暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

トキワサンザシ(常盤山査子)

2017年09月30日 12時33分06秒 | 日常

 

風邪で家の中に一週間ほど籠っていて今鬱陶しい秋がまた戻って来た中、雨があがっている間にちょっと庭に出てみた。 おもったほど寒くはなく、だから空気中に仄かな温かみさえも感じる程だった。 表の舗道まで出ずにカーポートの今は実を摘んでしまって葉だけになってしまった梨の木をみていると自分の後ろが真っ赤なのに今更ながら気づく。 オランダ語で火の棘(vuurdoorn)と言うトキワサンザシに一杯実がついているのだ。

トキワサンザシ(常盤山査子)はバラ科であるらしい。 通りの舗道から家人のアトリエに続く、古くはカーポートだった小径にそって家のレンガ壁の下部半分以上に這っているこの植木は5月に細かく白い花を咲かせ8月末あたりから実をつけはじめる。 家を買った時から相変わらず毎年毎年そんなことを繰り返していてそれももう50年ほどは経つのだろう。 何年も前に一度その写真を撮って実が生った一面の赤を見せようと思っのたが結果は大して面白くなく全体を撮るのは無理だと諦めた。 イギリスBBCの園芸番組をみているとこのような壁に沿った植木は夏は外気から家を守り冬には太陽の温度をレンガに保つのにも貢献するからエコにいい、と聞いたところだけれど本当に目に見える程の効果があるのだろうか。 毎年葉が落ちて枝だけになったときに剪定をするのだが枝にはかなり太くて頑固な棘があって切った枝を片付けるときに放り込むコンテナーに枝の棘が互いに絡まって嵩が高くなるから面倒だ。

二年ほど前にこの花が咲いている時に夕闇の中で見たことを下のように写真と共に記していた。 書いたことは全く記憶になかった。

https://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/64674635.html


雨の留守番

2017年09月29日 23時43分00秒 | 日常

 

3,4日晴れ間の多い気持ちのいい日が続いたと思っていたらまた雨模様の日々に戻るようだ。 週末に地元のウォーキング・グループが泊りがけでブラーバンド州の田舎をあるくので世話人の一人である家人も昼過ぎに仲間の車で出かけてから自分は一人留守番をする。 風邪の治りが早いと思ったけれど鼻水の固まり方が遅く喉の痛み、痰の絡みもあって結局はいつもと同じパターンに収まりそうだ。 そうなると完治するまでまだ2,3日はかかるだろう。 

午後出かけようとしていると急に激しい雨が叩きつけ結局家の中にくぎ付けになり、窓の外を眺める一日だった。 食料は買い置きや冷凍のものがあるので夕飯は余り物と組み合わせてボソボソと一人で喰った。 明日は息子が来ると言っていた。 日本に行くとラーメンや餃子ばかり喰いたがり他の和食の方には食指が向かないようだったが流石30にも近くなると好みも変わってきたのか昨日電話で饂飩の作り方を教えてくれと言っていたのでそれを明日にも伝授するつもりだ。 

今週は風邪でトレーニングを2回キャンセルした。 月曜には完治しているだろうから来週は緩んだ筋肉を少しは引き締めるつもりだ。 癌研の医者と電話で胃の痛みのことを話した。 今の状態では胃カメラやCTスキャンには賛成しなかった。 胃酸の分泌が不安定なのだのだろうという。 止めていた胃酸制御の薬を当分のあいだ続けては休み、それから調子をみること、それでも痛みがあれば連絡して対策を考える事、何れにしても11月末に予定しているCTスキャンまでこのままでいくこと、液体食糧を採り入れるのに左下腹部に開いた穴につながれているチューブを近々家庭医のところで取り外してもらう事を確認した。 これで晴れて自由の身になれるまで四か月かかっていることになる。


津島佑子 著 「火の山 - 山猿記 上・下」を読む  (下)

2017年09月27日 12時15分58秒 | 読む

 

(上)から続く

 

津島佑子の作品はそれまでに文学雑誌で短編を、それに「光の領分(1979年)」を80年代中頃に読んでいた。 津島は90年代には湾岸戦争に反対する文学者たちの呼びかけに賛同し、またアジア各地でので語り・伝承のシンポジウムに活動的だったことも承知していた。 印象に残っているのは自分が好んで読んでいた中上健次がらみのことだった。 中上も津島も60年代から同人誌「文芸首都」の会員で、中上のエッセイか何かの記述で津島の才能と人となりを記憶に留めたのが読むきっかけになっていた。 そこで時代の寵児だった中上が望んでいた谷崎賞を受賞できず、野間文芸賞に加え谷崎賞を津島が本作で受賞したことに微笑みを禁じ得ず、これを中上が生きていたらどのようにコメントしたか興味のあるところだがいずれにせよ両人とも今はこの世には亡く、今の文学状況をも鑑みても両人の不在を残念に思う。

