暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

シュニッツエルにアスパラガス

2007年04月29日 06時46分36秒 | 喰う
土曜の暑い昼に肉屋に向かうときは晩飯を何にするかはまったく思いもつかなかったのだがこんな暑い日にはこってりしたものは合わないし子供たちには揚げ物がいいだろうと、本場ではべとべととバターで揚げるように焼くヴィエナ・シュニッツェルを植物性の油でからっと揚げれば悪くない。 それに絞ったレモンをかければ特別にソースなど要らない。 もしいるならタルタルソースをつければいい。

肉はそれで決まったもののあとはさて、何にするかとマーケットに向かい、にぎやかな魚屋で鱈の半身の揚げ物を買い近所のカフェに入りそこで冷えたビールをカウンターのポンプからジョッキに入れたもので昼飯にして、腹ごしらえをしてから毎週のCD屋巡りで気に入りのジャズ・トランペッターと日本人文化勲章をもう何年も前に受章したサックス奏者の今から30年以上も前に吹き込んだLPをCDにしたものを見つけてそれを聞きながらカンバス製の買い物袋にいろいろと八百屋が沢山並んだマーケットの店先から目ぼしいものを放り込み始めた。

この時期には少し早いようなアスパラガスが並んでいた。 それで季節の野菜は決まった。 毎年、2回か3回1キロほど夫婦二人だけに買って時間をかけ外側の皮を削ぎ茹でて、固ゆで卵数個を刻みフォークでつぶしそれにレモン汁、マヨネーズ、細かく刻んだ葱を加えたタルタルソースで喰うのだが、それに茹でたジャガイモでは少々腹にこたえるので白米にすればいいだろうとイタリアから来たサムライ・ライスを炊くことにした。

さらに歩いて色々と積まれた野菜の中に目に付くものがあった。 先週だったかさやえんどうの薄いものを茹でてそれにバターを溶かしたもので春の新鮮な緑のサヤを味わったのだが今日はそれがかなり丸みが増して大きくなっているものが安く山積みになっていたのでこれはバターで炒めればいい香りが出ていいだろうと500gだと八百屋に言えば250円ほどでしかなかった。

さて、サラダも普通の若い芽を摘んだレタス各種では能がないので暑い日の終わりには甘酢に細かく刻んだ生玉葱を絡めたトマトがいいだろうとそれで済ませることにした。 これで好き嫌いのある子供たちにも好評なメニューとなったのだが庭で小1時間ほどかけて各自ビールや冷えたワインで夕食としたのだがデザートはタルタルソース、トマトのサラダと同様に冷蔵庫で冷やしてあったスイカの小さい切り身を5,6個づつにしたのだった。

このあと土曜の晩はそれぞれ散らばり、子供たちは男、女友達のところに走り、我々夫婦はシシリアから子供づれで遊びに来た姪夫婦に久しぶりに会いにまだ明るい高速を義姉夫婦のところに走ったのだったが途中広い牧場のあちこちに牧草のあいだで野うさぎが日向ぼっこをしているのが見えた。 夏の混じった春なのだ。

盲獣 ; 観た映画 April.07 (4)

2007年04月28日 08時27分40秒 | 日常
盲獣

1969年
84分

監督 増村保造
原作 江戸川乱歩
音楽 林光

 
配役    
蘇父道夫  船越英二
島アキ  緑魔子
しの  千石規子


ドイツの芸術専門テレビ局で放映されたので見たのだがそこでは最近までは外国映画を例外をのぞいて殆どドイツ語に吹き替えしていたものが今では字幕を入れるようになって原音で放映するようになった。 以前には言葉はまだしも風の音に、空間の広がり、役者の息遣いがが吹き替え、擬似人工合成音のために閉塞され歪められ映画の楽しみが半減されついついスイッチを切ったものだ。

