暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

晴れ間が見えたから30分ほど散歩した

2019年01月30日 15時42分12秒 | 日常

 

本来なら今が一年で一番寒い時期に当たるのだが地球温暖化の影響かこの10年ほどあまり寒くない。 けれど抗癌剤投与を受けている自分の身にはやはりこの寒さが骨身に染みる。 だから自然と家の中に籠りがちになるのだが医師、栄養士から出来るだけ体を動かせ、特にに散歩がいいと勧められているので曇り空の多い毎日の中で日差しや青空の兆しがちょっとでも見えれば外に出ることにしている。 そんなことができるのも抗癌剤の解毒期になっているからで2日ほどすればまた毒の点滴を受けて3,4日ベッドに沈むことになる。

午後になって天候がいい方向に向いて来たので今回は町の中を小さく歩くことにした。 濠に沿った公園のならびに家庭菜園のような共同農園があってその具合をみようと出かけた。 もう何年もそこを通るたびにに季節ごとにどうなっているのか興味本位に立ち寄って作物の育ち具合を観察してはそこで作業する人たちとおしゃべりをするのだが今の時期、作物は2か月以上も前にすでに収穫が済んで刈り取ってしまっているのでそこには何もないはずだし別段土地の手入れをする人もいないだろうとただ残った冬野菜だけを予想して出かけたのだった。

昔から厳寒のオランダでも今の時期に畑に見えるのはケールや長ネギ、芽キャベツの残りと赤蕪ぐらいなものだ。 単純な北ヨーロッパの料理の食材である。 前世紀の前半までは何世紀もジャガイモ、ケール、芽キャベツ、長ねぎに玉葱、赤蕪、それに煮込んだ肉の塊、それで命を繋いできたのだ。  同じものを造るのは能がないと思うのか新種が植わっていた。 ケールはホウレンソウのような深い緑ではなくレタスのような浅い緑、芽キャベツは背の高い茎に紫のものが生っている。 しばらくその辺を眺めて帰宅した。 明後日からはまた鬱陶しい日々が何日か続くけれど今は暫し青空を眺めてそれを考えないことにする。

 


' 18 秋季帰省覚書(9) 旅の終わりに

2019年01月28日 16時16分45秒 | 日常

 

秋に帰省した時のことをダラダラと書いていてまだ終わらない。 暮れに書いたのが最後でそのままにしてあった。 幾つも思い出がありまた書き出せばきりがなくなるようだ。 殊にそんな想いも今のもう二度と帰省できなくなるかもしれないような体調ではとても纏められないような気がして、だから今回でひとまずこの旅のことを記すのを終えようと思う。 もうそろそろあれから3か月になるのだ。 毎回帰省の度にそのときの目的ははっきりとあったしそのスケジュールをちゃんと消化して帰路に着くというのがパターンだったのが今回はそれを甚だ緩いものにし、前回の母の散骨の続きをやって何人かの人に会うというだけのものだった。 今から思えば意識はしていなかったもののこれでもう日本に来ることもないかもしれないとも思っていたのかもしれない。 体調もこれは何だと思うほど酷いこともありオランダに戻ってからの癌再発の宣告の時にはさもあらんと思ったものだ。

毎回違った思い出を日本で紡いでオランダにもどって来るのだが往復の飛行機でのパターンは変わらない。 往復それぞれ約11時間の旅なのだが不思議なことにオランダから日本に行くときのことは余り記憶にない。 それはいつも同じだからなのかもしれない。 スキポールを発ちこれから2週間なり3週間の予定で日常から離れて日本に着く前のクッションの11時間である。 スタミナもあるし引き摺っているのはオランダでの日常でありこれから過ごす日本への期待が幾らかの高揚感をもたらし、そんな中での食事、機内の映画、アルコールによる睡眠のパターンで時間を過ごすこととなる。

