暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

小夏日和

2011年09月30日 16時56分09秒 | 日常

この何日か夏が戻っている。 今年のオランダの夏は冷夏で惨めなものだったそうだがここにきて夏が戻ったとテレビでも言い、それが町でも目に見えて現れている。 北欧オランダだから夏といっても30度を超えることは少なく25度になるとみな暑いといってフーフー言い出す土地だから今の20度を越す上天気は夏に違いない。 晩夏といってもいいかもしれないが夏を日本で過ごした自分には今日の天気などは「小夏日和」と「小春日和」をまねて造語してみたくなるようなものだ。

9月の最終日の今日、町の中心部に自転車で買い物に出かけると町の中心部ではあちこちの道を塞いで車を通れなくしている。 この町の10月3日の祭りの準備をしているのだ。 当日には行列が出たり、いろいろなパレード、催し物が町の彼方此方であり即席の食い物、飲み物の店が道の両脇に作られるからそういう準備に皆忙しく、そんな祭りは町のカフェーの掻き入れ時なのだ。 彼方此方で焼ける肉の匂いとビール、それが当日ここを一杯にする群集の中に漂いあくる日の朝など人通りのない町にはビールの饐えた匂いが充満して祭りの痕を露にする。 

そんなところに向かうのにのんびりと自転車を漕いでこの町をぐるりと取り囲む古い堀端の外郭を走っていると向こう側の公園の芝生のある水辺には沢山のビキニ姿が日光浴をしているのが見られ、彼女らも殆んど無かった今年の夏を取り返そうとしているようだった。 天気予報ではまだこういう天気が3,4日続くらしい。

明日は土曜日だから古い運河に沿っていつもの青空市が出るのだがこの分では殆んどそういう場所は祭りの屋台で塞がっていて出せないだろうと踏んでその近くの大型スーパーに入り必要なものを買いのんびりと別の公園を抜けているとその中の児童遊園地には爺さん婆さんに母親達がのんびりと小さな子供たちを遊ばせながら自分達も晩夏を楽しんでいるのが見られた。

運河に沿って続く自転車道を家に向かって走っていると木の陰に新しく設置されたスピード違反検知のカメラがあるのが見られた。 こそこそと何とも姑息な手段を使うものだ。 もう20年もここを何度も走り景色もいいし信号も殆んど無いので気持ちがいいからいつも70,80kmで走っているのだが制限時速は50kmだ。 それも今まで検知器がなかったからやれていた訳で、今こういうものを見たらこれからはここだけはスピードを落とさねばと心した。 のんびりと自転車を走らせているとこういうものも見えるからこれを見ていなければこれから罰金に消えていただろうと思われる数千円を払わないでもいいことになり少しは得をしたような気にもなったのだが、しかし今までの習慣というものも侮りがたく物忘れが頻繁になった頭にはいつまでこれを覚えていられるのだろうかとも思案し、けれどそれも所詮は罰金の督促状が郵便受けに届くか届かないか待つしかない。

Fitness Club 50+

2011年09月30日 11時39分18秒 | 健康

日本から戻り、衰えた筋肉と体力を少しは取り戻そうと近くのジムに通うことにしてもう5週間経った。 毎週月曜の夜9時から Fitness 50+ というグループに入った。 それに先立って初めの日の午後一時間ほどそのジムによる体力測定をしたのだが、こういうことはもう何年もやっていないので出た結果が意味することがどういうことなのか皆目見当もつかなかったけれど、考えてみればこういうものは大学入学当時に一度やったのが最後だったような気がする。 そのときの記録がどうだったのか、それを後でどのように使ったのかの記憶も全くない。 それは自分から進んでやるような性格のものでもなかったのだろう。 もう40年も前の話なのだ。 中学校から高校の初めはスポーツ少年だったから体力については多少の自信はあったし大学時代の長い休みの時には土方仕事のアルバイトで体を使い普通の人間並み以上だとは自負していた。 けれどそういう貯金はもう20年から15年前ぐらいには使い果たしているような気はあったけれどしかしそれを無視して自分はまだ若くまだまだこども達には負けないと思っていたのだが、還暦になる2,3年前からはさすがに貯金もその利子も使い果たしたと感じていたから今回ポンコツ自動車のオーバーホールのつもりでそのジムの求めるテストに望んだのだった。

一昨年ほど前まで不定期的にジョギングをやっていたときにはまだ体力は残っていると思っていたものの、一人でやるのには根が続かず、またシャワーの後のビールが旨いからそれではカロリーを増やすようなもので体全体のバランスから見ればほんの時々5,6km走るぐらいではどうにもならず、それだけではふやけた体を支えきれないのだろうし、実際そういうことも感じていたからしぶしぶ重い腰を上げてそのクラスに入ろうという気にもなっていたのは家人のこともあるからだ。 彼女はここの別の日のクラスでもう3,4年ずっとそういうことをやっていてヨーロッパの彼方此方を歩くのに体のさまざまな筋力、体力を保とうとしているから贅肉のないそういう家人を見ていて、自分が今まで嫌っていた色々な器具で、例えばまるでハツカネズミが檻の中で車をからから走らせているようなもの乗る姿や幾つもある機械で体を動かす己が姿を思い描いて毛嫌いしていたのだが、それでも日常生活で不都合が彼方此方の部位にでてくるのと標準体重を20kg以上越すのに耐えかねたのとついに自分の老いを自覚したことで50歳以上の人たちのためのこのクラスに行くことにしたという次第だ。