タイトルだけ見れば今流行のCGを駆使したモンスター、ホラー映画かと見まがうものの、実際は至極まじめな映画だった。 盲人の造形作家が自分の理想の女体美追求の果てに見つけたモデルを自分のアトリエに監禁してことが始まるドラマであるのだが、我々はここで、製作された69年という時代を考慮に入れなければならない。

出演者3人の構成は当時隆盛のアングラ劇の匂いも強く、それに女優、緑魔子はこの時、新しい時代に生きる奔放な魔性の女神とまでうたわれてカリスマ性をもち、まさにこの映画で女王を演じるのに適役だったのだ。 当時の若き日本映画のヌーベルバーグ監督がそれぞれ女優を娶り主役に配して撮った中でこの監督が緑をそのように見たのかどうかは私の知るところではない。 今、それから40年経ち人生の秋に踏み込んだ男がこの映画を見ると当時の自分の感性と現在の自分のものとが同時に盲目の作家がこの女体を眺める視線を意識して不思議な気分になるものだが、視線はここでは傍観者である観客と盲目の芸術家の母親のものでもあるのだが、この映画の意図するところは視線を外したところにある。 視線は他の感覚の抑圧装置として働くことをこの作品は視線を駆使して見入る我々に語るのだ。 そうしてそのことを知覚する緑は視覚を放棄することで解き放たれた他の知覚の導く快楽へとバスティーユ監獄から自由の旗を振りかざして牢囚を開放すべく枷を解放つ女神のごとくであり谷崎の世界、春琴抄の世界でもある。 だがシナリオ、台詞のトーンにこれら69年の主張もここで声高に入るようでもある。

モデル監禁後にポルノまがいの誘拐犯と被害者の権力関係が性の感覚世界を媒介に反転するところで俄然芸術の香りがしだすのだがそれにしてはそれを誘導するせりふが谷崎世界のものに比べると苦笑を誘うのは当時の語彙のせいかオリジナルテキストによるのか興味の湧くところである。 今では80年代の享楽を通して快楽、愉楽に愉しみ、ぐらいの語彙は普通であるものの当時のアングラ劇に散見した語彙のなかでは楽しい、ぐらいでは待ちかねた快楽の蕾が開花しかねるようだ。

子供の頃、江戸川乱歩のものは探偵物が好きならだれでも一つや二つは読むものであったし、子供にはその膚ざわりの特異性は後年になっても残るところだが、大人の猟奇、耽美趣味に未知である者には納戸や閨がただ胡散臭い、暗いところだという認識のみだけであった。 後年、川端、谷崎と読み進んでいくうちに片腕や睡眠薬で眠らされた女に対面する男、大店の娘、盲目の春琴に仕え終には同じ世界に生きる覚悟で自らの目を否定するという話などにも思いが及ぶのだが、視覚を除いた触角での肉体の愉楽をもとめる耽美がこの映画の主題だと理解できるのだがそれだけだろうか。

川端の耽美が性の権力闘争をめぐるところからは距離をおいたものであるのにもかかわらず一方、谷崎のなかでは多くの作品の中では性を巡る命令、服従関係の権力を巡るところで快楽が露に展開されるのだが、そこではその主人公たちは自分の想いをその場で独白、命令、懇願などののかたちで述べて決して声高になることはない。 この映画のなかで感覚を巡る台詞の舌足らずは上述の「楽しい」に象徴されるだけではないだろう。 

60年代後半のテント芝居を思わせる船越と緑の動きは現在の巷に溢れる裸体の絡みの映像からすればほほえましくも感じられるのだが、それに加えて快楽を貪る果てに栄養失調直前に食人嗜好まで飛び出す二人の、健康で瑞々しい肉体を見ると一層時代を感じてほほえましさも増すというものだ。

ハーグの日本庭園

2007年04月28日 02時19分30秒 | 日常
オランダに長く住んでいる日本人としては仕事、日蘭関係がらみから様々な案内状がうちのポストに届けられるのだが、今日はその一つで外交都市ハーグにあるオランダで一番美しいといわれる日本庭園が今年もオープンするその案内が届いていたので息子を連れて久しぶりにスーツにネクタイで出かけた。

