暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

オランダ国立公文書館写真部門展覧会のオープニングに出かけた

2015年02月28日 11時46分54秒 | 日常
 

ハーグ中央駅のそばにオランダ国立図書館があり近年、といってももう20年以上前からそのそばに国立公文書館ができている。 そこには様々な歴史的な公文書が保存されていて日本関係であれば徳川将軍のオランダ政府あての公文書、長崎オランダ商館を通じてさまざまな取引の書類・資料類などもあって日蘭交渉史を研究する学者たちには必ず一度は訪れなければいけないところでもある。 そこに写真部門があって1500万枚の写真が保存されていると知ったのは何か月か前、オランダの写真家故エド・ヴァンデル エルスケンの写真展のオープニングの折、その写真部門の責任者から聞いたからである。 エドの日本で撮った写真も含まれているという話で写真部門の初めての展覧会には彼の写真も展示されるというのでそのオープニングに招かれて夫婦で出かけたのだった。 

1500万枚から450枚を選んで展示してあった。 公文書館の収蔵写真が美術館の写真部門、写真美術館などのものと違うのは芸術性は当然としても写真の記録としての価値、資料性に重点が置かれている点であり、例えば産業革命以後、各国が帝国主義化していくなかでインフラ整備に欠かせなかった架橋、建築、都市計画の状態を示す写真は芸術というより設計図の実現された公文書としての働きを示すものであり陰影や構図の芸術性より透明性、具体性、記録性を重視するものである。 しかし写真史での資料としての写真としてやはりオランダ内外の名のある写真師、写真家の作品も収蔵されておりオランダの写真史を辿る上でもエド・ヴァン エルスケンは欠くことのできない名前ではあるようだ。 彼が日本で1950年代末期に撮って残した写真は風俗資料・記録としてもその視点は評価されるものであり1870年代に横浜で開業したドイツ人の写真師が撮った風俗写真とのつながりでも論じられているようにその展示順路からは感じられた。 1500万枚から450枚という選択には全容を捉えることの不可能さに戸惑うことにもなるのだが限られたスペースで一般の来館者にアピールするためには肩の力を抜いたいくつかの試みも見られるようだ。 古今のテーマからそれに対応するような写真を時代を逍遥して選んでいるのが分かる。 たとえば、会場への導入部では、喜び、悲しみ、怒り、風景、見る、食餌、餓え、洪水、などがテーマとしてまとめられ徐々に植民地、戦争、など比較的重い歴史的記録が画像として示される仕組みである。 時にはその中に髪型や覗く、といったテーマもあり時代背景をもちながらも普遍的な人間の行動を微笑みをもって類型的に眺めることができる体裁でもある。

日本の幕末、明治時代の写真についてはライデン大学のプリント館には銀板写真のコレクションがあったような記憶があり、その中には幕府の留学生としてライデンに滞在した侍たち、日本初の鉄製軍艦を発注してそのためにオランダに滞在して操船技術を学んでいった日本人たちの写真もあったのではないか。 芸術写真としての美術館でのコレクションと公文書館の写真収集には重複する部分もあり、オランダではアムステルダム市立美術館、アムステルダム写真美術館、ロッテルダム写真美術館等は芸術写真を主にしたコレクションがあるのだがそれぞれの関係について、収蔵作品はデータベースとして統合されているのか、もしその計画があるのならどのようになるのか等の質問があったのだが200人ほどの参列者に対応する責任者にそれを尋ねるにはせわしなすぎ、あいさつ程度しか話す機会がなかったから次回ゆっくりここを再度訪問して例えば日本写真史であれば幕末、明治の上野彦馬、下岡蓮杖に類するコレクションを薦めたいのだがここはあくまでオランダ公文書館であるので必ずしもそうもいかないのかもしれない。  

 

 オランダ国立公文書館 写真展:Eyecatchers の HP;

http://www.gahetna.nl/en/themaplein/eyecatchers


日本帰省旅(11); キャベツ畑のそばを通って郵便局へ

2015年02月27日 11時10分41秒 | 日常

 

オランダに戻る日が近づいてくるといつもすることがある。 出来るだけ荷物を少なくしようとしていても頼まれ物、土産、それに自分が買った物や本が嵩んでとてもスーツケースには入りきれなく、だから仕方なく小包にして別便で郵送する。 3週間ほどの滞在であれば着いた早々に頼まれ物やめぼしい物を買いこみ第一便として送る。 3か月ぐらい必要でなければ船便にする。 そうして日本滞在も終わりに近づくと最後に知り合い、親戚にあいさつ回りをすると土産物をあちこちで頂戴することになるからそのスペースも予め考えておかなくては土壇場になって慌てることになる。 だからそれを見越して帰路に着く2,3日前には一度荷物をまとめて郵送することにしている。 今回は2週間ほどだったから初めに荷物を作ることもなくこれが最初で最後の郵送だと思っていた。 けれど前日土壇場になって貰い物、買い物が嵩み自分が離日後友人にもう一つ送ってもらうことになった。 もう4年ほど毎年同じ時期に宿泊しているホテルで梱包して送ったのは今回が最初だった。 前回は家人と来て持ち帰る荷物を振り分けてスーツケースに入れたから別送することもなく、前々回は頼まれ物も自分で買ったものも少なく郵便は使っていない。 箱に詰める手間や書式の煩雑さを厭っているのではない。 