インストラクターと一対一でがらんとしたジムで体力測定のようなことをやらされて筋力はあるものの持続力が不足していると指摘された。 次の日にその結果が郵便で届けられた。 オランダ人60から64歳の平均との比較では体脂肪がオランダ人が24%のところが35.2%と最悪のクラス、だから自転車を漕ぐ持続力と肺活量、それに関連した心臓機能が弱いと診断されている。 ただそのほかの筋機能がオランダ人の自分の年齢グル-プと比べるとかなりいいから総合で100点満点の70点を得たのだが自分で判断しても結局は運動の持続力を高めなければ何にもならないのだろうということを頭に入れてその晩食後そのクラスへと雨の中自転車を走らせた。

そのクラスは名前のとおり50歳以上のためのフィットネス・グループで年齢の点では自分は大手を振ってここに参加できるのだが70代も何人かいるから平均年齢は60を越しているものと思えるものだ。 体育館の四方の壁際には様々な器具、機械が置かれ、その数は30をはるかに越しているように見える。 初めの10分で準備体操、最後の10分で調整の体操、間に機械を使った20ほどのトレーニングと床をつかった運動をそれぞれ2分から5分づつ順番にしていく仕組みになっている。 ボートや自転車を漕いだりベルトの上を走るようなこともするし寝転んで重量挙げのようなことこもする。 

うちでは7時前に食事を終え8時にテレビのニュースを見ながらコーヒーを飲むのが習慣だから9時にトレーニングが始まると準備運動の5分後にはもう汗が出始めてその後ずっとそれが続き、細かく分けられたそれぞれの運動で体がもうそれに耐えられなくなるようになると次に移るという具合で発汗し続けるということになる。 毎週運動の種類のメニューが変えられるので飽きることはない。 それに一番いいのが普段使わない部分の筋肉を訓練するような仕組みになっていることだ。 準備運動にしても一人だけではとても考えられないような動きをさせられる。

4週間経って太鼓腹に効果があったかどうかは確かではないがすくなくとも両脇が締まって立っているときにすっきりするような感じだけはする。 それに済んだ後の疲労感が気持ちがよくこれならちょっとは長く続きそうな気がする。

今週は始まる前に着替えをして、前のグループと交代するまで待つために喫茶室の長テーブルで他のメンバーと話しているとその日の葬式のことが話題になっていた。 このグループは15人ほどなのだが大抵は誰かが休むので毎回10人ほどなのだが自分は新顔で多くはもう10年以上続けている連中だ。 そのうちの一人がスペインのバカンスで心臓発作のため急死してその葬儀が月曜日だったのだ。 故人とは面識もないし当然その葬儀にも参加しなかったのだが、70歳でも元気で少々せっかち、ちょっとがんばりすぎるぐらいなところもなくはなかった、とのコメントもあって、誰もこうなるとは予測もしていなかったようだ。 期せずして自分はその空きに入ったことになったのだがこのグループは年齢的に見てそういうことがありそうなところのようだ。 一人のメンバーがその日の葬式で弔辞を読んだそうで何人かがそれにいいスピーチだったと言い、ジムのトレーニングが始まるときにはトレーナーも1分間の黙祷をしようといい自分は顔も合わしたこともない人のための黙祷とは妙なものだと思ったのだが、これはこのグループを通過していく者のための黙祷だと思うことにして、あと10年ここに通うとするとあと何回こういうことをやるのかという想いもちらっと頭の隅を走ったのだった。

まさかこういう物を買うとは思わなかった

2011年09月27日 02時07分26秒 | 想うこと


盆が過ぎてからオランダに戻ったのだからもう1ヶ月ほど経つが、まだあの夏の日々は頭から消えず、この何日かで八月上旬に日本から幾つもダンボール箱に詰めてこちらに送った郵便物が着き始め、それらを開けると毎日ゴミ屋敷を整理した暑い夏の思い出とともに子供がいなければ見ることもないような経験をしたことも日常使うキーホルダーを見るたびに思い出すのだ。

自分がゴミ屋敷を一人で整理しているときには子供たちは自分達で初めて日本のあちこちを見て廻るのに忙しい日々を過ごしていた。 富士山の周辺の山々を偶々日本に来ていたこどもたちの学生仲間、友人達と歩きそのまま東京に出かけ何泊かして初めての東京を見物していた。 そのときに新宿、秋葉原などの風物にいたく興味をひかれたらしい。 世界のあちこちでメディアの若者向けの日本紹介番組記事で紹介されている定番の場所である。 カプセルホテルに泊まり、秋葉原でメイドカフェにでかけ、安い赤暖簾で串かつを味わい、カラオケをしたのだという。 もう四半世紀も東京に足を向けたこともない自分の経験したことがないことばかりだったようだ。