戻りの機内は同じパターンながらかなり雰囲気が違う。 日本での出来事を反芻しつつ後ろ髪を引かれるような想いも含めて自宅ではない屋根の下で過ごした日々での疲れがそんな非日常的活動と相俟って疲れで幾分か重くなったような気分で行きと同じくエコノミークラスのシートに沈み地上10kmを時速約1000kmで11時間移動する。 11時間のうち5,6時間は食事、映画で過ごして座席に沈んでいてもどうということはないけれどそれ以後は腰骨がギシギシと痛み通路を歩いて機内を散歩するのがルーティ―ンとなっている。 そんなときに空いているトイレに入って用を足しておく。 間違っても食事の後に行きたくなるようなことはしない。 人の生理というものは単純で限られた空間で一定のものを体内に入れると一定の時間に同じような反応を示すからそんなときに通路を散歩しているとどのトイレにも赤いランプが点りその前には何人もが列を作る。 胃の手術の後驚くほど消化パターンが変わり或るときには外出するときにいつも緊急時のトイレを頭に入れて行動していたことがある。 だからこんな渋滞に巻き込まれたら今では状態がかなり治まったとはいえ大事になりかねない。

そんな空の旅の終わりに一番寛げるのが機内最後尾のスチュワーデスたちが働きまた休憩の空間でもあるガレーだ。 そこで彼女たち彼たちとおしゃべりをする。 スコッチを手にそれを舐め舐め時には彼女たちが食事をする横に腰かけて行き来する乗客を眺めるのも楽しみだ。 今回驚いたのはそんなところに男が何も言わず入り込んできて勝手に様々なものが入った扉を開けて何本もペットボトルの水を抱えて去ったことだ。 こんなことをする人間は日本にはいないから中国人に違いない。 このメンタリティーには今更ながら呆れてものが言えなかった。 彼らの論理に添うと、自分は客でいちいち断ることもない、それがどうした、ということなのだろうがこの勢いが中国なのだと感じた。 これでは勝ち目がない。 あの人たちは言ってもわからないし中国人だからね、こちらも客商売だからと客室乗務員は言う。 中国人だと思ったのは彼の格好だけのことではない。 例えばこれが少々乱暴な日本人だとしてもそれならボタンを押して乗務員を呼び遅ければ文句を言うような行動をとるだろう。 直接出向いて物も言わず必要以上に持ち去るだろうか。 日本人の海外での風評がたったのは60年代、70年代のノーキョ―の団体旅行だったように思う。 それでも個人では何もできず団体であることの異様さに西欧で奇異の眼を目を向けられたのだったし今の中国人観光客のするようにごっそりブランド物を根こそぎ買いあさるようなこともしていたけれど個人的な行動には他人の眼を忖度できていたのではないか。 もし目の前で見た中国人が忖度ののちの行動だとしたらこれから30年後の世界は中国人のものとなるような気がした。 そこには自分はもういないからそれを見られないことを少々残念な気がする。 一方、言葉のわかる礼儀正しい若い中国人たちに日頃多く接触している。 けれどそういう人たちが国を動かす力になるかどうかは保証の限りではない。 良くも悪くも国の勢いということを無視できないような気がする。

食餌が済み機内が落ち着いてくると消灯されて睡眠の時間となる。 人は静かになり行き来も絶えてゆっくりガレーで四方山話をするのだがオランダ人のオバサンスチュワーデスたちがゆったり仕事をしているのに比べ日本人スチュワーデスたちのよくこまめに働くことはどの便でも変わりがない。 これは何なのだろうか。 実際オバサンたちは若い日本人のスチュワーデスにそんなに働かなくてもいいから、とアドバイスしても態度は変わらない。 こちらとしてはいつもオランダ人のオバサンたちとはではなくゆっくり若い日本人女性と話したいのにその機会はほとんど回ってこない。 そのうち睡眠時間だからと彼女は乗務員用パジャマに着かえて階段を上って横になりに消えていく。