今まで何回こういうことをしてきただろうか。 母がまだ健在で一人で住んでいた時、帰省するたびに書籍や物を箱に詰めてオランダに送った。 郵便局にしては上得意であるから電話一つで家まで取りに来て玄関口で書類を作りそこで支払いをして済ませていた。 時には自転車で荷物を後ろに積んで駅を超えてショッピングセンター近くの小さな郵便局まで持って行った。 オランダに送るのが珍しいのかそのうち女子職員の何人かが顔を覚えてくれるようにもなっていた。 

母が今の介護付き住宅に移ってからはそういうこともできず、できたとしてもその住宅からは郵便局は数キロもあり自転車も車もない自分には不如意となる。 それは滞在している駅近くのホテルでも同様で、自分が思いつく限り遠い昔に通った近所のことに思いを巡らしてみてもどこも思いつかない。 実際ホテルマンに聞いてみてもない、という。 けれど古い村だからないはずはなく、あるなら大分山側に行ったところだろうと推測して帰る三日ほどまえに散歩がてら村の山側を歩いた。 2,3人の中年以上の人に聞いてみても、他所からきているからわからない、だの昔あったけれどもうないだろう、だのいう人がいてほぼあきらめかけていた。  農夫然とした男に訊くと方角と行き方を教えてくれたのだがその方向に行っても狭い村の裏道に入って迷うだけで仕方がないからバスが通る曲がりくねった旧道に出て歩いていると小さな郵便局に行き当たった。 そこでゆうパックの段ボール箱を一つ買い外に出た。 海側に降りるその旧道は駅とホテルに続いていた。

オランダに戻る前日詰めた段ボール箱を担いで郵便局を目指した。 駅を過ぎ大きな交差点を陸橋を渡らず向かいのファミレスを目指して早足で交差点を渡った。 すると目の前に唐突にキャベツ畑が現れたので驚いて息を整えるのに段ボール箱を置いて写真を一枚撮った。 駅の周りは高層マンションがいくつも建ち大きな道路もできて嘗ての面影はなくそこがどうだったか今ではもう思い出せない。 けれどキャベツ畑がアパートと作業場に挟まれてあるのを見てこれがこのあたりの主役だったことを思い出した。 

ここから3kmほど離れた農家で育ち自家で消費する米と野菜を作り近郊の農家と同じく玉ねぎ、白菜、キャベツなどは定期的に青果市場に運び収入としていた。 高校生の頃だっただろうか、冬に出荷を手伝った。 畑でキャベツの茎を切り取り開いた葉はそのままにして鎌で白くまるいキャベツを玉の部分だけ切り取り袋にいくつか入れて括りそんな袋を軽トラの荷台に一杯にして値のよさそうな青果市場に持って行くのだが日当もでないほど安くて話にならないくらいだった。 百姓はいつもこんなものだといっていた。 だから、実際買ったら高いのに、という人のために路のそばにいくつも青い葉のついたキャベツを積んで持って帰れるようにもしていた。 オランダに住むようになって子供のころから親しんでいるここのキャベツの旨さをことがあるたびに話すのだがそれは日本に行ってカツをくったことのある人間ぐらいにしかわからない。 北ヨーロッパの冬の食い物にドイツのザウワー・クラウトに代表されるようなキャベツがあるけれど固くて日本のものと比べ物にならない。  だから当然料理の仕方が違う。 日本のキャベツをこちらの方法で料理しても柔らかすぎて喰えないだろう。 それぞれそこにはその場所の喰いもの、喰い方がある。

キャベツを収穫した後根や余分な葉は畑にそのままにしておくかそれを処理するのならどこかに棄てるのだが昔は池の土手に放ってあったりしてそれが春には腐り匂った。 処理しないでそのまま畑に放っておいて田に水を引き込んで幾分か腐らせ田植えの床にすることもあり、何れにせよ田舎では匂った。 けれどこれも田舎の匂いとして皆当然のものとして受け入れた。 けれど今はどうなのだろうか。 たぶんこの畑も収穫の後は根と葉を取り除き処理場にもっていくことになるのだろうと思う。 少々匂いの系統は違うけれどオランダの街を覆う春の田舎の匂いがこれに当たるのだろう。 オランダでは街の中にいて田舎を体感する瞬間があるけれど日本では農村がどんどん後退していくにつれこのような匂いも消えていくのだろう。

郵便局について秤にかけたら11kgだった。 スーツケースの持ち込み限度が20kgだからかなりのものだ。 航空便と言ったのだが SAL がありますよ、と言われてすぐ、それにしてください、と返事をした。 オランダでは手紙も小包も今は殆ど航空便扱いになっているから SAL便はなくなっている。 だから日本でもそうなのだろうと思ってSALのことは尋ねなかったから久しぶりにSAL便という言葉を聞いて懐かしかった。 オランダでは SAL がなくなって航空便扱いになったけれど値段は SAL と同じほどで多分名前が変わっただけで仕組みは大して変わっていないのだろう。 日本からは10日ほどで着くけれどオランダから日本には時には2週間以上かかることがある。 この30年以上オランダからも日本からも数えきれないくらい小包を送ったけれど今まで一度も着かなかったことはなかったからかかる時間は別としても郵便のシステムには信頼をおいている。 義兄はイタリア、シシリア出身でオランダからいろいろなものをシシリアに送る。 同じものが日本には1週間以内でつくものがシシリアでは4週間以上かかることが屡である。 シシリアはEU圏で送料も安く日本に比べると距離は格段に短いはずなのにこういうことも普通にある。