本作を読んで思うのは、それにしても沢山人が死ぬものだなあ、ということだ。 そう思うのは人が死なない今の時代に生きているからかもしれない。 むやみやたらと人が死ぬような印象を受けるのは語られている時代がそうだったからでその逆にいつの時代にも人は生まれるのだけれど今と比べると江戸時代以前からも一家族に子供はたくさん生まれる。 だから大家族と言う言葉も存在感を示すのだがそれが普通で、たくさんは生まれたけれど成長してからでも成長途上でも生後すぐでも子供はよく死んだ。 生き延びる、ということが骨身をもって大事なこととされ、そういう状況がそれぞれの死生観にも影響はあったはずだ。 戦後高度成長期以後に生まれた人間にはそんな時代は想像もつかないに違いない。 ましてそこに戦争という異常な時代が重なれば死と飢餓・病気が増幅されそこで翻弄される家族には語られねばならない事柄が少なくないわけはない。 それがここに述べられる、ここで語られる有森家の江戸時代から戦前・戦中・戦後を中心にして現代にいたるサーガとして提示される語りなのだ。 それには何故誰が誰にどのように語らねばならないことになるのだろうか。

本作を読み始めて自分のことと対照し始めた。 自分はオランダに来て37年、母子家庭で兄弟姉妹もなく日本語の分からない、妻と二人の子供をもつ。 この20年以上何度も妻子と帰省経験はあり妻子にはそれぞれ日本や日本の家族・親戚のことどもには経験上一定の理解はある。 7年前に2か月間一人で日本の家を整理した時にこどもたちもその様子を見ている。 今年の7月の最終日に奇しくも日本とオランダで同時間に姑、老母、子供たちにとっては祖母二人を葬り、これで自分と妻には両親、舅姑、子供たちには祖父母が全て鬼籍に入ったことになる。 

今年の一月に自分の胃に末期の癌が発見され手術準備前のケモセラピー期間に家人から一度日本側の家系に関わる話を書き留めて置けばどうかと話があった。 こどもたちには村を歩いたり村の墓地に何度も行った折には話はしているのだけれどその纏まったもの、書かれていて頼りにするものは無いのだから将来にむけて日系の血の系譜がここで立ち消えるのは寂しい、ということだった。 こどもたちにとってはオランダの祖父母の家系や彼らの生涯についての書かれたものはすでに小冊子としてあるが日本側のものはまだない。 それは自分が纏めなければならないことになる。 自分の記憶では明治の人間だった祖父の幼少時代からその子供たち、つまり伯・叔父、伯・叔母たち、そのこどもたちのことは承知しているもののそれをメモのかたちにはしてあってもそれらは子供たちが分かる言語ではない。 いずれ何らかの形で英語かオランダ語にしてまとめておかなければ、と考えていたところだった。

本書で有森家のサーガをボールペンで書き刻むのは在米40年になり齢70にもなる勇太郎である。 日本語で書かれたものはバインダーで五冊にまとめられたA4版の「記録」でありその物語は2-1から2-9までで本書の骨格をなすものである。 勇太郎は物語を観察者の眼で立体的に述べるために、また自我が露わになる自分の中学時代から叙述を創作文の体裁に自身を有(勇)太郎と記述して(私は)から距離をおき「叙述の公正さ」を保とうとする。 そのようにすることで勇太郎は著者(津島)となり有太郎に自由をあたえることになるだろう。 物語が終盤に至ると多くの声がテキストに混ざるようになり、その度に有太郎の姉たちが(わたし)とふりがなを振られた笛子なり照子もしくは杏子が直接一人称で介入することになり語りが肉迫し声が立体化する効果を生み出している。

本来語りの中心である有森家の有(勇)太郎は自分の生い立ち、経緯を記録することで辛うじて家長の機能を果たすことになるのだが年の離れた姉たちに囲まれ保護されてきた末っ子の家長としてその性根に忸怩たる思いがあるようだ。 それが最も現れているのは戦中・戦後すぐの激動の時代である。 姉たちの弟に対する評価にも早逝した兄や父に比較した厳しいものであっても身内に対する生の視線には容赦のないものがあり兄弟姉妹のない自分にはその愛憎のほどは測りがたいものがある。 語りの中心、家長として勇太郎が設定されてはいるけれど本来の家長亡き後の有森家は女中心である。 文体、話はちがっても物語の中で女が躍動するすがたを眺めていると水村美苗の物語にも共通するものをみるのは単純に自分が男であり男が綴ってきた物語に慣れているからであろうか。 子供や親、兄弟姉妹に対する記述にそれを見、ことに死にゆく者、死者にたいする眼差しに殊更強いものをみる。