去年初めてこのオープニングに家人と出かけた折、雨もよいの冷たい、傘を携えての庭園散策だったのだが今年は気温25度、躑躅や藤、蕨が美しい開花を見せ、散策の小徑の頭上には数種類の楓が新緑のフィルターで強い日差しをさえぎり庭園に涼しい陰をかぶせ、まるで去年と同じ時期だとは思えないような華やかな印象だった。

それでは去年の灰色の冷たい空の下、ひどいことばかりだったかと言えばそうではなかった。 今年ほど日照時間に恵まれていなかったから庭の様々な植木の開花は少なかったもののこの庭園のもう一つのアトラクション、苔の絨毯に湿った小雨が振るなかではその群生する様々な苔の光沢、色彩がひときわ鮮やかだった。

オランダでは今年は気象台始まって以来という暑い4月であり25度以上に水銀柱があがる夏日は月の半分以上、湿りはこの5週間ほどないというのだから華やかな花々は別として苔は少々渇き気味だった。

広大な自家の庭の一部に、1911年に訪日、当時上流階級に席巻していた日本趣味が昂じて作られた庭らしくその当時には庭師がヨーロッパの金持ちを廻って造園で日本の美が発見されたのだろうし、第二次大戦時中はナチドイツがオランダ全土を占領しその司令部が置かれていた屋敷でその後レセプションがあり寿司、酒が振舞われたのだがその広間には当時の公爵夫人に擬した妙齢の婦人がぬいぐるみの犬を沢山ぶら下げて笑いを誘っており、その広間の窓越しに眺めるかなたの池のそば、楡の大木の影には男爵家の歴代の犬の墓石が10以上並んでいるのがかすかに見えるのだが、一年で6週間ほどしか開園しない庭園は費用がかかり広大な敷地とともに市も維持にかなり労力をつぎ込んでいるようだ。

この歴史的建物、敷地は占領された戦争の経緯もあり、この安全保障の研究所として世界戦略の解析に余念のないところなのだが中東で紛争があり自国にどのような影響があるかなどのニュース解説にはきな臭い話を語る背景に庭のあちこちが写され庭園の中で人の生き死にが語られる場所でもあるのだ。 広大なその他の庭は様々な個人、家族が散策したりスポーツをしたりと今の時期には最適な都会のオアシスになっている。



この庭のオランダ語サイト
http://www.denhaag.nl/smartsite.html?id=33271

白藤

2007年04月27日 10時04分25秒 | 見る
町のあちこちに藤が見られる頃になった。 ピンクに蒼が混じった藤はもう盛りを迎えているのだが通勤の行き帰りに見る運河沿いのうちには白藤が入り口から出窓にかけて白いレースの飾りのようにまとわりついている。

そういえばこの並びには今日だったか40何歳かになったオランダ皇太子が学生の頃住んでいたうちがある。 

この皇太子の弟の一人もこの町のどこかに家を持っていたはずだ。 昔、もう15年ほど前だったかこの近所の狭い路地を一杯に歩く男たちにそこを自転車で通り過ぎる者にはえらい迷惑だと苛つきながらもそばを通り過ぎるときに顔を覗き込めばその皇太子だった。 こういう人はいつも護衛を2,3人つけているからそのように歩くのだと後で知ったのだが、誠に本人にとっては不便なものでもあるのだろう。 一人で町を歩けないのは自由を奪われているということでもある。 しかし、あの場合、私がテロリストであれば簡単にその皇太子を狙撃できたろうから物騒ではある。 公安当局でもその恐れがないとしていたのだろうが、今ではあと10年以内で国王になるだろうと目されている皇太子の現在とは違い当時は一般の学生と同じように過ごさせようということだったのだろう。