郵便局を出てぶらぶらともときた道をホテルに戻った。 久しぶりに荷物を担いで歩いた。 11kgの箱を担いで1km歩いたのだった。 家では決してしないことだ。 これも車も自転車もなく、タクシーを使うのが癪だったからこうしたまでで、帰り道、これが2kmだったら担いで歩いていたかどうか自問したのだがやはり歩いていたのではないかというような気がした。  

 

 

 


不思議な穴

2015年02月26日 12時37分32秒 | 健康

奇妙なことがあるものだ。 右手の薬指に穴が開いた。 午後家中の部屋をひとつづつ掃除機をかけて埃を掃っていた。 吸い取り口から伸びたシャフトというのか何というのかそんな長い筒をを短くしようと力を力を込めたら手にチッという痛みが走り、指を詰めたな、という感じがしたけれど放っておいて後で見たら右手の薬指の腹に穴ができておりそこから血が赤い点となって盛り上がっている。 指を筒の接続部分に詰めたのだ。 しかし、普通に詰めたのだったらその部分が細長くなり、穴が開いたとしてもその詰めた細長い部分が剥がれか血豆になるかして丸くはならないしこんなに深くはならないはずだ。

その後掃除の作業を続けるのにそのまま血が止まらないのでは面倒なので絆創膏を貼って掃除を終えたのだが、どう考えても穴がこのような形で開くというメカニズムが分からない。 それにこのシャフトを伸縮させるという作業、工程は今まで何十回となくやってきたことでもあるし、ただ単に指を詰めて血豆ができるとかその部分が長方形に剥がれるということが起こってもそれには何の異論も挟まないけれど今日の穴には頭をひねる。 これがこの先もう起こらないという保証は何もないのだ。 この小さな丸くて直径の割には深い穴が開くメカニズムが知りたい。 

夕方米を研ぐのに久しぶりに左手を使ったら手のひらが攣りそうになった。  歳をとってから筋肉を普段使わないやりかたで使うとこういうことになるのだ。 フィットネスでは腕や脚などは普段使わないような部分を動かすことはあるけれど左手でコメを研ぐような運動はしない。


天気が良かったからライン川に沿って17km歩いた

2015年02月25日 12時05分15秒 | 日常

 

2015年 2月 22日 (日)

 天気がよかったからライン川に沿って17km歩いた、というのは正確ではない。 

朝目覚めたら陽が射していたので歩こうと思い先週15.5km歩いたコースを思い出し、大体同じ距離にして、、、と考えていたらライン川に沿って歩こう、ついては電車で一駅分乗ってそこからライン川沿いに戻ってくればいいと思いついた。 ネットで調べたらライン川沿いには約15kmになったからちょうどいい。 いつもの朝食のあとデイパックを背負って昼前に家を出た。 中央駅ではなくユトレヒト方面に行く電車の駅まで歩いた。 日曜でもあり1時間に一本ほどの便で吹きさらしのプラットホームで20分以上も待つのであれば急遽コースを変更して田舎をハーグ方面に歩けばいいと思っていたけれど駅に近づくと他にも駅に急ぐ若者が何人かいたのでちょうどいい、と思った。 電車がもうじき来る歩き方だったからだ。 5分も待たず11時56分の電車が来てそれに乗り込んだ。 急行も各停もない単線の隣駅でそこまでの距離が12.8kmだから時間にしてみれば大したことはないのだが距離はかなりある。 日本に帰省した折、12月30日の夜岸和田のジャズ喫茶で忘年会に行き合いそこで閉店までいたら終電車を逃してしまった。 深夜1時に歩き始めて岸和田城の堀端、殆ど誰も通らない旧国道沿いからどんどん歩いて自分の通った中学校の校庭のそば、オランダに来るまで住んでいた家、育った農家、寺の裏、墓場のそばから今では町の中になってしまっている焼き場のそばをホテルまでテクテクと不思議なくらい誰にも出会わない深夜に歩いたら12kmだった。 その距離は城のそばにある高校に3年間毎日電車通学した距離よりも長く、その間に私鉄の駅が5つあるのだからこのローカル線との比較でいえばかなりなものだ。 もっともこちらの方はこの12.8kmの間には何もない牧草地が続き、暮れに歩いた大阪南部の12kmにあるものをここに当てはめるとその大きな密度の差に躊躇してしまう。  もしここにいくつか駅があったとしても乗ってくるのは牛か羊、もしくはツールドフランス気取りで田舎の中をサイクリング車で飛ばしてきてどこかの溝に落ちて曲がった車体を担いで乗ってくる中年オヤジぐらいなものだろう。