自分のことでそのうち何らかの形で英語かオランダ語に、と書いた。 本書でも同様のことが端緒から述べられる。 そもそもこのサーガが読み継がれていくその過程が谷にかかる頼りない吊り橋を渡るようなものだ。 勇太郎のテキストは日本語でありそれを読めない勇太郎の孫が冒頭に登場して電話の会話文から物語がはじまる。 孫はフランスで生まれそだち会話の日本語はわかるパトリス・勇平と名乗る。 その母は勇太郎の娘ではあるもののアメリカで生まれ育ったことから日本語は話せても読めないようだ。 そこでテキストを長くパリの日本語学校で日本語を教えていた女性に助成を頼み勇平と徐々に読み勧め英語に直し勇太郎の娘、勇平の母に読ませようというプロジェクトが進められること、孫パトリス・勇平が近々初めて日本を訪れ曾祖父の足跡をも辿る旅を計画していることを読者は知る。 そして読者は徐々にサーガを辿ることで有森家の今はない故郷、富士をいつも背景にした山国甲府の姿がテキストから浮かび上がるようになる。 本作の題、火の山、は富士であり、吹き上がる火は様々なイメージを含みそれはそれは空襲の中で荒れ狂う劫火であり姉笛子の夫である画家の描く燃える石を口に咥える人物のイメージであるかもしれない。 故郷から都会にでる勇太郎の父、兄、にしてもそうであるが殊更自身で甲州の山猿と意識したのは勇太郎だろう。 なによりも心休まり心のよりどころとなるのは見晴らしのいいところで故郷の山並みを眺めることである。 そういうことでは勇太郎以上に山を見たいといつまでも希望していたのは有森家の女たちであり山猿の記というのは山国の一家の話なのだ。

 

 

 

 

 


津島佑子 著 「火の山 - 山猿記 上・下」を読む  (上)

2017年09月27日 09時49分42秒 | 読む

 

 

津島佑子 著

火の山  -  山猿記    上・下  

初出 「群像」 1996年 8月号  -  1997年8月号

講談社 1998年6月 第一刷 ISBN4-06-209091-0

 

上巻 目次

0-1   ........

0-2       ........

1-1      ワープロ印刷されたB5判の手紙

2-1      水色のバインダーで五冊にまとめられた、ボールペンの手書きによるA4版の「記録」

    由紀子のために、牧子のために  - 有森勇太郎

    1 杏子の病室 - カモンカカ

    2 信玄堤の小太郎

    3 有森小太郎小伝

    4 勇太郎誕生の頃

    5 勇太郎幼少期 - 大ボサツ峠

    6 勇太郎幼少期の終わり

0-3       ........

2-2  「記録」のつづき

    7 Addio, del Passato!

    8 黄金時代

1-2  ワープロ印刷されたB4版の添え書き(1)

2-3  「記録」つづき

    9 葬送

    10 有(勇)太郎中学時代 - 三味線とピアノ

3-1  B4版のコピー (手書きの古い日記帳を拡大したもの)

0-4      ........

2-4  「記録」つづき

    11 ロマンス - 桜子の場合

    12 ロマンス - 笛子の場合

1-3  ワープロ印刷されたB4版の添え書き(2)

2-5  「記録」つづき

    13 イクサはいやいや

    14 東京へ

    15 前夜 - 石の声

0-5      .......

 

下巻 目次

2-6  水色のバインダーで五冊にまとめられた、ボールペンの手書きによるA4版の「記録」 つづき

    16 ええきびさんしょとうがらし! 

    17 出立 - エルゴーデンを抱いて

    18 Lacrimosa   涙の日

0-6     .......

2-7  「記録」のつづき

    19 火! 火!

    20 月の光 - 黄玉(トパーズ)

0-7    .......

2-8  「記録」のつづき

    21 帰郷

    22 敗戦二年目 - 青い瞳

    23 あす一日このままに

3-2  B4版のコピー(小さなメモ帳のページを拡大したもの)

2-9  「記録」のつづき

    24 Miserere!  神よ、あわれみたまえ

0-8   ......

 

本書の読後感想文を記すに当たり目次を並べてみると本作の構造が簡潔に整理されているのが分かり、それも話の仕組みの一部分であり、この複雑に入り組んだ有森家の何代にも及ぶサーガを記す体裁でありながら、また物語の語りにおいても多声的でありながらはなはだ効率的、効果的であり、それぞれ時空を超え、且ついちいちの場面で臨場感をあたえる生々しいものとして迫るその仕組みがこの目次から浮かび上がってくるようで上手な組み立てだと読了後これを眺めて感心した。 

我々は日常を多少のゆがみを感じながらも誕生から死まで線的な時間をそれぞれの営為の中で生きている。 それが人生の終わりに近づき過去を回顧するとき、そしてその回顧を誰かに伝えなければならないと必要性を自覚しその作業を始めるとき、記憶と記録を辿りそれぞれ固有の物語を紡ぎ始め文字に刻もうとする。 古今東西世界にはそういう記録が溢れている。 そして大きな物語はその時代時代でそれぞれの教育制度の中で歴史として教えられ小さな物語は様々な形で記録されるがどれだけ残るかは保証されない。 そして今その最小単位として「自分史」という言葉まであるようだ。 最小単位と書いたがその最小単位の「自分」は自分だけで成立するものだろうか。 多分自分史を始めるならどこに記述の領域・境界を設定するかが必ず頭を悩ませることになるのではないか。 世界で自分は自分だけではなりたたず、自分を生んだ母親がいて、母親に自分を生ませた父親がいて、彼らにはそれぞれ親がいて、云々。 自分史というのは親は必要なく、すべて自分からものごとが始まり話がそこから始まり自分以前の過去にはこだわらないという設定になるのだろうか。 

