして上に書いたような車が出はいりする。 日本車はない。 2台目の主婦用のものとしては日本車が登場するかもしれない。 

自分は車には興味がない。 子供のころからプロペラ機には興味があったけれど他のものがスーパーカーだレーシングカーだといっていたのにも興味がなかったしイタリア人の義兄がF1レースを観にベルギーやモナコにでかけると聞いても一向に興味が湧かない。 車は使うけれど実用性があって壊れず高くなければそれでいい。 燃費ぐらいは気になるけれど馬力や速度は限られた道を走るのだからどれでもいいようなものだと思う。 けれど今まで還暦をすぎるまで生きてきて世の中にはどんな車があるのかぐらいは分かる。 一般車と高級車があることは分かるしジャガーやフェラーリ、アストンマーチンやベントレーぐらいならみれば分かる。 けれどマセラッティは知らなかった。 それくらいの知識であって車に興味がないのだからそんなものだろう。 

何年か前大学生の息子が将来金持ちになって車を持つならマセラッティがいい、と言っているのを聞いて初めてその名前を意識した。 息子が中学校に入ったころ将来金持ちになりたいから経済を勉強したいと言った。 父親が安月給の公務員だかららしい。 同級生には会社役員の子供たちがいて中には運転手付きの車で毎日屋敷から送り迎えされてくるものも例外的ではあってもいるような学校だった。 ポルシェかジャガーなら知っているけれどマセラッテは知らなかった。 それが裕福な家庭で立派な家に住む人間がもつ高級な車なのだという。 ポルシェやジャガーにフェラーリはありふれている、シックではないのだそうだ。 そのときはそのまま聞き流してマセラッティがどんな車か見当もつかず別段どんな車かとも知りたくもなかった。 そんな息子も大学を卒業して会計士になり会社から与えられた小さなフィアットに乗って毎日走り回っている。 将来マセラッティにのれるかどうか、多分そうはならないのではないかと想像する。

毎年屋敷町の一角に垣根の植え込みの上に大きくて美しい木蓮が見えるうちがありこの間何気なくそこに停められている車をみると maserati というロゴが見え、ああ、これがあのマセラッティかと思い一枚写真に収めた。 なるほど少しは他の車とは違うのが分かるけれど取り立てて目立つようでもなくこれが町を走っていても自分の目には多分入らないだろうと思ったのだがここでマセラッティに拘るもう一つのことがある。 これがなければ自分にはどうでもいい車だったのだ。 けれどある人たちにとってはどうしても手に入れたいと渇望する欲望の対象になるものであるということをテレビの画面で見てマセラッティが記憶の中に入り込んだからだ。 それには息子が言ったこととも多少の関係がある。

政治・行政のなかで様々な腐敗・汚職が時折スキャンダルとなって吹き出ることがある。 何年か前公共福祉に関連して住宅公団運営の上で放漫経営が指摘され理事が公聴会に召喚された。 その中で公費を不正に乱費し公金で高級車を自家用に買ったということが指摘され還暦を越した風采の上がらない禿で太った男がニュースに現れて問い詰められた。 それがマセラッティだったのだ。 委員長になぜマセラッティなのだと問い詰められて、小さい時からの夢だった、どうしても欲しかった、と涙ながらに語ったのに少々普通でないものを感じたのだが、だからわざわざニュースに出たのだろうしその後大きな政治スキャンダルで公聴会に引っ張られた例としてこの場面が何回も登場することになったのだろう。。

腐敗、公金横領など有り触れたことであるし会社役員、政府高官が飲み食いや接待に金を使う、身分に不相応の高級車を乗り回すというようなことも今までに何度もあってそんなことは我々には今更不思議でもないのだが、ここでの映像でこれがオランダの視聴者には「マセラッティ男」として印象つけられたことは確かだ。 面白いと思ったのはベンツだったり特注BMWというような車も高級車であり、そういうものを乗り回していても特に問題はなかったのだろうしそれが公用車であっても不思議ではない。 逆にランボルギーニだマクラーレンだというとその高級官僚なり組織の理事であるその男のセンスに皆呆れるし、そんなある種小心者に見えるその男のライフスタイルに合わないことが自分自身でも分かっているのではないか。 だからそこで自分がこうあらまほしきステイタス・シンボルとしてマセラッティが登場するのだろう。 それにしても聴聞会で子供の時からの夢だったというのには感心した。 つまり車そのものだけではなく将来の収入に応じたライフスタイルの中で当然豪邸を持つものとしてそこに対応するバランスの取れた自家用車としてのマセラッティを夢見ていたことになるのではないか。 こどもの夢がランボルギーニだとすると大人の夢がマセラッティなのではないのだろうか。 自分にはそんな夢はないから分からないけれどそんな気がする。 公金横領で特注ベンツだったとすると事件になってもニュースにはならなかったしそれならこの風采のあがらない男は誰の記憶にも残らなかっただろうものの大人の夢を代表するものとしてそれを不正に手に入れようとしたから皆の印象に残ったのだろうと思う。


今年もオダマキが一斉に咲きだした

2015年05月22日 14時17分20秒 | 日常

 

オダマキ(苧環)は好きな花だ。 今年もオダマキの季節が巡ってきた。 一株にいくつも花が咲きその時期も比較的長いのでいつまでも楽しめるのだけれど今年は例年に比べ株の数が多く、また大きく繁って庭のあちこちに様々な色の群れを作っている。 毎年飽きずに同じような写真を撮って日記に乗せているのだが飽きない。