そんなことを考えながら降りた駅は義弟、義兄の家族が住む古くはローマ人が駐屯していた町にありライン川沿いだ。 ライン川沿いだから交通の要所としてローマ人が駐屯していたのだ。 この30年何度も往来している町だからどこに何があるのかも分かるのでこの日は地図を持たずに来た。 駅を出て不動産屋のショーウインドウで物件を眺めながらぶらぶら行くと5分でライン川に出て橋を渡り向う側を左に折れてそのまま道なりに15km歩けば家に着く。 ライン川に沿って歩くのは15kmである。 家から駅まで歩いた距離が2km弱であるから合計17kmということだ。 それに天気が良かったからというのも実際天気が良かったのではあるけれど雨でも歩くつもりをしていた。 トレーニングだから天気がいい日ばかりでは訓練にはならず雨の中を歩くのも悪くはないので時には雨が降ってもいい、という態度である。 自然の中を歩くときに雨が降るのは歓迎だが町の中や車の通る道路沿いを歩くときに降る雨はちょっとウンザリしないでもないけれどそれでもそれは受け入れる度量はある。 前回は牧草地の中を歩いたけれど今回は草地の間を歩くような牧歌的なところは殆どない。 初めの2kmほどはこの町のショッピングストリートを歩く。 日曜の12時ごろだから店は閉まっていて人通りはない。 最近は大きな町では商店街が日曜でも店を開けるところが広まってきたけれどここのような小さな町では今も昔ながらのキリスト教的、日曜は安息、休息のためであるとしてひっそりとしている。 町を抜けると車が走る道路に沿って水際に遊歩道と自転車道が続いておりそこを川下に向かってどんどん歩くのだが周りをきょろきょろ見渡しながらあ歩くというものではな単調だからくしっかり歩くという歩き方になる。 だからこのコースは一度歩けばそれでいい。 次回ここを通るときはたぶん車か自転車で通るということになるだろう。 念のために時々通り過ぎるバス停の時間表を見ると週末祝日のところには1時間に一本同じ時間が並んでいるだけで例えそれに乗るつもりがなくとも次の便まで40分待ち、というようなものだった。 

ライン川はスイスに源流をもつ国際河川でオランダの中に入ってきて2分岐し、ワール川とレク川になるのだけれどそれからまだいくつか枝分かれしていろいろな名前を得て北海に注ぐ中でレク川がユトレヒトの近くから分かれた一つが古ライン川と呼ばれる今回その岸を歩くライン川だ。 ユトレヒトの近くから河口まで50km以上あるらしい。 オランダのライン川といえば大体これを指す。 たとえば17世紀の画家レンブラントの苗字はヴァン・ラインでこれはライン川の、という意味であり彼のライデンの生家はライン川から50mも離れていない。 幕末日本から文物を大量に持ち帰ったシーボルトもレンブラントの生家のすぐ近くで荷揚げしている。 北海に注ぐ河口から10kmほどさかのぼったところだ。 シーボルト博物館はこのライン川から100mぐらいのところにある。

ライン川といってもドイツのローレライあたりの風景とはまるで違いここでは普通の運河のようなものだ。 ようなものではなく運河そのものだ。 運河だから護岸はロマンチックな草や木の植わっている堤などではなく大型運搬船の振動が起こす衝撃にも耐えられるようにコンクリートや鉄板で守られた無機質の岸壁が続いているという風だ。 それにそんな運搬船がすぐにどこでも着岸できなければならないから岸は垂直に底まで伸びて底は浚渫され平らである。 だからそんなところには凹凸もなく水草も豊富に生えるわけではないから皆無ではないけれどたいした魚は期待できない。 それでも釣り人がいてこの日は帰り支度をする一人を見ただけだった。 日曜日だから運搬船もみえなく、それに冬だから夏には遠くスイスやドイツ、ベルギーからも水路を伝ってくるヨットやレジャーボートも今はみえない。 川沿いに歩いた3時間半ほどのあいだに見たのは50年配の男が川を下るのに漕ぐ一人乗りカヌー一つだけだった。 休日だからあちこちの関門を閉じてあるので水流がなく折から吹く北西の風が向かい風となって本来なら水流があれば楽に川下りができるところを一生懸命櫂を操作してかなり苦労している風だった。 それでも歩く自分よりは早くそれは普通の自転車速度ぐらいだっただろうか。 

先週15.5km歩いた時に牧草地からライン川方向に来てスポーツ用品店に来たと書いたけれど、その店の建物が対岸に見えたのは歩き始めて11kmほどのところだった。 そこからは川を挟んで先週と同じ経緯になる。 アムステルダムとロッテルダムを結ぶ高速道路A4号線がライン川の下に潜るところで橋を渡って対岸に行くとそこからは先週と全く同じルートになり、昔ローマ人が駐屯していた遺跡を横切って住宅地の中のスーパーでパンとバナナ、リンゴにミルクを買ったのまで先週と同じだった。 養老院の前にある鳥か人か分からぬ銅像を横目に見て家に戻ったら3時45分だった。

 

 英語版ウィキペディア; Oude Rijn の項

http://en.wikipedia.org/wiki/Oude_Rijn_(Utrecht_and_South_Holland)


朝食再び

2015年02月23日 11時47分22秒 | 喰う

 

昨日朝食のルーティーンのことを書いた。 それには書かなかったことがある。 というより、それはなぜそれを書こうと思ったかという動機でもあり、なぜそのようなルーティーンになったかという理由でもあるのだが、こまごまとしたことを書いて結局もとのところまで行かなかった、というより忘れてしまった、猫が興味本位に遊んでいるうちに迷って初め何をしたかったのか分からなくなるというようなことでもあるのだろうけれど、そんな風になっていたことを今日その動機そのものを齧っていて思い出したのでここに短く記す。