孤児のように自分の両親のことを知ることが出来ない場合、例えば自分の住むオランダでは本人が自然な親からではなく試験管ベイビイなり母親が精子提供者の詳細を知ることを望まず受胎した場合、また、生後何らかの理由で孤児になった者の場合でも本人たちが成人したときに両親のIDを知りたいと願い出ればその知る権利は記録が残されている限りにおいては保障されている。 いずれにせよ自分から始まる時代の物語にせよ過去のある時点からの長大な物語にせよそれらを紡ぐ発端になるというのは、誰かに伝えたい、伝えなければという情動なのだ。 それと自分はどこから来たのか知りたいという欲望。

自分が本作を読もうと思ったきっかけは何のこともない。 ただの退屈しのぎのためだけだった。 もう何年も未読の山のなかにあったものだが手に入れた時のことは覚えている。 何年も前に帰省の折、まだ老母のアルツハイマーも初期で入院はしておらず介護施設の部屋で家族の昔話を今のうちに出来るだけ聞いておこうと断片的にも辿っていたことがある。 そんなある日、大阪難波に出て朝から立ち飲み屋であれやこれやをつつきながら冷や酒を飲んでいた。 隣に紅毛碧眼の30半ばと思しき男が入ってきて様子が分からず困っていたので英語で話しかけそばに招き寄せ目の前に下がっている品書きのメニューを説明してやるとその彼はビールを一杯だけおずおずと注文した。 自分の前に並んだ怪しげなものを珍しそうにしているのでこれは鯨の脂をとったカスで、それを出汁で何時間も煮込んだもの、これは動物のスジを味噌で煮込んだもの、これは鯖を一晩酢で締めたもの、これはオデン、等々と説明し、試しにいくつか摘まむよう勧めた。 訊いてみるとカナダ人でアメリカで日本人女性と知り合い懇意になりその彼女が堺でその親元に里帰りとして来ている、言葉が出来ないので苦労するのだがそれ以上に皆の好意が息苦しく今日は一人そこから息抜きに出てきてここに来たのだと言う。 言葉が分からないけれど家族とまわりの関係性が濃く、息が詰まる、自分の彼女は家で水を得た魚のようだけれど自分は溺れそうだと笑い、ビールを飲みながら訳の分からないものを興味本位にすこしづつ箸でつまんで口にした。 それを聞いていて自分とは逆ながらもう30年近くなるけれど金髪碧眼の彼女を初めて泉佐野の実家に連れてきた時のことを思い出した。 彼女も滞在中に息抜きが必要だと言い、山を歩きたいと言って出たことがあったからだ。 それからオランダに戻り大きなドラマもなく二人でこどもを育て、そのこどもらも家を出て今は平凡な家庭が続いている。 この若者たちはこの後どうなったのだろうか。 自分は冷や酒を2杯飲み干し、この青年は自分のおでんを喰い終えて出て行った。 そしてそのすぐ後その近くの小さな古書店で本書を見つけ買ったのだった。

(下)に続く


風邪をひいてしまった

2017年09月26日 18時18分26秒 | 日常

 

風邪をうつされてしまったらしい。 誰からかはわかっている。 家人がこの3週間ほど風邪気味だ。 彼女がだれからそれをうつされたかもわかっている。 近所のオバサンである。 うちの息子の小さい時からの遊び友達の母親でその昔泣き虫だったこども、マタインにも今はちゃんとしたパートナーが出来てこどもが生まれたばかりだった。 そのオバサンはうれしくて、こんな風邪をひいた自分は赤ん坊を抱けないね、と生まれたばかりの孫の写真をスマホで家人に見せていた。 そのときにうつされたのだと主張する。 それ以来家人の風邪は今だグズグズしていて治らない。 そんな妻と一緒に生活している自分にかからないのが不思議だと言い合っていた。 

5月30日の大手術以来自分の体には抗生物質やら何種類もの薬剤が打ち込まれていていまだに風邪に対する防御態勢がのこっているのだろうと家人は言っていた。 それがここにきてこの風邪だ。 土曜の午後毎年この町である芸術家たちの展覧会があってそれまで何年も家人が展示場にしていたフェリックスの美容院が店を閉めたので新しい会場に移ることになっていたので興味本位にそれを観にそこに娘と出かけたのだった。 町の土曜のマーケットで白身魚を揚げてもらいそれを歩きながら喰いそこから遠くない会場までポカポカとした陽の下を散歩がてら出かけた。 そしてその陽気に汗をかいた。 