この近所には今の女王、その母親の女王たちが学生の頃住んでいたうちもあるのだからこのあたりはオランダ王室の伝統ということでもありそれぞれが卒業したときにはそのうちは転売され誰かがあとに住んでいるのだからあたりを知るものにはそういう事情がわかるもののそれを知らなければ普通の閑静な古い町の運河沿いの家、ということだ。

そういえばオランダ王室と日本の皇室の親密な関係から皇太子の弟がオランダでなまずの研究をするのにこのあたりのどこかに1年ほど住んでいたらしい。 自分では見なかったが聞いた話では警護の人数がオランダ王室のとはかなり違って緊張感がただようかなりの数だったそうな。 危険のリスクが多いと見ていたのかどうか。

白藤はこのうちにはよく似合う。 なまじ白であるから佇まいに似合うのであってこの場合青いものであれば目立ちすぎるのではないか。 花だけみていると色がついている方が華やかなのだがもともとここでは地味でシックに咲かせようという魂胆だったのだろう。


羊肉のタジン

2007年04月26日 10時01分05秒 | 日常
初夏の夕食はまた久しぶりに裏庭のテーブルで摂った。

大鍋に朝から材料を入れておいて午後にことこと煮たらしい。 家人がモロッコ人の肉屋、マーケットに行って取り揃えたものらしいがエキゾチックな味がする。鍋からおろして香草コリアンダーをたっぷり刻んで放り込みレモンを搾るのがコツなのだそうだ。

さまざまな香料にハーブ、ジャガイモ、各種バプリかに混ざって蕪も入っていた。 モロッコのパンをオーブンに入れておいてカリカリにしたものにオリーブの漬物を添えれば一日の終わりを冷たいビールと熱いタジンでモロッコの砂漠の夕日が少しは近づいたように感じる。

デザートはモロッコ到来、小型アメフトボール型の緑に茶色の縞模様の入ったメロンで、言われるまではマスクメロンの味がしてそれとは分からなかった。

2007年04月26日 05時02分46秒 | 見る
桜が終わり日頃の通勤の行き帰りには花も他のものが徐々に目に付くようになってきたものの木々の息吹が盛んになっていることに驚かされる。

この時期には近所の肉屋の近くにもう100年にはなっているはずの薄いピンクの混じった青い蔓にたわわに花咲く藤の連なりを見るのを楽しみにしている。 19世紀後半から20世紀前半というような住宅に初めの住人が入り口に植えたのだろう。 それが日々を経て隣近所までその蔓を伸ばして毎年美しい藤のアーケードをその通りに特に今の時期には見事な花曇を見せている。 

先週の土曜日にはまだそこそこと言うところだったのに今は花盛りである。 このあたりでは大抵3、40年で代替わりしたり宿替え、引越しで、人は生まれ去るというような移り変わりの入れ物である住宅の前に初めに誰かが植えそれが綿々と今も花を咲かせ付近の人の目を楽しませるのを見るのは眼の法楽だが、今日、買い物のついでにそこを通っていててちょっと気になったことがある。

藤、世界共通名のラテン語では Wisteria floribunda - 英名 Wisteria, オランダ俗名 blauweregen(青い雨)であるのだが何時かライデンの植物園で美しく大木になっている藤を見たときにはそれが江戸時代後期長崎に駐在したシーボルトが日本から持ち帰った数々の文物、動植物の一つであり、その植物園では百数十年になる日本からのそれぞれ大木になっている到来植物は徳川家の紋章とともにその旨が表示されていた。 それならひょっとしてこの藤もその種や、株別れでここに植えられたものの末裔かもしれないと想像した。 日頃生活するところに江戸時代後期に髷を結った日本人やシーボルトの影が多く投射されている町ではあながち考えられない話ではないかもしれない。