スコッチの酔いが回ってきて気持ちよくおしゃべりをしていると若い父親が二つぐらいの娘を抱えて歩いて来た。 寝ないから暖かいミルクを貰いたいと言っている。 旅行の疲れからか妻がずっと横になっているから子守だと言って笑った。 典型的な若い父親だ。 こんな日本人の父親をあまり見たことはない。 よく見るのは乳飲み子を抱えて一人必死の覚悟で往復する若い日本人の母親の姿だ。 そこには父親はいない。 自分は27,8年前一人で息子を連れて帰省したことがあった。息子は3つぐらいでもうオムツも取れて普通の食事をしていたから問題はなく、母親は息子にスーパーマンの赤いマントに赤いパンツ、青いコスチュームを着せてブーツを穿かせ送り出した。 偶々大使館員だった知り合いも子供連れで帰省する便にあたったから子供たちを勝手に遊ばせて父親たちは勝手に酒を飲んでいた。 子供たちは勝手に塗り絵をして遊んだりしていたが知り合いの娘は大人しく絵本を読んだり絵を描いてすごしていたが息子は退屈で通路を行ったり来たりしていたのだがミニ・スーパーマンの目立つ格好ではどこでも相手にしてもらえご機嫌だった。 けれど乳飲み子をつれての長旅は堪らない。 その当時日本から孫の顔を見に来た母は機内で隣の母子の乳飲み子がずっと泣きっぱなしで往生したとこぼしたことがある。 母親も周りを気にして必死であるけれど如何ともし難かったようだ。 

若い父親がオバサンスチュワーデスとおしゃべりしているときにノコノコトこの幼児が自分のそばに来て腰を下ろした。 自分も股を広げてそこに坐っていると持っているカメラが珍しいのかそれを眺めていたので一枚シャッターを押した。 話しかけてもまだ言葉は分からないようで何かもぐもぐ言っているけれどこちらには分からない。 機嫌もわるくなくただ寝ないだけ、父親は暖かいミルクを腹に入れて寝させようという作戦のようだ。 さて、それで思ったように寝るかどうか、この娘にスコッチを舐めさせたら効果があるのは確かなのだがそんなことは思っても口には出せない。 フランの田舎ではこんな時にワインを水で薄めて飲ませるというではないか、今でもそんなことをするのかどうか。 そのうちミルクが出来たのか哺乳瓶を手に父親はこの子を抱えて通路に消えた。


シェリフのバッジ

2019年01月27日 23時50分31秒 | バンバン


この一ケ月ぐらい自分の部屋着の胸にシェリフのバッジが光っている。 知り合いのオランダ人の禅僧に寺で燻らせる「業務用」の長くて太い線香を日本に帰省した時に買ってくるよう頼まれていて大阪の船場にある大手の香堂に出かけて三箱求めてそれを寺に寄進した。 その禅寺には娘が時々坐りに行くのでそのときに持って行ってもらったのだがその礼なのか一か月ほど前にこのシェリフのバッジが是真和尚からのプレゼントだと娘から手渡された。 和尚は蚤の市、ガラクタ市が好きでどこにも出かけていろんなものを買ってくる。 そのついでに自分が古式銃射撃で西部劇に登場する銃を撃っていることを知っているから面白がってくれたのに違いない。 

