暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

忘れないうちに読んだものをメモしておく

2005年09月30日 21時46分45秒 | 読む
今年の夏休みはあまり本を読まなくて、そのあと今までだらだらとなんやかや読み散らして、それも忘れがちなのでメモしておく。 その順番は頭に残っているままで、忘れているものも多い。 そうすると忘れたものは読んでも残っていない、ということで役に立たなかった、ということか。 読書には役に立つ、立たないではかれないこともあるので愉しみがあればいいじゃないか、ということもあるのだろうけど、その記憶もない、というところがなんともいえない。 感受性がないのかそれとももともと悪かった記憶力がうすれてきているということか、はたまた、作品が、、、だったということか。 

群像 8月号 大江健三郎 「わようなら、私の本よ!」全部 読了
   本当にひさしぶりに大江健三郎の本を読んだ。 15年ぶりかそれぐらいではないだろうか。 そのときの理由は緊張感がなくなった、おもしろくなくなった、ということなのだろう。 それで、今回はというと、おなじみの登場人物群があり、外国から戻り主人公につく建築家、教授とその関連の、世界を変える組織、人物たちの登場と行動の顛末が読むものを引っ張る力にはなっているのだろうけれど、読後、感想を書かずに放っておいて、今、薄い記憶だけに頼って書こうとすると、その印象は、私が読むのをひとまずお休みにした80年代の「河馬に噛まれる」の頃と大きな変化は無いようなのだ。 私小説にのっとって創作小説へと作る方向ははっきりしていてその努力が話の構築に現れている以上、読書界には彼の近年では大作なのだと思うがどうなのだろうか。

すばる 7月号 金原ひとみ 「AMEBIC」
    読んだことだけ覚えていて内容は忘れてしまっていたので群像の創作合評をみて思い出していた。 この人のは一作目、二作目と読んでいて二作目のものがいいと思ったのだけど、今回も話がすぐに思い出せなかったぐらいだから、印象は依然として二作目にあるのだろう。 作家とおぼしい主人公がコンピューター上の原稿、作品をめぐって、それに編集者との葛藤をからめて心理を描くというものだったのだろうけれど、これも私小説とまではいかなくても楽屋落ち、身内のはなし、的なものに加えて心理の描写が走るようで錯乱描写が面白いはずなのにどこかにいつも作家が作文しているような目を感じて入りきれなかった。 合評を読んで専門家、作家たちの評が、どんな作品だったか思い出す上で役に立つけれど喫茶店で専門化がお茶を飲みながらだべる程度だったことに、まあ批評家たちの合評というのもそんなものかと思った次第。


群像 8月号 高橋たか子 連作「墓の話」
   わたしはこの人の作品が特に近年、この10年ほど好きで読む。 ずっと以前にはオーネット・コールマン関連でこの人の「ロンリー・ウーマン」を読んだ記憶がある。けれど、近年私が惹かれるのは、私の理解不能な、けれど魅力のある神の存在、信仰をめぐっての話だからだ。 作者の創作、私小説を無視したような書き方、一途な求める心の軌跡、描写にも惹かれるのだ。 そして、大概最後のところでつきはなされるような、いづこでも同じように信仰の核の部分でおいてけぼりを喰う、というような、説明されないで堂々巡りにもどる経験をするのだ。 今回はその周辺の話とでもいうもので、比較的ゆったりと読めるものなのだろう。 といっても第一話は立ち読みのようにして飛ばし読みをしても、ああ、これはちょっとなあ、とおもったのだが、この第二話では創作、お話がうまく出来ていて落ち着いて楽しんで読むことが出来た、信仰の核心はでてこないけれど。三島や中世の生まれ変わり話、や、だれだれの魂が誰かに現れる、感じられるだの、それは決して猟奇譚というものではないが、そういう古今東西にあるものをここでは親和力とあらわしているのだろうけれど、その話とそれに加えて私がこのヨーロッパに住んであちこちで見聞きしたり経験したことに照らし合わせて納得のいくことがたくさんあったからだ。 バカンスの折には田舎でもどこでも墓場にでかけてそういうものを眺めて歩くのも楽しみであり特にそういう所では第一次大戦の存在感はどこでも強いのだからそれをこの話の中心にもってくるところで作者のキリストをもとめるヨーロッパ観察の確かさが証明されてもいるのだろう。