それに、この花を見ていて今まであまり関心も持たなかった日本舞踊で藤娘が花笠をかざして舞うその藤の花房も鮮やかに思い出されたし、また以前見た京染めの着物の意匠の見事さをまじまじとこの花房に見入ってなるほどあのとおりだなと感心もしたのだ。 想いは続いて、学生時代に過ごした町が生んだ俳人の、死期が近づいたころ病床六尺的空間で綴った作品、瓶にさす藤の花房短ければ 畳の上に届かざりけり、も思い出されるのだが、このたわわに咲いた花房をその病床に届ければどのような句ができるのかも想像の上で気にもなるのだ。

窓からの光景

2007年04月26日 04時39分58秒 | 日常

この時期になると日もかなり長くなり夕食後近所の子供たちが誘い合わせて一緒に前の草原で遊ぶ。  何年も前には小さかった子供たちが今では驚くほどの背丈になりふざけあってサッカーまがいの遊びをする。 小さい子供は大きい子供の後を追いかけ女の子も混じってじゃれあう光景はうちではもう5,6年前に終えたもので近所の女の子がうちの娘を誘いに表のベルを鳴らすのだけどもう娘も外で遊ぶ気もしないのかボーイフレンドやスポーツのトレーニングで夜を過ごすようでもう高校に上がるようになれば近所とはいえ小学校の子供とは距離が出来ていくようだ。 それも冬の間なら家の中で遊ぶのだから小さな子供が高校生の娘のすることを真似たり何か工作をしたり絵を描いたりテレビのコメディーをテレビでみたりして一緒に遊ぶのだけれど。

夏の長い夕方、我々が庭の手入れをしたり外で新聞を読んだりしている間にはこういう光景がみえる。


鈴蘭

2007年04月24日 12時53分58秒 | 日常
8時のニュースの後で天気予報があるのだがこの4週間余りまったく雨のなかった昨今、まだあと一週間は少なくとも本格的な降雨はないらしく、乾ききった庭に水をやろうと今年初めてホースに口金を付けて一時間弱庭に散水した。

そのあと前庭の薔薇の下にそろそろ白い細かな花が見え始めた鈴蘭のコロニーがそこから張り出して芝生まで伸び始めたので細い茎を100本あまり一つづつ抜き取った。 中にはもう数ミリの白いベルを付け始めたものがあるのだがそのままにしておくと芝生と鈴蘭の境がなくなってしまう。

開花は思ったより時間がかかっているようだ。 この一週間は気温が下がりそれが長引く理由なのか、それに、八重桜もそのせいか中途半端に咲いてほぼ散ってしまった。

叔母のこと

2007年04月22日 13時29分14秒 | 日常
私の幼少時は従姉妹たちに囲まれて育った時期がある。 高校時までは8人の従姉妹とそれぞれ関係の濃淡はあっても近所に住んでいたため法事や慶事にはよく一緒に遊んだものだけれど私はその中では妙な地位を与えられていたようだ。

母の姉には4人の娘がいてその2番目の娘は小学校から中学校へと何回か同じクラスになったのだが私には3つ年上の長女が一番相性が合ったようだ。 同い年の従姉妹は互いに近すぎて何かと牽制するようだったり同級生の中で監視されていると互いに感じていたのではないか、よく距離感がつかめなく何かぎこちなかった。 彼女はその後、様々な曲折を経て今は孫も何人かあるようになったのだがこの10年ほどで我々の関係もなんとか普通に戻ったようなのだ。 同い年で親戚にそのような娘がいるとこうにもなるのかと、自分には兄弟がいない身にはこれが一緒に住まない双子の片割れの様態かというような気分にもなったものだ。 その妹は明るい性格で小さいときから屈託が無い。 一番下は耳が不自由で歯科技工師としてスイスで修行した歯科医師のアシスタントとして長年自立していて私が日本を出る頃、30年程前には何ヶ月かその歯科医にさまざまな口内工事をしてもらったことから仕事の帰りによくその助手の従姉妹と食事をし一緒に村に帰ったものだったが嫁がず自宅で祖母、父母、長姉たちと暮らしている。