夕方から寒気がしてガタガタと震えだし寝込んだ。 その夜は明け方までよく眠れなかった。 手術後癌研に3週間弱入院していた頃の初めの日々の夜を思い出した。 2,3時間づつの浅い眠りしか取れず息が苦しかった。 起きた時喉が痛くて堪らず暖かいミルクを飲んでなんとか痛みをやり過ごした。  日曜はそのオバサン、ティネカの目出度く年金生活に入るパーティーが昼からあってそこにでかける筈だったのがこんな調子で行けるはずもなく家人が電話でキャンセルした。 鼻汁が止まらずティッシュの箱を空にした。 もうこの歳になって風邪のパターンは大体分かっているので寝床で暖かく寝ているほかはない。 不思議なことに寝床に入ってベッドの頭のほうを起こし傾斜させて寝ていると鼻がすっきりと抜けた。 そのまま音量を低くしたクラシックFMをバックに読みかけの長編を2日で読み終わるほどなのだから頭は或る程度すっきりしていたのだろうけれど体は関節が痛みトイレに立つにしても普通のようには動けなかった。 症状がほぼ4時間ごとに変化していくのが分かった。 

普通は引きはじめから完治するまで1週間から10日かかるのがパターンだった。 二日寝込むとして起きてから流れていた鼻汁が徐々に粘りだし鼻が詰まり、喉が痛く痰が徐々に気管支の奥の方に沈み絡み咳が重くなる。 そしてその痰が切れると完治という具合だった。 けれど今回はそのプロセスが物凄く早い。 もう鼻水がとまりすっきりし始めて咳が始まっている。 寝床にばかりいるとあちこちが痛むので起きているのだがそれでも寝床が恋しくなりベッドに沈み込むと安心した気分になるのは健康ではない証拠だろう。 

月曜には朝の11時からジムでケースとの約束があるがこんな調子では行けないので電話でキャンセルした。 寝床で本を読んではうつらうつらとして過ごした。 眼を瞑ればいくらでも眠れるような気がする。 咳をすると辛いのでできるだけ咳をしないようにイガイガをやり過ごそうとするのだがそうもいかず苦しい思いをした。 年寄りの多くは結局は肺炎で亡くなることが多いと聞いているけれど自分の場合もそうなる可能性が高いと思った。 これから20年経ってこの咳では堪らない。 その前にこれから20年ということにも大きな疑問符がつく。 果たしてそれまで生き延びることができるのだろうか。 風邪は万病のもと、というのも頷ける。


町田康 著 「湖畔の愛」を読む

2017年09月25日 11時59分32秒 | 読む

 

 

町田康 著

湖畔の愛 

雑誌 新潮 2017年 9月号掲載 200枚(P9-P66)

雑誌見開きの目次に「 ようこそ九界湖ホテルへ --- 投宿する大学演劇研究会のエース二人は愛を賭けて演芸対決の舞台に立つ。 芸と笑いのニルバーナ。」とあった。 「演芸」の言葉に曳かれたのは町田のデビューのころから関西方言を多用しその文体に演芸の汁が沁み込んだものを好んで味わっていたこと、先日町田の「告白」を読み次のように記していたことから本作がどんなものになるか些かの予想と期待をもって読み始めた。

 https://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/65738170.html

「告白」は河内音頭の題材である「河内十人切り」を素材にしておりそれは関西で広く知られた民謡・演芸である。 河内音頭は大阪河内地方から周囲にかけて広く盆に歌われ踊られる民謡であってその素材を作者は熱く語り、その語り口は町田のもち味である論理的で、且つ味わい深い古語をない交ぜにしてあり、河内弁をベースに力作長編に仕上げたものだ。 ここでは関西弁が語りを引っ張る決定的な要素となる。

本作は東京の大学演劇研究会での演芸対決の話であるけれど対決の漫才・コントで主要な言葉は関西弁でありこれは80年代からの漫才ブームで西から席巻してきた吉本軍団の影響も大きく、現在では圧倒的に東京中心に作られるテレビのバラエティー番組などで聴かれる関西弁はごく普通のものとして受け入れられていることは40-50年前のメディアでの関西弁の地位を考えると隔世の感がある。 そういう意味では文学で関西弁がこのように作品の中央に「居座る」作家はまだ半数にもはるかに及ばない。 それに町田にしてもいつも関西弁を使うわけではない。 けれど共通語をベースとしていてもその語り口、調子には七五調、調子のいい体言止め、地口などが多用され古くからの演芸・古典の伝統は明らかでありそれは例えば野坂昭如などにもみられるものでも明らかであるように関西文化のものだ。 このように町田には関西弁は魚にとっての水である。