去年 バカンスでスウェーデンの本屋で買った英語の
The Mammoth book of Best New Erotica
ポルノである。 その中の4つ5つ。 10ページほどのものが40ほど集めてあるものでなぜ買ったのかわからないが、その中に日本を舞台にしたものが2つ3つあったからだろうと想像する。 ひとつはこちらでは珍しくて日本を神秘化する道具に加わった、危険な魚を料理の芸術として喰うという河豚を食う話を日本の心中にからめて作ったちゃちなはなし。 もうひとつは金髪の西洋人がやくざに惚れてやくざがどうこの女を扱うか、という話で、やくざは結局抗争のなかで切られて死ぬが、女のやくざに対する回想として話ができている。 調子のいい、やくざを賛美する調子である。 半玉から芸者になる頃にからむハナミ(花見)というのもあり各章がIchi,Ni,Sanと切られているがこれもテレビのドラマにポルノがはいったものでいづれも日本へのイメージが従来のものから出る気配は一切無く、ポルノにそんなものを求めるほうがおかどちがいなのだが、世界の保守てきなところでは偏見の再生産がたえまなく続いていることを確認させられるだけでも役に立つ。 そういう意味では署名なしで量産したというブコウスキーのポルノがあればいいのだけど、無名なのだから無理な話。 わたしはWomenというのでブコウスキーを読み始めたのだから。

Penguin Books Iris Murdoch The Philosopher's Pupil (1983)
この人のものはほとんど読んだのではないか、ほとんどどんなものだったのか忘れたけれど。 何年か前このひとの最期のころを伝記映画にしたものも観た。 この作はここ何年もバカンスのときだけ持っていって少しづつ読んでいたのだ。 だから、始めるときは前年のバカンスのことを思い出し、20ページほど後戻りして始めるのだが、今回最期の100ページぐらいを読んだのだが、その後うちに戻って、机の上に乗っているのを見て未読だと勘違いして読み進むうちにどこかで読んだことがあるような気がしたのだがしかし、その続きが思い出せなくて最期まで行った、という話だ。 一貫してこの人のものを読もうと思ったのは中年以降の登場人物たちの内面のおぼつかなさ、不安定さ、世界に対する思い込みや問題解決のまぬけさに惹かれるからであり、ときには哄笑するような場面が突然現れるからだ。 94年2月のレシートがはさんだままの次の本が手付かずのままである。 Metaphysics as a Guide to Morals (1992)


この項続く

無力感とぼやき、それに続くドンヨリとした怒り

2005年09月30日 19時47分14秒 | 日常
以下はぼやきだから、読者諸君、いい気分にならないのでそのつもりを。
読む意味はありません。読後の教訓もなく、私の単なるうっぷんのはけ口なので他に用事があればそれを先ず済ませることをお勧めします。

ああ、考えるのもいやだし、おぞましいのだが、機械に依存する、管理が自分で出来ない、ということの無力さを感じて胸の中が苦々しいもので一杯になっているのが今の状況だ。

昨日の夜、調子よく他のブログやメールを楽しんでいたのだが、夜中にちょっとお茶でもと下の台所に降りてテレビを見て、1時間ほどしてから上に戻ってみるとインターネットがつながらない。 夜中だ。 息子を起こすわけには行かないし、子供たちが無茶なことをして掻き回した形跡もない。 だから、プロバイダーか私のせいだ、これは。 それとも機械がわけのわからない気まぐれをおこしたのか。 1週間ほど前にうちのLANのシステムを新しくしたばかりなのだ。新しいというのは便利ということには必ずしもつながらない。 そのことに腹をたてているのだ。