ゴミ屋敷の整理ばかりだと気が滅入るからある日、子供たちにそれじゃ大阪でもそういうところがあると聞いているから、ついでにその近くの新世界、通天閣あたりを散策しようと提案し、日本橋あたりの電気屋が集まっている街を30年ほど前に歩いたことも思い出し、真夏の一日、難波から歩き始めてそのあたりにいくと子供たちが、あ、これは秋葉原とよく似ている、と言いながらアニメのフィギュアがごちゃごちゃと店内一杯に置かれた狭い洞のようなところを奥へ置くへと歩いていくのだった。 子供たちについて行きつつも周りの物の膨大な数とそんな形に圧倒されて周りの小さい人形のようなものを眺めていたのだが、それが何なのかまるで分からず、それに、いい若い者が、それも女の子ならわからないでもないけれど、いい若い男が興味深そうに何人もそいう少女のフィギュアばかり注意深く捜しているような風景に接して呆然となった。 おたく(nurd)と呼ばれる人種をテレビのドキュメントや映画などでみていて、それは戯画化された姿で実際はそんなものではないだろうと思っていたけれど実際そういう若者達が目の前に溢れているのに接してまさにステレオタイプというのは実際の姿をある程度統計的なデータから抽出した姿なのだと実感した次第だ。 珍しいものをみた、と思いこれなら近くの天王寺動物園より面白いとも思った。 近くのゲームセンターではそんな若者がメードカフェにいるのと同じ女の子をはべらせて何かを遠隔操作で掴み取るようなゲームに励んでいるのを見て唖然とした。 大人が、これも大阪発祥ときくノーパン喫茶でソファーに腰掛けて半裸のメードがコーヒーや酒をもってくるのを眺めているのなら分からなくもないがノーパン喫茶とは違いメードに時々声をかけてもらいながらただゲームに励む若者の姿との距離にこれも時代の移り変わりなのかとの感慨がよぎる。

昭和二十五年生まれにはフィギュアで遊ぶ、ということがなかったようだ。 赤胴鈴の助や月光仮面のまねをして木剣を振り回したり風呂敷をマントやマスクにして、自分で木を削って作ったピストルを持って遊んだことは覚えているものの創刊したばかりの週間漫画雑誌で鉄人28号の漫画連載がはじまり、そのうちブリキのロボットが玩具屋のケースに並んだのはみているけれどそれで遊びたいとは思わなかった。 後年、フィギュアというのでは自分の友人たちの子供らが怪獣やヒーローものを沢山弄んでいるのを見た位で、まさか、今いい若い者がこんなものを弄ぶようになるとはとてもその頃には思いもつかなかった。 漫画、フィギュア、子供という連想がつづき、そこには成人の余地はない、と思っていたのが日本に長年住んでいなかった者の浅はかさなのだろう。

文字を読まないものは想像力が退化する、とはよく言われるものだがマンガ、アニメで育った連中はどうなのだろうか。 想像力の方向、種類が違うのだろうしそれは視覚とはいっても文字からではなく画像から喚起されるものなのだろう。 自分の子供の頃は活字本は潤沢に買い与えられたがマンガは一切だめだった。 そんな中で育ったからマンガを買うのはもったいないとも思い、こどものころは散髪屋で眺めるか立ち読み、後年学生になると喫茶店で読むぐらいで、大人になって買ったのはかつてのマンガ専門誌のガロに掲載された私小説的なマンガ単行本のいくつかぐらいでそれは今のマンガからは大分距離のあるものだろうと思う。 今はマンガは「読む」と言われるが我々の頃はマンガは「読み物」ではなく「見る」ものだった。 国語力の退化、特に漢字と語彙の衰退化の元凶は戦後のマンガだといわれる。 世界に今日本文化として発信されているのがマンガ、アニメだというのは日本の青年の幼児化を示すもので嘆かわしいという意見を聞いたことがあるが、それにはある程度の共感を覚える。

オランダで育った自分のこどもたちにしても日本に比べるとまるで牧歌的なマンガは小学校を終えると収納箱の隅に片付けられ自分では買っていないようだったのだがそれでも時代の流れかコンピューターゲームは友人達とCD-ROMの貸し借りをしつつ何年か前まで繁くやっていたようだ。 フィギュアで遊ぶ、特にこのような少女のようななんともいえない姿の女の子のフィギュアには目も呉れるようなこともなく精々小学校のときの恐竜のフィギュアから、中学生になると息子はガールフレンド、娘はボーイフレンドたちと年に応じた異性交流を実地に始め、それは紙やコンピューターの上のものより数段面白そうであり我々には真剣なもののように見えた。 そしてそれらの異性の友達らはこどもたちだけではなく我々両親の前にも現れてこどもたちの好みがこういう若者なのかとニンマリさせてくれたのだが、子供たちが言うようにここでは女の子のフィギュアが圧倒的で、女性用の男のフィギュアが少ないということにも不思議な気がした。 女の子は大人になるとこういうものに興味をもたなくなるのではないか、ファンタジーより実地に走り、ハローキティーというのもあるけれど、それもそのうち離れていくのではないか、つまり日本の女は男に比べて早く現実の世界に羽ばたくのでは、という意見にも肯けるような気がする。