漫才師を題材にした芥川賞受賞作に又吉直樹の「火花」があって自分はそれを早飲み込みをして芥川賞的というより直木賞的だろうと思ったと下のように書いたことがある。

https://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/64912372.html

確かに又吉の語り口、文体は同じ芥川賞作家である町田のものと比べると直木賞的ではあるけれど自分は「火花」に於けるある部分に創造的瞬間を感じ受賞に納得したのだった。 又吉作では世に出る前の芸人たちの切磋琢磨が描かれており町田の本作と同様にも見えるが本作ではそこに少々の捻りが掛かっている。 それは芸人の世界ではなく、大学の演劇研究会つまり学生の趣味、素人の団体内の話であるということだ。 それでは又吉作の中に出てくる養成所とどう違うかということがポイントで本作では登場人物の主要なものは学生であり、養成所では少なくとも将来は芸人を目指す若者たちが集う場所であるところが相違点だろう。 けれど大学には運動の分野に於いて各種野球部なり相撲部というものがあり将来プロへの道が開けているのであるから学生だといってもそこには違いがあるようだ。 

自分は1970年代初頭に学生時代をすごし写真部に籍を置いていたのだが部員でプロになったものは皆無である。 また将来プロになろうというような雰囲気さえ生まれるような場ではなかった。 それに運動部にしても例えばテニス部からテニス同好会が出てくる頃でその違いは体育会系のきつい「厳しい」縛りから離れて楽な弾力性のある「楽しさ」への移行であり、そのような雰囲気の中では将来プロになろうとする志向は一層薄れる傾向にあったように思う。 その頃知人がプロレス同好会を立ち上げた。 プロレス好きが下宿の寺の本堂でプロレスごっこをするためのものだったがそれはプロレス部ではない。 多分プロレス部というものがあったなら基礎体力造りから技の研鑽を含む体育会系のものであっただろうものがプロレス同好会は当時のオタクが集まった文科系・演劇系のもので本作の、以前は演劇研究会だったものが時代の趨勢か今では演芸・バラエティー研究会となっているそういうものとの共通項を含むものと思われるのだ。

演劇研究会の二人が愛をかけて演劇対決の舞台へ、と惹句にある。 その二人はイケメンの岡崎と(天才)大野であるが二人が目指すのは女三人組の中でとりわけ可愛い気島淺である。 町田の作には魅力ある女性が登場する。 例えば「告白」では主人公熊太郎の妻になる美少女の縫であり本作ではこの気島淺であるのだが二人に共通するのは男に阿るということを知らない独立した自我をもっていることである。 本作では気島はこの研究会に来る前にZZトップ風ブギ―ロックグループ・ポーコランズの辺見チャン一郎にイカれ彼女のカルトで無名のグループを少しは知られたものにした後、ぷいと興味を失い当研究会に来て岡崎に興味を示すかに見えるがその興味の所在は人というより演芸にあったようだ。 そこに当研究会で嘗て伝説の芸で知られ天才として鳥取砂丘に消えた横山ルンバ、ヤクザ三人組も加わりドタバタコメディーの観を呈すように演芸対決第二回戦へと突撃するのだが結末は予想を裏切るものだが気島の愛の脈絡は変わりないようで、そこには「告白」の縫に共通するものが見られ、それが両作を魅力あるものにしている。 最後の気島淺の独白にこうある。 「私はまるで光に吸い寄せられる蛾のようだ。 だから私は狂うのか(P65)」。


テレビを、観なくなったら読書量が増えた

2017年09月23日 09時41分16秒 | 読む

 

食後胃を休ませるのにベッドに横になる習慣がついている。 それに最近はテレビは8時のニュースやそれに続く情報番組程度だけしか眼を通さず、映画は最後まで観る根気がなくなったのか途中で沈没することが多い。 10時前になると自分の部屋に戻りベッドに入る様な、まるで年寄りの生活形態に成り果てている。 四捨五入すればもうそろそろ70に近くなるのだから年寄りで十分なのだがこのライフスタイルの変化が一気に年齢を自覚させるようになった。

その分読書に時間をかけることが多くなった。 一日中低くクラシック音楽を流すようにしていてベッドに横になり気ままに今まで何年も積んであった本を探しては読む。 源氏物語14巻を読了して勢いが付いた感がある。 長編を幾つか読み、その関連で同じ作家の作を手に取って頁をペラペラと捲り興が乗れば読み続けると言った具合で乱読なのだが自分の興味の脈絡はあり改めて自分の手に乗ったものを眺めてみるとこの何年も読んできたものには余り変わりがないように思う。 

ここ最近幾つかの長編を読み読み、読了後に感想文を記しているのだが読み終わってもまだ書ききれていないものが幾つかあってそれが続くと読了後の新鮮な感触が徐々に薄れて行き、そのうちどうでもよくなって日常些事のなかに紛れてしまうということになりかねないので一度ここにメモとして書き留めておこうかとも思う。 乱読であるから同時に並行して何冊も齧っていて果たしてこれらも読了できるのか怪しいのだが何れにしてもそのまま放っておくよりはメモにしておく方が幾分かましだろう。 