技術の進歩は着実なもので3,4年前にひとつサーバーを置いてLANのシステムを作ればよいと知人の勧めで、同時に自分、家内、子供たちが勝手にそれぞれ自室で使えるようなものを作り、半年に一度程度、知人に来てもらうような故障や不都合はあったものの、そんなものかと受け入れていた。

使いすぎなのだという、知人は。 子供もあんたも、と。 だから、子供は遊びほうけて何やら子供目当てのスパムをどんどん入れてMP3とかいうのもたくさんダウンロードして、ハードディスクがヴィールスに感染されてますな、言っておいた通りには定期的にフィルターを更新していないようだし、みなさん整理できない人たちばかりのようですな、と。 おまけに電源系統の機械もがたがただから、この際、新しいのにしたら、とも。 それで、全部ハードディスクを更にしてやりかえ、コンピューター本体1台分のサーバーも最近はいらなくなったから、ルーターという小さいチョコレートボンボンの箱のようなものになり、いらなくなったサーバーのHDは今、掃除、整理中である。 さて、ここまでの私の反応は、うん、へえ、それで、わかった、じゃあ、そうしてくれる、だった。  さっぱり分からない。

5年ぐらい前までは何とか、マニュアルを開いて、言われるままに、みようみまねで、ははあ、この問題はこれが原因なのだろうな、だから、こうすればいいのだろう、と、細かいことは分からないままにも知人のそばで修理の状況を追うことが出来たけれど、今はもうそれもおぼつかないことを骨身に沁みて確認させられた。

ここで問題はいくつかある。 私、個人に帰するものか、それとも技術の進歩がもたらす便利さをささえる複雑さの深化、ということ。  何か話が大きくなっている。 それを論じる知識も経験もないのだが、経験で言うと、本当はこれもきっちり分けて考えなければならないのだろうが、進歩しつつある技術には基づいていない世界では、例えば職人やスポーツといったような世界では、経験が深まるにつれて問題解決の方法なりその時間が短くなったり易しくなったりするはずでその経験が尊重されるから皆それに向かって努力するわけだけれど、この世界ではいっこうそうではないような気がする。 現におおかた20年近くコンピューターを使って仕事をしたり、一番怠惰な使用者ではあるのだが、それなりに経験があるのに一向に自分で問題の解決へのアプローチが見えてこないか、逆に複雑怪奇になってきているような気分になるのだ。

そこで、若い諸君が、そら、おじんが何かほざいている、という声がきこえるのだが、諸君、君らの遠い未来にこうならないことをも願ってのぼやきなのでもあるのだということも胸に銘記しておいて欲しい。 若い諸君もそれぞれにある時点で原理なり仕組み、問題解決の方法をマニュアルとして機械を自在に操る自信を育てて来たに違いない。 機械が好きなら言うことはないのだ。 誰もがそうだとは限らない。 わたしは出来るだけこういうものから離れたいと思っている、といっても、使わない、ということではないのだ。 毎日使ってその恩恵を最大限享受したいのだけれど、補修保全には最小のエネルギーで済ませたい、と望むものだ。 大抵がそう望んでいるに違いない。 そして、技術というのはその方向に沿っているのだという信仰、ともいうべき俗信がある。 けれど、というべきかそして、というべきか、肝心な部分は多分、よっぽどのマニアをのぞいてはヘルプデスクや店と連絡して修理、買い換える、特に、この買い換える、という方向なのではないかと想像する。