その後、新世界の安い立ち飲み酒場で子供たちと生ビールで串かつ、土手焼き、おでんのコロ(鯨の脂をとったあとのスポンジ状の組織をおでんにして煮たもの)などで腹を膨らませジャンジャン横丁では昼の日中からカラオケでさんざん訳の分からない演歌をがなって帰途につく途中、自分の射撃クラブのオバサンたちに頼まれていた日本土産を思い出し、その近くのみやげ物やで今ではもうなくなった大阪名物「くいだおれ」の人形の小さいフィギュアでキーホルダーにぶら下げるものを買った。 彼女らはそれに大喜びだったけれど、自分のアニメ・フィギュアを見て、それお前さんの孫の将来の姿かい、といわれたのを聞いて日本のアニメ、フィギュア事情を説明するのにうんざりし、それにはただ肯いただけだった。 その由来を知ったらあのオバサンたちだったら、なんでいい大人がそんなものぶら下げているのかも分からなく、男も女もそんなことより実際にいい男、いい女の方に走ればいいのに、もし私らでよければいくらでも遊んであげるのだけどね、といって大笑いするに違いない。 

まさかこんなものをあそこで買うとは夢にも思わなかった。 なんでそんな気になったのだろうか。 包み紙にこの人形の由来、アニメかマンガのことが書いてあったがそんなものはレジのところでレシートと一緒に棄ててしまっていて今ではこの眼鏡のおねえちゃんは誰なのか分からないしそれはそれでどうでもいいような気がするのだがまだ10年ほど先にしか生まれないだろうと思われる孫の姿とはとても思いつかなかった。 それじゃまるでコケシ人形ではないか。

裏戸の修理

2011年09月25日 19時23分25秒 | 日常


このうちに越してきてからもう20年以上になる。 こども達が小さいときは表からポーチを通って裏庭に抜け台所から入ってこられるようにしていてその間に戸をつけなかった。 そのほうが裏庭も幾分か広く見えるような気がしたし今は家人のアトリエになっているところが当初はガレージになっていて、その通り道のポーチにブランコを張っていたからその太い丸太の支柱がゲートのようにも門のようにもみえていた。 それに、そんな開放的な雰囲気も自分が育った日本の田舎を思わせたからそれが気にも入っていた。  小包の郵便物があって表の戸の隙間から入らないときはポストマンはそのままポーチを通って裏のほうに廻り物置に日本から届いた本や食べ物などの包みを入れておいてくれていたし、時には散歩中の犬がどこかの猫を追って庭に入ってくることもあった。

そんな風に開けっぴろげの庭続きの中でこども達も中学に入っていた頃だったろうか。 ある晩ものすごく雨が降ってこれはひどい嵐だなあ、ということがあった。  夜、物置にビールをとりに庭を抜けて行ったときには芝生が冠水していて飛び石伝いに物置に入るとここも同様に履いた木靴をソロソロ歩かないと靴に水が入るというぐらいの床上浸水で、その水はあくる日になっても引いてはいなかった。 庭は住居部より幾分か低かったのでそんな具合だったのだが翌朝仕事に出ようとそのまだ床より数センチ上に水面がある物置に入ると自分の古い自転車が消えていた。 選りにも選ってそんな嵐の夜の泥棒だったのだ。 そばに子供達の自転車や家人の新しいサイクリング車が車輪のタイヤの辺りまで沈んだままそこにあるのに、これも選りにも選って自分の古いものだけが盗まれていた。 理由は自分のものだけに鍵がかかっていなかったからだ。

家人はこれを気持ち悪がってすぐに出入りの大工に頼みポーチを半分に区切って裏戸をつけて鍵がかかるようにした。 それからほぼ10年だろうか。 隣近所に泥棒が入ったという話しはその後あまり聞かないからこの戸も効力があるのかどうか確かではない。 けれど時は経ちその鍵も毎日の雨風に晒されて錆び、調子がわるくなりやがては壊れてしまい新しいものを付け替えなければならないこととなったのでもう何年もでかけていない工事専門業者が出入りする店に出かけた。 こういう古い型のものはもうふつうの日曜大工スーパーには無いことが分かっていたからそこに出かけたのだがその店も整理をしたのかもとの場所から町のはずれの産業地区に引っ越していた。

そこに残っていた最後の一つを手に入れて戸に残った古い跡に錠前の箱を嵌めればどこも削ったり穴を開けたりすることなく難なく修理が出来た。 うららかな午後の半日と5000円ほどを費やしてこれから10年ほどの安全を補証すべく横目で庭のラズベリーの房を見ながら今年はあと一回ぐらいはデザートにする位は取れるかと皮算用をしながらエッチラオッチラとねじ回しを何回もひねったのだった。 