私は叔母たちの中で美形のこの従姉妹たちの母親に近親感を抱いていた。 大家族の中を切り盛りする様子を母からよく聞かされていた。 いわく、戦時中若いときには寺に集まる若い将校たちから思いを集めていたものの本人はそれに気づかず、戦後50年も経って母からそのときの様子を初めて聞かされ、齢70を越して今更聞かされてもとその残念さに赤面したのを実際私はこの目で見たのだが、そのころの現実は、遠縁の中で自分もこころよく思っていた許婚が出征、戦死したため家どうしの取り決めでその家の家主となった弟に嫁ぎ高慢無知な姑女に仕え姑、姑女を看取り村では名のある家ながら内情は火の車らしいものを世間体を保ったのはひとえにこの叔母である、と母から聞かされていた。

長く痴呆症から徘徊、無理難題を重ねてきて床につききりになっても難儀な姑女を最期まで看取ってその間には見かねた看護婦でもあった母がその点滴治療に姉の家に通い、その折に家族の煩わしいものを一部始終を見ていた。 自家には問題らしい問題もない私の母親の目には自分の姉の家の様子が痛ましいものに映ったのだろうし姉に同情心も湧いたのだろう、自分の天下がすぐ目の前に見えている、これから好きなことが出来ると励ましていたらしい。 しかし、そういう自由が訪れて10年もしないうちに姑女と同じ様になってしまうプロセスを私たちは日本に帰省する毎に見てきた。 10年程前には我々の子供たちを可愛がってくれ歓談できたものの、その後徐々に認知症が進み去る年末年始の時期には寝たきりとなっており、この半年ほどは兄弟で一番仲のよかった自分の妹をも認識できないようになっていたから我々に対する反応はまったく望めないのは当然のことだった。

毎週の深夜、老母と互いの近況を一時間近く報告しあうことになっており、大抵は私が様々なことを聞くという役回りになっているのだが、今回そこで老母から弱音が出た。 兄弟を持たない自分にはそれを失う気持ちが理解できない故、慰めの言葉も空ろに響くことは分かっているので言葉もないのだが、別れはもう半年前についているはずだとぐらいしかいえなかった。 そのときからは今が想像できたのは当然な理の行き着くところである。 目の前にいるのは叔母ではないと何回もいい、それを口では納得しているといってもしきれないのは当然である。 齢84というのは叔母の父、私の祖父の享年でもある。 祖父は病院を拒否し癌の再発を自宅の床で結末をつけた。 最期まで意識ははっきりしていて受験期の私は祖父の好きな浪曲や落語のLPを自分のステレオ装置からヘッドフォーンで10mほども病床まで伸ばして聞かせたものだがそれも痛みが激しくなるにつれてそれにも集中できずモルヒネが入るとその後は早かった。 

どうも家の家系には癌で亡くなる者が多いようだ。 この叔母も認知症の影で気づかれなかったようだが癌の進行も昨今の衰弱に影響しているらしいと気づいたのはもうとっくに後の祭りだとは老母の言、最高血圧が80をすこし超えたあたりなのは既にお迎えが家の中に訪れている兆しだともいうから医者はもう数日とも言わないらしい。 この文がネットに乗る頃には叔母は他界しているはずだ。 最後に叔母を見たときにはその顔は死期の迫った祖父に酷似していた。

家族は既に葬儀の準備を始めている。 私は出席せずに弔電で済ませるのだが今年の初めには祖父、祖母、親戚の眠る墓地には我々オランダから訪れた家族がいつものように参拝し叔母の入る墓にも花は供えてある。

こちらは今、八重桜が風に花吹雪となりピンクの塵が道端に集まっている。 

合掌。

しかし、発砲事件は世界中で起こってるんだなあ、まあ、世は戦争だから、、、

2007年04月21日 11時01分48秒 | バンバン
しかし、発砲事件は世界中で起こってるんだなあ、まあ、世は戦争だから、、、、、と昨今の銃砲を使っての事件は本場イラクの惨状をも凌ぐかといえそうな様相を呈している。