買い換える、多分、最終的にはそうなのだろうが、そこまでにはある程度の自己救済なり、その方法をさぐることができなければ、と頭の中でもごもごとつぶやくものがいる。 自己救済というのが多分世界中の教育の過程でそれぞれの頭の中に植えつけられる中心的課題なのだろうが、それに沿って救済したいと念じても世界はどんどん遠ざかるような感じをもつ、ここでは。 第三世界で救いを求めて無力感におそわれている人間たちのことに比べるのにはあまりにもおこがましいかもしれないけれど、世界とつながらない、その方法、知識、技術に欠けることに対しての絶望は私のうちにもある。

この2ヶ月ほどほとんど家のシステムがダウンしてバカンスの時期でもあり、新しいものを1週間ほど前に設置したのだが、機械自体新しい環境に慣れていないからまだ穴がたくさんある、そういうものはあんたたちでは無理だね、との返事にがっくりした。 それじゃあ、まあ、ルーターの小箱の電源を一度切って元に戻してみたらと言われたのでそれをやってみたらそれだけのことであっけなく戻って、今、ことことこれを打っている。しかし、それは簡単なことではないのだと説明される。 なぜ、接続が落ちたか、ということには想像もつかないたくさんの様々な要因があって、それには素人の知識だけでは不十分なのだという、マニュアルないの、という質問にはあるけどあんた読む時間も辛抱もないでしょ、と言われた。

辛抱も時間もそれはそうする価値があるかどうかにかかっていて目の前の必要、それも本来はしなくてもいい必要なり、自分の本来の持ち場ではないことをむりやりやらされることにうんざりするのだ。 

教訓めいた、大山鳴動して鼠一匹、という形ではあるけれど鼠など出ていないし、鼠に見えるものは我々が飼いならされ弄ばれている解決策というものの幻影なのだ。

腹が立つからプールにでもでかけて泳いでこようと時計を見るとすでに年寄り向けの時間は過ぎていた。 今、行けば子供たちで一杯で泳げるスペースはない。

そういうことなのだ。 いらぬことで腹を立て、時間が流れていく。

Thu. 29-09-05  鶏肉の大蒜生姜醤油焼き

2005年09月30日 03時52分44秒 | 喰う
鶏肉の大蒜生姜醤油焼き


朝、昼  鱈の小片から揚げ
     炭酸水 350cc


夕    鶏肉の大蒜生姜醤油焼き
     野菜のソテー(にんじん、いんげん、たまねぎ、キャベツ、パプリカ)
     サラダ菜の若芽のミックスサラダ
     白米
     炭酸水

     ヨーグルトの西洋梨の煮物入り

     コーヒー 250cc
     クッキー

晩    フルーツジュース  400cc

歯を抜く

2005年09月29日 17時48分24秒 | 健康
もう5ヶ月になるのか、このまえここに歯のことを書いたのは。 感慨を持って読み直したのもつかの間、この感慨もあと何時間かで麻酔が切れて痛みが始まれば悪罵に変わる。

悪罵といえば、これを書いている草稿をスイッチを間違えて、1時間ほどもかけて書いたものを消してしまい、これは2度目なのだが、その悪罵も加えて書いているのだがそういうこともあり、書くのをやめようかと思ったのだが、せっかく書いたものを忘却のかなたに放り投げるのが惜しいので、えんやらや、と再度挑戦とする。 なんと暇なものだ。

手元に最後の奥歯、左下から抜いたものが転がっている。 まだ湿って、長さ20mm、長径12mm、短径10mm。 この種では私の最後のコレクションになるのだろう。 口の中には抜歯したあとの穴にガーゼを無造作につめこんで、今は唾液で薄まって中途半端に固まった血でぐちゅぐちゅになったガーゼが詰まっている。 多分ガーゼの様子はスーパーで買った肉汁、血を吸い込んだ安物のステーキ肉の下のマット状態なのだろう。