初めての梨

2011年09月24日 22時00分59秒 | 喰う


ここに何回か書いた梨を家人が料理してデザートの添え物にした。 それまでの経緯は次とおりだ。


9月13日
http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/62149039.html

5月22日
http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/61841928.html

4月16日
http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/61736688.html

風で落ちた3,4個の梨をポートワインで煮て庭のラズベリーから作ったソースを自家製プリンにかけたものがデザートに出た。 6,7cmほどの片12,3個になったそうで梨の木は隣と共同で植えたので半分はそのゲイのカップルのところに行ったのだそうだ。 

プリンは家人のおばあさん譲りのレシピーで我が家では「おばあちゃんのプリン」といわれているものだ。 昔から オランダ語で griesmeel, 英語で semolina(セモリナ)と呼ばれてパスタやプリンに使われる小麦の粗びき粉を牛乳と混ぜて固めたものだ。 甚だ簡単なのだけれど今のスムースな卵豆腐のようなプリンに比べて粒粒が舌に当たる懐かしい感触に特徴がある。 それに、自分はこの粉を食い物とはまるで違ったところで使っている。

西部劇で使われるコルト6連発ピストルとウインチェスター・ライフルを道楽で撃っているのだが、射撃連盟の古式銃カテゴリーでは今の窒素系無煙火薬は禁止されていて昔どおりの黒色火薬を撃たなければ競技では失格になる。 そこで黒色火薬を詰めるのだが今の黒色火薬は昔に比べて純度が上がっているから適度な爆発を起こす量を昔どおりの薬莢に入れると嵩が減って隙間が出来、銃の中で横になった弾の薬莢部分で上部に隙間が出来て発射の際に不均衡な爆発が起こり安全性にも甚だ都合が悪い。 そこで弾丸を作る際にこの小麦の粗挽き粉を垂直に設定した薬莢の上部に入れるのだ。 人によっては粉の代わりに厚いフェルト地をタンポンとして詰めるものもいるけれどそうすると撃った後に10mほど先にこの浅黒いタンポンが残ることとなるのでそれを嫌うものはこの粉を込めるのだ。 粉は当然火薬の匂いとともに発射後の薄灰色の煙となって消えることになる。 火薬ではないけれど弾につめるものをスーパーで何年かに一度買うことになるのだが、クラブではなになにブランドのものがいいという話で盛り上がることもある。 自分の経験では自然食品の店で買ったものは何か撃ったあとに薄い膜のようなものが銃身の中に残って都合が悪い。 自然の不純物が混ざっているのだろうか。 

今年は三本の木には実がもう一つもぶら下がっておらず残念ながら当初の目論見であるクリスマスのディナーに添える家族分は出来なかったものの、これも梨の初年であるからこれで良しとしなければならないのだろうけれど、それでは来年は少なくとも30個ぐらいは収穫できることを期待しようか。

何とも瑞々しい

2011年09月21日 11時30分59秒 | 日常


昨日居間の花のことを書いた。

メディニラ・マグニフィカ(Medinilla magnifica)
学名:Medinilla magnifica
別名:オオバヤドリノボタン(大葉宿野牡丹)
科属名:ノボタン科メディニラ属
原産地:フィリピン

朝シクラメン越しに覗いてみるとぶら下がった花の先に出来ている沢山の粒粒に光るものが見えた。 露なのだ。 なるほど熱帯の花らしい情緒あるものだがしかし、結露などというと温度の差がかなりあったり湿度が高い温室の中で起こることのようにおもえるので大体常時20℃に保たれているこの部屋の中で起こっていることに少々の感動もし幾分かの訝りも覚えた。

考えてみると室内の植物でいままでこういう結露する植物を置いたことはないような気がするし、露と書いたけれどこれは確かに露なのだろうか。 ひょっとして粒粒の先から出ている何かの粘液かもしれないとも思ったのだがそれに触れるようなことはしていない。

これが露だとするとその風情はまるで中性の環境に保たれたこの居間のなかで生の屋外の空気の中で起こっていることに触れたような気がしてそれは悪くはないのだが、しかしどうもこういう沢山ある粒粒はあまり得意ではない。

居間の新しい植物が開花している

2011年09月19日 00時23分30秒 | 日常

二ヶ月帰省していてオランダに戻ってくると居間の様子が少し変わっていた。 何か大きな観葉植物のようなものが窓際に居座っている。 この何年もそこに並んでいたアロエの親戚のような面白みのない幾つもの葉っぱが消えて大振りの葉が一鉢だけ、そばにシクラメンの鉢を幾つか従えて並んでおり、それが鬱陶しい秋空を慰めようとするかのように、また少々しなだれ気味にもみえる姿を見せている。 買ってきたときについていたプラスチックの小片には Medinilla magnifica というふうに書かれておりフィリピン・ルソン島原産だと示されているのだがもちろんそこには和名はないし、英名さえもない。 そこでネットで引いたら次のように出ていた。


一般名:メディニラ・マグニフィカ(Medinilla magnifica)
学名:Medinilla magnifica
別名:オオバヤドリノボタン(大葉宿野牡丹)
科属名:ノボタン科メディニラ属
原産地:フィリピン