初めは朝食のつもりでそれぞれを皿の上に並べ朝食としてはまずまずだと思っていたものがトリュフ入りのチーズを乗せたトーストを一口齧ったときから、これはいけない、と思った。 こんなものを朝から喰っていてはだめになる、というような感じだった。 すぐさまこれには南フランスのラングドック・ルシオンか夜向きのボルドー、サン・テミリオンだと思い、それをやるのは朝の起き抜けに人格破壊的行為になる、と思い直し、そんな思いを払いのけようとしたけれど想いだけが残って結局毎日その想いを再度体験するために朝食の最後にはこれで終わるという結果になった次第で自分ながらなんともだらしない。 今は習慣的に酒断ちをしているからこれでとどまっているけれど5月以降朝食に赤ワインということになるような予感がある。 もっとも朝から酒盛りでも定年オヤジには何の支障もなく世間に迷惑をかけるわけでもないからやればいいのだけれど、それでもどこかでまだ小市民的モラルがちらつき後ろめたい思いもしないでもなく、そういう想いがこの魅惑的なトリュッフ入りのチーズを朝食テーブルで最後まで皿に置いておく動機になっているのだ。

それではパスタやリゾットに削って乗せたトリュッフがこれほど魅惑的であるのかどうかといえばここに態々書くほどのことでもないと思う。 宵の空腹とパスタや米の重みが媚薬の効果を紛らわせるのだろう。 朝食皿のトーストに乗ってそれをミルクティーの間に齧るという設定だから小悪魔がチロチロと頭をもたげてくるのだ。


朝のルーティーン; 朝食

2015年02月22日 16時45分29秒 | 喰う

 

もう何日ぐらいだろうか、多分3、4週間ぐらいになるだろうか。 毎朝同じものを同じようにして喰っている。 朝起きて下に降りキッチンのオーブンを180℃にセットして湯沸しで1リットル弱の湯を沸かす。 オーブンのアラームが180℃になったと知らせてくれば大判のライ麦パンを二枚オーブンに放り込んで片側3分づつ焼く。 ポットにティーバッグを放り込み沸騰した湯を注ぎ濃い紅茶を淹れミルクティーにする。 300cc入る湯呑に2杯が朝食の茶の量だ。 焼いたトーストの一枚にバターを塗り、二つに切り、一つにはイチゴのジャムを塗る。 ジャムはスーパーで一番砂糖の含有量の少ないものを選んだ。 フランスの古くからあるジャムは旨いけれど100gあたり50gの砂糖が入っていて少々あますぎる。 だから100gあたり28gのものを見つけそれを使っている。 酸味が出てイチゴの風味が少ないけれど甘くなくイチゴの風味があるものを見つけるまでこのままでいく。 あとの半分にこのあいだ歩いて買いに行った地元の農家で作っているトリュフ入りのチーズを削いで乗せたもの、バターを塗っていないトーストの半分にセロリサラダと残り半分に同じく地元農家のクーミン、からし、そのほか何種類かのハーブを入れたチーズを乗せ辛子を塗ったもの、これがこの3週間ほど毎日口にする朝食だ。

ここ何年もまともに朝食など摂ったことはなかった。 それは朝起きなかったからだ。 昼前後に起きだして口にするのは昨夜の残り物か腹に重い食事だった。 それが朝9時をまわって起きだす習慣になったから自然と「朝食」を摂ることになり、今の形が決まったというわけだ。  日本から帰ってきた1月中旬以来、定年退職してからの4週間ほどか。

トーストにはこだわる。 焼いていない、もしくはパンの表面がカリカリでないものではなにか惨めな思いがする。 冷たく柔らかいパンの感触がそんな気持ちにさせるのだ。 贅沢を言っている。 トーストができなければ冷たいままでも我慢して喰う。 不満はいわない。 けれど出来ればそうするというだけの話で一日の初めをこういうふうに贅沢で始めたい。 

喰う順番がある。 濃くしたミルクティーを一口、そのあとイチゴジャムのトースト、これにはトーストの熱さで塗ったバターが溶けていなければならない。 その上に乗ったジャムとバターの味が朝の味になる。 バターがなければならないし溶けていなければならない。 次に口にするのが辛子を塗ったハーブ入りのチーズのトーストだ。 辛子には濾したスムースな辛子と辛子を潰してつぶつぶの粗びき辛子があるけれどスムースな方の辛子で有名なのはフランスのディジョン・マスタードである。 田舎風味のものは後者で自分はオランダ・グロニンゲンのまったりした粗びきを好む。 豚のステーキを焼く時にもこの粗びき辛子を最後に両側に塗って焼き、風味をつけのちにグレービーの下味にする。 日本には鬼ころしのような辛子があっておでんには付き物だがヨーロッパにはこのようなものがないから欧米の人間が西洋辛子をつける量をみて驚く日本人がいる。 それほど辛くもなく鼻にもぬけるような強さはない。 だから日本で人がおでんに辛子を塗るのをみた観光客が欧米と同じような量を塗ってそれを口にするのを見るのは密かな楽しみでもある。 自分はレストランのメニューにマスタード・スープがあれば大抵それを注文する。

今のところこれが朝のルーティーンで順番にしてもバター云々にしてもそれが旨いと思うからやっているわけでこれがどれだけ続くのか興味がある。 ほぼ一か月毎日同じことをやっていてこうなったというだけで気が変わって他の物に気が移るかもしれないしその可能性が大だけれども少なくとも明日もこれでいこうと思っている。