射撃クラブの仲間には西部劇に登場する銃を撃つものは沢山いてその話題には事欠かず、年末の打ち上げパーティーには自分のもつ銃に関するコスプレをして参加するのが義務だった。 それにその日は特別に警察の許可を得て弾薬を込めない銃を主宰する射撃クラブのパーティーの会場内でガンベルトに収めて半日をそこで過ごすことができたものだった。 毎年その折にはデービークロケットばりの猟師や南北戦争軍人のコスチューム、アメリカインディアン、カリブの海賊などに加えてかなりのものが西部劇時代の扮装で参加した。 自分もテンガロンハットにバンダナを巻いてダブダブのレーンコートの下にはガンベルト、コルトSSA6連発リボルバーにウインチェスターライフルのいで立ちが常だった。 けれど西部の伊達男に酒場の女、牧師の妻などもいてそのまま映画に出られるようないで立ちだった。 けれどそんな西部劇の男たちの中にはシェリフの格好をする者は殆どいなかった。 男たちは皆悪者、悪役になりたがる。 シェリフなど照れ臭いのだ。 たまにバッジをつけている者がいるがそれらは見るからに安物のプラスチックのもので扮装が西部劇姿に見えないからちゃちな帽子にそんな誰が見ても幼児の玩具を恥ずかしながらつけているという格好だ。 いかつい髭ずらのマッチョな同僚たちは如何にもバイカーかヘルスエンジェルスのメンバーのようなものが多いけれどマッチョにみえるのは外見だけで皆シャイで善良な市民たちだ。 だから自分たちにはシェリフなど柄ではないと思っている節がある。 それなら副保安官や保安官補佐というのもあるからシェリフの星をつけてもいいのだが西部劇では彼らのような格好のものたちは保安官に指図されて罪人を護送したりその途中で撃ち殺されたりするからそんなしょぼい役なら悪役に廻る方がよっぽど奔放で面白いと思い皆肩を怒らせている。 7,8年前まではそんなパーティーには150人ぐらい集まっていたものが数が少なくなりそれとともに警察からの許可が下りなくなり丸腰のしまらない格好となってからはもう西部劇コスプレは止めとなっていた。 自分にも去年の暮れのパーティーが最後となって10年前のパーティーが思い出として残った。

和尚にもらったバッジは厚みがあってブリキではなく鋳物である。 曲げようとしても曲がらない。 眺めていてリンカーン郡シェリフと書いてあるのでネットのグーグルでシェリフのバッジと入力して幾つもバッジが並んだ画像の中に全く同じものがあったので驚いた。 勝手な玩具ではなく本物そのものだ。 そこには次のように記されていた。

On November 7, 1880, the sheriff of Lincoln County, George Kimbell, resigned. As Kimbells successor, the county appointed Patrick Pat Floyd Garrett. Garrett was an American Old West lawman, bartender, and customs agent who became most known for killing Billy the Kid. 

1880年11月7日、リンカーン郡のシェリフ、ジョージ・キンベルが退職するとその後任に郡が任命したパトリック・パット フロイド・ギャレットが就任した。 ギャレットはアメリカ西部の保安官、バーテンダー、税吏であり、ビリー・ザキッドを殺害したことで知られるようになった、とある。 オリジナルのバッジ6ドルとも併記されている。 

重みも厚みも形も細部までそこに書かれ載っている画像と同じものが自分の胸に光っているのだが裏を見ると Made in Spain とある。 スペイン製の複製なのだ。 実際自分のコルトにしてもウインチェスターにしても実銃でオリジナルとは寸分たがわず性能はそれ以上であったりするのだがイタリア製のレプリカだからバッジが複製でも寸分たがわず同じものであればどうということはない。

何か月か後に自分が納棺されたときには背広のネクタイは自分が1968年に初めて買ったネクタイ、襟には先日ここに載せた射撃連盟古式銃射撃部のバッジをつけるよう家人に言ってある。 けれど胸にこのシェリフのバッジをつける勇気はないけれどその代り毎日家ではバッジをつけてごそごそ蠢いている。

和尚は自分の体に巣食う癌という悪と闘う保安官であれ、という意味でこれを呉れたのだと解釈する。 勝てる敵ではなく西部劇の様にだめな保安官の町に登場するクリント・イーストウッドのヒーローも登場しないが負け試合であっても最期まで闘う保安官であれということだろう。 貰った時はヘラヘラと面白がってつけていたけれど今ではかなり本気に保安官の気分になっている。

 


半月ぶりに自転車に乗って土曜のマーケットに行った

2019年01月26日 23時01分45秒 | 日常

 