これもメディアのなせる業かどうかは知らないもののこのような似た事件が同時多発発砲現象として世界を駆け巡るのは珍しく、イラク、アメリカ、日本の三題話にまでなりそうだ。 アメリカが自分たちの思いつき難癖をつけて独裁者を殺し自分たちの思うように収めようとしてもそれまでのアフガニスタン、イランと燻り続けている折、とても戦後の混乱に収拾を付け得ず第二のベトナム状態であるのだから、これもまったく皮肉なことにフセイン独裁下には只、圧制ではあったものの殺し合いがなかったという点に於いて、アメリカ主導の国々ががパンドラの箱を開けたということだ。

ここまで書いてほぼ一週間ほど経てばニュースでこのようなことも報道されていた。 イスラエルがパレスチナ側と分離のために国連憲章をも無視してごり押しにパレスチナ側から略奪した土地にシオニスト極右派の殖民を送り込んで村を建設しその村々を繋いで政治交渉が始まる前にすでに自国領土拡張のために何年か前からからベルリンの亡霊ともいうべき悪名高い、高さ何メートルものコンクリートブロックの壁を築いていたこと旧知衆知の事実であるのだが、驚いたことに今日はバクダッド市内にこの壁が何キロもイスラエル製のブロックかと見なされるもので作られていたのだ。 アメリカ軍が地元民の反対を押し切って傀儡政権擁護を口実に築いたことことなのだが、こういうところでも武器を使わずちゃっかりとアメリカの傘の下、儲けに走る隣国イスラエル商人が見えるようなのだが、それはここでは別の話になるものの、敵を叩いておいて既成事実として国益の極限効率化をはかる現実世界を思い知らされるためのお手本として有益ではある。

そのアメリカ本国でも国の成り立ちの段階から自分を守る権利というものは何よりも優先して、そのためにはは鉄拳では無く銃器でという、もともとの風土、世界に冠たる銃社会の中、何が高じたのかそこで韓国系の学生が30人以上も二挺拳銃で殺害しおまけに二つの乱射の間にヴィデオを幾つかテレビ局に送るためにわざわざ郵便局まで出向いたというではないか。 妙な事を口走り明らかに精神を病んでいて孤立する一面もあったその学生があるときから計画を用意周到に練っていてそれを実行したのがこのざまだ。 日本では「気違いに刃物」ということわざがあるが時代が変われば刃物が銃器になり刃物はノスタルジーの香りすらするものになりはてるのだが、それを敷衍して言えば核兵器などはその現在、その先の最たるものだといえる。 核兵器先端国アメリカの性格から言えば今の銃社会の惨状は政府、国民、社会の相似形、金太郎飴をなしているのは理の帰着するところでもある。

核兵器関連で言えば、核絶滅を標榜している被爆都市の市長が拳銃で狙撃され、今回は前回以上に陰湿な様相を見せ、多分真実は何年も陳腐な理由に覆われたまま殺人者の暴力団員が10年ほど監獄に収監されて忘れられることとなるのかもしれない。 そして同じくヤクザが同僚ヤクザを射殺してアパートに立てこもり拳銃を乱射するということがこれからあまり日を於かずして起こっている。 ここでは中国製ロシアモデルのピストルが使用されたとか聞く。 

私が所属する射撃クラブの年次総会で地元の市長が突然間に割って入り、40年以上このクラブで実質的に会長の役を果たして健全なスポーツ振興に無事故で貢献しきた老人に女王の代理として、来る28日の祝日、女王の日に正式に叙勲されることとして報告に訪れ勲章を市長が老人に着けるところが幾多の報道カメラマンに披露されたのは4日ほど前のことだ。 そしてそのレセプションの後でわたしは韓国人の学生が何人も殺人を犯す道具となった、殆どの部品がプラスチックで作られたオーストリア製のピストルを数発発射した。