子供の時から書物はいろいろ読んで来たし別段感想文を書くということもしなかったのは、錯覚としても一応は自分の頭に入ったと自覚していたからで、老いが進むと記憶が弱る。 其れでなくとも子どもの頃から記憶力はいいとは言えなかったのだからこの10年以上自分の頭の悪さ、記憶力の減退にゲンナリし、それなら自分の経験を記録すればいいのだと今までしたこともない日記をブログに書き始めたのがもう足かけ14年前になる。 映画にしても音楽、書物にしても済んでしまえばすぐに忘れてしまう。 それを後ほど読み返して思い出す、思い出せなければ過去に自分が書いたものを新しく経験しなおすというのが動機で、今過去のものを時折読み返してみれば記憶の襞まで蘇るものもあれば仮令3-4年前のものであっても全く覚えていないものもあるのだから不思議ではあるし、そういう「新しい」ものに接すれば少々怖ろしい感じもしないではない。 流石に書物については同じく活字を辿るのであるから全く覚えていないということはないようだ。

 

読了;

町田康 著 「湖畔の愛」 新潮 2017年 9月号

大西巨人 著 「縮図・インコ道理教」 太田出版

大西巨人 著 「地獄篇三部作」 光文社

 

読書中;

津島祐子 著 「火の山・山猿記 上」 講談社

日本の思想 15「本居宣長集」 源氏物語玉の小櫛(佐々木、大久保、太田 訳)

Miles Davis;  The Autobiography   interviewed by Quincy Trope,  2012 papaerpack edition by PICADOR

 

読書・中断・継続中;

湯地朝雄 著 「戦後文学の出発  野間宏「暗い絵」と大西巨人「精神の氷点」」 スペース伽耶

立野正祐 著 「精神のたたかい  非暴力主義の思想と文学」 スペース伽耶

 

先日大西巨人著「精神の氷点」を読み色々な面で大西の著書について感慨を新たにした。 そのことがあったのだろう、それに関連した著作を読み齧りにして放っておいたものを今の時期まとめて読もうと思っている。 「縮図・インコ道理教」も「地獄篇 三部作」も薄い書物なのだが纏めるのは楽ではない。 果たして書けるだろうか、それも読書・中断・継続中の二冊と大西・鎌田の対談集を参考にしなければならなく先は長いような気がする。 根気のない自分には出来るかどうか、それを戒めるためにもここにそれを記している。


パッションフルーツの花が、、、

2017年09月21日 16時49分41秒 | 日常

 

秋の天気というのは分からない。 冷たい秋だと一昨日書いたところだ。 けど今日は陽が射して麗らかな午後だった。 今日と明日の食事を作ってくれと家人から言われているのでその準備のために買い物に行った。 その帰りに公園の手前の家の垣根に見たことのある花が沢山咲いているのでおや、と思い、行き過ぎてから、あれはパッションフルーツの花ではと思い返し、それにしても沢山あるものだ、それでは実が生っていれば、と好奇心も後押しして後戻りして写真に収めようと生垣の前に自転車を停めた。 

長さ5mほどの垣根がこの植物で覆われていてちょっと腑に落ちないところもあった。 義弟の庭にパッションフルーツの木というか蔓というかそういうものが二株ほどあってそこは陽も余り射さないところであるからひ弱なものがちょろちょろと添え木に絡まって藤の蔓のように植わっている。 皆が実は何時生るのかと面白半分に訊くのだが未だかつて生っている気配は全くない。 けれど花だけはちゃんと毎年咲いて我々に期待を抱かせるのだが今までちゃんと実が生っているのを見たことがない。 それが自分にとっての植物としてのパッションフルーツの印象だからここに生垣になっているほどの繁り方を見ると実を期待するのは当然のことだろう。 これだけ花が咲いているのだからさぞかし沢山実が出来るだろう、そのうちこの地生りのものとスーパーで買って屡々デザートにする出来合いのものをあわよくば食べ比べてみようという気にもなりかけている。

義弟のパッションフルーツのように藤やスイカズラ(忍冬)のような蔓植物だと思っていたものがここではそんなことはなく垣根にするような木であたりを幾ら眼を凝らしてみても実が生っている形跡は全くない。 薄緑色の円錐形の玉のようなものがあちこちに沢山見えるがそれはまだ花が開花する前の芽であってそれが開くと中から雄蕊雌蕊を中心として針状の花が輪になり花弁のように見える薄緑色の何枚もの弁が細長い玉子型に覆っていたものは花の萼(がく)が開いたものなのだ。 蔓植物ではないし実も見えないからこれは本当にパッションフルーツなのかとそれまでの自信が揺らいだ。 そういえば花の形は家の鉄線の花にも似ているようで、だからこれはパッションフルーツとは異種の別物だろうと思い直し、それに、こんな人通りの多いところにパッションフルーツの実が毎年たわわに生るとしたらだれも放っておくはずがないではないか、林檎や梨ならそうあっても不思議でもなくそれなら仮令沢山生っていてもわざわざ盗るということはないけれどパッションフルーツとなると今自分もふとその気になったように、この花に吸い寄せられるようにだれもが実に吸い寄せられて、、、、、、だからわざわざ人に盗らせるようなところに魅力のある果物の木を植える筈もない、と思い直したのだった。