抗癌剤投与が始まって今日で16日目、昨日から一週間の解毒期に入っている。 体調がかなり戻ってきたので明日の日曜午後は娘・息子のボーイフレンド、ガールフレンドも呼んで6人で餃子パーティーをすることになっている。 我が家のルールは、包まないもの食うべからず、でゲストであっても餃子を包む。 けれど今回は多分餃子をするのは最後になるだろうということから子供たちに作り方を伝授することになっている。 それで自分がいなくなってもそれぞれこれから自分で思い出し思い出し自分の餃子を作れるようにするのが目的でもある。 彼らはそれぞれもう子供のころから日本のあちこちで餃子を喰い今ではヨーロッパのあちこちに出かけてもその町でラーメンや餃子があれば試しているから味の方はそれぞれ自分の舌をもっている。 だから子供たちは今まで包むだけ、喰うだけだったものがこれからは作る方に廻らなければならないことになって家伝の餃子を習うのが明日のみとなったということだ。

この半月ほどで家の外に出たのは2,3回だけだ。 初めは体調が優れなかったからほとんどベッドで過ごしていたけれどそれでも徐々に抗癌剤の毒に慣れて回復してきたけれど外に出るのが面倒だったり天気が悪かったから外出しなかった。 日が射した日に堪らず何キロか散歩しただけだった。 だから半月ほど自転車に乗らなかったし家人は毒の副作用を心配して明日の餃子パーティーの食材を買いにマーケットに行くのについて来た。 この間からの雪は溶けていた。 けれど風が少し吹いていて寒かったから体温が下がるのを恐れて出来るだけ短い時間で買い物を済ませるつもりで出かけたのだが3週間ぶりのマーケットが嬉しくて物を買う間に何人かの人にカメラを向けてポートレートを撮っていたらすぐに時間が経って早々にそこを引き揚げた。 体の抵抗力が弱っているから人ごみの中に入るのは避けるようにと病院からの注意書きにあったのでそれにも留意して混雑する午後は避けて11時前に買い物を済ませた。

大抵は土曜の午後2時から3時の一番賑わう時に出かけていたから人の少なさには少々驚いた。 人は週末はゆっくり起き出しマーケットには午後から出かけるのが普通のようだ。 それは自分が今まで何年もやってきたことだ。 それに雨が降ってはいないとはいえ少々寒い曇り空では外に出るのもおっくうになる。 これらが今の時間に賑わいのない理由だろう。 自分にしてももし雨が降っていたら来るつもりはなかった。 家に戻ると短い時間でも歩き回ったせいか疲れを感じて暫しベッドに横になった。


散歩していると雪が降って来た

2019年01月24日 17時16分37秒 | 日常

 

この前家から外に出たのが4日前の日曜だった。 今日昼間に大学病院の栄養士と電話で話をして健康状態、毎日飲んでいるカロリー・タンパク質補給のドリンクの具合を聞かれて食餌のことを15分ほど話した。 体の調子がいいのだったら出来るだけ散歩するなり体を動かした方がいいというのでその助言に従った。 午後から雲の切れ目に青空が覗いているようでそれを眺めていると歩こうという気になった。 この間のコースを逆にちょっと大きめに向かって外側を歩いた。 1時間ほど歩いたから4kmほどは行っただろうか。 途中で雲行きが怪しくなって雪が降り出し白いカーテンの中を歩いた。 

何年も前にオランダ縦断のウオーキングを切れ切れに3年ほどかかってやった時、夏の暑い時も冬の凍てつく中でも歩いたことを思い出し、こんな雪の中を歩いたのはどこだっただろうかと思い起こし、北のグロニンゲンでもそんな経験をしたけれど一番気持ちが良かったのは南のリンブルグ州の丘陵地帯を歩いた時だったなあとそのときのことを想う。 1月の終わりか2月の初めで零下10℃ほどの凍てつく中を歩いたのだった。 流石その時は空気中に湿気はなく青空だったからただ凍てつく寒さという記憶が雪と重なっているのだろう。 今日のようなどんよりとした空から降る雪の中を歩いたのはドレンテ州の林の中の記憶だ。 いずれにせよ雪の中を歩くのも悪くはない。 それに歩きたいと思って歩くときには雨が降っても苦にはならない。 ちゃんとポンチョで防湿しておけば何のこともない。 