この日のテーブルには先週家に逗留していたイギリス人の造形作家がパリからフランスの田舎に出かけ、彼女の古い友人に自分で焼いた小さな陶器のカップを届けそこで楽しい思いをしたと書いた絵ハガキが来ていて乗っていた。  76になる彼女がバッグに忍ばせていたスコッチを先週味見した。 Laphroaig という銘柄で燻した樽の強い匂いが特徴的な旨いスコッチだった。 癖になりそうなものでそれをフランスの田舎に住んでいる小説家で美術評論家の John Berger という友人に味わさせてやる、といっていたのだが葉書には思ったとおりの反応だったと書いてあった。

 


日本帰省旅(10); 土地・建物

2015年02月22日 10時43分39秒 | 日常
 

帰省中滞在しているホテルのそばの駅から4つほど阪和線を和歌山側に乗りそこから線路は和泉山脈の谷間に沿って和歌山に抜けるようになり、そんな地形にその駅も斜面にへばりついたようにつくられていてそこへ来た列車は大きく湾曲したホームに停車するとひどく傾く。 野菜畑を下に見る舞台のように高くなったホームからは大阪湾をへだてて関西空港から飛び立った飛行機が上昇するのやその向うに淡路島が望めるのだが、その駅から母の住んでいる介護付き住宅までは歩いて7,8分ぐらいだろうか。  不動産屋であれば徒歩3分とでもいうかもしれない。 そんな昔はほとんど駅だけしかなかったようなところにも自転車置き場だけではなく今はプレハブの店のようなものがいくつか並んでいて信号の角にはお好み焼き屋があり開いていればそこでお好み焼きやおでんで酒を飲みながら昼食にしたりする。 朝から酒を飲んでもいいのだけれど母親に会いに行くのに赤い顔をしていればいくらこの歳になっても顔を指して都合がよくない。 信号を渡らず右に折れて府道に沿って暫く行くと畑の間に造成地が見えた。 畑に土を放り込み地面を道路の高さに嵩上げして5つ6つの区画に整地してある。 道路のそばだから交通の便もよく、それに阪和線の駅にも近いこともあり、また大阪湾岸道路にも接続でき大阪南部の幹線ループのそばでもあるから車があれば今ではこんな場所でもアクセスの時間的にはもう「ど田舎」ではない。 けれどちょっとした「やまが」であって田舎でないということもない。 山を越えたらすぐ和歌山なのだ。 自分にはここにはもう昔の田舎の景色はない。 

自分の中にある田舎は50年前の田舎の姿なのでそれはもうほとんど大阪の田舎から消えたものだ。 このあたりでも周りに家もできて道路も通っているのだからもう「ど田舎」ではないけれど30代の若い人から見れば相対的みてにここはまだ田舎なのだろうと思う。 こういうふうに開けてきて人口の移動が激しくなっていることを体現しているのだからここは過疎にはなっていない。 交通網の整備が進み通勤圏が広がりこのあたりに住居を求める人が増えていることは確かなようだ。 20-30年のローンを組み建売住宅を買うことになるのだろうがその投資に見合う仕事が皆にあるのかどうか、仕事があっても幸せに落ち着いて暮らせるところであるのかどうか、それを保証する将来が待っているのかどうか、それが大きな問いとなって誰もの頭の後ろにあるのだろうけれど殆どがそれには答えることもなく、答えられるわけでもなくその間にどんどんこういう場所は市街化していく。 現に先ほどのプラットホームで海から丘、山側に視線を移動させると丘、山の縁に夥しい新興住宅地がカサブタのように一面にへばりついているのが見えるのだからここで畑が住宅の造成地になったとしても何ら不思議ではないのだ。

整地された土地を見ているとその分譲中の区画は47.57坪となっている。 そこで思い出したことがある。 

それはもしオランダに来ていなかったら自分のものになっていたかもしれない土地のことだ。 1970年に祖父が亡くなって家産は一応長男の伯父のものとなっていた。 伯父は田畑と家を相続したのだが、祖父は今からもう40年以上前に次男の叔父にはすでに土地を分け与えてそこに家を建て夫婦を住まわせていた。 三人の娘をそれぞれ嫁がせていたのだが次女である母は生家に自分を連れて出戻った。 女のいない百姓家でまだ結婚していない男兄弟二人と父親、そして自分の面倒を見て家のために母は現金収入をもたらし一家を支えた。 伯父に嫁が来ても生計は変わらず家計のかなりの部分は母が支えていたからいずれは自分が大学を出て市役所に就職したらその近くの山の中の土地に家を建ててそこで暮らす計画がすでに自分が中学を卒業するころにはできていた。 田舎の政治には強いコネがありそのへんの大学を出ていれば就職は間違いがなかった。 けれどそれがオイルショックで狂い何年か市役所職員の採用が途絶え、結局自分で職を探すことになり大阪の弱小輸出商社に就職し、その後知り合いの大学教授の誘いでオランダに来ることになり、それから35年経ち中を端折って今に至るのだが、市役所の近くの山の畑の100坪が母と自分の土地になるはずだったものがそうならなかった。 実際市役所に就職していたとしてもはたしてそこに家を建てられたかどうかは分からない。 農地には市街化調整区域というものがあり当時の山の中では農地としてしか使用できず宅地に転用できないような規則だったようだ。 実際当時は周りに家や建物など何もなくウサギや雉がいて池は白鷺の餌場のようなところだったからその言葉には説得力もある。 電気も水も車の入る道さえないところだ。 だから時が来て市街化が進んだときに相続すればいいということだったのだが自分が日本にいるときには市街化はこなかった。 そして日本にもう戻らなないことが分かると母はもういらないと言ってそのままその話を放ってしまっていた。  家ぐらいは自分で何とかすると言い、伯父には二人の娘もいて彼らの将来は物入りになるということが分かっていたこともあったのだろう。 母は自分の入る墓をも将来のためにと村の墓地の両親の墓のそばに寺から土地を買い取っておいていた。 けれど自分がオランダに住み着くということが確かになると墓の世話をするものがいないからとそれを弟の叔父に与え自分は寺の共同の廟に入ると決めた。 だから自分には日本には帰る家も土地も将来入る墓もない。 けれどそれに関しては何の感慨もない。