家に帰って念のためネットで自分の撮った写真とパッションフルーツの花を比べてみると花自体はパッションフルーツのものだった。 ただ、実のなるものはパッションフルーツ(クダモノトケイソウ)といい、実の生らないものはパッションフラワー(トケイソウ・時計草)だと書いてある。 つまり、自分の見たものは実(フルーツ)の生らないパッションフラワーだったのだ。 この花は美しいけれど自分にはやはり花より団子だと思った。


空にぺケ

2017年09月20日 22時05分54秒 | 日常

 

2017年 9月 20日 (水) 

嫌な気がする。 これはちょうど去年10月に大阪に帰省していた時に感じたものとほぼ同じだ。 胃が痛むのだ。 昨日夜半モニターに向かっている時に手術以来、そして回復以来、つまりいろいろな薬をやめ、痛み止めもやめてから初めて痛んだということだ。 

キーボードを操作していて去年感じたものと同じ痛みが襲ってきた。 とは言っても実際去年の痛みは胃の下半分の痛みであり今はその部分は削除されてもう無いのだから痛みが来るのはそこではありえず、上部20%か無くなった胃の下部を補填するものとして繋がれた腸かもしれない。 同じ痛みであれば胃酸を和らげるカプセルがあるのでそれを服用すればいいわけだけれど暫く様子をみようと耐えていればそのうち消えた。

今日の朝食は9時から9時半までで大きなトースト1枚の半分にバター、苺のジャム、もう半分にチョコレートペーストを塗り、それにミルクティーだった。 食後ミルクティーの残りを手に自分の部屋に行きメールを見ていた。 1時間ほどすると昨晩と同じような胃痛が訪れた。 胃が空回りしているような感じでそこに生温いミルクティーを幾口か入れるとそのうち痛みは引いて行った。  けれど胃が張るようで満腹感のようなものがある。

大学中央図書館に行った。 昼食を学食で大学新聞を読みながら摂った。 マスタード・スープにポテト・マカロニサラダ、それに小さな柔らかいコッペパンだったが始めて5分ほどで満腹になり半分の量も済んでいなかった。 ゆっくりゆっくり時間をかけて40分ほどかけたが2割がた残した。 ほぼ30年ほどこの学食を使っているけれど残したのは初めてだ。 満腹感が一杯で図書館の自分の荷物の置いてあるところまでゆっくりゆっくり歩いた。 この感じは去年の10月に老母の看病中町に食事に出て昼食後に感じたものと酷似している。

2時間ほど図書館で読書した後帰宅した。 まだ満腹感がなくならないのでベッドに横になっていた。 6時半に晩飯コールがかかり下に降りていくと献立は野鴨の胸肉のグリルにオレンジソース、カリフラワーに蒸した新じゃがだった。 煮た梨が添えられていた。 美味かったが量を大人の4割ほどにしてなんとか完食した。 食べ過ぎると痛くなるのだが量は控えているので痛みはなかった。 食後自室で40分ほど横になっていた。 

窓からは夕空が見えてそこにはペケが二つあった。 昨日の痛みと今朝の痛みのペケだろう。 こんど痛みが出たら胃酸を押さえるカプセルを服用するつもりだがこれは医者に報告しなければならないのだろうか。 いずれにせよCTスキャンは11月の中頃の予定だがそれまでの問診の際には伝えるつもりだ。


秋と諦めない夏が争って向うに冬が覗いている

2017年09月18日 18時58分20秒 | 日常

 

 

不安定な天気が続いている。 外に出なければならないなら先ずネットで自分の町の上空を動く雲の動きを予め見て置いて雨と雨の合間に出るようにする。 モニターに映る像は雨雲が豹の図柄のように散らばっていて20分毎にその丸い図柄が押し寄せてくるようで、それを避けるように出てもそれも所詮シミュレーションでしかなく、途中でこんなはずではないのにと降ってきた雨を恨みながらポンチョを被って自転車を漕ぐことにもなる。

日中14℃、 夜間9℃だそうで今の時期としては冷たい秋だ。 午後うちにいて過ごした。 そんなときに青空が覗いて20分ほど陽が射したので裏庭に出て日向ぼっこをした。 日差しがあると暖かい。 暑いぐらいでセーターを脱いでカッターシャツ一枚でいた。 けれどじきに北海から吹いて来る北西の風に乗ってまた大量の雲が押し寄せてきてすぐに空が陰り、肌寒くなったので堪らずうちに入る。 そのうちあたりは暗くなってまたビチョビチョと雨が降りだした。 日向ぼっこをしたときにはまだ諦めきれない夏がちょっとだけ顔をだしたけれど、そんなものは束の間の話、それが直に冷たい秋に押し出され、その後ろで急がない冬がそのうち俺の番だと覗いている。