午後本を読みながら居眠りをしてしまった。 これまで寒かったのが例年の気温に戻りつつあり暖かく感じてそれでついウトウトしたのだろう。 くしゃみが出て目がしょぼしょぼする。 風邪をひいたかもしれない。 そういえば毎年春には花粉で悩まされるのだが今年はそれもなくその時期を過ぎた。 どうした風の吹き回しなのだろうか。


プロヴァンスを歩く(3)2日目 Vitrolles en Luberon村 から Beaumont de Pertuis まで18km

2015年05月21日 22時12分19秒 | 日常

 

 2015年 5月2日 (土)

 他のものがコーヒー、ジャム、焼きたてのバゲットでいつものように朝食を楽しんでいるのにこちらはグルテン抜きの食事でなければいけないからと賄の女性がオムレツを作ってくれそれを腹に入れて紅茶を飲んでから宿を出発した。 9時15分の快晴の空の下、地方道を縫って小道に沿って次の村、 la Bastide des Jourdans を目指し、そのまま登り坂を1時間ぐらい辿っていくと徐々に体に汗が染みだして高度700mほどの山を越すようになる。 前日の長い登り坂ほどではないものの大抵の宿泊する村は殆ど小さな丘の中腹若しくは谷の底にあって1日に2つ3つはこれぐらいの山登りをしたり越したり稜線伝いに歩くことになる。 問題は道の種類なのだがここまでは林道のような道が多かったから目印を注意深く探しながら歩くということをしなくてもよく、普通に森の中を歩くような楽な気分だった。 正午に村に着き他の3人は町の中心に一軒だけしかないパン屋でケーキを買ってその向かいにある一軒しかないカフェーに入ってコーヒーでそれを喰った。 こちらはそれができないから紅茶でオランダから持ってきたグルテン抜きのチョコレートバーを喰った。 カフェーには既に村の男たちがカウンターに凭れながら風船グラスでワインを飲みながら宝くじの様子を有線テレビで眺めていた。 これは大概のカフェーで見られる光景だ。 彼らの昼休みはのんびりしたものだ。 

村を出て斜面を上がり森を抜け村が目の下に見える頃見晴らしのいいブドウ畑の隅に日陰をみつけそこで昼食にした。 その後丘陵地を上がったり下がったりしながら地方道と時には交差しながらこの日の目的地 Beaumont de Pertuis に向かうのだが、昼にカフェーを出て小山に上りそこにあるチャペルのそばの道路標識の通り進んだら地図の方向と辻褄が合わなくなり、頼りのGRの赤白の標識も見えず、結局500mほど山を下りたところから元の標識のところまで引き返すということがあった。 それはどういう具合か標識のポールの角度が誤解を招くような方向に曲がっていたからで地図とコンパスで修正して間の道を50mほど行くと正しい標識があり、これによって時間と距離を約1km分無駄にしたことになる。 このようなことが全行程の中では何回かあった。 この場合は車の通るような細い道の場合であったけれどこれが山の中の道かどうかわからないところで起これば面倒なことにもなりかねない。 

比較的単調な行程を終え4時を過ぎて Beaumont de Pertuis村に着いた。 この日の宿舎は村からまだ1.5kmほど山を上がって村から大分離れたところにある一軒家のB&Bだ。 ベルギー人の夫婦が夏の間ここに逗留してベッドアンドブレックファーストを提供する形なのだが村にレストランも店もないからここで夕食、朝食付きとなっていた。 15mほどのプールもあって水温も28度まで温められていた。 それぞれの部屋に落ち着いてシャワーを浴びたあとバルコニーで飲み物と摘みでこのあたりの様子、主人夫婦がここに来た経緯などを聞くと、二人はベルギー人で、といってもフランス系ではなくオランダ系で体型も二人とも185cmはある大柄で、その性格、言動はフランス人のものではない。  夕食には主人のうちの一人が食卓に就き会話を進めながら食事をする、というのが形ではあるけれどここでは旦那が料理してかみさんがテーブルに就いて喋りまくるというのがフォーマットのようだった。 部屋、設備はいうこともなかったけれどこのホステスのかみさんの喋りには少々辟易するところもあったけれどこれも様々にあるB&Bの趣向でもある。 ベルギーにはフランス語圏とオランダ語に通じるフラマン語圏と文化・言語の垣根があってこの夫婦はフラマン語(オランダ語)を話すから我々にとっては普通に会話ができるのだがオランダ人とフレミッシュの違いは明らかで、フラマン語圏の歌曲のCDをバックにベルギー自慢をするのには出された食事は満足のいくものでも少々食傷気味にもなり、なまじ言葉が分かるものだから自国ベルギー自慢に力が入るのが少々鬱陶しかった。 ここに限らず様々なところでホテルではなくB&Bを利用すること当然そこの主人たちとある程度のコンタクト、会話は必須ではあってたまにはこういう人もいる。  悪意はなく全くの善意で一生懸命なのはわかるのだがこちらが疲れている時には少々対応に困る場合もありこの日は翌日が早いことを理由に早々に各自の部屋に退散した。 自分はベッドに入るとすぐ寝入ってしまって気づかなかったのだがプールに大きな蛙が紛れ込んで一晩中鳴き続けその声が周りに響き渡って開けてあった窓を閉めるほどだったと朝食のテーブルで聞いた。

翌朝のルートは夫婦の助言に従ってGRのルート通りではなく村に戻らずこのうちから直接山の反対側にまわり距離でいうと5kmほど短くなって予定のコースに合流するということにした。