オオバヤドリノボタンとは聞いたこともない。 もちろんこちらはだいぶまえから植物名など様々な人名と同じく覚える努力をしないのだから頭に入ることもないのだが、それでもオボロゲニは聞いたことがあるかどうかはまだ微かに判別できるからヤドリとボタンには反応するもののその組み合わせにはが合点がいかない。 ノボタンという種類があるようだ。 ノンタンならこども達がちいさいときに気に入りだった猫かなにかの絵本の主人公だったはずだが野の牡丹なのかもしれない。 それにしても牡丹とは葉も花もまるでちがうから野がつけば牡丹の印象から離れた方がいいのかもしれない。 何れにせよ重い花なのか下に垂れている。 見るからに熱帯の植物のようだが何段にも開いたピンクの花に粒粒のものが成っているのがそのムードを盛り上げるようだ。 一年中室温20℃ほどのなかで今だけが開花の時期なのかどうかそれもこれから徐々に知ることになる。

何だこのニセものが!

2011年09月18日 00時45分26秒 | 喰う


もう3ヶ月ぶりになるだろうか、土曜の青空マーケットに行って買い物をした。 いつもの如く朝飯も昼飯も食わずに来たので魚屋がならぶテントのなかにある一つで、もう何年もここに来るたびに寄って道々摘みながらあちらこちらの店を眺めながら昼飯代わりに口に運ぶものの一つに、 白身魚のぶつ切りにコロモをつけて揚げた Kibbling(キブリング) というものがある。 プラスチックのフネの一部に入ったカクテル・ソースやニンニクが沢山入ったタルタル・ソースなどをつけて熱々を喰うのだが、時には白身魚の片身を長いままそのままコロモをつけて揚げた Lekkerbek(レッカーベック)というのもあってそれとぶつ切り白身の揚げたものをそのときの気分で選んでいる。 Lekkerbekは一種類の白身魚の片身がそのままゾロっと油紙に包まれて渡されるのだが Kibbling の方は白身の魚だが色々な種類の縁の部分が混ざっていて一種類ではないようだ。 念のためオランダ版ウィキペディア、Kibbling の項を見てみると、

オランダ版ウィキペディア; Kibbling の項
http://nl.wikipedia.org/wiki/Kibbeling

もともとは鱈(Atlantic cod、タイセイヨウダラ)の頬や顎あたりの身を揚げたものをそう呼んだらしいが、それに腹の部分が加わり、北海の鱈の乱獲で数が減少し鱈の値段が高騰するに及んでその他の白身魚、例えば 英語名でいうと、pollock(スケソウダラ)とかHake(メルルーサ)、whiting(ホワイティング)、coalfish(クロタラ)が主流になっているそうだ。 実際、この30年でマーケットで見る鱈のサイズが見る見る縮まった。 初めは1m近くもある大きなものをぶつ切りにしたものでこちらも鱈が目の前で刻まれて揚げられるのを見てそれを喰ったものだが、それがこの15年ほどでみるみる小さくなって今ではマーケットに並んでいるものは40cmあるかないか、というものが多く、値段もそれと反比例して高くなる、といった具合で、この10年ほどは鱈を切ってそれを揚げるといったことも見られず、どこか裏の方から持ってきたバケツの中に入ったぶつ切りの身をこそこそと揚げる風なので本物の鱈など期待しなくなっていた。 それでももともと安物のスナックなのだから上に説明された鱈の親戚、イトコハトコたちでも別段文句をいうものではない。 熱々を道々口に頬張る、というところがミソなのだ。 なまじこれをちゃんとした皿に盛られても居心地が悪くなる。 それはイギリスで伝統のジャンクフード、フィッシュアンドチップスとおなじで昔は新聞紙につつまれたそれを広げてその新聞の記事を眺めながら歩きながら喰うというようなものだ。 そちらのほうでももともとの材料は鱈だったものが今では事情が同じで上とおなじような材料になっていることは確かだ。 オランダの人間に言わせれば、イギリス人はあの魚、オランダでは Lekkerbek と呼ぶものにちゃんとソースもかけずに酢をかけて喰うなんて、あんなものをよく喰うな、というのだが、けれど、あれは酢だけでは単純な味ではあるけれど慣れればそれはそれで悪くはない。 ただ、今ではちゃんとした紙につつまれて出てくるから昔の新聞の記事が恋しく思うこともある。

前置きが長くなった。 次の買い物に急いでいたから髪の毛を逆立てて目の周りに濃い緑色のクマを塗った婆さんにキブリングを頼んで350円ほどの代金を渡して熱いのを受け取り、歩きながら揚げ物をニンニクソースにぐちゅりと押し付けてそれを頬張った。 すると何だか妙な歯ごたえがする。 

どんな魚にしてもちゃんとした身の歯ごたえというものがあるけれどこれは何か菜食主義の人間が喰うバーガーのニセモノのような、中国豆腐を揚げたもののような歯ごたえだ。 それに、形にしても普通の魚のぶつ切りのように不定形、不揃いのものではなく厚いビスケットのようなちゃんとした長方形になっている。 どうみてもまともな自然の魚の切り口ではない。 よく見てみると安物のバーガー肉、工場で磨り潰された加工肉を圧縮したようなそんな風に見える。 これは、つまり、魚肉ソーセージ風、というかすり身なのだ。