ここまで読んで気分を悪くされた読者には謝りたいが、なにせまだ麻酔が効いて舌と左側の口がままならぬのでご容赦を、と不自由な舌をぺロッとだしてその振りだけしておく。

で、禿の歯医者がこれであと10年ぐらいはなんとかなるでしょう、とのたまったのだが、本当にそう願う。 ボーっとした風貌の口内衛生士はこの5ヶ月での成果を、目を見張るほど、だの、驚異的ですな、などとふやけた笑い顔で保険のかかっていない患者の虎の子をふんだくって、そういったのだが、裏を返せば、どれだけそれまで口の中を、歯をないがしろにしていたか、ということではないか。 

歯の上面には銀色の詰め物がしてあり、その仕事は必要十分条件を備えているのだろうけど繊細さが欠けるような荒さが見えるので多分この禿の歯医者のものだろう、とためつしがめつ見とれていると、事務所に掃除のトルコ人の女の子が入ってきたので見せてやった。 すると、きゃっと短い声を出して、怖い、いやなものを見るようにしげしげと眺めて出て行った。

歯医者と、もごもごと、このあと穴がふさがり歯茎が安定すれば緩んだブリッジの調整をしなければならず、そのための次の約束をしたのだが、それは来年の1月、歯医者の家族がスイスかオーストリアのスキーバカンスに出かける前後になるのだろう。 で、この歯が熱いホンディユか暖かいハーブワイン、はたまた趣味の悪いみやげ物の木彫りの牛に変わるのか、というようなことは思わない。 

この数ヶ月来、食事ごとに不都合な咀嚼を余儀なくされるのだが、何事も来るべき薄暗く長い時代への予行演習、シミュレーションとあきらめ、思いを中途半端に、もぐもぐとそんな口の中に納めるのである。

忙しいのか忙しくないのか、、、

2005年09月29日 06時21分29秒 | 日常

ここ最近、毎晩、午前様だった。  別段飲んだくれているわけでもなく、どこかに小粋なご婦人を囲ってやに下がっているということでもない。  それが出来ればいいのだけど度量でも金力の点でも、また、体力でも不足している。 

定年の予行演習期間で時間に少々余裕が出来たから、といっても、ただ朝早く起きなくてもいいというだけのことなので、だから、夜中は2時3時ごろまでならいいじゃないか、という気持ちになって、それに、たまたま今の時期にジャズのコンサートが近隣でほぼ毎日あることも重なり、先週金曜から日曜日まで毎晩、というか毎朝、2時、3時まであちこちをぶらつく、という始末だった。

持病の通風と喘息で酒もタバコもやめてしまっているから、楽しみは音楽ぐらいなもので、それまで酒、タバコに使っていた小遣いをCDやコンサートにまわしたら結構CD,LPの類が集まった。 夏休みまえぐらいから数えると、この3ヶ月ぐらいで60枚ぐらいは集めているのだろう。 ちょっと買いすぎかと思うのだけどそれはゆっくり買った物を聴きこむということが出来なくなっているから思うだけのことで、けれど、一胆はずみがついたものはなかなかもとにもどりにくいものなのだ。 家内はそのことに対して別段なにも言わないし、子供たちも手がかからなくなっているので父ちゃんふらふらいい年ぶら下げてジャズセッション通い、の鼻ちょうちんである。

それでも昨日の夜は子供の学校の父兄会で、秋の新学期となって初めて娘の中3の担任に顔合わせをする。 息子の高3の担任は病欠で父兄会はなし。 子供二人は歩いて5分ぐらいのところの市立の中・高校に入れてあるから何かにつけて楽である。 で、帰ってくれば10時。 テレビでニュースをみてお茶をいっぱい飲んで寝床で読書。

今日は、火曜日。 久しぶりに家族がそろって夕食のテーブルについたが、家内から今晩は家庭サービスしてほしいという要望があって、それをよくきいてみると今日は家内の父、私の義父の誕生日だから夕食後、15kmほど離れた義父母の住む村に出かけて親戚、家族が集まるときに茶菓子をそれぞれに給仕すること、つまり、女中をやれ、ということだった。 家内は午後からおばたちの訪問時に茶菓子配布係をやったのだという。 それで、夜の部は私がやることになり車で夕焼けの広がる郊外の自動車道を音楽を聴きながら走ったのだった。