初めほんの10分ほど歩くつもりがもう少し、もう少し、と先を目指し公園の丘を登って運河に架かる橋をこちらに戻って町中に入ると舗道の雪に足を取られないように気を付けて歩いたから結局時間の割には距離が伸びなかった。 日曜から1週間抗癌剤投与が休みになってもっと体力が恢復するに違いない。 そうなると天気がよければ田舎に出て10kmほどは歩きたい。 栄養士はあまり頑張らなければフィットネスジムに行くのもいい、と言った。 その場合うちに戻ってきてから処方のタンパク質・カロリー補給のドリンクを飲むことを忘れないようにと言われた。 月曜日のグループに顔を見せればこないだ別れを言ったばかりだから、こいつまだくたばってないぞ、と言われるか、それともこいつ、オオカミ少年ならぬ狼ジジイだとも言われるかもしれない。 

二日ほど前にニュースでオランダ人の猟師が国境を越えたドイツで狼を撃ち殺して送検されたというのを聞いた。 本人は狼が猟犬を襲ったから正当防衛だと言っているらしいけれどこの何年かロシア、ポーランドあたりから西側に来ている保護動物である狼を撃ち殺してどうなるのかみんな興味津々だ。 オランダでも4頭確認されているようだ。 日本のニュースでは猪の年早々に猟師が100キロほどの猪に後ろから突撃され足を噛まれて死んだという話もある。 そんなことはオランダ中部か東部でなければ起こらないから自分が住む西部・都市部ではたとえノコノコ田舎を歩いていてもそんな動物にはお目にかからない。 今日歩いていても動物などはおらず時々鳥が枯れ枝にとまっているのが見えるだけだった。 

 


雪が降る

2019年01月23日 16時27分01秒 | 日常

 

朝食時空を眺めていて昨日の天気予報じゃ雪が降ると言っていたのに雲が高く降りそうもなかった。 それが昼前になると細かい雪が降り始め、それはべたつく雪ではなく乾いて細かな雪なものだから積もりそうだった。 けれど同時に天気予報では2,3cmほどしか積もらないとも言っていてそんなものだから気温も氷点の少し上にとどまるだけのものとみられている。 雪に脆弱なオランダ国鉄はこんな雪でも念のために15分に一本の電車運行ダイヤを30分一本に臨時シフトを組むとも言っていたのだがどちらにしてもこんな雪でも今晩の8時のニュースではどこかで何らかの不都合があったと報道されるに違いない。 それに年々増加する交通渋滞のニュースに加えてこんな雪でも更なる渋滞の理由になるに違いなくこの時期のお決まりの映像が流れることになるのはいうまでもない。

これで抗癌剤投与12日目になる。 慣れて来たのか大分楽になり寒気もせず家の中にいるのが退屈にさえ感じるようになっている。 あと二日服毒を続けてそれから一週間解毒期を経て31日にまた大学病院に出かけ抗癌剤を点滴で受け、第二期が始まる。

元同僚の友人が久しぶりに訪ねてきてくれた。 3時間ほど四方山話をしていて4時を周ってハムとチーズの摘まみで赤ワインを出して接待した。 こういう風になって自分は飲めないので他人が飲むのを見るのが楽しみになっている。 味見にワインを舐めた。 香りも味も申し分ない。 以前より味覚嗅覚がすこし鋭くなったような感じさえする。

こんな雪見酒も悪くない。


死 (3)

2019年01月22日 17時06分25秒 | 想うこと

 