けれどその幻の100坪が目の前にある47.57坪に反応した。 100坪の半分ぐらいに家を建てあと半分は、、、、、という漠然としたものが昔言われていたことなのだが、その半分が目の前に具体的にある。 今まではっきりと100坪というものがどれくらいの広さを持つものなのか実感がなかったけれどここに2区画分の幻となって現れたというわけだ。 毎年帰省すると墓参りにはいく。 そのたびにホテルから歩いて昔の道を辿り、いまではまともな道ができ人家も建ったところから細い農道に入りそれを辿って墓地にいくのだがそのたびにいまでも半分草に覆われたその山の土地をかすめて過ぎる。 そのたびに幻の自宅をそこに見るのだが雑草に覆われた林の中には家の像は結ばない。 それに比べて目の前の47.57坪の明確さは具体性をもつ。 

オランダに35年住んでいればそれなりに住宅のことには感覚的といえるほど分かるまで来ていると思う。 けれど日本で家を持ったことがないので具体的に100坪にどのような家ができるのか分からない。 目の前の50坪弱の土地には周りに見られる今の普通の建売住宅が間もなく建てられるようだ。 そこで資材を運び入れている技師然とした男にどれくらいの値段になるのか訊いてみた。 その男は、土地の分譲で別々になるのだけれど土地だけだと1200-1300万円ぐらいでそれに4LDKを建てたとしても2500万をちょっと越すぐらいだろう、と言った。 今聞いたあんたのいるホテルのあるあたりはもう田舎じゃないから同じ広さだとしても土地が高いからとてもこんなもんじゃないだろう、とも言った。 

自分はもう日本に住むことはないから目の前の土地がどうだこうだといってもただ平らな地面のままでそこには具体的な家の像を立ち上げることはできない。 それにできたとしてもその中に住む日常感覚の糸口さえ見つけられない。 来年ここに来た時にはすでにここには5、6軒の建売住宅が並んでいるはずだ。 そのときここを通るとここは電車から見える数多の宅地と同じくこのあたりの風景となって通り過ぎる自分には絵でしかなくなっているだろう。

駅で電車を待っている時やここを通るときに近くにあるこんもりした山を眺めながらいつかあの頂上に登れないものかと思案している。 高さにしても100mかそれぐらいだろう。 母が生きているうちに時間を作って登ってやろうかとも思うけれど実現できるかどうか、もし母が亡くなればここにはもう来ることもなくなるのでそれまでの間のことになる。 この駅から海の方に1kmほど下がると父の生家がある。


プールで泳ぐ

2015年02月20日 15時02分32秒 | 健康

 

火曜と金曜日の昼に近くのプールに行って泳ぐことにしている。 500mを3回、その間にサウナに10分ほど入る。 始めてから4週間、今日で8回目だ。 前回こういうことをやっていたのは9年ほど前まででその時は毎回記録は12分から13分30秒の間あたりだった。 それが今は14分30秒から16分の間となっている。 2分半ほど遅くなっているということでこれが還暦を挟んで9年間の加齢による身体能力の低下ということなのだろう。 

毎回同じような時間に出かけて同じ小部屋に入り同じロッカーに荷物を置き同じコードを押してロッカーに鍵をかける。 いつも小部屋番号3番、ロッカー番号149は空いていて25mのプールに来てみれば一つのコースにだけ綱が張られていてそこには2人同じ人が先に来て泳いでいる。 ルーティーンである。 けれど水に入って500m泳いでいるといつも感じが違い、水に乗っている時と体が重く少し沈むように感じるときがある。 前回は気持ちよく水に乗って体も軽く初めて14分22秒と驚くほどの記録が出た。 だから今日どんなものかと水に入って25mほど行ったところで体が重いのを感じて16分台になるだろうかと思ったけれどちょっと持ち直して結局15分15秒と前から1分ほど遅くなった。 一回目が一番よく、あと2回目、三回目と30秒ほどづつ遅くなるパターンだ。

記録など別段どうでもいいのだし年寄りのこんな記録など何の価値もないのだが凝りもせず記録を付け続けるのはルーティーンに変化をつけるためだ。 別段早くなりたいわけでもない、と書けば嘘になるけれど速さにはこだわらない。 自分で泳いでいるうちに体の軽さ、水に乗る、乗らない、などと感じるのだからそれでいいのだけれどそれでは漠然としすぎるような気がしてそこではっきりとした時間が出ればとっかかりとなると思っているのだ。 それに誰が毎回500mづつ3回泳げと決めたわけでもないしそんな義務もない。 けれどそんなルーティーンがなければ途中で放り出してただ行ったり来たりするだけというようなことになり自分では締まりがつかずそのうち来なくなる、とでも思っているようだ。 それは自分の飽きやすく熱くなるのもそれが冷めるのにもムラがある自分の性格が分かっているからでもある。 