日暮れの見通しの聞く田舎道は秋の兆しがもう既に十分出ていて車の外に出るにはジャケットのようなものが必要なぐらいだ。 


Wed. 28-09-05 ピザ

2005年09月29日 06時04分45秒 | 喰う
ピザ


朝、昼   フランスオニオンスープ、とろけるチーズのせフランスパン入り
      野菜サラダ盛り合わせ、海老のサラダ
      フランスパン  小片

      炭酸水  300cc

午後    フルーツジュース  500cc


夕     ピザ
      茹でとうもろこし
      レタスとキュウリのサラダ
      炭酸水 300cc

      コーヒー  250cc
      カステラ 小片

晩     フルーツジュース  400cc

Tue. 27-09-05 ケバブとクスクス

2005年09月28日 06時59分26秒 | 喰う
ケバブとクスクス

朝   トースト バター 蜂蜜
    トースト バター 苺ジャム
    ミルクティー  500cc


昼   クリームスープ
    サラダ盛り合わせ
    焼きたてフランスパン 小1個
    炭酸水 100cc

午後  炭酸水  300cc


夕   羊肉ミンチのケバブあぶり焼き  ハーブヨーグルトソース
    クスクス ハーブ野菜入り
    温野菜(インゲン豆)
    炭酸水 300cc

    コーヒー 250cc
    バースデーケーキ 小1片

晩   フルーツジュース  400cc

Mon. 26-09-05 北アフリカ羊肉煮込みスープ、タジン

2005年09月27日 04時52分45秒 | 喰う

北アフリカ羊肉煮込みスープ、タジン


朝   トルコ胡麻リングパン
    ピザ風パン
    ミルクティー  500cc


昼   トースト 
    コールスローサラダ
    炭酸水 300cc


夕   北アフリカ羊肉煮込みスープ、タジン
    モロッコパン

    炭酸水 200cc

    白桃 1個

    コーヒー 150cc

晩   フルーツジュース  300cc


夜中  豆菓子
    玉露 200cc

読書習慣について

2005年09月26日 19時30分15秒 | 読む
つまらないことを書く

若いときから何が一番楽しいか、と聞かれれば、それは、あれに決まってるじゃないか、と胸のうちでは即答するものの、それは皆判っているけれど取り立てて言うこともない、言えば馬鹿か野暮かといわれるぐらいなもので、それはそれとして、それももう、まあ、ぼちぼち卒業間近ではないかと思われる時期も目の前にあり、生々しさも時には霞んで来たから、こういうことも言える様になったのかと、想像するのだが、人生の必要、かつ生への真摯で強烈な渇望とでもいうべき、楽しくも悲しくおかしいものが人生の舞台の後ろへ引き下がる兆しをみせれば、今までずっと舞台に出っ放しであったものが、未だ相も変わらずそこに立っていて、それが人生の楽しみという舞台の光芒の輪にまたぞろおずおずと顔をみせる。 自分からでてきたのではない、そこにあったものが他が消えそうになるから唯単に対照的に、比較ということで見えてくるということかもしれない。 

舞台の後ろで立っていた、と書いたが、その、楽しみというのは寝床の中で横になって興にまかせて読書に時間をすごすことだ。 体を横たえることでは変わりはないか、この楽しみの種類には。 まあ、前者は主流は横向きであり、垂直になったり寝床を離れるのはまあ趣の変わったということになるのかもしれない一方、後者の主流はどこかに腰掛けて、というものだろう、横になるのはだらしないか怠惰の兆し、前者は対で後者は独りでというのが行為の様態だろう。