普通、オランダには蒲鉾とか魚肉ソーセージというものはない。 中国食材店には冷凍庫にはいろいろある中にそういうものもあるようだ。 ただ、この10年ぐらいは日本食が普及したために高級食材、蟹のニセ・蟹肉が Surimi(すりみ) として蟹の身のように加工、色づけされてスーパーでも普通に売られている。 だからこれはスリミと考えるのが相当だろう。 見てみると このフネの中にある12,13個ほどのうち3,4個がこのスリミを揚げたものなのだ。 なんとも姑息なまねをするするものだと腹をたてたのだが、いくらなんでもこんなニセものは喰えない、といってもあの婆さんのところからもう大分離れているので引き返して文句をいうのも大人気ないのでやめたけれど、次からはあそこでは Kibbling を買うのは止めて ちゃんとしたまともな魚の片身を揚げた Lekkerbek にしようと決めた。 あそこがこんなことをするならそのうちに周りの魚屋も同じ事をするに違いなく、それを思うと気が萎える。 あの婆さんのところにあるものをそれまで喰っていたのは他にもたくさんある魚屋のものにくらべてどこかかコロモが旨いから来ていたのだがこんなことになるとは思わなかった。 何ともこれも時代の移り変わりなのか。 これではちゃんとした魚そのものの片身を食うしか仕方が無く、もしそのうち片身一枚の代わりに大きなスリミのブロックがぞろっと出てきたらどうしようか。 そんなものは喰えたものではない。 とそんな風に思いながら角のカフェーに入り、ここでも昼間から飲んだくれている親父たちの間をぬってカウンターごしにカラオケでも歌おうかとマイクを弄んでいるでっぷり肥ったマダムにグラスのビールを頼んでそれで口を漱いだ。 

10月3日の祭りの気配がそこまで

2011年09月17日 14時24分28秒 | 日常


夏が終わったと思えばもう秋の祭りが近づいていることを匂わせるようだ。 それというのはこの町の10月3日の祭り当日のための行事が行われ、それに今日参加したからでもある。 

どこでも祭りは好まれ、自分も子供の頃から村の夏の盆踊りと秋の地車(だんじり)で育ったからそれらが近づくにつれて徐々に期待が膨らんでいくのが思い出されるし、何かの具合に今でもその思いが溢れることがある。 帰省した折の真夏の一夕、岸和田にまだかろうじて存在する昔流のジャズ喫茶に息子と行った折、急にもうシャッターを下ろした駅前商店街を一団の若者達が掛け声を上げて短い綱だけを引っ張り岸和田のだんじり祭りの予行演習をしているのに行き当たった。 呆然とそれを見ている我々に荒っぽい声で危ないから脇に退くように言うのだが、そんな危険など何処にもなく夜のがらんとしたアーケードでを何ヶ月かあとに満員の観客と勇壮なダンジリを想定して大きな掛け声を上げ、真面目にストップウオッチで時間を計るものまでいながら真剣に透明なダンジリをひっぱって駆け抜けていったのだが、その喧騒には明らかに準備のための義務を果たす、というだけではなく、はっきりと彼らの興奮と本番への期待の喜びが見て取れ、まことに微笑ましかったのだが、その喜びは嘗て自分も祭りの太鼓の練習が始まって遠くからそれが聞こえてきた時に感じたものと同じだった。

場所も変わってオランダの町でも祭りの形は違うものの祭りへ向かって例年の行事が始まるときの喜びと期待は日本で経験したものと相似形とでもいえるかもしれない。 ここではこの町が450年ほど前にスペインの圧制から開放されたその日を祝うものであり、そのことを市民は今でも忘れない、という意味の祭りである。 そのことについてはこれまでに何回か書いてきた。

市民への贈り物(2006)
http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/40333608.html

今日は生鰊の匂いがプンプンだ(2006)
http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/40781123.html

生鰊8尾、丸パン2個(2008)
http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/55966305.html

先日、家人が地元のフリーペーパーを見ていて、祭りの当日、鰊とパンをもらうための予約の券を町の旧公式計量所の建物までもらいに行くあの日までもう2,3日だわね、と言った。 この2年ほどはそれに気がつくのが遅くて、ああ、昨日だったのか、とか、え、先週もうあったの、という始末だった。 それはひとつには、祭りは中秋、10月であり、その気配はまだ夏の暖かさが幾分か残る今日この頃では感じられない、ということもあるのかもしれない。 けれどもこの20年ほどの間に10回以上それをしているのだから大体は忘れてはいない。 週日ずっと働いていたときには仕事の帰り道、所定の古い市の公式計量所の建物にいけばよかったのだけれど今はうちからわざわざそのためだけに出かけていかねばならないから少々面倒な気もしないではない。 