15分ほどを3回、毎回45分ほど泳いでいることになる。 じぶんでもよくやるものだと思う。 もうジョギングで45分は走れない。


胡桃を喰う

2015年02月20日 11時42分05秒 | 喰う

 

 

スーパーの食料品売り場の隅に胡桃がたくさん積み上げられていたので小さなショベルで2回ほど掬い上げそれを紙袋に放り込んだ。 一年の中で栗の出る時期は短いけれどどういうわけか胡桃は比較的長く出回っているから時々気が向けばこのようにして買う。 特にこれがスーパーで目につくのはクリスマス前ごろからだろう。 今年になってからポテトチップスや他のつまみを止めたので口寂しくなりそういうときはバナナやリンゴなどの果物かこういうどちらかというと加工以前のものを摂るようにしていることもあってだからこんな胡桃に手が出るようにもなったという経緯がある。 いちいち殻を割り手間をかけて少量の実を口にもってくる効率の悪さがダイエットの効果にもなっているものと見做すとこれも年寄りの身体速度とも相まって少々のノスタルジアも湧いてくるというものだ。

胡桃のことを書こうと思ったのは胡桃割りで殻を挟んで割る作業をしていてほんとに久しぶりに中身を砕かずに実を取り出せたのでそれを記念写真に撮っておこうとしたことによる。 脳のしわのように見える実で構成されていて脳と同じく左右に分かれているようでそれぞれが二つに分かれているので大まかな左右対称が全体には4つに分かれている。 比較的小型のこれはだから中央の境を中に四方に耳たぶかイボが尖ったような形をしていて脳といった丸い形にはまだなっていないように見える。 

大阪南部の農家に育ち小さい時から一年に何回か餅を搗くのを習慣にしていた。 そしてそのとき柔らかい餅を喰うのにそこには大抵小豆の濾し餡や醤油を落とした大根おろしと共に「くるみ餡」というものがあってそれは大豆を煮てそれを潰し砂糖を加えたもので胡桃の味とは共通するものがないようで妙だと思っていたのだがこれを書くのにウィキペディアの胡桃の項をみて初めて「くるみ」が胡桃ではなく包む、「くるむ」のくるみだと書かれているのに接してそんなものかと思った。 それならその言葉は大阪南部にはいつのころか外から入ってきたものなのだろう。 大阪南部では包むは包むで「くるむ」という言葉は使わないからだ。 それに胡桃にしても山にも林にも胡桃の木はほとんどなかったのではないか。 栗の実は普通に山でも林でも見たし栗林もあったけれど胡桃の木を見た記憶はない。 大体胡桃があったとしてそれを喰うのに子供たちがどこかから胡桃割りを持ち出してきて胡桃を割ったという記憶もないし、胡桃だけがあって胡桃割がなければ猿が学習するように石かレンガを叩きつけて割るようにでもしなければ子供には割れるものではないのだからもしあったならそういう記憶もあるはずなのにそれがなかった、ということは胡桃が普通には間近になかったという証になるのだろう。 友人の家族がどこかに行った時の土産で胡桃をニスで固めて繋いであって手の中でグリグリ転がすと中風のまじないになる、と言ってまだ中風からほど遠い子供がグリグリしていたのをかすかに思い出す。 そんなことを思いながらこの胡桃の一塊を口に放り込む。 

 

ウィキペディア; クルミの項;

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%9F


今日も一日いい天気だった

2015年02月18日 17時01分40秒 | 日常

 

外は何度ぐらいだったのだろうか。 一日中家の中にいて外に出なかったから分からない。 昨日の天気予報では6,7℃にはなると言っていたからそんなものだろう。 今日は一日中天気が良く昨日までのように降ったり晴れたりというようなムラの多いこともなかった。 ネットで遊んだりちょっとした本を読んだりしていると一日があっという間に過ぎる。 月曜から木曜までは食事の当番なので昨日買っておいた肉を午後ゆっくりと煮た。

暮れてきて一番星が鮮やかに西の空に見えたものの前に見たのと場所が少し違うような気がして星が移動しているのではないかと思ったけれど前に見た場所と角度が違うからそう見えるので一番星の位置は変わらなかったのではないか、よく分からない。  今日も一日事もなし、というところだ。

こんなまだ寒いけれど陽が差していい天気だった宵には地面が暖かくなるのか空気中に春の気配がする。 具体的には匂いだ。 町は大地のなかでは農地に囲まれた島のようなもので牧草地に撒かれた肥料、具体的には牛の糞尿なのだがこれが空気中に蒸散して地表を覆いこれが町の中にいて田舎の匂いに囲まれる理由だ。 角までゴミのコンテナーを引っ張っていくときにそれが地上に漂っているのを鼻孔に感じた。 日本では北海道では町の中ではこういうことがあるのかもしれないけれど普通街の中では体感することはない。 昔農家で育って自宅に乳牛を3頭飼っていた経験から初めてオランダに来た時その匂いに懐かしいものを感じたのだが街の中でも季節の節目にこういうことがあるのが酪農の国であるという証でもあるのだ。