去年の5月に「死」について2回ほどここに書いていてそれを読み直しているうちにこれを続けてみようと思い、ここに記す。 書いたのは今からほんの8か月ほど前であり、そのときより一年前の胃癌摘出・洗浄手術が奇跡的にうまく行き、その後の回復も順調で、だから5月の春の陽気に誘われて書いたものと思われる。 今読み返してみれば、ほぼ一年はもたないだろうと死の宣告を受けている現在の心境に比べると当時の「死」に対する態度には他人事で楽天的なものを感じざるを得ない。 一旦死をすり抜けて一段落し、ほぼ自分には「死」は当分訪れないと見做している節が見られる。 当然のことだ。 予後もよく、3か月ごとに行われるスキャンでも異常もなく毎週2回ジムに通い体力・筋力も上昇していたのだから、春の陽気もあるのだろうけれど精気さえ感じられる。 胃癌が発見されたときにはもう末期であり、大学病院ではどうすることもできない、国立癌研の研究材料になるのなら手はあるかもしれない、たとえ手術がうまく行ったとしても完全な治癒はしないし、自分の場合は延命治療に分類されるものなのだと宣告されていたのにである。

医者は病状・進行具合・大まかな見通しを語っても余命に関しては決してはっきりしたことは言わない。 いくら短くとも最期まで生きる希望を失わせないためであると考えられるし患者がそこで落ち込み一層病状が悪化することを恐れるからでもあるのだろう。 けれど自分の場合知りうる様々な事実から1年はないと判断し、そこから余命を「客観的に」知りたいと思うのだが、決定的に自分にそれがはっきり分かるのは死の二週間ほど前だということを知った。 

この間家庭医と安楽死についての話し合いを始めた。 本人、家族、医師数人の継続的なカウンセリングを通じてのプロセスであるのだが最終的な判断は患者の意思で、それでもたとえ患者がその意思があったとしても何時でもそれが実行されるという事ではなく、ガイドラインとしては医学的に客観的に見て余命が約2週間であると判断されたときから実行可能になるというのが現在のところの指標らしい。 家庭医で30代後半のまだ若い女医には自分が第二例目となるようだ。 一昨年の手術の前や抗癌剤処置の為には病院にはもし何かの場合蘇生処置の要・不要を明確にさせる書式に不要と記入して渡してある。 それは病院でもし病状が急変して本人に意識がないときにどう対処するかというものなのだがその場合には安楽死の取り決めは当然必要のないことになる。 自分は癌の進行でこれからほぼ半年後に安楽死できると思っていても必ずそうなるとは限らないのだ。 交通事故や何かの犯罪、ひょっとして天変地異に巻き込まれないとも限らない。 それらの可能性は排除できないけれど自分にとって今のところ蓋然性としては癌によるものが一番高い。 

年末に後戻りのない病状を聞かされてから不思議な体験をしている。 妙な気分といってもいいかもしれない。 一昨年の3月だったか末期の癌で大学病院ではもう何もできないと言われたとき奈落の底に突き落とされたような気になって初めて自分はじきに死ぬのだと思った。 そのときには周りが何も見えず世界の終わりだった。 けれどそのあと、手術の可能性を示唆されるとそれに縋り、死は希望に押しのけられて意識の底に沈んで行ったのだった。 それ以後治療の中で苦しければいつでも選択肢はあると言われ続けて来たけれど自分には選択肢などなく、ただ最善の策を追うだけでここに来たのだった。 だからそんな意識の中では最初の医者の言葉、あなたの癌は治らないのですよ、どれだけ命を伸ばせるかが治療の基本なのです、というところを都合よく、当分の間、あわよくば10年、15年、というふうに思い込もうとしていたのだと思う。 だから今回癌再発・手術不可能と宣告されたときに初めに感じた奈落の底に突き落とされる感じは戻ってこなく、ああ、遂に来たか、と逆に肩の荷が下りたような安堵に似たような感覚を覚えたのだ。 これが妙な気分という意味で、それ以後一か月ほどはアドレナリンが体の中を駆け回る様な高揚感に満たされる不思議な体験をしている。 今まで不安定で漠然としていた死が確固なものしてほぼ見えるかたちの現実的なものとして自分の中にはっきりと在るのを思い知らされ安堵したというところだろうか。  死に対する恐れはない。 ただ嫌だな、と思うだけだ。

(この項続く)