運転免許証と結婚証明書をそこで見せ、記載されたこども達の記録とともに、自分がこの町の住人であることと4人家族であることを示して当日、鰊8尾とこどもの頭ほどあるパンを2個をここでもらうための紙切れを受け取るのだ。 午後4時半から9時まで受け付けるらしいからゆっくり夕食を摂った後7時にでかけた。 早く出かければ人が一杯で長い行列のあとについてならばなければならないからまだ皆が食事時中に、という計算が働いたのだがそう上手くはいかなかった。 皆もそう考えているに違いない。 2,3人の幅で長さ100mはゆうにあり、最後尾についてのろのろと進むのだが遠くからブラスバンドやパーティーバンドが代わりばんこに昔の景気のいい流行り歌を演奏し華やかなムードを掻きたてるから年寄りの多くは体を揺らせている。 もっとも行列に並ぶ人々は殆んどが40以上で老人が多いように見受けられた。 こういうのは若いものには人気がないのだろうか。 

人口10万ほどの市であり、例年その2割ほどにたいして魚とパンが配られるというようなことを聞いたことがあるけれど、一人で4,5人分の切符をもらいに来ているとしても4時間半のあいだに4ー5000人は来るのだから少なくはない。 20分ほど並んで中に入ると5分ぐらいで終わったのだが外に出て自転車を停めてあったところに戻っても行列の最後尾は短くなるどころかまだ伸びて市の公会堂裏あたりまで続いていた。 天気がよくまだ充分明るいからよかったものの雨だったら惨めなものだが、記憶を辿ってみても10月3日が惨めな雨の日は多かったけれどここに並んだときに傘やポンチョで並んだという記憶はない。 後は祭りの当日早朝7時にここに来てこれ以上の長さの行列に加わることになる。 そのときにはいくら陽気なバンドが音楽を奏でていてもポンチョは用意しておかなければならないだろう。

チャイナ服

2011年09月16日 02時46分15秒 | 日常

先日、年金受給に必要な証書をもらいにハーグの大使館・領事館に出かけたのだが、その折時間があったので中央駅から歩いて繁華街まで行くことにした。 このあたりの20年ほどの再開発には目を見張るものがあり、その中心になっているのがハーグ市庁舎だろう。 当時はその建築がかなり話題になったものだ。 オランダ的ともいえる、簡素で機能的な真っ白なデザインと地理的にも町の中心にあり市役所に用のない人たちにも、特に歩行者達に交通の便をはかりその地域一帯を遊歩道的に活用する意図があるのか役所としての機能を含めた、高層で吹き抜けの巨大なスペースを作っている。 自分はその町に住んでいないのでそこには殆んど用事がないけれどハーグに出かけると中央駅からそこを通って中華街に行ったり百貨店があるあたりに向かう時にはここを通過することが多い。

急ぎのときは駅から市電に乗って通過するのだがここを通ろうという理由は広大な空間の中にいつも何か展示、展覧会があることだ。 市役所の性格上市民生活に関係する様々なテーマ、とくに国際都市であるこの町の性格上、たとえば人種、人権、差別、都市問題などについてさまざまなテーマを絵画、彫刻、モノの展示等の形で示しているのに接するのが楽しみであるということだ。 勿論ハーグ市の歴史を、博物館で見せるような文物を写真とともに展示していることもある。 

この日は最近の世界的な中国の隆盛ぶりを反映してか中国の伝統的な衣装のコレクションを見せていた。 この100年ぐらいの衣服だったのだが、経験的な日本的な美観からするとチャイナ服はちゃらちゃらとして目にまばゆい感じを持っていて、多くはキッチュ気味に見えたのだがそこに展示されていたものはその意匠がそれぞれ素晴らしく、息を呑むものまであってそこに留まってしばし眺めたものだ。 

30年ほど前に中国を旅行し家族の土産に絹のチャイナ服を買ってきたことがあった。 いくら地味なものを選んでいてもいざ家族がそれに袖を通すとそこには華やかな中国人が見えるようで不思議な気がしたのだが、家族にしても殆んどそれに袖を通すことは無かったようにおもう。 今回帰省して家財整理したときにそういったものが何枚かそのまま出てきて娘がそれに袖を通すと盆踊りに袖を通した浴衣の姿とは違った印象になりオランダの大学生としていろいろなパーティーに着ていくのには浴衣より着易く、華やかだからといってオランダに郵送するための自分の箱に詰めていた。 当然見る人によってはチャイナ服の移り変わりというものははっきりしているのだろうが日頃あまり接することのないものたちには同じようにみえるけれど、その華やかな艶と意匠は若い人には適したものだろう。 そこに展示されていた素晴らしい衣装の数々は近くで見ても遠目に見てもキッチュさはなく、年配の人が着ても威厳とエレガントさを感じさせるものが多かった。 当然、これらは目利きによって選ばれた最高級のものばかりだから素晴らしいのは当然なのだがこういうことで今まで持っていた漠然としたチャイナ服に対する偏見を見直させるものがありそういう意味ではこの展示は成功しているともいえるけれど、しかし世間に数多く流通しているものとはクラスの違うものであるから実際、何処でこのような服を着ている人に出会えるのかを考えてみても自分にはそのような可能性が殆んどないことも自覚することにもなるのだ。