なんとたわけた、とここまで読んできて思うに違いない。 たわけたことを書いている。 時間に少々余裕ができる生活になってくると今までの読書習慣にはずみがついてくる。 それが寝床の中のぼわーっとした読書習慣だ。

子供の頃からたたみの上に座布団を2,3枚持ってきて丸めて体の下にあて、好きな本をごろねの態でぐずぐず読むのを楽しみにしていた。 それで007のシリーズや大江健三郎初期作品集などに触れた。 自宅を離れて学生生活をするようになって、金はないけれど時間はある、というような生活をしているときには読書も適当にしたけれどやはり若いものにはもっと大事な、時間の無駄遣いを心を込めてやるという勉強があり、それにも没頭していたし、仕事をするようになれば、通勤の行き帰りの電車の中、といっても帰りはエネルギーが枯渇しているのでまともなものは読めるわけもなく、まだ頭がはっきりしているのは行きの40分ぐらいしかなく、今、思い返せばその中で印象に残ったのはせいぜい小説の、豊穣の海のシリーズ、内田百、永井荷風、ぐらいなもので、結婚、仕事、子育ての補佐、の時期にはこの習慣もかなり遠のくものだ。

この人生の夏とも言うべき時期には前者と後者の活動の場はベッドの上であるから、もろに重なり合い、生活時間もかなり細切れに切迫することもあり、さて、どうする、どちらかを選択せよとせまられれば、一も二もなく前者をえらぶに違いなく、それが健康な通常の市民の生活であることには誰も異論はないのだから、そこで妥協案を示し、後者は前者の前か後におけばいいじゃないかと親切なことをおっしゃる御仁も現れるのかもしれないが、そんなこと出来そうにないことは知れたこと、それができるようになったら、私のクラブに勧誘せずとも戸口まで来ているということになり、この時期が人生のがんばり時であれば趣味の読書というもの、他の必要事、些事雑事に押されてせいぜいトイレか電車の中ぐらいのものになる。 

それでも読み続けるという習慣を離さなかったものには、定年後にはかなり自由になった生活習慣の枠の中で、この習慣を、駿馬に語りかけるように、好きなだけ広い野原に解き放ち、好きなだけ駆けろ、思う存分甘美な青草を食むがいいと、他に思い煩わせられることのないベッドの中でひとりごちるのだ。 それで、この駿馬、駆けるか、跳ね回り胸に新鮮な息を吸い込み草原の彼方まで抜けるような秋空の下、走り出すのだろうか。 駄馬は突然の、それこそ晴天の霹靂、広い原野に立ちすくみ、若いときであれば消化不良をおこしても、それに勝る回復力を力にブルドーザーよろしく草原を食い尽くそうとしたのだろうけれど、いまや体力を知ったこの駄馬のちっぽけな脳みそでも一応の経験からやることは、パノラマを称揚しつつすこしづつ、こちらをごそごそ、向こうをぼそぼそと、時には頭を上げ、秋から冬に変わりつつある空模様を気にしながら、布団のなかであっちへごろごろこっちへよっこらしょと寝返りをうちつつ、しかし、季節はかわれども尽きぬ青草の豊かさにひと安堵してページをめくるのである。

ここでもまた、書こうと思っていたことから外れて勝手な方に筆が行ってしまった。

駄馬を御すのは骨が折れることだ。

Sun. 25-09-05 ハンバーグステーキ

2005年09月26日 09時26分58秒 | 喰う
ハンバーグステーキ

朝  クロワッサン
   トースト バター 蜂蜜
   トースト バター 苺ジャム
   ミルクティー 500cc


昼  前夜の残り  パスタとクリームソース
   炭酸水 300cc

午後 コーヒー 250cc
   クッキー 4個

夕  ハンバーグステーキ
   ジャガイモの薄切り油いため
   ミックスサラダ
   炭酸水 300cc

   チョコレートカスタード

晩  コーヒー 150cc


夜中 ワサビボール
   炭酸水  250cc